ナショナリズムの全ブログ記事

 以下は、ある社会学辞典のために執筆した原稿です。日本では「アイデンティティ・ポリティクス」という言葉がどうにも理解されにくいので、まずは辞書的な記述を紹介しておきます。専門用語がだいぶ混ざっているので読みにくいと思いますが、そのうち日常用語を使ってわかりやすく解説したいと思います。

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【概念の背景】

 人種、宗教、ジェンダー、性的指向など、何らかの差異を共有するとみなされる集団(アイデンティティ集団)ごとに社会的資源が偏って分配されていることは少なくない。そうした偏りは自由と平等を基調とする近代市民社会の理念に反するため、しばしば是正の要求を喚起することになるが、その要求のあり方は二つの運動様式に大別される。すなわち、普遍的な市民としての平等な分配を勝ち取るための運動と、個々の集団としての要求に見合った公平な分配を勝ち取るための運動である。両者はそれぞれ争点が異なるため、論理的には必ずしも矛盾しないが、現実には激しく衝突することが多い。

 近代主義的な社会計画を人々が信奉し、画一的な社会理念が堅固に共有されていた時代においては前者が主たる運動様式であったが、1960年代半ば以降、そうした理念が疑問視されるようになるとともに、後者の運動様式が注目されるようになった。後者の運動様式を総称する概念はいろいろと提案されてきたが、1990年代以降はアイデンティティ・ポリティクスという熟語の使用例が増えている。

【概念の内容】

 アイデンティティ・ポリティクスとは、アイデンティティ集団を単位としてさまざまな社会的資源の獲得を目指そうとする運動である。多くの場合、当該社会で歴史的に周辺化されてきたマイノリティによる自己決定権や差異の承認要求としてたち現れる。アイデンティティ・ポリティクスの獲得目標を「差異への権利」と表現したり、その運動様式のことを「承認の闘争」と呼ぶこともある。日本語の中にはそのままでアイデンティティ・ポリティクスに該当する熟語は存在しないが、「当事者主権」「当事者運動」などで指示される対象はアイデンティティ・ポリティクスに含まれる。

 アイデンティティ・ポリティクスには、顕著な特徴として、以下の3点が広範に観察される。(1)市民的平等の追求のように普遍的な「市民」や「国民」に同化するのではなく、アイデンティティ集団の異なった扱いに関する承認を求めること、(2)多様な社会的資源のうち、物的資源の公正な再分配を追求するだけでなく、文化的資源と関係的資源の剥奪をも異議申し立ての対象に含むこと、とりわけアイデンティティ集団に付与される否定的な威信を撤回させること、(3)特定の差異に基づくアイデンティティを共有するメンバーを手段的にも情緒的にも動員しやすいため、相対的に運動を生起させやすいこと、である。

 加えて、アイデンティティ・ポリティクスへの反作用として、以下の3点が指摘される。(4)市民的・国民的な統合を求める保守的な立場からは、個々のアイデンティティ集団がばらばらに要求を突きつけているように見えるため、《わがまま》な権利要求だという反発を招きやすいこと、(5)共通の労働者の権利を求める革新的な立場からは、アイデンティティ集団が階級闘争を分断しているように見えるため、階級闘争に対する《裏切り》だという批判の対象となりやすいこと、(6)差異を共有するとみなされる集団が特定のカテゴリーによって表象されると、その集団内部における差異が結果として不可視化される弊害があるため、とりわけ多重マイノリティからは《過剰な代弁》であるとの告発が寄せられること、である。

【概念の適用事例】

 カナダのケベックなどにみられる地域的マイノリティの独立運動は、文化的差異の承認とアイデンティティ集団による自己決定を求める典型的なアイデンティティ・ポリティクスである。ポスト・コロニアリズムの文脈における帝国主義批判も、支配的な価値意識の転換と自己決定を求める告発であり、アイデンティティ・ポリティクスの範疇といえる。ただし、独立運動や脱植民地主義のように領土管理の独立性が争点になるだけでなく、エスニック集団のアイデンティティ・ポリティクスは、居住国に対して文化的独自性を尊重する多文化主義を要求する形で表出することが少なくない。

 障害者解放運動におけるアイデンティティ・ポリティクスでは、障害者を特別な保護と医療専門職による治療の必要な弱者とみなすパターナリスティックな「個人モデル(医療モデル)」を脱却し、社会に設けられた障壁によって障害者の自己決定が阻まれているとみなす「社会モデル(生活モデル)」によって不利益を克服することが目標とされる。

 アイデンティティ・ポリティクスは、今日のマイノリティ解放運動において議題設定の大前提とも言える位置を獲得しているが、グローバル化にともなう社会秩序の解体が「マジョリティとは誰か」という認識を流動化させるようになると、極右団体による移民排斥運動のように当該社会のマジョリティが担い手となることもある。例えば日本において、2000年代以降、「日本は在日コリアンの支配を受けているため、日本人としての主権を取り戻すべきだ」といったデマを主張するカルト団体が一定の支持を得たり、雑誌や新聞が東アジアの隣国を中傷してナショナリズムを煽り立てる記事を集合的に書きたてたりするのは、一種のアイデンティティ・ポリティクスだと考えることができる。


 前回に引き続き、「連鎖」を題材にレイシャル・ハラスメントについて考えていきます。告発を受けたAさんも上司も、それぞれのふるまいがレイシャル・ハラスメントに相当するということに気づかなかったのはなぜかという問題です。

(2)二次加害の場合

 「連鎖」のケースでは、(1)→(2)の時点では、まだBさんは「レイシャル・ハラスメント」だとは認識していない可能性が高いです。そもそも、「きみはクマさんみたい」という発言そのものは「レイシャル」ですらありません。

 このケースがレイシャル・ハラスメントとなりうるのは(3)の時点からです。つまり、「差別的表現としても用いられているので、やめてもらえませんか」というやわらかい告発を強く拒絶したことによって、はじめてレイシャル・ハラスメントとしての要件を満たしたわけです。

 しかし、この時点でハラスメントの要件が確定したとはいえ、Bさんにとっては、この時点ですでに、被害体験と被害感情を否定されるという二次被害を受けた状態です。AさんとBさんの事実認識は、一段階ずれています。

 この「ずれ」、すなわち「ひとつ」の発言が「二次」加害を構成しうるという構図が、「連鎖」のケースでレイシャル・ハラスメントをわかりにくくしている原因の一つです。

 次に、上司の対応を見てみましょう。(6)の段階で、上司がBさんの訴えを「なかったこと」として扱ってしまいました。理由はわかりません。Aさんの訴えに共感したか、あるいはたんに面倒だと思ったか。

 いずれにせよ、重要なことは、ここでも、上司は訴えを放置するという「ひとつ」の行為を選択しただけですが、Bさんにとってはそれがすでに「二次」被害になってしまっているということです。そして、上司は、自分の選択がすでに加害性を持っているということに気付かず、人事異動でBさんの配置を変えるという判断をしたことで、ハラスメントの要件を確定させてしまいました。

