差別・人権の全ブログ記事

 以下は、ある社会学辞典のために執筆した原稿です。日本では「アイデンティティ・ポリティクス」という言葉がどうにも理解されにくいので、まずは辞書的な記述を紹介しておきます。専門用語がだいぶ混ざっているので読みにくいと思いますが、そのうち日常用語を使ってわかりやすく解説したいと思います。

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【概念の背景】

 人種、宗教、ジェンダー、性的指向など、何らかの差異を共有するとみなされる集団(アイデンティティ集団)ごとに社会的資源が偏って分配されていることは少なくない。そうした偏りは自由と平等を基調とする近代市民社会の理念に反するため、しばしば是正の要求を喚起することになるが、その要求のあり方は二つの運動様式に大別される。すなわち、普遍的な市民としての平等な分配を勝ち取るための運動と、個々の集団としての要求に見合った公平な分配を勝ち取るための運動である。両者はそれぞれ争点が異なるため、論理的には必ずしも矛盾しないが、現実には激しく衝突することが多い。

 近代主義的な社会計画を人々が信奉し、画一的な社会理念が堅固に共有されていた時代においては前者が主たる運動様式であったが、1960年代半ば以降、そうした理念が疑問視されるようになるとともに、後者の運動様式が注目されるようになった。後者の運動様式を総称する概念はいろいろと提案されてきたが、1990年代以降はアイデンティティ・ポリティクスという熟語の使用例が増えている。

【概念の内容】

 アイデンティティ・ポリティクスとは、アイデンティティ集団を単位としてさまざまな社会的資源の獲得を目指そうとする運動である。多くの場合、当該社会で歴史的に周辺化されてきたマイノリティによる自己決定権や差異の承認要求としてたち現れる。アイデンティティ・ポリティクスの獲得目標を「差異への権利」と表現したり、その運動様式のことを「承認の闘争」と呼ぶこともある。日本語の中にはそのままでアイデンティティ・ポリティクスに該当する熟語は存在しないが、「当事者主権」「当事者運動」などで指示される対象はアイデンティティ・ポリティクスに含まれる。

 アイデンティティ・ポリティクスには、顕著な特徴として、以下の3点が広範に観察される。(1)市民的平等の追求のように普遍的な「市民」や「国民」に同化するのではなく、アイデンティティ集団の異なった扱いに関する承認を求めること、(2)多様な社会的資源のうち、物的資源の公正な再分配を追求するだけでなく、文化的資源と関係的資源の剥奪をも異議申し立ての対象に含むこと、とりわけアイデンティティ集団に付与される否定的な威信を撤回させること、(3)特定の差異に基づくアイデンティティを共有するメンバーを手段的にも情緒的にも動員しやすいため、相対的に運動を生起させやすいこと、である。

 加えて、アイデンティティ・ポリティクスへの反作用として、以下の3点が指摘される。(4)市民的・国民的な統合を求める保守的な立場からは、個々のアイデンティティ集団がばらばらに要求を突きつけているように見えるため、《わがまま》な権利要求だという反発を招きやすいこと、(5)共通の労働者の権利を求める革新的な立場からは、アイデンティティ集団が階級闘争を分断しているように見えるため、階級闘争に対する《裏切り》だという批判の対象となりやすいこと、(6)差異を共有するとみなされる集団が特定のカテゴリーによって表象されると、その集団内部における差異が結果として不可視化される弊害があるため、とりわけ多重マイノリティからは《過剰な代弁》であるとの告発が寄せられること、である。

【概念の適用事例】

 カナダのケベックなどにみられる地域的マイノリティの独立運動は、文化的差異の承認とアイデンティティ集団による自己決定を求める典型的なアイデンティティ・ポリティクスである。ポスト・コロニアリズムの文脈における帝国主義批判も、支配的な価値意識の転換と自己決定を求める告発であり、アイデンティティ・ポリティクスの範疇といえる。ただし、独立運動や脱植民地主義のように領土管理の独立性が争点になるだけでなく、エスニック集団のアイデンティティ・ポリティクスは、居住国に対して文化的独自性を尊重する多文化主義を要求する形で表出することが少なくない。

 障害者解放運動におけるアイデンティティ・ポリティクスでは、障害者を特別な保護と医療専門職による治療の必要な弱者とみなすパターナリスティックな「個人モデル(医療モデル)」を脱却し、社会に設けられた障壁によって障害者の自己決定が阻まれているとみなす「社会モデル(生活モデル)」によって不利益を克服することが目標とされる。

 アイデンティティ・ポリティクスは、今日のマイノリティ解放運動において議題設定の大前提とも言える位置を獲得しているが、グローバル化にともなう社会秩序の解体が「マジョリティとは誰か」という認識を流動化させるようになると、極右団体による移民排斥運動のように当該社会のマジョリティが担い手となることもある。例えば日本において、2000年代以降、「日本は在日コリアンの支配を受けているため、日本人としての主権を取り戻すべきだ」といったデマを主張するカルト団体が一定の支持を得たり、雑誌や新聞が東アジアの隣国を中傷してナショナリズムを煽り立てる記事を集合的に書きたてたりするのは、一種のアイデンティティ・ポリティクスだと考えることができる。


 今回も、引き続き、「連鎖」を題材にレイシャル・ハラスメントについて考えていきます。告発を受けたAさんも上司も、それぞれのふるまいがレイシャル・ハラスメントに相当するということに気づかなかったのはなぜかという問題です。

(3)差異の不承認(アイデンティティ政治の否認)の場合

 じつは、「日本人と同じに扱う」ことがレイシャル・ハラスメントになりうる場合があります。正確にいうと、「出自にともなう文化的背景を尊重してほしいというマイノリティからの要求を拒否し、他の日本人と同じ基準で振舞うように強要した場合」です。なぜなら、それは民族的な自己決定権を侵害したことになるためです。同化の強要は、それ自体が「敵対的環境」になりうるのですね。

 例えば、宗教的アイデンティティをあらわすものとしてスカーフをかぶっているムスリムに対して、他の日本人と同様に髪を出しなさい(出さなければ配置換えをする)と強要するような事例はわかりやすいと思います。

 あるいは、在日コリアンの職員に対して、日本名の使用を指示する(従わなければ配置換えをする)というのもこれにあたります。これは、「朝鮮人であることをことさら誇示されると迷惑だ」という差別的なメッセージになりますので、やはりわかりやすいと思います。

 一方、「連鎖」の事例はかなりわかりにくい。Aさんが発した「きみはクマさんみたい」という発言それ自体はレイシャルなものではないという解釈も成り立ちますし、べつにアイヌの民族文化を否定したわけでもありません。

 しかし、毛深いという身体的特徴からクマに侮蔑的に喩えられてきた人種的差別の文脈を考えると、話は変わってきます。つまり、「クマ」は、文脈によっては十分に人種的差別になりうるのですね。そして、人種的差別に対抗し、プライドを守るための運動は、民族的な自己決定権の一部を構成します。

 Aさんには差別的意図はなかったかもしれません。しかし、Bさんは人種的プライドを守るための発言を何度も強硬に否定され、その訴えを何度も無視され、そんな主張をする輩は迷惑だといわんばかりに配置換えにあいました。Bさんにとっては、民族的な自己決定権とプライドの双方を否定された形になってしまったわけです。

 上司は、「クマ」なんて一般的なあだ名にだってなりうるわけで、その程度のことで騒ぎを大きくする職員は扱いづらいとでも思ったかもしれません。言い換えると、人種的差別の文脈を無視して、一般の日本人職員と同じに扱おうとしたのかもしれません。

 しかし、「同じ」に扱うということが、かならずしも正しいとはかぎらないのです。

 前回に引き続き、「連鎖」を題材にレイシャル・ハラスメントについて考えていきます。告発を受けたAさんも上司も、それぞれのふるまいがレイシャル・ハラスメントに相当するということに気づかなかったのはなぜかという問題です。

(2)二次加害の場合

 「連鎖」のケースでは、(1)→(2)の時点では、まだBさんは「レイシャル・ハラスメント」だとは認識していない可能性が高いです。そもそも、「きみはクマさんみたい」という発言そのものは「レイシャル」ですらありません。

 このケースがレイシャル・ハラスメントとなりうるのは(3)の時点からです。つまり、「差別的表現としても用いられているので、やめてもらえませんか」というやわらかい告発を強く拒絶したことによって、はじめてレイシャル・ハラスメントとしての要件を満たしたわけです。

 しかし、この時点でハラスメントの要件が確定したとはいえ、Bさんにとっては、この時点ですでに、被害体験と被害感情を否定されるという二次被害を受けた状態です。AさんとBさんの事実認識は、一段階ずれています。

 この「ずれ」、すなわち「ひとつ」の発言が「二次」加害を構成しうるという構図が、「連鎖」のケースでレイシャル・ハラスメントをわかりにくくしている原因の一つです。

 次に、上司の対応を見てみましょう。(6)の段階で、上司がBさんの訴えを「なかったこと」として扱ってしまいました。理由はわかりません。Aさんの訴えに共感したか、あるいはたんに面倒だと思ったか。

 いずれにせよ、重要なことは、ここでも、上司は訴えを放置するという「ひとつ」の行為を選択しただけですが、Bさんにとってはそれがすでに「二次」被害になってしまっているということです。そして、上司は、自分の選択がすでに加害性を持っているということに気付かず、人事異動でBさんの配置を変えるという判断をしたことで、ハラスメントの要件を確定させてしまいました。

 被害を訴えるというのは、とてもしんどい行為です。訴えるためには被害を追体験しなければなりません。傷を見せるというのは自分の弱さをさらけ出すことでもあるので、それ自体に痛みを伴います。また、誰って、好き好んで揉めごとなど起こしたくありません。面倒くさいやつだと思われる危険性だって犯したくありません。

 それでも訴えるというのは、すでに何重にも被害が蓄積していて、やむにやまれず必死の叫びを上げるようなもの。それを拒絶されたときのショックは、一次被害に勝るとも劣らない苦痛を被害者に与えます。

 にもかかわらず、加害者にとってはただ一度の言動にすぎなかったりするわけで、その「ずれ」がハラスメントをわかりにくくしてしまいます。

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 まだ他にも、告発を受けたAさんや上司が、それぞれのふるまいがレイシャル・ハラスメントに相当するということに気づかなかった理由が残っています。次回に続きます。

 なお、今回のテーマについては、こちらのまとめも参考に。

【告発を無力化する話法】 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/169946 



 2008年の記事で、レイシャル・ハラスメントが連鎖的に進行する事例について紹介したことがあります(「連鎖」)。この事例では、告発を受けたAさんも上司も、それぞれのふるまいがレイシャル・ハラスメントに相当するということに気づきません。それはいったい、なぜでしょうか。

(1)悪意をともなわない場合

 Aさんが告発の意味を理解できなかった最大の理由は、差別心から発言したわけではないものを差別だと指摘されたためです。

 しかし、「偏見と差別の関係」でも解説したように、差別がいつも「被差別者を傷つけてやろうという明確な悪意」から生じるとはかぎりません。

 例えば、統計的差別の場合はいっさいの悪意がなくとも差別は生じますし、三者関係の差別の場合は見下しの感情が自覚されることはまれです。また、薄く広く蔓延している偏見にもとづいて差別発言をしてしまう場合、みんなが同じような偏見を共有していていわば「常識」のようになっていますので、自分が偏見を持っていると気づくことはとても難しくなります。悪質なヘイトスピーチのようなものを除けば、むしろ悪意をともなわずに無自覚的に行われる差別のほうが多いかもしれません。

 したがって、行為者側に「明確な悪意」があったかどうかは、こと差別についてはあまり意味がないのです。重要なことは、(1)歴史的、恒常的に差別が成立している何らかの属性に関わる言動があり、(2)その言動によって、受け手の側が不愉快に思ったり傷ついたりしたかどうか、の2点です。

 セクシュアル・ハラスメントについては、長年にわたる議論を経て、やっと、受けての側の感情が重要だと理解されるようになっているように思います。

 例えば、職場にヌードポスターが張ってある場合、かりにその意図が「男子職員の一体感を高め、就労意欲を鼓舞するため」であったとしても、職場に性的なものを掲示されるだけで不快感を覚えたり、自分が性的な視線でまなざされる脅威を感じ取ったりする職員がいれば、環境型のセクシュアル・ハラスメントとなります。

 レイシャル・ハラスメントについても同じことが言えます。告発を受けた言動があるとき、行為者に悪意があったかどうかは重要ではありません。その行為の受け手の側の感情こそが重要なのです。

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 ところで、「連鎖」の事例で、告発を受けたAさんも上司も、それぞれのふるまいがレイシャル・ハラスメントに相当するということに気づかなかった理由が他にもいくつかあります。次回以降に解説していきますので、皆さんも考えてみてください。

 セクシュアル・ハラスメントという言葉が日本に輸入されたのは、周知のように1980年代末の裁判闘争を通じてのことであった。その後、1999年4月には改正「男女雇用機会均等法」の施行によってセクシュアル・ハラスメントの防止が事業主に義務づけられた。また、同年3月には「文部省におけるセクシュアル・ハラスメントの防止等に関する規程の制定について」が出されたことを踏まえ、各大学においてセクシュアル・ハラスメントの防止等にむけた積極的な取り組みが進めらるようになった。

 そうした経緯もあって、セクシュアル・ハラスメントといえば法律用語であると解釈している人も少なくないようである。

 しかし、セクシュアル・ハラスメントという言葉は、職場や学校の中だけでなく、一般社会での不当な性的言動を意味することもある。例えば、特に組織に所属していない友人間であっても、恋愛経験を執ように尋ねたり、私生活に関する噂などを意図的に流したりすれば、「セクハラだ」として告発の対象になりえる。あるいは、ツイッターで女性のユーザーに対して執ように性的なからかいの言葉をぶつけたり、ヌードの画像を送りつけたりすれば、多くの人が「セクハラだ」と認識するだろう。

 ようするに、セクシュアル・ハラスメントは、法的な概念として用いられるだけでなく、性的に尊厳を傷つけられる不正義を総合的に指し示す社会学的な概念としても広く用いられているということだ。

 しかし、残念ながら、レイシャル・ハラスメントについては、日本ではそれを明示的に禁じる国内法がまだ整備されていないため、法的な概念か社会学的な概念かという区分を論じる以前の段階にとどまっている。セクシュアル・ハラスメントのように、不正義を告発する社会学的なツールとしての役割を果たすようになるまでには、まだまだ相当に長い年月がかかりそうな気配である。

 次回からは、「レイシャル・ハラスメントだ」との訴えが聞き届けられず、逆に非難の対象となった事例を紹介していく。

 厚生労働省の指針ではセクシュアル・ハラスメントを次の二つのタイプに分けています。

  1. 対価型セクシュアル・ハラスメント
    職務上の地位を利用して性的な関係を強要し、それを拒否した人に対し減給、降格などの不利益を負わせる行為。

  2. 環境型セクシュアル・ハラスメント
    性的な関係は要求しないものの、職場内での性的な言動により働く人たちを不快にさせ、職場環境を損なう行為。
 ここで注意が必要なことは、「対価型」(別名「地位利用型」)は職場での地位に格差があることがセクハラの構成要件とされているのに対して、「環境型」のほうは地位に格差がなくともセクハラになりうるということです。例えば、同じ平社員同士であっても、あるいは部下から上司に対してであっても、環境型セクハラは成立します。

 例えば、法務省のパンフレットでは、以下の様な事例が「環境型ハラスメント」の典型として挙げられています。●性的な話題をしばしば口にする、●恋愛経験を執ように尋ねる、●宴会で男性に裸踊りを強要する、●特に用事もないのに執ようにメールを送る、●私生活に関する噂などを意図的に流すなど。いずれも、職場での地位とは無関係になされうることがわかると思います。

 レイシャル・ハラスメントについても同じことが当てはまります。こちらの記事で、米国の司法ではレイシャル・ハラスメントを認定する上で「敵対的環境」の有無が焦点になりやすいと書きましたが、それは、レイシャル・ハラスメントの多くが「環境型ハラスメント」として起こるためです。そして、環境型ハラスメントである以上、地位に格差がなくともハラスメントは生じます。同じ学生同士であっても、あるいは学生から教員に対してであっても、レイシャル・ハラスメントは成立します。

 最近の事例だと、以下の様なものがありました。

  • 某大学の授業で、在日コリアン教員がシラバスに即して朝鮮学校のことを扱ったところ、後日、学生に嘆願書への署名を強要させたという虚偽の情報がインターネット上に出回った。それを右派議員がキャッチし、文部科学省に照会、さらに文科省がその大学にヒアリングし、当該大学は「学生に誤解を与えた」とする声明をウェブページに出した。某新聞がそれを記事化し、さらに騒ぎは拡大した。

  • 某大学の授業で日本軍「慰安婦」問題に関するドキュメンタリーを上映した在日コリアンの教員について、受講生が「内容が一方的」と某新聞に投書し、それを同紙が記事化した。インターネット上でバッシングが盛り上がり、大学に数百件の電話が寄せられた。
 これらは学内で完結せずに、学生・大学当局、文科省、政治家、マスメディアという多様なプレイヤーが関わって被害が拡大した事例です。

 筆者自身も学生からレイシャル・ハラスメントを受けたことがあります。嫌韓的な右翼思想に染まった学生がゼミに配属されてきたときのことです。学力不振により第5志望での配属でした。望まないゼミに配属された学生もかわいそうではありますが、その学生はわたしが「反日」「左翼」の思想を押し付けるものだと勘違いをし、ゼミに出席すらせず保護者を巻き込んで差別的な文書を各方面に送付したりしたのでした。

 その時に私がどのような感情を体験したか、すでにツイッターに投稿したことがありますので、まとめを紹介します。

「教え子からヘイトスピーチをくらったとき、教員がどういう気分になるか」 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/670039 @togetter_jpさんから

 学生からハラスメントを受けると、教育者として教え導く役割と、差別の被害を受けたマイノリティとしての役割とに引き裂かれることになるため、同僚からハラスメントを受ける場合以上にしんどい体験となりえます。

 立場の弱い学生が教員からハラスメントを受ける場合も深刻な被害を生じますが、また別の意味で、教員が学生からハラスメントを受けた場合も被害は軽微では済まないということです。

 おそらく、セクシュアル・ハラスメントを防止するための規程のない大学は日本には残っていないはずである。1999年に文部省(当時)から出された通知などを踏まえて、各大学とも規程を整備したためである。

 それからおよそ15年、ハラスメント概念はつねに深化を続けてきた(例えば弁護士ヘルプ「ハラスメントの種類26」)。もはやセクシュアル・ハラスメントを禁じるだけでは時代に合わないということで、自主的に規程を拡張している大学も少なくはない。しかし、ことレイシャル・ハラスメントについては明確に禁止を謳っている大学はまだまだ多くはないようである。その間、グローバル化の掛け声の中で留学生は倍増し、外国籍教員も増加していることを考えると、対応はいちじるしく立ち遅れているといわざるをえない。

 現実の被害はすでに少なからず生じている。関西の大学教員を中心に、大学でのレイシャル・ハラスメントの被害について情報収集をしているが、以下にその一部を紹介しよう。

  • A大学の教員aは、授業中、授業テーマと関係もないのに「韓国」「中国」の悪口を語気荒く連発。在日コリアンの学生がその教員aの研究室に訪れたところ、引き留められ相談内容と全く関係もない韓国についての議論をふっかけられる。当該学生はおびえ、持病を再発。

  • B大学の中国人・韓国人留学生が受講している授業で、担当教員bは毎回、シラバスを逸脱して中国や韓国の悪口を延々としゃべる。ある韓国人留学生に教科書を朗読させた際に、「君はどこから来たの?」と質問。留学生が「韓国です」と答えると、約100人の学生がいる場で公然と「韓国は大統領が反日だから、日本を留学先になんか選ばないんじゃないの」と言った。韓国人留学生は精神的苦痛で一時、不登校となった。

  • C大学の授業の場で、教員cが在日コリアンの学生を指名して、在日についての意見を求めた。翌週の授業で、その日のコメントペーパーがいくつか読み上げられたが、そのなかに「日本にずっと住みながら、文句を言う権利はない、帰れ」との内容があり、しかも担当教員cはそれついて一切コメントもなかった。その問題について授業後に教員cに指摘したが開き直った調子であったため、在日コリアン学生はショックを受け、その後、動機や頭痛でキャンパスを歩けなくなったりもした。

 いずれのケースでも、被害を申し立てている学生は、深刻な精神的、肉体的な苦痛、学習意欲の低下などを体験している。しかし、ハラスメント相談室に訴えても「教授には高度な裁量があるので授業内容には立ち入れない」と門前払いを受けたり、規程の不備を理由にハラスメント事案としての扱いを拒否されたりといったケースが目立つようだ。

 政府は2008年度に「留学生30万人計画」を掲げ、積極的な留学生獲得施策を展開しているが、こうした状況を放置したまま数字だけを弄んでも、教育の質を向上させることは困難であろう。

レイシャル・ハラスメントとは

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 レイシャル・ハラスメントという言葉がある。米国ではセクシュアル・ハラスメントと並んで、就業環境を害する言動としてしばしば損害賠償命令が出されている。具体的には、深刻な人種的差別が発生してもそれが放置された場合、あるいは人種差別的な状況が長期的かつ職場環境全体に蔓延している場合に、不法性が問われている。

 米国の裁判所が被害を認定しやすいのは後者のケース、つまり環境型ハラスメントだ。例えば、特定の人種や民族をからかうジョークが日常的に話されているとか、ある国出身の労働者がいるときその国を誹謗するようなポスターがずっと掲示されているようなケースは、「敵対的環境」を放置したとしてレイシャル・ハラスメントだと認定されやすい。職場のいじめに人種的な侮蔑を用いてしまえば、それも環境型のレイシャル・ハラスメントだ。

 ヘイトスピーチの横行する昨今の状況を見ていると、遠からず日本でもこうした事例が法に問われるようなケースがあらわれるだろう。その際、人種差別撤廃条約の規定により、損害賠償額が加算されることも考えられる。企業の組織防衛のためには、セクシュアル・ハラスメントよりも危険な存在だといえる。

 経営者諸氏およびガバナンス・コンプライアンス担当者は、諸外国の事例を参考に早期に対処を進めておくべきだろう。

 高校無償化・就学支援金制度から、朝鮮学校だけが排除されてきたことは周知の通りです(朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A を参照)。文科省は「慎重に審査している」という名目で3年間に渡って朝鮮学校からの申請を放置してきたわけです。

 これに対して、朝鮮学校側は日本政府の差別対応が解消することを辛抱強く待っていたわけですが、安倍首相が不支給を決定したことで事態は大きく展開しています。

 ひとつには、朝鮮学校側から法的な訴えがなされています。今月24日、大阪朝鮮学園は日本国に対し制度の適用を義務付けるよう求める訴訟を大阪地裁に起こしました。同日、愛知朝鮮中高級学校の生徒、卒業生らも、損害賠償の支払いなどを求め名古屋地裁に提訴しました(次のリンク参照)。


 もう一つは、従来の高校無償化法では、朝鮮学校だけを除外することにどうしても違法性の疑いが拭い去れないため、文科省は省令改正のための意見公募を始めました(次のリンク参照)。


 これに応じて、いくつかのブログがパブリックコメントの内容を紹介しています。


 これらに倣って、遅ればせながら当ブログでもパブリックコメントの内容を公開したいと思います。パブリックコメントは本日締切です。

 就学支援金に関しては、長期間に渡って朝鮮高級学校からの申請を放置し続けてきたこと自体、行政手続き上の問題が小さくない(問題Aとする)。加えて、朝鮮学校のみを外形的基準以外の要素で特別に放置し続けてきたことについては、日本国憲法第26条1項、同第14条、国際人権規約A規約第13条、人種差別撤廃条約、子どもの権利条約28条、29条1項、30条等などに抵触する可能性の高い人権侵害であることが指摘されている(問題Bとする)。

 問題Aについて、文科省は政権交代前の時点では、(1)審査は年度ごとに実施している、(2)報道された内容を慎重に審査している、というロジックで不法性を逃れようとしていたようだが、実際には北朝鮮への外交的な措置として停止されてきたことは周知の事実であり、欺瞞は明らかである。

 問題Bについては、文科省は上記2点の理由により、「基本的に運用の問題であり、時間がかかっているだけである」と説明していたそうだが、下村博文文科相は在日本朝鮮人総連合会と密接な関係にあることや北朝鮮による拉致問題の進展がないことを適用しない理由として挙げており、文科省の説明はすでに破たんしている。

 したがって、残っている問題は、(a)在日本朝鮮人総連合会と密接な関係にあることや北朝鮮による拉致問題の進展がないことを理由に、朝鮮高級学校からの申請を放置し続けてきたことが妥当かどうか、(b)これらの理由で、朝鮮高級学校のみを就学支援金の対象から除外することが妥当かどうか、(c)aおよびbに十分な説明がないまま、省令を改正して事後的に朝鮮高級学校を排除することが妥当かどうか、(d)朝鮮学校を(名目上、合法的に)排除するために、ホライゾンジャパンインターナショナルスクールとコリア国際学園まで巻き添えにすることが妥当かどうか、の4点である。

 aおよびbは外交と教育になんら関係がない以上、妥当性に欠けることは自明である。朝鮮高級学校に通う生徒たちが北朝鮮による日本人拉致事件に関与したという事実がない以上、そのことによって生徒たちが不利益を被るのは理不尽である。

 したがって、cについても、今後もし十分に説得的な理由が開示されないまま省令が改正されれば妥当性はないということになる。

 dは、(朝鮮学校を排除するために各種学校全体を排除してきた)伝統的な文科行政に近いともいえるが、すでに朝鮮学校を狙い撃ちにした手続きであることを下村博文文科相が明言している以上、「国民の理解」が得られるとは到底思われない。

 以上の理由から、朝鮮高級学校を就学支援金制度から事実上排除するための省令の改正案は不適切であり、適法に朝鮮高級学校の申請を受理し、就学支援金を速やかに支給することが妥当だと考えます。

日本における排外主義

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 昨日、「マイノリティが標的とされる現在」というシンポジウムで話をする機会を得ました。

 好意的な評価もありましたが、「わかりにくい」「むずかしい」という指摘もいただきました。統計的な分析に基づく議論をうまく伝えられなかったということだけでなく、資料を配布せずにスライドを投影しただけだったことも、理解の妨げになったかもしれません。

 そこで、ご来場いただけなかった方に情報提供をする意味も兼ねまして、報告用スライドをこちらに掲載いたします。当日は時間制限のため、このうちいくつかのスライドを省略しましたが、これがフルバージョンです。

 前回の記事では、移民の中には、自ら「モデルマイノリティ」と呼ばれたがる人たちがいることを取り上げました。

 その理由として、「マジョリティの価値観を習得すればマジョリティに仲間入りできる」と考えてしまう場合のことを紹介しましたが、それですべて説明できたわけではありません。

 というのも、自らある種の「モデルマイノリティ」になろうとする生き方を選択するマイノリティは、移民一世だけではありません。四世、五世が生まれつつある在日コリアンの中でもよく見かけますし、むしろマイノリティ一般に広くみられる行動様式だからです。

(3)「意識の高いマイノリティ問題」(業績主義と公正世界への信念)

 人を評価するとき、年齢、性、人種・民族、家柄等の個人の能力や努力によって変えられない生得的要素を重視する立場を「属性主義」といいます。逆に、個人の努力と能力、およびその結果である業績といった獲得的要素を重視する立場を「業績主義」といいます。

 マイノリティとは、属性主義によってライフチャンスを相対的に剥奪されている人々のことだ、という考え方があります。つまり、人と同じ業績を達成したとしても、その属性によって評価を制限され、相対的に低い地位にしかつけない人々を指してマイノリティというのだ、というわけです。

 じじつ、マイノリティの中には、本人にはどうしようもない属性よる不利に直面し、それを克服するために、一倍の努力で社会的地位を達成しようとする人が少なくありません。属性主義による不利益を業績主義によってカバーしようとする生存戦略ですね。

 マイノリティが持ち前の能力をいかしながら、人一倍の努力で逆境を克服して行く姿は、それ自体が感銘を呼び起こすものであるため、数多くの物語を生み出してきました。王貞治やジダンを例に出すまでもなく、努力と能力で不利益を克服したマイノリティを皆さんも何人か知っていることだと思います。マイノリティが業績主義への強い志向性をもつことは、ある意味で《美しい》と評価されうる現象だともいえます。

 ただし、問題があるのは、その業績主義という理想を信奉しすぎて、属性主義に基づく差別を「ない」ことにしてしまうような場合があることです。あるいは、差別があることは認めつつも、個人の努力によってつねに克服可能なものであるとみなすことで、差別の責任を被差別者の側に負わせる場合があることです。

 例えば、ジョージ・ブッシュ大統領のもとで国務長官などを務めたコンドリーザ・ライスは、「実力さえあれば特別な優遇措置は必要ない」というスタンスで積極的な差別撤廃策に反対しています。また、ニューズウィーク誌のインタビューに答えて次のように語ったこともあります。

「人の2倍努力しなければならないなんて、ヒドイとか間違っているとかいう人もいるけど、それは違う。単に、人の2倍努力しなければならないだけ。」

 じつにマッチョですね。小さなころから天才少女ともてはやされるだけの素養を生かして政権中枢にまで上り詰めた実績に裏付けられているだけに、相当に堅固な信念のようです。

 フィフィさんのツイートの中にも、同種のマッチョな要素がみられます。自分は努力によって苦労をはねのけて今の地位を築いた。通名を名乗って出自を隠している在日コリアンあたりは甘えるな、というご主張です。

「私は12年間日本の教育制度で学んだから留学生としてでは無く、日本の学生と同額を払って大学に通った。それでも容姿が外国人だから就活では外国人受け付けてませんと門前払いも何度か。それでも実力の無さと受け取って留学して再度就職に挑んだ。都合よく外国人と日本人使い分ける連中とは苦労が違う」

「恩恵を受けているなら、文句を言うな。文句を言いながらおねだりすれば、それは"たかり"と言われても当然。プライドがあるなら自らを偽るな。」

 埼玉大学の福岡安則さんは、このような生き方を「個人志向」タイプと名付けて次のように特徴を整理しています。(福岡安則『在日韓国・朝鮮人』[中公新書:96-97頁])

 このタイプの中心課題は、個人主義的な意味合いで「自己の確立」を達成することであり、「個人的成功」の追求のかたちをとることが多い具体的には、社会的「移動」によって、差別的評価から自由になることをめざす。...(中略)
 彼ら/彼女らの典型的な生活史をみるとき、特徴的なのは、自己自身の能力に一定の自信をもって育ってきたということである。それゆえ、日本社会に在日韓国・朝鮮人として生きることでの違和感や葛藤を体験しても、それが自我にとってのトラウマになることからは免れている。

 ようするに、自分の才覚に自信のあるマイノリティは、「努力すれば報われる」と信じることで、民族的な劣等感を免れる場合があるということですね。才能があると自覚しているマイノリティにとって、魅力的な生き方の一つではあるでしょう。《才能のない人々》を切り捨てているという自覚をもたないかぎりは。

