社会調査の全ブログ記事

※以下は1998年5月に『民団新聞』に連載した記事を再掲したものです。

 「在日韓国人は日本人よりも職業的地位が不安定なため転職が多い」「在日韓国人は日本人よりも生活が不安定なため転居が多い」――筆者がよく耳にする二つの通説である。しかし実は、これらの説は完全に事実と違っているか、あるいは事実と正反対なのだ。
 在日韓国人の過半数は「自営」である。考えてみてほしい。固定客を中心とする飲食店や小規模小売業が、そうそう店舗の場所を変えられるかどうか。また、周知の通り自営業は世襲されることも多い。その際、土地や顧客を受け継ぐとなれば、自ずと地域的な移動は制約されるはずだ。在日韓国人の職業生活を考えるなら、日本人より転居(地域移動)が多いという主張は、もともとまるっきり根拠が薄弱なのである。
 連載の第二回目でも間違った通説を紹介したが、なぜ、このような通説がまかり通っているのか。その謎を解く鍵は〝一世の記憶〟にある。日本人より学歴が低く、転職回数が多く、地域移動の多い時期が、かつて確かに存在した。その時期を実際に体験しているのはほとんど一世だけであり、解放後に生まれた世代はもはや該当しない(地域移動については図1)。しかし、その時期の記憶が〝神話〟となって、あたかも現在の事実であるかのように語り継がれているというわけである。
 現在の在日同胞をめぐる状況をきちんと理解するためにも、かつての苦難の歴史は語り継がれなければなるまい。しかし、そのことによって事実を見る目が歪んでしまっては本末転倒である。今や、事実は事実として理解すべき時期にあるのではないだろうか。そうして見えてくるのは、「在日韓国人は日本人以上に地域社会に根を張り、地道な経済生活を営んできたのだ」ということである。
 地域社会に根を張っているさまは他の面からも窺える。「この地域や町内でする行事(清掃、廃品回収、運動会など)には参加するほうだ」(以下、この設問は「地域活動への参加」と略)に〝そう思う〟と答えた者が五六%。「この地域のためになることをして役に立ちたい」が五七%。「事情がゆるせば、ずっとこの地域に住んでいたい」にいたっては、六〇%の者が〝そう思う〟と回答している。
 日本人を対象にした全国調査の中にこれと比較できるような質問項目が見あたらないため、民族間の比較はできないが、この値は低いものではなかろう。日本人以上に地域社会に根を張り、そして地域に強い愛着心と貢献の意欲を持つ――それが在日韓国人の平均的な姿なのである。
 ところで、地域社会といえば過去数年にわたって懸案になっている地方参政権の問題がある。ついでに、地方参政権に関する分析結果についても触れておこう。
 日本人のなかには、〝在日韓国・朝鮮人は日本ぎらいに違いない〟という意見を持つ人が少なくない。参政権問題に絡んで、日本の国会でもこうした議論があったように記憶している。ようするに、反日感情を持つ輩には、たとえ地方といえども参政権など与えられないという主張である。しかし、在日韓国・朝鮮人が日本ぎらいに違いないというのは、完全な誤解ないし偏見である。なぜなら、「日本」に「愛着を感じない」と回答する人は1割もおらず、しかも「大韓民国」や「在日韓国・朝鮮人」よりも「自分が生まれ育った地域」に「愛着を感じる」と回答する人のほうが多いのだから。
 本調査において、地方参政権の獲得を望むかどうかともっとも強い関連を示したのは、上述した「地域活動への参加」であった。さまざまな項目間で関連を調べてみたが、「地域活動への参加」との因果関係の強さは圧巻であった。つまり、普段から地域活動に参加し、今以上に愛着を持てる地域を創りたいと願う人、今以上に地域への貢献を求めている人ほど、地方参政権を求めているということなのである。それは、日本に定住してきた/いくということの自然な帰結と言えるかもしれない。
 われわれはこれまで、〝一世の記憶〟にしばられ、差別や不平等ばかりを訴えてはこなかっただろうか。そしてその不平を逆手に取られ、理不尽な偏見を日本社会に温存させてはこなかっただろうか。在日韓国人が差別や不平等を努力と能力で突破し、日本人以上に地域社会に根を張り、そして地域に強い愛着心と貢献の意欲を持つということを、アピールする努力を怠ってきたのではないだろうか。
 調査報告書には、この連載では触れることのできなかったさまざまなトピックが取り上げられている。ぜひご一読のうえ、このことについて考えていただきたい。報告書を入手するには、在日韓国青年商工人連合会に連絡するか、インターネットでhttp://www.han.org/a/ssc/へどうぞ。