 被害を訴えるというのは、とてもしんどい行為です。訴えるためには被害を追体験しなければなりません。傷を見せるというのは自分の弱さをさらけ出すことでもあるので、それ自体に痛みを伴います。また、誰って、好き好んで揉めごとなど起こしたくありません。面倒くさいやつだと思われる危険性だって犯したくありません。

 それでも訴えるというのは、すでに何重にも被害が蓄積していて、やむにやまれず必死の叫びを上げるようなもの。それを拒絶されたときのショックは、一次被害に勝るとも劣らない苦痛を被害者に与えます。

 にもかかわらず、加害者にとってはただ一度の言動にすぎなかったりするわけで、その「ずれ」がハラスメントをわかりにくくしてしまいます。

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 まだ他にも、告発を受けたAさんや上司が、それぞれのふるまいがレイシャル・ハラスメントに相当するということに気づかなかった理由が残っています。次回に続きます。

 なお、今回のテーマについては、こちらのまとめも参考に。

【告発を無力化する話法】 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/169946 



 2008年の記事で、レイシャル・ハラスメントが連鎖的に進行する事例について紹介したことがあります(「連鎖」)。この事例では、告発を受けたAさんも上司も、それぞれのふるまいがレイシャル・ハラスメントに相当するということに気づきません。それはいったい、なぜでしょうか。

(1)悪意をともなわない場合

 Aさんが告発の意味を理解できなかった最大の理由は、差別心から発言したわけではないものを差別だと指摘されたためです。

 しかし、「偏見と差別の関係」でも解説したように、差別がいつも「被差別者を傷つけてやろうという明確な悪意」から生じるとはかぎりません。

 例えば、統計的差別の場合はいっさいの悪意がなくとも差別は生じますし、三者関係の差別の場合は見下しの感情が自覚されることはまれです。また、薄く広く蔓延している偏見にもとづいて差別発言をしてしまう場合、みんなが同じような偏見を共有していていわば「常識」のようになっていますので、自分が偏見を持っていると気づくことはとても難しくなります。悪質なヘイトスピーチのようなものを除けば、むしろ悪意をともなわずに無自覚的に行われる差別のほうが多いかもしれません。

 したがって、行為者側に「明確な悪意」があったかどうかは、こと差別についてはあまり意味がないのです。重要なことは、(1)歴史的、恒常的に差別が成立している何らかの属性に関わる言動があり、(2)その言動によって、受け手の側が不愉快に思ったり傷ついたりしたかどうか、の2点です。

 セクシュアル・ハラスメントについては、長年にわたる議論を経て、やっと、受けての側の感情が重要だと理解されるようになっているように思います。

 例えば、職場にヌードポスターが張ってある場合、かりにその意図が「男子職員の一体感を高め、就労意欲を鼓舞するため」であったとしても、職場に性的なものを掲示されるだけで不快感を覚えたり、自分が性的な視線でまなざされる脅威を感じ取ったりする職員がいれば、環境型のセクシュアル・ハラスメントとなります。

 レイシャル・ハラスメントについても同じことが言えます。告発を受けた言動があるとき、行為者に悪意があったかどうかは重要ではありません。その行為の受け手の側の感情こそが重要なのです。

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 ところで、「連鎖」の事例で、告発を受けたAさんも上司も、それぞれのふるまいがレイシャル・ハラスメントに相当するということに気づかなかった理由が他にもいくつかあります。次回以降に解説していきますので、皆さんも考えてみてください。

 セクシュアル・ハラスメントという言葉が日本に輸入されたのは、周知のように1980年代末の裁判闘争を通じてのことであった。その後、1999年4月には改正「男女雇用機会均等法」の施行によってセクシュアル・ハラスメントの防止が事業主に義務づけられた。また、同年3月には「文部省におけるセクシュアル・ハラスメントの防止等に関する規程の制定について」が出されたことを踏まえ、各大学においてセクシュアル・ハラスメントの防止等にむけた積極的な取り組みが進めらるようになった。

 そうした経緯もあって、セクシュアル・ハラスメントといえば法律用語であると解釈している人も少なくないようである。

 しかし、セクシュアル・ハラスメントという言葉は、職場や学校の中だけでなく、一般社会での不当な性的言動を意味することもある。例えば、特に組織に所属していない友人間であっても、恋愛経験を執ように尋ねたり、私生活に関する噂などを意図的に流したりすれば、「セクハラだ」として告発の対象になりえる。あるいは、ツイッターで女性のユーザーに対して執ように性的なからかいの言葉をぶつけたり、ヌードの画像を送りつけたりすれば、多くの人が「セクハラだ」と認識するだろう。

 ようするに、セクシュアル・ハラスメントは、法的な概念として用いられるだけでなく、性的に尊厳を傷つけられる不正義を総合的に指し示す社会学的な概念としても広く用いられているということだ。

 しかし、残念ながら、レイシャル・ハラスメントについては、日本ではそれを明示的に禁じる国内法がまだ整備されていないため、法的な概念か社会学的な概念かという区分を論じる以前の段階にとどまっている。セクシュアル・ハラスメントのように、不正義を告発する社会学的なツールとしての役割を果たすようになるまでには、まだまだ相当に長い年月がかかりそうな気配である。

 次回からは、「レイシャル・ハラスメントだ」との訴えが聞き届けられず、逆に非難の対象となった事例を紹介していく。

 厚生労働省の指針ではセクシュアル・ハラスメントを次の二つのタイプに分けています。

  1. 対価型セクシュアル・ハラスメント
    職務上の地位を利用して性的な関係を強要し、それを拒否した人に対し減給、降格などの不利益を負わせる行為。

  2. 環境型セクシュアル・ハラスメント
    性的な関係は要求しないものの、職場内での性的な言動により働く人たちを不快にさせ、職場環境を損なう行為。
 ここで注意が必要なことは、「対価型」(別名「地位利用型」)は職場での地位に格差があることがセクハラの構成要件とされているのに対して、「環境型」のほうは地位に格差がなくともセクハラになりうるということです。例えば、同じ平社員同士であっても、あるいは部下から上司に対してであっても、環境型セクハラは成立します。

 例えば、法務省のパンフレットでは、以下の様な事例が「環境型ハラスメント」の典型として挙げられています。●性的な話題をしばしば口にする、●恋愛経験を執ように尋ねる、●宴会で男性に裸踊りを強要する、●特に用事もないのに執ようにメールを送る、●私生活に関する噂などを意図的に流すなど。いずれも、職場での地位とは無関係になされうることがわかると思います。

 レイシャル・ハラスメントについても同じことが当てはまります。こちらの記事で、米国の司法ではレイシャル・ハラスメントを認定する上で「敵対的環境」の有無が焦点になりやすいと書きましたが、それは、レイシャル・ハラスメントの多くが「環境型ハラスメント」として起こるためです。そして、環境型ハラスメントである以上、地位に格差がなくともハラスメントは生じます。同じ学生同士であっても、あるいは学生から教員に対してであっても、レイシャル・ハラスメントは成立します。