 「努力すれば報われる」に代表される、世界は正しく動いているはずだという考え方を「公正世界信念」といいます。公正世界信念は、「差別は差別される側に(も)責任がある」のような「犠牲者非難」を生じやすいことが知られています(詳細は下記の記事を参照)。


 民族的な劣等感を免れたいがために、「努力すれば報われる」という公正な世界を信じ込み、その信念を脅かす無実の犠牲者を「ないもの」とみなしたり、「差別される側に責任がある」と考えてしまったりする。それは、じつに悲しい不正義だといえないでしょうか。

 ぼくとしては、移民や民族的マイノリティが、そもそも民族的劣等感などもたずに、ただまっとうに生きていける社会が到来することを願うばかりです。

 第1回の記事では、保守的な移民一世がその社会にすでに定着しているマイノリティに対して排外主義的な暴言を投げかける現象を紹介しました。

 しかし、保守的な人物であっても、かならずしも排外主義的な暴言を発するとはかぎりません。各種の社会調査によると、政治的に保守的であることと、異文化集団に排外主義的な態度を持つことの間には、小さくない相関関係はあります。しかし、両者をイコールで結べるほど高い関連ではないのです。

 わかりやすい例を出すと、排外主義的な保守系政治家はめずらしくありませんが、逆に、外国籍住民への差別解消に尽力している保守系の政治家も少なくはありませんね。保守と排外主義は、基本的に別の次元の問題なのです。欧州では、反排外主義こそが保守本流とみなされることも少なくありません。

 だとすれば、「保守主義的な移民一世が社会に情報を発信する資源を手にしたとき」に「すでに定着しているマイノリティに対して排外主義的な暴言を投げかける」という命題は、前半と後半をつなぐ論理に欠落があることになります。

 ということで、今回は、なぜ保守的な移民一世が排外主義的になる傾向があるのかについて、欠落した論理をつなぐ仮説(の一部)を紹介していきます。

(2)「《モデルマイノリティ》問題」(「《名誉〇〇人》問題」)

 米国に「モデルマイノリティ」という言葉があります。マイノリティというと、社会的地位が低く犯罪率も高いというイメージがありますが、「中には努力して社会的に成功している賞賛すべきマイノリティだっているじゃないか」と、日系などのアジア系移民を賞賛して名づけられた言葉です。

 単純に理解すれば、アジア系としては褒められて悪い気がしないと思われるかもしれません。しかし、「モデルマイノリティ」という言葉は、本質的に、「理想的でない厄介者のマイノリティ」の存在を前提としています。

 つまり、「マイノリティとして不利な地位にあっても、ちゃんと頑張って社会的に成功している民族集団もいるじゃないか。それに対して、黒人、先住民、メキシコ系は...」という差別的な主張を正当化するために、「モデルマイノリティ」という言葉は使われることが多いのです。

 差別を都合よく正当化するために利用されるわけですから、「モデルマイノリティ」などと呼ばれてうれしいはずがありません。また、アジア系が一定の社会的地位を達成しなければ、「モデルマイノリティのくせに努力しなかった」と非難されるネジレ現象すら起こったりしますので、当事者としてはけっしてありがたい呼称ではないのです。

 にもかかわらず、移民の中には、自ら「モデルマイノリティ」と呼ばれたがる人たちもいます。(a)自らの努力と能力によって一定の社会的地位を達成したと思っている移民一世、(b)マジョリティの価値観を習得すればマジョリティに仲間入りできると考えている保守的なマイノリティ、にその傾向が強いようです。

 このうち、(a)については次回以降で取り上げることにします。ここでは、(b)の代表事例だと思われるフィフィさんのツイートを紹介しましょう。

「お世話になってるなら、せめてその家のルールにそって仲良く暮らしましょうよ。ってこと。文句が多いと追い出されちゃうよ。で、それはあくまであなたのお家で私が居候したさいも同じように扱ってくれますか?って前提。郷に入りては郷に従い」(2012年11月15日)

「私なりに外国人が日本とどう接することで上手く共生出来るか考察してツイしてるの。その度に誤解をされ批判も受けますが、一番不思議なのは、日本に嫌悪感を持つ外国人がその意見に理解を求めてくる事。日本を愛せない外国人を日本人も歓迎する訳ないじゃない。」(2012年3月16日)

 これらは、自ら「モデルマイノリティ」を志向する人々の代表的な言説であるように思われます。自分たちは「居候」であり、がんばって日本人に歓迎されるべく日本を愛さなければならない。マジョリティの価値観を忖度し、それに適合的に生きなければならないというロジックなのですから。

 いや、そういう考え方自体はべつに責められるべきものではありません。むしろ、ただでさえ摩擦の生じやすい異文化関係なのですから、お互いに譲れるべきところは譲りながら、誤解を避ける努力をするべきでしょう。それが誰も傷つけないかぎりにおいては。

 しかしながら、この二つのツイートは、いずれも、誤った情報に基づいて朝鮮学校に対して攻撃的なツイートをしているときに投じられたものであることに注意が必要です(前回の記事を参照)。間違った情報をもとに責められれば、誰しも反論したくなるもの。それを、「日本に嫌悪感を持つ外国人」などと決めつけていますね。

 みずから「モデルマイノリティ」を買って出ようとする者は、「モデルマイノリティ」という概念が内包している差別性をも内面化してしまいます。それが事実であればまだしも、偏見に満ちた架空の「ダメなマイノリティ」を創りだしてしまう場合すらあります。


 自分が「そのような外国人」とは違う「モデルマイノリティ」だと思われたいとき、かりに「そのような外国人」の物語がデマでしかなかったとしても、それを真に受けて批判するという現象が起こるわけです。

 以上が、「保守主義的な移民一世が社会に情報を発信する資源を手にしたとき」に「すでに定着しているマイノリティに対して排外主義的な暴言を投げかける」という命題を解き明かすロジックの一つです。

 ところで、みなさんは、自分がいい子になりたいために先住のマイノリティを攻撃する保守的な移民一世をけしからんと思いましたか。それとも、移民はいい子にならないと生きていけないと思い込ませてしまった社会がけしからんと思いますか。ぼくはどちらかというと後者ですね。

 本題に入る前に、素材となるフィフィさんのツイートを整理しておきましょう。というのも、フィフィさんは関連のツイートをほとんど削除してしまっていますので、簡単にはアクセスできない状況になっているためです。

 本稿では、favstar.fmに載ったツイート、すなわち、リツイートされたりお気に入りに入れられたりしたことによって、《たとえ削除されたとしても公共性が生じたツイート》を題材として扱っていきます。

 出発点となったのは、「田中眞紀子大臣、次は朝鮮学校無償化に意欲」というニュース記事でした。


 「ってことは、インターナショナルもインディアンスクールも中華系の学校も無償化されないと納得いかないんじゃ?てか、日本の私立学校は学費払ってるよね?」「ウチの子はインターナショナルスクールじゃないけど、日本で外国語学校に通ってたけど、毎月学費は納めてたよ?」という持論を述べたものです。

 しかし、これはフィフィさんの完全な勘違い。事実は、「条件を満たした他の外国人学校などはすべて就学支援金が支給されている一方で、朝鮮学校だけが『慎重に審査している』という名目で長期間にわたって除外され続けている」という状況です。それを、朝鮮学校だけが学費を払わなくてすむようになるのだと思い込んでいるわけですね。(「朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A」参照)

 これに対して、朝鮮学校関係者や良心的マジョリティから反論が加えられますが、フィフィさんはカンチガイを修正しないまま、すべて撫で斬りにします。いくつかをピックアップします。


 また、「朝鮮学校だけが日本政府から補助を受けてないのは日本の教育基本法6条・学校教育法1条に定める「法律に定める学校」には該当しないからなんです」という考えを述べてもいます。


 いわゆる「一条校」ではないから補助の対象になっていないのだというのですが、これもフィフィさんの事実誤認。実際は、各種学校の外国人学校なども「高校無償化」の対象となっており、したがってフィフィさんのお子さんも、通っておられる外国人学校を通じて就学支援金を受けているはずです。(「朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A」参照)

 ここで興味深いのは、どうしてこれほど明瞭なカンチガイを7か月ものあいだ修正することなく繰り返すことができるのかということです。これはおそらく、すでに事実認識の問題ではなく、信念の披瀝だと思われます。それがどのような種類の信念のか、次回以降の連載で考えていきたいと思います。

 本連載の観点では、次のツイートも興味深いです。「私が在日外国人の制度について問題提起するたび、いつも"在日"という表現で誤解されるけど、在日外国人って私も含めてるし、一部の外国人が対象ではないんだけどな。在日外国人として日本政府の外国人に対する制度に意見することがそんな特別なことか?」

http://favstar.fm/users/FIFI_Egypt/status/267596885106233345

 朝鮮学校だけを狙い撃ちにした差別政策が議論になっている以上、そこで「在日」といえば当然のごとく在日コリアンを指すことになるわけですが、フィフィさんには「朝鮮学校だけを狙い撃ちにした差別政策」だという理解がない様子です。居住国の歴史的文脈に対する配慮がないという意味で、きわめて保守的移民一世らしいツイートです。

 次に、人権擁護救済法案に言及したツイート。「人権擁護救済法案をメディアが取り上げて議論しない事に不自然さを感じる。」


 フィフィさんは常々、日本の国際報道、とりわけ中東に関する報道は量も少なく内容も偏向していると指摘しています。その指摘は客観的事実に基づいており、検証可能です。しかし、このツイートはそれとは異なる「陰謀論」ですね。ネオナチやネット右翼が得意とするアレです。

 フィフィさんといえば、ご自身がタレントとしてメディアの舞台裏を知っているうえ、国際報道のバイアスにも造詣が深いわけで、人一倍メディアリテラシーに優れた人物であると思われます。にもかかわらず、このように安易な「陰謀論」を口にしてしまうのはなぜか。それも今後、検証していきましょう。

 ネオナチといえば、昨日フィフィさんは次のようなツイートをしたそうです。速攻で削除したとのことですが、どうやら「ホロコーストは自作自演」だと思っておいでのようです。反ユダヤ感情は隠しようもないですね。

中東に限らず、世界的に見てそう捉える方も多いですね。RT @seiichi000: @FIFI_Egypt すみません、私は、ホロコーストはユダヤ人による自作自演の作り話だと思ってるんですが、エジプトや中東では、どうとらえられてるんですか?

 関連のツイートとしてこちらも。わかりにくいですが、反ユダヤ感情の発露です。


 次のツイートも重要です。移民や民族的マイノリティはどう生きるべきかに言及したものです。「お世話になってるなら、せめてその家のルールにそって仲良く暮らしましょうよ。ってこと。文句が多いと追い出されちゃうよ。」


 これは、世界中の自発的移民一世のあいだで頻繁に語られる内容だといっていいでしょう。ところが、フィフィさんはそれが二世以降にも同じ次元で通用すると思いこんでいる。このあたりの世代対立、新旧の移民対立は、移民社会を理解するうえでの代表的なテーマです。

 最後に、猛烈に被害者アピールをしたツイート群を。ようするに、在日コリアンが水面下でフィフィ暗殺をもくろんでいる、と示唆しているわけです。日本で生まれ育った身としてはほとんど妄想に近い「陰謀論」であるように感じられます。


 ただ、自分から攻撃的に先住の民族的マイノリティを非難しておいて、いざ反論を受けたら強烈に被害者アピールをするというのは、おそらく、移民という不利な立場にあって言いたいことを言うためにフィフィさんが身に付けた生存戦略の一つなのかもしれません。苦悩がしのばれます。
 日本で議論される「移民論」というと、受け入れ態勢の改善に触れないままの安易な受け入れ論であったり、一人でも受け入れると社会秩序が崩壊するといわんばかりの閉鎖論であったり、どうにもリアリティに欠ける極論が少なくありません。おそらく、《移民》に対する具体的なイメージが乏しく、渡日後にどのようなことが発生するかについての理解を伴っていないことが理由の一つなのでしょう。

 そこで、実際に日本で暮らしている移民のリアルな語りから、移民社会の現実(の一端)を学んでみたいというのが今回からの記事の目的です。題材としては、いまネットで話題(次の3本のニュース参照)の移民タレント、フィフィさんのツイートをお借りしたいと思います。


(1)「移民一世vs.先住マイノリティ問題」

 上に紹介した記事を読んで、「エジプト関係であれだけ知的でバランスのとれた言論を展開していたフィフィが、なぜネット右翼同然の排外主義的な暴言を振りまいているのか」と不思議に思われた方もいらっしゃるかもしれません。

 しかし、移民がその社会にすでに定着しているマイノリティに対して排外主義的な暴言を投げかけるケースは、世界の移民社会の中でかなり広範に観察されています。新旧の移民が連続しているとき、普遍的に起こる現象といえるかもしれません。

 例えば、カナダにやってきたアジア系移民が、「欧州語だけがなぜ特権のように重視されるのか。多文化主義なんかで飯は食えない。まず、機会の平等の確保と人種差別の撤廃だ」といって先住の民族的マイノリティを攻撃する事例。アメリカで小売店を経営する移民一世が「黒人は怠けて働かないくせに政府に文句ばかりいって、国庫にたかっている」などといって黒人を差別する事例。日本に東欧から来た女性が、「日本人女性は甘えている。日本は世界で最も平等な国なのに」とフェミニストを非難する事例。

 この種の現象は、(a)人権状況が相対的に劣悪な国からやってきた移民一世が、出身国を準拠集団としながら、居住国のマイノリティを批判しようとするとき、(b)移民一世の学歴が低く、居住国の歴史と文化を理解する資質を備えていないとき、(c)保守主義的な移民一世が社会に情報を発信する資源を手にしたとき、に生じる傾向があるようです。

 ただし、多くの移民現象は(a)と(b)の2特性を伴いますので、実質的には(c)が重要です。「保守主義的な移民一世が社会に情報を発信する資源を手にしたとき」――フィフィさんのケースは、まさにこれに当たるといえるのではないでしょうか。

 フィフィさんは、持ち前のバイタリティと努力で女性タレントとしてマスメディアで発言するチャンネルを手に入れ、しかもエジプト問題では知的タレントという側面を開花させました。政治的発言を行うための資源は十分にそろっています。

 そして現在、フィフィさんは排外主義言説でネット右翼のアイドル的な役割を担うことに成功しています。タレントとしては言論も売り物である以上、買ってくれる人たちに届くように商品化することになりますので、フィフィさんのマイノリティに対する暴言は今後もエスカレートすることはあっても、やむことはないでしょう。

 そこで問われてくるのは、マジョリティの姿勢です。

 例えば、カナダでは、「多文化主義なんかより人種差別撤廃を」というアジア系の主張に対して、民族的マイノリティはもとより、マジョリティであるイギリス系からも強い批判が浴びせられました。

 いわく、ケベック問題などがあったからこそカナダは多文化主義政策を採りいれたわけであり、新たな移民も言語政策などでその恩恵に浴している。なのに、歴史へのコストも支払っていない移民が多文化主義を非難するのは制度へのタダ乗りのようなものだ、というわけです。

 もっとも、一部のイギリス系の右翼からは、アジア系の主張を利用する形で、「民族的マイノリティを重視するのは逆差別だ」という言説が出てきたりもしました。ちょうど、フィフィさんの発言を利用して、ネット右翼がコリアン差別を正当化しようとする構図に似ています。

 しかし、カナダ全体としては、多文化主義の方針を一貫して堅持しています。堂々たるものといっていいでしょう。

 一方の日本。今後、フィフィさんのように発言力を持つ保守的移民が増えてきたとき、その口から飛び出す排外主義的言説に、みなさんは、どう対処しますか。それをきちんと批判しますか。それとも、便乗して排外主義の流れに乗りますか。

(次回からは、フィフィさんの個々のツイートの内容をもう少し具体的に取り上げながら、移民社会に関する現実を学んでいきます。)

 ある言動が「反社会的」だからという理由で非難されることはめずらしくありません。刑法に触れるような行動はもちろん、カルトなどはたとえ違法な行為を行っていなくとも「反社会的」な存在だとして批判されることがあります。ツイートの内容が倫理的に逸脱しているということで「反社会的」だと抗議される場合もあります。

 でも、「反社会的」とはどういうことを指すのか?

 言動の性質自体から「反社会的」であるかどうかを確定するための客観的な定義は、この世に存在しません。概念的には定義できないわけではないのですが、あまりにもあいまいで流動的な要素を含んでいるため、操作的には定義できないのです。

 例えば『新明解国語辞典』(三省堂)にはこう書かれています。

はんしゃかいてき(ハンシャクワイテキ)【反社会的】
その社会の法秩序にあえて反抗したり道徳上の社会通念を故意に無視したりする言動をとることによって、社会の他の成員にまで好ましくない影響を与える様子。

 しかし、ここでいう「法秩序」や「道徳上の社会通念」というのは、社会によっても、時代によっても変化します。しかも、人によっても判断が分かれますので、いつでもどこでも誰にでも通用する「これが反社会的な言動だ」という基準は、存在しないわけです。

 社会によって基準が違うというのは、例えば、東京都知事が「中国人はDNAレベルで残虐」というコラムを新聞に書いた件ですが、ヨーロッパであれば即、政治生命が終わるほどの大きな問題発言です。国によっては確実に刑法に問われるたぐいのものでしたが、日本ではごく小規模な抗議があっただけでした。

 また、時代によって基準が変化するというのは、例えば、2003年時点でディクシー・チックスが「テキサスから大統領がでたことを恥ずかしく思う」とイラク侵攻を批判したことは、当時のアメリカ社会においてきわめて「反社会的な発言」だったため、様々な迫害にあい、微妙な謝罪に追い込まれました。しかし、2006年時点にはすでに「勇気ある発言」が賞賛されるようになっており、2007年にはグラミー賞の関連部門を制覇しました。これは、音楽活動だけでなく、政治的な活動を評価されてのことだというのが一般的な解釈です。

 ただし、定義できないといっても、もちろん、「反社会的」な言動がこの世に存在しないという意味ではありません。

 社会には規範というものがあります。それに反する言動に対しては何らかの負のサンクション(制裁、罰)が作用します。破った規範の性質によっては、嫌味をいわれるといった軽いサンクションを受けるだけのこともあります。それに対して、重大なタブーに触れたりすれば、極刑を受けたり村八分にあったりという非常に重いサンクションが及ぶこともあります。そういう重い負のサンクションの対象となるような言動に対して、一般に「反社会的」というレッテルが貼られます。

 つまり、「反社会的」かどうかを決めるのは、問題とされた言動の性質ではありません。その言動をめぐる社会の価値判断(規範)が「反社会的」かどうかを決めるのです。「反社会的な言動」というものが客観的に存在するわけではなく、社会の構成員の大勢が「反社会的な言動」だとみなせば、それが「反社会的な言動」になってしまうということです。

 だからこそ、何らかの出来事に対して、ネットで世論を醸成する運動にも意味がある。社会の構成員の大勢を納得させられれば、負のサンクションを発動できるわけですから。Joi Ito氏がいうEmergent Democracyは、こういう運動の理想的側面に注目した概念ですね(伊藤譲一「創発民主制」)。

 ただ、1990年代以降、日本において実際にネットの《運動》が奏功したケースを見ると、そのほとんどは「創発民主制」というより『排除型社会』を象徴するものばかりでした。包摂より排除が、許容より不寛容が、多様性より画一性が、日本のネットを支配してきた。言い換えると、マイノリティへのヘイトスピーチを放置するという不正義はまかり通っているのに、ちょっとした発言の言葉尻をとらえてネットイナゴが殺到する、いびつなイジメ空間であった、ということかもしれません。

 ネットイナゴの成功体験ばかりが蓄積されるというのは、まあ、言論にとって望ましい姿ではないでしょうね。

 2ちゃんねる全盛期とは異なり、近年は日本におけるインターネットの言論空間にもいろいろと明るい兆しが見えてはいますが、悪貨が良貨を駆逐してきた歴史を振り返ると、それに期待することは難しそうです。

 集団内の誰かをこき下ろすことで、集団内に一体感が高まることがあります。「黒い羊効果」や「他者化」と呼ばれる現象です。

 こき下ろされる「誰か」がランダムに決まるのであれば問題はすくないといえますが、実際には、決まった属性や特性をもつ人が恒常的に排除される立場に選ばれることが多いものです。いわゆる、社会的弱者やマイノリティとされる人々ですね。社会学では、それを「他者」と呼びます。「他者」とは、「われわれとは異なる存在」であることを示す排除の記号です。

 ユダヤ人、黒人、女性、難民、異端者、共産主義者、障がい者、同性愛者、等々、さまざまな属性や特性が恣意的に「黒い羊」に選ばれ、「他者」として排除されてきました。その人たちを差別したいから(だけ)ではなく、むしろ《その人たちとは違う私たち》の一体感を高めるために。

 この原理を政治手法に昇華させたものがいわゆるファシズムです。ファシズムは、「他者」を意識的に排除することによるカタルシスで熱狂的に社会統合を高める特徴を持っています。

 ただし、ナチス・ドイツによるユダヤ人等への虐殺を代表として、ファシズムは凄惨な人権侵害を必然的に発生させるということで、大戦後の社会がその抑制に尽力してきたことは周知の通りです。例えば、「他者」に対する憎悪の煽動を法で禁じている国は少なくありませんし、個人に対してオールマイティの権力を行使しうる立場の公人がぜったいに選択してはならない禁じ手だというのが国際社会の通念です。

 しかし、日本には、公人の中にもこの原則の重要性を理解していない愚か者がいますね。片山さつき氏は間違いなくそのお一人だといえるでしょう。以下は、昨日、片山氏がツイッターに投稿したツイート。

従軍慰安婦への見舞金は、必要ありません!海外で韓国が日本人学校の教育内容(当然竹島を日本領土としている)を提訴したとの報道ありますが、徹底抗議抗戦すべきです。訪米した閣僚は何してるの?反日、チェジュ思想を教える朝鮮学校の無償化検討などするから、舐められる!怒りと反対の輪広げよう! (@katayama_s 2011/09/25 12:40:15)
https://twitter.com/katayama_s/status/117805586627833856

 ここに登場する「チェジュ思想」とは、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の思想体系である「チュチェ思想」(主体思想)の誤りであることは明白です。カタカナにすれば似ているようですが、単なるタイプミスではありません。日本において「チェジュ」といえば韓国の名勝地である済州島以外を指すことはありえず、わずかなりともこの分野の知識があれば、まず、両者を間違うことはないからです。

 言い換えると、片山氏は、隣国の思想体系についてわずかな知識すら持ち合わせていなかったにもかかわらず、上に引用した攻撃的なツイートを書いたということになります。誹謗中傷というほかありません。まあ、片山氏にとっては、「チュチェ思想」だろうが「チェジュ思想」だろうが、どうでもいいのでしょう。《わけのわからない「反日」のマインドコントロール源》だという偏見を流布したかっただけなのでしょうから。

 しかし、そのために、朝鮮学校を無償化の対象とすべきでないと主張しているのは、悪質な政治手法です。愚劣な政治家による見下げ果てた煽動ですね。公人によるヘイトスピーチは、刑法によって禁じられている国が少なくはないということをあらためて指摘しておきたいと思います。

 片山氏のヘイトスピーチを受けて、在日コリアンがどう反応したかというと、まずはこちらのまとめをご覧ください。軽妙にユーモアで受け流していることが理解されるでしょう。

「チェジュ思想とは何か」http://togetter.com/li/192465

 憎悪の煽動は、「他者」の人権を犯にさらす罪であるというだけでなく、社会統合に深刻な打撃を与えることで国家秩序を掻き乱す罪でもあります。はたして、この日本社会の利益、この日本の民主主義を真摯に考えているのは、片山さつき氏なのか、それとも在日コリアンなのか。ぼくには、少なくとも前者ではないという確信がありますね。

1. リスク社会における「他者」

 東日本大震災は、日本に暮らすあらゆる人々に、様々な課題を突きつけたことだろう。複数の国家の狭間に生きる在日コリアンとしては、惨事に昂揚したナショナリズムの中で、「自分はどこに所属し、誰を守るべきか」という、実存的な問題に改めて直面することになった人も多いのではないだろうか。だが、アイデンティティの問題はひとまず措いて、ここでは、「リスク」をキーワードに、在日コリアン(およびそれを取り巻く日本社会)が直面している新しい課題について考えてみたい。

 「リスク」といえば、1986年のチェルノブイリ事故以降、現代社会を解読するキーワードとして、世界でもっとも注目を集めてきた言葉の一つである。

 例えば、社会学分野におけるリスク社会論の第一人者ウルリッヒ・ベックは、現代の産業社会は「階級社会」ではなく「リスク社会」であると主張している。階級社会において分配問題の争点を作り出していたのは「平等という理想」であった。それに対して、リスク社会では「安全性」こそが社会の基礎となり、社会を動かしている。言い換えると、「不平等」をめぐって連帯と闘争が繰り広げられた階級社会とは異なり、原発事故に代表される現代の新しいリスクの前では、「不安」をめぐって連帯とコミュニケーションが行われるというのである。

 なるほど、宮城県の東北朝鮮初中級学校では、総連系の有志によって運ばれてきた在日コリアンからの救援物資を避難中の日本人被災者と分けあい、さらに近隣の日本学校で焼き肉の炊き出しも何度か行われた。貧富の差や、国籍と民族の垣根を超えて、ともに被災の苦境と「不安」とを乗り越えようという実践だといえよう。

 だが、この「不安による連帯」は、必ずしも在日コリアンにとって幸運に作用するとはかぎらない。というのは、ひとは危険に曝されても、合理的なリスク意識を形成するとはかぎらず、むしろ不安にかられて非合理的な推論に逃げようとすることがあるからだ。ベックの表現を借りると、「危険が理解しがたいもので、その脅威の中で頼るものもないため、危険が増大すると、過激で狂信的な反応や政治思潮が広がる。こうした反応や政治動向によって、世間のなんでもない普通の人々を『避雷針』にして、直接に処理することが不可能な眼に見えない危険を処理することが行われてしまう。」

 ただし、「普通の人々」は、危険の存在を暴き立てるような行動(例えば原子力発電反対デモに参加するとか)をとることで一時的に「避雷針」として敵意の対象となるだけだが、行動とは無関係に属性によって恒常的に「避雷針」の役割を押し付けられる人々がいる。すなわち、「他者」である。「他者」とは、「われわれとは異なる存在」であることを示す排除の記号である。

 「他者」は、現代の新たなリスクを等しく共有しているにもかかわらず、しばしば「不安」による連帯に加わることを許されず、それどころか、リスクを生み出す害悪として「不安」の対象に貶められる。

 ベックはスケープゴートになりやすい「他者」の例として「ユダヤ人、黒人、女性、難民、異端者、共産主義者など」を挙げるが、日本では、「朝鮮人」が筆頭に加わることになろう。今回の震災後も、「阪神淡路大震災のとき、地震で、朝鮮人によるレイプ多発の事実と、放火説があります」「仙台市○○中学校が中国人・韓国人が7割の留学生らの心無い行動で避難所機能停止」といった差別デマを執拗に振りまく者がいた。

 だが、「他者」をリスクそのものとみなす非合理的な観念は、残念なことに、こうした一部の狂信的な政治思潮の保持者だけに流布しているものではない。朝鮮学校「無償化」除外問題をめぐって改めて明らかになったことは、日本政府こそが、在日朝鮮人を再生産するための教育機関を「リスク」としかみなしていないという事実であった。

 こういうと、「日本政府が在日コリアンを治安の対象としてきたのは植民地時代から一貫した政策ではないか」という反論があるかもしれない。なるほど、在日コリアンは過去一世紀以上にわたって、つねに日本における「他者」として苦悩と困窮と暴力を与えられてきた。

 しかし、いまや在日コリアンは、単なる「他者」ではない。もはや、「平等」をキーワードとした訴えだけでは説得力を持たない、「リスク社会における『他者』」なのである。スケープゴート化から自己防衛するためには、伝統的な「他者」への暴力に曝されているというだけでなく、リスクへの不安のヨリシロとして新しい暴力に曝されているという自己認識を確立すべきであろう。

2. 「他者」にとってのリスク・コミュニケーション

 ところで、震災後、日本国内では大いにナショナリズムが昂揚したにもかかわらず、内閣は不思議と支持率を落としたように見える。毒舌の専門家らがそろって適切だと評価した政府の決定にすら、マスメディアが激しく攻撃していたところをみると、おそらく、政府の行動の是非が問われただけでなく、震災や原発事故のリスクについて適切な情報を提供できなかったことで、市民に不安と不満を高じさせたことが原因の一つかと思われる。

 このエピソードからは、リスクの大きさを正確に評価して意思決定することも重要だが、それだけでなく、リスクの受け手に積極的に情報提供をすることで、必要以上に不安を抱く必要はないという合意を形成することも重要だということを学ぶことができる。こうした合意形成のことを、リスク・コミュニケーションという。

 リスク・コミュニケーションといえば、一般には、行政や専門家や企業が何らかの決定をする場合、その決定によって影響をこうむると思われる関係者に、リスクの性質や内容について情報を提供したりすることによって、合意形成を目指すことを意味する。いわば、優位な立場にある者が人々を怖がらせないようにする工夫、ということだ。

 しかし、「他者」の場合、話はまったく異なってくる。「他者」は、優位な立場にあるどころか、差別され、排除され、苦悩と困窮と暴力の対象となる人々だ。しかも、このリスク社会においては、多数派が「わたしはあの人たちとは違って安心だ」という感情を共有するために「他者」を排除するという現象まで発生する。リスク社会における「他者」とは、安心を脅かすリスクそのものだという役割を一方的かつ理不尽に与えられる存在だといえる。

 「ゼノフォビア」という心理現象がある。端的に「外国人嫌悪」と訳されるが、異文化集団を怖がったり、嫌悪したりする傾向のことだ。差別感情の一種ではあるが、よそ者を警戒するのは当たり前だと、正当化されがちなことが特徴の一つである。

 ゼノフォビアは根拠の不明な不安感情であるため、合理的な理由などなくとも成立する。例えば、日本国民を対象としたある調査によると、「日本で発生している犯罪の何割が定住外国人によるものだと思うか」という質問に対して、回答の中央値は20%であったという。ところが、正解は約1%である。つまり、半数の回答者は、定住外国人の犯罪性を真実の値の20倍も高く誤認しているということになる。しかも、回答者の14%は、日本の犯罪の半数以上が外国人によるものだと信じていた。日本人は、外国人に対して非現実的なまでの犯罪性をイメージしているわけだ。「他者」は、こうやって、「危険な存在」という役割を付与されるのである。

 しかし、その役割付与がいかに理不尽であろうとも、現代の「リスク」への恐怖に対して、「平等」や「人権」といった近代の市民的規範によって抵抗することはもはやむずかしくなっている。となれば、「他者」は、自分自身を「リスク」とする屈辱的な役割をひとまず引き受けた上で、そのリスクは不安に思う必要がないほど低く、そもそもリスクという役割を付与することが間違っているのだと多数派を説得しなければならない。これが、「他者」にとってのリスク・コミュニケーションである。

