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卒論の思い出

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 昨日のエントリーを書いていて、ずいぶん昔に書いた卒業論文の「あとがき」を思い出しました。あまりにも気恥ずかしいのでやめようかなとも思いましたが、ちょっと思うところがあって、あえて公開することにしました。

 職業としての学問に着手したばかりの22歳の在日青年が、何を考え、どういう気持ちでエスニシティを研究テーマに選んだのか、一つのサンプルとして(できれば笑わずに)お読みください。

(BLOGOSさんへ事務連絡:本稿は転載不可です)

************ここから*************

 かつて両親が総連系の運動を支持していたこともあり、私は小学校教育の多くを福岡市にある民族学校で受けた。民族教育の甲斐あって、当時は生活の中にあるあらゆる民族的なものに対して絶対的な価値を感じとっていたものである。しかしその後のより高等な教育は日本の学校で受け、日本の友人とともに思春期を学ぶうちに、ちょうど日本人の若者が日本民謡や演歌に対して抱くものと同様の感覚でもって朝鮮の歌を聴くようになり、ついには「朝鮮」という言葉そのものになにかしら古くさく因習的で、克服すべきなにものかであるような語感が付けくわわるようになった。

 私の高校三年生は、この89年と同じく革命ラッシュであった。韓国ではオリンピックを目前にして全社会構成員的なデモがくり広げられ、フィリピンでは2月革命が一応の勝利をあげた。どちらの場合も独裁者は因果の報いを受け、隠遁の生活を余儀なくされるようになった。それをテレビでみていた私はといえば、まあ日本の報道の性質にも大きな問題はあったと思うが、フィリピンの民衆蜂起に対して全身を震撼させ心を高揚させる一方、韓国の学生・市民運動については「またやっているのか」といった程度の冷めた失望感しか感じえなかったのである。

 また高校時代といえば、ひも解いた本の中で一番こころに残っていたものは知里幸恵さんの『アイヌ神謡集』の序にこう書いてあったことである。「愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言葉、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものとともに消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。」同じ頃、「朝鮮」や「在日」という言葉のついたものには興味を示しさえしなかったのにである。

 とはいうものの、人格形成期に受けた民族教育のおかげか、転校後の小・中学校で下劣な輩に浴びせられた罵倒語への反感によってか(これはいまもって消え失せることはない)、あるいは日頃の会話の中で日本人の友人達によって発せられる無意識的な差別発言によってか、いずれにしても「日本」への愛着は進まず、また「朝鮮」に対する呪詛も捨てきれはしなかった。

 そういった私の歪んだ民族感情が、再び呼び覚まされ意識にのぼるようになり、すこしずつはっきりと形をあらわにしていったのは、学生組織で精力的に活動を行っている同胞の友人達や誠意ある日本の友人達との、たゆまない議論と対話におかげをこうむっている。

 はたしてこの論文は、同胞社会への、そしてひいては人類的な倫理社会への貢献を目指したものであるということもさることながら、自らの呪詛を清算し自らを再び問いなおす意味をもったものでもある。

 前者の意図がどこまで達成されたかは非常にこころもとないが、後者については、一つの形あるものを著すきっかけとなってくれた友人諸氏にお礼を言いたい気持ちでいっぱいである。

 朝まで議論を尽くしてくれた友人、面倒な調査に協力していただいた方々、草稿の一部を熱心に目を通していただいた先輩方に、この場を借りて心からの感謝を捧げさせていただきたい。

ひと休み

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(1)連載について

 しばらく差別論シリーズを書いてきましたが、そろそろ終わりに近づいてきました。後半、息切れして手を抜いた感アリアリですが、まぁあんなもんでしょう(笑)。

(2)近況

 昨日、某学会の関西地区研究会に参加してみました。「日本における民族排外主義団体の最近の活動について」と題した在特会のレポートに対して、「社会心理としてはー」が口癖の学会理事が、朝鮮学校に問題があるからではないかと平気でコメントしていました。正気か?

 後の質疑応答でその質問について「不愉快だ」と言及したところ、よほど納得いかなかったのでしょう、終了後の飲み会の席でもわざわざぼくの席まで来て、同じこと(朝鮮学校に問題があるのでは)を聞いてきました。朝鮮学校についての誤った知識を修正してあげても、ヘイトクライムの被害者に問題があるという主張は非論理的であるといくら説明しても、理解の範疇を超えていたようで、「社会心理としてはー」をまくらに同じ主張を繰り返すばかり。しまいには、同席していた他大学の院生に教え諭される始末。これで、「多文化◎◎学会」というのですから、暗澹たる気持ちになりました。

 っていうか、二回りも年上の先生を叱り飛ばして自己嫌悪。こういうところはコリアンだな。

(3)コメントへのリプライひとつ

 ぼくは「コメントは当人に届けるのが最低限のルール」と考えている旧世代のネットユーザーなので、トラックバックすら届けてくれないコメントには、原則としてリプライするつもりはありません。

 が、たまたま見つけたこのエントリー。http://lmnopqrstu.blog103.fc2.com/blog-entry-9.html たいへん論理的な批評です。面白かったので、ここに紹介します。

 批評の内容には、実は、まったく反論はありません。まったくその通り、と思います。にもかかわらず、痛い批判を食らった、とはまったく感じない。そこがまた面白い。

 どうしてそういうややこしい事態が発生するのかといえば、このエントリーとぼくのエントリーを矛盾なく接続するロジックがあるから。この批評を読んで、ぼくはやっぱり社会学者だったんだなと実感を深めました。

ひと休み

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 二日前だったか、ぼくのエントリーへの批判を読んだ。他の人たちのコメントは賛成意見であれ反対意見であれ、巧拙を問わず、それなりに興味深く読ませていただいているが、その批判だけは身につまされるものがあった。

 その理由は、第一に、在日コリアンの若い子が批判者だったこと、第二に、おそらく四世の世代であるにもかかわらず、批判の内容が二世的なルサンチマンを引きずった痛々しいものだったこと、第三に、したがって批判の内容はぼくが若いころに民族運動家から受けた理不尽な批判を思い出させるものだったこと。

 批判の内容そのものは愚にも付かないものだったけれども、傷ついて防衛的になって過敏になって、そして傷口をさらけ出しながら必死に社会に向かって何かを訴えようとしている様子が痛々しくてね。21世紀にもなってこんな子がまだいるのか。その批判がコトもあろうにオレを向いてるのか。

 ツイッターで話しかけてみると、じつは日本人で、単なるカルスタ系の差別オタクだったみたい。いや、なんというか、ホッとした。かなり。本当に、よかった。

 そうそう、批判の内容が愚にも付かないと書いたけれども、もうぼくがネットにどういうことを書いてきたのか知らない人が多いんだなと実感しているところです。HANBoardから、一つだけスレッドを紹介しておきます。もし、それなりに興味深いと思ったら、過去ログを読んでみてください。在日コリアンがもぐら叩きにどれだけ疲弊させられるものか、わかるかもしれない。

http://han.org/hanboard/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1436;id=

 あと、ぼくのエントリーに直接コメントを付けてくれたみなさん、ありがとう。コメント欄にリプライはほとんど付けていませんが、ちゃんと読んでいます。まあ、もう不毛なもぐら叩きはやりませんが。

はてブって面白いね

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 前回のエントリーで、「趣旨をきちんと理解できた人はそう多くなかったかもしれません」なんて書きましたが、それについて補足を。

 本音を言うと、一連のエントリーはやや応用的なので、差別論に関する基礎知識がないと、もともと感受性の豊かな人でないかぎり、上手に要点を捉えることは難しいと思っていました。具体的には、(1)クレームのあった事例が「差別」かどうかは重要ではないこと、(2)「差別」にはどのような表出形態があるか、(3)victim blamingとは何か、(4)傷つけようという悪意が差別の原因というのは大間違いであること、を知っていないと味わえない話ですからね。これまでの経験則からいって、いくつかのエントリーを読むだけで理解できる人は「1割に満たないだろう」という判断でした。

 ところが。李怜香さんがはてなブックマークに登録した後、かなりの数のコメントが付いたのですが、その内容が結構いいのです。コメントの中のざっと3割ほどは、内容をしっかり理解したうえで、当人の言語で適切な批評を行っているものです。2ちゃんねるあたりとは密度が違う。前回のエントリーへのコメントにいたっては、大学院水準の訓練を受けた方が目立ちます。なんだか、大衆化する前のインターネット環境を髣髴とさせるノリですね。なつかしい。ウケたコメントには一つ一つリプライを返したいところです。

 ところで、興味を持って「はてな」を見てみたところ、面白いブログを一つ発見しました。その中の「ファッションレイシズムとウェブマイノリティの戦い方」は、マイノリティ・カバレッジのためにSEOをという主張です。力作ですよ。今後が楽しみな学生さんだ。

 ということで、「はてな」にはこのところ楽しませていただいている、という話でした。

Twitter #2

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 しばらく使ってみましたよ、ツイッター。結論から言えば、意外といいかも。

 前回のエントリーでは「危険なメディア」だという含みがありました。個々のユーザーにはネット依存症を発症させ、社会的にはネットイナゴの大量発生を後押しする、というイメージですね。

 ネット依存については、おそらく当初の懸念の通りでしょう。これからどんどん深刻化していくはずです。かつて「ミク中」という言葉がありましたけど、なにせツイッターはSNSよりリアルタイム性が高いですから。試しに、「Twitter」+「ネット依存」でググってみると、すでにたくさんのテキストがある。今後も増えていく一方でしょう。

 それに対して、ネットイナゴの大量発生については、少々、勘違いをしていたかもしれません。

 いや、まったくの間違いだとも思いませんよ。この1週間あまりの間に、ツイッター内で2件のデマの発生&流布を目の当たりにしました。下の参考文献に詳しいですが、一定の心理学的・社会学的な条件がそろえば、事実に基づく合理性はなくともうわさは広まるものです。そして、ツイッターには「一定の心理学的・社会学的な条件」があふれているのですね。そして、一気に流布したうわさによって、多くのネットユーザーがある種の"正義感"を刺激されれば、ネットイナゴの発生につながります。