 最近の事例だと、以下の様なものがありました。

  • 某大学の授業で、在日コリアン教員がシラバスに即して朝鮮学校のことを扱ったところ、後日、学生に嘆願書への署名を強要させたという虚偽の情報がインターネット上に出回った。それを右派議員がキャッチし、文部科学省に照会、さらに文科省がその大学にヒアリングし、当該大学は「学生に誤解を与えた」とする声明をウェブページに出した。某新聞がそれを記事化し、さらに騒ぎは拡大した。

  • 某大学の授業で日本軍「慰安婦」問題に関するドキュメンタリーを上映した在日コリアンの教員について、受講生が「内容が一方的」と某新聞に投書し、それを同紙が記事化した。インターネット上でバッシングが盛り上がり、大学に数百件の電話が寄せられた。
 これらは学内で完結せずに、学生・大学当局、文科省、政治家、マスメディアという多様なプレイヤーが関わって被害が拡大した事例です。

 筆者自身も学生からレイシャル・ハラスメントを受けたことがあります。嫌韓的な右翼思想に染まった学生がゼミに配属されてきたときのことです。学力不振により第5志望での配属でした。望まないゼミに配属された学生もかわいそうではありますが、その学生はわたしが「反日」「左翼」の思想を押し付けるものだと勘違いをし、ゼミに出席すらせず保護者を巻き込んで差別的な文書を各方面に送付したりしたのでした。

 その時に私がどのような感情を体験したか、すでにツイッターに投稿したことがありますので、まとめを紹介します。

「教え子からヘイトスピーチをくらったとき、教員がどういう気分になるか」 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/670039 @togetter_jpさんから

 学生からハラスメントを受けると、教育者として教え導く役割と、差別の被害を受けたマイノリティとしての役割とに引き裂かれることになるため、同僚からハラスメントを受ける場合以上にしんどい体験となりえます。

 立場の弱い学生が教員からハラスメントを受ける場合も深刻な被害を生じますが、また別の意味で、教員が学生からハラスメントを受けた場合も被害は軽微では済まないということです。

 おそらく、セクシュアル・ハラスメントを防止するための規程のない大学は日本には残っていないはずである。1999年に文部省(当時)から出された通知などを踏まえて、各大学とも規程を整備したためである。

 それからおよそ15年、ハラスメント概念はつねに深化を続けてきた(例えば弁護士ヘルプ「ハラスメントの種類26」)。もはやセクシュアル・ハラスメントを禁じるだけでは時代に合わないということで、自主的に規程を拡張している大学も少なくはない。しかし、ことレイシャル・ハラスメントについては明確に禁止を謳っている大学はまだまだ多くはないようである。その間、グローバル化の掛け声の中で留学生は倍増し、外国籍教員も増加していることを考えると、対応はいちじるしく立ち遅れているといわざるをえない。

 現実の被害はすでに少なからず生じている。関西の大学教員を中心に、大学でのレイシャル・ハラスメントの被害について情報収集をしているが、以下にその一部を紹介しよう。

  • A大学の教員aは、授業中、授業テーマと関係もないのに「韓国」「中国」の悪口を語気荒く連発。在日コリアンの学生がその教員aの研究室に訪れたところ、引き留められ相談内容と全く関係もない韓国についての議論をふっかけられる。当該学生はおびえ、持病を再発。

  • B大学の中国人・韓国人留学生が受講している授業で、担当教員bは毎回、シラバスを逸脱して中国や韓国の悪口を延々としゃべる。ある韓国人留学生に教科書を朗読させた際に、「君はどこから来たの?」と質問。留学生が「韓国です」と答えると、約100人の学生がいる場で公然と「韓国は大統領が反日だから、日本を留学先になんか選ばないんじゃないの」と言った。韓国人留学生は精神的苦痛で一時、不登校となった。

  • C大学の授業の場で、教員cが在日コリアンの学生を指名して、在日についての意見を求めた。翌週の授業で、その日のコメントペーパーがいくつか読み上げられたが、そのなかに「日本にずっと住みながら、文句を言う権利はない、帰れ」との内容があり、しかも担当教員cはそれついて一切コメントもなかった。その問題について授業後に教員cに指摘したが開き直った調子であったため、在日コリアン学生はショックを受け、その後、動機や頭痛でキャンパスを歩けなくなったりもした。

 いずれのケースでも、被害を申し立てている学生は、深刻な精神的、肉体的な苦痛、学習意欲の低下などを体験している。しかし、ハラスメント相談室に訴えても「教授には高度な裁量があるので授業内容には立ち入れない」と門前払いを受けたり、規程の不備を理由にハラスメント事案としての扱いを拒否されたりといったケースが目立つようだ。

 政府は2008年度に「留学生30万人計画」を掲げ、積極的な留学生獲得施策を展開しているが、こうした状況を放置したまま数字だけを弄んでも、教育の質を向上させることは困難であろう。

レイシャル・ハラスメントとは

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 レイシャル・ハラスメントという言葉がある。米国ではセクシュアル・ハラスメントと並んで、就業環境を害する言動としてしばしば損害賠償命令が出されている。具体的には、深刻な人種的差別が発生してもそれが放置された場合、あるいは人種差別的な状況が長期的かつ職場環境全体に蔓延している場合に、不法性が問われている。

 米国の裁判所が被害を認定しやすいのは後者のケース、つまり環境型ハラスメントだ。例えば、特定の人種や民族をからかうジョークが日常的に話されているとか、ある国出身の労働者がいるときその国を誹謗するようなポスターがずっと掲示されているようなケースは、「敵対的環境」を放置したとしてレイシャル・ハラスメントだと認定されやすい。職場のいじめに人種的な侮蔑を用いてしまえば、それも環境型のレイシャル・ハラスメントだ。

 ヘイトスピーチの横行する昨今の状況を見ていると、遠からず日本でもこうした事例が法に問われるようなケースがあらわれるだろう。その際、人種差別撤廃条約の規定により、損害賠償額が加算されることも考えられる。企業の組織防衛のためには、セクシュアル・ハラスメントよりも危険な存在だといえる。

 経営者諸氏およびガバナンス・コンプライアンス担当者は、諸外国の事例を参考に早期に対処を進めておくべきだろう。

 高校無償化・就学支援金制度から、朝鮮学校だけが排除されてきたことは周知の通りです(朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A を参照)。文科省は「慎重に審査している」という名目で3年間に渡って朝鮮学校からの申請を放置してきたわけです。

 これに対して、朝鮮学校側は日本政府の差別対応が解消することを辛抱強く待っていたわけですが、安倍首相が不支給を決定したことで事態は大きく展開しています。

 ひとつには、朝鮮学校側から法的な訴えがなされています。今月24日、大阪朝鮮学園は日本国に対し制度の適用を義務付けるよう求める訴訟を大阪地裁に起こしました。同日、愛知朝鮮中高級学校の生徒、卒業生らも、損害賠償の支払いなどを求め名古屋地裁に提訴しました(次のリンク参照)。