3. 在日コリアンのリスク・コミュニケーション

 前述した外国人犯罪と同様、在日コリアンを危険視する言葉は、ほとんどがデマに近い。あるいは、少なくとも合理的な根拠に基づくものだとはいいがたい。とはいえ、ただやみくもにデマだと抗議しても、情動の次元で不安に凝り固まっている人々を安心させることはできないだろう。

 そこで、この節では、リスク・コミュニケーションを実践する場合のヒントとして、朝鮮学校を「リスク」視する主張に対して、具体的に反論を試みることにしよう。

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 「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない。」

 この種の主張に対して「反日教育などやっていない」と反論をしても、あまり効果は上がらない。なぜなら、この種のデマは事実に基づいて形成されるのでなく、情動的側面が強いため、反証する事実を示すだけでは修正されにくい。しかも、「反日教育」というあいまいで都合のよいマジックワードが、あらゆる反論を無効化してしまう。

 デマに関する研究によれば、ネガティブなイメージを否定しようとするのではなく、むしろポジティブなフレームワークを与えることが有効だとされている。私の経験から具体的にいうと、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論すれば、デマに対して有効な打撃を与えるようだ。

 朝鮮学校の存在がどのように日本の役に立っているかといえば、以下のようなことが挙げられよう。

(1)朝鮮語話者の大量供給

 隣国との経済的、政治的な交流が不可欠である以上、隣国の言語を駆使できる人材は常に必要とされる。そうした人材を国家が自前で育成しようとすれば膨大な経費を国家予算から支出しなければならない。その点、朝鮮学校は大量の朝鮮語話者を継続的に輩出しているため、単純にその分の国家予算を節約することに寄与していることになる。しかも、2000年からの韓流を支えたドラマや雑誌の翻訳は、その多くが朝鮮学校出身者の手によるもの。韓流による経済効果は、朝鮮学校が支えたといっても過言ではない。

(2)誕生権経済のリクルート源

 これは朝鮮学校というより在日コリアン全体にいえることだが、1980年代に入るまでは非常に厳しい就職差別があったため、学歴にかかわらず一般企業に勤めることは非常に困難であり、その結果、在日コリアンは自ら起業するケースが多かった。

 統計の取り方(「自営」の定義)にもよるが、在日コリアン男性の5割から6割が自営業主である。この比率は日本人男性の2倍以上。いかに自営業に追い込まれてきたかわかる。

 しかし、裏を返せば、自営業のノウハウと知識と人脈を持ち、ベンチャー起業のリスクを果敢にとりにいける人材を、朝鮮学校は大量供給しているともいえる。国家の庇護に頼らない自由で不羈の企業人を朝鮮学校は輩出してきたとも表現しうる。グローバリズムが浸透しつつある中で、在日コリアンは貴重な生存戦略のモデルを日本に提供してきたのである。

(3)「民主主義の学校」の教材

 A.トクヴィルやJ.ブライスの言葉を受けて、「地方自治は民主主義の学校である」と論じられることがある。そのココロは、「地域共同体という身近な環境で身近なテーマについて民主的に解決する訓練を積まないかぎり、国家という巨大な機構を民主的に運営することは難しい」ということだ。

 その点、朝鮮学校は共同体内にある非常に身近な異文化集団である。これを安易に排斥しようとせず、利害を調整しながら上手に付き合うスキルを習得することができれば、日本の民主主義はきっと成熟の度合いを深めることができる。

 これは単に理念的な話ではない。ひとつ具体例をあげよう。

 移民の増加に伴って外国人に対する偏見が強まるという現象が世界的に観測されている。日本でも、外国人の多い地域ほど、外国人に対する偏見が強いことが複数の調査により明らかになっている。ただし、ひとつだけ例外があって、韓国・朝鮮籍者が多い地域ほどニューカマーを含む民族的マイノリティへの排外主義が弱いという現象が見られるのである。

 在日コリアンは、差別や不平等を自力で克服することにより、長年にわたって健全な市民生活を営んできた。その共生実践そのものが、日本社会に多様性への耐性を提供してきたのだと解釈できよう。これも、リスク・コミュニケーションである。

(4)継承語教育の世界的な成功例

 朝鮮学校が、継承語教育の世界的な成功例であることはよく指摘されるところだ。それは、グローバル化が進行する日本において、ニューカマーの子どもたちの教育のモデルともなっている。

 朝鮮学校は、在日コリアンにとっての資産というだけでなく、様々な民族的マイノリティにとっての資産だといえる。さらには、民族的マイノリティの継承語教育の機会を拡大することにより、日本社会の多様性維持というマクロなメリットに大きく貢献しているのである。

(5)マイノリティの人的資本

 民族的マイノリティは何重にも蓄積的に排除される傾向にある。「身分証明書を持っていない人は、社会福祉事業から排除され、選挙権を得ることもできず、合法的に結婚することもできない」(ルーマン)という具合だ。その結果、低い階層に据え置かれたり、スラムを形成して劣悪な住環境に置かれたりすることが少なくない。貧困は犯罪の温床となり、それがまた差別を正当化する根拠として用いられる。

 ところが、在日コリアンの場合、解放直後から日本人と同等の教育を達成してきた。教育達成が出身階層に依存することを考えると、これは世界的にも異例の成功例である。言うまでもなく、在日コリアンが日本人以上に努力をしてきた成果だ。

 ただし、さすがに解放直後の貧困状況では、朝鮮学校がなければ、日本人と同等の教育を達成することはむずかしかったであろう。朝鮮学校があったおかげで、在日コリアンは社会的に転落せずにすみ、それが結果として、在日コリアンの犯罪率を押し下げ、日本社会の統合性維持というマクロなメリットに大きく貢献したのである。

4. リスクではなくメリット

 祖国志向の強い在日コリアンであれば、「朝鮮学校の存在が日本のためになる」という発想そのものを嫌悪するかもしれない。また、「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください」とでもいわんばかりのリスク・コミュニケーション戦略に、強い屈辱を感じる人も少なくはないだろう。

 しかし、そういう人に考えてもらいたいことが二つある。

 一つは、「移民はこの国の役に立つ」と信じている人ほど移民に悪感情を持たない(逆にいえば、「移民はこの国の厄介者だ」と信じている人ほど移民の排斥に賛成する)ということだ。この命題は、世界各国の調査で手堅く支持されている。

 たしかに、在日コリアンがこの国の厄介者だという信念は、まことに馬鹿げたものである。世界の民族状況を知れば、在日コリアンはむしろ「モデル・マイノリティ」と呼べる理想的な隣人であることがわかるはずだ。とはいえ、いかにナンセンスであろうとも、実際にそういう誤解と偏見が流布してしまっているなら、それを払しょくするために合理的な努力をせざるをえまい。

 もう一つは、朝連解散以降、在日コリアンは、実際に日本社会において「リスク」とみなされないように努力してきたという歴史だ。前述した通り、在日コリアンは、差別と不平等にあえぎながら、それを克服して日本人と相同の社会的地位を形成してきた。

 世界中の国家が民族的マイノリティにそれを望んで膨大な予算を支出しているというのに、在日コリアンは日本政府からそのための補助など受けることなく、独力で不利益を跳ね返してきたのだ。この地で立派に市民生活を営んできたということ自体、いくらでも誇ってよい民族集団の歴史なのである。

 問題は、在日コリアンがこの国で果たしてきた貢献について、日本政府はそれを正当に評価する視点を伝統的に持たないし、また、在日コリアンの側もそれを訴える運動戦略を採ってこなかったということだ。

 「人権」「平等」が分配の正義として通用した時代なら、「在外公民」として理不尽を訴えるだけで一定の改善は得られたであろう。だが、現代はリスク社会である。たとえ、根拠のない、偏見交じりの不安であろうとも、それを解消しないかぎり、理不尽な扱いも解消することはない。民族運動にもイノベーションが必要な時代である。そろそろ、在日コリアンはリスクなどではなくメリットであり続けたのだという事実を、自覚的に広く共有する戦略へと転換するべきであろう。

(注)本稿は、『人権と生活』32号(在日本朝鮮人人権協会発行)に寄稿した同題名のエッセイに若干の加筆、修正を行ったものである。

 東日本大震災は、日本に暮らすあらゆる人々に、様々な課題を突きつけたことだろう。国家の狭間に生きる在日コリアンとしては、惨事に昂揚したナショナリズムの中で、「自分はどこに所属し、誰を守るべきか」という、つねにすでにあった実存的な問題に改めて直面することになったという人も多いのではないだろうか。

 だが、アイデンティティの問題はひとまず措いて、ここでは、「リスク」をキーワードに、在日コリアン(およびそれを取り巻く日本社会)が直面している新しい課題について考えてみたい。

 「リスク」といえば、1986年のチェルノブイリ事故以降、現代社会を解読するキーワードとして、世界でもっとも注目を集めてきた言葉の一つである。

 例えば、社会学分野におけるリスク社会論の第一人者ウルリッヒ・ベックは、現代の産業社会は「階級社会」ではなく「リスク社会」であると主張している。階級社会において分配問題の争点を作り出していたのは「平等という理想」であった。それに対して、リスク社会では「安全性」こそが社会の基礎となり、社会を動かしている。言い換えると、「不平等」をめぐって連帯と闘争が繰り広げられた階級社会とは異なり、原発事故に代表される現代の新しいリスクの前では、「不安」をめぐって連帯とコミュニケーションが行われるというのである。

 なるほど、宮城県の東北朝鮮初中級学校では、総連系の有志によって運ばれてきた在日コリアンからの救援物資を避難中の日本人被災者と分けあい、さらに近隣の日本学校で焼き肉の炊き出しも何度か行われた。貧富の差や、国籍と民族の垣根を超えて、ともに被災の苦境と「不安」とを乗り越えようという実践だといえよう。

 だが、この「不安による連帯」は、必ずしも在日コリアンにとって幸運に作用するとはかぎらない。というのも、ひとは危険に曝されても、合理的なリスク意識を形成するとはかぎらず、むしろ不安にかられて非合理的な推論に逃げようとすることがある。ベックの表現を借りると、「危険が理解しがたいもので、その脅威の中で頼るものもないため、危険が増大すると、過激で狂信的な反応や政治思潮が広がる。こうした反応や政治動向によって、世間のなんでもない普通の人々を『避雷針』にして、直接に処理することが不可能な眼に見えない危険を処理することが行われてしまう」ということだ。そしてこの「避雷針」に選ばれるのは、いつだって例外なく、「他者」として構造的に疎外される人々である。

 「他者」は、現代の新たなリスクを等しく共有しているにもかかわらず、しばしば「不安」による連帯に加わることを許されず、それどころか、リスクを生み出す害悪として「不安」の対象として貶められる。

 ベックはスケープゴートになりやすい「他者」の例として「ユダヤ人、黒人、女性、難民、異端者、共産主義者など」を挙げるが、日本では、「朝鮮人」が筆頭に加わることになろう。今回の震災後も、「阪神淡路大震災のとき、地震で、朝鮮人によるレイプ多発の事実と、放火説があります」「仙台市◎◎中学校が中国人・韓国人が7割の留学生らの心無い行動で避難所機能停止」といった差別デマを執拗に振りまく者がいた。

 だが、「他者」をリスクそのものとみなす非合理的な観念は、残念なことに、こうした一部の狂信的な政治思潮の保持者だけに流布しているものではない。朝鮮学校「無償化」除外問題をめぐって改めて明らかになったことは、日本政府こそが、在日朝鮮人を再生産するための教育機関を「リスク」としかみなしていないという事実であった。

 こういうと、日本政府が在日コリアンを治安の対象としてきたのは植民地時代から一貫した政策ではないかという反論があるかもしれない。なるほど、在日コリアンは過去一世紀以上にわたって、つねに日本における「他者」として苦悩と困窮と暴力を与えられてきた。

 しかし、いまや在日コリアンは、単なる「他者」ではない。もはや、「平等」をキーワードとした訴えだけでは説得力を持たない、「リスク社会における『他者』」なのである。スケープゴート化から自己防衛するためには、伝統的な「他者」への暴力に曝されているというだけでなく、新しいリスクへの不安のヨリシロとして暴力に曝されているという自己認識を確立すべきであろう。

 橋下大阪府知事が精力的にツイッターに投稿を続けています。昨日3月9日、朝鮮学校に対する助成金支給についてツイートした内容が、各方面に反響を呼んでいます。ツイートの概要は、以下の通り。(見出し数字は引用者)

    1. 「日本人拉致問題、隣国である北朝鮮の現在の振る舞いを考えると、日本と北朝鮮の歴史的な経緯を踏まえてもなお大阪府民の多くは、朝鮮学校への補助金支出には納得できない。」
    2. 「今の大阪府の状況だと、このまま朝鮮学校に補助金を支出する方が学校にとっても不幸。だって大阪府民は腹の中では朝鮮学校に不満を持ち続けるから。」
    3. 「多くの住民が補助金支給に納得していなければ、不満を抱いていれば、日本と朝鮮学校の共生は成り立たない。」
    4. 「僕は学校と北朝鮮国家の関係性が遮断されることを目的とした大阪府のルールを作りました。」
    5. 「僕が作ったルールに従ってくれれば大阪府民の多くは補助金支給に納得してくれるはず。これで初めて共生となる。」

  いかがでしょう。府知事ご本人も指摘されている通り、少なくとも政府による違法性の高い「高校無償化」除外よりは、ある意味で、筋が通っているように思われます。もちろん「ある意味で」とは、市民社会における公平と平等といった正義よりも、住民感情を重視する政治姿勢を明確に提示した点において、ということです。

  まあ、わたし個人としても、朝鮮学校は国民教育を捨てて民族教育に特化することが経営的にも重要な生存戦略のはずだと思っていますが、しかし、それは朝鮮学校関係者が自己決定すべき問題であって、中等教育において絶大の権力を持つ府知事が、子どもを人質に踏み絵を踏ませるようなものであっていいはずがありません。

  そして、それ以外にも、府知事のツイートにはいくつか重大な問題が含まれていますので、以下に指摘していきたいと思います。 

  第一の問題は、「大阪府においては、現状のままで朝鮮学校に補助金を支給することには納得できないとういのが大多数の意見」と論断しておられるが、じつは、その根拠をお持ちでない(ようだ)ということ。

  根拠をお持ちでないようだというのは、府知事がツイートの中で、「メディアの皆さん」に世論調査の実施を請願していることからうかがえます。しかし、根拠のない印象論で、これほど重大な政治的意思決定をしたということは、はなはだ重大な問題だといえます。

  印象論でよいというなら、賛成意見と反対意見が伯仲しているのが実態だろうというのが、わたしの印象です。ただし、排外主義的な要素を持つ反対意見は、排外主義の持つ権威主義的な性格により、より強硬な主張として表出するため、目立ってみえてしまう可能性はありますね。

  第二の問題は、北朝鮮に対する悪感情は、植民地主義とレイシズムにルーツがあるという事実を無視していることです。

  心理学分野には「感情温度計」という指標があり、偏見研究の文脈でこれを各外国人に適用した業績が多数あります。さまざまな人種・民族・外国人に対して、日本人の好悪感情を測定し、それを比較しているのですね。

  それらの結果をみると、戦後すぐから一貫して、「朝鮮人」と「黒人」が最悪の感情の対象に位置付けられてきたことがわかります。

  つまり、戦後についていえば、「日本人拉致問題」以前から、それどころか、おそらくは1948年に朝鮮民主主義人民共和国という国家が成立する以前から、恒常的に朝鮮人に対する悪感情は存在していたということなのです。 

  この悪感情の由来については諸説ありますが、「日本の属国だったくせに戦勝国然として傲慢なふるまいをする」ということに対する反感と、朝鮮人に対する蔑視感情があったということを否定する論者はほとんどいません。つまり、植民地主義とレイシズムです。

  かりに、北朝鮮の現在の振る舞いに、現代の日本の価値意識に照らして許容しがたい側面があると判断したにせよ、植民地主義とレイシズムを源流とする悪感情をそのまま「住民意識」として重視する府知事の姿勢は認めがたいところです。

  第三の問題は、植民地主義とレイシズムを源流とする以上、たとえ朝鮮高校が大阪府のルールに従ったとしても、「大阪府民の多くは補助金支給に納得してくれる」という事態は予想しがたいということ。

  もちろん、現在でも補助金支給に賛成している府民の多くは納得するでしょう。一方、現在、補助金支給に反対している府民は、理性ではなく情動の側面で、朝鮮学校に悪感情を投射している可能性が高い以上、たとえ朝鮮高校が「大阪府のルール」を受け入れたところで、「腹の中では朝鮮学校に不満を持ち続ける」状況が継続するだけです。

  むしろ、しょせんは恣意的な「大阪府のルール」を受け入れたところで、また別の恣意的な基準で排外意識が正当化されるだけ、というのが合理的な予測ですよ。

  世論調査をやれというなら、それこそ、「大阪府のルール」を受け入れた朝鮮初中級学校と、完全には受け入れなかった朝鮮高級学校とを比較して、悪感情に差異があるかどうかを尋ねてみることですね。よけいな誘導をしなければ、統計的に有意な差異は検出されないと思いますけどね。

  第四の問題は、一方的に条件を押しつけて、飲まなければ補助金を停止するというのは、「ルール」というより脅迫だということ。しかも、脅迫によって達成しようとしていることは、民族教育への介入だということ。

  第五の問題は、 橋下府知事がいう「在日と日本人の共生」とは、マジョリティによるマイノリティに対する一方的な支配にすぎないということ。

  一般に、規模の異なる民族集団が接触すると、大きな民族集団が小さな民族集団を排除したり抹殺しようとしたりすることが少なくありません。そのプロセスでは、当然のことながら、凄惨な人権侵害が発生することも避けられません。

  したがって、そのような凄惨な競合状態が発生する前に、権力を委託されている行政府が、悲劇の発生を食い止める努力をしなければなりません。行政府が実現するべき「共生」というのは、こういうことです。

  そのための具体的な手法として、同化論、るつぼ論、サラダボウル論などが提案されては消えてゆきました。そして、現在のところ、もっとも有効性が高いと考えられているのが、多文化主義です。多文化主義とは、異なる民族集団が、文化的には独自性を保ったまま、経済的には平等を達成できるようにするべき、という立場のことです。

  一方、橋下府知事が明言したように、「僕が作ったルール」に従わなければ補助金を支出しないというスタンスは、世界的に悪質性が高いと考えられている「同化論」に近い。同化論は、現代の欧米諸国において、「差別と同じ」だと考えられています。なぜなら、それは「共生」というより、マジョリティによるマイノリティに対する一方的な支配だからです。

  恣意的な「ルール」の強要を「共生」だと強弁する橋下知事のツイートには、「差別」を「区別」だと言い逃れようとするのと同様のグロテスクさを感じざるをえません。

 

 朝鮮学校の「高校無償化」については、第三者機関による周到な検討を経て、いったん適用が決まっていたにもかかわらず、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)による韓国砲撃へのリアクションとして、政府が審査手続きを停止している状態が続いています。

 朝鮮学校生徒保護者からは、先月、文部科学省に対して行政不服審査法に基づく異議申し立てがなされていましたが、このほど文部科学省から回答の通知が送付されました。内容は以下の通りです(参考:朝鮮学校無償化問題FAQ)。

平成23年1月17日付をもって、あなたから提出のあった公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則第一条第一項第2号ハの規定に基づく指定に関する規定第14条の規定に基づく申請については、平成22年11月29日の北朝鮮による砲撃が、我国を含む北東アジア地域全体の平和と安全を損なうものであり、政府を挙げて情報収集に努めるとともに、不測の事態に備え、万全の態勢を整えていく必要があることに鑑み、当該指定手続きを一旦停止しているものです。(下線は引用者)

 つまり、朝鮮学校に「高校無償化」の適用手続きを停止している理由は外交上の判断だというのが政府の回答だったわけです。

 本ブログでは、政府が外交目的で在日コリアンを抑圧してきた歴史について何度か言及しました(例えば「人権侵害しか切れる外交カードがないとは、どんなならず者国家だ?」)。この主張の妥当性を巡っては意見もあったようです(例えばこちら)。しかし、外交のために理不尽かつ無意味に在日コリアンが抑圧されてきたということは、比喩でもなければ、私個人の思いこみでもなく、単に愚かしい事実にすぎないということを、政府自ら上記の回答によって示したわけです。

 前回の記事(「日系アメリカ人の強制収容所問題と朝鮮学校の無償化除外問題の相似について」)のテーマにも同じことが言えます。政府が海の向こうの軍事衝突を、国内のマイノリティへの人権侵害へとリンクさせた直後に、複数の論者が一斉に「日系人の強制収容所問題を思わせる」と言及しています(例1例2例3例4)。これは、政府が在日朝鮮人の子どもたちを「敵性外国人」扱いし、深刻な人権侵害に及ぼうとしている事実を各方面に鮮明に印象付けたことを示唆しています。

 ところで、国内に居住する外国人の人権侵害とバーターで外交上の利益を達成しようとすることを、俗に「人質外交」といいます。外交目的で朝鮮学校の審査手続きが停止されたのは、「人質外交」の典型事例ですね。ネットで数分検索するだけで、「人質外交」がどれだけ卑劣な人権侵害として忌み嫌われているかわかるはずです。しかも、今回は「人質」となっているのが高校生なのです。国家による破廉恥行為だとそしられても、容易に反論はできないでしょう。

 しかし、これほど愚劣で違法性の高い人権侵害に対して、日本社会はいささか冷淡であるように、ぼくには感じられます。

 丸一年にわたって、朝鮮学校の生徒たちはさまざまな負担に耐えてきました。「お前たちの学校などいらない」という悪意に満ちたメタメッセージを政府から受け続けました。しかし、日本社会の多数派の善意を信じて、毎週のように署名活動をやったりもしました。その信頼に対して、こんな理不尽な仕打ちで失望させたまま卒業させてしまっていいのでしょうか。

 まずは情報を収集したいということであれば、上記の 朝鮮学校無償化問題FAQ がきっと役に立つでしょう。そのうえで、もしこの問題の改善に何か寄与したいとお思いになったら、例えば、「不正義を許さない」という声を首相官邸に届けるのもいいでしょう。あるいは、「教育を外交問題によってゆがめられてはならない、がんばって筋を通せ」という主張を文部科学省に伝えるのもいいと思います。

 とにかく、残された時間は、もう多くはないのです。一人ひとりが、この不正義に加担せず、それぞれにできることを何か一つでも進めましょう。このまま時間切れになれば、日本社会は取り返しのつかないものを失ってしまうかもしれません。ニーメラーの警句は今ここでも重要な意味を持っています。

 

[本記事はアルファ・シノドス vol.64 (2010/11/15)に掲載された拙稿を荻上チキさんの承諾を得て転載したものです。]

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先ごろ、ツイッターにて『アンネの日記』の知名度が低いというテーマでタイムラインが賑わっていたのですが、そこから派生した「日系アメリカ人に対する迫害の歴史」という別の話題が面白かった。きっかけになったツイートは、こちら。

yu_ichikawa:あと意外に知らない世界の歴史★日系人はアメリカでめちゃめちゃ差別されていた! 奴隷制度&ナチスのホロコーストと並び、日系人を戦争中、強制収容所にいれたことはアメリカ人が考える「歴史3大反省ポイント」。原爆とかではなく、日系人キャンプ。しかし、日本でこのネタ意外と知られてなくない?
[http://twitter.com/yu_ichikawa/status/3249265287626752]

なるほど、1980年代以降は、たしかに日系人の強制収容所が北米における戦後補償(リドレス)の中心的テーマだったといえるかもしれません。

1942年2月、「敵性外国人」の隔離を許可する大統領令によって、約12万人の日系アメリカ人が内陸部へと強制移住させられ、その多くは強制収容所に抑留されました。敵性外国人といっても、移住対象とされた日系人の6割以上がアメリカ生まれの国籍保持者であり、当初から憲法上の疑義が指摘されていました。

この問題へのリドレス(歴史的不正への謝罪と補償)が注目されるようになったのは、1978年に日系アメリカ人市民協会が大々的に運動をはじめてからのことです。戦時中の出来事を糾弾する運動にしては、時期が遅いと思われる方もいらっしゃるかもしれません。でも、ひとたび「敵性市民」とされてしまえば、名誉回復に必要な条件(偏見の払拭、運動資源の貯蓄、有力な運動家の育成など)が整備されるまでに、とても多くの時間がかかるものです。

ただし、いざ運動を興してからの動きは早かった。1980年、連邦議会に専門の調査委員会が設置されます。83年、同委員会が「人種差別であり、戦時ヒステリーであり、政治指導者の失政であった」と結論づけ、連邦議会に謝罪と補償を勧告します。そして紆余曲折を経ながらも、88年には「市民の自由法」制定という形で運動が成就するのです。同法は、日系アメリカ人市民協会の要求をほぼ丸呑みする大胆な内容で、(1)連邦議会による公式謝罪、(2)拘留に抵抗したことへの有罪判決の大統領恩赦、(3)戦時の差別により剥奪された地位や資格の原状回復、(4)強制収容に関する教育を全米の学校で行うための総額12億5千万ドルの教育基金設立、(5)強制収容の生存者(現在の国籍を問わず)一人当たり2万ドルの金銭的賠償、が実施されることになったのです。

機が熟して運動が政治化するまでの期間が長かったとはいえ、わずか10年でこの劇的な成果をあげたわけです。この問題が1980年代の北米でいかに不正義に対する義憤をかきたてたか、容易に推察することができるでしょう。

ただ、この問題は、戦時ヒステリーの危険性や、尊厳の回復方法など、北米の政治状況に限定されない普遍的なテーマについてもさまざまな教訓を与えてくれます。現代の日本に暮らすわれわれにとっても、参考になるところが多いといえるのではないでしょうか。

私としては、今日的文脈から、特に以下の4点に注目しています。今日的文脈とは、日本政府が朝鮮学校に対して無償化適用除外を長期にわたって公式に検討している現状との比較において、という意味です。

(a) 母国のイメージが民族的マイノリティの扱いに影響を与えたこと。
(b) レイシズムと流言が、法的にも軍事的にも妥当性を欠く政治的意思決定を後押ししたこと。
(c) マスメディアが前項の重要な手段となったこと。
(d) ようするに、民族浄化であったこと。

以下、この順に、現在の在日コリアンが置かれた状況との異同を考察してみることにしましょう。

(a)母国のイメージが民族的マイノリティの扱いに影響を与えたこと。

移民研究の中には、「出身国のイメージが改善したり劣化したりすることで、移民に対する周囲の処遇が変わった」という報告が非常にたくさんあります。最近の日本でも、日中関係の悪化にともない、中国からの旅行者に集団で嫌がらせをする事件が起こったりしましたし、直感的にもわかりやすい話ではないでしょうか。

しかし、旅行者ならまだしも、移民にとってみれば、異郷の地で生き延びることに精一杯なのに、自分が関与することのできない母国のイメージしだいで、人権状況が改善したり悪化したりするというのは、ずいぶん理不尽な話です。

例えば、1950年代には、李承晩ラインをめぐる摩擦により、大韓民国のイメージは最悪に近かった。「劣等国が増長して暴挙に出た」といった植民地主義丸出しの罵倒表現が、連日、マスメディアや国会を賑わしたのですから、それも当然でしょう。

しかも、当時はまだ日韓両国に正式な国交がなかったこともあり、日本政府は韓国に直接的な抗議をするのではなく、国内のコリアンを抑圧することで、韓国に対する外交カードに(あるいは憂さ晴らしで国民のガス抜きを)しようとしたふしがあります。つまり、李ラインで日本人漁民が拿捕・抑留されたことに対抗して、「日本に住む朝鮮人を全員、韓国に強制送還せよ」といった強硬論が国会で審議されたり、コリアンを微罪で逮捕した挙句、強制送還をちらつかせて大村収容所に収監したり。

とはいえ、現在の日本でも、憎悪の対象が韓国から北朝鮮に変わっただけで、1950年代当時とずいぶんよく似た構図が観察されます。

外国人に対する日本人の好悪感情を測定した各種の調査によると、戦後は一貫して北朝鮮への感情が最悪に近い位置で推移してきました。ただでさえ否定的な感情の強いところに、1994年の核開発疑惑、98年の「ミサイル」発射実験、2002年の拉致問題といった出来事が起こったわけですから、日本における北朝鮮イメージは、ますます悪化の一途をたどっています。

また、日本政府としては相手国と正式な国交がないこともあり、国内のコリアンに対する抑圧をちらつかせることで外交カードの不在を補おうとしている点も、1950年代と共通しています。朝鮮学校のみを無償化の対象から除外するよう検討している問題は、その代表格といえます。

(b)レイシズムと流言が、法的にも軍事的にも妥当性を欠く政治的意思決定を後押ししたこと。

北米では19世紀末から黄禍論に代表されるアジア系移民に対するレイシズムが強まり、さまざまな差別が半世紀にわたって常態化していました。そこに、宣戦布告を欠いた奇襲から太平洋戦争が始まったわけです。「日本は何をするかわからない不気味な国だ」という偏見交じりの敵対感情が強制収容の背景にありました。

また、潜水艦でやってきた日本軍がアメリカ本土に上陸するのではないかという恐怖は、さまざまな流言を生み出しました。「太平洋沿岸の日系人漁民が日本軍上陸の手引きをしているところを見た」とか、「日本軍上陸後は日系人がスパイとして誘導する手はずになっている暗号文を解読した」といった内容のものです。

その結果、レイシズムに起因する日系人隔離論は、あたかも軍事的合理性を持った政策であるかのように語られていったのです。なお、日系人の強制収容に軍事的合理性は一切なかったと証明できたことが、「1988年市民の自由法」を制定するための決定打になったそうです。

一方、朝鮮学校の無償化除外はどうでしょうか。朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、少なくとも法的には妥当性のない政策です。日弁連の会長声明が明快に断言したように、法的な観点からは「この差別を正当化する根拠はない」のです。法的に可能であれば、朝鮮学校は無償化の対象外とすることでとうに除外で決着が付いているでしょう。

また、外交的観点からも、無償化除外は合理的でありません。なぜなら、北朝鮮に外交的な攻撃の糸口を与えてしまうことになり、日本政府が北朝鮮の人権状況を批判したところで、鼻で哂われて終わりということになりかねません。また、2月末にジュネーブで行われた人種差別撤廃委員会の対日審査で、複数の委員が「差別だ」として無償化除外問題に疑念を表明する一幕もありました。

つまり、朝鮮学校を無償化から除外するというのは、法的にも外交的にも、妥当性はないのです。そこに議論の余地はありません。問題はむしろ、妥当性がないにもかかわらず、世論調査では半数ほどの方が朝鮮学校を無償化から除外することを支持しているのはなぜなのか、ということです。

理由はいくつも考えられますが、その中に、北朝鮮や在日朝鮮人に対するレイシズムと流言が含まれているとしても、私には不思議ではありません。ネットをごく簡単に検索するだけで、以下のような文章が見つかるはずです。