※以下は1998年5月に『民団新聞』に連載した記事を再掲したものです。

 二十?三十歳代の比較的若い世代の在日韓国人の場合、昇進や転職にあたって親の社会階層にともなう資源を利用する確率が、日本人よりも高いというデータがある。では、「親の社会階層にともなう資源」とは、いったい何であろうか。周知のとおり、在日韓国人の多くが自営業をなりわいとしている。自営業をどう定義するかにもよるが、その割合は少なく見積もっても半数をくだらない。つまり、「親の社会階層にともなう資源」とは、家業にかかわる財産、人間関係、知識や経験であることが推察できよう。そこで今回は、「自営」かどうかという観点を導入しながら、親子間でどのように職業的地位が引き継がれているのかについて紹介する。
 対数線形モデルという手法によって、「民族」「父親の職業」「本人の職業」の関連を分析したところ、いくつかの点において、親子間の職業の関係が日本人と在日韓国人とで違っていることが明らかになった。以下、「上昇移動」と「下降移動」に分けて話を進めよう。なお、上昇移動とは、子が親よりも高い職業的地位を達成することであり、逆に下降移動とは、子の地位が親の地位よりも低くなることを言う。また、職業分類は連載第三回の表2の通りである。
 まず、上昇移動で民族間に差があるパターンは、(一)親が「自営」で子が「専管」、(二)親が「雇B」で子が「自営」、(三)親が「雇B」で子が「雇W」である。一と二は在日韓国人の確率のほうが高く、三は日本人の確率のほうが高い。具体的な典型例をあげて説明するなら、一の場合、小さな焼き肉屋を経営していた父親の子どもが、従業員規模三十名を越える焼き肉チェーン店に発展させたという事例があてはまる。二の場合、旋盤工として工場に雇われて働いていた父親の子どもが、自分で鉄工所をひらいたという事例があてはまる。いずれの場合も、父世代の職業に直接かかわる資源を引き継ぎつつ、それを「自営」に関連付けて発展させているケースであり、それが、在日韓国人の典型的な世代間上昇移動のモデルであると言っていいだろう。
 三は、たとえば工場労働者や道路工の子どもがサラリーマンや販売店員になるようなケースである。このパターンにおいて日本人よりも在日韓国人のほうが少ない理由は、近年まで日本企業が激しい民族差別をおこなっていたため、一般従業者としての就職の道が閉ざされていたことによるものと思われる。
 一方、下降移動で民族間に差があるのは、(四)親が「雇W」で子が「雇B」というパターンのみであり、これは在日韓国人の確率のほうが高い。具体例を挙げるなら、親が民団などの民族団体や商銀などの民族金融機関の職員で、子が工場労働者という事例があてはまる。このような下降移動が起こる原因としては、「雇W」の子がなんらかの理由(能力不足や就職差別など)によって雇Wに就けない場合、親が自営業でないため「自営」にともなう資源が利用できず、子は雇Bから地位達成を始めなければならなくなる、という仮説が考えられる。この検証作業は今後の課題だが、もし仮説通りであれば、在日韓国人の唯一の世代間上昇移動のプロセスは「自営」の資源継承にともなうものであり、それを外れた場合、たとえ父の職業的地位が高くとも、子の職業的地位は大きく転落する可能性が高いという皮肉な事態を意味することになる。
 前回は「在日韓国人と日本人の間で職業的な地位に差異がみられないのは、不平等がないからではなく、在日韓国人が不平等を克服しているからだ」ということを明らかにした。そこで今回、「自営」に注目しながらその克服プロセスの一端を紹介したわけだが、平等な社会に向かう可能性に満ち溢れたプロセスというより、僅かな可能性を最大限に生かさざるをえない非常に限定されたプロセスであるように思われる。こうした状態が次世代にまで引き継がれることのないよう、われわれ同胞一人一人が、引き続き職業選択の可能性を拡大する努力を求められていよう。
 さて、ここまでの連載では、過去から現在にいたる不平等構造(社会階層)について調査結果を報告してきた。だが、調査名(「在日韓国人の社会成層と社会意識全国調査」)を見ても分かる通り、本調査のテーマは社会階層だけではない。そこで最終回となる次回は、在日韓国人の?生き方?の問題にまで射程を広げて、いわば同胞社会の未来をうらなうための材料を提示したい。