◎川上善郎 『うわさが走る―情報伝播の社会心理』 サイエンス社
◎早川洋行『流言の社会学―形式社会学からの接近―』青弓社

 ただね、例えば2ちゃんねると比べて、標的となるテキストの投稿からネットイナゴが発生するまでの時間は短くなるかもしれないけど、ネットイナゴが発生する頻度自体はむしろ低くなるかもしれない、というのが現時点での印象です。

 というのも、まだ詳しく書けるほど整理してはいないけど、うわさの流布を阻害する心理学的な条件と社会学的な条件も備わっている(ように思われる)のですね。

 その結果、少なくとも現時点では、日本のインターネットの歴史の中でもっとも創発民主制に近い状況ができあがっているのがツイッターである、といえるのではないかと感じています。

Twitter

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西村正男さんに影響されてTwitterを始めてみた。http://twitter.com/han_org

正確に言うと、アカウントはかつて取得ずみだったのだが、使用せずにずっと放置していたのを運用してみることにしたわけです。

この2-3日は、いつもなら心にとどめておくようなこともTwitterに吐き出してみたり、どうやらfollowing/followersがいないと話にならないということはわかったので知り合いなどを探して登録してみたり。つまり、ニワカらしく、Twitterの文化を早期に内面化する作業に従事しています。

が、なんというかね、まだほとんど使っていないけど、アカウントを取得したときに直感した通り、ぼくにはあんまり向いてないみたい。もともと筆まめじゃないし、時間無制限のリアルタイム・メディアには自由を束縛されるような圧迫感を覚えてしまうほうだから。30代前半まではそういうのも苦にならなかったんだけどね。

まあ、もう少し使ってみないと。

夏風邪は...

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 前回のエントリーから今日まで何もなかったわけではなく、ずいぶんいろんな出来事がありました。

 中間試験があったり、ゼミ生の教育実習先を訪問したり、そのときバイクのオドメーターが88888kmを達成したり(笑)、髪を切ったり、GPがらみで東京に出張したり。

 そして、ストレスと多忙で体調を壊し、肺炎になりました。まだ治りません...。ずっと血痰でてるし。

 今日の授業どうしよう。

 気持ちのいい天気です。何台ものツーリングバイクとすれ違いました。

 授業回数を15回確保しなければならないということで、休日でも授業はあります。とはいえ、今日は3年生と4年生のゼミが一つずつ。課題でも与えて休講にすればよかったなぁと思いながら出勤しましたが、構内がみょうにサビシイ。

 もしかして、みんな休講にした? 学生たちが、何度も「本当に授業やるんですか?」って聞いてきていたのは、ひょっとして、そういうこと? ......orz

朝採れのタケノコ

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ウチの横にある山で採れたタケノコ うちの横は2方向が雑木林です。片方は大学の敷地で、もう片方は里山。

 その里山では、いまタケノコが採れます。写真は今朝採れたばかりのもの。

 といっても、採ってきたのはお隣さんですが(笑

 ヌカといっしょに持ってきてくれましたので、ありがたくいただきました。

 さて、どうやって食べましょうかねー。

(追記)

 裏山の地主さんが訪ねていらっしゃって、さらに2本タケノコ(+ぬか)を届けてくれました。なべが足りねー!

 ポストまで歩くのが面倒で、手紙やはがきを出さなくなったのはいつごろだったかなぁ。たぶん、94年ごろにはもう電子メール以外でのやり取りはおっくうになっていたような気がします。

 情報通信技術の発展によってずいぶんいろんなことが便利になりました。ところが、そうなると、従来のサービスが異様に不便なものに感じられてしまったりしませんか? 少なくとも、もともと面倒くさがり屋の僕はそうなります。

 ぼくの個人研究室のPCにインストールされているSPSSは、もう丸一年も前に期限切れになってしまっています。分析するときは、メールで自分宛にデータを送信してから、アプリケーションサーバーにログインし、仮想デスクトップを開いて、そこからSPSSを起動しています。

 もちろん、こんなヤヤコシイことをしなくても、たった200mほど歩いて情報教育センターに行って、ディスクを借りて新バージョンをインストールすればいいだけの話です。でも、その「たった200m」の往復がねぇ、ルーティーンから外れてると、とたんに果てしなく遠く感じられてしまうのです。

 ちゃんとライセンス買ってるんだから、ネットワーク経由でインストールできるようにしようよ...。

 研究室に泊まりこんでの集中作業は、締め切りまでの作業効率が飛躍的に高まる反面、締め切りがすぎると体調を崩して2〜3日つぶれてしまうという欠点がありますね。

 今日も、スケジュール表には「(地域のクラブと)ツーリング」と書いてあったのですが、体力回復のためにキャンセルしました。

 かわりに、子どもたちと地域の春祭りに参加しました。天満宮で祭事を行ったり、お神輿を担いだり、字義通りの"お祭り"です。ぼくは無宗教ですが、子どもの情操教育のため、地域統合のためになるなら...と思いまして。

 子どもにはいい刺激になったと思いますが、地域統合に寄与するイベントだったかというと、ちょっと効果に乏しい印象でしたね。いや、親も子どもも気合が入っていた地域もあり、そういうところでは話が違うのかもしれません。でも、ウチはやや高齢化しつつあるニュータウンですので、お祭りの意味づけからして曖昧です。

 つまり、伝統行事としての意味合いは薄いし、高学歴層が多いせいか特定の宗教行為には参加しない人が少なくない。住民は地域統合の必要性を理念的にはわかっていても、都市的な個人主義の文化を持つ人が多いため、必要以上に仲良くなろうとは考えていません。それでもやってるのは、宗教行事を活用した、子ども会活動という意味づけがあるからですね。「子どものためになるなら、仕方ないけどやるかぁ」という感じ。

 地域の交流ということだったら、こういう中途半端なお祭りよりも、田舎のほうでやってるように、年に一度集まってお酒を飲むほうがはるかに効率的でしょうね。

2泊3日目

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 予定では昨晩までに全部終わるはずだったんですが...、ダメでした。もう一泊決定。

 平常業務をこなしながら仕上げること自体にムリがありました。とくに、一泊研修の付き添いで、丸一日分くらい想定よりも作業が遅れてしまいました。ぼくが今回もGPの申請を担当するんだという正式決定を、あと1週間でも早く出してくれていたらよかったのですが。

 と、ここまで書いたところで思い出しました。夏休みの宿題といえば、ふつーは始業式の3日前くらいからやるもんだと思いますが(え、ちがう?)、ぼくは始業式の日からはじめる人間だったのです。

 印刷や発送に当たる職員さんたちには迷惑かけることになりますが、ぼくに頼んだ時点でこうなることは決まっていたんだとあきらめてもらうしかありません。

研究室に泊り込み

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 気候のいい日曜日。

 リアシートに大きな荷物を積んでバイクに乗っていると、対向車線のバイクがピースサインを出してきます。「ツーリング? 楽しんできたかい?」というところでしょうか。

 よもや、寝袋と着替えを積んで、研究室に泊り込みにきているところだとは思わないでしょうね orz

 そういえば、去年もそんなことを書いたような...

風になる?

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 イソップ寓話の有名な「北風と太陽」の話ですが、どうも納得できないのですよね。はたして、北風は本当に旅人の上着を脱がすことができないのか?

 というのも、おおかたのバイク乗りは、風の力がどれほど強く、また、どれほど器用なものなのか、身をもって知っています。

 たとえば、高速道路の通行券を2枚の革の間にぴったりと挟んで留めてあったとしましょう。手でぎゅーっと引っ張っても簡単には取れないような状態です。それが、走行中に風の力で吹き飛んでいってしまったりする。

 あるいは、ゆるめにジッパーを閉じていたタンクバッグがいつの間にか風の力で開いてしまい、中に入れていた帽子やウィンドブレーカーが風圧でバッグから飛び出していってしまう、とか。

 よく、バイクに乗ることを「風になる」などと詩的に表現することがありますが、現実には、バイクにとって風は行く手を阻む頑強な敵であったり、イタズラして装備を奪い取るやっかいな相手だったりします。

 まあとにかく、風の力は強いだけでなく、器用なのです。

 だから、旅人の上着を剥ぎ取るぐらいなら、ぼくは可能だと思うんですよね。上着どころか、補正下着みたいにぴったり身体に張り付く下着以外は、すべて風の力だけで盗ってしまうことができるんじゃないかという気がします。

 ところで、「ビューフォート風力階級」というのをご存知でしょうか。0から12までの13段階で定義された風の強さの尺度です。ウィキペディアから風力9以上を引用させてもらうと;

風力階級呼称地上10mでの風速(m/s)地上10mでの風速(ノット)陸上の様子海上の様子
9大強風(だいきょうふう)20.8〜24.4m/s41〜47ノット屋根瓦が飛ぶ。人家に被害が出始める。大波。泡が筋を引く。波頭が崩れて逆巻き始める。
Strong gale
10全強風(ぜんきょうふう)24.5〜28.4m/s48〜55ノット内陸部では稀。根こそぎ倒される木が出始める。人家に大きな被害が起こる。のしかかるような大波。白い泡が筋を引いて海面は白く見え、波は激しく崩れて視界が悪くなる。
Whole gale
11暴風(ぼうふう)28.5〜32.6m/s56〜63ノットめったに起こらない。広い範囲の被害を伴う。山のような大波。海面は白い泡ですっかり覆われる。波頭は風に吹き飛ばされて水煙となり、視界は悪くなる。
Storm
12颶風(ぐふう)32.7m/s以上64ノット以上被害が更に甚大になる。大気は泡としぶきに満たされ、海面は完全に白くなる。視界は非常に悪くなる。
Hurricane

