差別・人権の全ブログ記事

 来月早々、私の勤務校で下記の通り学会大会が開催されますので、ご案内いたします。

第 26 回日本解放社会学会大会

◆ 会場  関西学院大学西宮上ヶ原キャンパス
◆ 日程  2010 年 9 月 4 日~5 日
◆ 大会参加費
  会員(常勤職) ¥2,000
  会員(非常勤職・大学院生等) ¥1,000
  非会員 ¥2,000

 テーマ部会は「同和対策事業の光と影――現場とアカデミズムの対話から―― 」および「ジェンダー・セクシュアリティ研究とアイデンティティ・ポリティクス」の2本。

 学会大会・懇親会へは会員でなくても参加できます(←ココ重要) プログラムに関心をお持ちになりましたら、ぜひ懇親会ともどもご参加ください。

 以下、大会のプログラムです。

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2010 年 9 月 4 日(土) 
 
13 時 30 分
受付開始(関西学院大学E号館 102 号室前)
 
 
14 時 00 分~16 時 30 分  
自由報告部会(関西学院大学 E 号館 102 号室)
 
司会:金明秀(関西学院大学)
 
1.孫・片田晶(京都大学)
在日朝鮮人 3 世の学生組織と
「学習」的実践としての在日アイデンティティ
 
2.金沙織(埼玉大学)
強制連行と療養所収容と――ハンセン病問題聞き取りから――
 
3.黒坂愛衣(東京外国語大学)
強制隔離と患者労働――ハンセン病問題聞き取りから――
 
4.福岡安則(埼玉大学)
「原告 vs.非原告」の対立図式を超えて
――ハンセン病問題聞き取りから―― 
 
16 時 40 分~17 時 30 分  
理事会・総会(関西学院大学E号館 102 号室)
 
17 時 40 分~18 時 20 分
優秀報告賞選考会議(関西学院大学E号館 201 号室)
 
18 時 30 分~20 時
懇親会(関西学院会館)
 
懇親会費
¥5,000(常勤職)
¥3,000(大学院生など)
 
 
2009 年 9 月 5 日(日)
9 時 45 分  
受付(関西学院大学E号館 102 号室)
 
 
10 時~12 時 30 分  
テーマ部会Ⅰ(関西学院大学E号館 102 号室)
 
テーマ:同和対策事業の光と影
――現場とアカデミズムの対話から――
 
司会  三浦耕吉郎(関西学院大学)
 
報告:
 
1.山本哲司(龍谷大学)
部落差別におけるアイデンティティ問題の諸相
――まちづくり事業を終えて
 
2.二口亮治(大阪市人権協会)
部落関係者とは誰か――新しい部落分散論に抗して
 
3.山本崇記(立命館大学)
京都市における「ポスト同和行政」の展開とその課題
――住宅地区改良事業と隣保事業という「呪縛」
 
討論者:黒坂愛衣(東京外国語大学)
川端浩平(関西学院大学) 
 
 
14 時 00 分~16 時 30 分
テーマ部会Ⅱ(関西学院大学E号館 102 号室)
テーマ:
ジェンダー・セクシュアリティ研究とアイデンティティ・ポリティクス
 
司会:風間孝(中京大学)
 
報告:
 
1.戸梶民夫(京都大学)
被差別者アイデンティティの語りの変化
――在阪性的少数者グループの参与観察から
 
2.堀江有里(立命館大学)
〈アイデンティティ〉の共有と抵抗の不可能性
          ――ある性的少数者コミュニティの事例から」
 
3.菊地夏野(名古屋市立大学)
フェミニズム理論におけるアイデンティティの限界と可能性
――バトラー/コーネル/スピヴァク
 
コメンテーター:高橋慎一
渡邊太(大阪大学) 

 移民研究の分野には、「移民に対して偏見や悪感情が高揚するのはどういう場合か」という問題設定があります。ある国では移民が歓待されているのに対して、別の国では犯罪者同様に忌み嫌われている。その差はどこにあるのか、ということですね。

 いろいろな仮説が提唱され、様々な国で検証が行われていますが、多くの国の調査で統計的に有意な説明力を安定して示す仮説がいくつかあります。その一つは、「移民はこの国の役に立つ」と信じている人ほど移民に悪感情を持たない、というもの。逆にいえば、「移民はこの国の厄介者だ」と信じている人ほど移民の排斥に賛成する、という仮説です。

 リベラルなスタンスからは、「人のことをまるでモノのように《役に立つ》などと、いったい何さまなのだ」という倫理的反発を覚える方もいらっしゃるでしょう。しかし、例えば、こちら(不景気だからこその移民政策のススメ - My Life After MIT Sloan)のコメント欄をお読みいただくだけで、この仮説がどのような人々を説明しようとしているのか、お分かりいただけると思います。

 この仮説については、後日いくつかの文献を詳しく紹介する予定ですが、直接的には今回のテーマではありません。今回とりあげるのは朝鮮学校です。

 朝鮮学校といえば、チョゴリ切り裂き事件に象徴されるように、時として憎悪の対象となってきました。暴力を振るわないまでも、「独裁者崇拝を教える異常な学校」という認識を持つ人は少なくないようです。そうやって、朝鮮学校を「この国の厄介者だ」と思っている人々が少なからずいるかぎり、朝鮮学校が偏見や憎悪の対象から外れることは期待しにくいでしょう。しかし、今後とも在日コリアンが日本に定住していく以上、それは誰にとっても不幸なことだといえます。

 つまり、今回のテーマは、朝鮮学校が《日本の役に立っている》理由を整理してみよう、ということです。題して、「朝鮮学校が日本に存在する5つのメリット」。読者の皆さんは、この思考実験を経ることで、無償化排除問題などについて意見がよりポジティブな方向に変わるかどうかをそれぞれ自己検証してみてください。

 なお、この記事ではあえてマジョリティ視線に立って、パーソンズのAGIL図式を手掛かりに話を進めていきます。

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 まずは「適応(Adaptation)」から。これは、システムの外部に働きかけて必要な資源を調達するサブシステムのことで、国家レベルでいえば経済にあたります。日本経済に朝鮮学校が寄与していることは何か?

【メリットその1 韓国・朝鮮語話者の大量供給】

 朝鮮学校は韓国・朝鮮語話者を継続的に輩出しています。2000年からの韓流を支えたドラマや雑誌の翻訳は、そのほとんどが朝鮮学校出身者の手によるものです。韓流による経済効果は、朝鮮学校が支えたといっても過言ではありません。

【メリットその2 誕生圏経済のリクルート源】

 これは朝鮮学校というより在日コリアン全体にいえることですが、1980年代に入るまでは非常に厳しい就職差別があったため、学歴にかかわらず一般企業に勤めることは非常に困難でした。その結果、在日コリアンは自ら起業するケースが多かった。

 統計の取り方(「自営」の定義)によりますが、なんと在日コリアン男性の5割から6割が自営業主です。この比率は日本人男性の2倍以上。いかに自営業に追い込まれてきたかわかりますね。

 しかし、裏を返せば、自営業のノウハウと知識と人脈を持ち、ベンチャー起業のリスクを果敢にとりにいける人材を、朝鮮学校は大量供給しているともいえます。国家の庇護に頼らない自由で不羈の企業人を朝鮮学校は輩出してきたというわけです。

 日本にもグローバリズムが浸透しつつある中で、在日コリアンは貴重な生存戦略のモデルを提供してくれるかもしれませんよ。

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 次に、「目標達成(Goal attainment)」について考えてみましょう。これは、システム共通の目標に向かって外部に働きかけるサブシステムのこと。国家レベルでいえば政治(外交)にあたります。日本政治に朝鮮学校が寄与していることは何か?

【メリットその3 北朝鮮との外交カード】

 ときどき、北朝鮮の人権侵害を批判しながら、朝鮮学校を差別しようとする政治家がいます(例えば「橋下府知事の発言をめぐる諸問題」)。

 しかし、これはまったくナンセンスな話であって、こんな論理矛盾に満ちた主張をしているかぎり、日本政府の北朝鮮批判は国際社会で通用しません。事実、日本政府が行っている朝鮮学校に対する差別は、国連の諸機関で批判の対象となっており、北朝鮮が日本を批判する糸口になってしまっています。

 でも、裏を返せば、日本政府が朝鮮学校をきちんと処遇しさえすれば、人権外交上のポイントになりうるわけです。

 拉致問題以降、北朝鮮外交といえば「圧力をかけろ」の一辺倒で、実質的には、むしろ日本は外交カードを何も持っていない状態です。朝鮮学校の存在は、北朝鮮外交の閉塞状況を打破する重要なカードになりえます。

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 次は、「統合(Integration)」。これは、システム内部の利害を調整するサブシステム。国家レベルでいえば、共同体や司法がそれにあたります。日本の共同体や司法に朝鮮学校が寄与していることは何か?

【メリットその4 「民主主義の学校」の教材】

 A.トクヴィルやJ.ブライスの言葉を受けて、「地方自治は民主主義の学校である」と論じられることがありますね。そのココロは、「地域共同体という身近な環境で身近なテーマについて民主的に解決する訓練を積まないかぎり、国家という巨大な機構を民主的に運営することは難しい」ということです。

 その点、朝鮮学校は共同体内にある非常に身近な異文化集団です。これを安易に排斥しようとせず、利害を調整しながら上手に付き合うスキルを習得することができれば、日本の民主主義はきっと成熟の度合いを深めることでしょう。 

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 最後は「潜在(Latency)」。 これは、シンボルによってモノゴトを意味づけることで、集団のパターン(◎◎らしさ)を維持するためのサブシステムです。少しわかりにくいですかね。文化を維持するサブシステムと言い換えてもかまいません。国家レベルでいえば、教育やマスメディアなどの社会化エージェントが相当します。

【メリットその5 カウンターカルチャーの供給基地】

 あえて人名を挙げるのは控えますが、日本を代表するような文化人には、在日コリアンが少なくありません。著名な文学賞を受賞した小説家、映画賞を受賞した監督、有名なアーティスト、等など。90年代には、「在日文学抜きにはもはや日本の文学を語ることはできなくなった」という声すらあったぐらいです。

 在日コリアンのハイブリッドな文化環境での生育経験や、マイノリティとしての被差別体験などが、日本人にとっての《あたりまえ》を揺るがすメッセージを生みだすためでしょう。1970年代以降、在日コリアンは、サブカルチャー、カウンターカルチャーの供給源であり続けてきました。

 ところで、それら在日コリアン文化人の多くが、朝鮮学校の経験者です。朝鮮学校は、いわば、日本におけるカウンターカルチャーの供給基地なのです。次の文学、次の芸術、次の映画が、いま、朝鮮学校で育っているのかもしれませんよ。

 鳩山元総理が、普天間基地の問題解決に前向きに取り組もうとして挫折したことは周知の通りです。

 一方で、沖縄に軍事基地が集中している状況について、国連の人種差別撤廃委員会が日本政府に改善を勧告していることをご存知でしょうか。それも、過去に何度も繰り返し「差別的」だと明言してのことです。

 人権問題などニュースバリューにならないということか、はたまた「国益」にならないという判断なのか、マスメディア各社はこの事実を積極的には報道してきませんでした。それどころか、沖縄の米軍基地負担を「仕方がない」と論じ、鳩山元首相に対しては「寝た子を起こしてしまった」と批判するケースが多かったようです。

 しかし、この問題は「仕方がない」で済まされることではなく、日本が批准している条約上、違法性が高い人権侵害だと国連から指摘され続けていることを知るべきでしょう。

 ところで、差別問題を研究している者にとって、「寝た子を起こすな」という主張はたいへん馴染みの深いものです。その類の主張を聞いたことのない差別研究者はモグリと呼んでかまわない――といえるほど、日本で差別が語られるときに一般的なスタンスだからです。代表的な語りを2つ紹介しましょう。

「差別だと騒ぎ立てるから、いつまでたっても問題が持続してしまうのだ。」
「些細なことを差別だと指摘したりせず、じっと静かにしていれば、そのうち差別など消えてしまうだろう。」

 上述の通り、これらはたいへん一般的な主張です。しかしながら、それをそのまま真に受ける差別研究者は、まずいません。なぜなら、すでに各種の調査において、この種の主張はマイノリティに差別的な主張群と高い正の相関関係を示すことが確認されているからです。もっとわかりやすく言い換えると、「寝た子を起こすな」という主張をする人は差別的な傾向がある、ということです。

 ちなみに、この関係は非常に多様なエビデンスによって支持されており、人文社会科学的な命題としてはかなり頑健なものだといってかまいません。(類似の現象も参照のこと「差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある」)

 さて、この「事実」を、沖縄の基地問題に敷衍すると、どういうことになるでしょう。行為の次元が異なるため、単純に同一視するのは慎重であるべきかもしれません。

 しかし、いち社会学者としての個人的な直感を述べるなら、鳩山元首相に対して「寝た子を起こしてしまった」と批判したマスメディア各社は、どうしても、沖縄への差別意識を垂れ流しているように思われて仕方がないのです。そう考えたとしても、ムリはないと思いませんか?

 ロバート・E・パーク(1864-1944)といえば、「社会学入門」で必ず習う巨人の一人です。いわゆるシカゴ学派の隆盛を支えた最重要人物で、都市社会学や人種・民族関係論に深い足跡を残したことで知られています。

 パークは社会学説史上の輝ける星です。しかし、ずっとアカデミアで活躍してきたわけではありません。ミシガン大学でジュン・デューイに師事し、実践的な問題への関心を深めた後は、大学院へと進学せずに人権派ジャーナリストとして全米各地で約10年の経験を積みます。特に人種問題には強い関心を示し、ベルギー領のコンゴで土地の人々がベルギー王室からきわめて過酷な扱いを受けていることを知るや、国際紙上での告発を通じて対応を改善させたこともありました。今ならめずらしい話ではありませんが、なにせ19世紀のことです。奴隷解放宣言からまだ30年前後という時代なのですから、パークが当代随一の人権家であり、理想家であったことは間違いありません。

 その後は大学院でふたたび学問を修め、シカゴ大学に就任してからは偉大な研究業績を量産していきました。日本ではパークの業績として都市社会学の研究ばかりが紹介されますが、アメリカでは彼のライフワークとして人種関係論を挙げる人が圧倒的に多い。パークはアカデミアにおいても実践家であり、特に人種問題には一貫して関心を示し続けてきたからです。 

 そんなパークですが、現代のアメリカにおいては、どうにも人気がない。それどころか、リベラル気質の若い研究者たちから「彼はレイシストだ」と忌み嫌われていたりします。人権家であったはずのパークですが、いったいなぜ没後に評価が反転し、こともあろうに「レイシスト」と呼ばれるようになってしまったのか。

 そのことを議論する前に、まずはパークの業績を少し紹介しておきたいと思います。パーク自身は「人種関係循環モデル」(1921年)と名づけたものの、現在はより簡単に「同化理論」と呼ばれている論考です。

 パークらによると、文化的に異質な集団が「接触」した後に生じる相互作用には、段階的な4つの類型があるといいます。すなわち:

  1. まず、稀少資源の獲得をめぐって各集団がそれぞれ「競合」し、経済的に分業が成立するステージをへて、
  2. 努力目標が競合集団への政治的攻撃に転化する「葛藤」のステージにいたる。
  3. 競合や葛藤によるコストを軽減するために、各集団は文化的独自性を保ったまま、一定の「適応」の努力をするようになり、
  4. ついには、競合集団の文化や価値を完全に受容する「同化」の段階に達する。

 パークは科学的な一般理論指向が強い研究者でしたので、「人種関係循環」についても科学的一般性を備えていると信じました。「接触から競争へ、競争から葛藤へ、葛藤から適応へ、さらに同化へと必然的に社会体系は変動し、このコースを変えることはできない」と。

 さて、パークの理論に対しては、3つのスタンスから批判が寄せられています。

 第一の批判は、同化が「必然的に進行するプロセス」というのは誤りだ、という指摘です。たしかに、(1)から(3)までは、非常に多くの国の移民集団で共通して観察される現象だといえます。それに対して、(3)から(4)にいたる同化プロセスは、どこの国のどの移民にも当てはまる話とはいいがたいのですね。むしろ、パークの後を引き継いだミルトン・ゴードンによると、(3)までで同化は止まってしまって、その先には進まないケースが多い。