※以下は1998年5月に『民団新聞』に連載した記事を再掲したものです。

 前回は在日韓国人の職業について二つの問題提起を行った。「なぜ一定の年齢以下では在日韓国人の職業的地位は低いのか?」「在日韓国人はどのようにして一定の年齢までに日本人と同等の職業的地位を達成しているのか?」である。そこで今回は、第二回「教育達成」と同じ手法を使ってこの問題を明らかにしていくことにしよう。
 表1は、生まれ育った家庭の社会階層や達成した教育程度が、在日韓国人がどれだけ"望ましい"初職に就けるかについてどのように影響を持つのか、年齢層別、民族別に示したものである。この表からは、三つの特徴を読み取ることができる。
 第一の特徴は、どの年齢層をみても、教育達成による効果は在日韓国人のほうが一貫して低いことである。簡単に言いなおすと、同じ階層の家庭に生まれ育ち、同じ学歴を達成したとしても、在日韓国人は日本人と同じほどには学歴のメリットを生かすことができておらず、その傾向は世代をへても基本的に変化していない、ということである。
 第二の特徴は、どの年齢層のR^2(親の社会階層や教育達成の説明力)をみても、在日韓国人より日本人の値のほうが高いことである。第三回で述べたように、日本人と在日韓国人では職業威信の平均値に有意な差はない。すると、在日韓国人が"より望ましい"初職に就業するには、日本人より親の社会階層や教育達成以外の手段を用いているということになる。
 第三の特徴としては、六〇歳代の在日韓国人では、出身階層による効果がまったくといってよいほど存在しないことである。世代間でこれほど完全な地位の断絶がみられるのは異例のことだが、このようなことが生じた理由は言うまでもなく、日本への移住や強制連行によって、出身階層にともなうさまざまな資源を利用することができなくなったためであろう。第三点目の特徴についてここではこれ以上触れないことにする。
 第一、第二の特徴を総合すると、在日韓国人は戦後一貫して、教育達成による職業的地位形成において民族的障壁に直面しつづけており、それを補うために、出身階層とそれ以外の何らかの手段をもちいて初職に就業してきた、ということになろう。では、?教育達成でも出身階層でもない、それ以外の手段とはなにか?ということが問題になる。
 そこで、つぎに、初職に就業するにあたってどのような手段が有効であったかにたいする回答をみてみよう。
 表2をみると、「家族・親類」「家族・親類の知り合い」「友人・知人」をあわせた、インフォーマルな人間関係によって就業情報をえたものが、有効回答者のほぼ七割近くにまでおよんでいる。
 また、「家族・親類」「家族・親類の知り合い」「友人・知人」のいずれかを回答した人に、その紹介者の民族をたずねたところ、八割以上が韓朝鮮人であるという回答をえた。これらの圧倒的な比率の高さをみれば、?教育達成でも出身階層でもない、それ以外の手段とはなにか?という問いを追究するうえで、もはやこれ以上の分析は必要あるまい。それはすなわち、同胞集団内のインフォーマルな互助的ネットワークにほかならない。在日韓国人は、教育達成による地位形成において民族的障壁に直面しつづけてきたため、それを補うために、出身階層にともなう資源と、民族集団内のインフォーマルな互助的ネットワークをもちいて、ようやく日本人と同等の地位を達成してきたのである。 前回述べたとおり、在日韓国人と日本人の職業的地位は、一般の通念とは異なり、じつはさほど大きな格差を生じていない。むしろ、両者の社会的地位がきわめて近似していることこそ、本調査において発見された事実であると言ってよい。しかしながら、その事実をふまえたうえで子細にデータを検討してみると、平均値レベルでは明らかにならなかったさまざまな潜在的不平等が浮き彫りになった。在日韓国人と日本人の間で職業的な地位に差異がみられなかったのは、不平等がないからではなく、在日韓国人がその不平等を克服しているからなのである。民族による理不尽な不平等構造を糾弾するよりも(むろんそれが重要であることは論をまたない)、むしろさまざまな障壁を乗り越えて、結果として日本人と同等かそれ以上の社会的地位を達成してきた在日韓国人の努力と工夫に満ちた職業生活史こそ特筆されるべきであろう。
 さて、次回は「自営」かどうかという観点を導入しながら、前回の二番目の問題提起(「自営」からその他の従業形態に転出するさいに、民族的な障壁があるのか)に答えていく予定である。

※以下は1998年5月に『民団新聞』に連載した記事を再掲したものです。

 前回は在日韓国人の社会階層を論じる手始めとして?学歴?を取り上げた。しかし、近代社会においてもっとも重要な社会的地位とみなされているのは?職業?である。学歴が社会的地位の一つとして重視されるのは、それが職業的地位と密接に結びついているからに他ならない。在日韓国人の社会階層を解読するためには、第一に職業的地位に注目しなければならないのである。そこで、今回は「民族間の職業的不平等とは何か」について二つの問題提起を行う。
 一口に職業と言っても、社会的地位としてみたときその内実は多岐にわたる。そういった多様な材料を一つの職業的地位の尺度に統合して検討することもあるが、ここではその代わりに「職業威信」を用いておく。人々は、ある職業を他の職業よりも尊重し、価値あるものとみなす。職業そのものに貴賎はなくとも、人々の職業にたいする評価には序列がある。そこに、職業の格付けが生じる。すべての職業についてこの格付けを偏差値のかたちであらわしたものを、職業威信尺度という。
 さて、既出のSSM調査によると、日本人の職業威信の平均値は四七・三であり、在日韓国人を対象にした本調査の平均値は四八・〇である。わずかに本調査の平均値のほうが上回っているが、統計学的には誤差の範囲内におさまっている。すなわち、職業威信からみると、在日韓国人は日本人と同程度の地位達成をなしとげているということになる。従来、在日韓国人が日本人よりも不利な立場に置かれているということが自明のように語られてきた。しかしながら、日本の職業的地位の指標としてもっとも重要な職業威信において、不平等はみられないのである。
 このことを、年齢の変化をおって確認してみよう。図1は、初めて仕事に就いた年齢から調査時の年齢までの職業威信を算出し、各年齢ごとにその平均値をならべたものである。異なる年齢層を一つの図に押し込めてしまっているため、この図から精確なトレンドを導き出すことはできないが、「在日韓国人は、青少年期には日本人より不利な立場に置かれてきたが、一定の年齢に達するまでに何らかの手段によって日本人と同等の地位達成をなしとげている」というおおまかなストーリーが浮かび上がってこよう。
 なぜ一定の年齢以下では在日韓国人の職業的地位は低いのか? そして、在日韓国人はどのようにして一定の年齢までに日本人と同等の職業的地位を達成しているのか? これが第一の問題提起である。この問題の追究は次回に行うこととし、今回はもう一つ別の観点から職業的な地位の民族間における違いを指摘しておく。
 前述したとおり、職業的な地位の指標はなにも職業威信のみではない。代表的なものをあげれば、従業先の規模(会社の大きさ)、従業上の地位(経営者か一般従業者かなど)、仕事の内容(どれほど責任や知識を必要とする仕事か)などがある。表2はこれらを複合的に組み合わせた職業分類であり、それに実際のデータを当てはめたものが表3である。
 表3において特徴的なことは、(一)在日韓国人のなかで自営業従事者が半数を超えており、比率において日本人の二倍以上におよぶこと、(二)逆に一般企業に雇用されているホワイトカラーは日本人の約半数、比率にして一割強でしかないこと、(三)在日韓国人の農林漁業従事者は非常にまれであること、である。農業については別途論じる必要があるが、一、二を端的にまとめるならば、在日韓国人と日本人の職業的な地位の違いは「自営」の比率に還元される、ということである。
 とはいえ、これは拙稿を含めすでに先行の諸研究によって明らかにされていることであり、本調査で新たに発見された事実というわけではない。そもそも、多くの資源をもたなかった在日一世たちが、はげしい雇用差別を回避しながら経済生活を安定させるために、手ずから事業をおこし、自営業を中心とする在日韓朝鮮人経済をつくりあげてきたということは周知の歴史的事実である。民族的なマイノリティが雇用差別によって自営業に追いやられるということは、なにも在日韓朝鮮人にかぎらず、世界的に広くみられる事象でもある。問題は、「自営」の比率が高いことによって、在日韓国人が職業的地位を達成するうえでどのような影響があるのかということである。言い換えると、「自営」からその他の従業形態に転出するさいに、民族的な障壁があるのかどうか、ということだ。これが第二の問題提起である。
 次回はまず、第一の問題提起のほうから詳しく論じる予定である。