(1) 日本の私立高校は完全な無償化にはならないのに、朝鮮学校だけ無償化するなどおかしな話だ。
(2) 他の外国人学校は無償化の対象ではないのに、朝鮮学校だけなぜ無償化するのだ。
(3) 朝鮮学校は閉鎖的な環境で反日教育を行っている。ちゃんと情報公開して相互理解の努力をしてくれないと、予算の支出は支持できない。
(4) 反日教育でテロリストを育成している学校になぜ日本人の血税を支出するのだ。
(5) ここまでして朝鮮学校に私達の税金を投入したいという心理が分からない。利権が絡んでいるのか。
(6) 北朝鮮の国益に直結する心配がある。

いずれも、事実に反する粗雑な主張です。順に反論していくと、(1)もちろん「無償化」は単なるレトリックであり、一般の私立高校と同じく、公立高校の授業料相当が支給されます。(2)他の外国人学校は、すでに無償化の対象となっており、朝鮮学校だけが支給を留保されている状態です。(3)朝鮮学校は常時、授業参観を歓迎しており、日本国内のどの学校よりも開放的だといえます。また、政府の公式な調査チームが視察に臨んだにもかかわらず、「反日教育」と呼べるような教育実態はみられませんでした。(4)朝鮮学校出身のテロリストなど、過去半世紀の間に一人として登場していません。(5)在日コリアンも納税しているという当然の事実が視野から脱落しています。(6)朝鮮学校は恒常的な赤字経営で、教員の給料すら滞りがちな状態。北朝鮮に送金するなど完全なファンタジーです。

中には(1)(2)のように単純な誤解もありますが、あまりにも基本的な誤解が容易に修正されることなく放置されている状態そのものが、朝鮮学校の置かれた過酷な状況を示唆するものといえるでしょう。(3)は朝鮮学校について情報を知らないにもかかわらず閉鎖的で反日的だと思い込んでいるわけですから、偏見以外の何ものでもありません。そして、そういう状況の中で、(4)から(6)のように意図的に作り出されたとしか思えないデマも流布しているわけです。誤解と偏見とデマ――今の朝鮮学校を取り巻くものは、そう要約できそうです。

(c)マスメディアが前項の重要な手段となったこと。

戦時中は情報戦の一環として、対戦国への憎悪を煽り、偏見を強めるような宣伝が行われることが少なくありません。大戦中、日本で「鬼畜米英」と題したカリカチュアや、人種憎悪をあおるような記事が新聞に掲載されたように、北米でも日本人を揶揄するためにずいぶんレイシズムの濃厚な表象が用いられました。

それ自体は戦時の現象として広く観察されることですが、そのことを指摘したからといって、居住国でレイシズムにさらされる移民の苦難はいささかも和らぐものではないでしょう。なぜなら、煽り立てられたレイシズムは、対戦国への戦意高揚に昇華するだけでなく、国内に居住する移民への敵意やヘイトクライムにも転化するものだからです。

マスメディアがレイシズムを煽り立てるのは、なにも戦時中にのみ見られる現象ではありません。20世紀初頭のアメリカでは、新聞王ハースト系のメディアが中心となって、激しい日系人排斥キャンペーンが繰り広げられたことはよく知られています。また、1950年代における日本の状況についても、前述した通りです。2002年以降の北朝鮮報道も、その一つ。そして、朝鮮学校への無償化除外に関する報道にも同じことがいえます。

ここでは、やや長くなりますが、無償化除外問題についてツイッターで積極的に発言しておられる方のブログから関連部分を引用したいと思います。(Scrap-Laboratory 「徹底的な『他者』へのまなざし―朝鮮学校への無償化適用を巡る顛末に思う」より)

 けれどもっと重い責任を指摘されるべきなのは、言うまでもなく朝日・読売・毎日をはじめとする「本物の」全国紙だ(産経とか所詮全国紙まがいですから)。あいつらの論調は軒並み糞でしかなかった。もちろん朝日も読売も毎日も、当初から「原則として」無償化の適用に賛成という立場を取っていた。

 その無償化適用に「原則賛成」というロジックこそが糞だった。どいつもこいつも朝鮮学校の教育や政治的立ち位置に(それこそ産経と変わらないレベルの)罵倒を散々投げつけた上で、「まあ教育の権利という点から言えば、朝鮮学校も無償化するのが筋であろう」と恩着せがましく付け加える社説の数々。実にクソ極まりない。朝毎読(ついでに日経)のどれ一つとして、朝鮮学校への無償化適用が法案の趣旨からも当然であれば「国際条約に照らしても」適用されるべきであることを正面切って論じなかった。今思い出しても反吐が出る。

 確認しておきたいが、これら全国紙の中でただの一つでも「そもそも朝鮮学校を無償化から除外するという論理こそが常識外れのあり得ない差別なんだよ」ということを堂々と言ったか?否だ、もちろん否だ。最低でも朝日と毎日は(連中がリベラルという面の皮を被るなら)信濃毎日新聞の社説(http://bit.ly/bCEwea)くらいのことは即座に表明するべきだった。中井の妄言が報道された瞬間に、朝日と毎日はその程度の正論は言うべきだったし、その上で朝鮮学校側は、「私たちはこれまで日本社会に自分たちを知ってもらうための努力をたくさんしてきています」と返す。最低でもそこら辺がスタートラインになるべきだった。

表現は攻撃的ですが、記述されている内容自体はきわめて妥当なものだと、私には思われます。

全国紙がまるで示し合わせたかのように、朝鮮学校を無償化対象に含むには条件が必要だと主張している。そんな状況下で、朝鮮学校にのみ教育内容に注文をつけるなど、法的には許されないことだという事実に気づくリテラシーのある読者は、いったいどれだけいるでしょうか。

それどころか、朝鮮学校は、特別に注文をつけられても仕方がないような、問題の多い劣悪な教育機関だという偏見を植えつけられる人も、少なくないような気がしませんか。

(d)ようするに、民族浄化であったこと。

民族浄化といえば、内戦中の旧ユーゴスラビアにみられたように、異民族の大量虐殺を指示する用語だと思っている人も多いでしょう。しかし、比較的意味が狭いとされている国連の定義でも、「特定の領土に民族的単一性をもたらすため、その領土から計画的、意図的に特定の民族を暴力や恫喝によって排除すること」となっています。虐殺に至らずとも、大量の強制移住があれば、それは民族浄化なのですね。

ただ、国連の定義は二つの意味で、いささか範囲が狭すぎると私は考えています。一つは、「民族的単一性をもたらすため」という要件が厳格すぎて取りこぼしてしまう事例があること。もうひとつは、「排除すること」という行為に関する要件が厳格すぎて、潜在的な民族浄化を取りこぼしてしまうこと、です。

前者の要件によって取りこぼされてしまう事例の一つが、日系人の強制移住・強制収容です。アメリカは多民族国家であるため、たとえ強制移住が行われても、「民族的単一性をもたらすため」という定義に合わないのですね。しかし、中国人労働者は1882年にはアメリカ入国を禁じられていましたので、1942年当時に日系人を排斥したということは、すなわち、アジア人を排斥したということと同義だったのです。一つの人種を地域から消し去った政策を、民族浄化以外の言葉でどう呼べばいいのか、私にはわかりません。

一方、後者の要件はどうか。私は、物理的には排除されなくとも、「完全に無色無臭に同化して《見えない存在》になってしまわないかぎり徹底的にいじめるぞ」とか、「見えないところに消えてしまえ」とか、「この地に異物として存在することを許さない」といったメッセージを恒常的に受忍させられる状態は、やはり民族浄化としか呼べないだろうと考えています。朝鮮籍の在日コリアンは、その典型事例です。

朝鮮学校とその関係者は、内閣からの発言やマスメディアの報道を通じて、日本社会は朝鮮学校の存在自体を罪悪視しているというメタメッセージを受忍し続けています。朝鮮人になるための教育機関は、その存在自体が許されるべきでないという暗黙の意思を常に感得させられ続けています。これは、やはり民族浄化としか呼びようがない事態ではないでしょうか。

さて、ここまで4つの論点に沿って、北米における日系人の強制収容問題と、朝鮮学校の無償化除外問題の異同について考察してきました。時代状況の違いはあっても、国家的利益を優先し、民族的マイノリティの人権を抑圧する政策という点では共通していることを論じたつもりです。

ただ、最後に一つ、両者の大きな相違点を挙げておかなければならないでしょう。それは、北米ではこの問題がリドレスの対象となり、許されない歴史的不正義だったという共通理解が成立しているのに対して、朝鮮学校問題は毎年のように国連から改善要求を受けている、現在進行形の人権侵害問題だということです。

 

 朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の局地的紛争を受けて、高木文科相と仙石官房長官が、それぞれ、朝鮮学校を無償化の対象とする方針を見直す考えに言及したという。

 なんと愚かなことか。人権侵害しか切れる外交カードがないとは、どんなならず者国家なのかといわざるをえない。もちろん、北朝鮮のことではない。日本のことだ。

 歴史を振り返ると、1950年代には、李承晩ラインをめぐる摩擦により、大韓民国のイメージは最悪に近かった。「劣等国が増長して暴挙に出た」といった植民地主義丸出しの罵倒表現が、連日、マスメディアや国会を賑わしたのだから、それも当然だろう。

 そうした世論を受けて、当時の日本政府はどうしたか。まだ日韓両国に正式な国交がなかったこともあり、日本政府は韓国に直接的な抗議をするのではなく、国内のコリアンを抑圧することで、韓国に対する外交カードに(あるいは憂さ晴らしで国民のガス抜きを)しようとした。

 つまり、李ラインで日本人漁民が拿捕・抑留されたことに対抗して、「日本に住む朝鮮人を全員、韓国に強制送還せよ」といった強硬論が国会で審議されたり、コリアンを微罪で逮捕した挙句、強制送還をちらつかせて大村収容所に収監したりしたわけだ。

 今回の日本政府のスタンスは、50年代当時と完全に同じ構図である。第一に、国内のコリアンに対する抑圧をちらつかせることで外交カードの不在を補おうとしている点において。第二に、その愚劣な発想が法的にも外交的にも妥当性を欠くという点において。

 朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、少なくとも法的には妥当性のない政策だ。日弁連の会長声明が明快に断言したように、法的な観点からは「この差別を正当化する根拠はない」のである。法的に可能であれば、朝鮮学校は無償化の対象外とすることで、とうに決着が付いているだろう。

 また、外交的観点からも、無償化除外は合理的ではない。なぜなら、北朝鮮に外交的な攻撃の糸口を与えてしまうことになるからだ。日本政府が北朝鮮の人権状況を批判したところで、鼻で哂われて終わりということになりかねない。むしろ、2月末にジュネーブで行われた人種差別撤廃委員会の対日審査で、複数の委員が「差別だ」として無償化除外問題に疑念を表明する一幕があったことを考えると、外交的にはむしろ日本の汚点になるといったほうがいい。

 この半世紀、日本の半島政策と在日外国人政策に、イノベーションも理念の深化もなかったということだろう。日本政府は、いったいいつになれば、自らの愚かさに目覚めるのか。

 

参考)各弁護士会の会長声明

日本弁護士連合会 http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/100305.html
東京第二弁護士会 http://niben.jp/info/opinion20100304.html
東京弁護士会 http://www.toben.or.jp/news/statement/2010/0311.html
大阪弁護士会 http://www.osakaben.or.jp/web/03_speak/seimei/seimei100310.pdf

 

 ハロウィンの朝、8歳の娘が魔女の帽子をかぶって、ぼくのベッドまであいさつに来てくれました。皆さんのお宅にも、小さな精霊や魔女が遊びに来たでしょうか。

 ハロウィンといえばモンスターのコスプレ。そして、モンスターといえば、思い出すのは『アダムス・ファミリー』です。(ぼくの場合)

 『アダムス・ファミリー』は、モンスターの一家がふつーの市民生活を営もうとしてどたばたトラブルを引き起こしていくコメディ。原作はチャールズ・アダムスによる古いコミックなのですが、1960年代初めにテレビドラマ化されると人気が沸騰し、1970年代にはアニメ版が放映され、そして1991年に『アダムス・ファミリー』、1993年に続編『アダムス・ファミリー2』が映画化されました(以下、『AF』『AF2』)。

 映画版は登場人物が天然ボケで痛烈なブラックジョークをかましていくさまを愉快に描いていて、世界中から好意的な評価を受けました。日本でも、ホンダの戦略車「オデッセイ」のコマーシャルに起用されるなど、一時はブームと呼べるほどの大ヒットを記録しました。

 でも、1991年に初作が映画化されると、米国では人種差別や障害者差別と闘っている人たちの間で議論が巻き起こりました。一方にいわく、「異民族や身体障害者への偏見と差別を助長する映画だ」と。それに対して、「いや、むしろそういう偏見と差別を逆手にとって嗤う高度な風刺なんだ」と。

 というのも、『AF』にかぎったことではないのですが、もともと「モンスター」というのは異民族や身体障害者、高齢者をゆがめてイメージ化したものが多いのです。クル病とせむし男の関係がわかりやすいかな。『AF』にもせむし男が登場しますね。

 あるいは、吸血鬼ドラキュラもそうです。この物語が生み出された当時のイギリスでは、植民地化による異民族との交流の増大にともなって、外国恐怖症(ゼノフォビア)が蔓延していました。同時に、ユダヤ資本の拡張に対して反発が広がっていた時期でもあります。『ドラキュラ』という作品は、ゼノフォビアとユダヤ人恐怖とが合体することで生みだされた非常に差別性の濃い物語なのですね。(詳しくは丹治愛『ドラキュラの世紀末―ビクトリア朝外国恐怖症の文化研究』東京大学出版会を参照のこと)。

 ようするに、異民族や身体障害者に対する嫌悪感や恐怖感が「モンスター」を生み出したという面もあるということです。『AF』の登場人物には一人として金髪碧眼のWASPらしい姿を持つ者はいません。みんな黒髪のオリエンタルな容貌をしています。 そう考えると、『AF』に対する評価も変わってくると思いませんか。

 そして、『AF』が公開されると、米国では実際に以下のような議論が起こったわけです。

あの映画は、『フリークス』のように、障害者や異民族を不気味な存在として見世物視している。差別や偏見を助長するおそれがある。
いや、『AF』では主人公たちを恐怖の対象として描いているわけではなく、むしろユニークかつ知的にトラブルを解決するさまは痛快なヒーロー/ヒロインとして好意的にとらえられているじゃないか。
たとえ好意的に描かれていようとも、不気味なステレオタイプをそのまま使っていれば偏見を垂れ流しているのと一緒だ。
というより、「不気味なステレオタイプ」を怖がることこそナンセンスなんだという映画でしょう?

 おそらくこうした議論を意識してのことでしょう、2年後に公開された続編『AF2』では、主人公の一人がサマーキャンプで人種的差別にあう場面が盛り込まれています。その場面では、無自覚で陰湿な差別の描写を通してアメリカの人種問題を風刺すると同時に、『AF』のモンスターが偏見を助長するのではなく、異民族や身体障害者をモンスター視するおまえたちこそ問題なんだ、という強烈なメタメッセージを伝えることに成功しています。 その点で、『AF2』はぼくのお気に入りですね。

 まあしかし、反差別のメタメッセージを込めれば、モンスターという表象が、差別表現ではなくなるということにはなりません。

 ぼくがアラスカで知り合った、祖父がインディアン、祖母がフィリピン系という女性。隔世遺伝で独特のオリエンタルな容貌を持った美女です。「親も姉もふつーの容貌をしているのに、自分だけナニ人かわからない顔だから、WASPしかいない地域の学校でずいぶん苦労をしたわ」とのこと。

 そんな彼女と『AF2』について話したところ、「たとえどんなメッセージがこめられていようとも、『AF』のようにマイノリティをモンスター化するイメージ自体が不愉快。問題は『AF』だけじゃないしね」、ということでした。

 「モンスター」という表象に込められたレイシズム。抑圧される立場の者は、それを敏感に察知し、不快に思い、無邪気に楽しんでいるあなたを軽蔑しているかもしれませんよ。

 

 図1は、要素Eを含む全体集合Pを概念的に示したものです。一方、図2は、同じ集合Pから要素Eが欠けている状態をあらわしたものです。

figure1_147.jpg 全体集合Pの定義を知っている人が図2を見たとき、おそらくもっとも一般的な反応は、「Eが欠けているね」とか、「どうしてEがないの?」のように、Eの欠損を指摘し、その理由を確認しようとすることでしょう。

 ところが、実際の社会では、Eの欠落を指摘しただけで、「あなたはEだけで集合Pを語るつもりなのか」と反論されることがあります。それはいったい、どういう場合なのでしょうか。

 先日、ある事件に関連して、ツイッターで議論をおこないました。ツイート群をまとめていただいたサイトが、http://togetter.com/li/63152 | http://togetter.com/li/63464 | http://togetter.com/li/63798 の3つです。発端となったのは、ぼくが書いたこのツイートです。 

@han_org: 桐生市の小学生自殺にしても、これほど明白な民族差別もなかろうに、今なお、関係者すべてが民族差別としての問題化を避けて、いじめの問題に回収しようとしている。まるで、もともと民族的出自などなかったかのように。ぼくには、死してなお、民族浄化の被害を受け続けているとしか思えんな。 http://twitter.com/#!/han_org/status/28746984786

 10月26日の朝。ほとんどのメディアが、自殺した少女の母親がフィリピン出身である事実に触れていなかったことを踏まえてのツイートでした。唯一その事実に言及した朝日新聞も、報じた内容は「署や市教委などによると、母親はフィリピン出身だが、この女児は日本語が堪能だったという」です。どちらかといえば、民族差別が原因につながったことを否定するかのようなニュアンスだといえます。

 しかしながら、いじめを苦にして自殺するほど執拗に追い詰められており、かつ、母親が外国出身であるというケースで、はたして民族的出自がいじめの原因や手段に用いられていなかったなどと想定することは妥当でしょうか。

 周知のとおり、いじめは非常に些細なきっかけで起こるものです。いじめる/いじめられるという関係は非常に流動的で、誰だっていじめのターゲットにはなりえます。偶発的、恣意的に、境界線は引かれますので、極端な場合、昨日の人気者が今日のいじめられっ子ということもありえます。

 ただ、偶発的、恣意的であるということと、ランダムであるということは違います。なぜなら、基準の適用は恣意的でありながらも、既存の価値意識を反映して、つねに排除され、いじめられる側に置かれる者が出てくるからです。そして、日本において、民族的出自は、そうした恒常的に排除の機能を果たす基準として流用されやすい属性の一つなのです。

 である以上、フィリピン出身の母親を持つ女児がいじめで自殺したという事件について、母親の出身が記事で言及されなかったということは、意図的に、その情報が隠蔽されたと解釈する方が自然です。

 ぼくには、この事件の報道記事で言及される周辺情報の集合(P)の中に、明らかに、「女児の民族的出自という要素」(E)が欠落しているように見えたわけです。

 ところで、この事件の報を聞いて、真っ先に思い出したのが、1979年、埼玉県上福岡市で在日朝鮮人である林賢一君が自殺した事件でした。

 事件の詳細については、金賛汀『ぼく、もう我慢できないよ―ある「いじめられっ子」の自殺』(講談社文庫)、もしくは、子どもの権利に詳しいウェブサイト「プラッサ」から「子どもたちは二度殺される【事例】」を参照してください。

 いじめ苦の自殺が報道に載りはじめたばかりの時期でしたし、遺書に加害者の名前が記載されていたこともあって、ずいぶんメディアを賑わせた事件でした。にもかかわらず、ジャーナリストである金賛汀氏や民族団体が積極的に介入するまで、どこのメディアも、この事件が民族差別に起因するものであることを報道しなかったのです。

 関連の書籍を参照していただければ、林賢一君の事件は、(1)民族差別が絡むいじめによって自殺が発生したこと、(2)日本のメディアはその事実を報道しようとしなかったこと、という2点が記憶されるべき出来事と指摘されていることに気づくことでしょう。

 そして、まさにこの2点において、ぼくは桐生市のケースは相似の構図にあると直感しました。

 事実、いまだにメディア各社は、いじめと関連して児童の民族的出自に言及することをかたくなに拒んでいるかのようです。例外的に、毎日新聞だけは、「母親がフィリピン人であることもいじめの原因の一つだと思う」と自殺した児童の父親の発言を紹介したり(10月27日)、社説で簡単ながらその父親の発言に言及するなど(10月29日)、報道姿勢に修正がみられる程度ですね。

 なぜ、メディア各社は、自殺した児童の民族的出自に(あえて)言及しなかったのでしょうか。

 その理由はわかりません。ただし、前述したツイッター上の議論に対する反応から、ヒントは得られるのではないかという気がしています。いくつかピックアップして紹介しましょう。

「貧困。外見(遺伝)。親の職業(賤業だとする差別もあるが『あいつ社長の息子だって。生意気な』的なものも)。民族差別だけが差別として特殊なわけでもない。」

「ありとあらゆる理屈を用いて、何がなんでも"民族"差別というカテゴリーに入れたい人がいるのが困るんですよねぇ。」

「ただ民族差別って言いたいだけだろ。『また、朝鮮人がはまってきたか』としか思えない。」

 いかがでしょうか。冒頭で述べたとおり、メディア各社の報道内容に含まれていてしかるべき要素E(民族的出自)の欠落を指摘することがぼくの主張の骨格だったわけですが、これらの反応は、「あなたはEだけで集合Pを語るつもりなのか」と反発しているようです。

 では、どのような場合に、こういう奇妙な反発が生じるのか。

 第一に、もともと要素Eが全体集合Pの定義に含まれない場合。第二に、要素Eを排除したり不可視化しなければならない暗黙の理由がある場合。

 ぼくには、この2つのケースしか思い浮かびません。では、今回の事例はどちらに当てはまるか。林賢一君の事例から明らかだと思われますが、第一のケースを想定するのは非現実的でしょう。したがって、答は第二のケースです。

 といっても、「要素Eを排除したり不可視化しなければならない暗黙の理由」の正体が何なのかまではわかりません。一つは、犠牲者非難でしょう。でも、他にも理由があるかもしれません。

注)犠牲者非難については、「差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある」 | 「差別の存在を認めない傾向とは」 | 「橋下発言にみるVictim blaming」を参照のこと。

 ただ、重要なことは、その正体が何であるにせよ、この状況(民族差別の存在に注目することを忌避させる圧力)を放置したままでは、同種の事件の再発防止策を検討することすら許されそうにない、ということです。

 林賢一君の事件の場合、関係者の努力が実り、再発防止について検討が行われました。「上福岡市在日韓国・朝鮮人児童・生徒にかかわる教育指針について」(上福岡市教育委員会 1983年3月31日)という文書にその成果が見られます。

 それに対して、桐生市はどうでしょうか。 

 こちらの図http://ow.ly/i/4Y7r)は、ぼくの同僚である石田淳くんが作成してくれたもので、同市の外国人登録者数の推移(1992-2009年)をあらわしたものです。1995年から2000年まで女性の登録者数が二倍になっていることが確認できます。

 桐生市の教育委員会は、この増加に対応できるだけの施策をもっているのでしょうか。

 残念ながら、今回の事件で、度重なる父親からの申し入れにもかかわらず、実質的に学校側がなんの対応も採れなかったことを想起すると、実効性のある施策は何一つ持ち合わせていないのではないと思われます。

 日本においては、そこにあるはずなのに、見えないもの。すなわち、エスニシティ(民族的な存在)。

 しかし、グローバリズムが進展する中、いつまでそのような暗黙のベールが許されるものでしょうか。

 同様の事件が二度と起こらないようにするには、まず、事件の関連情報から民族的出自の存在を除外しないようにすること。エスニシティの存在とその重要性を直視すること。小さな小さな一歩ですが、そんなところから始めなければならないようです。

 来月早々、私の勤務校で下記の通り学会大会が開催されますので、ご案内いたします。

第 26 回日本解放社会学会大会

◆ 会場  関西学院大学西宮上ヶ原キャンパス
◆ 日程  2010 年 9 月 4 日?5 日
◆ 大会参加費
  会員(常勤職) ?2,000
  会員(非常勤職・大学院生等) ?1,000
  非会員 ?2,000

 テーマ部会は「同和対策事業の光と影――現場とアカデミズムの対話から―― 」および「ジェンダー・セクシュアリティ研究とアイデンティティ・ポリティクス」の2本。

 学会大会・懇親会へは会員でなくても参加できます(←ココ重要) プログラムに関心をお持ちになりましたら、ぜひ懇親会ともどもご参加ください。

 以下、大会のプログラムです。

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2010 年 9 月 4 日(土) 
 
13 時 30 分
受付開始(関西学院大学E号館 102 号室前)
 
 
14 時 00 分?16 時 30 分  
自由報告部会(関西学院大学 E 号館 102 号室)
 
司会:金明秀(関西学院大学)
 
1.孫・片田晶(京都大学)
在日朝鮮人 3 世の学生組織と
「学習」的実践としての在日アイデンティティ
 
2.金沙織(埼玉大学)
強制連行と療養所収容と――ハンセン病問題聞き取りから――
 
3.黒坂愛衣(東京外国語大学)
強制隔離と患者労働――ハンセン病問題聞き取りから――
 
4.福岡安則(埼玉大学)
「原告 vs.非原告」の対立図式を超えて
――ハンセン病問題聞き取りから―― 
 
16 時 40 分?17 時 30 分  
理事会・総会(関西学院大学E号館 102 号室)
 
17 時 40 分?18 時 20 分
優秀報告賞選考会議(関西学院大学E号館 201 号室)
 
18 時 30 分?20 時
懇親会(関西学院会館)
 
懇親会費
?5,000(常勤職)
?3,000(大学院生など)
 
 
2009 年 9 月 5 日(日)
9 時 45 分  
受付(関西学院大学E号館 102 号室)
 
 
10 時?12 時 30 分  
テーマ部会?(関西学院大学E号館 102 号室)
 
テーマ:同和対策事業の光と影
――現場とアカデミズムの対話から――
 
司会  三浦耕吉郎(関西学院大学)
 
報告:
 
1.山本哲司(龍谷大学)
部落差別におけるアイデンティティ問題の諸相
――まちづくり事業を終えて
 
2.二口亮治(大阪市人権協会)
部落関係者とは誰か――新しい部落分散論に抗して
 
3.山本崇記(立命館大学)
京都市における「ポスト同和行政」の展開とその課題
――住宅地区改良事業と隣保事業という「呪縛」
 
討論者:黒坂愛衣(東京外国語大学)
川端浩平(関西学院大学) 
 
 
14 時 00 分?16 時 30 分
テーマ部会?(関西学院大学E号館 102 号室)
テーマ:
ジェンダー・セクシュアリティ研究とアイデンティティ・ポリティクス
 
司会:風間孝(中京大学)
 
報告:
 
1.戸梶民夫(京都大学)
被差別者アイデンティティの語りの変化
――在阪性的少数者グループの参与観察から
 
2.堀江有里(立命館大学)
〈アイデンティティ〉の共有と抵抗の不可能性
          ――ある性的少数者コミュニティの事例から」
 
3.菊地夏野(名古屋市立大学)
フェミニズム理論におけるアイデンティティの限界と可能性
――バトラー/コーネル/スピヴァク
 
コメンテーター:高橋慎一
渡邊太(大阪大学) 

 移民研究の分野には、「移民に対して偏見や悪感情が高揚するのはどういう場合か」という問題設定があります。ある国では移民が歓待されているのに対して、別の国では犯罪者同様に忌み嫌われている。その差はどこにあるのか、ということですね。

 いろいろな仮説が提唱され、様々な国で検証が行われていますが、多くの国の調査で統計的に有意な説明力を安定して示す仮説がいくつかあります。その一つは、「移民はこの国の役に立つ」と信じている人ほど移民に悪感情を持たない、というもの。逆にいえば、「移民はこの国の厄介者だ」と信じている人ほど移民の排斥に賛成する、という仮説です。

 リベラルなスタンスからは、「人のことをまるでモノのように《役に立つ》などと、いったい何さまなのだ」という倫理的反発を覚える方もいらっしゃるでしょう。しかし、例えば、こちら(不景気だからこその移民政策のススメ - My Life After MIT Sloan)のコメント欄をお読みいただくだけで、この仮説がどのような人々を説明しようとしているのか、お分かりいただけると思います。

 この仮説については、後日いくつかの文献を詳しく紹介する予定ですが、直接的には今回のテーマではありません。今回とりあげるのは朝鮮学校です。

 朝鮮学校といえば、チョゴリ切り裂き事件に象徴されるように、時として憎悪の対象となってきました。暴力を振るわないまでも、「独裁者崇拝を教える異常な学校」という認識を持つ人は少なくないようです。そうやって、朝鮮学校を「この国の厄介者だ」と思っている人々が少なからずいるかぎり、朝鮮学校が偏見や憎悪の対象から外れることは期待しにくいでしょう。しかし、今後とも在日コリアンが日本に定住していく以上、それは誰にとっても不幸なことだといえます。

 つまり、今回のテーマは、朝鮮学校が《日本の役に立っている》理由を整理してみよう、ということです。題して、「朝鮮学校が日本に存在する5つのメリット」。読者の皆さんは、この思考実験を経ることで、無償化排除問題などについて意見がよりポジティブな方向に変わるかどうかをそれぞれ自己検証してみてください。

 なお、この記事ではあえてマジョリティ視線に立って、パーソンズのAGIL図式を手掛かりに話を進めていきます。

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 まずは「適応(Adaptation)」から。これは、システムの外部に働きかけて必要な資源を調達するサブシステムのことで、国家レベルでいえば経済にあたります。日本経済に朝鮮学校が寄与していることは何か?

【メリットその1 韓国・朝鮮語話者の大量供給】

 朝鮮学校は韓国・朝鮮語話者を継続的に輩出しています。2000年からの韓流を支えたドラマや雑誌の翻訳は、そのほとんどが朝鮮学校出身者の手によるものです。韓流による経済効果は、朝鮮学校が支えたといっても過言ではありません。

【メリットその2 誕生圏経済のリクルート源】

 これは朝鮮学校というより在日コリアン全体にいえることですが、1980年代に入るまでは非常に厳しい就職差別があったため、学歴にかかわらず一般企業に勤めることは非常に困難でした。その結果、在日コリアンは自ら起業するケースが多かった。

 統計の取り方(「自営」の定義)によりますが、なんと在日コリアン男性の5割から6割が自営業主です。この比率は日本人男性の2倍以上。いかに自営業に追い込まれてきたかわかりますね。

 しかし、裏を返せば、自営業のノウハウと知識と人脈を持ち、ベンチャー起業のリスクを果敢にとりにいける人材を、朝鮮学校は大量供給しているともいえます。国家の庇護に頼らない自由で不羈の企業人を朝鮮学校は輩出してきたというわけです。

 日本にもグローバリズムが浸透しつつある中で、在日コリアンは貴重な生存戦略のモデルを提供してくれるかもしれませんよ。

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 次に、「目標達成(Goal attainment)」について考えてみましょう。これは、システム共通の目標に向かって外部に働きかけるサブシステムのこと。国家レベルでいえば政治(外交)にあたります。日本政治に朝鮮学校が寄与していることは何か?