 また、理論的にも(3)から(4)にいたるプロセスの説明があいまいです。大まかに彼らの主張をまとめるに、(a)時間の経過とともに移民後の世代交代が進行し、(b)エスニック・ゲットーから郊外に居住地を移す者が増加する、(c)それによって、地域的な隔離が解消する。また、(d)社会階層の民族間格差も自然と減少していく。(e)そうしたプロセスは、民族集団の集合性と独立性を解体することになり、(f)同族内のコミュニケーションを減少させ、(g)アングロ・サクソン系の文化に同化する「アメリカ化」が達成されるのだ、と。しかし、人種主義が激しければ、いくら世代交代が進んでも階層移動や地域移動が進まないケースはいくらだって考えられますので、彼らの説明は論理に飛躍があるといわざるをえません。

 第二の批判は、あまりにも理想主義的だ、というもの。

 パークらがこの理論を提出した時期は、アメリカ南部諸州において事実上のカースト制が法制化されていたいわゆる「ジム・クロウ期」のまっただ中であり、法によって人種の隔離が義務づけられ、法の外ではクー・クラックス・クラン(KKK)による大々的なリンチが繰り広げられていた時代でした。いわゆる「人種主義の世紀」の真っ只中です。当時のもっとも一般的な反応は、「ヨーロッパからの白人移民集団すら交じり合うのが難しいのに、アジア系や黒人と完全に同化するなんて気持ちの悪いことをいうな」というものだったでしょう。(というようなことが論文にチラと書かれていました。)

 ところが、時代を経て1960年代に入ると、しだいにリベラル勢力から批判を受けるようになっていきました。すなわち、上述のような時代に、たいして説得力のある根拠を示すわけでもなく、同化が「必然的に進行するプロセス」などと主張するのは、厳しい差別の現実が見えていない証拠だ、というわけです。

 たしかに、人種・民族間の競合が生じるのは、多くの場合、支配的な民族集団と従属的な民族的マイノリティのあいだです。したがって「葛藤」とは、事実上、支配的民族集団による民族的マイノリティへの抑圧や収奪を意味します。このような権力関係は、マジョリティ側が権益を得る構造である以上、むしろ安定的なものであるとみなすほうが自然です。つまり、パークらの言うように適応、同化へと移行する動因が論理的に成立しないのです。にもかかわらず、パークらが同化は自然に達成できると主張したのは、人種主義へのアンチテーゼを過度に意識するあまりに、ある種の理想を論じたのだと解釈せざるをえないのですね。

 第三の批判は、同化そのものを理想視する視点が非倫理的である、という批判です。1970年代ぐらいから、多文化主義の進展とともに、「同化は『差異への権利』を暴力的に抑圧する人権侵害」であるという理解が普及し、今では、「同化=人種主義的」という考え方が一般的になっています。

 日本ではむしろ、同化は共同体が示す善意であり歓迎の表現とされます。例えば、転校生が土地の言葉を話すようになると、ようやく「本当の仲間になった」と喜んだりしますね。在日コリアンに対して、本当の仲間になってほしいからこそ日本に帰化してほしい、などの表現もよく聞かれます。だから、アメリカでは同化を非倫理的だとみなす視点が一般的になっていると聞いても、ピンとこない人が多いかもしれません。

 でも、たとえば次のようなケースを考えてみてください。 

 Aさんは京都の女子大学を卒業し、東京で就職しました。職場で同じ京都出身の男性と知り合い、すぐに結婚し、子どもが産まれました。家庭内ではみんな京都の言葉を話します。

 ある日、子どもが幼稚園に入りたがらない。どうしたのかと思っていると、別のお母さんが話しかけてきた。いわく、「お宅のお子さん、私たちの子どもと遊ばせないでいただけませんか? 関西の下品な言葉がうつっちゃうと困るんです。標準語を話せないなら、もうこの幼稚園から出て行ってほしいんですよね。」

 Aさんは仕方なく、子どもに東京の言葉を使うように促すのですが、「今日さぁ、幼稚園で友だちに笑われちゃって、なんだかイヤになっちゃったよ」などとなじみのない言葉を話すのを聞くと、わが子への愛情が薄らいでしまう気がするのでした。

 どうです。Aさんの立場からすれば、ずいぶん屈辱的な状況でしょう。心の痛む場面だと思いませんか。自分が母親に話しかけたのとは違う言葉で自分がわが子から話しかけられるんですよ。それはさびしいものです。自分で納得して土地の文化になじむのであればまだしも、半ば強要されてのことですから、屈辱感や寂しさはいっそう引き立ってしまいます。それが、同化というものです。同化には心の痛みが伴うのです。

 上述の通り、70年代ぐらいからアメリカではこうした事情が知られるようになり、その結果、同化を強要したり、同化を理想視する考え方を、非人道的であると批判するようになっていったわけです。また、同化させる側の文化を優位にとらえているという意味で、異民族を同化させようとする人を「レイシスト」と呼ぶようになっていきました。

 パークは人種関係論に社会学的視座を持ち込んだ初めての偉大な人物であり、その業績である同化理論があまりにも有名であったため、「同化の象徴」として嫌悪されるようになったのですね。

その後の顛末

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 前回の記事(「帰化すればいい」という傲慢)について、その後の経緯を説明しておく必要があります。

 ツイッター上で宮台真司さんご本人と激しく意見を交換したところ、論点1で指摘した件について、率直な謝罪と撤回の弁がありました。

miyadai:#miyadai デマを言ったとは思わない。だが生活保護は別に社会福祉の受給権の歴史を勉強させて貰いました。特権という言葉は使ってないが、日本人並み云々は撤回します。RT @han_org: ...多数の無礼な表現、申し訳ありません。一方、あなたもデマの流布を謝罪してもらえませんか。 [http://twitter.com/miyadai/status/11284450923]

miyadai:#miyadai デマとは「あえてつくウソ」という意味ですが、特別永住者の社会福祉受給権の歴史について、知っていて無視したのではなく、知りませんでした。ただ僕は研究者なので、査べなかった怠慢は謝罪に値すると思っています。今後もよろしくお願いします。@han_org [http://twitter.com/miyadai/status/11284707876]

 ぼくの周囲では、前回の記事や、議論の途中における宮台氏のツイートをお読みになった方の中から、氏の人格に疑問を持つという意見も聞かれました。しかし、見知らぬ者(ぼく)から攻撃的な主張をぶつけられて、率直にそれを認めるなど、なかなかできることではありません。とても立派な態度だと思います。

 また、結果としては、特別永住権そのものが「特権」だったということはないと認めていただいたわけで、この点については今後おそらく応援してくださることでしょう。

 取り残した議論もありますが、上記の撤回に加えて、「犠牲者非難になっている」という批判に一定の理解が示されたことで、ぼくの批判の中核となる対象は解消されたといえます。

 末筆ながら、宮台真司さんには激しい議論にお付き合いいただき、ありがとうございます。また、無礼な表現の数々、失礼いたしました。

 以上、取り急ぎ連絡まで。

【BLOGOSさんへ】

 転載不可です。

 永住外国人に地方参政権を付与する法案はけっきょく日の目を見ませんでしたが、それに関連して一言いっておきたいことがあります。

 宮台真司氏のブログhttp://www.miyadai.com/から、「外国人参政権問題について週刊SPA!12月15日号にコメントしました」の一部を引用します。

■外国人参政権を考える上で、在日韓国・朝鮮人とそれ以外を分ける必要があります。在日韓国・朝鮮人以外の永住外国人は、'90年の入国管理法改正(永住権のない外国人を柔軟に受け入れることを目的として「定住者」という新しい在留資格を創設するなどした。これで日系外国人の在留が激増)大量に入国した日系人が中心です。
■在日韓国・朝鮮人については国籍取得が容易なので、参政権を求めるのであれば国籍を変えていただきたい。帰化をすればエスニック・アイデンティティに瑕がつくとの反論もありますが、国籍とエスニック・アイデンティティを分けて考えるのが国際標準なのです。

 シッタカブリというか、なんというか...。初めてこれを読んだときは呆れて物もいえなかったけど、その後、TBSラジオの「アクセス」でも、在特会レベルのご高説を自信たっぷりに開陳していたようですね(2月16日)。ヘイト・スピーチといっても過言ではない内容です。

特別永住者の方々が最初は2世までという約束で基本的には国籍を取っていないのに日本人に準じる権利を様々に与えられというのは、ご存知のように在日の方々の多くが強制連行で連れてこられたという左翼が噴き上げた神話が背景にあるんです。在日のなかで強制連行されてきた方というのはごく一部で、大半は一旗上げにやってきた人達なんですよ。ただ、区別がつかないから、あるいは戦争に負けて罪の意識というか原罪感覚というのがあったのでしょうか、まぁ、色んな人が混ざっちゃっているけど、しょうがないということで分かってやっている感じで特別永住の方々に対する特権の付与をやってきたわけです。僕に言わせると、あえてそれをやっているという感覚が段々薄れてきてしまっていることも問題だし、1世、2世とは違ってエスニックリソースを頼らず、日本人のネットワークをそれなりに頼っている人間が増えたのに、まだ4世、5世にも特権を与えるのが続いているのはおかしいし

 完全にスルーしたままだと、彼が正しいことをいっているのだという誤解を広めてしまうかもしれないので、いささか出遅れた感はありますし、力不足ではありますが、ここらできっちり訂正する努力はしておくべきでしょう。

1. 平然とデマを流布する傲慢

 まず基本的な歴史の問題として、「特別永住者の方々が最初は2世までという約束で基本的には国籍を取っていないのに日本人に準じる権利を様々に与えられ」たという事実はない。これはおそらく、「91年問題」をご都合主義的に曲解しているのであろう。

 1965年に締結された日韓条約において、「協定三世」(実質的には在日4世以降にあたる)の滞在地位は、協定発行後25年(1991年)までに協議を行うとだけ定められた。これは日韓両政府が、戦後半世紀近くもたてば同化の進展により在日問題は《消失》している可能性があると期待していたことによる。いわば、在日韓国人は日韓両政府から保護の責務を放棄されたわけであって、けっして、「2世までという約束で......日本人に準じる権利を様々に与えられ」たわけではないのである。

 その証拠に、日韓条約締結後も、在日コリアンに対するさまざまな差別は温存された。1965年といえば、法務省の池上努氏が在日外国人を評して「権利はない」「追い出すことはできる」「煮て食おうが焼いて食おうが自由」だと表現した年である。いくつかの例外的な措置を除けば、外国籍者に基本的人権すらも認められていなかった時代の話だ。いったい、何をもって「日本人に準じる権利を様々に与えられ」たなどといえたものか。

 ねえ宮台さん。「2世までという約束で基本的には国籍を取っていないのに日本人に準じる権利を様々に与えられ」たという発言を裏付ける歴史的事実が何か一つでもありますか。特に、2世が活躍するようになった1965年から1981年までの間、「日本人に準じる権利」と呼べる「約束」なるものが、何かありましたか。ぜひとも、証拠を示してほしいもんです。

2. 歴史問題を矮小化する傲慢

 宮台氏は「在日のなかで強制連行されてきた方というのはごく一部で、大半は一旗上げにやってきた人達なんですよ」という。

 なるほど、それは《ウソ》とは言い切れない。いわゆる強制連行で日本に渡ってきた在日一世の男性は2割程度だと推定されている。逆に言えば、8割は出稼ぎだ。したがって、ミクロな次元では、「一旗上げに」海を渡ったケースも当然多かったろう。

 だが、日本が朝鮮半島を植民地支配した36年の間に、朝鮮半島からは膨大な人口が半島外に流出した。植民地支配のプロセスで、伝統的な社会秩序と経済基盤が崩壊したためである。そうしたマクロな社会状況に言及することなく、ミクロな次元でのみ捉えようとするのは公正な視点とはいえない。

 社会学では、こうしたマクロな社会状況の影響で生じた社会移動を「強制移動」と呼ぶ。純粋に自発的な意思で移動したと推定される移動(「純粋移動」)とは区別して分析するためだ。宮台氏も、社会学者である以上、そうした用語法と分析視角についてまったく知らなかったということはあるまい。

 おそらくは、意図的に、在日コリアンの歴史を、ミクロな次元に矮小化しようとしたのであろう。そのことについて、倫理的な問題を責めようとは思わない。だが、少なくとも社会学者として、恥ずかしいとは思わないのかね?

3. マイノリティの生き方を決め付ける傲慢

 ぼくはかつて、「在日コリアンに地方参政権の門戸を開くかどうかというのは《日本人の問題》だ」と書いた(外国人の地方参政権 #1)。すなわち、日本で生まれ育ったにもかかわらず意思決定に参加できない者がいるということを不正義だとみなすか、それとも、「ガイコクジン」だから仕方がないと排除するか、それを責任を持って決めるのは日本人の課題だということだ。

 議論のうえで、やはり外国人には意思決定に参加させられないというのなら、(参政権が認められないことではなく隣人として受け入れられなかったことが)たいへん残念ではあるが、一つの結論として重く受け止めよう。

 だが、「参政権を求めるのであれば国籍を変えていただきたい」などと、マジョリティの知識人が、マイノリティの生き方に口を挟む暴力を、ぼくは許すことができない。

 かりに、宮台氏が「特別永住者には無条件で日本国籍を選択できるようにすべきだ」という言論を同時に展開しているのであれば、まだロジックとしては理解できる。だが、参政権がほしければ頭を下げて仲間入りを請えといわんばかりの一方的な放言を、けっして認めることはできない。

 宮台氏はこうもいったらしい。「日本人のネットワークをそれなりに頼っている人間が増えたのに、まだ4世、5世にも特権を与えるのが続いているのはおかしい」。

 なるほど、「おかしい」だろう。「3世以降になっても外国籍のままであるのはそれ自体が人権侵害である」との主張により国籍法を改正した国もあるほどだ。それを、外国籍のまま放置した旧宗主国の責任を問わず、一方的に「在日特権」呼ばわりするとは、宮台氏の認識こそ「おかしい」のではないか? 

 なお、私が日本の国籍を取得しないのは、「帰化をすればエスニック・アイデンティティに瑕がつく」からではないことを申し添えておく。

4. 「国際標準」を語る愚かさ

 宮台氏は、「国籍とエスニック・アイデンティティを分けて考えるのが国際標準」であるという。ほお、ずいぶんと世界のエスニック・マイノリティについて詳しいらしい。宮台氏にそんな研究業績があったとは知らなかった。

 確かに、国籍とエスニック・アイデンティティが独立しているケースは少なくない。出生地主義の国籍法を持っている国では概してそういう傾向がある。だが、国籍が移民のエスニック・アイデンティティに重要な役割を果たしているケースも少なくはない。「世界標準」などと乱暴に一般化できるようなものではないのである。というより、これだけ複雑で微妙な問題を「世界標準」などと一般化してしまうことで、自らの無知をさらけ出しているも同然である、とぼくは思いますがね。

5. 簡単ならやってみるがいい

 宮台氏は、「在日韓国・朝鮮人については国籍取得が容易」だという。ぼくには日本国籍を取得した在日コリアンの知人もいるが、「容易だ」などという人にはお目にかかったことがない。

 そんなに「容易」だと思うなら、宮台氏自身がやってみればいい。一度、日本の国籍を離脱した上で、再度、日本国籍を取得してみなさい。元日本国籍者は、在日コリアン以上に、日本国籍取得が容易らしいですよ。

 その上で、本当に「容易」だったというのなら、あらためてあなたの発言を評価することにしよう。

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【3月30日追記】→「その後の顛末」へ

 「差別には2つの次元がある。」

 これは、差別研究の分野では、誰もが知っている常識、定説の一つといっていいでしょう。

 つまり、差別には、「序列化」と「差異化」という2通りのロジックがある。その結果、差別事象は「格差づけ/見下し」と「異化/排除」という2通りの次元で表出する、ということです。

 差別のこの2面性をしっかり理解しておかないと、具体的な事象を観察しても、その差別性を認知することが難しくなります。片方の次元にのみ注目していると、もう片方の次元で現れた差別を見落とすことになってしまうわけです。

 以下、もう少し詳しく説明していきます。

1. 序列化のロジック

 (1)ある集団に帰属する者を、「われわれより劣った者だ」とみなす。そして、(2)「あの人たちは劣っているのだから不利な扱いを受けても仕方がない」と考える。これが序列化のロジックです。このロジックに沿った差別的な考え方の具体例をいくつか示しましょう。