在日韓国人の教育達成

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※以下は1998年5月に『民団新聞』に連載した記事を再掲したものです。

 在日韓国人の教育達成については、よく二つの説を耳にする。一つの説は、貧困のために高等教育を受けたくても受けられなかった親の世代が、子どもにはそのような不満を抱かせたくないと思い、子どもに対して強い教育期待を抱くようになるというものである。もう一つの説は、高等教育を受けても一般企業への就職の道が閉ざされていた親の世代が、大学に行っても無駄だという考えを持つようになり、子どもに対する教育期待を失ってしまう(つまり?学歴よりも手に職をつけろ?ということになる)というものである。
 じつは、このどちらの説にも根本的なところで間違いがある。筆者がかつて明らかにしたところによると、戦後に注目すれば日本人と在日韓国人の教育達成に差はみられないのである。同じことは本調査でも確認できる。前回紹介したSSM調査(本連載においてSSM調査データはすべて男性に限定している)と比べてみると、本調査の平均教育年数が12・40年なのに対して、SSM調査は12・35年。わずかに本調査のほうが高い値を示してはいるものの、統計的には誤差の範囲内でしかない。前述の説は、いずれも民族差別の存在を重視するあまり視野が偏ってしまっているわけである。
 だがこれは、あくまでも在日韓国人全体の教育達成をみればという話である。教育年数の平均値に民族間の差異がみられないとしても、そのプロセス、すなわち教育機会に違いがあるということは十分に考えられる。一般に、教育を達成するうえで重要な役割を果たすことが知られているのは、成育家庭の階層性である。可処分所得に余裕があれば、子を進学塾に通わせることも可能だが、逆に所得に余裕が乏しければ、学校外教育に投資するどころか、学費さえ捻出することが困難となる。また、高階層に付随する文化的背景――たとえば、家庭内の会話で豊富な語彙が用いられたり、日頃から活字文化に親しむなど――に恵まれていれば、子の進学は比較的有利となる。
 表1は父教育、父職業を説明変数とした教育達成への重回帰分析の結果を民族ごとに示したものである。父教育が子の教育達成を規定する効果に注目すると、日本人の偏回帰係数が0・31であるのにたいして、在日韓国人は0・19と大きく下回っている。一方、父職業の係数ほうは在日韓国人が日本人を上回っているものの、その差はわずかなものでしかない。結果として父教育および父職業による説明力(R^2)は在日韓国人のほうが小さくなっている。これは、出身階層が子の教育達成を規定する力は、在日韓国人のほうが日本人より弱いということである。
 ところで、平均教育年数でみるかぎり、教育達成に民族間の差異はみられなかったことを思い出してもらいたい。すなわち、在日韓国人は日本人にくらべて、父教育や父職業といった出身階層による利点を活かしきれていないにもかかわらず、日本人と同等の教育を達成してきているわけである。
 どうしてこのようなことが起こるのかについては、表2を見ていただきたい。
 高校進学時の経済事情(β=0・37)や父教育(0・12)が一定の影響力を及ぼしていることから、出身階層は教育達成にたいしてもっとも重要な影響力を与えているということがわかる。だがそれと同時に、出身家庭の心理・主観的側面である親の進学期待も比較的大きな影響力(0・28)を示し、回答者の価値態度である教育達成意欲も一定の影響力(0・18)をおよぼしている。すなわち、出身階層がどうであろうと、成育家庭が教育達成を支持し、本人が教育達成に強い意欲をもっていれば、より高位の教育を受けることが可能だということである。
 前述したとおり、結果としての教育達成をみるかぎりは民族間に格差は存在しない。したがって、安易に民族間の不平等を前提とするような主張は、在日韓国人の教育を論じるにあたっていちじるしく妥当性を欠いており、厳に慎まなければならない。
 しかしながら、出身階層、民族、教育達成の関連を子細に検討していくと、明確に民族間の不平等が出現する。だが、在日韓国人はその不平等にたいして手をこまねいて座視してきたわけではない。各自の能力を生かし、また階層構造の梯子をのぼろうという意欲をもつことによって、同一出身階層の日本人よりもより高位の教育を達成していることが示されている。つまり、民族間の不平等を、能力と意欲によって突破しているのである。
 ?われわれ在日は不利なのだから、日本人と同じにしていては日本人と同等の地位は達成できない?――在日同胞のあいだで頻繁に聞かれる主張である。この主張の正しさが調査データからも確認されたと言える。