 さて、風力の最大値「12」ですが、京都滋賀あたりでは台風の中でもあまり経験できないほどのすさまじい強風の状態です。なにせ「颶風」ですからね。「颶風」。もう漢字の読み方も分からないぐらい、めったにない強風ですw

 ところが、バイクではそんなにめずらしい強風とはいえません。

  • 高速道路の法定速度である時速100kmなら秒速28m (全強風/台風なら「並の強さ」)
  • 名神高速でぎりぎりつかまらない時速120kmなら秒速33m (颶風/台風なら「強い」)
  • 気持ちよさそうに飛ばしてるなーという時速140kmなら秒速39m (この辺から風のイタズラがひどくなります)
  • 「公道でそれ以上は危険だろ」と感じる時速160kmなら秒速44m (台風なら「非常に強い」)
  • サーキットのストレート、時速180kmなら秒速50m (前を向いて息をするのがつらい)
  • ぼくのバイクで全開いっぱい、時速200kmなら秒速56m (台風なら「猛烈」)
 つまり、主要高速道路を流れに乗って走るだけで、いつだって台風並みの強風を体験できるわけです。そして、これぐらいの風の強さになると、手でしっかり押さえていないかぎり、ボタンをはずされたり、引きちぎられたりして、上着を剥ぎ取られるのは時間の問題だ、ということを知るようになります。

 もし、太陽と競争中の北風が、つい本気を出して秒速80mの突風を断続的に吹き付けたとします。旅人は吹き飛ばされ、地面に衝突し、命を失うでしょう。あとはゆっくり時間をかけて地面を転がし、上着を剥ぎ取ればいいのです。

 でも、北風は、旅人を殺してしまうことを避けて、勝ちを太陽に譲ってあげたのでしょう。バイク乗りは北風さんの実力をちゃんと知っています。


注)ぼくは日本の公道ではスピードを出しませんよ。あくまで一般論です。

ネオペイガニズム

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 息子を連れてのサバイバル旅行はキャンセルとなりました。今年もGP申請作業の担当になりましたので、時間が取れなくなったためです。残念ですが、夏に日程を拡大してなんとか実現したいと思います。

 そんなこともあって、ちょっと仕事から逃避して本を読みました。フィリップ・プルマン『ライラの冒険』シリーズ。久しぶりのファンタジーです。

 ネオペイガニズム(キリスト教以前の多神的な宗教世界に回帰しようという運動)は、ファンタジーの基本的なモチーフの一つです。とくに、もともと多神教になじみの深い日本では、非常に好まれる主題だといえます。

 が、『ライラの冒険』には正直驚きました。ここまで鮮烈なキリスト教批判は、欧米のファンタジーとしてはちょっとめずらしいのではないでしょうか。少なくとも、保守的なキリスト教徒の多いアメリカだったら、児童文学として受け入れられるのは難しいような気がします。

 それが、イギリスでは多数の文学賞を受賞しているというのですから、欧米の宗教事情も多様ですね。

猫は勘定に入れません

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 あいかわらず旅行ネタですが、今回はペットの話。

 旅行となると、ペットの扱いに困ることが多いものです。ウチには6歳の双子だけでなく、猫が7匹もいます。キャットシッターに鍵を預けるのはあまり好きではないし、ペットホテルではいっさい飲み食いしなくなる猫がいることも分かっているので、3日以上家を空けるような旅行には連れて行かざるをえません。かなりの難事業です。
1920年代のサイドカーに乗るトミーと愛犬クワトロ。アラスカにて。 子どもたちはドライブ好きなので問題ないのですが、猫はそうも行きません。

 じっと黙って移動に耐えていられるのはせいぜい1時間。すると、神経質な猫から「アウォー」とか「ニ゛ャー!」とか悲痛な泣き声を上げはじめます。

 そして、一匹が泣き始めるとすぐに7匹全員に波及し、車内はとんでもない騒ぎになります。

 いったん騒ぎになると、なだめてもすかしてもダメ。ケージから出しても、うろうろ歩き回って落ち着かないだけ。

 というより、ハンドルの上にのぼろうとしたり、コンソールの上で視界を邪魔したり、ブレーキペダルの下にもぐろうとしたり、危なくってしょうがない。

 まぁそれでも、車で移動しているかぎりはなんとかなるものです。 

 問題は、宿。ペット連れでは泊めてくれる宿がないのです。

 犬といっしょに泊まれる宿というのはないわけではありませんし、その多くは猫同伴もOKです。でも、7匹の猫なんてのは、たいていのホテルや旅館にとって想定外なんですよね。なんとか頭数が多くても大丈夫という宿を見つけたとしましょう。でも、たとえ犬より汚すリスクが少なくても、猫割引なんかしてくれません。7匹もいると、旅費がかさんでしょうがない。

 それでも、公然と猫を連れ込めるのならまだいいのです。地域全体がペット禁止で、泊まれる宿が一軒もないということもめずらしくはありません。そんなとき、「二度とこんな街に来るもんか!」という不快な気分で去ることになります。

 けっきょく、家族総出で快適に旅行したければ、行き先がどうしても限られてしまうのです。

 そういえば、ロサンゼルスで2年間暮らしたとき、アニマルシェルター(野良を保護して飼い主を探す施設)から猫を2匹引きとって育てていましてね。ある日、ふと思い立って、猫たちを連れて妻と旅行に出ました。国立公園めぐりです。

 グランド・キャニオン、ブライスキャニオン、ザイオン・ナショナルパーク、いずれもよかった。景色もよければ、人もいい。宿もいい。どのホテルも当然のようにペットOKです。わざわざ調べる必要もない。ペット連れでも飛び込みで大丈夫。すばらしい!

 ...と、いい気分になっての帰り道。久しぶりにラスベガスに寄っていこうかという話になりましてね。いや、苦労しました。2時間ほど電話を掛けまくりましたが、ペット同伴OKの宿が一軒も見つからないのです。一軒も!

 けっきょく、監視の薄そうなモーテルに部屋を取って無断で連れ込みましたが、以後はラスベガスに足を踏み入れたことがありません。今でも、「あそこは人をもてなす街じゃない。お金を相手にする街だ」という否定的なイメージがこびりついています。

 あと、宿以外の問題としては、飛行機やフェリーですね。フェリーはこっそり客室に連れ込むとしても、飛行機はそういうわけには行きません。

 とくに、国際線の場合、ペットは一匹ずつ大きなケージに入れて、寒々しい貨物室に入れなければなりません。

 足元において世話をできないか、とか、せめて2匹一緒に入れて寂しくないようにできないか、とか、いろいろと航空会社と交渉してみましたが、全部アウト。なんとか手続きを済ませて貨物室に入れましたが、関空で引き取ったときの猫たちの悲壮な表情といったら!

 飛行機に乗せる前の、航空会社(N◎rthWest)の窓口対応も不愉快でした。

 旅費や検疫などの手続きはかなりの時間をかけて、あらかじめ電話などで航空会社と話し合いましたので、あとは手続きを済ませるだけ、という状態でチェックインカウンターに臨んだのです。

 ところが、窓口のおばさんが、シッタカブリしていろんな手続きや書類を要求するのです。まぁアメリカではよくあることなのですがね。ただ、おばちゃんの不遜なこと!

 ぼくが「会社にもちゃんと確認してある。文書でもルールを確認してある」と話したところ、ぶっきらぼうに「Show it.」(見せろ)と来たもんだ。客に命令すんなよ。いま思い出しても腹が立つ。

 文書を受け取ったおばちゃんが電話で会社に確認したところ、やっぱりぼくが正しいとわかったのですが、それでも謝りもしない。これもまぁ、アメリカではよくあることなのですがね。

 ペット連れで旅をすると、人のいやな所が見えてくるもんですね。写真のような旅をしてみたいもんだ。


住基ネット

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 「住基ネット合憲」の最高裁判決が出ましたね。まぁ判決自体は予想通りともいえるのですが...

 ちなみに、US版のYahoo!には、電話帳のページがあります。適当に名前を入れて検索してみると、番地まで書かれた住所と電話番号が表示されるのが分かると思います。

 検索結果の一覧表の中には、"More Information/ Background Check"と書かれた箇所がありまして、クリックすると有料でより詳細な個人情報が入手できるしくみになっています。

 こちらがそのサンプル。本名Lori Ortiz。通称LorryもしくはSamatha。37歳の例。たぶん架空の人物。https://find.intelius.com/search-detail-out.php?ER=1&ReportType=8

 まず最初に載っているのが、現住所までの居住歴。その住所に住んでいた当時の電話番号も載っています。業者によっては、ここまでは無料で検索することができます(少なくとも5年ぐらい前は無料の業者がありました)。

 むかしの住所や電話番号を調べなければならないことって時々ありますからね、意外と便利な面もあります。でも、それを他人に知られてもかまわないと思う人は、たぶんそう多くはないでしょう。

 居住歴に引き続いて、それぞれの住所の資産価値、近所の住民の素性、性犯罪を犯した者の数、などが詳細に記されています。

 どれだけ"ステキ"な環境で暮らしてきた人物なのかを知るためのデータですね。これらを付き合わせれば、その人物がどのような社会的地位を持っているのかをある程度推察できます。

 その下には、刑法の違反歴や、民法の裁判記録が記載されています。

 ただし、どちらとも、同じ州の同姓同名の人物の記録であって、本人の記録かどうかは分かりません。いちおう各記録の身体的特徴も書いてはいますが、他人の犯罪歴や他人が破産した裁判記録を自分のものだと誤解されるとタイヘン不愉快ですね。たとえ自分自身の記録であっても、他人に知られるのはイヤなものでしょう。

 さらにその下には、納税記録(=年収、保有資産)が載っています。そして最後が婚姻・離婚歴と、死亡記録

 いずれも、ちょっとびっくりするほど高度な個人情報ですね。業者によって値段は違いますが、ここまで調べてだいたい$50くらいでしょうか。5〜6千円くらい。さらにお金を払えば、もっと他の情報を調べることも可能です。