    • 女は論理的思考能力という点でわれわれ男性に劣る。大事な仕事を任せられず、昇進が抑えられても仕方がない。
    • 黒人は知能においてわれわれ白人に劣る。奴隷として白人に奉仕するのは神が定めた摂理だ。
    • 朝鮮人は誠意においてわれわれ日本人に劣る。入居にあたって、日本人の3倍の保証金を納めてもらうのは当然だ。

 ようするに、特定の社会的カテゴリーに所属する人を「劣っている」と決め付け、侮辱し、一方的に攻撃する。そして、資源を奪ったり、資源の入手を制限したりする。また、資源の分配に不平等を持ち込んだりする。そして格差が固定すると、「ほら劣っている」と見下しが改めて強化される。そうした一連のプロセスとしてあらわれる差別の次元を、序列化のロジックと呼ぶわけです。

 さて、序列化のロジックについては、どちらかというと、直感的にわかりやすい面があると思います。

 なぜなら、多くの場合、序列化のロジックには偏見をともないますし、侮辱や不平等など差別に付随しがちな現象も観察されやすいからです。(ただし、偏見を持っている人は、自分が偏見を持っているという事実になかなか気づかないというのは、よく知られた事実です。)

 結果として、「差別」だと認知しやすいし、「差別」だとクレイムを付けやすい。逆にいうと、「差別ではなく区別だ」と反論しにくい。

 それに対して、次に紹介する差異化のロジックは、直感的には少々わかりにくいかもしれません。

2. 差異化のロジック

 (1)ある集団に帰属する者を異質だとみなす。そして、(2)忌避したり、関係を絶ったり、資源を共有するための集団や組織から排除したりする。 これが差異化のロジックです。このロジックに沿った差別的な考え方の具体例をいくつか示しましょう。

    • 部落の奴らはおれたちと身分が違う。結婚するなんてもってのほかだ。おれたちが管理している山で薪を採るなんて泥棒だ。おれたちと同じ場所で働くなんて許せない。
    • 女は子どもを生み育てる性であり、企業は男の世界だ。外で働くのは男にまかせて、女は家庭内で家事や育児をするのが合理的だろう。専業主婦はむしろ女の天職だ。
    • 朝鮮学校に通う生徒は他の児童とは違う。外国人だし、独裁者崇拝の洗脳教育を受けている。同じ大会に出場するなんて許せない。ましてや、ウチの県の地域代表になるなんておかしい。

 さて、どうでしょう。「なるほど、これらは差別的な考え方だな」と感じましたか? むしろ、今の日本だと、一番下の例に対しては共感を示す人も少なくないかもしれませんね。「嫌いな奴らと付き合いたくないというのが、なぜ『差別的な考え方』になるんだ」と。

 差異化のロジックに差別性を与える要件は、「排除」にあります。見下しの感情があろうとなかろうと、偏見を持っていようとそうでなかろうと、ある社会集団のメンバーを重要な機会から恣意的に排除すれば、それは「差別」だというクレイムの対象になります。

 しかし、差異化のロジックは、序列化のロジックとは違って、見下しや侮辱のようなわかりやすい「悪意」を伴わないことも少なくないため、「差別」だと直感的には認知しにくい面があります。だから、「差別」だというクレイムを受けても、「いや、差別ではなく区別だ」という反論が必ず出てきます。また、その反論に同調する人が少なからず出てきます。差異化のロジックの差別性は、どうにもわかりにくい。

 ジム・クロウ法制期のアメリカ南部においては、「黒人がバスで座ってよいのは後部座席だけ」という規定がなぜ「差別」と訴えられているのか理解できない人が多かった。単に隔離しているだけであって、差別じゃない。お互い不愉快だから、ただ区別しているだけじゃないか、と。

 同様に、選挙人登録の際に識字テストを行う規定(教育から排除されて識字率の低かった黒人から実質的に参政権を奪う仕掛け)についても、当時は「差別」だという訴えがなかなか認められなかった。市民として最低限の知性を要求しているだけであって、別に黒人を差別しているわけじゃない、と。

 国交のない北朝鮮を支持している朝鮮学校はカリキュラムを公式に確認できないから、無償化から除外する。形式的な問題であって、別に朝鮮学校を差別しているわけじゃない、というのも同じロジックですね。違法な人権侵害であることは明白なのに、その差別性がなかなか理解されない。

 しかし、わかりにくいならばなおのこと、ある社会集団のメンバーを重要な機会から恣意的に排除するようなことがあれば、それは「差別」ではないかと疑ってかかるべきでしょうね。後年、「あいつはひどい差別主義者である」との糾弾を受けるかもしれませんよ。

 差別研究には「victim blaming」(犠牲者非難)という有名な概念があります。ウィリアム・ライアンという心理学者が1971年に提起した言葉で、差別や犯罪などのつらい被害をこうむった人に対して、「あなたに(も)落ち度があったからだ」と非難する行為を指します。

 日本語ではvictim blamingをきちんと説明した文献がたいへん少ないので、あまり知られていませんが、池田光穂さんが「医療人類学辞典」の中で簡単に説明してくれていますので、まずは参照してください(→犠牲者非難)。差別や犯罪の被害にとどまらず、病気や事故などとても広範なつらい体験に対して観察される現象だということが理解できると思います。

 もちろん、先頭車両に乗っていて衝突事故で怪我をした人に向かって、「一番前なんかに乗るからだ」と責める行為にいっさいの合理性はありません。原因不明の病気に罹った人に対して、「日ごろの行いが悪かったせいだ」などと非難するのはナンセンスです。犯罪だって、悪いのは犯人であって、被害者を責めるのはお門違いというもの。victim blamingは非合理的な心理現象です。

 非合理的であるにもかかわらず、なぜ、victim blamingは起こるのか? victim blamingの発生要因についてはいくつかの仮説が提起されています。

 例えば、「世界は正しいと信じたい仮説」。世界は合理的で公正だと信じたい人は、非合理的、偶発的に被害が発生する状況を受け入れることができない。それで、「きっと被害者側に自業自得といえる理由があるに違いない」と考えることで自分を納得させようとする、という仮説です。

 他に、「傷つきたくない仮説」というのもあります。これは性犯罪を例にとるとわかりやすいのですが、「性犯罪の被害にあうのは、みだらな服装をしたり、ふしだらな行動をする女だけだ」と思い込んでしまえば、そういう服装や行為を避けることによって、自分は性犯罪の被害には会わないという安心感に浸ることができる、という仮説です。被害者を特別な存在だったとして攻撃することによって、自分が同じように傷つく可能性を否定したいのだ、ということですね。

 なお、「差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある」の中で、差別者扱いされたくない人がvictim blamingをするのだと書いたのは、これらの仮説を応用したものです。

 どの仮説が正しいにせよ、問題を過剰に個人のせいにしてしまうという人間心理の基本的な特性(根本的な帰属の誤り)に基づいている以上、victim blamingの発生を抑制するのは容易ではありません。victim blamingができるだけ発生しないように各人が気を配り、発生してしまったときには周囲の人々が丁寧に非合理的であることを説得するしかありません。

 しかし、ことが権力者による意図的な発言となれば話は別です。たとえ周囲の人々がミクロなレベルで修正したとしても、その言葉のマクロな影響力は制御のきかない状態で広まってしまうからです。

 朝日新聞が3月10日に報じたところによると、大阪府の橋下知事は、「不法な国家体制とつきあいがあるなら、僕は子どもたちを取り戻し、ちゃんと正常な学校で学ばせる。そうしないと朝鮮の皆さんに対する根深い差別意識が大阪府からなくならない」と語ったそうです。

 これは典型的なvictim blamingです。なにせ、差別の原因が差別される側にあると語っているわけですから。

 たとえ朝鮮学校が知事の要請にこたえていくつかの改革をしたところで、大阪から朝鮮人に対する「根深い差別意識」はなくならないでしょう。なぜなら、朝鮮学校のあり方は、差別意識の原因ではないからです。橋下知事の発言がいかにナンセンスであるか、その一点をとっても理解できるはずです。

 この種の発言は、人種差別を扇動する行為として法的に禁止している国がたくさんあります。違法ではなくとも、例えばオーストラリアでは、そうした発言を繰り返したポーリン・ハンソンが所属政党から公認されず、事実上、政界どころか国を追われました。

 権力者がvictim blamingをやって何のお咎めもなく許されてしまうというのは、世界の価値基準からいって、たいへん恥ずかしい状況なのです。

 日本では、マスメディア関係者を含めて、朝鮮学校が否定的に扱われるのは仕方がないと思っている人も少なくないようですが(「橋下府知事の発言をめぐる諸問題」参照)、その状況自体が差別的であるということに気づくのはいつのことでしょうか。

 まず、日本政府が1994年に批准した「児童の権利に関する条約」から、2つの条文を紹介します。

第2条
1 締約国は、その管轄の下にある児童に対し、児童又はその父母若しくは法定保護者の人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的、種族的若しくは社会的出身、財産、心身障害、出生又は他の地位にかかわらず、いかなる差別もなしにこの条約に定める権利を尊重し、及び確保する。

第29条
1 締約国は、児童の教育が次のことを指向すべきことに同意する。
(a) 児童の人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること。
(b) 人権及び基本的自由並びに国際連合憲章にうたう原則の尊重を育成すること。
(c) 児童の父母、児童の文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること。
(d) すべての人民の間の、種族的、国民的及び宗教的集団の間の並びに原住民である者の理解、平和、寛容、両性の平等及び友好の精神に従い、自由な社会における責任ある生活のために児童に準備させること。
(e) 自然環境の尊重を育成すること。

 第2条を読めば、政治的主張を理由として朝鮮学校のみを無償化対象から除外するのは、明らかに同条約が禁止する差別ということになります。日弁連の会長声明が明快に断言したように、法的な観点からは「この差別を正当化する根拠はない」のです。朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、きわめて違法性の高い差別政策だということになります。この点に議論の余地はありません。

 しかし、このことについてはすでに「橋下府知事の発言をめぐる諸問題」において簡単に触れていますので、今回のエントリーでは第29条をテーマに取り上げたいと思います。

 第29条第1項の(C)は、民族教育の尊重を謳った条文です。ややあいまいな記述にはなっていますが、民族文化や出身国の政治的伝統を重視した教育は、「18歳未満のすべての者」(第1条第1項)にとっての権利だというわけです。

 気づいている人はあまり多くはありませんが、日本人はちゃんと日本の学校で民族教育を受けています。まず、日本語の教育を受けられますね。日本の歴史も学べます。しかも、2千年も歴史の違うギザのピラミッドと仁徳天皇稜を比べて、日本の陵墓が世界一だと誇らしげに記述してあったりします。高校だと柔道や剣道を正課で学ぶこともできます。《立派な日本人》になるための教育がいろいろと用意されているわけです。

 その結果、諸外国の青少年に勝るとも劣らない強さの国民的プライドを日本の青少年は持っている、ということが国際比較調査によって明らかになっています。日本の教育を受けると自虐的になると批判する人もいますが、そのような事実は科学的には観察されていません。

 一方、在日コリアンはどうでしょうか。日本の学校に通うかぎり、在日コリアンとしての民族教育を望むことは難しい。事実、私が1993年に関わった調査では、韓国籍の青年のうち、母国語を「まったく話せない」か「いくつかの単語しか知らない」者が7割を超えています。いわば、民族的に文盲のまま放置されているわけです。

 しかも、日本の教科書には、朝鮮半島の歴史は「わざとか?」というほど登場しません。 出てくるといえば被征服の記述が中心となります。それで、ルーツに誇りを持って健全に生育せよというほうに無理がある。上述の調査で、「あなたはこれまでに,在日韓国・朝鮮人である自分を嫌だと思ったことがありましたか」という設問に対して、64%が「あった」と回答しています。

 そうした中で、体系的な民族教育を全国規模で実現している唯一の機関が、朝鮮学校です。日本人の子どもたちが日本の学校で自然な日本人に育っていくのと同じように、朝鮮人の子どもたちが朝鮮人として自然なプライドを身につけていくことができる、唯一の環境だということもできます。

 ミクロなレベルでいえば、日本の学校に通いながらも、在日コリアンとしてのプライドを持つにいたるケースも中にはもちろんあります。しかし、マクロなレベルでいえば、朝鮮学校を否定するということは、実質的に、在日コリアンに対する民族教育の機会を否定するということです。

 大阪府の橋下知事は、朝鮮学校を、その政治的姿勢ゆえに批判していますが、だったら、朝鮮学校と同等の民族教育を保障する政治的に中立なシステムを府下に作ってみればいい。その上での朝鮮学校批判ならば説得力もありますが、現状のやり口は、権力をかさにきたレイシズムの吐露にしか見えません。

 民族教育の多様な選択肢がある中で朝鮮学校だけが攻撃に晒されているのならば、(もちろん、それも人権侵害ですが)まだしも救いはあります。しかし、朝鮮学校は、日本で在日コリアンの児童に権利として民族教育を保障する、現状で唯一の機関です。

 したがって、朝鮮学校のみを無償化の対象外とすることは、実質的に、在日コリアンの子どもたちが在日コリアンとして健全に生育する機会を否定するのと同じだということです。

 1月末、鳩山総理大臣の施政方針演説は、「いのちを、守りたい」という印象的なフレーズが多用されたことに注目が集まりました。その一部を引用します。 

 いのちを、守りたい。
 いのちを守りたいと、願うのです。
 生まれくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい。
 若い夫婦が、経済的な負担を不安に思い、子どもを持つことをあきらめてしまう、そんな社会を変えていきたい。未来を担う子どもたちが、自らの無限の可能性を自由に追求していける、そんな社会を築いていかなければなりません。
(中略)
 差別や偏見とは無縁に、人権が守られ基礎的な教育が受けられる、そんな暮らしを、国際社会の責任として、すべての子どもたちに保障していかなければなりません。

 演出過多を斜に構えて批評する向きもありましたが、演説内容そのものは高邁な理念の表明だと感じた人も少なくはなかったでしょう。しかし、今、この演説が壮大なハッタリにすぎなかったと証明されるかもしれない出来事が進行中です。高校教育の実質無料化策から朝鮮学校を除外する方針のことです。

 社会学には、「差別とはライフチャンスの不当な格差である」 という定義があります。ライフチャンスとは、 生きていくために社会的資源を利用する機会のことです。それは結果として、健康に生きる可能性のことをも意味します。

 無償の中等教育機会は、それ自体がきわめて重要な社会的資源です。学歴の有無を通じて、就業機会や生涯賃金といったより大きなライフチャンスの格差が生じるためです。高校実質無償化の対象から朝鮮学校を除外するということは、朝鮮学校に通う子どもたちの生存機会を奪うということを意味する、と社会学者は考えます。

 いうまでもなく、それは朝鮮学校に対する差別政策です。

 先月末、ジュネーブで開かれた人種差別撤廃委員会の対日審査で、朝鮮学校を授業料無償化法案の対象外にする動きに複数の委員が「差別だ」として疑念を表明する一幕もありました。日本弁護士連合会をはじめ、複数の弁護士会から違法性の高い人権侵害だと批判する会長声明も出されました。

 朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、差別以外の何ものでもありません。朝鮮学校に通う子どもたちの、いのちの可能性を奪う政策です。鳩山首相の施政方針演説とは、けっして相容れるところがありません。

 むしろ、理念が高邁であるだけに、差別政策がよけいに汚らしく見えるだけです。しかも、「国交がないので教育内容が確認できない」といった欺瞞を構築してまで、差別だという批判を回避しようとする姑息な態度がよけいに卑劣に見えるだけです。

 朝鮮学校を対象に含めるかどうかの判断は先送りになる公算が高まっているようですが、もし、最終的に差別政策を採用するなら、鳩山首相は施政方針演説を撤回するべきでしょう。そして、「いのちを、守りたい。ただし、朝鮮人は除く。」と修正するべきでしょう。権力を持ってマイノリティのいのちの可能性を奪うのなら、せめてその倫理的責任を引き受けるべきでしょう。

 このところ学術的な観点からのエントリーが続いていたけれども、この問題を批判しないわけにはいきません。あまりにもネガティブな感情が強すぎて、これまでどうしても冷静に論じることができませんでしたが、そろそろ執筆する準備ができたように思います。

 何の話かといえば、高校教育の実質無償化政策から朝鮮学校を除外する案について、大阪府の橋下徹知事のレイシスト発言っぷりが際立っています。今回のエントリーでは、彼の発言の何が「問題」なのか、下記のテーマに沿って論じていきます。