在日韓国人の調査研究

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※以下は1998年5月に『民団新聞』に連載した記事を再掲したものです。

 ある民族運動家から興味深い話を聞いたことがある。在日同胞の生涯賃金は日本人の半分にしかならない、というものだ。就職差別で賃労働から疎外され、いざ就職しても賃金差別を受ける。自営業をおこそうとすれば有利な店舗物件を貸してもらえず、企業経営においてもさまざまな不利益を被る。社会福祉においても差別されつづけてきたうえ、日本人に比べ不利な支出をせざるをえないことも多い。この圧倒的な不平等こそ民族差別だ、というわけである。
 もちろん、この?半分?という試算に根拠はない。また、民族差別を経済的不利益だけにわい小化してしまうことにも問題はある。しかし、かりに個々の場面の不平等や、差別によって被る不利益はささいなものであっても、すべての不平等を一つの尺度(この場合は生涯賃金)にまとめてみると大きな問題として浮かび上がってくる、という主張は重要だと思われる。
 社会学では、不平等を総合的に測定する尺度についていくつかの案を提示してきた。そのうち、質、量ともにもっとも研究が進んでいるのが、富・威信・権力・知識などの社会的資源の過多に注目する「社会的地位」である。なお、いわゆる「社会階層」とは、序列づけられた社会的地位のハイアラーキーのことである。
 社会階層については研究が進んでいると書いたが、残念ながら在日同胞の社会階層についての研究は非常に少ない。とりわけ、全国規模での調査研究は皆無に近い。その理由は、筆者の見るところ大きく分けて二つあり、一つは日本の社会科学研究者が伝統的に民族にかかわるテーマを忌避してきたこと、もう一つは調査をおこなうにも調査対象者名簿の入手が困難だったこと、である。
 前者の理由を端的に示す話がある。日本では一九五五年から「社会階層と社会移動に関する全国調査」(以後、SSM調査)と題する調査が十年間隔で継続されているが、これについてある研究者が昨年のアメリカ社会学会で語ったことである。「日本では民族的少数者についての調査がきわめて少ない。SSM調査の主幹にその理由を尋ねたところ、答えは『在日韓国・朝鮮人の人口は日本社会の1%未満であり、統計的に無視できる数値である』ということであった。」もちろん、満場の乾いた笑いを誘っていた。
 ともかく、在日同胞の社会階層については独自の調査がきわめて少ない。結果として、この分野の研究は、朴在一氏の先駆的な業績(『在日朝鮮人に関する綜合調査研究』新紀元社、一九五七年)に代表されるように、官庁統計などの二次データを用いて間接的に全体像をつかむという作業段階にとどまってきた。
 しかしながら、一九九三年に在日韓国青年会が筆者らと共同で実施した「在日韓国人青年意識調査」を皮切りに、戸別訪問では同胞の実状をとらえきれなくなっているとの認識をもつ民族団体が、積極的に調査に乗りだす気運が高まっているように思われる。筆者らが在日韓国青年商工人連合会を母体としておこなった「在日韓国人の社会成層と社会意識全国調査」(以下、本調査)もその一つである。
 本調査の母集団は「満二十歳以上で日本に定住している韓国籍の男性」。すなわち成人の在日韓国人男性である(以下、「在日韓国人」とはこの調査の母集団のことを指す)。在日本大韓民国民団が保有する韓国国民登録台帳から等間隔抽出法によって調査対象者を選出した。調査期間は一九九五年二月十八日から一九九六年十月三一日。戸別訪問面接法により実施され、一二八〇名の調査対象者から八九九の有効票(回収率70・2%)が回収された。
 本調査の第一のテーマは、まさしく在日韓国人の社会階層である。?在日同胞は現在の社会的地位を達成するうえでどのような不平等に見舞われてきたのか??不平等は拡大しているのか、縮小しているのか?――そういった疑問に答えるため、本調査には社会的地位を代表する広範なデータが収集されている。
 たとえば、職業については、はじめて職業に就いてから現在にいたるまで、事業の種類、仕事の内容、企業の規模、役職、転職の有無などといった子細な情報を切れ目なくたずねている。在日男性の職業史としてみても類例のない情報量だが、他に、就業の重要な条件となる出身家庭の背景や学歴、現在の経済状態を代表する収入や金融資産など、多くの項目が含まれる。
 次回より、本調査の分析結果について概要を紹介していくことにしよう。

 たぶんエイプリル・フール記事だと思いますが、ロイター日本語版のウェブで4月2日付けで流れてきたのがコレ↓

「スニーカーを年3足以上購入する人、リーダーの素質大=米調査」

......年間3足以上スニーカーを購入する人たちは、そうでない人たちと比べ、アイデアやビジョンといった現代のリーダーとしての資質を持っている率が61%高かった。このほか、積極的に自己主張する率が50%、より自発的である率は47%、それぞれ高かったという。

(ロイター「世界のこぼれ話」ニューヨーク 4月1日)→記事のウェブ魚拓

 この手のマヌケな調査結果に関する報道は普段からたくさんあるので、いちがいにエイプリル・フールだと断定できないところがクヤシイ。とりあえず気になるのは;