 さて、どうしてアメリカでここまで個人情報がダダ漏れになっているのかというと、社会保障番号(SSN:Social Security Number)がいろいろなデータベースを接合する鍵になっているためです。

 SSNがなければアルバイトすらできませんので、アメリカでは10歳くらいになるまでにだいたいみんなSSNを発行してもらいます。早い人は、生まれてすぐに親がSSN取得の申請をします。アメリカに定住している人はみんなSSNを持っていると考えてもそんなに間違いではありません。

 SSNは、もともと年金を管理するための番号だったのですが、その人が誰であるかを証明するために、さまざまな形で利用されるようになりました。

 図書館の利用カードを作るとき、レンタルビデオの会員になるとき、通販を利用するとき、家を借りるとき、銀行の口座を作るとき、免許証を取得するとき、大学に入学するとき、いろいろな場面で記載を求められます。

 SSNをもっていなければ、これら何一つとしてできないのです。SSNをもっていなければ、アメリカで暮らすことはできないといってもいいぐらいです。

 そうすると、SSNを含む膨大なデータベースがアメリカ中に散らばっていることになりますね。そのことに気づいた業者が、それらのデータベースを手広く購入して、くっつけて、そしてまとまった個人情報として売って商売にするようになったわけです。

 日本では、住基ネットを導入するとき、「アメリカのようになってはならない」という判断から、住基コードの民間利用は法律によって禁じられました。

 でもねぇ、行政上は住基コードの流用が進みつつありますし、永久に民間利用が行われないという保証はありません。

 今回の最高裁判決では、氏名や住所など「秘匿性の高くない情報」のみを取り扱っているから「合憲」ということなんですが、そりゃ住基ネット自体はたいした個人情報じゃありません。住民基本台帳でも閲覧できる内容でしかありませんし。

 でも、住基コードが存在するかぎり、それが知らない間に高度な個人情報のデータベースに化けてしまう危険性は否定できないのですよね。

マスク

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 少しノドと鼻の調子が悪く、風邪を引きかけです。

 ノドを保護するためにマスクをしようと思ったのですが、ぼくは頭がでかいせいか、耳にかけるマスクはどうも窮屈で好きになれません。

 で、今日はバイク用のフェイスマスクをして試験監督をやりました。こんなやつ

 試験が終わったあと、学生たちが笑いながらいうわけです。

「せんせー、NARUTOのカカシ先生みたいになってるー」
 さっそくググってみると......orz

連鎖 #2

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 前回は事後の対応が傷を深めるケースについて書きました。セカンドレイプならぬセカンドハラスメントですね。

 が、実際には、ああいうわかりやすいというか、典型的なセカンドハラスメントよりも、もっと責任の所在があいまいで、誰が悪いのか判然としないようなケースも多々あります。

 例えば、以下のようなケースを考えてみましょう。前回と同じく、複数の実際に起こったケースをモデルとしながら、いろいろと誇張を加えた架空の事例です。

  1. ある高校の運動部の監督が、合宿中に女子部員に抱きついた。
  2. 部員はわだかまりを感じつつも合宿を継続し、数日後の試合にも出場した
  3. しかし、わだかまりは消えることなく、考えれば考えるほど、不快感や嫌悪感がふくらんでくる。そこで女子部員は保健室の先生に相談し、セクハラが発覚した。
  4. 高校は即座に女子部員と監督に聞き取り調査を行い、事実を確認した上で、監督を免職処分にした。被害を受けた女子部員には保健室と連携しながら継続的に情緒的サポートを行い、被害に対して最大限に「補償」することを約束した。ただし、被害者とその保護者が「セカンドハラスメントの危険性があるので公表はしないでほしい」と希望したため、事実の公表については控えることにした。
 ここまでは典型的なセクハラ事件です。問題はその後どうなったか。
  1. 監督は処分を受けた数日後、強度のストレスにより急死する。
  2. 女子部員はセクハラの被害者でありながら、「監督が死んだのは自分のせいだ」と自責の念に駆られる。精神の平衡を保つことができなくなり、ウツを病み、不登校となった。
  3. 家庭と学校側の地道なサポートにより、3ヶ月ほどかけて精神状態が安定し、登校できるようにはなった。
  4. ところが、そのころいくつかの学校行事が重なり、欠席がちだった女子部員はうまく行事に溶け込めず、疎外感を深めてしまう。
  5. また、ちょうどそのころ、女子部員のサポートのために疲弊していた保護者夫妻は、ストレスから衝突することが多くなり、夫婦関係が破綻し、離婚してしまう。
  6. 女子部員は、学校での疎外感と、家庭でのトラブルのため、再び不登校となる。
  7. 父親は、女子部員を病院に連れて行ったり、離婚にともなう様々な手続きのため、数ヶ月に渡って仕事を休むことが多かったため、会社を解雇されてしまう。
  8. 父親は、すべての元凶となったセクハラを未然に防ぐことができなかった高校を激しく憎むようになる。そして、裁判に訴えるとともに、事実関係を極端に誇張して記者会見を行う。いわく、「娘は監督から性的暴行を受けた。事件をすべて公表するように高校に伝えたにもかかわらず、高校側は事件を隠蔽した」と。
  9. 高校側は、事件発覚以来、継続的に家庭訪問をしながら女子部員とその保護者と連絡を取ってきたため、父親の気持ちは分かる気がする。しかし、監督の遺族が経済的、社会的に苦痛にあえいでいることも知っている。セクハラは事実とはいえ、ここまで虚偽含みで誇張されて大々的に報道されてしまうと、遺族がかわいそうでいたたまれない。経営的にも放置はできない。
 いろいろな意味で、痛ましいケースでしょう? 誰もが心を痛めている。そして、「典型的な悪者」がいないだけに、気持ちをぶつけることもできない。

 もちろん、いちばん悪いのは監督なのですが、もはや故人であり、ある意味では"死んで償った"ような状態です。たとえそれが逆効果であったとしても、故意にそうしたわけでもない。しかも、監督の遺族にはなんら過失がないにもかかわらず、経済的、社会的に多大な損害を受けており、ある意味では「被害者」なのですね。

 前回は、事後の対応を"誤った"ために被害が連鎖的に拡大したケースでした。誠意と予備知識さえあればいくらでも防ぐことができます。

 それに対して、今回は、加害者が急死してしまったがゆえに被害が拡大したケースです。すべての関係者がその時点でできる最大限の努力をしたにもかかわらず、被害の連鎖を防ぐことができなかった。

 かなり特殊なケースではありますが、けっきょく、未成年に対するセクハラが起こった時点でもうアウトということなんでしょう。

 指導者と被指導者が二人きりにならないようにルール化するなど、"セクハラが起こりえない環境"を作るしかないんでしょうね。いろいろな教育活動がかなり不自由にはなりますが、上記のような悲劇が発生するリスクがある以上、それもしかたがない。

 病院では、なにせ患者が裸になることもありますので、医者と患者が二人きりにならないように必ず看護師一人以上付くというルールがあります。病院でできることなら、学校でもできないわけではないと思います。

連鎖 #1

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 セクハラ問題にせよ差別問題にせよ、多くの人権問題は、事象そのものよりも、事象に付帯して続発する様々なできごとが事態を面倒なものにします。言い換えると、人権問題は、起こったときより、起こった後のほうが問題になりやすいのですね。

 たとえば、以下の事例を考えて見ましょう。

(1)まず、「差別発言」が起こります。
 東京出身のAさんが、同僚でアイヌ出身のBさんに対して、「きみはクマさんみたい」と発言しました。Aさんにはまったく悪気はなく、クマさんのように愛嬌があってかわいらしい、ぐらいの意味で好意的な発言をしたつもりでした。

(2)ところが、アイヌは侮蔑的な意味をこめて「クマ」と呼ばれて差別されることがあります。
 そこでBさんは、(Aさんの発言意図がどうであれ)、「アイヌに向かって『クマ』と呼ぶのは差別的な意味合いがあり、不愉快だ」と抗議しました。

(3)Aさんとしては、好意的な発言に対して「差別」だと抗議されたことに驚きました。
 そして、「傷つけるつもりなんかなかった。だから差別なんかじゃない。クマは愛らしいじゃないか。クマと呼んで何が悪いのか。被害妄想はいいかげんにしてくれ」と逆ギレします。

(4)BさんはAさんの態度に傷つきます。
 最初は、Aさんに悪気があったかどうか分からないけど、できればよりよく理解してほしいという思いから、勇気を振り絞って「不愉快だ」と真剣に伝えたのに、このAさんの発言と態度からは「理解しよう」という気持ちはうかがえません。それどころか、被害妄想だと攻撃される始末です。傷ついた後、たいへん強い憤りを感じます。

(5)Bさんは上司に調停を依頼します。
 そこでBさんは、第三者として、AさんとBさんが働いている職場の上司に、内々に相談します。

(6)上司は事実がなかったかのように振舞います。
 上司としては、仕事と直接関係のない面倒な揉め事を嫌う人でした。Bさんから相談を受けた後、「ぼくからAさんをたしなめてるから、Bさんも事を荒立てないように」と話したにもかかわらず、Aさんには何も話をせず、ただ放置しただけでした。

(7)Bさんは上司に抗議しますが聞き入れられず、それどころか4月に配置換えされる対象になっていることが分かりました。Aさんはそのまま異動しないにもかかわらず。

(8)Bさんは、とうとう、Aさん、上司、そして会社の3社を民事で訴えることにしました。

 さて、このケースですが、(3)の段階でAさんが、「そうなんだ、知らなかったとはいえごめんなさい」とたった一言謝ればすむ話なのですね。いや、謝るどころか、「え、そうなの。知らなかった。よかったら、もう少し詳しく教えてくれない?」と前向きに理解しようとする姿勢を示すだけでも、たぶん大丈夫だと思います。

 ところが、Aさんは「差別」の一言に過剰反応してしまって、大悪党呼ばわりされたような気持ちになり、相手の気持ちも考えずに攻撃的な対応をしてしまいました。そして、いくところまでいってしまうことになったわけです。