【メリットその3 北朝鮮との外交カード】

 ときどき、北朝鮮の人権侵害を批判しながら、朝鮮学校を差別しようとする政治家がいます(例えば「橋下府知事の発言をめぐる諸問題」)。

 しかし、これはまったくナンセンスな話であって、こんな論理矛盾に満ちた主張をしているかぎり、日本政府の北朝鮮批判は国際社会で通用しません。事実、日本政府が行っている朝鮮学校に対する差別は、国連の諸機関で批判の対象となっており、北朝鮮が日本を批判する糸口になってしまっています。

 でも、裏を返せば、日本政府が朝鮮学校をきちんと処遇しさえすれば、人権外交上のポイントになりうるわけです。

 拉致問題以降、北朝鮮外交といえば「圧力をかけろ」の一辺倒で、実質的には、むしろ日本は外交カードを何も持っていない状態です。朝鮮学校の存在は、北朝鮮外交の閉塞状況を打破する重要なカードになりえます。

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 次は、「統合(Integration)」。これは、システム内部の利害を調整するサブシステム。国家レベルでいえば、共同体や司法がそれにあたります。日本の共同体や司法に朝鮮学校が寄与していることは何か?

【メリットその4 「民主主義の学校」の教材】

 A.トクヴィルやJ.ブライスの言葉を受けて、「地方自治は民主主義の学校である」と論じられることがありますね。そのココロは、「地域共同体という身近な環境で身近なテーマについて民主的に解決する訓練を積まないかぎり、国家という巨大な機構を民主的に運営することは難しい」ということです。

 その点、朝鮮学校は共同体内にある非常に身近な異文化集団です。これを安易に排斥しようとせず、利害を調整しながら上手に付き合うスキルを習得することができれば、日本の民主主義はきっと成熟の度合いを深めることでしょう。 

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 最後は「潜在(Latency)」。 これは、シンボルによってモノゴトを意味づけることで、集団のパターン(◎◎らしさ)を維持するためのサブシステムです。少しわかりにくいですかね。文化を維持するサブシステムと言い換えてもかまいません。国家レベルでいえば、教育やマスメディアなどの社会化エージェントが相当します。

【メリットその5 カウンターカルチャーの供給基地】

 あえて人名を挙げるのは控えますが、日本を代表するような文化人には、在日コリアンが少なくありません。著名な文学賞を受賞した小説家、映画賞を受賞した監督、有名なアーティスト、等など。90年代には、「在日文学抜きにはもはや日本の文学を語ることはできなくなった」という声すらあったぐらいです。

 在日コリアンのハイブリッドな文化環境での生育経験や、マイノリティとしての被差別体験などが、日本人にとっての《あたりまえ》を揺るがすメッセージを生みだすためでしょう。1970年代以降、在日コリアンは、サブカルチャー、カウンターカルチャーの供給源であり続けてきました。

 ところで、それら在日コリアン文化人の多くが、朝鮮学校の経験者です。朝鮮学校は、いわば、日本におけるカウンターカルチャーの供給基地なのです。次の文学、次の芸術、次の映画が、いま、朝鮮学校で育っているのかもしれませんよ。

 鳩山元総理が、普天間基地の問題解決に前向きに取り組もうとして挫折したことは周知の通りです。

 一方で、沖縄に軍事基地が集中している状況について、国連の人種差別撤廃委員会が日本政府に改善を勧告していることをご存知でしょうか。それも、過去に何度も繰り返し「差別的」だと明言してのことです。

 人権問題などニュースバリューにならないということか、はたまた「国益」にならないという判断なのか、マスメディア各社はこの事実を積極的には報道してきませんでした。それどころか、沖縄の米軍基地負担を「仕方がない」と論じ、鳩山元首相に対しては「寝た子を起こしてしまった」と批判するケースが多かったようです。

 しかし、この問題は「仕方がない」で済まされることではなく、日本が批准している条約上、違法性が高い人権侵害だと国連から指摘され続けていることを知るべきでしょう。

 ところで、差別問題を研究している者にとって、「寝た子を起こすな」という主張はたいへん馴染みの深いものです。その類の主張を聞いたことのない差別研究者はモグリと呼んでかまわない――といえるほど、日本で差別が語られるときに一般的なスタンスだからです。代表的な語りを2つ紹介しましょう。

「差別だと騒ぎ立てるから、いつまでたっても問題が持続してしまうのだ。」
「些細なことを差別だと指摘したりせず、じっと静かにしていれば、そのうち差別など消えてしまうだろう。」

 上述の通り、これらはたいへん一般的な主張です。しかしながら、それをそのまま真に受ける差別研究者は、まずいません。なぜなら、すでに各種の調査において、この種の主張はマイノリティに差別的な主張群と高い正の相関関係を示すことが確認されているからです。もっとわかりやすく言い換えると、「寝た子を起こすな」という主張をする人は差別的な傾向がある、ということです。

 ちなみに、この関係は非常に多様なエビデンスによって支持されており、人文社会科学的な命題としてはかなり頑健なものだといってかまいません。(類似の現象も参照のこと「差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある」)

 さて、この「事実」を、沖縄の基地問題に敷衍すると、どういうことになるでしょう。行為の次元が異なるため、単純に同一視するのは慎重であるべきかもしれません。

 しかし、いち社会学者としての個人的な直感を述べるなら、鳩山元首相に対して「寝た子を起こしてしまった」と批判したマスメディア各社は、どうしても、沖縄への差別意識を垂れ流しているように思われて仕方がないのです。そう考えたとしても、ムリはないと思いませんか?

 ロバート・E・パーク(1864-1944)といえば、「社会学入門」で必ず習う巨人の一人です。いわゆるシカゴ学派の隆盛を支えた最重要人物で、都市社会学や人種・民族関係論に深い足跡を残したことで知られています。

 パークは社会学説史上の輝ける星です。しかし、ずっとアカデミアで活躍してきたわけではありません。ミシガン大学でジュン・デューイに師事し、実践的な問題への関心を深めた後は、大学院へと進学せずに人権派ジャーナリストとして全米各地で約10年の経験を積みます。特に人種問題には強い関心を示し、ベルギー領のコンゴで土地の人々がベルギー王室からきわめて過酷な扱いを受けていることを知るや、国際紙上での告発を通じて対応を改善させたこともありました。今ならめずらしい話ではありませんが、なにせ19世紀のことです。奴隷解放宣言からまだ30年前後という時代なのですから、パークが当代随一の人権家であり、理想家であったことは間違いありません。

 その後は大学院でふたたび学問を修め、シカゴ大学に就任してからは偉大な研究業績を量産していきました。日本ではパークの業績として都市社会学の研究ばかりが紹介されますが、アメリカでは彼のライフワークとして人種関係論を挙げる人が圧倒的に多い。パークはアカデミアにおいても実践家であり、特に人種問題には一貫して関心を示し続けてきたからです。 

 そんなパークですが、現代のアメリカにおいては、どうにも人気がない。それどころか、リベラル気質の若い研究者たちから「彼はレイシストだ」と忌み嫌われていたりします。人権家であったはずのパークですが、いったいなぜ没後に評価が反転し、こともあろうに「レイシスト」と呼ばれるようになってしまったのか。

 そのことを議論する前に、まずはパークの業績を少し紹介しておきたいと思います。パーク自身は「人種関係循環モデル」(1921年)と名づけたものの、現在はより簡単に「同化理論」と呼ばれている論考です。

 パークらによると、文化的に異質な集団が「接触」した後に生じる相互作用には、段階的な4つの類型があるといいます。すなわち:

  1. まず、稀少資源の獲得をめぐって各集団がそれぞれ「競合」し、経済的に分業が成立するステージをへて、
  2. 努力目標が競合集団への政治的攻撃に転化する「葛藤」のステージにいたる。
  3. 競合や葛藤によるコストを軽減するために、各集団は文化的独自性を保ったまま、一定の「適応」の努力をするようになり、
  4. ついには、競合集団の文化や価値を完全に受容する「同化」の段階に達する。

 パークは科学的な一般理論指向が強い研究者でしたので、「人種関係循環」についても科学的一般性を備えていると信じました。「接触から競争へ、競争から葛藤へ、葛藤から適応へ、さらに同化へと必然的に社会体系は変動し、このコースを変えることはできない」と。

 さて、パークの理論に対しては、3つのスタンスから批判が寄せられています。

 第一の批判は、同化が「必然的に進行するプロセス」というのは誤りだ、という指摘です。たしかに、(1)から(3)までは、非常に多くの国の移民集団で共通して観察される現象だといえます。それに対して、(3)から(4)にいたる同化プロセスは、どこの国のどの移民にも当てはまる話とはいいがたいのですね。むしろ、パークの後を引き継いだミルトン・ゴードンによると、(3)までで同化は止まってしまって、その先には進まないケースが多い。

 また、理論的にも(3)から(4)にいたるプロセスの説明があいまいです。大まかに彼らの主張をまとめるに、(a)時間の経過とともに移民後の世代交代が進行し、(b)エスニック・ゲットーから郊外に居住地を移す者が増加する、(c)それによって、地域的な隔離が解消する。また、(d)社会階層の民族間格差も自然と減少していく。(e)そうしたプロセスは、民族集団の集合性と独立性を解体することになり、(f)同族内のコミュニケーションを減少させ、(g)アングロ・サクソン系の文化に同化する「アメリカ化」が達成されるのだ、と。しかし、人種主義が激しければ、いくら世代交代が進んでも階層移動や地域移動が進まないケースはいくらだって考えられますので、彼らの説明は論理に飛躍があるといわざるをえません。

 第二の批判は、あまりにも理想主義的だ、というもの。

 パークらがこの理論を提出した時期は、アメリカ南部諸州において事実上のカースト制が法制化されていたいわゆる「ジム・クロウ期」のまっただ中であり、法によって人種の隔離が義務づけられ、法の外ではクー・クラックス・クラン(KKK)による大々的なリンチが繰り広げられていた時代でした。いわゆる「人種主義の世紀」の真っ只中です。当時のもっとも一般的な反応は、「ヨーロッパからの白人移民集団すら交じり合うのが難しいのに、アジア系や黒人と完全に同化するなんて気持ちの悪いことをいうな」というものだったでしょう。(というようなことが論文にチラと書かれていました。)

 ところが、時代を経て1960年代に入ると、しだいにリベラル勢力から批判を受けるようになっていきました。すなわち、上述のような時代に、たいして説得力のある根拠を示すわけでもなく、同化が「必然的に進行するプロセス」などと主張するのは、厳しい差別の現実が見えていない証拠だ、というわけです。

 たしかに、人種・民族間の競合が生じるのは、多くの場合、支配的な民族集団と従属的な民族的マイノリティのあいだです。したがって「葛藤」とは、事実上、支配的民族集団による民族的マイノリティへの抑圧や収奪を意味します。このような権力関係は、マジョリティ側が権益を得る構造である以上、むしろ安定的なものであるとみなすほうが自然です。つまり、パークらの言うように適応、同化へと移行する動因が論理的に成立しないのです。にもかかわらず、パークらが同化は自然に達成できると主張したのは、人種主義へのアンチテーゼを過度に意識するあまりに、ある種の理想を論じたのだと解釈せざるをえないのですね。

 第三の批判は、同化そのものを理想視する視点が非倫理的である、という批判です。1970年代ぐらいから、多文化主義の進展とともに、「同化は『差異への権利』を暴力的に抑圧する人権侵害」であるという理解が普及し、今では、「同化=人種主義的」という考え方が一般的になっています。

 日本ではむしろ、同化は共同体が示す善意であり歓迎の表現とされます。例えば、転校生が土地の言葉を話すようになると、ようやく「本当の仲間になった」と喜んだりしますね。在日コリアンに対して、本当の仲間になってほしいからこそ日本に帰化してほしい、などの表現もよく聞かれます。だから、アメリカでは同化を非倫理的だとみなす視点が一般的になっていると聞いても、ピンとこない人が多いかもしれません。

 でも、たとえば次のようなケースを考えてみてください。 

 Aさんは京都の女子大学を卒業し、東京で就職しました。職場で同じ京都出身の男性と知り合い、すぐに結婚し、子どもが産まれました。家庭内ではみんな京都の言葉を話します。

 ある日、子どもが幼稚園に入りたがらない。どうしたのかと思っていると、別のお母さんが話しかけてきた。いわく、「お宅のお子さん、私たちの子どもと遊ばせないでいただけませんか? 関西の下品な言葉がうつっちゃうと困るんです。標準語を話せないなら、もうこの幼稚園から出て行ってほしいんですよね。」

 Aさんは仕方なく、子どもに東京の言葉を使うように促すのですが、「今日さぁ、幼稚園で友だちに笑われちゃって、なんだかイヤになっちゃったよ」などとなじみのない言葉を話すのを聞くと、わが子への愛情が薄らいでしまう気がするのでした。

 どうです。Aさんの立場からすれば、ずいぶん屈辱的な状況でしょう。心の痛む場面だと思いませんか。自分が母親に話しかけたのとは違う言葉で自分がわが子から話しかけられるんですよ。それはさびしいものです。自分で納得して土地の文化になじむのであればまだしも、半ば強要されてのことですから、屈辱感や寂しさはいっそう引き立ってしまいます。それが、同化というものです。同化には心の痛みが伴うのです。

 上述の通り、70年代ぐらいからアメリカではこうした事情が知られるようになり、その結果、同化を強要したり、同化を理想視する考え方を、非人道的であると批判するようになっていったわけです。また、同化させる側の文化を優位にとらえているという意味で、異民族を同化させようとする人を「レイシスト」と呼ぶようになっていきました。

 パークは人種関係論に社会学的視座を持ち込んだ初めての偉大な人物であり、その業績である同化理論があまりにも有名であったため、「同化の象徴」として嫌悪されるようになったのですね。

その後の顛末

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 前回の記事(「帰化すればいい」という傲慢)について、その後の経緯を説明しておく必要があります。

 ツイッター上で宮台真司さんご本人と激しく意見を交換したところ、論点1で指摘した件について、率直な謝罪と撤回の弁がありました。

miyadai:#miyadai デマを言ったとは思わない。だが生活保護は別に社会福祉の受給権の歴史を勉強させて貰いました。特権という言葉は使ってないが、日本人並み云々は撤回します。RT @han_org: ...多数の無礼な表現、申し訳ありません。一方、あなたもデマの流布を謝罪してもらえませんか。 [http://twitter.com/miyadai/status/11284450923]

miyadai:#miyadai デマとは「あえてつくウソ」という意味ですが、特別永住者の社会福祉受給権の歴史について、知っていて無視したのではなく、知りませんでした。ただ僕は研究者なので、査べなかった怠慢は謝罪に値すると思っています。今後もよろしくお願いします。@han_org [http://twitter.com/miyadai/status/11284707876]

 ぼくの周囲では、前回の記事や、議論の途中における宮台氏のツイートをお読みになった方の中から、氏の人格に疑問を持つという意見も聞かれました。しかし、見知らぬ者(ぼく)から攻撃的な主張をぶつけられて、率直にそれを認めるなど、なかなかできることではありません。とても立派な態度だと思います。

 また、結果としては、特別永住権そのものが「特権」だったということはないと認めていただいたわけで、この点については今後おそらく応援してくださることでしょう。

 取り残した議論もありますが、上記の撤回に加えて、「犠牲者非難になっている」という批判に一定の理解が示されたことで、ぼくの批判の中核となる対象は解消されたといえます。

 末筆ながら、宮台真司さんには激しい議論にお付き合いいただき、ありがとうございます。また、無礼な表現の数々、失礼いたしました。

 以上、取り急ぎ連絡まで。

【BLOGOSさんへ】

 転載不可です。

 永住外国人に地方参政権を付与する法案はけっきょく日の目を見ませんでしたが、それに関連して一言いっておきたいことがあります。

 宮台真司氏のブログhttp://www.miyadai.com/から、「外国人参政権問題について週刊SPA!12月15日号にコメントしました」の一部を引用します。

■外国人参政権を考える上で、在日韓国・朝鮮人とそれ以外を分ける必要があります。在日韓国・朝鮮人以外の永住外国人は、'90年の入国管理法改正(永住権のない外国人を柔軟に受け入れることを目的として「定住者」という新しい在留資格を創設するなどした。これで日系外国人の在留が激増)大量に入国した日系人が中心です。
■在日韓国・朝鮮人については国籍取得が容易なので、参政権を求めるのであれば国籍を変えていただきたい。帰化をすればエスニック・アイデンティティに瑕がつくとの反論もありますが、国籍とエスニック・アイデンティティを分けて考えるのが国際標準なのです。

 シッタカブリというか、なんというか...。初めてこれを読んだときは呆れて物もいえなかったけど、その後、TBSラジオの「アクセス」でも、在特会レベルのご高説を自信たっぷりに開陳していたようですね(2月16日)。ヘイト・スピーチといっても過言ではない内容です。

特別永住者の方々が最初は2世までという約束で基本的には国籍を取っていないのに日本人に準じる権利を様々に与えられというのは、ご存知のように在日の方々の多くが強制連行で連れてこられたという左翼が噴き上げた神話が背景にあるんです。在日のなかで強制連行されてきた方というのはごく一部で、大半は一旗上げにやってきた人達なんですよ。ただ、区別がつかないから、あるいは戦争に負けて罪の意識というか原罪感覚というのがあったのでしょうか、まぁ、色んな人が混ざっちゃっているけど、しょうがないということで分かってやっている感じで特別永住の方々に対する特権の付与をやってきたわけです。僕に言わせると、あえてそれをやっているという感覚が段々薄れてきてしまっていることも問題だし、1世、2世とは違ってエスニックリソースを頼らず、日本人のネットワークをそれなりに頼っている人間が増えたのに、まだ4世、5世にも特権を与えるのが続いているのはおかしいし

 完全にスルーしたままだと、彼が正しいことをいっているのだという誤解を広めてしまうかもしれないので、いささか出遅れた感はありますし、力不足ではありますが、ここらできっちり訂正する努力はしておくべきでしょう。

1. 平然とデマを流布する傲慢

 まず基本的な歴史の問題として、「特別永住者の方々が最初は2世までという約束で基本的には国籍を取っていないのに日本人に準じる権利を様々に与えられ」たという事実はない。これはおそらく、「91年問題」をご都合主義的に曲解しているのであろう。

 1965年に締結された日韓条約において、「協定三世」(実質的には在日4世以降にあたる)の滞在地位は、協定発行後25年(1991年)までに協議を行うとだけ定められた。これは日韓両政府が、戦後半世紀近くもたてば同化の進展により在日問題は《消失》している可能性があると期待していたことによる。いわば、在日韓国人は日韓両政府から保護の責務を放棄されたわけであって、けっして、「2世までという約束で......日本人に準じる権利を様々に与えられ」たわけではないのである。

 その証拠に、日韓条約締結後も、在日コリアンに対するさまざまな差別は温存された。1965年といえば、法務省の池上努氏が在日外国人を評して「権利はない」「追い出すことはできる」「煮て食おうが焼いて食おうが自由」だと表現した年である。いくつかの例外的な措置を除けば、外国籍者に基本的人権すらも認められていなかった時代の話だ。いったい、何をもって「日本人に準じる権利を様々に与えられ」たなどといえたものか。

 ねえ宮台さん。「2世までという約束で基本的には国籍を取っていないのに日本人に準じる権利を様々に与えられ」たという発言を裏付ける歴史的事実が何か一つでもありますか。特に、2世が活躍するようになった1965年から1981年までの間、「日本人に準じる権利」と呼べる「約束」なるものが、何かありましたか。ぜひとも、証拠を示してほしいもんです。

2. 歴史問題を矮小化する傲慢

 宮台氏は「在日のなかで強制連行されてきた方というのはごく一部で、大半は一旗上げにやってきた人達なんですよ」という。

 なるほど、それは《ウソ》とは言い切れない。いわゆる強制連行で日本に渡ってきた在日一世の男性は2割程度だと推定されている。逆に言えば、8割は出稼ぎだ。したがって、ミクロな次元では、「一旗上げに」海を渡ったケースも当然多かったろう。

 だが、日本が朝鮮半島を植民地支配した36年の間に、朝鮮半島からは膨大な人口が半島外に流出した。植民地支配のプロセスで、伝統的な社会秩序と経済基盤が崩壊したためである。そうしたマクロな社会状況に言及することなく、ミクロな次元でのみ捉えようとするのは公正な視点とはいえない。

 社会学では、こうしたマクロな社会状況の影響で生じた社会移動を「強制移動」と呼ぶ。純粋に自発的な意思で移動したと推定される移動(「純粋移動」)とは区別して分析するためだ。宮台氏も、社会学者である以上、そうした用語法と分析視角についてまったく知らなかったということはあるまい。

 おそらくは、意図的に、在日コリアンの歴史を、ミクロな次元に矮小化しようとしたのであろう。そのことについて、倫理的な問題を責めようとは思わない。だが、少なくとも社会学者として、恥ずかしいとは思わないのかね?

3. マイノリティの生き方を決め付ける傲慢

 ぼくはかつて、「在日コリアンに地方参政権の門戸を開くかどうかというのは《日本人の問題》だ」と書いた(外国人の地方参政権 #1)。すなわち、日本で生まれ育ったにもかかわらず意思決定に参加できない者がいるということを不正義だとみなすか、それとも、「ガイコクジン」だから仕方がないと排除するか、それを責任を持って決めるのは日本人の課題だということだ。

 議論のうえで、やはり外国人には意思決定に参加させられないというのなら、(参政権が認められないことではなく隣人として受け入れられなかったことが)たいへん残念ではあるが、一つの結論として重く受け止めよう。

 だが、「参政権を求めるのであれば国籍を変えていただきたい」などと、マジョリティの知識人が、マイノリティの生き方に口を挟む暴力を、ぼくは許すことができない。

 かりに、宮台氏が「特別永住者には無条件で日本国籍を選択できるようにすべきだ」という言論を同時に展開しているのであれば、まだロジックとしては理解できる。だが、参政権がほしければ頭を下げて仲間入りを請えといわんばかりの一方的な放言を、けっして認めることはできない。

 宮台氏はこうもいったらしい。「日本人のネットワークをそれなりに頼っている人間が増えたのに、まだ4世、5世にも特権を与えるのが続いているのはおかしい」。

 なるほど、「おかしい」だろう。「3世以降になっても外国籍のままであるのはそれ自体が人権侵害である」との主張により国籍法を改正した国もあるほどだ。それを、外国籍のまま放置した旧宗主国の責任を問わず、一方的に「在日特権」呼ばわりするとは、宮台氏の認識こそ「おかしい」のではないか? 

 なお、私が日本の国籍を取得しないのは、「帰化をすればエスニック・アイデンティティに瑕がつく」からではないことを申し添えておく。

4. 「国際標準」を語る愚かさ

 宮台氏は、「国籍とエスニック・アイデンティティを分けて考えるのが国際標準」であるという。ほお、ずいぶんと世界のエスニック・マイノリティについて詳しいらしい。宮台氏にそんな研究業績があったとは知らなかった。

 確かに、国籍とエスニック・アイデンティティが独立しているケースは少なくない。出生地主義の国籍法を持っている国では概してそういう傾向がある。だが、国籍が移民のエスニック・アイデンティティに重要な役割を果たしているケースも少なくはない。「世界標準」などと乱暴に一般化できるようなものではないのである。というより、これだけ複雑で微妙な問題を「世界標準」などと一般化してしまうことで、自らの無知をさらけ出しているも同然である、とぼくは思いますがね。

5. 簡単ならやってみるがいい

 宮台氏は、「在日韓国・朝鮮人については国籍取得が容易」だという。ぼくには日本国籍を取得した在日コリアンの知人もいるが、「容易だ」などという人にはお目にかかったことがない。

 そんなに「容易」だと思うなら、宮台氏自身がやってみればいい。一度、日本の国籍を離脱した上で、再度、日本国籍を取得してみなさい。元日本国籍者は、在日コリアン以上に、日本国籍取得が容易らしいですよ。

 その上で、本当に「容易」だったというのなら、あらためてあなたの発言を評価することにしよう。

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【3月30日追記】→「その後の顛末」へ

差別には2つの次元がある

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 「差別には2つの次元がある。」

 これは、差別研究の分野では、誰もが知っている常識、定説の一つといっていいでしょう。

 つまり、差別には、「序列化」と「差異化」という2通りのロジックがある。その結果、差別事象は「格差づけ/見下し」と「異化/排除」という2通りの次元で表出する、ということです。

 差別のこの2面性をしっかり理解しておかないと、具体的な事象を観察しても、その差別性を認知することが難しくなります。片方の次元にのみ注目していると、もう片方の次元で現れた差別を見落とすことになってしまうわけです。

 以下、もう少し詳しく説明していきます。

1. 序列化のロジック

 (1)ある集団に帰属する者を、「われわれより劣った者だ」とみなす。そして、(2)「あの人たちは劣っているのだから不利な扱いを受けても仕方がない」と考える。これが序列化のロジックです。このロジックに沿った差別的な考え方の具体例をいくつか示しましょう。

    • 女は論理的思考能力という点でわれわれ男性に劣る。大事な仕事を任せられず、昇進が抑えられても仕方がない。
    • 黒人は知能においてわれわれ白人に劣る。奴隷として白人に奉仕するのは神が定めた摂理だ。
    • 朝鮮人は誠意においてわれわれ日本人に劣る。入居にあたって、日本人の3倍の保証金を納めてもらうのは当然だ。

 ようするに、特定の社会的カテゴリーに所属する人を「劣っている」と決め付け、侮辱し、一方的に攻撃する。そして、資源を奪ったり、資源の入手を制限したりする。また、資源の分配に不平等を持ち込んだりする。そして格差が固定すると、「ほら劣っている」と見下しが改めて強化される。そうした一連のプロセスとしてあらわれる差別の次元を、序列化のロジックと呼ぶわけです。

 さて、序列化のロジックについては、どちらかというと、直感的にわかりやすい面があると思います。

 なぜなら、多くの場合、序列化のロジックには偏見をともないますし、侮辱や不平等など差別に付随しがちな現象も観察されやすいからです。(ただし、偏見を持っている人は、自分が偏見を持っているという事実になかなか気づかないというのは、よく知られた事実です。)

 結果として、「差別」だと認知しやすいし、「差別」だとクレイムを付けやすい。逆にいうと、「差別ではなく区別だ」と反論しにくい。

 それに対して、次に紹介する差異化のロジックは、直感的には少々わかりにくいかもしれません。

2. 差異化のロジック

 (1)ある集団に帰属する者を異質だとみなす。そして、(2)忌避したり、関係を絶ったり、資源を共有するための集団や組織から排除したりする。 これが差異化のロジックです。このロジックに沿った差別的な考え方の具体例をいくつか示しましょう。

    • 部落の奴らはおれたちと身分が違う。結婚するなんてもってのほかだ。おれたちが管理している山で薪を採るなんて泥棒だ。おれたちと同じ場所で働くなんて許せない。
    • 女は子どもを生み育てる性であり、企業は男の世界だ。外で働くのは男にまかせて、女は家庭内で家事や育児をするのが合理的だろう。専業主婦はむしろ女の天職だ。
    • 朝鮮学校に通う生徒は他の児童とは違う。外国人だし、独裁者崇拝の洗脳教育を受けている。同じ大会に出場するなんて許せない。ましてや、ウチの県の地域代表になるなんておかしい。

 さて、どうでしょう。「なるほど、これらは差別的な考え方だな」と感じましたか? むしろ、今の日本だと、一番下の例に対しては共感を示す人も少なくないかもしれませんね。「嫌いな奴らと付き合いたくないというのが、なぜ『差別的な考え方』になるんだ」と。

 差異化のロジックに差別性を与える要件は、「排除」にあります。見下しの感情があろうとなかろうと、偏見を持っていようとそうでなかろうと、ある社会集団のメンバーを重要な機会から恣意的に排除すれば、それは「差別」だというクレイムの対象になります。

 しかし、差異化のロジックは、序列化のロジックとは違って、見下しや侮辱のようなわかりやすい「悪意」を伴わないことも少なくないため、「差別」だと直感的には認知しにくい面があります。だから、「差別」だというクレイムを受けても、「いや、差別ではなく区別だ」という反論が必ず出てきます。また、その反論に同調する人が少なからず出てきます。差異化のロジックの差別性は、どうにもわかりにくい。

 ジム・クロウ法制期のアメリカ南部においては、「黒人がバスで座ってよいのは後部座席だけ」という規定がなぜ「差別」と訴えられているのか理解できない人が多かった。単に隔離しているだけであって、差別じゃない。お互い不愉快だから、ただ区別しているだけじゃないか、と。

 同様に、選挙人登録の際に識字テストを行う規定(教育から排除されて識字率の低かった黒人から実質的に参政権を奪う仕掛け)についても、当時は「差別」だという訴えがなかなか認められなかった。市民として最低限の知性を要求しているだけであって、別に黒人を差別しているわけじゃない、と。

 国交のない北朝鮮を支持している朝鮮学校はカリキュラムを公式に確認できないから、無償化から除外する。形式的な問題であって、別に朝鮮学校を差別しているわけじゃない、というのも同じロジックですね。違法な人権侵害であることは明白なのに、その差別性がなかなか理解されない。

 しかし、わかりにくいならばなおのこと、ある社会集団のメンバーを重要な機会から恣意的に排除するようなことがあれば、それは「差別」ではないかと疑ってかかるべきでしょうね。後年、「あいつはひどい差別主義者である」との糾弾を受けるかもしれませんよ。

橋下発言にみるVictim blaming

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 差別研究には「victim blaming」(犠牲者非難)という有名な概念があります。ウィリアム・ライアンという心理学者が1971年に提起した言葉で、差別や犯罪などのつらい被害をこうむった人に対して、「あなたに(も)落ち度があったからだ」と非難する行為を指します。

 日本語ではvictim blamingをきちんと説明した文献がたいへん少ないので、あまり知られていませんが、池田光穂さんが「医療人類学辞典」の中で簡単に説明してくれていますので、まずは参照してください(→犠牲者非難)。差別や犯罪の被害にとどまらず、病気や事故などとても広範なつらい体験に対して観察される現象だということが理解できると思います。

 もちろん、先頭車両に乗っていて衝突事故で怪我をした人に向かって、「一番前なんかに乗るからだ」と責める行為にいっさいの合理性はありません。原因不明の病気に罹った人に対して、「日ごろの行いが悪かったせいだ」などと非難するのはナンセンスです。犯罪だって、悪いのは犯人であって、被害者を責めるのはお門違いというもの。victim blamingは非合理的な心理現象です。

 非合理的であるにもかかわらず、なぜ、victim blamingは起こるのか? victim blamingの発生要因についてはいくつかの仮説が提起されています。