  • 「現代のリーダーとしての資質」の指標として、「アイデア」や「ビジョン」は妥当かどうか。
  • また、それらはどのようにして測定したか。
  • 「61%」などの数値が並んでいるが、合計は100%なのか?
  • 100%だとすると、「自己主張する率」などについて2群間で50%もの開きが出るのは非現実的。測定がおかしいか、加工がおかしいか、サンプルが信頼できないか、のいずれかである可能性がある。
  • たぶん、サンプルが極端に偏ってるか、少なすぎるんだろう。マーケティングっぽい調査なのでランダムサンプリングはしてないだろうし。「スニーカーを年3足以上購入する人」が5人とかだったりしても驚かないな。

 で、もしこれらのツッコミどころに合理的な回答が得られるとしたら、次に気になるのは;
  • もちろんスニーカーを買えば自己主張するようになるわけじゃない。かといって、自己主張をしたり、「リーダーの資質」がある人ほどスニーカーをたくさん買うわけでもない。おそらく、第三の要因が介在した擬似的な関連である。
  • だとしたら、第三の要因は何か。
  • 黒人社会なら階層性で説明できそうだけど、WASPはどうかなぁ...
と、けっこう楽しませてもらいました。

計量研究の紹介記事

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 22日付の共同通信配信記事にこういうのがありました。短いので全文引用させてもらいます。

緑茶たっぷり、胃がん撃退 緑茶たっぷり、胃がん撃退 喫煙者には効果なし

 緑茶の渋味成分であるポリフェノールの一種の血中濃度が高い女性は低い女性に比べ、胃がんになる危険性が約3分の1だとの疫学調査結果を、厚生労働省研究班(主任研究者・津金昌一郎国立がんセンター予防研究部長)が22日発表した。緑茶を習慣的に多く飲んでいると、血中濃度も上がるとみられる。

 男性も含めて喫煙との関係をみると、ポリフェノールの血中濃度が高い非喫煙者は胃がんの危険性が低いが、血中濃度が高い喫煙者は、危険性がやや上がる傾向も判明。

 研究班の井上真奈美国立がんセンター室長は「たばこと緑茶の組み合わせが悪いのではなく、緑茶をたくさん飲んでも、喫煙で効果が打ち消されてしまうためではないか」と分析している。

 せっかくの研究が、最後のコメントひとつで台無しになってしまっていますね。

 記事を読むとまるで厚生労働省がやった研究のようですが、厚労省のウェブサイトにはいっさい記載がありません。たぶん、この研究って厚労省の研究費補助金を受けた日本がんセンターの研究じゃないんでしょうかね。日本がんセンターのサイトには、それらしき研究系統を紹介するページがあります。「生活習慣改善によるがん予防法の開発と評価」

 「エビデンスの評価」をのぞいてみると、「緑茶と胃がん」の関連は「ない、もしくは弱い」という結果になっています(http://epi.ncc.go.jp/can_prev/summary/pdf/green_stomach.pdf)。まぁ、順当に考えると、緑茶を飲んでも胃がんのリスクはほとんど軽減されないということなんでしょう。

 ところが、そんな結果にメゲたりせず、手を変え、品を変えながらとことん追求するのが真の研究者というものです。記事によると、「緑茶の渋味成分であるポリフェノールの一種の血中濃度」と胃がんの危険性の間に何らかの関連が発見されたらしい。よくがんばりましたねー。

 ただ、緑茶と胃がんの直接的な関連がどうやらほとんどないという結果があるにもかかわらず、「緑茶を習慣的に多く飲んでいると、血中濃度も上がるとみられる」なんて誤読を導くのははなはだ不誠実です。この辺は、たぶん研究者がそれっぽく示唆したことを、記者さんがはっきりと書いちゃった、というところかもしれません。

 ともかく、うまい発見に気をよくしたんでしょうね。「ポリフェノールと喫煙との交互作用を調べてみよう」ということになった。

 すでに「胃がんと喫煙」の関連ははっきりと出ているので、緑茶のポリフェノールとの重層的な関係を調べたいというのは自然なことです。ひょっとしたら、喫煙のリスクを劇的に軽減したりする効果が見つかるかもしれない。

 ところがその結果!

 たしかに交互作用は見つかったものの、それは「ポリフェノールの血中濃度が高い喫煙者は、(胃がんの)危険性がやや上がる傾向」というものだった。

 しくみはまったく不明ながら、「タバコを吸わない人には胃がんのリスクを減らす可能性があるポリフェノールが、タバコを吸う人には胃がんのリスクを増やしてしまう可能性がある」というのです。

 これって大発見じゃないですか?

 疫学の範囲は超えてしまうけど、どうしてそんな不可解な現象が生じているのかを突き止めることができれば、さらに面白い研究になります。

 なのに!

研究班の井上真奈美国立がんセンター室長は「たばこと緑茶の組み合わせが悪いのではなく、緑茶をたくさん飲んでも、喫煙で効果が打ち消されてしまうためではないか」と分析している。
 そりゃないでしょう。そんな結論ありえないでしょう?