    1. 他のどこでもない大阪府の知事であることにより発生する歴史問題
    2. 法律家でありながら超法的政治手法を利用するポピュリズム問題
    3. 以上を報道しない日本マスメディアのレイシズム問題

1. 大阪の歴史問題

 この問題については、すでに優れたエントリーが書かれています。日朝国交「正常化」と植民地支配責任というブログの最新記事、橋下府知事を朝鮮学校に入れるべきではない――朝鮮学校と高校「無償化」問題6です。まずはお読みいただきたい。

 リンク先のエントリーで述べられているのは、「阪神教育闘争」として知られる事件です。平和的デモに対して警官が発砲し、16歳の死者まで出したこと一つをとっても、戦後日本の民主主義の歴史に残る最悪の汚点の一つといってよいでしょう。

 大阪府は、在日コリアンの民族学校を弾圧した歴史的事実に対して、倫理的な責めを負うべき立場です。橋下知事はこの事件を知っていたはずですし、仮に知らなかったとしても、朝鮮学校を無償化対象から除外する議論が始まったときには知ったはずです。にもかかわらず、橋下知事には一切の反省がないどころか、逆に弾圧当時と同様のロジックで朝鮮学校を追い込もうとしている。知事の権力をもって、在日の子どもたちに踏み絵を強要しようとしている。

 橋下知事には、民主主義を守ろうという精神的基盤が欠落しているとしか考えようがありません。

2. ポピュリスト問題

 純粋な法律論からいえば、朝鮮学校だけを無償化対象から除外するのは不可能に近いはずです。ぼくが素人法律論を振りかざすより、日本弁護士連合会「高校無償化法案の対象学校に関する会長声明」から一部引用するほうが早いでしょう。

朝鮮学校に通う子どもたちが本法案の対象外とされ、高等学校、専修学校、インターナショナル・スクール、中華学校等の生徒と異なる不利益な取扱いを受けることは、中等教育や民族教育を受ける権利にかかわる法の下の平等(憲法第14条)に反するおそれが高く、さらには、国際人権(自由権・社会権)規約、人種差別撤廃条約、子どもの権利条約が禁止する差別にあたるものであって、この差別を正当化する根拠はない。

 これらの法律の壁を、橋下知事は「不法国家の北朝鮮と結びついている朝鮮総連と関係があるなら、税金は投入できない」というロジックで強引に突破しようとしているわけですが、法律論としては何重にもムリのある話です。知事もそのことはおそらく承知で、だからこそ、北朝鮮と朝鮮総連を一体的に暴力団やナチスにたとえたりしながら、このロジックを政治的に正当化しようとしているわけです。悪しきポピュリズムの典型的な手口。

 この点についても、Arisanのノートに、「大阪府知事はナチスと同じ」という優れたエントリーがすでに書かれています。ぜひお読みください。

国内の少数者を恫喝し、繰り返し傷つけることで大衆的人気の獲得を図っているという点では、まさに橋下徹とい政治家こそ、ナチスとヒトラーの名にふさわしいではないか?

 この一文に端的に表現されていますが、ナショナリズムと結託したポピュリズムが排外主義に走るとき、きわめて危険な政体が生まれます。ナチスはその代表格。

 くどいですが、橋下知事には、民主主義を守ろうという精神的基盤が欠落しているとしか考えようがありません。

3. マスメディアのレイシズム問題

 ところで、「ナショナリズムと結託したポピュリズム」の危険性に絡んで、よくヨーロッパの「極右政党」や、ハイダー、ル・ペン、グリフィンといった「極右党首」たちの言動が否定的に報じられてきました。

 日本のマスメディアが「極右」といってこれらを批判する欺瞞については、もうずいぶん言い尽くされている感もありますが(例えば森達也・森巣博『ご臨終メディア』集英社)、それでも一向に事態の改善が見られない以上、何度でも繰り返し批判されるべきことでしょう。

 橋下知事の一連の発言については、各紙とも論評を加えずに淡々と紹介するスタンスに徹しているようです。人気政治家の発言に賛否を表明して攻撃を引き受けるのは怖いということなのでしょう。言論の責任を回避する姿勢は、まさしくご臨終メディア。しかし、不法な人権侵害をポピュリズムの手法によって正当化しようとしている権力者がいるとき、それに対抗するのはマスメディアのもっとも重要な役割ではないでしょうか。

 マスメディアが批判の届かない安全な場所に逃げている間に、朝鮮学校に通う子どもたちは、知事の発言に誘発されたヘイトクライムの犠牲になるかもしれない。杞憂ではありません。過去に何度も実際に起こったことです。にもかかわらず、マスメディアは、子どもたちを責任回避の盾にしながら、逃げている。

 なぜこのような事態が生じているかといえば、ようするに、マスメディアに関わる人々が、「知事の発言にも一理ある、だから朝鮮人の子ども達が犠牲になっても仕方がない」、という発想を否定していないためでしょう。なんたるレイシストぶりか。

 日本のマスメディアには、民主主義を守ろうという精神的基盤が欠落しているとしか考えようがありません。

 「差別は客観的に定義できるか」から「差別問題の構築事例」まで、4回連続で差別の定義をめぐる議論を紹介してきました。

 現時点では、「われわれカテゴリーの恣意的な動員」に注目する佐藤裕さんの定義と、坂本佳鶴恵さんを筆頭とする社会的構築主義的な定義に、いろいろと有利な点が多いといえます。前者は差別する側の視点から差別を捉えることに成功していますし、後者は差別問題が生成されるダイナミズムをうまく記述することができる。しかし、それぞれ一長一短がありますので、決定版といえるような定義はまだ存在しない、と表現することもできます。

 それは、言い換えると、何が差別で、何が差別でないのか、という問に答えることは、けっして簡単なことではない、ということです。今回は、それを前提として、議論をひとつ提起しておきます。

 タイトルは、第1種の過誤と第2種の過誤です。

 推測統計学の世界には「第1種の過誤」と「第2種の過誤」という言葉があります。前者は真実を見落としてしまうこと、後者は誤りを見過ごしてしまうことです。

 例えば、ある公害による病気の被害認定が争点になるとき、(a)その公害による病気の典型的症状がほとんどすべてそろっていること、(b)その公害による病気の重要な症状の一つ以上があること、の二通りの基準があるとしましょう。(a)の立場をとれば、経験的にいって「被害者」は実際の被害よりも確実に少なく見積もられることになります。これが、第1種の過誤です。(b)の立場をとれば、「被害者」が実際の被害よりも多く見積もられる危険性を否定できません。これが、第2種の過誤です。

 別の例を出すと、法曹界には「疑わしきは罰せず」という基本ルールがあります。これは、絶対に第2種の過誤(=冤罪)が起こってはならないというスタンスによるもの。一方で、医療界には「疑わしければ再検査」という基本ルールがあります。これは、絶対に第1種の過誤(=病気の見落とし)があってはならないというスタンスによるもの。

 ある事象が差別にあたるかどうかを考えるとき、どちらのスタンスが適切だと思いますか?

 おそらく、差別と聞けば加害者だけが懲らしめられるべきだと考える人は、法曹界のスタンスを採用するでしょう。自分が「差別者」という冤罪を着せられると困りますからね。

 一方、差別と聞けば被害者をサポートすべきだと考える人は、医療界のスタンスを採用するでしょう。なぜなら、今はまだ世間に知られていないだけで、将来的には「差別」だと広く認められるようになる事象によって被害を受けているのかもしれませんからね。

 「差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある」に書いたのは、この両スタンスの違いのことです。また、この両者の判断のグラデーションを、「差別の存在を認めない傾向とは」で紹介した表の中に確認することができます。

 繰り返しますが、ある事象が差別にあたるかどうかを考えるとき、どちらのスタンスが適切だと思いますか?

 ぼく個人の見解を述べるなら、医療界のスタンスのほうが適切だと考えます。なぜなら、(1)医療界のスタンスを採ることによってマジョリティがこうむるデメリットと、法曹界のスタンスによってマイノリティがこうむるデメリットを比較したとき、後者のほうが甚大だから、(2)マジョリティ側が医療界のスタンスを採るという姿勢を持たないかぎり、被差別のクレイムはなかなか通らないから、(3)加害を罰するよりも被害の救済のほうが実質的に重要だから、です。

 ぜひ皆さんも、どちらのスタンスを採るべきか、その理由は何か、について考えてみてください。

 前回のエントリー「差別と政治、差別の政治」は、社会的構築主義のスタンスから差別を定義したらどうなるか、というテーマでした。

 具体的にいえば、現在はまだ「差別」だとみなされていない事象でも、クレイム申し立ての運動によって「差別だという共通理解」を広げられれば「差別問題」を構築できる、という話です。あるいは、現在はまだ「道徳」の課題だとみなされている差別問題も、運動の方向次第では「犯罪」として法的処罰の対象に加えられる可能性がある、という話です。ですから、差別問題に実践的に関わっておられる方々からすれば勇気の出る説明様式だろうと思います。

 また、学術的にも、「不当性」の難問から逃れられることが理論面での大きな強みといえます。僕自身の学術的なスタンスとはイマイチ相性が悪いのですが、それでも、特に社会問題の発生を説明するときは、社会的構築主義の有効性を認めないわけにはいきません。構築主義的なアプローチを用いなければ、とうてい説明の付かない現象が無数にある、ということもできます。

 ただ、難点がないわけでもありません。

 一つ目の難点は、クレイムが広く認められる前の段階では、その差別の存在を説明できない、ということ。これはどちらかというと純粋学問的な問題なので、説明は省きます。

 二つ目の難点は、いわゆるアイデンティティ・ポリティクスの問題。まぁ、これは構築主義の問題ではなく、構築主義の切り口が鋭かったために浮き彫りになった問題点、というべきなので、同じく省略。

 三つ目の難点は、正当/不当という客観的要件を説明の枠組みに含まないため、ある事象をめぐって差別かどうかがリアルタイムで争われている段階では、その論争にまったく寄与することができないということ。「不当性」の難問から逃れられるという強みは、同時に弱みでもあるのです。

 この難点を回避するため、坂本佳鶴恵さんは、前回紹介した著書の中で、差別だというクレイムがあればそれは差別なのだ、といった内容の書き方をしていた箇所があったような気がします(構築主義プロパーの方はまずこういう書き方をしないと思いますが、逃げ道があるとすれば、やはりそこしかないでしょう)。こういう考え方に立てば、少なくともクレイムが発生すれば、それがまだ社会に広く支持されていなくとも、「差別」だと規定することはできる。

 しかし、これは新保先生の定義と同じで、識別性が低すぎます。訴えがあればなんでも「差別」ということだったら、逆差別の訴えすら「差別」ということになってしまう。構築主義は価値中立ですから、差別撤廃運動からのクレイムも、歴史修正主義からのクレイムも、同じ枠組みで捉えます。

 構築主義は自明視されている因習を相対化したり、実践的なダイナミズムを記述したりするのに有効ではありますが、反差別の実践そのものには残念ながらあまり役に立たないのですね。

  たとえば、前回も例に出した朝鮮学校の高校無償化除外問題を考えてみましょう。

 (1)朝鮮学校だけを除外するのは差別だという異議申し立て(クレイム)が起きる、(2)クレイムが周囲に影響を与える。例えば、差別か差別でないかといった論争が広がる、(3)論争を経て、クレイムは正当だという理解が広がり、朝鮮学校除外は「差別」だと理解されるようになる。もしくは、除外は問題なしとはいわないまでも合理的だという理解が広がり、朝鮮学校除外は「仕方がない」と理解されるようになる。(4)さらに別のクレイムの発生に続く。

 今はちょうど構築主義的なプロセスが進行中で、上の段階でいえば2の途中にあります。

 クレイムの内容は:

「朝鮮学校だけを除外する根拠がない。差別だ」
「子どもを人質にとる卑劣な政策だ」
「子どもの権利条約、人種差別撤廃条約に抵触する人権侵害だ」

 クレイムへの反論は:

「制裁措置をやっている国の国民だから除外して当然」
「北朝鮮という国は不法国家。関係する学校とか施設とかはお付き合いをしない」
「反日教育に何で日本人の税金を使うの?」 

 現時点ではどちらが優勢になるか、まったく予断を許しません。構築主義は、このどちらの立場にとっても、自説を補強する材料にはまったくなりません。坂本さんがいうように、差別問題をめぐっては、つねにこの種の論争(差別か、差別でないか)が発生しますので、構築主義がいかに役に立たないか、理解できると思います。

 ただ、構築主義の立場からいえることが一つあります。トラブルが発生しないかぎり、人々はそこに問題があることにすら気づきません。トラブルこそ社会問題の所在を示すのです。

 これまでにも、朝鮮学校だけを行政サービスの対象外とする措置はたくさん採られてきたにもかかわらず、今回ほど話題になったことは少ない。今回はわかりやすい人権侵害の構図であったおかげか、大きなトラブルになっているわけです。その結果、良くも悪くも、朝鮮学校に関心を持つ人が増えている。

 朝鮮学校からのクレイムを支持する人々にとっては、いま現在は不愉快だし、少ない資源を動員しながら論争を有利に導く活動もしなければならないけれども、おそらく、この「トラブル」は、先々、必ずしも悪い方向には振れないだろうと思います。

 前回のエントリーでは、実践面からいえば、どういう行為が「不当」なのかについての議論を国会と裁判所に丸投げしてしまうのも一つの合理的な解決策だと紹介しました。合理的というより、それ以外に方法がないといいますか。

 しかし、実をいうと、「机上の空論とはこのことか!」と謗られてもしかたがない暴論だと、ぼくは思っています。佐藤さんの議論は、学術的には美しいんだけど、いつも実践面が弱いんだよなぁ。

 だって、人権侵害の被害を回復したり、被害の発生をなくしたりするのが実践的な目標ですよね。人権侵害かどうかの判断を国会や裁判所に丸投げしたうえで、その目標が実現されるためには、国会や裁判所が人権侵害をしないという前提がなければなりません。でも、ぼくの知るかぎり、国会も裁判所も、少なくともぼくの判断では、たくさん人権侵害を重ねてきましたからね。とてもそんな信用はできないわけです。差別と政治というのは、どうもウマが合わない。

 そんなコメントが付かないかと半ば期待してネットを見ていたのですが、残念ながら(?)、そういう厳しいのは今のところありませんね。学者の言いなりじゃ、差別の巧妙さに抵抗なんてできないよ。

 例えば、中井洽拉致問題担当相が朝鮮学校を高校の実質無償化の対象外とするよう求めている。そして、今の時点では、鳩山首相もそれに反対してはいません。でも、朝鮮学校だけを除外するというのは、いくつかの法的な人権侵害の定義に抵触する話です。まだ議論の途中であるにもかかわらず、すでに国連の差別撤廃委員からクレームが付いていますね。もし、中井大臣の提案の通りに実施されることになれば、当然、訴訟が起こるでしょう。

 ところが、その種の訴訟で、マイノリティの訴えがなかなか通らない。なぜなら、日本の法律は、人権侵害の被害者をサポートするようには、作られていないからです。...ちょっと言いすぎかな? でも、そう思われても仕方がない面が多々ある、とは明言していいでしょう。

 実践面に期待して国会や裁判所に任せても、少なくとも現状では、実践的な答を得られない可能性が高い。とすれば、「人権侵害」の客観的定義を国会や裁判所に任せるというアイディアは、実質的にはあまり意味がないということになりかねません。

 では、何か代替案はないのか?