 もう一つは、従来の高校無償化法では、朝鮮学校だけを除外することにどうしても違法性の疑いが拭い去れないため、文科省は省令改正のための意見公募を始めました(次のリンク参照)。


 これに応じて、いくつかのブログがパブリックコメントの内容を紹介しています。


 これらに倣って、遅ればせながら当ブログでもパブリックコメントの内容を公開したいと思います。パブリックコメントは本日締切です。

 就学支援金に関しては、長期間に渡って朝鮮高級学校からの申請を放置し続けてきたこと自体、行政手続き上の問題が小さくない(問題Aとする)。加えて、朝鮮学校のみを外形的基準以外の要素で特別に放置し続けてきたことについては、日本国憲法第26条1項、同第14条、国際人権規約A規約第13条、人種差別撤廃条約、子どもの権利条約28条、29条1項、30条等などに抵触する可能性の高い人権侵害であることが指摘されている(問題Bとする)。

 問題Aについて、文科省は政権交代前の時点では、(1)審査は年度ごとに実施している、(2)報道された内容を慎重に審査している、というロジックで不法性を逃れようとしていたようだが、実際には北朝鮮への外交的な措置として停止されてきたことは周知の事実であり、欺瞞は明らかである。

 問題Bについては、文科省は上記2点の理由により、「基本的に運用の問題であり、時間がかかっているだけである」と説明していたそうだが、下村博文文科相は在日本朝鮮人総連合会と密接な関係にあることや北朝鮮による拉致問題の進展がないことを適用しない理由として挙げており、文科省の説明はすでに破たんしている。

 したがって、残っている問題は、(a)在日本朝鮮人総連合会と密接な関係にあることや北朝鮮による拉致問題の進展がないことを理由に、朝鮮高級学校からの申請を放置し続けてきたことが妥当かどうか、(b)これらの理由で、朝鮮高級学校のみを就学支援金の対象から除外することが妥当かどうか、(c)aおよびbに十分な説明がないまま、省令を改正して事後的に朝鮮高級学校を排除することが妥当かどうか、(d)朝鮮学校を(名目上、合法的に)排除するために、ホライゾンジャパンインターナショナルスクールとコリア国際学園まで巻き添えにすることが妥当かどうか、の4点である。

 aおよびbは外交と教育になんら関係がない以上、妥当性に欠けることは自明である。朝鮮高級学校に通う生徒たちが北朝鮮による日本人拉致事件に関与したという事実がない以上、そのことによって生徒たちが不利益を被るのは理不尽である。

 したがって、cについても、今後もし十分に説得的な理由が開示されないまま省令が改正されれば妥当性はないということになる。

 dは、(朝鮮学校を排除するために各種学校全体を排除してきた)伝統的な文科行政に近いともいえるが、すでに朝鮮学校を狙い撃ちにした手続きであることを下村博文文科相が明言している以上、「国民の理解」が得られるとは到底思われない。

 以上の理由から、朝鮮高級学校を就学支援金制度から事実上排除するための省令の改正案は不適切であり、適法に朝鮮高級学校の申請を受理し、就学支援金を速やかに支給することが妥当だと考えます。

 前回の記事では、移民の中には、自ら「モデルマイノリティ」と呼ばれたがる人たちがいることを取り上げました。

 その理由として、「マジョリティの価値観を習得すればマジョリティに仲間入りできる」と考えてしまう場合のことを紹介しましたが、それですべて説明できたわけではありません。

 というのも、自らある種の「モデルマイノリティ」になろうとする生き方を選択するマイノリティは、移民一世だけではありません。四世、五世が生まれつつある在日コリアンの中でもよく見かけますし、むしろマイノリティ一般に広くみられる行動様式だからです。

(3)「意識の高いマイノリティ問題」(業績主義と公正世界への信念)

 人を評価するとき、年齢、性、人種・民族、家柄等の個人の能力や努力によって変えられない生得的要素を重視する立場を「属性主義」といいます。逆に、個人の努力と能力、およびその結果である業績といった獲得的要素を重視する立場を「業績主義」といいます。

 マイノリティとは、属性主義によってライフチャンスを相対的に剥奪されている人々のことだ、という考え方があります。つまり、人と同じ業績を達成したとしても、その属性によって評価を制限され、相対的に低い地位にしかつけない人々を指してマイノリティというのだ、というわけです。

 じじつ、マイノリティの中には、本人にはどうしようもない属性よる不利に直面し、それを克服するために、一倍の努力で社会的地位を達成しようとする人が少なくありません。属性主義による不利益を業績主義によってカバーしようとする生存戦略ですね。

 マイノリティが持ち前の能力をいかしながら、人一倍の努力で逆境を克服して行く姿は、それ自体が感銘を呼び起こすものであるため、数多くの物語を生み出してきました。王貞治やジダンを例に出すまでもなく、努力と能力で不利益を克服したマイノリティを皆さんも何人か知っていることだと思います。マイノリティが業績主義への強い志向性をもつことは、ある意味で《美しい》と評価されうる現象だともいえます。

 ただし、問題があるのは、その業績主義という理想を信奉しすぎて、属性主義に基づく差別を「ない」ことにしてしまうような場合があることです。あるいは、差別があることは認めつつも、個人の努力によってつねに克服可能なものであるとみなすことで、差別の責任を被差別者の側に負わせる場合があることです。

 例えば、ジョージ・ブッシュ大統領のもとで国務長官などを務めたコンドリーザ・ライスは、「実力さえあれば特別な優遇措置は必要ない」というスタンスで積極的な差別撤廃策に反対しています。また、ニューズウィーク誌のインタビューに答えて次のように語ったこともあります。

「人の2倍努力しなければならないなんて、ヒドイとか間違っているとかいう人もいるけど、それは違う。単に、人の2倍努力しなければならないだけ。」

 じつにマッチョですね。小さなころから天才少女ともてはやされるだけの素養を生かして政権中枢にまで上り詰めた実績に裏付けられているだけに、相当に堅固な信念のようです。

 フィフィさんのツイートの中にも、同種のマッチョな要素がみられます。自分は努力によって苦労をはねのけて今の地位を築いた。通名を名乗って出自を隠している在日コリアンあたりは甘えるな、というご主張です。

「私は12年間日本の教育制度で学んだから留学生としてでは無く、日本の学生と同額を払って大学に通った。それでも容姿が外国人だから就活では外国人受け付けてませんと門前払いも何度か。それでも実力の無さと受け取って留学して再度就職に挑んだ。都合よく外国人と日本人使い分ける連中とは苦労が違う」