 例えば、「世界は正しいと信じたい仮説」。世界は合理的で公正だと信じたい人は、非合理的、偶発的に被害が発生する状況を受け入れることができない。それで、「きっと被害者側に自業自得といえる理由があるに違いない」と考えることで自分を納得させようとする、という仮説です。

 他に、「傷つきたくない仮説」というのもあります。これは性犯罪を例にとるとわかりやすいのですが、「性犯罪の被害にあうのは、みだらな服装をしたり、ふしだらな行動をする女だけだ」と思い込んでしまえば、そういう服装や行為を避けることによって、自分は性犯罪の被害には会わないという安心感に浸ることができる、という仮説です。被害者を特別な存在だったとして攻撃することによって、自分が同じように傷つく可能性を否定したいのだ、ということですね。

 なお、「差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある」の中で、差別者扱いされたくない人がvictim blamingをするのだと書いたのは、これらの仮説を応用したものです。

 どの仮説が正しいにせよ、問題を過剰に個人のせいにしてしまうという人間心理の基本的な特性(根本的な帰属の誤り)に基づいている以上、victim blamingの発生を抑制するのは容易ではありません。victim blamingができるだけ発生しないように各人が気を配り、発生してしまったときには周囲の人々が丁寧に非合理的であることを説得するしかありません。

 しかし、ことが権力者による意図的な発言となれば話は別です。たとえ周囲の人々がミクロなレベルで修正したとしても、その言葉のマクロな影響力は制御のきかない状態で広まってしまうからです。

 朝日新聞が3月10日に報じたところによると、大阪府の橋下知事は、「不法な国家体制とつきあいがあるなら、僕は子どもたちを取り戻し、ちゃんと正常な学校で学ばせる。そうしないと朝鮮の皆さんに対する根深い差別意識が大阪府からなくならない」と語ったそうです。

 これは典型的なvictim blamingです。なにせ、差別の原因が差別される側にあると語っているわけですから。

 たとえ朝鮮学校が知事の要請にこたえていくつかの改革をしたところで、大阪から朝鮮人に対する「根深い差別意識」はなくならないでしょう。なぜなら、朝鮮学校のあり方は、差別意識の原因ではないからです。橋下知事の発言がいかにナンセンスであるか、その一点をとっても理解できるはずです。

 この種の発言は、人種差別を扇動する行為として法的に禁止している国がたくさんあります。違法ではなくとも、例えばオーストラリアでは、そうした発言を繰り返したポーリン・ハンソンが所属政党から公認されず、事実上、政界どころか国を追われました。

 権力者がvictim blamingをやって何のお咎めもなく許されてしまうというのは、世界の価値基準からいって、たいへん恥ずかしい状況なのです。

 日本では、マスメディア関係者を含めて、朝鮮学校が否定的に扱われるのは仕方がないと思っている人も少なくないようですが(「橋下府知事の発言をめぐる諸問題」参照)、その状況自体が差別的であるということに気づくのはいつのことでしょうか。

 まず、日本政府が1994年に批准した「児童の権利に関する条約」から、2つの条文を紹介します。

第2条
1 締約国は、その管轄の下にある児童に対し、児童又はその父母若しくは法定保護者の人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的、種族的若しくは社会的出身、財産、心身障害、出生又は他の地位にかかわらず、いかなる差別もなしにこの条約に定める権利を尊重し、及び確保する。

第29条
1 締約国は、児童の教育が次のことを指向すべきことに同意する。
(a) 児童の人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること。
(b) 人権及び基本的自由並びに国際連合憲章にうたう原則の尊重を育成すること。
(c) 児童の父母、児童の文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること。
(d) すべての人民の間の、種族的、国民的及び宗教的集団の間の並びに原住民である者の理解、平和、寛容、両性の平等及び友好の精神に従い、自由な社会における責任ある生活のために児童に準備させること。
(e) 自然環境の尊重を育成すること。

 第2条を読めば、政治的主張を理由として朝鮮学校のみを無償化対象から除外するのは、明らかに同条約が禁止する差別ということになります。日弁連の会長声明が明快に断言したように、法的な観点からは「この差別を正当化する根拠はない」のです。朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、きわめて違法性の高い差別政策だということになります。この点に議論の余地はありません。

 しかし、このことについてはすでに「橋下府知事の発言をめぐる諸問題」において簡単に触れていますので、今回のエントリーでは第29条をテーマに取り上げたいと思います。

 第29条第1項の(C)は、民族教育の尊重を謳った条文です。ややあいまいな記述にはなっていますが、民族文化や出身国の政治的伝統を重視した教育は、「18歳未満のすべての者」(第1条第1項)にとっての権利だというわけです。

 気づいている人はあまり多くはありませんが、日本人はちゃんと日本の学校で民族教育を受けています。まず、日本語の教育を受けられますね。日本の歴史も学べます。しかも、2千年も歴史の違うギザのピラミッドと仁徳天皇稜を比べて、日本の陵墓が世界一だと誇らしげに記述してあったりします。高校だと柔道や剣道を正課で学ぶこともできます。《立派な日本人》になるための教育がいろいろと用意されているわけです。

 その結果、諸外国の青少年に勝るとも劣らない強さの国民的プライドを日本の青少年は持っている、ということが国際比較調査によって明らかになっています。日本の教育を受けると自虐的になると批判する人もいますが、そのような事実は科学的には観察されていません。

 一方、在日コリアンはどうでしょうか。日本の学校に通うかぎり、在日コリアンとしての民族教育を望むことは難しい。事実、私が1993年に関わった調査では、韓国籍の青年のうち、母国語を「まったく話せない」か「いくつかの単語しか知らない」者が7割を超えています。いわば、民族的に文盲のまま放置されているわけです。

 しかも、日本の教科書には、朝鮮半島の歴史は「わざとか?」というほど登場しません。 出てくるといえば被征服の記述が中心となります。それで、ルーツに誇りを持って健全に生育せよというほうに無理がある。上述の調査で、「あなたはこれまでに,在日韓国・朝鮮人である自分を嫌だと思ったことがありましたか」という設問に対して、64%が「あった」と回答しています。

 そうした中で、体系的な民族教育を全国規模で実現している唯一の機関が、朝鮮学校です。日本人の子どもたちが日本の学校で自然な日本人に育っていくのと同じように、朝鮮人の子どもたちが朝鮮人として自然なプライドを身につけていくことができる、唯一の環境だということもできます。

 ミクロなレベルでいえば、日本の学校に通いながらも、在日コリアンとしてのプライドを持つにいたるケースも中にはもちろんあります。しかし、マクロなレベルでいえば、朝鮮学校を否定するということは、実質的に、在日コリアンに対する民族教育の機会を否定するということです。

 大阪府の橋下知事は、朝鮮学校を、その政治的姿勢ゆえに批判していますが、だったら、朝鮮学校と同等の民族教育を保障する政治的に中立なシステムを府下に作ってみればいい。その上での朝鮮学校批判ならば説得力もありますが、現状のやり口は、権力をかさにきたレイシズムの吐露にしか見えません。

 民族教育の多様な選択肢がある中で朝鮮学校だけが攻撃に晒されているのならば、(もちろん、それも人権侵害ですが)まだしも救いはあります。しかし、朝鮮学校は、日本で在日コリアンの児童に権利として民族教育を保障する、現状で唯一の機関です。

 したがって、朝鮮学校のみを無償化の対象外とすることは、実質的に、在日コリアンの子どもたちが在日コリアンとして健全に生育する機会を否定するのと同じだということです。

 1月末、鳩山総理大臣の施政方針演説は、「いのちを、守りたい」という印象的なフレーズが多用されたことに注目が集まりました。その一部を引用します。 

 いのちを、守りたい。
 いのちを守りたいと、願うのです。
 生まれくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい。
 若い夫婦が、経済的な負担を不安に思い、子どもを持つことをあきらめてしまう、そんな社会を変えていきたい。未来を担う子どもたちが、自らの無限の可能性を自由に追求していける、そんな社会を築いていかなければなりません。
(中略)
 差別や偏見とは無縁に、人権が守られ基礎的な教育が受けられる、そんな暮らしを、国際社会の責任として、すべての子どもたちに保障していかなければなりません。

 演出過多を斜に構えて批評する向きもありましたが、演説内容そのものは高邁な理念の表明だと感じた人も少なくはなかったでしょう。しかし、今、この演説が壮大なハッタリにすぎなかったと証明されるかもしれない出来事が進行中です。高校教育の実質無料化策から朝鮮学校を除外する方針のことです。

 社会学には、「差別とはライフチャンスの不当な格差である」 という定義があります。ライフチャンスとは、 生きていくために社会的資源を利用する機会のことです。それは結果として、健康に生きる可能性のことをも意味します。

 無償の中等教育機会は、それ自体がきわめて重要な社会的資源です。学歴の有無を通じて、就業機会や生涯賃金といったより大きなライフチャンスの格差が生じるためです。高校実質無償化の対象から朝鮮学校を除外するということは、朝鮮学校に通う子どもたちの生存機会を奪うということを意味する、と社会学者は考えます。

 いうまでもなく、それは朝鮮学校に対する差別政策です。

 先月末、ジュネーブで開かれた人種差別撤廃委員会の対日審査で、朝鮮学校を授業料無償化法案の対象外にする動きに複数の委員が「差別だ」として疑念を表明する一幕もありました。日本弁護士連合会をはじめ、複数の弁護士会から違法性の高い人権侵害だと批判する会長声明も出されました。

 朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、差別以外の何ものでもありません。朝鮮学校に通う子どもたちの、いのちの可能性を奪う政策です。鳩山首相の施政方針演説とは、けっして相容れるところがありません。

 むしろ、理念が高邁であるだけに、差別政策がよけいに汚らしく見えるだけです。しかも、「国交がないので教育内容が確認できない」といった欺瞞を構築してまで、差別だという批判を回避しようとする姑息な態度がよけいに卑劣に見えるだけです。

 朝鮮学校を対象に含めるかどうかの判断は先送りになる公算が高まっているようですが、もし、最終的に差別政策を採用するなら、鳩山首相は施政方針演説を撤回するべきでしょう。そして、「いのちを、守りたい。ただし、朝鮮人は除く。」と修正するべきでしょう。権力を持ってマイノリティのいのちの可能性を奪うのなら、せめてその倫理的責任を引き受けるべきでしょう。

 このところ学術的な観点からのエントリーが続いていたけれども、この問題を批判しないわけにはいきません。あまりにもネガティブな感情が強すぎて、これまでどうしても冷静に論じることができませんでしたが、そろそろ執筆する準備ができたように思います。

 何の話かといえば、高校教育の実質無償化政策から朝鮮学校を除外する案について、大阪府の橋下徹知事のレイシスト発言っぷりが際立っています。今回のエントリーでは、彼の発言の何が「問題」なのか、下記のテーマに沿って論じていきます。

    1. 他のどこでもない大阪府の知事であることにより発生する歴史問題
    2. 法律家でありながら超法的政治手法を利用するポピュリズム問題
    3. 以上を報道しない日本マスメディアのレイシズム問題

1. 大阪の歴史問題

 この問題については、すでに優れたエントリーが書かれています。日朝国交「正常化」と植民地支配責任というブログの最新記事、橋下府知事を朝鮮学校に入れるべきではない――朝鮮学校と高校「無償化」問題6です。まずはお読みいただきたい。

 リンク先のエントリーで述べられているのは、「阪神教育闘争」として知られる事件です。平和的デモに対して警官が発砲し、16歳の死者まで出したこと一つをとっても、戦後日本の民主主義の歴史に残る最悪の汚点の一つといってよいでしょう。

 大阪府は、在日コリアンの民族学校を弾圧した歴史的事実に対して、倫理的な責めを負うべき立場です。橋下知事はこの事件を知っていたはずですし、仮に知らなかったとしても、朝鮮学校を無償化対象から除外する議論が始まったときには知ったはずです。にもかかわらず、橋下知事には一切の反省がないどころか、逆に弾圧当時と同様のロジックで朝鮮学校を追い込もうとしている。知事の権力をもって、在日の子どもたちに踏み絵を強要しようとしている。

 橋下知事には、民主主義を守ろうという精神的基盤が欠落しているとしか考えようがありません。

2. ポピュリスト問題

 純粋な法律論からいえば、朝鮮学校だけを無償化対象から除外するのは不可能に近いはずです。ぼくが素人法律論を振りかざすより、日本弁護士連合会「高校無償化法案の対象学校に関する会長声明」から一部引用するほうが早いでしょう。

朝鮮学校に通う子どもたちが本法案の対象外とされ、高等学校、専修学校、インターナショナル・スクール、中華学校等の生徒と異なる不利益な取扱いを受けることは、中等教育や民族教育を受ける権利にかかわる法の下の平等(憲法第14条)に反するおそれが高く、さらには、国際人権(自由権・社会権)規約、人種差別撤廃条約、子どもの権利条約が禁止する差別にあたるものであって、この差別を正当化する根拠はない。

 これらの法律の壁を、橋下知事は「不法国家の北朝鮮と結びついている朝鮮総連と関係があるなら、税金は投入できない」というロジックで強引に突破しようとしているわけですが、法律論としては何重にもムリのある話です。知事もそのことはおそらく承知で、だからこそ、北朝鮮と朝鮮総連を一体的に暴力団やナチスにたとえたりしながら、このロジックを政治的に正当化しようとしているわけです。悪しきポピュリズムの典型的な手口。

 この点についても、Arisanのノートに、「大阪府知事はナチスと同じ」という優れたエントリーがすでに書かれています。ぜひお読みください。

国内の少数者を恫喝し、繰り返し傷つけることで大衆的人気の獲得を図っているという点では、まさに橋下徹とい政治家こそ、ナチスとヒトラーの名にふさわしいではないか?

 この一文に端的に表現されていますが、ナショナリズムと結託したポピュリズムが排外主義に走るとき、きわめて危険な政体が生まれます。ナチスはその代表格。

 くどいですが、橋下知事には、民主主義を守ろうという精神的基盤が欠落しているとしか考えようがありません。

3. マスメディアのレイシズム問題

 ところで、「ナショナリズムと結託したポピュリズム」の危険性に絡んで、よくヨーロッパの「極右政党」や、ハイダー、ル・ペン、グリフィンといった「極右党首」たちの言動が否定的に報じられてきました。

 日本のマスメディアが「極右」といってこれらを批判する欺瞞については、もうずいぶん言い尽くされている感もありますが(例えば森達也・森巣博『ご臨終メディア』集英社)、それでも一向に事態の改善が見られない以上、何度でも繰り返し批判されるべきことでしょう。

 橋下知事の一連の発言については、各紙とも論評を加えずに淡々と紹介するスタンスに徹しているようです。人気政治家の発言に賛否を表明して攻撃を引き受けるのは怖いということなのでしょう。言論の責任を回避する姿勢は、まさしくご臨終メディア。しかし、不法な人権侵害をポピュリズムの手法によって正当化しようとしている権力者がいるとき、それに対抗するのはマスメディアのもっとも重要な役割ではないでしょうか。

 マスメディアが批判の届かない安全な場所に逃げている間に、朝鮮学校に通う子どもたちは、知事の発言に誘発されたヘイトクライムの犠牲になるかもしれない。杞憂ではありません。過去に何度も実際に起こったことです。にもかかわらず、マスメディアは、子どもたちを責任回避の盾にしながら、逃げている。

 なぜこのような事態が生じているかといえば、ようするに、マスメディアに関わる人々が、「知事の発言にも一理ある、だから朝鮮人の子ども達が犠牲になっても仕方がない」、という発想を否定していないためでしょう。なんたるレイシストぶりか。

 日本のマスメディアには、民主主義を守ろうという精神的基盤が欠落しているとしか考えようがありません。

差別をめぐる2種類の過誤

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 「差別は客観的に定義できるか」から「差別問題の構築事例」まで、4回連続で差別の定義をめぐる議論を紹介してきました。

 現時点では、「われわれカテゴリーの恣意的な動員」に注目する佐藤裕さんの定義と、坂本佳鶴恵さんを筆頭とする社会的構築主義的な定義に、いろいろと有利な点が多いといえます。前者は差別する側の視点から差別を捉えることに成功していますし、後者は差別問題が生成されるダイナミズムをうまく記述することができる。しかし、それぞれ一長一短がありますので、決定版といえるような定義はまだ存在しない、と表現することもできます。

 それは、言い換えると、何が差別で、何が差別でないのか、という問に答えることは、けっして簡単なことではない、ということです。今回は、それを前提として、議論をひとつ提起しておきます。

 タイトルは、第1種の過誤と第2種の過誤です。

 推測統計学の世界には「第1種の過誤」と「第2種の過誤」という言葉があります。前者は真実を見落としてしまうこと、後者は誤りを見過ごしてしまうことです。

 例えば、ある公害による病気の被害認定が争点になるとき、(a)その公害による病気の典型的症状がほとんどすべてそろっていること、(b)その公害による病気の重要な症状の一つ以上があること、の二通りの基準があるとしましょう。(a)の立場をとれば、経験的にいって「被害者」は実際の被害よりも確実に少なく見積もられることになります。これが、第1種の過誤です。(b)の立場をとれば、「被害者」が実際の被害よりも多く見積もられる危険性を否定できません。これが、第2種の過誤です。

 別の例を出すと、法曹界には「疑わしきは罰せず」という基本ルールがあります。これは、絶対に第2種の過誤(=冤罪)が起こってはならないというスタンスによるもの。一方で、医療界には「疑わしければ再検査」という基本ルールがあります。これは、絶対に第1種の過誤(=病気の見落とし)があってはならないというスタンスによるもの。

 ある事象が差別にあたるかどうかを考えるとき、どちらのスタンスが適切だと思いますか?

 おそらく、差別と聞けば加害者だけが懲らしめられるべきだと考える人は、法曹界のスタンスを採用するでしょう。自分が「差別者」という冤罪を着せられると困りますからね。

 一方、差別と聞けば被害者をサポートすべきだと考える人は、医療界のスタンスを採用するでしょう。なぜなら、今はまだ世間に知られていないだけで、将来的には「差別」だと広く認められるようになる事象によって被害を受けているのかもしれませんからね。

 「差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある」に書いたのは、この両スタンスの違いのことです。また、この両者の判断のグラデーションを、「差別の存在を認めない傾向とは」で紹介した表の中に確認することができます。

 繰り返しますが、ある事象が差別にあたるかどうかを考えるとき、どちらのスタンスが適切だと思いますか?

 ぼく個人の見解を述べるなら、医療界のスタンスのほうが適切だと考えます。なぜなら、(1)医療界のスタンスを採ることによってマジョリティがこうむるデメリットと、法曹界のスタンスによってマイノリティがこうむるデメリットを比較したとき、後者のほうが甚大だから、(2)マジョリティ側が医療界のスタンスを採るという姿勢を持たないかぎり、被差別のクレイムはなかなか通らないから、(3)加害を罰するよりも被害の救済のほうが実質的に重要だから、です。

 ぜひ皆さんも、どちらのスタンスを採るべきか、その理由は何か、について考えてみてください。

差別問題の構築事例

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 前回のエントリー「差別と政治、差別の政治」は、社会的構築主義のスタンスから差別を定義したらどうなるか、というテーマでした。

 具体的にいえば、現在はまだ「差別」だとみなされていない事象でも、クレイム申し立ての運動によって「差別だという共通理解」を広げられれば「差別問題」を構築できる、という話です。あるいは、現在はまだ「道徳」の課題だとみなされている差別問題も、運動の方向次第では「犯罪」として法的処罰の対象に加えられる可能性がある、という話です。ですから、差別問題に実践的に関わっておられる方々からすれば勇気の出る説明様式だろうと思います。

 また、学術的にも、「不当性」の難問から逃れられることが理論面での大きな強みといえます。僕自身の学術的なスタンスとはイマイチ相性が悪いのですが、それでも、特に社会問題の発生を説明するときは、社会的構築主義の有効性を認めないわけにはいきません。構築主義的なアプローチを用いなければ、とうてい説明の付かない現象が無数にある、ということもできます。

 ただ、難点がないわけでもありません。

 一つ目の難点は、クレイムが広く認められる前の段階では、その差別の存在を説明できない、ということ。これはどちらかというと純粋学問的な問題なので、説明は省きます。

 二つ目の難点は、いわゆるアイデンティティ・ポリティクスの問題。まぁ、これは構築主義の問題ではなく、構築主義の切り口が鋭かったために浮き彫りになった問題点、というべきなので、同じく省略。

 三つ目の難点は、正当/不当という客観的要件を説明の枠組みに含まないため、ある事象をめぐって差別かどうかがリアルタイムで争われている段階では、その論争にまったく寄与することができないということ。「不当性」の難問から逃れられるという強みは、同時に弱みでもあるのです。

 この難点を回避するため、坂本佳鶴恵さんは、前回紹介した著書の中で、差別だというクレイムがあればそれは差別なのだ、といった内容の書き方をしていた箇所があったような気がします(構築主義プロパーの方はまずこういう書き方をしないと思いますが、逃げ道があるとすれば、やはりそこしかないでしょう)。こういう考え方に立てば、少なくともクレイムが発生すれば、それがまだ社会に広く支持されていなくとも、「差別」だと規定することはできる。

 しかし、これは新保先生の定義と同じで、識別性が低すぎます。訴えがあればなんでも「差別」ということだったら、逆差別の訴えすら「差別」ということになってしまう。構築主義は価値中立ですから、差別撤廃運動からのクレイムも、歴史修正主義からのクレイムも、同じ枠組みで捉えます。

 構築主義は自明視されている因習を相対化したり、実践的なダイナミズムを記述したりするのに有効ではありますが、反差別の実践そのものには残念ながらあまり役に立たないのですね。

  たとえば、前回も例に出した朝鮮学校の高校無償化除外問題を考えてみましょう。

 (1)朝鮮学校だけを除外するのは差別だという異議申し立て(クレイム)が起きる、(2)クレイムが周囲に影響を与える。例えば、差別か差別でないかといった論争が広がる、(3)論争を経て、クレイムは正当だという理解が広がり、朝鮮学校除外は「差別」だと理解されるようになる。もしくは、除外は問題なしとはいわないまでも合理的だという理解が広がり、朝鮮学校除外は「仕方がない」と理解されるようになる。(4)さらに別のクレイムの発生に続く。

 今はちょうど構築主義的なプロセスが進行中で、上の段階でいえば2の途中にあります。

 クレイムの内容は:

「朝鮮学校だけを除外する根拠がない。差別だ」
「子どもを人質にとる卑劣な政策だ」
「子どもの権利条約、人種差別撤廃条約に抵触する人権侵害だ」

 クレイムへの反論は:

「制裁措置をやっている国の国民だから除外して当然」
「北朝鮮という国は不法国家。関係する学校とか施設とかはお付き合いをしない」
「反日教育に何で日本人の税金を使うの?」 

 現時点ではどちらが優勢になるか、まったく予断を許しません。構築主義は、このどちらの立場にとっても、自説を補強する材料にはまったくなりません。坂本さんがいうように、差別問題をめぐっては、つねにこの種の論争(差別か、差別でないか)が発生しますので、構築主義がいかに役に立たないか、理解できると思います。

 ただ、構築主義の立場からいえることが一つあります。トラブルが発生しないかぎり、人々はそこに問題があることにすら気づきません。トラブルこそ社会問題の所在を示すのです。

 これまでにも、朝鮮学校だけを行政サービスの対象外とする措置はたくさん採られてきたにもかかわらず、今回ほど話題になったことは少ない。今回はわかりやすい人権侵害の構図であったおかげか、大きなトラブルになっているわけです。その結果、良くも悪くも、朝鮮学校に関心を持つ人が増えている。

 朝鮮学校からのクレイムを支持する人々にとっては、いま現在は不愉快だし、少ない資源を動員しながら論争を有利に導く活動もしなければならないけれども、おそらく、この「トラブル」は、先々、必ずしも悪い方向には振れないだろうと思います。

差別と政治、差別の政治

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 前回のエントリーでは、実践面からいえば、どういう行為が「不当」なのかについての議論を国会と裁判所に丸投げしてしまうのも一つの合理的な解決策だと紹介しました。合理的というより、それ以外に方法がないといいますか。

 しかし、実をいうと、「机上の空論とはこのことか!」と謗られてもしかたがない暴論だと、ぼくは思っています。佐藤さんの議論は、学術的には美しいんだけど、いつも実践面が弱いんだよなぁ。

 だって、人権侵害の被害を回復したり、被害の発生をなくしたりするのが実践的な目標ですよね。人権侵害かどうかの判断を国会や裁判所に丸投げしたうえで、その目標が実現されるためには、国会や裁判所が人権侵害をしないという前提がなければなりません。でも、ぼくの知るかぎり、国会も裁判所も、少なくともぼくの判断では、たくさん人権侵害を重ねてきましたからね。とてもそんな信用はできないわけです。差別と政治というのは、どうもウマが合わない。

 そんなコメントが付かないかと半ば期待してネットを見ていたのですが、残念ながら(?)、そういう厳しいのは今のところありませんね。学者の言いなりじゃ、差別の巧妙さに抵抗なんてできないよ。

 例えば、中井洽拉致問題担当相が朝鮮学校を高校の実質無償化の対象外とするよう求めている。そして、今の時点では、鳩山首相もそれに反対してはいません。でも、朝鮮学校だけを除外するというのは、いくつかの法的な人権侵害の定義に抵触する話です。まだ議論の途中であるにもかかわらず、すでに国連の差別撤廃委員からクレームが付いていますね。もし、中井大臣の提案の通りに実施されることになれば、当然、訴訟が起こるでしょう。

 ところが、その種の訴訟で、マイノリティの訴えがなかなか通らない。なぜなら、日本の法律は、人権侵害の被害者をサポートするようには、作られていないからです。...ちょっと言いすぎかな? でも、そう思われても仕方がない面が多々ある、とは明言していいでしょう。

 実践面に期待して国会や裁判所に任せても、少なくとも現状では、実践的な答を得られない可能性が高い。とすれば、「人権侵害」の客観的定義を国会や裁判所に任せるというアイディアは、実質的にはあまり意味がないということになりかねません。

 では、何か代替案はないのか?

 つまるところ、差別とは政治です。政治といっても、議員の仕事の話ではありませんよ。社会学者にとっての政治とは、何が正しいのかをめぐるすべての争いのことです。(国会でやっているアレと間違いやすいので、こういう意味での政治をカタカナでポリティクスと書いたりもします。)夫婦の口げんかも政治なら、政策をめぐる世論も政治。裁判官だって世論を無視できない以上、法の運用もやはり政治の問題です。

 ある事象について「不当」であるという訴え(差別だ!)が、それを無視したり(考えすぎじゃない?)、否定したり(それが差別なら何でも差別になっちゃうよ)する多数派の声をかき消すことができれば、訴えのあった事象が世間の「不当なものリスト」に書き加えられていく。逆に、多数派の声にかき消されてしまえば、「不当」だとは認めてもらえない。こういう、一連のダイナミズムを、「差別の政治」と表現します。

 社会的構築主義の立場から、「差別の政治」に取り組んだ好著に坂本佳鶴恵『アイデンティティの権力―差別を語る主体は成立するか』(新和社)があります。坂本さんは、「差別という実態的現象が存在し、つねにその存在については指摘できるかのように考え」ることは誤りだといいます。客観的には規定できないというわけです。なぜなら、「何が差別であるかは社会的に共有されているわけでは...中略...ない。差別という現象はある事柄を差別とする人々がいるのに対し、差別でないと主張する人々がいるということに問題の根本がある」からです。

「同一社会内で一致すると想定されている異質な規範間のずれが、成員により告発されあらわになった、社会現象である」

 これが坂本さんによる差別の定義。 「およそ差別というものに共通の原因など存在しない」という坂本さん(というより構築主義)ならではですね。要するに、(1)差別だという訴えがなされ、(2)そういう訴えがあったと広く知られるようになったものが「差別問題」だ、ということになります。

 構築主義は、「差別の政治」のようなダイナミズムを描写するうえで、きわめて強力な説明枠組みを提供してくれます。構築主義ならではの弱点もあるのですが、この立場によって初めて説明可能になる事柄は少なくありません。

 例えば、不当性の問題も、これによってある程度決着が付きます。ラフにいえば、「何が不当なのか」→「不当だと訴えのあったこと」というわけです。

 つまり、現時点ではまだ表面化していない規範のズレ(例えば常識と実感のズレ)があるとしましょう。誰かがそれを差別だと訴え、その訴えに広く注目が集まるようになれば、今後はそれが差別問題の一つに数えられるようになっていく。だから、客観的に不当性を規定しようとしても意味がない。むしろ、不当性をめぐる政治に注目しなさい、という主張です。

 最後に、同書から「差別の政治」をうまくいいあらわした文章を二つ紹介して、今回は終わりとします。

「差別は主観的なものである。しかし、それが共同主観に、より大きな共同主観になっていくよう争っていくものなのである。」

「差別は、つねにすでに認識され、差別として存在しているものではない。告発によって、見いだされていくものなのである」

(注)このエントリーは2010年2月26日に一部を公開し、2月28日に完成しました。

 不当性を要件としているかぎり差別を客観的に定義することはできない、というのが前回のエントリーでした。かといって、不当性をまったく定義に含まないというのもなかなか難しい。

 前回の議論を整理する意味で、ひとつ別の定義を紹介しましょう。新保満先生が岩波新書で使った非常にシンプルな定義です。永遠の名著『人種差別と偏見―理論的考察とカナダの事例』(1972年)より。

「差別は特定の社会集団に所属していると見なされる個人に対する異なる取り扱い」

 つまり、新保先生は、(1)特定の社会集団(ないし社会的カテゴリー)に所属しているという理由で、(2)異なる取り扱いをしたら、それだけでもう差別だ、というわけです。すばらしい。オッカムの剃刀とはこのことか、と思わせる美しい定義です。

 この定義において、「異なる取り扱い」が不利益を生ずるかどうかは問われません。なるほど、他人からはうらやましく見える特別待遇でも、当人にとっては不快だということもありますね。不利益も不当性と同じで、一意には規定できない面がある。だから定義には含まない。そして、不利益の発生を定義に含まない以上、その不利益が不当かどうかも定義に含まない。

 ただ、この条件だと、差別に当てはまる範囲が広すぎて、直感的におかしいと思われる事例を排除できないのが難点でしょうか。

 例えば、何らかの集団のメンバー(例:子ども、高齢者、障害者)を特別に保護の対象にすることも差別ということになります。たしかに、レディ・ファーストやインディアン法のように、温情主義が差別のあらわれという場合もあります。でも、特定の社会集団を保護する制度や行為のすべてが差別だということになると、ちょっと行きすぎでしょう。

 つまり、新保先生の定義は、差別を把握するための十分条件にはなっているかもしれないけど、必要十分条件とは言えない。美しい定義なのですが、美しいだけに《何かが足らない》ということがよりハッキリする。

 何かとは、やはり、不当性です。ここで冒頭の問題に戻ります。不当性を要件としているかぎり差別を客観的に定義することはできない、かといって、不当性をまったく定義に含まないというのもなかなか難しい。

 では、どうしたらいいのか。どうすれば差別を客観的に定義できるのか。今回は、二つの考え方を紹介します。

 一つ目は、不当性の根拠を人権に求める、という解法です。何度か紹介した佐藤裕『差別論―偏見理論批判』 (明石書店)から該当する記述を引用します。

「差異モデルでは、不当性の根拠付けは比較的簡単であるように見えます。『異なる扱い』が不当である理由、それは『平等』という規範に反するからにほかなりません。...中略...平等に扱われることが『権利』として構成されているからです。すなわち、差異モデルでは『権利(の侵害)』という論理が差別の不当性を最終的に基礎づけている論理であるといえます。」

 ここでいう差異モデルというのは、新保先生のように、「異なる取り扱い」に注目して差別を定義しようとするアプローチのことです。前回紹介した3名も、「不利益な取扱い」を定義に含んでいましたので、やはり差異モデルということになります。

 で、佐藤さんは、ようするに、「人権」を侵害されたかどうかを不当性の根拠にすればいい、といっているわけです。前回紹介した野口さんも同様の定義をしていましたね。

 ただ、前回も書いたとおり、「人権」というのは普遍的で客観的なものではなく、時代によっても社会によってもダイナミックに変わっていく不定形なものにすぎません。だから、「人権」を根拠にして「不当性」を規定しようといったって、あいまいであることには違いはありません。実をいうと上記の引用箇所を初めて読んだとき、「うわ! 佐藤さん、不当性の議論から逃げたな(笑)」と思ったりしました。

 しかしながら、「正当/不当」という価値判断とは違って、「人権」には国会や裁判所の議論の結果として法的な定義が与えられることが多いです。あいまいさは残るとしても、ぐっと具体的になることは確かですね。

 まあ悪くいえば、定義を国会と裁判所に丸投げしてしまうということです。あるいは、学術的な正確さはおいといて、現実の被害の発生を食い止めるために何が人権侵害に当たるかは政治的に決めてしまおう、という実践的な関心といってもよい。 

 でも、逆にいえば、不当性=人権侵害だと決めてしまえば、それによって実践的なメリットが生じます。佐藤さんの表現を借りると、「不当性を見出し、是正していこうとするときには差異モデルは必ず必要になります。いわば対症療法のために必要なモデルであり、しかも差別問題において対症療法は非常に重要です。」つまり、法的な定義を背景として、違反(=差別)が発生したら、それを取り締まったり訴えたりすることができる、というわけです。日本だと、人権擁護法案がまさしくこのスタンスを形にしたものということになります。

 二つ目は、不当な被害(=差別の結果)から差別を定義するのはやめて、誰が不当な被害を生む行為をしたか(=差別の原因)に注目する解法です。差別をする側とされる側の非対称性に注目するアプローチと言い換えてもかまいません。

 これの代表格が、頻出の佐藤裕さん。ミクロレベルの差別論に限れば、現時点でもっとも上手にパズルを解いているのは、まちがいなく佐藤さんだとぼくは思います。

 その前に、まずは佐藤さんの議論に決定的な影響を与えた江原由美子『女性解放という思想』(勁草書房)から、関連する記述を紹介します。 

「『差別』とは本質的に『排除』行為である。『差別』意識とは単なる『偏見』なのではなく、『排除』行為に結びついた『偏見』なのである。『排除』とはそもそも当該社会の『正当』な成員として認識しないということを意味する。それゆえ『差別』は差別者の側に罪悪感をいだかせない。なぜならわれわれが他者に対する『不当な』行為に対して罪悪感をいだくのは、他者を正当な他者として認識した時であるからである。」

 少し難しいですが、エッセンスは「『差別』とは本質的に『排除』行為である」という一文に端的に表現されています。ただ、新保先生と同様、すべての排除行為を差別であるとはいえないのが難点でしょうか。何か重要な要素が抜け落ちている。そこで、次に佐藤裕さんの定義。

「差別行為とは、ある基準を持ち込むことによって、ある人(々)を同化するとともに、別のある人(々)を他者化し、見下す行為である。」

  おそらく、ミクロレベルの差別行為については、この定義で完成に近いのではないかとぼくは思っています。ただ、これを説明するのはちょっと面倒なんですよね。できれば、『差別論』 か、ウェブで公開されている佐藤さんの論文を直接読んでほしいところです。

 と思っていたら、前回のエントリーを公開した直後に沼崎一郎さんからこんなツイートが。

@han_org A、B、C、Dがいるとき、Dに対してだけ、A・B・Cとは扱いを変える。扱いの違いにDが抗議する。なぜ扱いを変えるのかと問われて、私は「だって、Dは◎◎だから」としか答えられない。◎◎はカテゴリー。観察可能という意味で、客観的じゃないですか?