 この研究分野なら、使ったのは分散分析か三重クロス表でしょうか。「緑茶をたくさん飲んでも、喫煙で効果が打ち消されてしまう」というのは、分散分析風にいえば、「緑茶による負の主効果よりも喫煙による正の主効果のほうが大きい」ということです。交互作用とはまったく関係がありません。

 交互作用をいいあらわしているのは、まさに「たばこと緑茶の組み合わせが悪い」ということ。それ以外の解釈の可能性はないんじゃないかな。

 もし、井上真奈美さんが本当にこういうことを言ったり書いたりしたのだとすれば、それはすなわち、井上真奈美さんは自分が研究に使っている統計について、大学2年生レベルの基礎知識すらお持ちでないということになります。それとも、「緑茶は体にいいはずだ!」という仮説に目が曇って、自我包絡に陥ってしまっているか。あるいは、その両方かな。

 つまり、記事の最後のコメントは、ほとんど研究者としての資質を疑わせるような内容なのですね。

 もしぼくが井上真奈美さんで、そしてぼくがしゃべった内容を記者が誤解してあんな記事を書いてしまったとしたら、即、名誉毀損で訴えるところです。

 実際のところは、記者が悪いのか、井上真奈美さんが悪いのかはわかりませんが、専門家の論文を素人である記者が紹介するというのは、もともとムリがあるという気はしています。

子どものデータの信頼性

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 まったく、あきれたニュースです。

 「死んでも生き返る」と考えている中学生が2割もいる−−。兵庫県内の幼児から中学生まで約4200人を対象に死生観を聞いたアンケートでこんな結果が明らかになった。背景には、身近な人の死に触れる機会が減り、一方でゲームなどに仮想の死の情報があふれる現状があるとも考えられる、という。死が絶対的なものとの認識は小学生でいったん確立するが、中学時代にはそれがぶれる現象が起きているようだ。【井上大作】 →記事全文のウェブ魚拓

 記事によると、「生と死の教育研究会」が2003年に実施した4〜9歳の聞き取り調査と、翌2004年に6〜14歳を対象に実施したアンケート調査の分析結果を出版したそうな。問題なのは次のくだり。

「死んでも生き返ると思うか」と質問した04年のアンケートでは、小学5、6年生から「死んでも生き返る」という答えが目立ち始め、中学生では「生き返る」「たぶん生き返る」と答えた子どもが計2割に及んだ。現代の子どもにとって死の現実感が薄れるなか、「生まれ変わり」などの宗教的イメージも重なり、生と死の境界をあいまいに考える傾向があるようだ。

 「生と死の教育研究会」がそう分析したのか、井上記者がそう勘違いしたのかわかりませんが、これほど噴飯物の記事にはなかなかお目にかかれません。読後、しばらく大笑いさせていただきました。

 これは、順当に考えれば、小学校の高学年くらいから大人を茶化して遊ぶような態度が育ちはじめるため、「死んでも生き返ると思うか」というばかげた質問に対して、ふざけて回答をする子どもが多くなってしまう、ということでしょう。

 子どもを対象とした調査では、こういう形でサンプルが信頼できなくなってしまうことがよくあります。ふざけた回答をする子どもは、一問だけでなく他の設問でも茶化した回答をする傾向にありますので、回答全体を精査して、信頼できるかどうかを判断します。そして、明らかにふざけた回答を含むと考えられる場合は、有効回答から除外する必要があります。

 そういう操作を加えることによってデータの信頼性は低下しますが、もともとそういう回答のゆがみを生じさせてしまった時点で、端的にいって、調査に失敗しているわけですね。

 子どもを対象とする調査というのは、いろいろな面で難しいところがあります。

バイクに乗る理由

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 ニューヨークでのあるパーティでのこと。自動車学校で「キミは乗らないほうがいい」といわれて免許をあきらめた経歴がある大学院生が、こういいました。

 「しかたがないから、バイクにでも乗ろうかな、それだったら私でも乗れるだろうし。」

 「え、でもバイクはあぶないよ。」

と僕が答えるのを聞いて、周囲の人たちから質問されました。

 「どうして危ないとわかっていてバイクに乗るんですか?」

 これまでにも何度となく聞かれてきたのと同じ質問です。またか、と思うぐらい、よくある質問です。なのに、毎度毎度、ぼくは答えにつまってしまいます。

 いちばん正直に答えるとすれば「好きだからとしかいいようがない」ということになります。もっとハッキリいえば、「そんな質問をしてくる時点で、キミには説明したってわからないよ」といってあげたい。

 バイクを移動の手段としてみると、なるほど、生身なので危ないし、エアコンはないから快適でもないし、非合理的に思えるかもしれない。でも、バイクはたんなる手段ではなく、それ自体を楽しむ目的でもあるわけです。バイクのコンサマトリーな楽しみを知らない人には、「どうしてバイクに乗るのか」を説明するのは難しい。

 「どうしてあの人と付き合ってるの?」のような問いと同じで、分かる人にはわかるけど、分からない人にはいくら説明したってなかなか分からないわけです。

 でも、なにせ研究者のパーティーですから、そんな感覚的でそっけない回答に、みんなは納得できません。だから、かわりにバイクのどういう部分が好きなのかを無理やり言説にして、それっぽく説明をさせられることになります。

 「自然を感じられるところがいいんだ。谷に入るとすーっと空気が変わったりするの。そういうのは車じゃわからない。そのかわり夏冬は地獄だし、キャンプ場を出るとき雨降ってたりすると、なんでこんな旅してるんだろうってウツが入ることもあるけど、その後、パーっと晴れて気持ちよく飛ばせたりすると、それだけで生気がみなぎってくる気がする」