「恩恵を受けているなら、文句を言うな。文句を言いながらおねだりすれば、それは"たかり"と言われても当然。プライドがあるなら自らを偽るな。」

 埼玉大学の福岡安則さんは、このような生き方を「個人志向」タイプと名付けて次のように特徴を整理しています。(福岡安則『在日韓国・朝鮮人』[中公新書:96-97頁])

 このタイプの中心課題は、個人主義的な意味合いで「自己の確立」を達成することであり、「個人的成功」の追求のかたちをとることが多い具体的には、社会的「移動」によって、差別的評価から自由になることをめざす。...(中略)
 彼ら/彼女らの典型的な生活史をみるとき、特徴的なのは、自己自身の能力に一定の自信をもって育ってきたということである。それゆえ、日本社会に在日韓国・朝鮮人として生きることでの違和感や葛藤を体験しても、それが自我にとってのトラウマになることからは免れている。

 ようするに、自分の才覚に自信のあるマイノリティは、「努力すれば報われる」と信じることで、民族的な劣等感を免れる場合があるということですね。才能があると自覚しているマイノリティにとって、魅力的な生き方の一つではあるでしょう。《才能のない人々》を切り捨てているという自覚をもたないかぎりは。

 「努力すれば報われる」に代表される、世界は正しく動いているはずだという考え方を「公正世界信念」といいます。公正世界信念は、「差別は差別される側に(も)責任がある」のような「犠牲者非難」を生じやすいことが知られています(詳細は下記の記事を参照)。


 民族的な劣等感を免れたいがために、「努力すれば報われる」という公正な世界を信じ込み、その信念を脅かす無実の犠牲者を「ないもの」とみなしたり、「差別される側に責任がある」と考えてしまったりする。それは、じつに悲しい不正義だといえないでしょうか。

 ぼくとしては、移民や民族的マイノリティが、そもそも民族的劣等感などもたずに、ただまっとうに生きていける社会が到来することを願うばかりです。

 第1回の記事では、保守的な移民一世がその社会にすでに定着しているマイノリティに対して排外主義的な暴言を投げかける現象を紹介しました。

 しかし、保守的な人物であっても、かならずしも排外主義的な暴言を発するとはかぎりません。各種の社会調査によると、政治的に保守的であることと、異文化集団に排外主義的な態度を持つことの間には、小さくない相関関係はあります。しかし、両者をイコールで結べるほど高い関連ではないのです。

 わかりやすい例を出すと、排外主義的な保守系政治家はめずらしくありませんが、逆に、外国籍住民への差別解消に尽力している保守系の政治家も少なくはありませんね。保守と排外主義は、基本的に別の次元の問題なのです。欧州では、反排外主義こそが保守本流とみなされることも少なくありません。

 だとすれば、「保守主義的な移民一世が社会に情報を発信する資源を手にしたとき」に「すでに定着しているマイノリティに対して排外主義的な暴言を投げかける」という命題は、前半と後半をつなぐ論理に欠落があることになります。

 ということで、今回は、なぜ保守的な移民一世が排外主義的になる傾向があるのかについて、欠落した論理をつなぐ仮説(の一部)を紹介していきます。

(2)「《モデルマイノリティ》問題」(「《名誉〇〇人》問題」)

 米国に「モデルマイノリティ」という言葉があります。マイノリティというと、社会的地位が低く犯罪率も高いというイメージがありますが、「中には努力して社会的に成功している賞賛すべきマイノリティだっているじゃないか」と、日系などのアジア系移民を賞賛して名づけられた言葉です。

 単純に理解すれば、アジア系としては褒められて悪い気がしないと思われるかもしれません。しかし、「モデルマイノリティ」という言葉は、本質的に、「理想的でない厄介者のマイノリティ」の存在を前提としています。

 つまり、「マイノリティとして不利な地位にあっても、ちゃんと頑張って社会的に成功している民族集団もいるじゃないか。それに対して、黒人、先住民、メキシコ系は...」という差別的な主張を正当化するために、「モデルマイノリティ」という言葉は使われることが多いのです。

 差別を都合よく正当化するために利用されるわけですから、「モデルマイノリティ」などと呼ばれてうれしいはずがありません。また、アジア系が一定の社会的地位を達成しなければ、「モデルマイノリティのくせに努力しなかった」と非難されるネジレ現象すら起こったりしますので、当事者としてはけっしてありがたい呼称ではないのです。

 にもかかわらず、移民の中には、自ら「モデルマイノリティ」と呼ばれたがる人たちもいます。(a)自らの努力と能力によって一定の社会的地位を達成したと思っている移民一世、(b)マジョリティの価値観を習得すればマジョリティに仲間入りできると考えている保守的なマイノリティ、にその傾向が強いようです。

 このうち、(a)については次回以降で取り上げることにします。ここでは、(b)の代表事例だと思われるフィフィさんのツイートを紹介しましょう。

「お世話になってるなら、せめてその家のルールにそって仲良く暮らしましょうよ。ってこと。文句が多いと追い出されちゃうよ。で、それはあくまであなたのお家で私が居候したさいも同じように扱ってくれますか?って前提。郷に入りては郷に従い」(2012年11月15日)

「私なりに外国人が日本とどう接することで上手く共生出来るか考察してツイしてるの。その度に誤解をされ批判も受けますが、一番不思議なのは、日本に嫌悪感を持つ外国人がその意見に理解を求めてくる事。日本を愛せない外国人を日本人も歓迎する訳ないじゃない。」(2012年3月16日)

 これらは、自ら「モデルマイノリティ」を志向する人々の代表的な言説であるように思われます。自分たちは「居候」であり、がんばって日本人に歓迎されるべく日本を愛さなければならない。マジョリティの価値観を忖度し、それに適合的に生きなければならないというロジックなのですから。

 いや、そういう考え方自体はべつに責められるべきものではありません。むしろ、ただでさえ摩擦の生じやすい異文化関係なのですから、お互いに譲れるべきところは譲りながら、誤解を避ける努力をするべきでしょう。それが誰も傷つけないかぎりにおいては。

 しかしながら、この二つのツイートは、いずれも、誤った情報に基づいて朝鮮学校に対して攻撃的なツイートをしているときに投じられたものであることに注意が必要です(前回の記事を参照)。間違った情報をもとに責められれば、誰しも反論したくなるもの。それを、「日本に嫌悪感を持つ外国人」などと決めつけていますね。

 みずから「モデルマイノリティ」を買って出ようとする者は、「モデルマイノリティ」という概念が内包している差別性をも内面化してしまいます。それが事実であればまだしも、偏見に満ちた架空の「ダメなマイノリティ」を創りだしてしまう場合すらあります。


 自分が「そのような外国人」とは違う「モデルマイノリティ」だと思われたいとき、かりに「そのような外国人」の物語がデマでしかなかったとしても、それを真に受けて批判するという現象が起こるわけです。

 以上が、「保守主義的な移民一世が社会に情報を発信する資源を手にしたとき」に「すでに定着しているマイノリティに対して排外主義的な暴言を投げかける」という命題を解き明かすロジックの一つです。