 おぉ、カテゴリーの恣意的な動員をこんなにシンプルにまとめてくれるとは。わずか120字。もうこれで説明に代えたいと思います。

 おなかがすいたので、なんとなく尻切れトンボだけど、今回はこれで終わります。

(注)上記とは別に、社会的構築主義の立場から差別を定義するやり方(例:坂本佳鶴恵『アイデンティティの権力―差別を語る主体は成立するか』新和社)も有力なアプローチです。このアプローチでなければ説明できない事象はたくさんあります。でも、これはもう「客観的」に定義することはやめてしまって、ものごとを動態的に定義するというスタンスなので、今回は触れません。 

---------------------------------- 

【追記】 2011年07月15日

 昨日、こういうツイートを目にしました。「わたしたち」の同一性を確認するために「あのひとたち」との境界線が恣意的に引かれるという現象をずいぶん上手に表現してあると思います。ご参考までに。

yhlee:よく、朝鮮人にひどい目に合わされたから嫌いになったっていうけど、相手が日本人なら、どこ出身か確認して、栃木県人だったら栃木県人全員嫌いになる、とか、そいういうことはないのよね。わたしが悪いことしたら、社労士嫌いになるとか、子持ちの女性嫌いになるとか、そういうこともない。 [http://twitter.com/yhlee/status/91441892440551424]

yhlee:この発言のポイントは「経験から属性全部に嫌悪感持つのはけしからん」ということではなくて、「そのときの属性は、勝手に選ばれるものだ」ということだよん。出身県で嫌悪感持ってるので違います(キリッ)という方は、誤解です。わかりにくくて失礼。 http://ow.ly/5EOll [http://twitter.com/yhlee/status/91597807680626688]

 

更新通知

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 差別論のシリーズの途中ですが、ちょっと必要があって、HAN A面オンラインドキュメントに下記の雑文をアップしました。

 「マイノリティの戦略

 以上。

 ある学問分野において、もっとも基本的な事物を指し示す言葉を「基礎概念」といいます。基礎概念を組み合わせることによって、他の抽象度の高い概念を説明する、という形で学問という論理の体系が構築されていきます。したがって、基礎概念を定義することは、通常、その学問の入り口ということになります。

 ところが、差別論において、「差別」という概念を定義することは、学問の入り口どころか、むしろ究極のゴールの一つとされています。なかなか上手に定義できないんですね。

 例えば、2009年末に出たばかりの差別論の教科書を見てみましょう。好井裕明編『排除と差別の社会学』(有斐閣選書)です。いい本ですよ。おまけに、この分野には授業でそのまま使える教科書は少なかったから、貴重な本でもあります。

 この本の中で差別の定義というと、冒頭でアルベール・メンミ『差別の構造』という古典からさらっと差別主義の記述が紹介されているだけです。それも、解説らしい解説は付いていません。つまり、同書には、差別の定義について概念的に検討した箇所が、実質的には一つもないのです!

 批判してるんじゃありませんよ。むしろ、中途半端に理論を紹介するより立派なスタンスだと思います。初学者向けの教科書では、差別の定義をめぐる難解な隘路に入り込むより、具体的な事例に触れながら他の重要な基礎概念を学んだり、《差別を見抜く目》を養ったりするべきだ、という考え方でしょう。

 ともかく、差別の定義(差別とは何か)は、差別論の教科書が避けてしまうほどの難問なのだ、ということをあらかじめ知っておいてください。

 さ、それでは、オーソドックスな差別の定義例を3つ紹介しましょう。

「ある集団ないしそこに属する個人が、他の主要な集団から社会的に忌避・排除されて不平等、不利益な取扱いをうけること」(三橋修)

「個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、普遍的な価値・規範(基本的人権)に反するしかたで、もしくは合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて、異なった(不利益な)取り扱いをすること」(野口道彦)

「本人の選択や責任とは関りのないような個人の能力、業績ないし個人の行動と無関係に作られた自然的・社会的区分に属していることを理由にされて、集団ないし個人が不利益を被るか人権を侵されるか、不愉快な思いをさせられる行為」(鈴木二郎)

 これらの共通点を整理すると、ある事象が「差別」であるためには、以下の3条件を満たすことが必要とされているようですね。

  1. 集団ないし社会的カテゴリーに所属しているというだけで
  2. 集団や個人に不利益が生じ
  3. その不利益が不当であること

 おそらく、多くの人の経験的観察とも合致する条件だろうと思います。しかしながら、この種の定義には、3つの大問題が含まれています。

 第一に、発生した不利益を誰が不当であると決めるのか、という問題です。「差別の存在を認めない傾向とは」で紹介したデータは、まさしく「不当」だと判断した人が多いものほど上位に位置しています。各項目に序列が付いたのは、ようするに回答者ごとに不当/正当の判断基準が異なっていたからです。

 野口さんは「普遍的な価値・規範」というけれども、それは理念の上では存在しても、実際に観察することはできない架空の理想です。現実には、ある事象が不当かどうかの判断は、主観的、恣意的なものです。しかも、その判断は、一人ひとりで違うだけでなく、時代によっても、社会によっても変わります。例えば、旅館がハンセン病罹患者の宿泊を断るのは、現在の日本では明らかに不当なことです。でも、同じ日本でも10年前はそうではなかった。

 とすれば、不当性を定義に含んでいるかぎり、差別か差別でないかを客観的かつ一意に判定することは、原理的に不可能だということになりますね。

 第二の問題は、差別/被差別の非対称性が定義の要件に含まれていないことです。単純な話、もし完全に対等な集団間であれば、上記の3条件がそろっていても、一般には「抗争」や「競合」と呼ばれるだけであって、「差別」とはいわないわけです。非対称性は、明らかに差別の必要条件なのに、上述の定義のしかただと含まれなくなってしまいます。

 第三は、ある社会的カテゴリーに所属していることによって不当に被害が生じていることを訴えようとすると、被差別者はその社会的カテゴリーの存在を前提にしなければならない、という問題。

 被差別者がその社会的カテゴリーを納得して自ら引き受けている場合はいいのですが、そうでない場合は悲劇です。いやいや押し付けられたカテゴリーそのものが差別と感じられるのに、反差別を訴えるためにはそのカテゴリーの実在に立脚しなければならない。二重に拘束されてしまうのです。あえて具体例は挙げませんが。 

 どうでしょう。第二、第三の問題は逃げ道がありそうですけど、第一の問題はずいぶん難問だと思いませんか。なにせ、原理的に不可能なのですから。

 もし、誰もが納得する完璧な「差別の客観的定義」ができれば、それで差別問題はかなりスッキリと解決するはずです。なぜなら、個々の事象をその定義に当てはめて、「差別」に判定されれることは法律で禁止し、違反者は処罰すればいいわけですから。

 でも、残念ながら、差別の客観的な定義はなかなかうまくいきませんね。

 次回は、この難題への解決案2つ、の予定。たぶん。

偏見と差別の関係

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 差別についての研究には、ずいぶん多様なアプローチがあります。学問分野は心理学、社会学、経済学、政治学、等々と多岐にわたっているし、手法もミクロなものからマクロなものまで様々です。

 その中で、直感的にわかりやすいためでしょうか、(一昔前の)心理学分野の研究は一般にもよく知られているように思われます。偏見理論、社会的比較の理論、権威主義的態度、あたりです。とりわけ、偏見理論は差別についての通俗的解釈ともよく合致するため、道徳教育の一環として行われる人権教育においても頻繁に言及されています。

 ここでいう偏見理論とは、「偏見」という心理的な準備状態があるから「差別」という行為が発生する、という前提を含む研究群の総称です。一般には、「差別意識が差別を生む」という表現のほうがなじんでいるかもしれません。「差別は心の問題である」というとき、偏見理論が想定されていることが多いように思います。

 でも、当の心理学分野において、偏見理論はもはや過去の遺物とみなされており、ほとんど注目されることがなくなっている、ということはあまり知られていませんね。(Allportを再評価する向きもあるようですが。)

 ぼくは前任校で心理学主体の学科に所属していましたので、偏見理論が後退した理由を同僚に尋ねたところ、次のような回答を得ました。

 (1)パーソナリティで説明できるのは差別現象のごく一部でしかないこと、(2)「投射」など理論としての精度が低い概念を含むこと、(3)偏見の重要性に過剰に注目するとそれ以外の差別発生メカニズムが見えなくなってしまうこと、(4)実践面においても差別の背後に偏見の存在を前提としてしまうことにより、「偏見を持っていないから差別をしていない」という言い訳に利用されてしまうこと、(5)現在の心理学では、むしろ偏見を持たなくても、自動的な心理プロセスとして差別が発生するメカニズムのほうが研究の主流になっていること。

 以上の回答が間髪おかずに同僚の口から帰ってきました。偏見理論の問題性は、心理学分野ではいわば常識として理解されているのだな、と少しうらやましくなりました。

 というのも、日本の社会学分野で偏見理論を正面から批判した著作は、おそらく2005年末に出版された佐藤裕『差別論―偏見理論批判』(明石書店)が最初だと思われるからです。佐藤さんもぼくも、大学院生のころから学会でことあるたびに同様の偏見理論批判を口にしてきましたが、すんなり批判が受け止められ、同意されることは少なかった。反論はないけれども、「阪大の《計量の人たち》がちょっと変わったことを言ってる」という雰囲気。偏見理論は、一部の(特に運動家的な特性を持つ)社会学者に、根強く支持されているのだなと話し合ったものです。

 いま「日本の社会学分野で」と書きましたが、例えばアメリカではロバート・K・マートンが1948年の「差別とアメリカの信念」という論文で以下のような分類を提示しています。

  1. 偏見も持たず人種的差別もしない人(All-weather Liberal) 
  2. 偏見は持たないが、差別をする人(Reluctant Liberal)
  3. 偏見は持つが、差別をしない人(Timid Bigot) 
  4. 偏見を持ち、差別もする人(All-weather Bigot)

 1と4は説明なしでわかりますね。

 2「日和見平等主義者」の事例としては、「黒人差別法制期のアメリカ南部において、人種的不平等は間違っていると心の中では思いながら、他の白人から焼き討ちにあうことを恐れて、黒人へのサービスを拒絶する白人向けレストランのオーナー」等。

 3「臆病な差別者」の事例としては、「女子職員は無能だと信じているけど、辞められると困るから、男子職員と平等に扱う商店主」等。

 2と3の事例は、すなわち、偏見があっても差別はしないこともあるし、 差別しているからといって偏見があるとはかぎらないことを端的に示しています。この論文は、偏見と差別の因果関係に留保が必要であるということを、たいへんスマートに論証した論文としてよく知られた業績です。

 この種の事例は枚挙に暇がありません。例えば、「統計的差別」も2の典型事例です。統計的差別とは、属性によって不利な統計的事実があれば、それによってその属性を持つ人々が不利な扱いを受ける現象を指します。日本の労働市場で言えば、次のようなこと。

 戦後一貫して女子職員の8割は結婚ないし出産を期に退職してきた。一方、雇用流動性が高まったとはいえ、男子職員の離職率ははるかに低い。もちろん、それは就労機会に男女で格差があったためだけど、統計的事実であることは確か。それを知っていれば、たとえ職員の能力に性差はないと信じている経営者でも、OJTなどの教育投資を無駄にしないためには、男子職員を雇用するほうが合理的。その結果、女性の被雇用率は低くなってしまうのだ、というわけです。

 そろそろまとめに入りましょう。

 「偏見によって差別が生まれる」という説明はたいへんわかりやすいです。しかも、道徳教育を行ううえで都合がいい。おまけに、差別を糾弾する運動においても効果的です。

 しかし、それだけに、本来は多様なはずの差別のあり方を、すべて偏見という心の問題に回収してしまう困った効力を持っています。

 偏見理論はある種の差別事象を説明する力を今でも持っています。しかし、それは多様な差別事象のごく一部でしかないのかもしれないと、つねに意識しておくことが重要だと、ぼくは思います。

P.S.

 マートンの類型と紹介事例の対応関係が間違っていたのを速攻でsilly_fishさんが指摘してくれました。深謝。

人権教育の問題点

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 人権教育について市民意識調査を実施すると、自由記述欄によくこのような内容のことが書かれてきます。

「小中の同和教育で、初めて被差別部落について知った。同和教育があったから、被差別部落の存在も知ったし、差別される存在であるということも知った。それによって、自分との違いを意識するようになってしまった。いわば、同和教育によって、私の中に、ある種の差別感が芽生えていってしまった。同和教育なんかないほうがいい」

 授業で人権教育について言及したときも、かなりの学生がミニッツペーパーにこういう趣旨の感想を書いてきますね。

 しかし、この意見はナンセンスです。なぜならば、「学校の同和教育によって被差別部落について初めて知った人」は、「近隣や親、友人、知人、先輩などからインフォーマルな形で部落についての情報を初めて聞いた人」に比べて、被差別部落への差別的態度が明らかに弱い、ということが各種の調査からわかっているからです。

 たとえて言えば、同和教育は生ワクチンのようなもの。受けることによって、自覚しない程度の軽い偏見に感染してしまう。けれども、そのおかげでひどい差別意識を発症せずにすむわけです。だから、人権教育を《やるべきかどうか》という次元では、答えは明らかで、やるべきなのです。

 ただし、《どうやったらいいのか》という次元については、難しいところがあります。少なくとも、現行の人権教育のやり方には、明らかに間違っているところがある。

 小中学校の人権教育では、「差別をするのは悪い人」だと教える傾向があります。「差別をする悪い心があるから、差別が起こる。だから差別をなくすためには心の中の悪い部分をなくしましょう。一人ひとりが心の中から差別をなくしていけば、いつか社会から差別はなくなるのです」という教え方をします。

 でも、差別をするのはみんな悪い人でしょうか? 悪い人でなければ差別をしないといえるでしょうか? ぼくは、現実の差別事象というものはそんなに単純なものではないと思いますけどね。

 例えば、僕が小学生の頃は、教師が生徒たちの注意を喚起しようとして、「こら、おまえら、つんぼか!」という表現をよく使ったものです。教師の権威を利用した、あからさまな差別ですね。でも、このとき先生には、聴覚障害者を傷つけようという悪意はありません。「つんぼ」は《外部の存在》として利用しているだけであって、実際には聴覚障害者を傷つけようなんて思っていません。聴覚障害者のことを考えてもいません。なぜなら、「つんぼ」は、「見下される存在」として引き合いに出しただけであり、「おまえらその見下される存在か」「そうじゃなく、耳は聞こえるだろう」と問うているだけなのですから。

 また、例えば部落出身者がいて、そのことを知っている人がいるとしましょう。その人が別の友人に「ねえ知ってる? あの人、あっちの人なんだって」と、陰口をいうことがあります。この時も、部落出身者を傷つけようという悪意があって差別をしているとはかぎりません。そうではなく、「あの人とは違って私たちは仲間だよね」と確認したいがために引き合いに出されているだけなのかもしれない。この場合も、被差別者に対し悪意があるのではなく、我々の一体感を高めたいがために、《外部の存在》としてたまたま部落出身者が利用されているだけです。

 「我々はあの人たちと違って普通だよね」「我々はあの人たちと違って異常ではないよね」と確認するために、マイノリティが《外部の存在=他者》としてその場その場で利用されていく。「わたしたちは同じ仲間だよね」というメッセージを効果的に伝えるために、巧妙にマイノリティが外部化、他者化される。そして、マイノリティを見下したり、排除したりする感情が利用されていく。こういう場合、悪気がないだけに、「いえ、別に悪意ないから差別ではありません」という反論が起こります。

 ここでは、悪気がなくともコミュニケーションの中で差別が起こりうるという例を挙げましたが、他にも、経済的な条件が構造的に生み出していく差別、文化によって植えつけられる差別など、多種多様な差別の発生形態があります。いずれも、マイノリティを傷つけようなどという「悪い心」がなくても起こる差別ばかり。

 差別は、悪い人であろうが、いい人であろうが、誰だってやってしまう危険性があるものです。にもかかわらず「差別は悪い人がする」ということばかりを教えられている人からすれば「俺は悪い人じゃないから差別しない」「差別をする悪い心なんか持っていない。だから、差別していない」、「今言ったのは別に差別するつもりなんかなかった」で終わってしまいます。

 というわけで、差別を教えたり論じたりするとき、「差別は悪い人がする」というストーリーに固執するべきではない、というのが今日の話でした。

......これで締めようと思いましたが、ちょっと補遺を追加。どうせ何回かに分けても、読まない人は読まないから、関連する話題は書き終えておきます。

 なぜ、「差別は悪い人がする」という教え方になったのかというと、道徳教育の一環として差別論が教えられるようになったからだとぼくは思っています。倫理的にすばらしい人間になろうという道徳教育の一環として、反差別が取り上げられるとすれば、当然のことながら、「差別する心、卑劣な貧しい心をなくしていきましょう」という教え方になるでしょう。でも、これって、道徳教育のために差別を利用している、ということなんですよね。

 似た構図に、反戦教育のためにアジアや在日が利用されるというのもあります。「日本はかつてこんなにひどいことをしました。アジアの人はみんな怒っています。われわれは、申し訳ないと思わなければいけない。だから、日本はふたたび戦争に踏み出すことはできない。軍事国家化すれば、アジアの人がどんなに怒るか考えてみよ」という教え方です。アジアを利用せずとも反戦教育は単純にできるはず。ところが、「そんなことをしたら、隣のおじちゃんに怒られるよ」と言わんばかりに、「アジアに怒られちゃうよ」という形で、反戦教育を進めていくのです。

 それがどのような弊害を生むかといえば、「そんなに、反日、反日いうのだったら、日本から出て行ってください」という暴論を引き出してしまうのです。つまり、「確かに日本は悪いことをしたし申し訳ないと思います。でもそんなに日本が嫌いだったら出て行ったらいかがですか」という、ある意味で素朴な声を生んでしまう。

 ところが、当の在日コリアンは必ずしも日本を恨んではいません。特に、比較的若い世代にとっては、日本に対する愛着度、韓国に対する愛着度、在日に対する愛着度を測定しますと、一番高いのは日本に対する愛着度なのです。日本と韓国が試合をする場合、どちらを応援するかというと、多くの在日の若者は日本を応援すると言います。すでに住む土地としての日本に、愛着の基盤を寄せているのですね。日本がかつて行った自分の民族に対するネガティブな歴史については、しっかりと教えてほしいと思うけれども、そのことはそれとして、自分が住む地域として日本に対しては愛着を持っているし、今後もこの国で共に住んでいきたいと在日側は思っているのです。

 そういうと、「民族意識の強い人は反日に違いない」と、反論する人がいるかもしれません。でも、そうではありません。民族意識の強弱と、日本に対する愛着度の強弱は、統計的に意味のある相関関係がありません。つまり、民族意識が強かろうが弱かろうが、圧倒的多数の在日は日本に愛着を持っている、というのが現状なのです。

 ところが、上述のような反戦教育を受けた日本人の中には、加害の歴史につながる罪悪感を何とか解決したいと思い、いわば八つ当たりするために在日コリアンを利用していく場合がある。反戦教育にアジアを利用することによって、反射的に在日コリアンにその攻撃が向いていくという構図です。そのことが、ナショナリズムに対する需要の高まりと相まって、在日に対する攻撃を生んでいると、ぼくは考えています。

※最後の論点については、こちらも参考に。ある韓国人の感想。「日の丸、君が代を敬わない日本人は信用できない」

差別論を学ぶ心構え

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 これまでにいくつかの大学で差別研究について教える機会を持ったことがあります。その種の講義(以下、「差別論」)では、学生たちに繰り返し繰り返し、3つの留意事項を伝達する必要がありました。

  1. 差別問題は「被差別者の問題」ではないこと
  2. 家族やメディアといったほかのテーマと同じように差別という題材に向き合うこと
  3. 形式的な「正当/不当」(誰が「悪い」のか?)の結論を急ぎすぎないこと

 3つは同根の問題ですので、すべてを合わせて「安易に《犯人探し》をするな」と言い換えてもかまいません。でも、少しでも具体的なほうがわかりやすいでしょうから、3つに分けて説明していきましょう。

 1はvictim blamingとして知られる問題ですね。「被差別者の問題」という発想がいかに非論理的であるかを毎回のように説明しておかなければ、ミニッツペーパーに「今回の事例は差別される側に問題があると思います」と書いてくる学生が必ず出てきます。加害者扱いされたくなければ、差別だと訴えるマイノリティを攻撃するしかないと思い込んでしまう学生は必ずいるのですね。でも、そのような非合理的な情動に支配されているようでは、論理の体系である学問はできません

 2について。差別というと、(多くの運動家の言うこととは逆に)なぜか学生たちは自分自身をその現象の当事者とみなしがちです。具体的な事例を紹介すると、「差別者」を自分と同一視して自己嫌悪に陥ったりする。他の社会学的なテーマとは違って、一歩身を引いて観察するということがなかなかできないのです。加えていうと、学生たちはどうしても差別に関わるものごとを、当為(◎◎すべき)の問題としか捉えられない。当為ではなく、事実(◎◎である)の問題として観察できないと、学問は成り立たちません

 3について。差別というと、学生たちはすぐに《この事象は許されるけど、この事象は許されない》とか、《誰々が悪いからこうなったのだ》式の主張に飛びつきがちです。差別という悪徳がある以上、その罪を何者かに着せないと安心できない、ということなのでしょう。論理を積み重ねてそういう結論に到達するのであればまだいいのですが、学生たちが展開するのは、残念ながら、道徳的直感に頼りながら正当/不当、善/悪について評定するようなものばかり。道徳的価値観に目が曇っているようでは、学問はできません

 他の科目では、このような留保を何度も何度も授業の中で伝えなければならない、ということはほとんどありません。差別論に固有の問題です。差別という題材には、学生たちを学術的な姿勢から遠ざける何かがありますね。

 とにかく、《差別問題を解決したい》とか、《加害者扱いされるのはガマンならん》とか、原初的な問題意識はそれぞれ抱えていてもかまいません。でも、学問をやる前に、いったん棚上げしておかないとね。

以上。次回は、小中学校での人権教育の問題点について(予定)。

学問としての差別論

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 はてなのブクマコメントですが、面白いものすべてにリプライするのはムリなので、ちょっとだけピックアップさせてもらいます。

 その前に、ぼくがここに書いた一連のエントリーに対して、かりにぼく自身がコメントするならば、指摘するだろう主たる論点が2つあります。第一に、差別という現象に学術的に接近しようとすると、差別の解消を目指す運動は部分的に後退せざるをえなくなるんじゃないのか。第二に、もし学術的にも実践的にも、「差別者=悪人」という強固な前提が邪魔になるとしたら、差別研究の発展も差別の解消も、永遠にムリなんじゃないのか。

 これらの論点そのものは見当たりませんでした。でも、これらの前提となるロジックをどこかに内包するブクマコメントが以下の2つ。

 hal9009 そもそも差別ってそれを悪として駆逐するための概念ではなかろうか。それを前提としてこの調査の結果に対する意味づけを考えると鈍感な奴・人権について学んでいない奴≒悪、というなんともな結果に... 2010/02/15

 samoku 社会 「差別者=悪人」のイメージを壊しつつ差別を無くすって実に困難そう。「悪人から権利を勝ち取る」って闘争イメージのほうが動きやすくはあるのだろうなあ。差別を咎める時に相手を悪人扱いするなという話でもある 2010/02/17

 加えて、エントリーの内容を誤読してはいるけど、やはり上述の論点の基礎を含むコメントがこれ。

 usneet この具体例は結局「差別はあっても仕方がない」と言うことになって危険。差別的状況の把握能力と差別心の有無は違う。差別心からしか「差別」は産まれない、という前提がなければ差別は伐てない。 2010/02/15

 いずれも差別論の実践的な特性について的確に把握されていますね。

 ただ、ぼくがここで書いてきたことは、どちらかというと、差別の解消という実践よりも、差別の解明という学術的な課題に力点を置いている、と理解していただけるともっとうれしいです。

 さて、上述の論点について、前々回のエントリーで触れた「敬愛する先輩」が、著書の中で「差別論」と「人権論」を分けようと主張しています。手元に実本がないので記憶に頼って紹介すると、真理を追究するための学術的な議論(差別論)と、被害を回復するための政治的な議論(人権論)を混同すると、いつまでたっても合理的な解にたどり着かない、という話です。

※ 佐藤裕『差別論―偏見理論批判』 明石書店

 この主張はやや難解なロジックをその前提としていますし、「差別論」と「人権論」という類似概念にまったく違う意味を付与しなければならない難しさもありますので、誰もがすんなり理解して受け入れられる話ではないでしょう。

 その意味で、実効性には留保をつけざるをえません。おそらく佐藤さんもそれはわかっているでしょう。でも、ここで重要なのは、「学術的な議論と政治的な議論をいったん別のものとして論じるべきだ」という問題意識それ自体です。(差別論と人権論を分けようというのは、その問題意識を伝えるための手段にすぎません。)そして、ぼくもこの問題意識を共有しています。

 ということで、今回から何回かに渡って、なぜそのような問題意識が必要なのか、について書いてみたいと思います。

 なんだか、前回のネタははてなブックマークで賛否両面から大人気でした。でも、いくつか前提となる知識がないとピンとこない応用的な内容でしたので、趣旨をきちんと理解できた人はそう多くなかったかもしれませんね。今回は、前回のエントリーの統計学的な根拠を少し紹介しましょう。

 かつて敬愛する先輩が差別論の授業資料をウェブで公開していて、その中に興味深い調査のアイディアが記載されていました。具体的な場面をあげながら、「次のいろいろなことがらを差別だと思うかどうか、1から3のうちでもっともよくあてはまる番号をそれぞれ選んでください」と尋ねます。それによって、「差別の存在を認めない/認めやすい傾向」を測定しようというわけです。

 先輩には無断でしたが、即、非常勤先の「社会学入門」を受講している学生を対象に調査をしてみました。(結果は翌々週の授業のネタに使いました。じつは、前回のエントリーは、その「翌々週の授業」の資料の一部です。) 