 Bさんとしても、(1)の発言そのものに対して深く傷ついたわけではありません。むしろ、(3)や(6)〜(7)の対応によって、期待が裏切られ、信頼を喪失し、人間関係と職場に絶望し、そして、恨むようになっていったのです。

 事後の対応がいかに重要かわかりますね。

ノリック追悼

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 タイトルと本文関係ありません。

 夏休みが明けたら再開しようと思っていましたが、このタイミングは仕事も忙しくて、気力、体力ともにブログに割く余裕はなかったのでした。この夏、祖母が他界してからずっとウツ気味だったし。でも、それもようやく改善してきましたので、またぼちぼち再開したいと思います。

 写真は、この夏の出来事の一つということで。

夏のできごと

採点してます

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 今週末が採点表の締め切り。採点しています。煙が出るほど採点しています。

 もっと採点しやすい問題にしておけばよかったといつも後悔するのですが、そういう出題形式はどうしても自分に許せなくて、結局、採点には毎度毎度、膨大な時間がかかります。

 それでも出来がいい科目は気分よく採点できるのですが、マジメな学生でさえ期待水準に達していないとき、ふがいなさに深ーく落ち込んだりします。しかもそれが比較的簡単な問題だったら、なおさら。

 前にも書きましたが、そんなときはやっぱりこの曲(クリックで視聴)。Peter Gabriel & Kate Bush "Don't Give Up"です。もう条件反射のように聞きたくなる。

 不朽の名アルバム『So』に収録された曲ですが、学生たちはもう知らないだろうなぁ。歌詞のさわりだけ、ちょっと紹介しましょうかね。訳はテキトーです。

《男声:Peter Gabriel》
In this proud land
we grew up strong
We were wanted all along
I was taught to fight, taught to win
I never thought I could fail
この誇り高い国で
オレたちは強く育った
ずっと必要にされてきた
闘えと教えられ、勝てと教えられ
負けるなんて考えたこともなかった

No fight left
or so it seems
I am a man whose dreams have all deserted
I've changed my face, I've changed my name
But no-one wants you when you lose

闘うものなんて何も残ってない
残ってるような気がしない
オレはすべての夢を捨ててしまった人間さ
顔を変え 名前を変えた
でも負けたときは誰からも必要にされやしない

《女声:Kate Bush》
Don't give up
'cos you have friends
Don't give up
You're not beaten yet
Don't give up
I know you can make it good
あきらめないで
だってあなたには友達がいるじゃない
あきらめないで
まだ打ちのめされてはいないわ
あきらめないで
あなたならできるってわたしにはわかってるから

 こんな感じで、マッチョに育った男性が主人公です。それが自尊心self-esteemに傷を負い、男らしさに不安を抱え込みmasculinity anxiety、二重の挫折感にさいなまれる苦悩をピーター・ガブリエルが歌うわけです。そして、「天使の声」ケイト・ブッシュが慰める。そういう掛け合いが延々と続きます。

 面白いのは、ケイト・ブッシュの歌詞ですね。これでもか、これでもかと"Don't give up"を繰り返します。こんなに苦悩している人間を相手に、「がんばれ」「あきらめるな」はないだろうと思うのですが、それがまったく焦らせるような響きを持たない。"Don't give up"といわれるたびに、いやされていくのです。

 ウツを相手に「がんばれ」と励ますのはタブーだとよくいわれますが、言葉そのものはたぶん問題じゃないんでしょう。ケイト・ブッシュは、"Don't give up"一言で終わったりせず丁寧に言葉を重ねます。そして、ただ自力で立ち直れ、克服しろと突き放したりせず、「わたしが信じている」「居場所があるじゃない」「一人じゃないのよ」と寄り添う存在を示します。

 そういう前提で「がんばって」といわれるのは、これほどに慰められるものなのかと感心させられる。そんな曲です。

大学の新自由主義

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 思えば、この半年ほど、学園の改革のためにずいぶんいろいろな仕事をしました。

 一つは、学生支援と教育モデルとを実践的に融合させたエンロールメント・マネジメントの導入。個々の学生に対する入学前から卒業後にいたるまでのトータルサポートと、個別対応教育を前提とした精緻な指導と精緻な評価で、より高度な水準で教育理念と学力の達成を図るというもの。

 従来なら一つでも審議に1年以上はかかっていたであろう改革案が全部で30以上。デザイン案を描いて、組織をつくり、さまざまな力学を駆使して、3ヶ月あまりで一気に導入にこぎつけました。言いだしっぺではあるけど、教授でもなく何の役にもついていないぼくがどうしてこんな仕事やってるんだろうと思いながら。

 もう一つは、学生支援GPの申請。GPの全貌が明らかになってから締め切りまでわずか3週間あまりというのが厳しかった。自由に論理を組み立てられる研究論文とは違って、審査機関の意図に沿って作文するのはなんとも骨の折れる作業でした。研究室にマットと寝袋を持ち込んで2泊もしました。やはり、教授でもなく何の役にもついていないぼくがどうしてこんな仕事やってるんだろうと思いながら。

 そして最後に、組合活動。今年度の方針は、新自由主義に基づく経営グランドデザインの提示です。経営のガバナンスと教学のガバナンスを整備し、業績主義を公正に運用する。労務管理を脱却し、人的資本の戦略的運用に転換する。いずれも、労働組合側から提案するのがおかしいようなテーマがずらり。委員長とはいえ、ぼくがやる必要はないんだけどなぁと思いつつ、いま誰かがやらなければいけない仕事です。

 これすべて、グローバリズムの潮流に適応しなければ、学生がor学園が生き残れないという問題意識に基づくものです。

 ただねぇ。ふと、キャンパスの街路樹を見て思うのです。これは、ぼくの理想とはずいぶんかけはなれてるな、と。

 うちのキャンパスのメインストリートにある街路樹は、何年か前に、かなり不恰好な「ぶったぎり剪定」をされてしまいました。枝をすく剪定ではなく、主幹や大枝をチェーンソーでごっそり横断してしまう剪定です。

 この剪定方法は、効率よく周囲の視界と日当たりを確保したり、落ち葉を減らしたりするメリットが大きいため、近年は一般道の街路樹にもよく見るようになりましたよね。

 しかし、いったん「ぶった切り剪定」をされてしまった樹木は、もはや何十年たっても自然な樹形を取り戻すことはできません。しかも切り株の中心ではなく周囲からしか新しい芽が生えてこないため、新しい枝が育っても不安定な状態にしかならず、風雨で折れたりする危険性が増してしまいます。その危険を避けるためには、毎年毎年、すべての新枝を切り落として同じ不恰好な形に戻してしまわなければなりません。こうなってしまうと、ただ生きているというだけで、もはや樹木としては終わったも同然なのです。実際、枯死したり、何年も葉が茂っていない木もあります。

 管理のコストが大幅に減るということだけを目的として、樹木の美しさをいっさい省みない「ぶった切り剪定」。それが、ぼくには新自由主義の姿とダブって見えてしまいます。

 ぼくとしては、できるだけ「ぶった切り剪定」にならないように、"生き残り"と"美しく自然な姿"の両立を目指して制度改革のデザイン案を描いてきたつもりです。でも、何度も立ち止まって、一歩遠い目線から常に確認していないと、自分が教育を「ぶった切り剪定」してしまうのではないかという恐怖感におそわれるのです。

 文部行政を担う人たちも、同じ恐怖感を持ってくれているといいのですが。

また買ってしまった...

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 また買ってしまいました。

 毎回毎回、「舞台装置が受け入れられない」だの、「あんなスポーツはありえない」だの、読んでは毒づいているあの本。

 一番おいしいその場面でそのナンセンスはないだろう!と悲鳴を上げたり、おいおいそんなオチなら今まで引っ張ってきたのは何だったんだよと唖然としたり。

 主人公が幼いうちは「児童文学」だと割り切って読めましたが、もうけっこう大きいですからね。だんだん普通のファンタジーとしてしか読めなくなっている。そうすると、いろんな矛盾が気になって、もう単純に楽しむということができない。

 しかも、みょうに分厚いから、ベッドに横になって読むのも苦痛だし、ちょこっとポーチに入れてファミレスに持っていくというわけにもいかないし、カバーつけたままだと外で読むのは恥ずかしいし。いったいいつ読めばいいというのか。

 いつもいつも、買わなければよかった、時間の無駄だったと嘆いているのに......。また買ってしまいました。完全にノセられていますね、ぼくは。高い壷なんか買わないようにしないと。
 →amazonで4割引です。

橋にかけるロマン

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 橋やダムには「ロマン」があります。大自然を相手に知恵と体力と勇気を試される非常に危険な大仕事ですので、たいていの橋やダムにはヒーロー譚があったりするものです。これがいわゆる「男のロマン」。建築後はその機能美や夜景の美しさから若い恋人たちをひきつけるものです。これは...なんのロマンだろう。

 ともかく、マンハッタン島には東西に大きな橋がいくつかかかっていて、やはり、そのすべてにちょっとした逸話があります。天才ローブリング親子が名声と人生をかけたブルックリン橋。フラッター現象で崩落するという大惨事で世界に聞こえたタコマ橋、等々。

gwb.jpg

 ニュージャージー州のフォート・リーとマンハッタンを結んでいるジョージ・ワシントン・ブリッジ(George Washington Bridge: 略してGWB)もそのひとつ。ル・コルビジェをして「世界で最も美しい橋」といわせた建築です。

 7本ものハイウェイが集中するロケーションですので、むかしから激しい交通渋滞の名所で、1962年にはもう一本の橋板を通して上下二層構造に改築するという離れ業をこなしたこともあります。上下あわせて14車線の橋は世界唯一らしい。それでも渋滞はひどいですけどね。

 この橋のなにが美しいと評価されたのかというと、スチールがむき出しの色合いや、トラス構造の骨組みをむき出しにした鉄橋です。写真を撮ったときは補修中だったのでカバーがかぶせてありますが、本来はそういう構造なのですね。(テロ対策で、いちおう撮影禁止らしい)

 ル・コルビジェいわく「無秩序な都市にあって唯一の気品の源である」とのこと。たしかに、現代建築の巨匠が好みそうな、機能主義的な様式美はあるといえるかもしれません。個人的には、美しいというよりむしろ無機的な威容が冷たいニューヨークにぴったりだと思いましたが。

 でも、G.W.ブリッジに独特な景観を与えているトラスの鉄橋ですが、本来の設計では単なる骨組みであって、表面には大理石かなにかを張ることになっていたそうです。予算不足で裸のままの設計に変更されただけだったのですね。それがむしろ現代建築らしい無骨な機能美につながったというのですから、面白いものです。

 ちなみに、G.W.ブリッジの東側は「ワシントン・ハイツ」という地域です。この一帯には、「ワシントン」や「フォート」(砦)と名のつく地名がいくつかあります。それは、アメリカがイギリスからの独立をかけて戦ったころ、ちょうどこの辺り、ハドソン川の両岸にジョージ・ワシントン将軍が砦を築いたことに由来するそうです。

疲れていると...