 ところで、みなさんは、自分がいい子になりたいために先住のマイノリティを攻撃する保守的な移民一世をけしからんと思いましたか。それとも、移民はいい子にならないと生きていけないと思い込ませてしまった社会がけしからんと思いますか。ぼくはどちらかというと後者ですね。

 本題に入る前に、素材となるフィフィさんのツイートを整理しておきましょう。というのも、フィフィさんは関連のツイートをほとんど削除してしまっていますので、簡単にはアクセスできない状況になっているためです。

 本稿では、favstar.fmに載ったツイート、すなわち、リツイートされたりお気に入りに入れられたりしたことによって、《たとえ削除されたとしても公共性が生じたツイート》を題材として扱っていきます。

 出発点となったのは、「田中眞紀子大臣、次は朝鮮学校無償化に意欲」というニュース記事でした。


 「ってことは、インターナショナルもインディアンスクールも中華系の学校も無償化されないと納得いかないんじゃ?てか、日本の私立学校は学費払ってるよね?」「ウチの子はインターナショナルスクールじゃないけど、日本で外国語学校に通ってたけど、毎月学費は納めてたよ?」という持論を述べたものです。

 しかし、これはフィフィさんの完全な勘違い。事実は、「条件を満たした他の外国人学校などはすべて就学支援金が支給されている一方で、朝鮮学校だけが『慎重に審査している』という名目で長期間にわたって除外され続けている」という状況です。それを、朝鮮学校だけが学費を払わなくてすむようになるのだと思い込んでいるわけですね。(「朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A」参照)

 これに対して、朝鮮学校関係者や良心的マジョリティから反論が加えられますが、フィフィさんはカンチガイを修正しないまま、すべて撫で斬りにします。いくつかをピックアップします。


 また、「朝鮮学校だけが日本政府から補助を受けてないのは日本の教育基本法6条・学校教育法1条に定める「法律に定める学校」には該当しないからなんです」という考えを述べてもいます。


 いわゆる「一条校」ではないから補助の対象になっていないのだというのですが、これもフィフィさんの事実誤認。実際は、各種学校の外国人学校なども「高校無償化」の対象となっており、したがってフィフィさんのお子さんも、通っておられる外国人学校を通じて就学支援金を受けているはずです。(「朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A」参照)

 ここで興味深いのは、どうしてこれほど明瞭なカンチガイを7か月ものあいだ修正することなく繰り返すことができるのかということです。これはおそらく、すでに事実認識の問題ではなく、信念の披瀝だと思われます。それがどのような種類の信念のか、次回以降の連載で考えていきたいと思います。

 本連載の観点では、次のツイートも興味深いです。「私が在日外国人の制度について問題提起するたび、いつも"在日"という表現で誤解されるけど、在日外国人って私も含めてるし、一部の外国人が対象ではないんだけどな。在日外国人として日本政府の外国人に対する制度に意見することがそんな特別なことか?」

http://favstar.fm/users/FIFI_Egypt/status/267596885106233345

 朝鮮学校だけを狙い撃ちにした差別政策が議論になっている以上、そこで「在日」といえば当然のごとく在日コリアンを指すことになるわけですが、フィフィさんには「朝鮮学校だけを狙い撃ちにした差別政策」だという理解がない様子です。居住国の歴史的文脈に対する配慮がないという意味で、きわめて保守的移民一世らしいツイートです。

 次に、人権擁護救済法案に言及したツイート。「人権擁護救済法案をメディアが取り上げて議論しない事に不自然さを感じる。」


 フィフィさんは常々、日本の国際報道、とりわけ中東に関する報道は量も少なく内容も偏向していると指摘しています。その指摘は客観的事実に基づいており、検証可能です。しかし、このツイートはそれとは異なる「陰謀論」ですね。ネオナチやネット右翼が得意とするアレです。

 フィフィさんといえば、ご自身がタレントとしてメディアの舞台裏を知っているうえ、国際報道のバイアスにも造詣が深いわけで、人一倍メディアリテラシーに優れた人物であると思われます。にもかかわらず、このように安易な「陰謀論」を口にしてしまうのはなぜか。それも今後、検証していきましょう。

 ネオナチといえば、昨日フィフィさんは次のようなツイートをしたそうです。速攻で削除したとのことですが、どうやら「ホロコーストは自作自演」だと思っておいでのようです。反ユダヤ感情は隠しようもないですね。

中東に限らず、世界的に見てそう捉える方も多いですね。RT @seiichi000: @FIFI_Egypt すみません、私は、ホロコーストはユダヤ人による自作自演の作り話だと思ってるんですが、エジプトや中東では、どうとらえられてるんですか?

 関連のツイートとしてこちらも。わかりにくいですが、反ユダヤ感情の発露です。


 次のツイートも重要です。移民や民族的マイノリティはどう生きるべきかに言及したものです。「お世話になってるなら、せめてその家のルールにそって仲良く暮らしましょうよ。ってこと。文句が多いと追い出されちゃうよ。」


 これは、世界中の自発的移民一世のあいだで頻繁に語られる内容だといっていいでしょう。ところが、フィフィさんはそれが二世以降にも同じ次元で通用すると思いこんでいる。このあたりの世代対立、新旧の移民対立は、移民社会を理解するうえでの代表的なテーマです。

 最後に、猛烈に被害者アピールをしたツイート群を。ようするに、在日コリアンが水面下でフィフィ暗殺をもくろんでいる、と示唆しているわけです。日本で生まれ育った身としてはほとんど妄想に近い「陰謀論」であるように感じられます。


 ただ、自分から攻撃的に先住の民族的マイノリティを非難しておいて、いざ反論を受けたら強烈に被害者アピールをするというのは、おそらく、移民という不利な立場にあって言いたいことを言うためにフィフィさんが身に付けた生存戦略の一つなのかもしれません。苦悩がしのばれます。
 日本で議論される「移民論」というと、受け入れ態勢の改善に触れないままの安易な受け入れ論であったり、一人でも受け入れると社会秩序が崩壊するといわんばかりの閉鎖論であったり、どうにもリアリティに欠ける極論が少なくありません。おそらく、《移民》に対する具体的なイメージが乏しく、渡日後にどのようなことが発生するかについての理解を伴っていないことが理由の一つなのでしょう。

 そこで、実際に日本で暮らしている移民のリアルな語りから、移民社会の現実(の一端)を学んでみたいというのが今回からの記事の目的です。題材としては、いまネットで話題(次の3本のニュース参照)の移民タレント、フィフィさんのツイートをお借りしたいと思います。


(1)「移民一世vs.先住マイノリティ問題」

 上に紹介した記事を読んで、「エジプト関係であれだけ知的でバランスのとれた言論を展開していたフィフィが、なぜネット右翼同然の排外主義的な暴言を振りまいているのか」と不思議に思われた方もいらっしゃるかもしれません。