 つまるところ、差別とは政治です。政治といっても、議員の仕事の話ではありませんよ。社会学者にとっての政治とは、何が正しいのかをめぐるすべての争いのことです。(国会でやっているアレと間違いやすいので、こういう意味での政治をカタカナでポリティクスと書いたりもします。)夫婦の口げんかも政治なら、政策をめぐる世論も政治。裁判官だって世論を無視できない以上、法の運用もやはり政治の問題です。

 ある事象について「不当」であるという訴え(差別だ!)が、それを無視したり(考えすぎじゃない?)、否定したり(それが差別なら何でも差別になっちゃうよ)する多数派の声をかき消すことができれば、訴えのあった事象が世間の「不当なものリスト」に書き加えられていく。逆に、多数派の声にかき消されてしまえば、「不当」だとは認めてもらえない。こういう、一連のダイナミズムを、「差別の政治」と表現します。

 社会的構築主義の立場から、「差別の政治」に取り組んだ好著に坂本佳鶴恵『アイデンティティの権力―差別を語る主体は成立するか』(新和社)があります。坂本さんは、「差別という実態的現象が存在し、つねにその存在については指摘できるかのように考え」ることは誤りだといいます。客観的には規定できないというわけです。なぜなら、「何が差別であるかは社会的に共有されているわけでは...中略...ない。差別という現象はある事柄を差別とする人々がいるのに対し、差別でないと主張する人々がいるということに問題の根本がある」からです。

「同一社会内で一致すると想定されている異質な規範間のずれが、成員により告発されあらわになった、社会現象である」

 これが坂本さんによる差別の定義。 「およそ差別というものに共通の原因など存在しない」という坂本さん(というより構築主義)ならではですね。要するに、(1)差別だという訴えがなされ、(2)そういう訴えがあったと広く知られるようになったものが「差別問題」だ、ということになります。

 構築主義は、「差別の政治」のようなダイナミズムを描写するうえで、きわめて強力な説明枠組みを提供してくれます。構築主義ならではの弱点もあるのですが、この立場によって初めて説明可能になる事柄は少なくありません。

 例えば、不当性の問題も、これによってある程度決着が付きます。ラフにいえば、「何が不当なのか」→「不当だと訴えのあったこと」というわけです。

 つまり、現時点ではまだ表面化していない規範のズレ(例えば常識と実感のズレ)があるとしましょう。誰かがそれを差別だと訴え、その訴えに広く注目が集まるようになれば、今後はそれが差別問題の一つに数えられるようになっていく。だから、客観的に不当性を規定しようとしても意味がない。むしろ、不当性をめぐる政治に注目しなさい、という主張です。

 最後に、同書から「差別の政治」をうまくいいあらわした文章を二つ紹介して、今回は終わりとします。

「差別は主観的なものである。しかし、それが共同主観に、より大きな共同主観になっていくよう争っていくものなのである。」

「差別は、つねにすでに認識され、差別として存在しているものではない。告発によって、見いだされていくものなのである」

(注)このエントリーは2010年2月26日に一部を公開し、2月28日に完成しました。

 不当性を要件としているかぎり差別を客観的に定義することはできない、というのが前回のエントリーでした。かといって、不当性をまったく定義に含まないというのもなかなか難しい。

 前回の議論を整理する意味で、ひとつ別の定義を紹介しましょう。新保満先生が岩波新書で使った非常にシンプルな定義です。永遠の名著『人種差別と偏見―理論的考察とカナダの事例』(1972年)より。

「差別は特定の社会集団に所属していると見なされる個人に対する異なる取り扱い」

 つまり、新保先生は、(1)特定の社会集団(ないし社会的カテゴリー)に所属しているという理由で、(2)異なる取り扱いをしたら、それだけでもう差別だ、というわけです。すばらしい。オッカムの剃刀とはこのことか、と思わせる美しい定義です。

 この定義において、「異なる取り扱い」が不利益を生ずるかどうかは問われません。なるほど、他人からはうらやましく見える特別待遇でも、当人にとっては不快だということもありますね。不利益も不当性と同じで、一意には規定できない面がある。だから定義には含まない。そして、不利益の発生を定義に含まない以上、その不利益が不当かどうかも定義に含まない。

 ただ、この条件だと、差別に当てはまる範囲が広すぎて、直感的におかしいと思われる事例を排除できないのが難点でしょうか。

 例えば、何らかの集団のメンバー(例:子ども、高齢者、障害者)を特別に保護の対象にすることも差別ということになります。たしかに、レディ・ファーストやインディアン法のように、温情主義が差別のあらわれという場合もあります。でも、特定の社会集団を保護する制度や行為のすべてが差別だということになると、ちょっと行きすぎでしょう。

 つまり、新保先生の定義は、差別を把握するための十分条件にはなっているかもしれないけど、必要十分条件とは言えない。美しい定義なのですが、美しいだけに《何かが足らない》ということがよりハッキリする。

 何かとは、やはり、不当性です。ここで冒頭の問題に戻ります。不当性を要件としているかぎり差別を客観的に定義することはできない、かといって、不当性をまったく定義に含まないというのもなかなか難しい。

 では、どうしたらいいのか。どうすれば差別を客観的に定義できるのか。今回は、二つの考え方を紹介します。

 一つ目は、不当性の根拠を人権に求める、という解法です。何度か紹介した佐藤裕『差別論―偏見理論批判』 (明石書店)から該当する記述を引用します。

「差異モデルでは、不当性の根拠付けは比較的簡単であるように見えます。『異なる扱い』が不当である理由、それは『平等』という規範に反するからにほかなりません。...中略...平等に扱われることが『権利』として構成されているからです。すなわち、差異モデルでは『権利(の侵害)』という論理が差別の不当性を最終的に基礎づけている論理であるといえます。」

 ここでいう差異モデルというのは、新保先生のように、「異なる取り扱い」に注目して差別を定義しようとするアプローチのことです。前回紹介した3名も、「不利益な取扱い」を定義に含んでいましたので、やはり差異モデルということになります。

 で、佐藤さんは、ようするに、「人権」を侵害されたかどうかを不当性の根拠にすればいい、といっているわけです。前回紹介した野口さんも同様の定義をしていましたね。

 ただ、前回も書いたとおり、「人権」というのは普遍的で客観的なものではなく、時代によっても社会によってもダイナミックに変わっていく不定形なものにすぎません。だから、「人権」を根拠にして「不当性」を規定しようといったって、あいまいであることには違いはありません。実をいうと上記の引用箇所を初めて読んだとき、「うわ! 佐藤さん、不当性の議論から逃げたな(笑)」と思ったりしました。

 しかしながら、「正当/不当」という価値判断とは違って、「人権」には国会や裁判所の議論の結果として法的な定義が与えられることが多いです。あいまいさは残るとしても、ぐっと具体的になることは確かですね。

 まあ悪くいえば、定義を国会と裁判所に丸投げしてしまうということです。あるいは、学術的な正確さはおいといて、現実の被害の発生を食い止めるために何が人権侵害に当たるかは政治的に決めてしまおう、という実践的な関心といってもよい。 

 でも、逆にいえば、不当性=人権侵害だと決めてしまえば、それによって実践的なメリットが生じます。佐藤さんの表現を借りると、「不当性を見出し、是正していこうとするときには差異モデルは必ず必要になります。いわば対症療法のために必要なモデルであり、しかも差別問題において対症療法は非常に重要です。」つまり、法的な定義を背景として、違反(=差別)が発生したら、それを取り締まったり訴えたりすることができる、というわけです。日本だと、人権擁護法案がまさしくこのスタンスを形にしたものということになります。

 二つ目は、不当な被害(=差別の結果)から差別を定義するのはやめて、誰が不当な被害を生む行為をしたか(=差別の原因)に注目する解法です。差別をする側とされる側の非対称性に注目するアプローチと言い換えてもかまいません。

 これの代表格が、頻出の佐藤裕さん。ミクロレベルの差別論に限れば、現時点でもっとも上手にパズルを解いているのは、まちがいなく佐藤さんだとぼくは思います。

 その前に、まずは佐藤さんの議論に決定的な影響を与えた江原由美子『女性解放という思想』(勁草書房)から、関連する記述を紹介します。 

「『差別』とは本質的に『排除』行為である。『差別』意識とは単なる『偏見』なのではなく、『排除』行為に結びついた『偏見』なのである。『排除』とはそもそも当該社会の『正当』な成員として認識しないということを意味する。それゆえ『差別』は差別者の側に罪悪感をいだかせない。なぜならわれわれが他者に対する『不当な』行為に対して罪悪感をいだくのは、他者を正当な他者として認識した時であるからである。」

 少し難しいですが、エッセンスは「『差別』とは本質的に『排除』行為である」という一文に端的に表現されています。ただ、新保先生と同様、すべての排除行為を差別であるとはいえないのが難点でしょうか。何か重要な要素が抜け落ちている。そこで、次に佐藤裕さんの定義。

「差別行為とは、ある基準を持ち込むことによって、ある人(々)を同化するとともに、別のある人(々)を他者化し、見下す行為である。」

  おそらく、ミクロレベルの差別行為については、この定義で完成に近いのではないかとぼくは思っています。ただ、これを説明するのはちょっと面倒なんですよね。できれば、『差別論』 か、ウェブで公開されている佐藤さんの論文を直接読んでほしいところです。

 と思っていたら、前回のエントリーを公開した直後に沼崎一郎さんからこんなツイートが。

@han_org A、B、C、Dがいるとき、Dに対してだけ、A・B・Cとは扱いを変える。扱いの違いにDが抗議する。なぜ扱いを変えるのかと問われて、私は「だって、Dは◎◎だから」としか答えられない。◎◎はカテゴリー。観察可能という意味で、客観的じゃないですか?

 おぉ、カテゴリーの恣意的な動員をこんなにシンプルにまとめてくれるとは。わずか120字。もうこれで説明に代えたいと思います。

 おなかがすいたので、なんとなく尻切れトンボだけど、今回はこれで終わります。 

 

(注)上記とは別に、社会的構築主義の立場から差別を定義するやり方(例:坂本佳鶴恵『アイデンティティの権力―差別を語る主体は成立するか』新和社)も有力なアプローチです。このアプローチでなければ説明できない事象はたくさんあります。でも、これはもう「客観的」に定義することはやめてしまって、ものごとを動態的に定義するというスタンスなので、今回は触れません。 

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 差別論のシリーズの途中ですが、ちょっと必要があって、HAN A面オンラインドキュメントに下記の雑文をアップしました。

 「マイノリティの戦略

 以上。

 ある学問分野において、もっとも基本的な事物を指し示す言葉を「基礎概念」といいます。基礎概念を組み合わせることによって、他の抽象度の高い概念を説明する、という形で学問という論理の体系が構築されていきます。したがって、基礎概念を定義することは、通常、その学問の入り口ということになります。

 ところが、差別論において、「差別」という概念を定義することは、学問の入り口どころか、むしろ究極のゴールの一つとされています。なかなか上手に定義できないんですね。

 例えば、2009年末に出たばかりの差別論の教科書を見てみましょう。好井裕明編『排除と差別の社会学』(有斐閣選書)です。いい本ですよ。おまけに、この分野には授業でそのまま使える教科書は少なかったから、貴重な本でもあります。

 この本の中で差別の定義というと、冒頭でアルベール・メンミ『差別の構造』という古典からさらっと差別主義の記述が紹介されているだけです。それも、解説らしい解説は付いていません。つまり、同書には、差別の定義について概念的に検討した箇所が、実質的には一つもないのです!

 批判してるんじゃありませんよ。むしろ、中途半端に理論を紹介するより立派なスタンスだと思います。初学者向けの教科書では、差別の定義をめぐる難解な隘路に入り込むより、具体的な事例に触れながら他の重要な基礎概念を学んだり、《差別を見抜く目》を養ったりするべきだ、という考え方でしょう。

 ともかく、差別の定義(差別とは何か)は、差別論の教科書が避けてしまうほどの難問なのだ、ということをあらかじめ知っておいてください。

 さ、それでは、オーソドックスな差別の定義例を3つ紹介しましょう。

「ある集団ないしそこに属する個人が、他の主要な集団から社会的に忌避・排除されて不平等、不利益な取扱いをうけること」(三橋修)

「個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、普遍的な価値・規範(基本的人権)に反するしかたで、もしくは合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて、異なった(不利益な)取り扱いをすること」(野口道彦)

「本人の選択や責任とは関りのないような個人の能力、業績ないし個人の行動と無関係に作られた自然的・社会的区分に属していることを理由にされて、集団ないし個人が不利益を被るか人権を侵されるか、不愉快な思いをさせられる行為」(鈴木二郎)

 これらの共通点を整理すると、ある事象が「差別」であるためには、以下の3条件を満たすことが必要とされているようですね。

  1. 集団ないし社会的カテゴリーに所属しているというだけで
  2. 集団や個人に不利益が生じ
  3. その不利益が不当であること

 おそらく、多くの人の経験的観察とも合致する条件だろうと思います。しかしながら、この種の定義には、3つの大問題が含まれています。

 第一に、発生した不利益を誰が不当であると決めるのか、という問題です。「差別の存在を認めない傾向とは」で紹介したデータは、まさしく「不当」だと判断した人が多いものほど上位に位置しています。各項目に序列が付いたのは、ようするに回答者ごとに不当/正当の判断基準が異なっていたからです。

 野口さんは「普遍的な価値・規範」というけれども、それは理念の上では存在しても、実際に観察することはできない架空の理想です。現実には、ある事象が不当かどうかの判断は、主観的、恣意的なものです。しかも、その判断は、一人ひとりで違うだけでなく、時代によっても、社会によっても変わります。例えば、旅館がハンセン病罹患者の宿泊を断るのは、現在の日本では明らかに不当なことです。でも、同じ日本でも10年前はそうではなかった。

 とすれば、不当性を定義に含んでいるかぎり、差別か差別でないかを客観的かつ一意に判定することは、原理的に不可能だということになりますね。

 第二の問題は、差別/被差別の非対称性が定義の要件に含まれていないことです。単純な話、もし完全に対等な集団間であれば、上記の3条件がそろっていても、一般には「抗争」や「競合」と呼ばれるだけであって、「差別」とはいわないわけです。非対称性は、明らかに差別の必要条件なのに、上述の定義のしかただと含まれなくなってしまいます。

 第三は、ある社会的カテゴリーに所属していることによって不当に被害が生じていることを訴えようとすると、被差別者はその社会的カテゴリーの存在を前提にしなければならない、という問題。

 被差別者がその社会的カテゴリーを納得して自ら引き受けている場合はいいのですが、そうでない場合は悲劇です。いやいや押し付けられたカテゴリーそのものが差別と感じられるのに、反差別を訴えるためにはそのカテゴリーの実在に立脚しなければならない。二重に拘束されてしまうのです。あえて具体例は挙げませんが。 

 どうでしょう。第二、第三の問題は逃げ道がありそうですけど、第一の問題はずいぶん難問だと思いませんか。なにせ、原理的に不可能なのですから。

 もし、誰もが納得する完璧な「差別の客観的定義」ができれば、それで差別問題はかなりスッキリと解決するはずです。なぜなら、個々の事象をその定義に当てはめて、「差別」に判定されれることは法律で禁止し、違反者は処罰すればいいわけですから。

 でも、残念ながら、差別の客観的な定義はなかなかうまくいきませんね。

 次回は、この難題への解決案2つ、の予定。たぶん。

 差別についての研究には、ずいぶん多様なアプローチがあります。学問分野は心理学、社会学、経済学、政治学、等々と多岐にわたっているし、手法もミクロなものからマクロなものまで様々です。

 その中で、直感的にわかりやすいためでしょうか、(一昔前の)心理学分野の研究は一般にもよく知られているように思われます。偏見理論、社会的比較の理論、権威主義的態度、あたりです。とりわけ、偏見理論は差別についての通俗的解釈ともよく合致するため、道徳教育の一環として行われる人権教育においても頻繁に言及されています。

 ここでいう偏見理論とは、「偏見」という心理的な準備状態があるから「差別」という行為が発生する、という前提を含む研究群の総称です。一般には、「差別意識が差別を生む」という表現のほうがなじんでいるかもしれません。「差別は心の問題である」というとき、偏見理論が想定されていることが多いように思います。

 でも、当の心理学分野において、偏見理論はもはや過去の遺物とみなされており、ほとんど注目されることがなくなっている、ということはあまり知られていませんね。(Allportを再評価する向きもあるようですが。)

 ぼくは前任校で心理学主体の学科に所属していましたので、偏見理論が後退した理由を同僚に尋ねたところ、次のような回答を得ました。

 (1)パーソナリティで説明できるのは差別現象のごく一部でしかないこと、(2)「投射」など理論としての精度が低い概念を含むこと、(3)偏見の重要性に過剰に注目するとそれ以外の差別発生メカニズムが見えなくなってしまうこと、(4)実践面においても差別の背後に偏見の存在を前提としてしまうことにより、「偏見を持っていないから差別をしていない」という言い訳に利用されてしまうこと、(5)現在の心理学では、むしろ偏見を持たなくても、自動的な心理プロセスとして差別が発生するメカニズムのほうが研究の主流になっていること。