記述統計量

度数 平均値 S.D.
被差別部落出身者であることを理由に婚約を解消すること 143 1.16 .39
同性愛者が周囲から忌避されること 143 1.20 .47
男性の政治家が「女性は家庭で子育てに専念すべきだ」と言うこと 144 1.25 .59
HIVに感染していることを理由に解雇されること 144 1.26 .53
在日韓国朝鮮人が被選挙権を持たないこと 142 1.37 .61
重度の身体障害があることを理由にアパートの家主が賃貸契約を断ること 144 1.44 .61
特定の政治団体に所属しているために企業に採用されないこと 144 1.58 .69
結婚前に相手の家柄を調査すること 144 1.82 .76
テレビドラマで「めくら」「つんぼ」などの言葉を使うこと 144 1.82 .75
出身大学によって企業の採用や待遇が異なること 144 1.85 .78
公共の建物にエレベータなどが設置されていなくて、車いすの障害者が上の階に上がれないこと 143 1.96 .78
男女がともに働く職場で女性のヌードのポスターを壁に貼ること 143 2.01 .82
企業に一定数の障害者を雇用するように強制すること 144 2.08 .76
女性の国会議員が男性に比べて著しく少ないこと 144 2.12 .71
先天性の障害があると診断された胎児を中絶すること 143 2.13 .66
職場の上司の私的な依頼(引っ越しの手伝い等)を強制されること 144 2.19 .79
オウム真理教の信者が地域社会から排斥されること 143 2.20 .72
女性がデートの経費を男性に支払わせること 144 2.21 .77
レイプを題材にしたポルノビデオを販売すること 144 2.22 .80
企業が「美人」を受付などに配置すること 144 2.24 .75
企業が採用の際に30歳未満という条件を加えること 144 2.26 .70
親のコネで一流企業に入社すること 143 2.27 .81
60歳で定年退職しなければならないこと 144 2.47 .69
女性が結婚相手に「三高」を選ぶこと 144 2.56 .58
職場で「性格が悪い」と感じる同僚との接触を避けること 143 2.59 .64
学生には馬券を買うことが認められないこと 144 2.69 .65
職場で将来の活躍を期待されていた女性が自ら結婚退職をすること 143 2.83 .39
20歳未満の者に選挙権が与えられていないこと 143 2.86 .40

 上の表が、質問項目と調査結果(平均値と標準偏差)です。回答は1「差別だと思う」、2「場合による」、3「差別と思わない」の3点尺度なので、平均値が2を下回ると、「差別だと認定した回答者が多い事象」ということになります(赤字)。また、平均値の順番に並べてありますので、上に行くほど「差別だと認定されやすい事象」、下に行くほど「差別だと認められにくい事象」ということになります。

 社会科学として差別研究に取り組んだことのない方は、こういう表を見ると、どの事象が差別であり、どの事象が差別ではないか、と判定したがる傾向があります。まあ、差別かどうかがハッキリすれば、「差別」と認定されたことをやらなければ加害者扱いされるリスクがぐっと減りますからね。前回述べたように「悪人呼ばわりされたくない人」であれば、白黒付けたくなる気持ちはわかります。ちょうど、前回のエントリーに付いたコメント3件がすべてそういうものでしたね。

 でも、一番上の項目でも「差別と思わない」と答える人はいますし、逆に一番下の項目でも「差別だと思う」と回答する人はいます。一番上から一番下までのどこかに恣意的に線を引いて、「ここから上は差別です」などと決め付けるのはナンセンスです。

 そもそも、この調査の目的においては、どの事象が差別(だと認められやすい)か、ということはほとんど重要ではありません。調べているのは、回答者の心理的要素(差別の存在を認めない/認めやすい傾向)なのですから。

 上記の回答の素点を全部加算すると、最小値40、最大値73、平均値56.7、標準偏差6.4、という変数ができあがります。この得点が高ければ、上記の設問で「差別と思わない」と回答することが多かったということですし、逆に得点が低ければ、「差別だと思う」と回答した項目が多かったということになります。これは、「差別の存在を認めない/認めやすい傾向」の尺度だと解釈できます。

 かなりラフではありますが、こうやって作成した尺度と、別途作成した「マイノリティへの冷淡な態度」との相関係数を求めたところ、0.49という値になりました。つまり、差別の存在を認めない傾向のある人ほど、被差別集団に冷淡な態度を持っている傾向がある、ということです。

 となると、「差別の存在を認めない傾向」というのは、やや文学的なレトリックを使うなら、「人権問題への鈍感さ」と言い換えられる、ということですかね。ちなみに、0.49という値は、この種のデータにおいては、強い相関関係をあらわしています。

 学術的にどれだけ信頼できるか結果かというと、調査設計がラフですから、社会学分野では業績扱いはムリでしょう。でも、K西大学でも、K南大学でも、O教育大学でも、K女子大学でも、(上表の順位は変わっても)同様の相関関係が、ほぼ同じ値で出ています。まあ頑健な結果だろうとぼくは思っています。(むしろ、当たり前の結果すぎて、ちゃんと調査しようという気にもならないぐらいです)

 ようするに、人にはそれぞれ、人権問題への感受性というか、差別の存在をキャッチする敏感さの程度のようなものが違った強さで備わっているわけです。そして、この感受性が弱い人は、単に鈍感だというだけでなく、マイノリティに対して冷淡な傾向がある、という話でした。

 昨日紹介した講演は、記憶の中では結構上手にこなしたことになっていたのですが、テープ起こしを読んでみると何を言っているのかわからない箇所がたくさんあります。もう少し上手にしゃべれるといいんですけどね。

 わかりにくかったからというわけではありませんが、今日も同じテーマを違う角度で書いておきます。

 「朝鮮学校がサッカーの地域代表になったとき、それを応援しなかったのは差別だという話がある。でも、朝鮮学校に知り合いはいないし、別に応援したいと思わなかったから応援しなかっただけ。それを差別だといわれるのはおかしい。最近、差別差別だといいすぎじゃないか。」

  なるほど、一理あるように聞こえます。「コーラは好きだけどオレンジジュースは好きじゃない。おなじリクツで、東海大仰星なら応援し、大阪朝鮮高なら応援しない。それは単なる好みの問題であって、差別じゃない。それを差別というなら、ご飯よりパンがすきだというのも差別になるじゃないか」というところでしょうか?

  でも、どうして朝鮮学校は「別に応援したいと思わなかった」んでしょう。実際には、知り合いがいようといまいと、日本人が通う高校だったら地域代表を応援したかもしれない。日本の高校だったら仲間だという感じがして、朝鮮人の高校だったら仲間だという感じがしないので応援しなかったのかもしれない。同じ地域の代表とは感じられず、別の民族の代表だと感じたのかもしれない。そして、別の民族の代表だから、応援しようという気持ちも起こらなかったのかもしれない。だとしたら、それは差別の異化作用です。

 もちろん、同じ日本人の通う高校でも、偶発的な事情で応援したりしなかったりもするはずです。でも、差別だという訴えがあったということは、そういう偶発的な事情では説明できないくらい、日本人の応援が少なかったということでしょうね。地域代表であるにもかかわらず、みんながこぞって朝鮮学校を「別に応援したいと思わなかった」とすると、朝鮮学校をヨソモノ視する排外的な感情がどこかに働いたということです。

  ちなみに、「最近増えている」のは、こういう差別を差別と認めたがらない意見のように思われます。これも、典型的なvictim blamingです。このことを手がかりに、victim blamingが発生する仕組みについて考えてみましょう。

 すでに各種の調査で明らかなことですが、差別に対して鈍感な傾向にある人は、差別の存在を認めたがらない傾向があります。つまり、差別を区別だといって正当化したがる。これはおそらく、「マジョリティであるだけで自分が差別者=悪人として糾弾されるのはゴメンだ」という判断が働くせいでしょう。そういう人には、マイノリティの立場を想像してみることは難しいようです。

 たとえば、社内で「セクハラ防止規定」のようなものを作ろうとしたとき、男性社員が「それもセクハラなのか? そういう規定が濫用されると何でもセクハラになってしまうじゃないか」といった反対をすることが多く、セクハラの被害にあった女性同僚をいかにサポートするかという観点はすっぽり抜け落ちているものです。

 差別を受けることのないマジョリティの地位に安住している人にとっては、差別などという重たい問題を目に見えるところに突きつけられるのは気持ちのいいものではないでしょう。そんな問題は考えたくない。みたくない。できれば逃げたい。そんな感情が、差別の存在を否定する態度にあらわれます。

 でも、マイノリティにとっては、差別は逃げられない日常です。のんきに「差別を見たくない」といって逃げられるマジョリティとは違って、逃げたくても、見たくなくても、考えたくなくても、否応なく突きつけられる日常です。マジョリティにとって差別はたんなる知識かもしれないけど、マイノリティにとってはリアルな現実です。

 悪意がなくとも差別は起こるし、差別が起これば被害者はさまざまな損害をこうむる。この単純な原理が、差別者=悪人のイメージに邪魔されてなかなか理解されない。差別だという訴えは、「私は傷ついている」という単純な主張であって、「オマエたちは悪人だ」と訴えているとはかぎらない。にもかかわらず、マイノリティの必死の訴えを、差別を見たくないというだけで「それは差別じゃない」と切り捨てる。自分も悪人の仲間だと思われたくないという理由で、差別反対運動のジャマをする。

 マイノリティが差別と懸命に闘って、ようやく必死の思いで傷口を見せて「差別だ」と声をあげたとき、いつでも逃げられる安全で優位な立場にいながら「最近、差別だと騒ぎすぎるやつが多い」などと批判するのは、タダ単に傲慢なだけでなく、二次的な差別とすらいえます。セカンド・レイプならぬセカンド差別。

P.S.

 こちらも参照。てのる【Gay】タイムズ「それ、ちょっとイヤなので、やめてくれませんか?」

 前回のエントリーで、「衝突壁」については別の機会に、と述べましたが。でも、よく考えてみると、2003年ごろに中学校の先生方を対象とした講演会で同じようなことをしゃべったことがありましたので、そのテープ起こしの内容を紹介することにしましょう。

――――――

 しかし、ナショナリズムに関するどういう情報を、どういったふうに消費していったらいいのか、おとなたちも迷っているというのが現状です。左右両翼が入り混じって《国家的な自分探し》をしている感じですね。そうなると、高校生たちなんか、ナショナル・アイデンティティを模索し始めたばかりだし、まして、中学生ぐらいになるとはじめてナショナリズムというものを意識化するようになったばかりという年齢層でしょう。ナショナリズムが自分探しとリンクしているような気がするけれども、その正体はわからない。

 そういうときにどうするか。「日本人としてのぼくはどうすればいいのだろう、どういう考えをもてばいいのだろう」といった疑問を解消するために、「非日本人」という《外部の存在》を利用するわけですね。どういうふうに利用するのかというと、ちょうどガードレールにぶつかっていくイメージです。

 たとえば、皆さんがお持ちの生徒さんたちも、「自分はどこまで自由を持っているのだろうか」ということを確認したがります。そして、それを確認するために、わざとルールを破ったりしますね。そして、「あっ、ここまでならOKなんだ、ここまでやったら、ダメで怒られちゃうんだ」というふうに、わざわざ、ルールを故意に破って、ルールの外延を確かめていくということをしますね。それと同じく、自分のアイデンティティがわからないとき、そのアイデンティティの輪郭をはっきりさせるために、自分と他者との境界線を探ろうとします。その時に利用されるのが、《外部の存在》であるマイノリティなわけです。

 ちなみに、アイデンティティの問題は、民族差別にかぎらず、ほかのどれでも一緒です。外部を利用することによって、「わたし」や「われわれ」を確認しようとする。

[...中略...]

 それと同じように、日本人らしさを確認するために異文化マイノリティに衝突して確かめてみる、ということがありうる。つまり、マイノリティ、例えば在日韓国・朝鮮人というのはこういうやつらなんだというイメージをまず作り上げる。そして、そのイメージを攻撃する。そして、その攻撃したことに対する反論を受けてそれによって「ああ、日本人っていうのは、こういうふうに見られるんだ」とか、その反論に対して再反論をしていくことによって、「ああ、日本人はこういうふうに言論を申し立てていくべき存在なんだ」ということを理解しようとしているわけなんです。

 先ほどの読み上げましたメッセージは、その典型的な事例であると言っていいと思います。

 マイノリティ、民族的マイノリティとは、さまざまな部分で権力的に少数派に置かれた人々のことをいいますけれども、社会的には非常に不利な位置にある。のみならずマジョリティが自分らしさを探すためにガードレール役として、(ガードレールとは英語ではクラッシュバリアですけれど)、クラッシュする対象として利用されていく。そういう形でも差別が起こっていっているということです。

 先ほども申し上げたように、ここで紹介したメッセージはむしろ柔らかい方で、インターネットではより過激な、あるいはよりグロテスクなマイノリティ攻撃が、今や主流となりつつあります。《自分探し》のための新しい差別の登場です。

外国人の地方参政権 #2

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 前回、「在日コリアンに地方参政権の門戸を開くかどうかというのは《日本人の問題》だとぼくは思っている」と書きました。つまり、日本人の寛容性の問題であり、日本人の地域観の問題である、という文脈でこの言葉を使ったわけですが、じつは別の文脈にもこの言葉は当てはまります。

 つまり、日本人のナショナリズムの問題だ、という意味です。もう少しわかりやすく言うと、外国人の地方参政権をダシにして日本人が国民的アイデンティティを模索している側面があるという意味です。もっといえば、日本人が「日本人とは何か」という問いを立てるために、外国人を衝突壁として利用するのはやめてほしい、ということです。

 ...ってネタフリに続けて詳しく説明しようと思ったけど、なんだか気分が乗らないから、この話はここまで。やっぱり別の話にします。ただ、ネタフリの最後にある「衝突壁」については、ヘイトクライム#2を書くときにあらためて言及しましょうか。

 今朝、Zeitbedingtさんがツイッターでこう書きました。

参政権を社会貢献の手段ととらえる見解には、あんま馴染めない。参政権の法的性質としてあえて公務性を否定しようとは思わないけど、社会貢献って法的性質じゃないし。実際、多くの投票者は自己利益に合致する(または反しない)代表者を選んでるだけじゃなかろうか。

 これはおそらく、ツイッターの仕組みを理解していなかったために幻となったぼくのつぶやき(↓)を念頭に書かれたのではないかと。

@nasukoB はじめまして。参政権というのは社会に貢献する手段ですから、日本や地域社会への愛着が強く、いっそう貢献したいと考えている在日ほど欲しがります。逆に、日本は外国だと思っている在日は欲しがりません。一般論として。

 なるほど、投票行動は自己利益を最大化するように行われるのだから、それを「社会貢献の手段」と表現するのは不適切だという指摘には、うなずかざるをえないかも。

 ただ、現時点で参政権を持たない在日外国人が参政権の獲得を望むとき、背後にあるのは具体的に誰かに投票したいということではなく、もっと抽象的な、「私も地域の一員として意思決定の代表者を選ぶプロセスに参加したい」といった気持ちでしょう。

 この点に関して紹介したいデータがあります。『在日韓国人の社会成層と社会意識全国調査報告書』の13章「権利」です。より具体的には、「日本の参政権」を望む理由についてロジスティック回帰分析を行った箇所。

 分析モデルがラフなので、この結果が一人歩きするようだと困るのですが、ここで注目してもらいたいのは「地域活動参加」の係数が有意だということです。4章「地域移動」、5章「地域意識」、11章「愛着」もあわせてお読みいただけると、このデータの意味が間接的にイメージできると思います。

 すなわち、在日コリアンはみな地域に強い愛着を抱いているが、普段から地域活動に参加し、今以上に愛着を持てる地域を創りたいと願う人、今以上に地域への貢献を求めている人ほど、地方参政権を求めているということです。

 最後に、関連する話題なので古いエッセイを一つ紹介して終わります。

 福岡安則「『在日』と日本人との共生は可能か」(月刊『アプロ・21』)

外国人の地方参政権 #1

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 先日、李怜香さんがツイッターに書いたこと。

永住外国人地方参政権法案に反対する人の特徴は、わたしが外国人だというと、意見もまったく聞かず、参政権法案に賛成だと決めつけて話をすすめるところだね。賛成反対どころか、言及さえしてないのになぁ。超能力者か(笑)

 それに答えてぼくが書いたこと。

ぼくも、地方参政権については賛否を公言したことは一度もないんだけど、その手の人々は賛成だと思い込んでくるね。金明秀ではなくザイニチという記号を相手にしてるんだろう。

 あぁ、字数だけ気にしてたら、めちゃくちゃ偉そうにタメ口つかってる...。ごめんなさい。

 ともかく、ぼくはこれまで、とても仲のよい友人を除けば、地方参政権について個人的見解を披露したことがありません。正確に言うと、HANBoardなどに、地方参政権を外国人に付与できるとする理論的な学究成果を紹介したことはあります。また、諸外国において移民2世以降の政治参加がどう扱われているかについて述べたこともあります。でも、ぼく自身がそれを肯定的に捉えているか否定的に捉えているかについては明言したことがありませんし、ぼくが参政権を欲しがっているかどうかについてはいっさい言及したことがありません。

 では、なぜぼくは、賛否を表明してこなかったのか。主たる理由の一つを紹介すると、在日コリアンに地方参政権の門戸を開くかどうかというのは《日本人の問題》だとぼくは思っているからです。

 外国人の地方参政権をどうするべきかについてはいろんな考え方があるものの、どれをとっても後付けのリクツにすぎません。そもそも、大量の移民の子孫が何代にもわたって「外国人」のままであるというのは、世界的にもまだ新しい状況なのですから、答なんてどこにもないのです。

 言い換えると、どこの国でも、そういう新しい状況に対して根源的な疑問を持ち、その疑問に答えるために、後付けのリクツを模索している最中なのです。

 その根源的な疑問とは何かというと、「自分の意思で国境を渡った移民一世はともかく、この国で同じように生まれ育ち、同じように社会に貢献している二世以降が、出自が違うということだけで政治的な権利を持たないというのは、ずいぶん不公正じゃないか? もしそれが法律だとしたら、その法律のほうがおかしいんじゃないのか?」 というものです。

 素朴で直感的な問いですね。でも、少なくともヨーロッパでは、それが始まりでした。つまり、隣人である移民の子孫が政治的に排除されている状況を、その国の国籍を持つ人々の多くが《おかしい》と感じる気持ち。自分の国はそんなに不公正で義理を欠く国だったのかという憤り。それが、外国人に地方参政権を付与しようという運動の出発点だったということです。

 以下は、日本人と在日コリアンに限定して話を進めましょう。というより、ぼくの私的見解の話に戻ります。

 日本国籍を持つ地域の友人・知人たちが、「同じ町の居住者である金君に選挙権がないというのはぜったいにヘンだよ。ずっとこの市に住んできたし、町内会の仕事もやってくれている。道路問題では行政との交渉で汗もかいてくれたじゃないか。人権講演会の講師も勤めてくれた。これだけ住民として貢献しておいて、政治的権利がないというのは、おかしいじゃないか。こんな歪んだ状況は隣人として許せない」と言ってくれるのであれば、選挙権を獲得した上で、地域の一員としての責務を今まで以上に全うしたいと思う。

 一方で、「へー、選挙権がないんだ。まぁ、国籍が違うんだから、しょうがないよね。文句があるなら国に帰れば? ともかく、ぼくの目に入らないところに消えてくれないかな。」と言うのであれば、そんな地域のメンバーシップ(=地方参政権)はいらないと思う。だいたい、外国人だから仕方ないなんて、20世紀の話だろう。グローバリゼーションの進んだ現代では、それじゃつじつまが合わなくなってきていて、どうすれば矛盾を解消できるかどこの国でも議論してるんだろうが。それを、ガイコクジンという記号としか見ようとせず、自分には関係のない話だと切り捨てるような輩が多数派であれば、そんな地域に貢献しようとは思わないということだね。

 つまり、ぼくの地方参政権に対する賛否(y)は、隣人たる日本国籍者たちが同じ地域のメンバーだと支持してくれる気持ちを持っているかどうか(x)の関数なんですね。ネットでは参政権付与に反対というテキストが目立つけれども、世論調査では賛成が過半数を占めているようですから、ぼくの気持ちも前向きになってきています。

 さて、最後に一つ大事なことを。

 ここまで読んで、「『どうしてもくれるって言うなら参政権を貰ってやってもいいよ』なんて、いったい何様なんだ。どうしてそんなに偉そうなんだ」と思ったアナタ! あなたは、ガイコクジンは頭を下げて参政権をこいねがうべきだと思っていることになりますね。それは傲慢ではないのですか? 偉そうなのはどっちかな?

ヘイト・クライム #1

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ブログを移転して読者がいなくなったのを機に更新をストップしていましたが、関学での仕事も軌道に乗ってきましたので、学生たち、とくにゼミ生を主たる想定読者として、ぼちぼち更新を再開していきたいと思います。

さて、去る19日、下記のような京都弁護士会会長声明が出されました。

朝鮮学校に対する嫌がらせに関する会長声明
(京都弁護士会、2010年1月19日)

声明の内容を一部を引用すると、

2009年(平成21年)12月4日(金)午後1時頃、京都市南区にある京都朝鮮第一初級学校校門前において、授業中に、「在日特権を許さない市民の会」等のグループ数名が、「朝鮮学校、こんなものは学校ではない」「こらあ、朝鮮部落、出ろ」「お前らウンコ食っとけ、半島帰って」「スパイの子どもやないか」「朝鮮学校を日本から叩き出せ」「北朝鮮に帰ってくださいよ」「キムチくさいねん」「密入国の子孫やんけ」などの罵声を拡声器等で約1時間に渡って同校に向かって大音量で浴びせ続けるという事件があった。その際には、公園に置いてあった朝礼台を同校の門前まで運んだり、門前に集まって門を開けることを繰り返し求めたり、公園にあったスピーカーの線を切断するなどの行為も行われた。

 という差別事件があり、それに関して警察その他関係当局は必要な対処をすべきである、というのが声明の主旨です。

「在日特権を許さない市民の会」(在特会)というのは、ようするに右翼組織なのですが、従来の右翼組織とは2つの点で違いが見られるという印象を持っています。ひとつは、インターネットを利用して支持を広げていること、もうひとつは、近年の日本ではめずらしくヘイト・クライムを積極的に指向していること。つまり、差別発言を街宣車でがなりたてるだけでなく、暴力行為を行うところが目新しい。

例えば、西宮では、いわゆる従軍慰安婦を支持する集会に在特会が乱入し、けが人を出したそうです。支持者のレポートによると

今日関西の「慰安婦」問題各連絡会は、阪急西宮北口のロータリーで午後6時半より、第900回目の「水曜デモ」に連帯し、合同の「水曜デモ」を行ないました。...中略...およそ30人あまりの「水曜デモ」となりました。
ところが終盤になって宝塚方面から来た「在特会」が約30名が、警察の制止を跳ね除け、集会の中心のロータリーになだれ込みました。
いつもの事ですが彼らは「朝鮮人帰れ」「慰安婦は売春婦帰だ」「外国人参政権反対」売国奴小沢一郎」などと、大口スピーカーで怒鳴りまわめきながら、女性に体当たりしたり、口々に罵声を浴びせ、私たちが展示していたパネルを剥ぎ取り、足で踏みにじり、横断幕を奪い取ろうとしました。
そしてあろう事か、暴徒化した彼らは、1人でいた人や、写真を撮っていた人に襲い掛かり、引き倒し、羽交い絞めにし暴行を加えたのです。
この暴力によって1人の青年が後ろへ引き倒されて腕を怪我し、近くの病院で手当を受けたところ骨折はなかったものの、全治2週間の診断されました。

とのことです。

連鎖 #2

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 前回は事後の対応が傷を深めるケースについて書きました。セカンドレイプならぬセカンドハラスメントですね。

 が、実際には、ああいうわかりやすいというか、典型的なセカンドハラスメントよりも、もっと責任の所在があいまいで、誰が悪いのか判然としないようなケースも多々あります。

 例えば、以下のようなケースを考えてみましょう。前回と同じく、複数の実際に起こったケースをモデルとしながら、いろいろと誇張を加えた架空の事例です。

  1. ある高校の運動部の監督が、合宿中に女子部員に抱きついた。
  2. 部員はわだかまりを感じつつも合宿を継続し、数日後の試合にも出場した
  3. しかし、わだかまりは消えることなく、考えれば考えるほど、不快感や嫌悪感がふくらんでくる。そこで女子部員は保健室の先生に相談し、セクハラが発覚した。
  4. 高校は即座に女子部員と監督に聞き取り調査を行い、事実を確認した上で、監督を免職処分にした。被害を受けた女子部員には保健室と連携しながら継続的に情緒的サポートを行い、被害に対して最大限に「補償」することを約束した。ただし、被害者とその保護者が「セカンドハラスメントの危険性があるので公表はしないでほしい」と希望したため、事実の公表については控えることにした。
 ここまでは典型的なセクハラ事件です。問題はその後どうなったか。
  1. 監督は処分を受けた数日後、強度のストレスにより急死する。
  2. 女子部員はセクハラの被害者でありながら、「監督が死んだのは自分のせいだ」と自責の念に駆られる。精神の平衡を保つことができなくなり、ウツを病み、不登校となった。
  3. 家庭と学校側の地道なサポートにより、3ヶ月ほどかけて精神状態が安定し、登校できるようにはなった。
  4. ところが、そのころいくつかの学校行事が重なり、欠席がちだった女子部員はうまく行事に溶け込めず、疎外感を深めてしまう。
  5. また、ちょうどそのころ、女子部員のサポートのために疲弊していた保護者夫妻は、ストレスから衝突することが多くなり、夫婦関係が破綻し、離婚してしまう。
  6. 女子部員は、学校での疎外感と、家庭でのトラブルのため、再び不登校となる。
  7. 父親は、女子部員を病院に連れて行ったり、離婚にともなう様々な手続きのため、数ヶ月に渡って仕事を休むことが多かったため、会社を解雇されてしまう。
  8. 父親は、すべての元凶となったセクハラを未然に防ぐことができなかった高校を激しく憎むようになる。そして、裁判に訴えるとともに、事実関係を極端に誇張して記者会見を行う。いわく、「娘は監督から性的暴行を受けた。事件をすべて公表するように高校に伝えたにもかかわらず、高校側は事件を隠蔽した」と。
  9. 高校側は、事件発覚以来、継続的に家庭訪問をしながら女子部員とその保護者と連絡を取ってきたため、父親の気持ちは分かる気がする。しかし、監督の遺族が経済的、社会的に苦痛にあえいでいることも知っている。セクハラは事実とはいえ、ここまで虚偽含みで誇張されて大々的に報道されてしまうと、遺族がかわいそうでいたたまれない。経営的にも放置はできない。
 いろいろな意味で、痛ましいケースでしょう? 誰もが心を痛めている。そして、「典型的な悪者」がいないだけに、気持ちをぶつけることもできない。

 もちろん、いちばん悪いのは監督なのですが、もはや故人であり、ある意味では"死んで償った"ような状態です。たとえそれが逆効果であったとしても、故意にそうしたわけでもない。しかも、監督の遺族にはなんら過失がないにもかかわらず、経済的、社会的に多大な損害を受けており、ある意味では「被害者」なのですね。

 前回は、事後の対応を"誤った"ために被害が連鎖的に拡大したケースでした。誠意と予備知識さえあればいくらでも防ぐことができます。

 それに対して、今回は、加害者が急死してしまったがゆえに被害が拡大したケースです。すべての関係者がその時点でできる最大限の努力をしたにもかかわらず、被害の連鎖を防ぐことができなかった。

 かなり特殊なケースではありますが、けっきょく、未成年に対するセクハラが起こった時点でもうアウトということなんでしょう。

 指導者と被指導者が二人きりにならないようにルール化するなど、"セクハラが起こりえない環境"を作るしかないんでしょうね。いろいろな教育活動がかなり不自由にはなりますが、上記のような悲劇が発生するリスクがある以上、それもしかたがない。

 病院では、なにせ患者が裸になることもありますので、医者と患者が二人きりにならないように必ず看護師一人以上付くというルールがあります。病院でできることなら、学校でもできないわけではないと思います。

連鎖 #1

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 セクハラ問題にせよ差別問題にせよ、多くの人権問題は、事象そのものよりも、事象に付帯して続発する様々なできごとが事態を面倒なものにします。言い換えると、人権問題は、起こったときより、起こった後のほうが問題になりやすいのですね。

 たとえば、以下の事例を考えて見ましょう。

(1)まず、「差別発言」が起こります。
 東京出身のAさんが、同僚でアイヌ出身のBさんに対して、「きみはクマさんみたい」と発言しました。Aさんにはまったく悪気はなく、クマさんのように愛嬌があってかわいらしい、ぐらいの意味で好意的な発言をしたつもりでした。

(2)ところが、アイヌは侮蔑的な意味をこめて「クマ」と呼ばれて差別されることがあります。
 そこでBさんは、(Aさんの発言意図がどうであれ)、「アイヌに向かって『クマ』と呼ぶのは差別的な意味合いがあり、不愉快だ」と抗議しました。

(3)Aさんとしては、好意的な発言に対して「差別」だと抗議されたことに驚きました。
 そして、「傷つけるつもりなんかなかった。だから差別なんかじゃない。クマは愛らしいじゃないか。クマと呼んで何が悪いのか。被害妄想はいいかげんにしてくれ」と逆ギレします。

(4)BさんはAさんの態度に傷つきます。
 最初は、Aさんに悪気があったかどうか分からないけど、できればよりよく理解してほしいという思いから、勇気を振り絞って「不愉快だ」と真剣に伝えたのに、このAさんの発言と態度からは「理解しよう」という気持ちはうかがえません。それどころか、被害妄想だと攻撃される始末です。傷ついた後、たいへん強い憤りを感じます。

(5)Bさんは上司に調停を依頼します。
 そこでBさんは、第三者として、AさんとBさんが働いている職場の上司に、内々に相談します。

(6)上司は事実がなかったかのように振舞います。
 上司としては、仕事と直接関係のない面倒な揉め事を嫌う人でした。Bさんから相談を受けた後、「ぼくからAさんをたしなめてるから、Bさんも事を荒立てないように」と話したにもかかわらず、Aさんには何も話をせず、ただ放置しただけでした。

(7)Bさんは上司に抗議しますが聞き入れられず、それどころか4月に配置換えされる対象になっていることが分かりました。Aさんはそのまま異動しないにもかかわらず。

(8)Bさんは、とうとう、Aさん、上司、そして会社の3社を民事で訴えることにしました。

 さて、このケースですが、(3)の段階でAさんが、「そうなんだ、知らなかったとはいえごめんなさい」とたった一言謝ればすむ話なのですね。いや、謝るどころか、「え、そうなの。知らなかった。よかったら、もう少し詳しく教えてくれない?」と前向きに理解しようとする姿勢を示すだけでも、たぶん大丈夫だと思います。

 ところが、Aさんは「差別」の一言に過剰反応してしまって、大悪党呼ばわりされたような気持ちになり、相手の気持ちも考えずに攻撃的な対応をしてしまいました。そして、いくところまでいってしまうことになったわけです。

 Bさんとしても、(1)の発言そのものに対して深く傷ついたわけではありません。むしろ、(3)や(6)〜(7)の対応によって、期待が裏切られ、信頼を喪失し、人間関係と職場に絶望し、そして、恨むようになっていったのです。

 事後の対応がいかに重要かわかりますね。

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