 しかし、移民がその社会にすでに定着しているマイノリティに対して排外主義的な暴言を投げかけるケースは、世界の移民社会の中でかなり広範に観察されています。新旧の移民が連続しているとき、普遍的に起こる現象といえるかもしれません。

 例えば、カナダにやってきたアジア系移民が、「欧州語だけがなぜ特権のように重視されるのか。多文化主義なんかで飯は食えない。まず、機会の平等の確保と人種差別の撤廃だ」といって先住の民族的マイノリティを攻撃する事例。アメリカで小売店を経営する移民一世が「黒人は怠けて働かないくせに政府に文句ばかりいって、国庫にたかっている」などといって黒人を差別する事例。日本に東欧から来た女性が、「日本人女性は甘えている。日本は世界で最も平等な国なのに」とフェミニストを非難する事例。

 この種の現象は、(a)人権状況が相対的に劣悪な国からやってきた移民一世が、出身国を準拠集団としながら、居住国のマイノリティを批判しようとするとき、(b)移民一世の学歴が低く、居住国の歴史と文化を理解する資質を備えていないとき、(c)保守主義的な移民一世が社会に情報を発信する資源を手にしたとき、に生じる傾向があるようです。

 ただし、多くの移民現象は(a)と(b)の2特性を伴いますので、実質的には(c)が重要です。「保守主義的な移民一世が社会に情報を発信する資源を手にしたとき」――フィフィさんのケースは、まさにこれに当たるといえるのではないでしょうか。

 フィフィさんは、持ち前のバイタリティと努力で女性タレントとしてマスメディアで発言するチャンネルを手に入れ、しかもエジプト問題では知的タレントという側面を開花させました。政治的発言を行うための資源は十分にそろっています。

 そして現在、フィフィさんは排外主義言説でネット右翼のアイドル的な役割を担うことに成功しています。タレントとしては言論も売り物である以上、買ってくれる人たちに届くように商品化することになりますので、フィフィさんのマイノリティに対する暴言は今後もエスカレートすることはあっても、やむことはないでしょう。

 そこで問われてくるのは、マジョリティの姿勢です。

 例えば、カナダでは、「多文化主義なんかより人種差別撤廃を」というアジア系の主張に対して、民族的マイノリティはもとより、マジョリティであるイギリス系からも強い批判が浴びせられました。

 いわく、ケベック問題などがあったからこそカナダは多文化主義政策を採りいれたわけであり、新たな移民も言語政策などでその恩恵に浴している。なのに、歴史へのコストも支払っていない移民が多文化主義を非難するのは制度へのタダ乗りのようなものだ、というわけです。

 もっとも、一部のイギリス系の右翼からは、アジア系の主張を利用する形で、「民族的マイノリティを重視するのは逆差別だ」という言説が出てきたりもしました。ちょうど、フィフィさんの発言を利用して、ネット右翼がコリアン差別を正当化しようとする構図に似ています。

 しかし、カナダ全体としては、多文化主義の方針を一貫して堅持しています。堂々たるものといっていいでしょう。

 一方の日本。今後、フィフィさんのように発言力を持つ保守的移民が増えてきたとき、その口から飛び出す排外主義的言説に、みなさんは、どう対処しますか。それをきちんと批判しますか。それとも、便乗して排外主義の流れに乗りますか。

(次回からは、フィフィさんの個々のツイートの内容をもう少し具体的に取り上げながら、移民社会に関する現実を学んでいきます。)

 集団内の誰かをこき下ろすことで、集団内に一体感が高まることがあります。「黒い羊効果」や「他者化」と呼ばれる現象です。

 こき下ろされる「誰か」がランダムに決まるのであれば問題はすくないといえますが、実際には、決まった属性や特性をもつ人が恒常的に排除される立場に選ばれることが多いものです。いわゆる、社会的弱者やマイノリティとされる人々ですね。社会学では、それを「他者」と呼びます。「他者」とは、「われわれとは異なる存在」であることを示す排除の記号です。

 ユダヤ人、黒人、女性、難民、異端者、共産主義者、障がい者、同性愛者、等々、さまざまな属性や特性が恣意的に「黒い羊」に選ばれ、「他者」として排除されてきました。その人たちを差別したいから(だけ)ではなく、むしろ《その人たちとは違う私たち》の一体感を高めるために。

 この原理を政治手法に昇華させたものがいわゆるファシズムです。ファシズムは、「他者」を意識的に排除することによるカタルシスで熱狂的に社会統合を高める特徴を持っています。

 ただし、ナチス・ドイツによるユダヤ人等への虐殺を代表として、ファシズムは凄惨な人権侵害を必然的に発生させるということで、大戦後の社会がその抑制に尽力してきたことは周知の通りです。例えば、「他者」に対する憎悪の煽動を法で禁じている国は少なくありませんし、個人に対してオールマイティの権力を行使しうる立場の公人がぜったいに選択してはならない禁じ手だというのが国際社会の通念です。

 しかし、日本には、公人の中にもこの原則の重要性を理解していない愚か者がいますね。片山さつき氏は間違いなくそのお一人だといえるでしょう。以下は、昨日、片山氏がツイッターに投稿したツイート。

従軍慰安婦への見舞金は、必要ありません!海外で韓国が日本人学校の教育内容(当然竹島を日本領土としている)を提訴したとの報道ありますが、徹底抗議抗戦すべきです。訪米した閣僚は何してるの?反日、チェジュ思想を教える朝鮮学校の無償化検討などするから、舐められる!怒りと反対の輪広げよう! (@katayama_s 2011/09/25 12:40:15)
https://twitter.com/katayama_s/status/117805586627833856

 ここに登場する「チェジュ思想」とは、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の思想体系である「チュチェ思想」(主体思想)の誤りであることは明白です。カタカナにすれば似ているようですが、単なるタイプミスではありません。日本において「チェジュ」といえば韓国の名勝地である済州島以外を指すことはありえず、わずかなりともこの分野の知識があれば、まず、両者を間違うことはないからです。

 言い換えると、片山氏は、隣国の思想体系についてわずかな知識すら持ち合わせていなかったにもかかわらず、上に引用した攻撃的なツイートを書いたということになります。誹謗中傷というほかありません。まあ、片山氏にとっては、「チュチェ思想」だろうが「チェジュ思想」だろうが、どうでもいいのでしょう。《わけのわからない「反日」のマインドコントロール源》だという偏見を流布したかっただけなのでしょうから。

 しかし、そのために、朝鮮学校を無償化の対象とすべきでないと主張しているのは、悪質な政治手法です。愚劣な政治家による見下げ果てた煽動ですね。公人によるヘイトスピーチは、刑法によって禁じられている国が少なくはないということをあらためて指摘しておきたいと思います。

 片山氏のヘイトスピーチを受けて、在日コリアンがどう反応したかというと、まずはこちらのまとめをご覧ください。軽妙にユーモアで受け流していることが理解されるでしょう。