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 「あぁ、疲れてるんだな」と自覚する瞬間――肩がこるとか、寝起きがツライだとか、いろいろとありますね。ぼくの場合、「バイクの運転が下手になる」というのがいちばんの指標になります。とにかく、ふらふらして安定しなくなるのです。

 たぶん、体幹や足に力が入らない→乗車姿勢が安定しない→ふらつく、ということなんでしょう。そういうときは、注意力も散漫になっているので、「ふらつくときは普段よりも安全運転」を心がけています。けっこう便利で正確な判断基準です。

 本日、学生支援GPの校正が終わって、申請書の製本が終わりました。たぶん、事務方のどなたかが郵送したか東京まで持参していってくれたことでしょう。ごくろうさまです。今週は大学の研究室に寝袋を持ち込んで2泊もしましたが、これでやっと肩の荷が下りました。この後ヒアリングになっても、さすがにもうぼくの仕事ではないでしょう。

 GPのせいでたまっている仕事がたくさんあるので、一つずつサバいていかないと。採点できずに放置してある中間試験が2科目あるので、まずはそれからです。でも、出来がわるい科目は、採点しているとドッと疲れるんですよね...

 ところで、ぼくは「教育熱心」らしい(小うるさいともいう)。

 今ではそういう評価を受けていますが、ぼく自身が大学生のころには3B(バイト、バンド、バイク)を謳歌していました。関心のある科目のほかは授業に出席せず、空いた時間はジャズ研の部室にこもってドラムの練習。専門の書籍はたくさん読んでいましたが、授業の予復習には手をつけず、放課後はバイトに明け暮れる毎日。稼いだお金はバイクと楽器のローンに使い果たす。絵に描いたようなレジャーランド大学生ですね。

 どの面下げて、出席不良の学生に「ちゃんと授業に出なさい」なんて言えたもんかと我ながら可笑しくなります。

 そんな感じで、20歳代半ばまでは「音楽なしでは生きられない」と思っていたのですが、しだいに演奏することはなくなり、30歳代に入るころからは音楽を聴くことすら少なくなっていきました。音楽以外に自己を昇華する手段がたくさんできたしね。

 でも、ぐったり疲れているとき、むしょうに寂しいとき、ふと音楽が聴きたくなることがあります。音楽に慰めてもらうというか、応援歌に励ましてもらいたくなるのですね。

 応援歌の筆頭はこれ。ピーター・ガブリエルとケイト・ブッシュによる説明不要の名曲です。

こっそり総背番号制

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 あつかましいというかなんというか...

 年金問題をきっかけに、政府は国民総背番号制の導入を持ち出していますね→(23日付asahi.comのウェブ魚拓)

 安部政権、もうアカンね。

 それにしても、住基ネットの大失敗で懲りないもんかなぁ。

ワシントンポストの広告

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 日本に関心を持つ人にとっては、日本の外から日本を見たとき、いい面もわるい面もそれぞれ目に付くものです。しかし、ぼくの場合、ことジャーナリズムについていえば、不愉快になるほど"わるい面"ばかりが目に付いて仕方ありません。

 必ずしも他国のジャーナリズムが平均的に優秀というわけでもないのですが、日本の大手報道各社についてはジャーナリズムを名乗る資格があるのか疑わしくなることもしばしば。

 至近ではこのニュース。「日本の超党派国会議員有志や言論人グループなどが14日付の米紙ワシントン・ポストに、慰安婦らが日本軍によって強制的に慰安婦にされたことを示す歴史文書は存在しないなどとする全面広告を出した」(15日の時事ドットコム:当初の配信記事の半分くらいに縮小してます)というもの。→広告の現物(広告主の一人、西村幸祐氏のブログより)

 どの新聞社もこの「事件」のニュースバリューを測ることができず、配信を垂れ流しするだけにとどまりました。19日現在になっても、続報はありません。しかし、今このタイミングで、よりによってワシントンポスト紙に、日本を代表する立場にあると解釈されてしまう人々の名前入りで、こんな広告を出せば、外交関係に非常に重大な影響が生じることは誰の目にも明らかです。その重大性が、新聞各社にはわからないらしい。いや、わからないはずがない。わかっていて、書かないのでしょう。そこが腹立たしい。

 この広告のせいで、4月末に安部首相が訪米したときとは、米議会内の空気が完全に変わってしまいました。なにせ、副大統領が半公式にこの広告に激怒を表明している状態です。

 せっかく様子見の流れだった日本軍慰安婦問題の糾弾決議案は下院に上程され、可決されるでしょう。そして、北朝鮮をめぐる多国間協議で、これまで以上に拉致問題は置き去りにされることになる(拉致加害を否定しようとする国が、拉致被害を訴えても説得力に欠けます)。さらに、大統領選の流れによっては、対日重視政策が後退し、中国重視へと大きく舵を切ることもありえます。

 新大統領が就任する2009年、日本の外交環境が厳しさを増す中で、「あの広告が直接の転換点だった」と振りかえっているかもしれません。それまで、日本の「ジャーナリズム」は何もせずにただ黙っていることでしょう。

 ちなみに、賛同人の一人、島田洋一氏のブログによると、「話題になったこと自体......大いに効果があった」というスタンス。90年代半ば以降の日本で達成した政治的ムーブメントを今度はアメリカでということなんでしょうが、この世間しらずぶりをどう表現したらいいものやら。

教員紹介

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 先月のことですが、ウチの学科で出しているニューズレターの編集から、恒例の教員紹介執筆依頼が来ました。その一部をさらっと転載。

(問1) この仕事をしていて1番思い出に残っていることは何ですか。

着任した年、前任者から2年生のクラスアドバイザーを引き継いでコンパに同席したときのことです。「先生なんかが一緒にいたらきっと学生たちにとってはジャマだろうな」と思って、2次会の途中で1万円札を置いてカラオケ店を出ました。すると、幹事があわててお釣りを持って追いかけてきて、「こういうお気遣いは結構です。その代わり、次もきっと来てくださいね」というのです。いやー、いい学校に来たものだと感激しましたね。もっとも、そんな出来事はそれっきりでしたけど。


(問2) 今考えている老後の過ごし方を教えてください。

もし、ちゃんと「老後」を迎えるときまで生き延びることができたら、旅芸人をやりながら世界中を旅して回りたいです。そのとき芸に困らないように、自転車のパフォーマンスを練習しはじめたところです。あと20年余り、毎日練習していたらきっと大丈夫でしょう。ちなみにコレがぼくの自転車。

カナダの『赤毛のアン』

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フェアバンクスのホステルでの会話


スイス人
30代男性
「プリンスエドワード島にも行きましたよ。きれいなところだった。でもどこに行っても日本人女性がたくさんいてね。どうしてなんだろう。」
カナダ人
30代女性
「あ、あたしそれ聞いたことがある。日本では『赤毛のアン』がすっごい人気で、それでアンの家を見てみたいっていう人が多いんだって。でもあたし、『赤毛のアン』って読んだことないなぁ。あなたある?」
スイス人
30代男性
「いやぼくも読んだことないですよ」
その他A男性「おれもない」
その他B男性「ない」
その他C女性「ないわ」
その他D男性「ない」
その他E女性「ないわね」
ぼく「...ぼくは読んだよ」
一同「へー」

 この一言のなんと勇気のいったことかw。かっこうの話のネタのはずなのに、この一言以外、たとえばシリーズ本はぜんぶ読んだとか、初作は大学生のときに原書を読んだとか、映画も見たし、アニメのシリーズも小学生のときお気に入りだったとか、なぜか言い出せなかった。そしてここに書いていて、なぜか恥ずかしい。いやん(/。?)