 以上の回答が間髪おかずに同僚の口から帰ってきました。偏見理論の問題性は、心理学分野ではいわば常識として理解されているのだな、と少しうらやましくなりました。

 というのも、日本の社会学分野で偏見理論を正面から批判した著作は、おそらく2005年末に出版された佐藤裕『差別論―偏見理論批判』(明石書店)が最初だと思われるからです。佐藤さんもぼくも、大学院生のころから学会でことあるたびに同様の偏見理論批判を口にしてきましたが、すんなり批判が受け止められ、同意されることは少なかった。反論はないけれども、「阪大の《計量の人たち》がちょっと変わったことを言ってる」という雰囲気。偏見理論は、一部の(特に運動家的な特性を持つ)社会学者に、根強く支持されているのだなと話し合ったものです。

 いま「日本の社会学分野で」と書きましたが、例えばアメリカではロバート・K・マートンが1948年の「差別とアメリカの信念」という論文で以下のような分類を提示しています。

  1. 偏見も持たず人種的差別もしない人(All-weather Liberal) 
  2. 偏見は持たないが、差別をする人(Reluctant Liberal)
  3. 偏見は持つが、差別をしない人(Timid Bigot) 
  4. 偏見を持ち、差別もする人(All-weather Bigot)

 1と4は説明なしでわかりますね。

 2「日和見平等主義者」の事例としては、「黒人差別法制期のアメリカ南部において、人種的不平等は間違っていると心の中では思いながら、他の白人から焼き討ちにあうことを恐れて、黒人へのサービスを拒絶する白人向けレストランのオーナー」等。

 3「臆病な差別者」の事例としては、「女子職員は無能だと信じているけど、辞められると困るから、男子職員と平等に扱う商店主」等。

 2と3の事例は、すなわち、偏見があっても差別はしないこともあるし、 差別しているからといって偏見があるとはかぎらないことを端的に示しています。この論文は、偏見と差別の因果関係に留保が必要であるということを、たいへんスマートに論証した論文としてよく知られた業績です。

 この種の事例は枚挙に暇がありません。例えば、「統計的差別」も2の典型事例です。統計的差別とは、属性によって不利な統計的事実があれば、それによってその属性を持つ人々が不利な扱いを受ける現象を指します。日本の労働市場で言えば、次のようなこと。

 戦後一貫して女子職員の8割は結婚ないし出産を期に退職してきた。一方、雇用流動性が高まったとはいえ、男子職員の離職率ははるかに低い。もちろん、それは就労機会に男女で格差があったためだけど、統計的事実であることは確か。それを知っていれば、たとえ職員の能力に性差はないと信じている経営者でも、OJTなどの教育投資を無駄にしないためには、男子職員を雇用するほうが合理的。その結果、女性の被雇用率は低くなってしまうのだ、というわけです。

 そろそろまとめに入りましょう。

 「偏見によって差別が生まれる」という説明はたいへんわかりやすいです。しかも、道徳教育を行ううえで都合がいい。おまけに、差別を糾弾する運動においても効果的です。

 しかし、それだけに、本来は多様なはずの差別のあり方を、すべて偏見という心の問題に回収してしまう困った効力を持っています。

 偏見理論はある種の差別事象を説明する力を今でも持っています。しかし、それは多様な差別事象のごく一部でしかないのかもしれないと、つねに意識しておくことが重要だと、ぼくは思います。

P.S.

 マートンの類型と紹介事例の対応関係が間違っていたのを速攻でsilly_fishさんが指摘してくれました。深謝。

 人権教育について市民意識調査を実施すると、自由記述欄によくこのような内容のことが書かれてきます。

「小中の同和教育で、初めて被差別部落について知った。同和教育があったから、被差別部落の存在も知ったし、差別される存在であるということも知った。それによって、自分との違いを意識するようになってしまった。いわば、同和教育によって、私の中に、ある種の差別感が芽生えていってしまった。同和教育なんかないほうがいい」

 授業で人権教育について言及したときも、かなりの学生がミニッツペーパーにこういう趣旨の感想を書いてきますね。

 しかし、この意見はナンセンスです。なぜならば、「学校の同和教育によって被差別部落について初めて知った人」は、「近隣や親、友人、知人、先輩などからインフォーマルな形で部落についての情報を初めて聞いた人」に比べて、被差別部落への差別的態度が明らかに弱い、ということが各種の調査からわかっているからです。

 たとえて言えば、同和教育は生ワクチンのようなもの。受けることによって、自覚しない程度の軽い偏見に感染してしまう。けれども、そのおかげでひどい差別意識を発症せずにすむわけです。だから、人権教育を《やるべきかどうか》という次元では、答えは明らかで、やるべきなのです。

 ただし、《どうやったらいいのか》という次元については、難しいところがあります。少なくとも、現行の人権教育のやり方には、明らかに間違っているところがある。

 小中学校の人権教育では、「差別をするのは悪い人」だと教える傾向があります。「差別をする悪い心があるから、差別が起こる。だから差別をなくすためには心の中の悪い部分をなくしましょう。一人ひとりが心の中から差別をなくしていけば、いつか社会から差別はなくなるのです」という教え方をします。

 でも、差別をするのはみんな悪い人でしょうか? 悪い人でなければ差別をしないといえるでしょうか? ぼくは、現実の差別事象というものはそんなに単純なものではないと思いますけどね。

 例えば、僕が小学生の頃は、教師が生徒たちの注意を喚起しようとして、「こら、おまえら、つんぼか!」という表現をよく使ったものです。教師の権威を利用した、あからさまな差別ですね。でも、このとき先生には、聴覚障害者を傷つけようという悪意はありません。「つんぼ」は《外部の存在》として利用しているだけであって、実際には聴覚障害者を傷つけようなんて思っていません。聴覚障害者のことを考えてもいません。なぜなら、「つんぼ」は、「見下される存在」として引き合いに出しただけであり、「おまえらその見下される存在か」「そうじゃなく、耳は聞こえるだろう」と問うているだけなのですから。

 また、例えば部落出身者がいて、そのことを知っている人がいるとしましょう。その人が別の友人に「ねえ知ってる? あの人、あっちの人なんだって」と、陰口をいうことがあります。この時も、部落出身者を傷つけようという悪意があって差別をしているとはかぎりません。そうではなく、「あの人とは違って私たちは仲間だよね」と確認したいがために引き合いに出されているだけなのかもしれない。この場合も、被差別者に対し悪意があるのではなく、我々の一体感を高めたいがために、《外部の存在》としてたまたま部落出身者が利用されているだけです。

 「我々はあの人たちと違って普通だよね」「我々はあの人たちと違って異常ではないよね」と確認するために、マイノリティが《外部の存在=他者》としてその場その場で利用されていく。「わたしたちは同じ仲間だよね」というメッセージを効果的に伝えるために、巧妙にマイノリティが外部化、他者化される。そして、マイノリティを見下したり、排除したりする感情が利用されていく。こういう場合、悪気がないだけに、「いえ、別に悪意ないから差別ではありません」という反論が起こります。

 ここでは、悪気がなくともコミュニケーションの中で差別が起こりうるという例を挙げましたが、他にも、経済的な条件が構造的に生み出していく差別、文化によって植えつけられる差別など、多種多様な差別の発生形態があります。いずれも、マイノリティを傷つけようなどという「悪い心」がなくても起こる差別ばかり。

 差別は、悪い人であろうが、いい人であろうが、誰だってやってしまう危険性があるものです。にもかかわらず「差別は悪い人がする」ということばかりを教えられている人からすれば「俺は悪い人じゃないから差別しない」「差別をする悪い心なんか持っていない。だから、差別していない」、「今言ったのは別に差別するつもりなんかなかった」で終わってしまいます。

 というわけで、差別を教えたり論じたりするとき、「差別は悪い人がする」というストーリーに固執するべきではない、というのが今日の話でした。

......これで締めようと思いましたが、ちょっと補遺を追加。どうせ何回かに分けても、読まない人は読まないから、関連する話題は書き終えておきます。

 なぜ、「差別は悪い人がする」という教え方になったのかというと、道徳教育の一環として差別論が教えられるようになったからだとぼくは思っています。倫理的にすばらしい人間になろうという道徳教育の一環として、反差別が取り上げられるとすれば、当然のことながら、「差別する心、卑劣な貧しい心をなくしていきましょう」という教え方になるでしょう。でも、これって、道徳教育のために差別を利用している、ということなんですよね。

 似た構図に、反戦教育のためにアジアや在日が利用されるというのもあります。「日本はかつてこんなにひどいことをしました。アジアの人はみんな怒っています。われわれは、申し訳ないと思わなければいけない。だから、日本はふたたび戦争に踏み出すことはできない。軍事国家化すれば、アジアの人がどんなに怒るか考えてみよ」という教え方です。アジアを利用せずとも反戦教育は単純にできるはず。ところが、「そんなことをしたら、隣のおじちゃんに怒られるよ」と言わんばかりに、「アジアに怒られちゃうよ」という形で、反戦教育を進めていくのです。

 それがどのような弊害を生むかといえば、「そんなに、反日、反日いうのだったら、日本から出て行ってください」という暴論を引き出してしまうのです。つまり、「確かに日本は悪いことをしたし申し訳ないと思います。でもそんなに日本が嫌いだったら出て行ったらいかがですか」という、ある意味で素朴な声を生んでしまう。

 ところが、当の在日コリアンは必ずしも日本を恨んではいません。特に、比較的若い世代にとっては、日本に対する愛着度、韓国に対する愛着度、在日に対する愛着度を測定しますと、一番高いのは日本に対する愛着度なのです。日本と韓国が試合をする場合、どちらを応援するかというと、多くの在日の若者は日本を応援すると言います。すでに住む土地としての日本に、愛着の基盤を寄せているのですね。日本がかつて行った自分の民族に対するネガティブな歴史については、しっかりと教えてほしいと思うけれども、そのことはそれとして、自分が住む地域として日本に対しては愛着を持っているし、今後もこの国で共に住んでいきたいと在日側は思っているのです。

 そういうと、「民族意識の強い人は反日に違いない」と、反論する人がいるかもしれません。でも、そうではありません。民族意識の強弱と、日本に対する愛着度の強弱は、統計的に意味のある相関関係がありません。つまり、民族意識が強かろうが弱かろうが、圧倒的多数の在日は日本に愛着を持っている、というのが現状なのです。

 ところが、上述のような反戦教育を受けた日本人の中には、加害の歴史につながる罪悪感を何とか解決したいと思い、いわば八つ当たりするために在日コリアンを利用していく場合がある。反戦教育にアジアを利用することによって、反射的に在日コリアンにその攻撃が向いていくという構図です。そのことが、ナショナリズムに対する需要の高まりと相まって、在日に対する攻撃を生んでいると、ぼくは考えています。

※最後の論点については、こちらも参考に。ある韓国人の感想。「日の丸、君が代を敬わない日本人は信用できない」

 これまでにいくつかの大学で差別研究について教える機会を持ったことがあります。その種の講義(以下、「差別論」)では、学生たちに繰り返し繰り返し、3つの留意事項を伝達する必要がありました。

  1. 差別問題は「被差別者の問題」ではないこと
  2. 家族やメディアといったほかのテーマと同じように差別という題材に向き合うこと
  3. 形式的な「正当/不当」(誰が「悪い」のか?)の結論を急ぎすぎないこと

 3つは同根の問題ですので、すべてを合わせて「安易に《犯人探し》をするな」と言い換えてもかまいません。でも、少しでも具体的なほうがわかりやすいでしょうから、3つに分けて説明していきましょう。

 1はvictim blamingとして知られる問題ですね。「被差別者の問題」という発想がいかに非論理的であるかを毎回のように説明しておかなければ、ミニッツペーパーに「今回の事例は差別される側に問題があると思います」と書いてくる学生が必ず出てきます。加害者扱いされたくなければ、差別だと訴えるマイノリティを攻撃するしかないと思い込んでしまう学生は必ずいるのですね。でも、そのような非合理的な情動に支配されているようでは、論理の体系である学問はできません

 2について。差別というと、(多くの運動家の言うこととは逆に)なぜか学生たちは自分自身をその現象の当事者とみなしがちです。具体的な事例を紹介すると、「差別者」を自分と同一視して自己嫌悪に陥ったりする。他の社会学的なテーマとは違って、一歩身を引いて観察するということがなかなかできないのです。加えていうと、学生たちはどうしても差別に関わるものごとを、当為(◎◎すべき)の問題としか捉えられない。当為ではなく、事実(◎◎である)の問題として観察できないと、学問は成り立たちません

 3について。差別というと、学生たちはすぐに《この事象は許されるけど、この事象は許されない》とか、《誰々が悪いからこうなったのだ》式の主張に飛びつきがちです。差別という悪徳がある以上、その罪を何者かに着せないと安心できない、ということなのでしょう。論理を積み重ねてそういう結論に到達するのであればまだいいのですが、学生たちが展開するのは、残念ながら、道徳的直感に頼りながら正当/不当、善/悪について評定するようなものばかり。道徳的価値観に目が曇っているようでは、学問はできません

 他の科目では、このような留保を何度も何度も授業の中で伝えなければならない、ということはほとんどありません。差別論に固有の問題です。差別という題材には、学生たちを学術的な姿勢から遠ざける何かがありますね。

 とにかく、《差別問題を解決したい》とか、《加害者扱いされるのはガマンならん》とか、原初的な問題意識はそれぞれ抱えていてもかまいません。でも、学問をやる前に、いったん棚上げしておかないとね。

以上。次回は、小中学校での人権教育の問題点について(予定)。

 はてなのブクマコメントですが、面白いものすべてにリプライするのはムリなので、ちょっとだけピックアップさせてもらいます。

 その前に、ぼくがここに書いた一連のエントリーに対して、かりにぼく自身がコメントするならば、指摘するだろう主たる論点が2つあります。第一に、差別という現象に学術的に接近しようとすると、差別の解消を目指す運動は部分的に後退せざるをえなくなるんじゃないのか。第二に、もし学術的にも実践的にも、「差別者=悪人」という強固な前提が邪魔になるとしたら、差別研究の発展も差別の解消も、永遠にムリなんじゃないのか。

 これらの論点そのものは見当たりませんでした。でも、これらの前提となるロジックをどこかに内包するブクマコメントが以下の2つ。

 hal9009 そもそも差別ってそれを悪として駆逐するための概念ではなかろうか。それを前提としてこの調査の結果に対する意味づけを考えると鈍感な奴・人権について学んでいない奴≒悪、というなんともな結果に... 2010/02/15

 samoku 社会 「差別者=悪人」のイメージを壊しつつ差別を無くすって実に困難そう。「悪人から権利を勝ち取る」って闘争イメージのほうが動きやすくはあるのだろうなあ。差別を咎める時に相手を悪人扱いするなという話でもある 2010/02/17

 加えて、エントリーの内容を誤読してはいるけど、やはり上述の論点の基礎を含むコメントがこれ。

 usneet この具体例は結局「差別はあっても仕方がない」と言うことになって危険。差別的状況の把握能力と差別心の有無は違う。差別心からしか「差別」は産まれない、という前提がなければ差別は伐てない。 2010/02/15

 いずれも差別論の実践的な特性について的確に把握されていますね。

 ただ、ぼくがここで書いてきたことは、どちらかというと、差別の解消という実践よりも、差別の解明という学術的な課題に力点を置いている、と理解していただけるともっとうれしいです。

 さて、上述の論点について、前々回のエントリーで触れた「敬愛する先輩」が、著書の中で「差別論」と「人権論」を分けようと主張しています。手元に実本がないので記憶に頼って紹介すると、真理を追究するための学術的な議論(差別論)と、被害を回復するための政治的な議論(人権論)を混同すると、いつまでたっても合理的な解にたどり着かない、という話です。

※ 佐藤裕『差別論―偏見理論批判』 明石書店

 この主張はやや難解なロジックをその前提としていますし、「差別論」と「人権論」という類似概念にまったく違う意味を付与しなければならない難しさもありますので、誰もがすんなり理解して受け入れられる話ではないでしょう。

 その意味で、実効性には留保をつけざるをえません。おそらく佐藤さんもそれはわかっているでしょう。でも、ここで重要なのは、「学術的な議論と政治的な議論をいったん別のものとして論じるべきだ」という問題意識それ自体です。(差別論と人権論を分けようというのは、その問題意識を伝えるための手段にすぎません。)そして、ぼくもこの問題意識を共有しています。