 「車体との一体感がよくてね。まるで馬に乗っているみたいに"あやつっている"という実感がある。といっても馬に乗ったことはないんだけどw」

 「日常の足に使っていても、バイクってすぐにでも旅にでかけられるようなイメージがあるでしょう。ぼくは旅人にあこがれがあるみたいでね。」

 「サーキットって気持ちいいんですよね。景色も路面もきれいだし。歩行者や飛び出しを気にしなくていいし、白バイもいないし。ただ前だけ見て好きなように走っていればいいというのは何ともいえない快感なんですよ」

 いずれも、僕がバイクを好きな理由の一部ではあるけれども、じゃあ、それ(ら)が理由でバイクに乗っているかというと、そうとはいえないのですね。つまり、上記の理由がなければバイクに乗らないかというと、やっぱり乗るような気がするわけです。さらに言い換えると、上記の理由では表現しつくせない"なにか"が他にもたくさん残っているわけです。

 「僕がバイクに乗る理由」というきわめて主観的なテーマを説明するために、本一冊分くらいのスペースをくれれば、より正確なことを伝えて納得してもらう方法はあると思います。でも、パーティでの「どうしてバイクに乗るの」という素朴な疑問に正確に答える方法は、ぼくにはありません。だから、結局、それっぽい理由を捏造して、話にオチをつけることになってしまうわけです。

 "自分にとっては説明するまでもない自明のことだけれども、いざ他人に説明しようとするとうまい言葉がみつからない"ようななにかを伝えようとすると、どうしても、相手がすでに理解できる枠組みをもっている代替的なストーリーを作話することになってしまいますね。

タミフル調査

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 先月末に、タミフル調査の寄付金が話題になりました。これは厚生労働省にいろいろと問題が大きいですね。

研究班の06年度調査は、(...中略...)インフルエンザ患者約1万人を対象に、年齢幅を0〜18歳まで広げ、異常言動とタミフル服用との前後関係などを確認する。(...中略...)しかし、厚労省から支給される研究費が400万円しかないため、(...中略...)製薬企業からの寄付で補うことなどを確認した。(...中略...)中外製薬が寄付した6000万円のうち、627万円を研究班の資金に流用。調査票の印刷・発送経費の不足分に充てた。(毎日新聞より)
 第一に、1万人の調査をやろうというのに400万円でやれるわけがない。この時点ですでに企画立案能力に問題がある。

 調査の内容や手法にもよりますが、ボクらが学術的な調査を企画する場合、1サンプルあたり2万円の予算を確保するところからスタートします。1万人どころか、千人の調査でも2千万円の予算規模です。

 サンプル数1万なら、調査の内容や手法を調整して思いっきり節約しても、最低限の必要経費だけで1千万円を下回ることはありえません。それを、400万円とは!

 第二に、製薬会社との癒着ぶりがひどすぎる。

 400万円で調査をやれるはずがないことは、説明すれば子どもでも分かる話です。上で「企画立案能力に問題がある」と書きましたが、厚労省の担当者に分からなかったはずがない。

 経緯は今のところ不透明ですが、もともと、製薬会社からの寄付金を流用することが織り込み済みだったのではないかと思われます。

 薬の副作用の調査に、もともと製薬会社からの寄付金を使うつもりだったとしたら、常識はずれもいいところ。分析者がどれだけまじめにやっても、結果がゆがんでいるのではないかとの疑いをどうしても呼んでしまう。

 医療も医療行政も、高度な「専門化支配」のために外部からの監視の目が行き届かない。本質的に薬害などが発生しやすい環境にあります。だからこそ、意識的にコンプライアンスを高める制度的な工夫が必要なはずなのに、そのような問題意識は一切なかったようです。

 第三に、研究者に手を汚させようという姿勢がいやらしい。

 報道によると、研究班が自前で寄付金から予算を確保できるよう奔走したらしい。つまり、厚労省は、問題のある資金流用について、自分の手を汚さず研究者たちを誘導したということでしょう。

 第四に、研究者に罪をかぶせて切り捨てる姿勢が汚い

 研究者には同業者や外部から監視を受ける仕組みがありますので、スポンサーにある程度配慮した記述にすることはあっても、データを捏造したり、ウソをついたりすることはできません。それは、研究者生命を確実に危険にさらすことになるハイリスクな行為であり、はした金でやれることではありません。

 今回メンバーからはずされた研究者たちは、私服を肥やして分析結果を捻じ曲げるような人物であったようには思われません。そもそも、寄付金の受け入れについても、きちんと手続きを整えた上で、本当に必要な経費を流用しているわけですから、それも問題だとはいえない。むしろ、乏しい予算をやりくりして、懸命に結果を出そうと努力したようにしか見えない。

 それを、マスコミからヒステリックな糾弾を受けたら、あたかも研究者側に問題があったかのごとくただメンバーからはずすというのは、当の研究者にとってはあまりにも不名誉なこと。いったい、誰が名誉を回復するというのでしょうか。

 第五に、意図していなかったように装う姿勢が汚い。

会見した厚労省医薬食品局の中澤一隆総務課長は「(中外製薬の寄付を流用した点について)問題があり、対応が十分でなかった。(流用を結果的に黙認したことは)十分な認識が足りなかった」と謝罪した。(同上)
 「バレたときに非難される」という認識が足りなかったということであって、「中立的で正確な調査を実現するために問題がある」という認識が足りなかったわけではないのでしょう。

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