 ともかく、なぜ『赤毛のアン』は多くの日本人女性に人気があるのか(あったのか)。

 ジェンダー論の観点からは、小倉千加子さんが『「赤毛のアン」の秘密』(岩波書店)という本を書いています。ぼくはまだ読んでいませんが、内容はだいたい想像がつきます。「ロマンティック・ラブ」の典型像として戦後日本人女性の心性に適合した、といった説が展開されていることでしょう。まぁ、あってしかるべき視点のひとつだと思います。

注)「ロマンティック・ラブ」ないし「ロマンティック・ラブ・イデオロギー」はジェンダー論の用語で、熱烈な恋愛の果てに結婚に至ることを理想とする考え方を指します。
 小倉さんが著書としてまとめる前にも、フェミニズムの視点から『赤毛のアン』人気を批判する声はずっとありました。でも、イマイチ説得力がないんですね。

 というのも、ロマンティック・ラブを称揚する少女文学は他にもたくさんあるし、というか少女文学のほとんどはそういうものじゃないのかな。その中で、『赤毛のアン』が特別な位置にあったことを、ロマンティック・ラブだけで説明するのは無理がある。

 さらに、近代社会は多かれ少なかれどこの国でもロマンティック・ラブ・イデオロギーの影響下にあるわけで、その中で日本でだけなぜ『赤毛のアン』が読みつがれているのかについての説明にもならない。

 といった疑問に小倉さんがどう答えてくれているのか、読む前から興味津々です。まぁもしその答えがなくとも、『赤毛のアン』のファンやアンチファンにはぜひ読んで感想を聞かせてほしいものです。

森林限界線

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wood1s.jpgwood2s.jpg
 ダルトン・ハイウェイでいちばん楽しみにしていたことの一つが、森林限界線の写真を撮ることでした。

 残念ながら平地にあるダルトン・ハイウェイのまわりには、森林限界がクッキリとわかる箇所がありませんでした。そこで、高地を走るスティーズ・ハイウェイで撮ったのが左の写真です。ほぼ山頂イーグル・サミットの近く。

 この針葉樹はブラック・スプルースという種類で、成長がたいへん遅いのですね。年間に1〜2cmしか伸びないらしいです。右の写真のいちばん背の高い木などは、おそらく200〜300年は生き延びてきたものと思われます。

 成長は遅いながらも、わずかな光を奪い合って上に上にひょろひょろと伸びていきます。葉っぱなんか上のほうしか生えていない樹木も少なくありません。

 ところが、他の樹木よりも背が高ければ有利かというと、そうでもないのですね。成長が早すぎれば、20年に一度とかの大風に耐えられず、傾いたり折れてしまったりするからです。

 だから、過当競争でひょろひょろになりながらも、歩調を合わせて、ある程度の密度を保って、防衛しあっているわけです。協調的競争とでもいうんでしょうか。

 でも、やっぱり限界線を越えて、競合者に光をさえぎられることのない場所へとチャレンジするやつもいるわけですね。

 20年後にチャレンジャーたちが生き残っているかどうかは分かりません。でも、たとえ温暖化で潜在的な生存可能圏が広がっていたとしても、そうやって実際にフロンティアを広げていくチャレンジャーがいなければ限界線は変わらないままです。

バイクに乗る理由

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 ニューヨークでのあるパーティでのこと。自動車学校で「キミは乗らないほうがいい」といわれて免許をあきらめた経歴がある大学院生が、こういいました。

 「しかたがないから、バイクにでも乗ろうかな、それだったら私でも乗れるだろうし。」

 「え、でもバイクはあぶないよ。」

と僕が答えるのを聞いて、周囲の人たちから質問されました。

 「どうして危ないとわかっていてバイクに乗るんですか?」

 これまでにも何度となく聞かれてきたのと同じ質問です。またか、と思うぐらい、よくある質問です。なのに、毎度毎度、ぼくは答えにつまってしまいます。

 いちばん正直に答えるとすれば「好きだからとしかいいようがない」ということになります。もっとハッキリいえば、「そんな質問をしてくる時点で、キミには説明したってわからないよ」といってあげたい。

 バイクを移動の手段としてみると、なるほど、生身なので危ないし、エアコンはないから快適でもないし、非合理的に思えるかもしれない。でも、バイクはたんなる手段ではなく、それ自体を楽しむ目的でもあるわけです。バイクのコンサマトリーな楽しみを知らない人には、「どうしてバイクに乗るのか」を説明するのは難しい。

 「どうしてあの人と付き合ってるの?」のような問いと同じで、分かる人にはわかるけど、分からない人にはいくら説明したってなかなか分からないわけです。

 でも、なにせ研究者のパーティーですから、そんな感覚的でそっけない回答に、みんなは納得できません。だから、かわりにバイクのどういう部分が好きなのかを無理やり言説にして、それっぽく説明をさせられることになります。

 「自然を感じられるところがいいんだ。谷に入るとすーっと空気が変わったりするの。そういうのは車じゃわからない。そのかわり夏冬は地獄だし、キャンプ場を出るとき雨降ってたりすると、なんでこんな旅してるんだろうってウツが入ることもあるけど、その後、パーっと晴れて気持ちよく飛ばせたりすると、それだけで生気がみなぎってくる気がする」

 「車体との一体感がよくてね。まるで馬に乗っているみたいに"あやつっている"という実感がある。といっても馬に乗ったことはないんだけどw」

 「日常の足に使っていても、バイクってすぐにでも旅にでかけられるようなイメージがあるでしょう。ぼくは旅人にあこがれがあるみたいでね。」

 「サーキットって気持ちいいんですよね。景色も路面もきれいだし。歩行者や飛び出しを気にしなくていいし、白バイもいないし。ただ前だけ見て好きなように走っていればいいというのは何ともいえない快感なんですよ」

 いずれも、僕がバイクを好きな理由の一部ではあるけれども、じゃあ、それ(ら)が理由でバイクに乗っているかというと、そうとはいえないのですね。つまり、上記の理由がなければバイクに乗らないかというと、やっぱり乗るような気がするわけです。さらに言い換えると、上記の理由では表現しつくせない"なにか"が他にもたくさん残っているわけです。

 「僕がバイクに乗る理由」というきわめて主観的なテーマを説明するために、本一冊分くらいのスペースをくれれば、より正確なことを伝えて納得してもらう方法はあると思います。でも、パーティでの「どうしてバイクに乗るの」という素朴な疑問に正確に答える方法は、ぼくにはありません。だから、結局、それっぽい理由を捏造して、話にオチをつけることになってしまうわけです。

 "自分にとっては説明するまでもない自明のことだけれども、いざ他人に説明しようとするとうまい言葉がみつからない"ようななにかを伝えようとすると、どうしても、相手がすでに理解できる枠組みをもっている代替的なストーリーを作話することになってしまいますね。

インタビュー

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 今日はA新聞社のインタビューに約2時間ほどお付き合いしました。

 しゃべるのはまだいいのですが、バイクジャケットのままじゃ困るというのでスーツに着替え、写真を撮られ、よそ行きの顔を作り、それでも表情の崩れたところをここぞとばかりに撮られまくり……久しぶりの取材でしたので、たいへん疲れました。2コマほど講義をこなしたような感じです。

 もともと疲れがたまっているところにそれでしたので、今日はもう帰って寝ます。

白夜とMidnight Sun

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 三省堂『新明解国語辞典』によると、「白夜」とは次のような意味らしい。

夜中でも夕暮れのように薄明るい感じがすること。特に、△北極(南極)に近い地域で、△夏至(冬至)のころ見られるもの。びゃくや。
 うん、小学校の「地理」で、たしかにこんな意味だと習った気がする。とすると、夏のフェアバンクスは白夜です。太陽は地平線に沈みますが、あまり深くは沈まないため一晩中明るいままです。

 でも、そうすると、白夜にあたる英単語は存在しません。英語の似た表現に「midnight sun」というのがあります。Encarta『World English Dictionary』によると、「midnight sun」とは次の意味です。

sun visible at midnight at pole: the sun when it is visible from within the Arctic or Antarctic circles at midnight during their respective summer months
極地で見られる真夜中の太陽のこと。北極圏(南極圏)で、夏の数ヶ月、真夜中でも沈まない太陽を指す
 つまり、真夜中でも明るいだけではmidnight sunとは呼ばず、一晩中太陽が出ていないとダメなのですね。ちなみに、夏至の日に一晩中太陽が沈まない緯度より北のことを北極圏Arctic circleと呼びます。ぼくが北極圏を訪れたときも、天気がとてもよかったのでmidnight sunはずっと見えていました。10時過ぎに太陽の高さが低くなるまでは、暑くて眠れないくらいでした。

 現在、北極圏の位置は北緯66度33分ということになっていますが、かつては北緯66度30分だと信じられていました。ちょうどその緯度に「Circle」という名前の町があります。フェアバンクスから50kmほど北に位置するこの町は、これは北極圏の町という意味を込めてそう名づけられました。

 白夜であれmidnight sunであれ、太陽が出ている時間が長いと気温が低くならないというありがたみがあります。たとえば、カナダで温泉に入ったリアード川ホットスプリングスでは、昼は暖かくても夜は霜が降りてテントが凍ったりしました。でもさらに北上したフェアバンクスでは、いくら気温が下がっても夏に氷点下になることはありません。

 ただ、明るいままだと、体内時計がまったく当てにならなくなります。いい朝だな、けっこうよく寝た、と思ったらまだ午前2時だったり、まだ時間が早いからお腹がすかないや、と思ったら夜の10時だったり。

フリーライダー対策

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 各種の研究によれば、ペナルティ以外にフリーライダーを抑制する効果があるのは、(a)集団のサイズの小ささ、(b)共属意識の強さ、(c)モチベーションの強さ、(d)他者を配慮する人の多さ、(e)個々人が組織に対してなす貢献の有効性を実感できること、等です。

 ウチの大学のような小さな組織の場合、(A)各部署の構成員数が少ない、(B)みんな顔見知りで、誰がフリーライダーなのかも可視化されている、(C)かならずしも総じてモチベーションが高いとはいえないまでも、一部に熱意のある人がいて影響力を行使できる、(D)京都の文化でしょうか、がんばっている誰かが頭を下げると面と向かってイヤとはいわない、(E)部署単位であれば個々人の努力は成果と直結する、という具合にいいこと尽くめなのですね。

 で、この二日間、学内をドサ回りしまして、組合加入率の低かった学科からは前向きの返事をもらい、頓挫しつつあった他の活動についても協力を得られそうな感触を得ました。

 「どうしてフリーライダーに頭を下げなければいけないんだろう」という根本的な疑問は意識の外においやることにしました。

 それより、顔を見せて頭を下げるだけで協力してくれるというのは、ずいぶんストレスを抑制できる環境だなとあらためて感心しているところです。むしろ、それだけで協力してくれるんだとすると、もしかしてフリーライダー問題というより過去の組合執行部の努力不足...?