 ということで、今回から何回かに渡って、なぜそのような問題意識が必要なのか、について書いてみたいと思います。

 なんだか、前回のネタははてなブックマークで賛否両面から大人気でした。でも、いくつか前提となる知識がないとピンとこない応用的な内容でしたので、趣旨をきちんと理解できた人はそう多くなかったかもしれませんね。今回は、前回のエントリーの統計学的な根拠を少し紹介しましょう。

 かつて敬愛する先輩が差別論の授業資料をウェブで公開していて、その中に興味深い調査のアイディアが記載されていました。具体的な場面をあげながら、「次のいろいろなことがらを差別だと思うかどうか、1から3のうちでもっともよくあてはまる番号をそれぞれ選んでください」と尋ねます。それによって、「差別の存在を認めない/認めやすい傾向」を測定しようというわけです。

 先輩には無断でしたが、即、非常勤先の「社会学入門」を受講している学生を対象に調査をしてみました。(結果は翌々週の授業のネタに使いました。じつは、前回のエントリーは、その「翌々週の授業」の資料の一部です。) 

記述統計量

度数 平均値 S.D.
被差別部落出身者であることを理由に婚約を解消すること 143 1.16 .39
同性愛者が周囲から忌避されること 143 1.20 .47
男性の政治家が「女性は家庭で子育てに専念すべきだ」と言うこと 144 1.25 .59
HIVに感染していることを理由に解雇されること 144 1.26 .53
在日韓国朝鮮人が被選挙権を持たないこと 142 1.37 .61
重度の身体障害があることを理由にアパートの家主が賃貸契約を断ること 144 1.44 .61
特定の政治団体に所属しているために企業に採用されないこと 144 1.58 .69
結婚前に相手の家柄を調査すること 144 1.82 .76
テレビドラマで「めくら」「つんぼ」などの言葉を使うこと 144 1.82 .75
出身大学によって企業の採用や待遇が異なること 144 1.85 .78
公共の建物にエレベータなどが設置されていなくて、車いすの障害者が上の階に上がれないこと 143 1.96 .78
男女がともに働く職場で女性のヌードのポスターを壁に貼ること 143 2.01 .82
企業に一定数の障害者を雇用するように強制すること 144 2.08 .76
女性の国会議員が男性に比べて著しく少ないこと 144 2.12 .71
先天性の障害があると診断された胎児を中絶すること 143 2.13 .66
職場の上司の私的な依頼(引っ越しの手伝い等)を強制されること 144 2.19 .79
オウム真理教の信者が地域社会から排斥されること 143 2.20 .72
女性がデートの経費を男性に支払わせること 144 2.21 .77
レイプを題材にしたポルノビデオを販売すること 144 2.22 .80
企業が「美人」を受付などに配置すること 144 2.24 .75
企業が採用の際に30歳未満という条件を加えること 144 2.26 .70
親のコネで一流企業に入社すること 143 2.27 .81
60歳で定年退職しなければならないこと 144 2.47 .69
女性が結婚相手に「三高」を選ぶこと 144 2.56 .58
職場で「性格が悪い」と感じる同僚との接触を避けること 143 2.59 .64
学生には馬券を買うことが認められないこと 144 2.69 .65
職場で将来の活躍を期待されていた女性が自ら結婚退職をすること 143 2.83 .39
20歳未満の者に選挙権が与えられていないこと 143 2.86 .40

 上の表が、質問項目と調査結果(平均値と標準偏差)です。回答は1「差別だと思う」、2「場合による」、3「差別と思わない」の3点尺度なので、平均値が2を下回ると、「差別だと認定した回答者が多い事象」ということになります(赤字)。また、平均値の順番に並べてありますので、上に行くほど「差別だと認定されやすい事象」、下に行くほど「差別だと認められにくい事象」ということになります。

 社会科学として差別研究に取り組んだことのない方は、こういう表を見ると、どの事象が差別であり、どの事象が差別ではないか、と判定したがる傾向があります。まあ、差別かどうかがハッキリすれば、「差別」と認定されたことをやらなければ加害者扱いされるリスクがぐっと減りますからね。前回述べたように「悪人呼ばわりされたくない人」であれば、白黒付けたくなる気持ちはわかります。ちょうど、前回のエントリーに付いたコメント3件がすべてそういうものでしたね。

 でも、一番上の項目でも「差別と思わない」と答える人はいますし、逆に一番下の項目でも「差別だと思う」と回答する人はいます。一番上から一番下までのどこかに恣意的に線を引いて、「ここから上は差別です」などと決め付けるのはナンセンスです。

 そもそも、この調査の目的においては、どの事象が差別(だと認められやすい)か、ということはほとんど重要ではありません。調べているのは、回答者の心理的要素(差別の存在を認めない/認めやすい傾向)なのですから。

 上記の回答の素点を全部加算すると、最小値40、最大値73、平均値56.7、標準偏差6.4、という変数ができあがります。この得点が高ければ、上記の設問で「差別と思わない」と回答することが多かったということですし、逆に得点が低ければ、「差別だと思う」と回答した項目が多かったということになります。これは、「差別の存在を認めない/認めやすい傾向」の尺度だと解釈できます。

 かなりラフではありますが、こうやって作成した尺度と、別途作成した「マイノリティへの冷淡な態度」との相関係数を求めたところ、0.49という値になりました。つまり、差別の存在を認めない傾向のある人ほど、被差別集団に冷淡な態度を持っている傾向がある、ということです。

 となると、「差別の存在を認めない傾向」というのは、やや文学的なレトリックを使うなら、「人権問題への鈍感さ」と言い換えられる、ということですかね。ちなみに、0.49という値は、この種のデータにおいては、強い相関関係をあらわしています。

 学術的にどれだけ信頼できるか結果かというと、調査設計がラフですから、社会学分野では業績扱いはムリでしょう。でも、K西大学でも、K南大学でも、O教育大学でも、K女子大学でも、(上表の順位は変わっても)同様の相関関係が、ほぼ同じ値で出ています。まあ頑健な結果だろうとぼくは思っています。(むしろ、当たり前の結果すぎて、ちゃんと調査しようという気にもならないぐらいです)

 ようするに、人にはそれぞれ、人権問題への感受性というか、差別の存在をキャッチする敏感さの程度のようなものが違った強さで備わっているわけです。そして、この感受性が弱い人は、単に鈍感だというだけでなく、マイノリティに対して冷淡な傾向がある、という話でした。

 昨日紹介した講演は、記憶の中では結構上手にこなしたことになっていたのですが、テープ起こしを読んでみると何を言っているのかわからない箇所がたくさんあります。もう少し上手にしゃべれるといいんですけどね。

 わかりにくかったからというわけではありませんが、今日も同じテーマを違う角度で書いておきます。

 「朝鮮学校がサッカーの地域代表になったとき、それを応援しなかったのは差別だという話がある。でも、朝鮮学校に知り合いはいないし、別に応援したいと思わなかったから応援しなかっただけ。それを差別だといわれるのはおかしい。最近、差別差別だといいすぎじゃないか。」

  なるほど、一理あるように聞こえます。「コーラは好きだけどオレンジジュースは好きじゃない。おなじリクツで、東海大仰星なら応援し、大阪朝鮮高なら応援しない。それは単なる好みの問題であって、差別じゃない。それを差別というなら、ご飯よりパンがすきだというのも差別になるじゃないか」というところでしょうか?

  でも、どうして朝鮮学校は「別に応援したいと思わなかった」んでしょう。実際には、知り合いがいようといまいと、日本人が通う高校だったら地域代表を応援したかもしれない。日本の高校だったら仲間だという感じがして、朝鮮人の高校だったら仲間だという感じがしないので応援しなかったのかもしれない。同じ地域の代表とは感じられず、別の民族の代表だと感じたのかもしれない。そして、別の民族の代表だから、応援しようという気持ちも起こらなかったのかもしれない。だとしたら、それは差別の異化作用です。

 もちろん、同じ日本人の通う高校でも、偶発的な事情で応援したりしなかったりもするはずです。でも、差別だという訴えがあったということは、そういう偶発的な事情では説明できないくらい、日本人の応援が少なかったということでしょうね。地域代表であるにもかかわらず、みんながこぞって朝鮮学校を「別に応援したいと思わなかった」とすると、朝鮮学校をヨソモノ視する排外的な感情がどこかに働いたということです。

  ちなみに、「最近増えている」のは、こういう差別を差別と認めたがらない意見のように思われます。これも、典型的なvictim blamingです。このことを手がかりに、victim blamingが発生する仕組みについて考えてみましょう。

 すでに各種の調査で明らかなことですが、差別に対して鈍感な傾向にある人は、差別の存在を認めたがらない傾向があります。つまり、差別を区別だといって正当化したがる。これはおそらく、「マジョリティであるだけで自分が差別者=悪人として糾弾されるのはゴメンだ」という判断が働くせいでしょう。そういう人には、マイノリティの立場を想像してみることは難しいようです。

 たとえば、社内で「セクハラ防止規定」のようなものを作ろうとしたとき、男性社員が「それもセクハラなのか? そういう規定が濫用されると何でもセクハラになってしまうじゃないか」といった反対をすることが多く、セクハラの被害にあった女性同僚をいかにサポートするかという観点はすっぽり抜け落ちているものです。

 差別を受けることのないマジョリティの地位に安住している人にとっては、差別などという重たい問題を目に見えるところに突きつけられるのは気持ちのいいものではないでしょう。そんな問題は考えたくない。みたくない。できれば逃げたい。そんな感情が、差別の存在を否定する態度にあらわれます。

 でも、マイノリティにとっては、差別は逃げられない日常です。のんきに「差別を見たくない」といって逃げられるマジョリティとは違って、逃げたくても、見たくなくても、考えたくなくても、否応なく突きつけられる日常です。マジョリティにとって差別はたんなる知識かもしれないけど、マイノリティにとってはリアルな現実です。

 悪意がなくとも差別は起こるし、差別が起これば被害者はさまざまな損害をこうむる。この単純な原理が、差別者=悪人のイメージに邪魔されてなかなか理解されない。差別だという訴えは、「私は傷ついている」という単純な主張であって、「オマエたちは悪人だ」と訴えているとはかぎらない。にもかかわらず、マイノリティの必死の訴えを、差別を見たくないというだけで「それは差別じゃない」と切り捨てる。自分も悪人の仲間だと思われたくないという理由で、差別反対運動のジャマをする。

 マイノリティが差別と懸命に闘って、ようやく必死の思いで傷口を見せて「差別だ」と声をあげたとき、いつでも逃げられる安全で優位な立場にいながら「最近、差別だと騒ぎすぎるやつが多い」などと批判するのは、タダ単に傲慢なだけでなく、二次的な差別とすらいえます。セカンド・レイプならぬセカンド差別。

P.S.

 こちらも参照。てのる【Gay】タイムズ「それ、ちょっとイヤなので、やめてくれませんか?」

 前回のエントリーで、「衝突壁」については別の機会に、と述べましたが。でも、よく考えてみると、2003年ごろに中学校の先生方を対象とした講演会で同じようなことをしゃべったことがありましたので、そのテープ起こしの内容を紹介することにしましょう。

――――――

 しかし、ナショナリズムに関するどういう情報を、どういったふうに消費していったらいいのか、おとなたちも迷っているというのが現状です。左右両翼が入り混じって《国家的な自分探し》をしている感じですね。そうなると、高校生たちなんか、ナショナル・アイデンティティを模索し始めたばかりだし、まして、中学生ぐらいになるとはじめてナショナリズムというものを意識化するようになったばかりという年齢層でしょう。ナショナリズムが自分探しとリンクしているような気がするけれども、その正体はわからない。

 そういうときにどうするか。「日本人としてのぼくはどうすればいいのだろう、どういう考えをもてばいいのだろう」といった疑問を解消するために、「非日本人」という《外部の存在》を利用するわけですね。どういうふうに利用するのかというと、ちょうどガードレールにぶつかっていくイメージです。

 たとえば、皆さんがお持ちの生徒さんたちも、「自分はどこまで自由を持っているのだろうか」ということを確認したがります。そして、それを確認するために、わざとルールを破ったりしますね。そして、「あっ、ここまでならOKなんだ、ここまでやったら、ダメで怒られちゃうんだ」というふうに、わざわざ、ルールを故意に破って、ルールの外延を確かめていくということをしますね。それと同じく、自分のアイデンティティがわからないとき、そのアイデンティティの輪郭をはっきりさせるために、自分と他者との境界線を探ろうとします。その時に利用されるのが、《外部の存在》であるマイノリティなわけです。

 ちなみに、アイデンティティの問題は、民族差別にかぎらず、ほかのどれでも一緒です。外部を利用することによって、「わたし」や「われわれ」を確認しようとする。

[...中略...]

 それと同じように、日本人らしさを確認するために異文化マイノリティに衝突して確かめてみる、ということがありうる。つまり、マイノリティ、例えば在日韓国・朝鮮人というのはこういうやつらなんだというイメージをまず作り上げる。そして、そのイメージを攻撃する。そして、その攻撃したことに対する反論を受けてそれによって「ああ、日本人っていうのは、こういうふうに見られるんだ」とか、その反論に対して再反論をしていくことによって、「ああ、日本人はこういうふうに言論を申し立てていくべき存在なんだ」ということを理解しようとしているわけなんです。

 先ほどの読み上げましたメッセージは、その典型的な事例であると言っていいと思います。

 マイノリティ、民族的マイノリティとは、さまざまな部分で権力的に少数派に置かれた人々のことをいいますけれども、社会的には非常に不利な位置にある。のみならずマジョリティが自分らしさを探すためにガードレール役として、(ガードレールとは英語ではクラッシュバリアですけれど)、クラッシュする対象として利用されていく。そういう形でも差別が起こっていっているということです。

 先ほども申し上げたように、ここで紹介したメッセージはむしろ柔らかい方で、インターネットではより過激な、あるいはよりグロテスクなマイノリティ攻撃が、今や主流となりつつあります。《自分探し》のための新しい差別の登場です。

 前回、「在日コリアンに地方参政権の門戸を開くかどうかというのは《日本人の問題》だとぼくは思っている」と書きました。つまり、日本人の寛容性の問題であり、日本人の地域観の問題である、という文脈でこの言葉を使ったわけですが、じつは別の文脈にもこの言葉は当てはまります。

 つまり、日本人のナショナリズムの問題だ、という意味です。もう少しわかりやすく言うと、外国人の地方参政権をダシにして日本人が国民的アイデンティティを模索している側面があるという意味です。もっといえば、日本人が「日本人とは何か」という問いを立てるために、外国人を衝突壁として利用するのはやめてほしい、ということです。

 ...ってネタフリに続けて詳しく説明しようと思ったけど、なんだか気分が乗らないから、この話はここまで。やっぱり別の話にします。ただ、ネタフリの最後にある「衝突壁」については、ヘイトクライム#2を書くときにあらためて言及しましょうか。

 今朝、Zeitbedingtさんがツイッターでこう書きました。

参政権を社会貢献の手段ととらえる見解には、あんま馴染めない。参政権の法的性質としてあえて公務性を否定しようとは思わないけど、社会貢献って法的性質じゃないし。実際、多くの投票者は自己利益に合致する(または反しない)代表者を選んでるだけじゃなかろうか。

 これはおそらく、ツイッターの仕組みを理解していなかったために幻となったぼくのつぶやき(↓)を念頭に書かれたのではないかと。

@nasukoB はじめまして。参政権というのは社会に貢献する手段ですから、日本や地域社会への愛着が強く、いっそう貢献したいと考えている在日ほど欲しがります。逆に、日本は外国だと思っている在日は欲しがりません。一般論として。

 なるほど、投票行動は自己利益を最大化するように行われるのだから、それを「社会貢献の手段」と表現するのは不適切だという指摘には、うなずかざるをえないかも。

 ただ、現時点で参政権を持たない在日外国人が参政権の獲得を望むとき、背後にあるのは具体的に誰かに投票したいということではなく、もっと抽象的な、「私も地域の一員として意思決定の代表者を選ぶプロセスに参加したい」といった気持ちでしょう。

 この点に関して紹介したいデータがあります。『在日韓国人の社会成層と社会意識全国調査報告書』の13章「権利」です。より具体的には、「日本の参政権」を望む理由についてロジスティック回帰分析を行った箇所。