フリーライダー

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フリー-ライダー [free rider]

〔ただ乗りの意〕他人が費用負担したものを、対価を払わずに利用するだけの人。料金徴収が困難でただ乗りを排除できないもの(たとえば、一般道路や国防など)が公共財となる。
三省堂提供「大辞林 第二版」より

 なんとなく仮面ライダーみたいでかっこいいですが、意味は「ただ乗りする卑怯者」です。公共財というのは、ひとたび提供されると誰でも利用できる財やサービスの総称です。道路や国防だけではありません。もっと身近な、たとえばグループワークなどの共同作業は公共財とみなすことができます。また、忘年会や運動会のような催しも公共財の一種と考えることができます。そして、労働組合や企業のような組織も公共財です。だから;
  • 班別のグループワーク課題をやっているとき、作業をサボってまったく貢献しなかったくせに、班に与えられる得点だけはもらう人。
  • 社員みんなでがんばって業績を上げてボーナスを増額してもらおうとしているとき、仕事はサボるくせにボーナス増額の恩恵だけは受ける人。
これみんな、フリーライダーです。公共財を利用するだけでコストは払わないわけですから。また、メリットだけ享受して、デメリットを共有しないというのもフリーライダーです。
  • みんなで旅行に行こうというとき、計画の立案にはいっさい参加しなかったのに、なにか不都合があると計画を考えてくれた人に責任を押し付ける人。
  • 忘年会をやろうというとき幹事は引き受けないくせに文句だけいう人。
 今年、ぼくは教職員組合の委員長をやっていますので、フリーライダー問題には頭を悩ませています。組合活動にはいろいろとコストがかかります。会議をやったり、資料をまとめたり、交渉をしたり、とにかく時間を取られるのですね。だから、加入したがらない教職員もいるわけです。

 組合には公共的な性格があって、「組合員だけボーナスを上げてくれ」なんて交渉はできません。組合活動の成果は、組合に加入したがらない教職員も等しく享受できます。そうすると、非組合員は典型的なフリーライダーということになります。当然のごとく、組合員からいろいろと不満の声が上がってきます。コストを平等に負担しろ、と。

 一般の企業のように、組織率が全体的に低いというなら、まだ組合員も諦めがつきます。ところが、教員の組織率はどの学科でも100%近いのに、ある学科だけ0%...などという偏りがあると、フリーライダーが可視化されて不満のはけ口がハッキリしてしまうわけです。

サービス残業

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 日本の企業はゲゼルシャフトではなく、擬似ゲマインシャフトだ――昨日、こんなことを書きました。少なくとも、そう信じている人は多いです。日本型経営を下支えしているのは家族主義的特徴だ、と。

 例えば終身雇用制。労働者は一度就職した企業に定年まで勤め、企業は解雇しない。社員は規定の労働時間と給与を超える貢献をする一方、企業は社員を家族のように人生まるごと抱え込む。なるほど、家族主義的じゃないか、というわけです。

 これにはいろいろと異論もあるのですが、まぁ、近世から引き継いだ慣習の名残があることは確かでしょう。大名に仕える家臣、商家に勤める従業員、職人に師事する徒弟など、終身雇用制のイメージの源泉はそのあたりにある。

 さて、バブル崩壊後、日本型経営は徐々に変質してきたともいわれていますが、そうそう急激には変わらないというのも日本の特徴のひとつでしょう。

 例えばサービス残業。厚生労働省がいくら通達を出しても、労働基準監督署がどれだけ是正勧告を打ち出しても、これがなかなかなくならない。職場の和を乱すくらいなら、時間を犠牲にしたほうがマシだと考えてしまい、無理に退社することはできない。誰も帰ろうとしない。そしてタダ働きを続ける。

 会社側から、有形無形の圧力もあったりするわけですが、なにせ明白な労働基準法違反ですので、内部告発をすれば確実に立ち入り検査が入って是正されます。したがって、これについては労働者側の意識の問題のほうが大きい。日本型労働慣行とでもいうべき、悪しき風習です。

 もう、会社が社員の人生を丸抱えで保証する時代は終わりました。そろそろ、労働者も考えを改めるころだと思うのですがね。

飲み会の機能

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 飲み会のシーズンです。昨日も学科の歓送迎会でした。そして今日、内心ヘロヘロの状態で3コマ授業をこなしました。体調サイアクです。

 さて、4月の飲み会。それは、新しく形成されたゲゼルシャフトを、擬似ゲマインシャフトへと強引に転換するための儀式です。

ゲマインシャフト地縁や血縁で深く結びついた伝統的社会形態で、近代化にともなって減少する。愛による全人格的な融合、愛着と信頼がその本質。例:村落、
血族集団
ゲゼルシャフトある目的達成のため人為的に形成される社会形態。利益的結合、合理精神にもとづく契約を本質とする。目的に見合うときだけ打算的な付き合いが生まれるが、それ以外の人間関係は希薄化する。例:企業、
学校
 テンニースによれば、企業や学校はゲゼルシャフトの一種です。でも、利害だけのお付き合いではお互いギスギスして居心地が悪いし、協同性が低いので生産性もあがりません。

 そこで、和を尊び、家族的な付き合いを重視する日本で発達したのが、お酒の力を借りて一気に仲良くなったことにしてしまおうという新歓行事だ...といわれています。

 まぁ、実際には、アメリカにだって同じように飲み会はあるんですけどね。

 金曜日、月曜日と、新歓コンパが続きます。でも体力は続かない。倒れそう。

18歳からの参政権

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 ずいぶんモメましたが、国民投票法案は衆議院を通過しそうです。

 この法案によれば、投票権年齢は原則18歳以上。未成年には投票を認めないという原則と矛盾しますので、今後は18歳以上を成人とするように各種の法律が改められていくことになるでしょう。

 ボクが知るかぎり、未成年には世界中の国で選挙権も被選挙権も認められていません。未成年のほかに参政権が制限される人といえば、禁治産者(自分で財産を管理する能力がない者)、受刑者、選挙法に違反した者、あとは国によって違いますが外国人など。

 これは、(1)その社会のメンバーであるという資格があって、かつ、(2)意思決定に責任を負う能力があること、が参政権を持つための要件だと考えられているためです。受刑者や外国人は1の要件を満たさないという理由で、未成年や禁治産者は2の要件を満たさないという理由で、投票を認められていないわけです。

 でも、はたして、未成年には「意思決定に責任を負う能力」がないのでしょうか。また、成人すればみんなにそんな能力が身につくのでしょうか。そもそも子どもと成人では何が違うのでしょうか。

 少し法律から離れて、この問題を考えてみましょう。

 フランスの歴史学者フィリップ・アリエスは、『「子供」の誕生』(1960年)という本の中で、中世のヨーロッパには「子供」が存在しなかったという主張を唱えて、世間をあっと驚かせました。もちろん、物理的に存在しなかったという意味ではありません。「子どもは保護され、愛され、教育されるべきだ」という考え方がなかったということです。

 もう少し詳しく説明すると、中世のヨーロッパでは、7歳になれば「小さな大人」とみなされていたというのです。大人と同じ服装をし、大人と同じようにセックスの話題に参加し、大人と同じ遊びを楽しみ、大人と同じように労働の義務を負っていた。それが変わったのは、近代になって、社会をとりまく意識(メンタリティ)が変化してからのこと。子どもを"愛らしい"ものとみてかわいがるようになり、"純粋無垢"なものとみて道徳的、性的な問題から遠ざけようと配慮するようになった。この、近代になってからの「小さな大人」から「子供」へのまなざしの変化。それがアリエスのいう「子供」の誕生です。

 この著書については、階級文化への考察が甘いなどいろいろと批判も多いのですが、現代人が自明のものと信じている子ども観が、じつは歴史のなかで作られたものにすぎないのだという新鮮な論点は、さまざまな研究分野から高い評価を受けました。

 さて、「子どもは保護されるべき未熟で純粋無垢な存在だ」という考え方は、「子どもは社会の一人前のメンバーではない」という考え方に自動的につながります。そして、社会の一人前のメンバーとしての義務と責任を免除される代わりに、権利も制限されることになります。

 例えば、子どもが犯罪を犯しても、成人とは違って刑罰ではなく保護を受けますね。これは、子どもには(物事の善悪を判断する)責任能力がないと考えられるためです。罰を受ける義務と責任を免除される代わりに、子どもは保護者の監督に従わなければなりません。

 未成年の参政権が認められないのも、同じリクツです。子ども=未成年は、まだ保護を受け、教育を受けるべき存在なので、善悪や是非の判断に責任を持てない。したがって、投票という社会の意思を決定するプロセスにも参加する能力がない、というわけです。

 ここで重要なのは、子ども期=未成年は何歳までかという判断は、アリエスの言うように、時代や社会によっていくらでも違ってしまう、ということです。

 では、現代において、子ども期とは何歳までを指すでしょうか。

 『家栽の人』(毛利甚八作・魚戸おさむ画)では、刑法の適用年齢引き下げの議論に対して、主人公が「現代では成人年齢が上がっているのかもしれない(から引き下げはナンセンス)」という内容の発言をします。20歳で成人できない未熟な社会なので、むしろ刑法適用年齢は引き上げるべきだという話です。

 逆に、ニール・ポストマンは、『子どもはもういない』という本の中で、現代のように映像情報によるコミュニケーションが発達した時代には、子どもと大人のあいだに本質的な格差はないといいます。子ども期は消滅したのだ、と。

 どちらの議論も、現代では子ども期の上限年齢=成人年齢が揺らいでいる、という認識は共通しています。もともと、くっきりと線引きできる問題ではないのですが、それがいっそう、不確かなものになっている。というより、たとえ成人していても社会的に未熟な人格があふれている、と人々は実感しているのかもしれません。

 けっきょく刑法の適用年齢が14歳に引き下げられたことを考えてもわかるとおり、子どもにも一人前の人格を認めようというのが現代の価値観です。大人も未熟な現代、投票年齢を18歳に引き下げるというのは、時代に見合ったことなのかもしれません。

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