 分析モデルがラフなので、この結果が一人歩きするようだと困るのですが、ここで注目してもらいたいのは「地域活動参加」の係数が有意だということです。4章「地域移動」、5章「地域意識」、11章「愛着」もあわせてお読みいただけると、このデータの意味が間接的にイメージできると思います。

 すなわち、在日コリアンはみな地域に強い愛着を抱いているが、普段から地域活動に参加し、今以上に愛着を持てる地域を創りたいと願う人、今以上に地域への貢献を求めている人ほど、地方参政権を求めているということです。

 最後に、関連する話題なので古いエッセイを一つ紹介して終わります。

 福岡安則「『在日』と日本人との共生は可能か」(月刊『アプロ・21』)

 先日、李怜香さんがツイッターに書いたこと。

永住外国人地方参政権法案に反対する人の特徴は、わたしが外国人だというと、意見もまったく聞かず、参政権法案に賛成だと決めつけて話をすすめるところだね。賛成反対どころか、言及さえしてないのになぁ。超能力者か(笑)

 それに答えてぼくが書いたこと。

ぼくも、地方参政権については賛否を公言したことは一度もないんだけど、その手の人々は賛成だと思い込んでくるね。金明秀ではなくザイニチという記号を相手にしてるんだろう。

 あぁ、字数だけ気にしてたら、めちゃくちゃ偉そうにタメ口つかってる...。ごめんなさい。

 ともかく、ぼくはこれまで、とても仲のよい友人を除けば、地方参政権について個人的見解を披露したことがありません。正確に言うと、HANBoardなどに、地方参政権を外国人に付与できるとする理論的な学究成果を紹介したことはあります。また、諸外国において移民2世以降の政治参加がどう扱われているかについて述べたこともあります。でも、ぼく自身がそれを肯定的に捉えているか否定的に捉えているかについては明言したことがありませんし、ぼくが参政権を欲しがっているかどうかについてはいっさい言及したことがありません。

 では、なぜぼくは、賛否を表明してこなかったのか。主たる理由の一つを紹介すると、在日コリアンに地方参政権の門戸を開くかどうかというのは《日本人の問題》だとぼくは思っているからです。

 外国人の地方参政権をどうするべきかについてはいろんな考え方があるものの、どれをとっても後付けのリクツにすぎません。そもそも、大量の移民の子孫が何代にもわたって「外国人」のままであるというのは、世界的にもまだ新しい状況なのですから、答なんてどこにもないのです。

 言い換えると、どこの国でも、そういう新しい状況に対して根源的な疑問を持ち、その疑問に答えるために、後付けのリクツを模索している最中なのです。

 その根源的な疑問とは何かというと、「自分の意思で国境を渡った移民一世はともかく、この国で同じように生まれ育ち、同じように社会に貢献している二世以降が、出自が違うということだけで政治的な権利を持たないというのは、ずいぶん不公正じゃないか? もしそれが法律だとしたら、その法律のほうがおかしいんじゃないのか?」 というものです。

 素朴で直感的な問いですね。でも、少なくともヨーロッパでは、それが始まりでした。つまり、隣人である移民の子孫が政治的に排除されている状況を、その国の国籍を持つ人々の多くが《おかしい》と感じる気持ち。自分の国はそんなに不公正で義理を欠く国だったのかという憤り。それが、外国人に地方参政権を付与しようという運動の出発点だったということです。

 以下は、日本人と在日コリアンに限定して話を進めましょう。というより、ぼくの私的見解の話に戻ります。

 日本国籍を持つ地域の友人・知人たちが、「同じ町の居住者である金君に選挙権がないというのはぜったいにヘンだよ。ずっとこの市に住んできたし、町内会の仕事もやってくれている。道路問題では行政との交渉で汗もかいてくれたじゃないか。人権講演会の講師も勤めてくれた。これだけ住民として貢献しておいて、政治的権利がないというのは、おかしいじゃないか。こんな歪んだ状況は隣人として許せない」と言ってくれるのであれば、選挙権を獲得した上で、地域の一員としての責務を今まで以上に全うしたいと思う。

 一方で、「へー、選挙権がないんだ。まぁ、国籍が違うんだから、しょうがないよね。文句があるなら国に帰れば? ともかく、ぼくの目に入らないところに消えてくれないかな。」と言うのであれば、そんな地域のメンバーシップ(=地方参政権)はいらないと思う。だいたい、外国人だから仕方ないなんて、20世紀の話だろう。グローバリゼーションの進んだ現代では、それじゃつじつまが合わなくなってきていて、どうすれば矛盾を解消できるかどこの国でも議論してるんだろうが。それを、ガイコクジンという記号としか見ようとせず、自分には関係のない話だと切り捨てるような輩が多数派であれば、そんな地域に貢献しようとは思わないということだね。

 つまり、ぼくの地方参政権に対する賛否(y)は、隣人たる日本国籍者たちが同じ地域のメンバーだと支持してくれる気持ちを持っているかどうか(x)の関数なんですね。ネットでは参政権付与に反対というテキストが目立つけれども、世論調査では賛成が過半数を占めているようですから、ぼくの気持ちも前向きになってきています。

 さて、最後に一つ大事なことを。

 ここまで読んで、「『どうしてもくれるって言うなら参政権を貰ってやってもいいよ』なんて、いったい何様なんだ。どうしてそんなに偉そうなんだ」と思ったアナタ! あなたは、ガイコクジンは頭を下げて参政権をこいねがうべきだと思っていることになりますね。それは傲慢ではないのですか? 偉そうなのはどっちかな?

ブログを移転して読者がいなくなったのを機に更新をストップしていましたが、関学での仕事も軌道に乗ってきましたので、学生たち、とくにゼミ生を主たる想定読者として、ぼちぼち更新を再開していきたいと思います。

さて、去る19日、下記のような京都弁護士会会長声明が出されました。

朝鮮学校に対する嫌がらせに関する会長声明
(京都弁護士会、2010年1月19日)

声明の内容を一部を引用すると、

2009年(平成21年)12月4日(金)午後1時頃、京都市南区にある京都朝鮮第一初級学校校門前において、授業中に、「在日特権を許さない市民の会」等のグループ数名が、「朝鮮学校、こんなものは学校ではない」「こらあ、朝鮮部落、出ろ」「お前らウンコ食っとけ、半島帰って」「スパイの子どもやないか」「朝鮮学校を日本から叩き出せ」「北朝鮮に帰ってくださいよ」「キムチくさいねん」「密入国の子孫やんけ」などの罵声を拡声器等で約1時間に渡って同校に向かって大音量で浴びせ続けるという事件があった。その際には、公園に置いてあった朝礼台を同校の門前まで運んだり、門前に集まって門を開けることを繰り返し求めたり、公園にあったスピーカーの線を切断するなどの行為も行われた。

 という差別事件があり、それに関して警察その他関係当局は必要な対処をすべきである、というのが声明の主旨です。

「在日特権を許さない市民の会」(在特会)というのは、ようするに右翼組織なのですが、従来の右翼組織とは2つの点で違いが見られるという印象を持っています。ひとつは、インターネットを利用して支持を広げていること、もうひとつは、近年の日本ではめずらしくヘイト・クライムを積極的に指向していること。つまり、差別発言を街宣車でがなりたてるだけでなく、暴力行為を行うところが目新しい。

例えば、西宮では、いわゆる従軍慰安婦を支持する集会に在特会が乱入し、けが人を出したそうです。支持者のレポートによると

今日関西の「慰安婦」問題各連絡会は、阪急西宮北口のロータリーで午後6時半より、第900回目の「水曜デモ」に連帯し、合同の「水曜デモ」を行ないました。...中略...およそ30人あまりの「水曜デモ」となりました。
ところが終盤になって宝塚方面から来た「在特会」が約30名が、警察の制止を跳ね除け、集会の中心のロータリーになだれ込みました。
いつもの事ですが彼らは「朝鮮人帰れ」「慰安婦は売春婦帰だ」「外国人参政権反対」売国奴小沢一郎」などと、大口スピーカーで怒鳴りまわめきながら、女性に体当たりしたり、口々に罵声を浴びせ、私たちが展示していたパネルを剥ぎ取り、足で踏みにじり、横断幕を奪い取ろうとしました。
そしてあろう事か、暴徒化した彼らは、1人でいた人や、写真を撮っていた人に襲い掛かり、引き倒し、羽交い絞めにし暴行を加えたのです。
この暴力によって1人の青年が後ろへ引き倒されて腕を怪我し、近くの病院で手当を受けたところ骨折はなかったものの、全治2週間の診断されました。

とのことです。

連鎖 #2

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 前回は事後の対応が傷を深めるケースについて書きました。セカンドレイプならぬセカンドハラスメントですね。

 が、実際には、ああいうわかりやすいというか、典型的なセカンドハラスメントよりも、もっと責任の所在があいまいで、誰が悪いのか判然としないようなケースも多々あります。

 例えば、以下のようなケースを考えてみましょう。前回と同じく、複数の実際に起こったケースをモデルとしながら、いろいろと誇張を加えた架空の事例です。

  1. ある高校の運動部の監督が、合宿中に女子部員に抱きついた。
  2. 部員はわだかまりを感じつつも合宿を継続し、数日後の試合にも出場した
  3. しかし、わだかまりは消えることなく、考えれば考えるほど、不快感や嫌悪感がふくらんでくる。そこで女子部員は保健室の先生に相談し、セクハラが発覚した。
  4. 高校は即座に女子部員と監督に聞き取り調査を行い、事実を確認した上で、監督を免職処分にした。被害を受けた女子部員には保健室と連携しながら継続的に情緒的サポートを行い、被害に対して最大限に「補償」することを約束した。ただし、被害者とその保護者が「セカンドハラスメントの危険性があるので公表はしないでほしい」と希望したため、事実の公表については控えることにした。
 ここまでは典型的なセクハラ事件です。問題はその後どうなったか。
  1. 監督は処分を受けた数日後、強度のストレスにより急死する。
  2. 女子部員はセクハラの被害者でありながら、「監督が死んだのは自分のせいだ」と自責の念に駆られる。精神の平衡を保つことができなくなり、ウツを病み、不登校となった。
  3. 家庭と学校側の地道なサポートにより、3ヶ月ほどかけて精神状態が安定し、登校できるようにはなった。
  4. ところが、そのころいくつかの学校行事が重なり、欠席がちだった女子部員はうまく行事に溶け込めず、疎外感を深めてしまう。
  5. また、ちょうどそのころ、女子部員のサポートのために疲弊していた保護者夫妻は、ストレスから衝突することが多くなり、夫婦関係が破綻し、離婚してしまう。
  6. 女子部員は、学校での疎外感と、家庭でのトラブルのため、再び不登校となる。
  7. 父親は、女子部員を病院に連れて行ったり、離婚にともなう様々な手続きのため、数ヶ月に渡って仕事を休むことが多かったため、会社を解雇されてしまう。
  8. 父親は、すべての元凶となったセクハラを未然に防ぐことができなかった高校を激しく憎むようになる。そして、裁判に訴えるとともに、事実関係を極端に誇張して記者会見を行う。いわく、「娘は監督から性的暴行を受けた。事件をすべて公表するように高校に伝えたにもかかわらず、高校側は事件を隠蔽した」と。
  9. 高校側は、事件発覚以来、継続的に家庭訪問をしながら女子部員とその保護者と連絡を取ってきたため、父親の気持ちは分かる気がする。しかし、監督の遺族が経済的、社会的に苦痛にあえいでいることも知っている。セクハラは事実とはいえ、ここまで虚偽含みで誇張されて大々的に報道されてしまうと、遺族がかわいそうでいたたまれない。経営的にも放置はできない。
 いろいろな意味で、痛ましいケースでしょう? 誰もが心を痛めている。そして、「典型的な悪者」がいないだけに、気持ちをぶつけることもできない。

 もちろん、いちばん悪いのは監督なのですが、もはや故人であり、ある意味では"死んで償った"ような状態です。たとえそれが逆効果であったとしても、故意にそうしたわけでもない。しかも、監督の遺族にはなんら過失がないにもかかわらず、経済的、社会的に多大な損害を受けており、ある意味では「被害者」なのですね。

 前回は、事後の対応を"誤った"ために被害が連鎖的に拡大したケースでした。誠意と予備知識さえあればいくらでも防ぐことができます。

 それに対して、今回は、加害者が急死してしまったがゆえに被害が拡大したケースです。すべての関係者がその時点でできる最大限の努力をしたにもかかわらず、被害の連鎖を防ぐことができなかった。

 かなり特殊なケースではありますが、けっきょく、未成年に対するセクハラが起こった時点でもうアウトということなんでしょう。

 指導者と被指導者が二人きりにならないようにルール化するなど、"セクハラが起こりえない環境"を作るしかないんでしょうね。いろいろな教育活動がかなり不自由にはなりますが、上記のような悲劇が発生するリスクがある以上、それもしかたがない。

 病院では、なにせ患者が裸になることもありますので、医者と患者が二人きりにならないように必ず看護師一人以上付くというルールがあります。病院でできることなら、学校でもできないわけではないと思います。

連鎖 #1

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 セクハラ問題にせよ差別問題にせよ、多くの人権問題は、事象そのものよりも、事象に付帯して続発する様々なできごとが事態を面倒なものにします。言い換えると、人権問題は、起こったときより、起こった後のほうが問題になりやすいのですね。

 たとえば、以下の事例を考えて見ましょう。

(1)まず、「差別発言」が起こります。
 東京出身のAさんが、同僚でアイヌ出身のBさんに対して、「きみはクマさんみたい」と発言しました。Aさんにはまったく悪気はなく、クマさんのように愛嬌があってかわいらしい、ぐらいの意味で好意的な発言をしたつもりでした。

(2)ところが、アイヌは侮蔑的な意味をこめて「クマ」と呼ばれて差別されることがあります。
 そこでBさんは、(Aさんの発言意図がどうであれ)、「アイヌに向かって『クマ』と呼ぶのは差別的な意味合いがあり、不愉快だ」と抗議しました。

(3)Aさんとしては、好意的な発言に対して「差別」だと抗議されたことに驚きました。
 そして、「傷つけるつもりなんかなかった。だから差別なんかじゃない。クマは愛らしいじゃないか。クマと呼んで何が悪いのか。被害妄想はいいかげんにしてくれ」と逆ギレします。

(4)BさんはAさんの態度に傷つきます。
 最初は、Aさんに悪気があったかどうか分からないけど、できればよりよく理解してほしいという思いから、勇気を振り絞って「不愉快だ」と真剣に伝えたのに、このAさんの発言と態度からは「理解しよう」という気持ちはうかがえません。それどころか、被害妄想だと攻撃される始末です。傷ついた後、たいへん強い憤りを感じます。

(5)Bさんは上司に調停を依頼します。
 そこでBさんは、第三者として、AさんとBさんが働いている職場の上司に、内々に相談します。

(6)上司は事実がなかったかのように振舞います。
 上司としては、仕事と直接関係のない面倒な揉め事を嫌う人でした。Bさんから相談を受けた後、「ぼくからAさんをたしなめてるから、Bさんも事を荒立てないように」と話したにもかかわらず、Aさんには何も話をせず、ただ放置しただけでした。

(7)Bさんは上司に抗議しますが聞き入れられず、それどころか4月に配置換えされる対象になっていることが分かりました。Aさんはそのまま異動しないにもかかわらず。

(8)Bさんは、とうとう、Aさん、上司、そして会社の3社を民事で訴えることにしました。

 さて、このケースですが、(3)の段階でAさんが、「そうなんだ、知らなかったとはいえごめんなさい」とたった一言謝ればすむ話なのですね。いや、謝るどころか、「え、そうなの。知らなかった。よかったら、もう少し詳しく教えてくれない?」と前向きに理解しようとする姿勢を示すだけでも、たぶん大丈夫だと思います。

 ところが、Aさんは「差別」の一言に過剰反応してしまって、大悪党呼ばわりされたような気持ちになり、相手の気持ちも考えずに攻撃的な対応をしてしまいました。そして、いくところまでいってしまうことになったわけです。

 Bさんとしても、(1)の発言そのものに対して深く傷ついたわけではありません。むしろ、(3)や(6)〜(7)の対応によって、期待が裏切られ、信頼を喪失し、人間関係と職場に絶望し、そして、恨むようになっていったのです。

 事後の対応がいかに重要かわかりますね。

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