「チェジュ思想とは何か」http://togetter.com/li/192465

 憎悪の煽動は、「他者」の人権を犯にさらす罪であるというだけでなく、社会統合に深刻な打撃を与えることで国家秩序を掻き乱す罪でもあります。はたして、この日本社会の利益、この日本の民主主義を真摯に考えているのは、片山さつき氏なのか、それとも在日コリアンなのか。ぼくには、少なくとも前者ではないという確信がありますね。

1. リスク社会における「他者」

 東日本大震災は、日本に暮らすあらゆる人々に、様々な課題を突きつけたことだろう。複数の国家の狭間に生きる在日コリアンとしては、惨事に昂揚したナショナリズムの中で、「自分はどこに所属し、誰を守るべきか」という、実存的な問題に改めて直面することになった人も多いのではないだろうか。だが、アイデンティティの問題はひとまず措いて、ここでは、「リスク」をキーワードに、在日コリアン(およびそれを取り巻く日本社会)が直面している新しい課題について考えてみたい。

 「リスク」といえば、1986年のチェルノブイリ事故以降、現代社会を解読するキーワードとして、世界でもっとも注目を集めてきた言葉の一つである。

 例えば、社会学分野におけるリスク社会論の第一人者ウルリッヒ・ベックは、現代の産業社会は「階級社会」ではなく「リスク社会」であると主張している。階級社会において分配問題の争点を作り出していたのは「平等という理想」であった。それに対して、リスク社会では「安全性」こそが社会の基礎となり、社会を動かしている。言い換えると、「不平等」をめぐって連帯と闘争が繰り広げられた階級社会とは異なり、原発事故に代表される現代の新しいリスクの前では、「不安」をめぐって連帯とコミュニケーションが行われるというのである。

 なるほど、宮城県の東北朝鮮初中級学校では、総連系の有志によって運ばれてきた在日コリアンからの救援物資を避難中の日本人被災者と分けあい、さらに近隣の日本学校で焼き肉の炊き出しも何度か行われた。貧富の差や、国籍と民族の垣根を超えて、ともに被災の苦境と「不安」とを乗り越えようという実践だといえよう。

 だが、この「不安による連帯」は、必ずしも在日コリアンにとって幸運に作用するとはかぎらない。というのは、ひとは危険に曝されても、合理的なリスク意識を形成するとはかぎらず、むしろ不安にかられて非合理的な推論に逃げようとすることがあるからだ。ベックの表現を借りると、「危険が理解しがたいもので、その脅威の中で頼るものもないため、危険が増大すると、過激で狂信的な反応や政治思潮が広がる。こうした反応や政治動向によって、世間のなんでもない普通の人々を『避雷針』にして、直接に処理することが不可能な眼に見えない危険を処理することが行われてしまう。」

 ただし、「普通の人々」は、危険の存在を暴き立てるような行動(例えば原子力発電反対デモに参加するとか)をとることで一時的に「避雷針」として敵意の対象となるだけだが、行動とは無関係に属性によって恒常的に「避雷針」の役割を押し付けられる人々がいる。すなわち、「他者」である。「他者」とは、「われわれとは異なる存在」であることを示す排除の記号である。

 「他者」は、現代の新たなリスクを等しく共有しているにもかかわらず、しばしば「不安」による連帯に加わることを許されず、それどころか、リスクを生み出す害悪として「不安」の対象に貶められる。

 ベックはスケープゴートになりやすい「他者」の例として「ユダヤ人、黒人、女性、難民、異端者、共産主義者など」を挙げるが、日本では、「朝鮮人」が筆頭に加わることになろう。今回の震災後も、「阪神淡路大震災のとき、地震で、朝鮮人によるレイプ多発の事実と、放火説があります」「仙台市○○中学校が中国人・韓国人が7割の留学生らの心無い行動で避難所機能停止」といった差別デマを執拗に振りまく者がいた。

 だが、「他者」をリスクそのものとみなす非合理的な観念は、残念なことに、こうした一部の狂信的な政治思潮の保持者だけに流布しているものではない。朝鮮学校「無償化」除外問題をめぐって改めて明らかになったことは、日本政府こそが、在日朝鮮人を再生産するための教育機関を「リスク」としかみなしていないという事実であった。

 こういうと、「日本政府が在日コリアンを治安の対象としてきたのは植民地時代から一貫した政策ではないか」という反論があるかもしれない。なるほど、在日コリアンは過去一世紀以上にわたって、つねに日本における「他者」として苦悩と困窮と暴力を与えられてきた。

 しかし、いまや在日コリアンは、単なる「他者」ではない。もはや、「平等」をキーワードとした訴えだけでは説得力を持たない、「リスク社会における『他者』」なのである。スケープゴート化から自己防衛するためには、伝統的な「他者」への暴力に曝されているというだけでなく、リスクへの不安のヨリシロとして新しい暴力に曝されているという自己認識を確立すべきであろう。

2. 「他者」にとってのリスク・コミュニケーション

 ところで、震災後、日本国内では大いにナショナリズムが昂揚したにもかかわらず、内閣は不思議と支持率を落としたように見える。毒舌の専門家らがそろって適切だと評価した政府の決定にすら、マスメディアが激しく攻撃していたところをみると、おそらく、政府の行動の是非が問われただけでなく、震災や原発事故のリスクについて適切な情報を提供できなかったことで、市民に不安と不満を高じさせたことが原因の一つかと思われる。

 このエピソードからは、リスクの大きさを正確に評価して意思決定することも重要だが、それだけでなく、リスクの受け手に積極的に情報提供をすることで、必要以上に不安を抱く必要はないという合意を形成することも重要だということを学ぶことができる。こうした合意形成のことを、リスク・コミュニケーションという。

 リスク・コミュニケーションといえば、一般には、行政や専門家や企業が何らかの決定をする場合、その決定によって影響をこうむると思われる関係者に、リスクの性質や内容について情報を提供したりすることによって、合意形成を目指すことを意味する。いわば、優位な立場にある者が人々を怖がらせないようにする工夫、ということだ。

 しかし、「他者」の場合、話はまったく異なってくる。「他者」は、優位な立場にあるどころか、差別され、排除され、苦悩と困窮と暴力の対象となる人々だ。しかも、このリスク社会においては、多数派が「わたしはあの人たちとは違って安心だ」という感情を共有するために「他者」を排除するという現象まで発生する。リスク社会における「他者」とは、安心を脅かすリスクそのものだという役割を一方的かつ理不尽に与えられる存在だといえる。

 「ゼノフォビア」という心理現象がある。端的に「外国人嫌悪」と訳されるが、異文化集団を怖がったり、嫌悪したりする傾向のことだ。差別感情の一種ではあるが、よそ者を警戒するのは当たり前だと、正当化されがちなことが特徴の一つである。

 ゼノフォビアは根拠の不明な不安感情であるため、合理的な理由などなくとも成立する。例えば、日本国民を対象としたある調査によると、「日本で発生している犯罪の何割が定住外国人によるものだと思うか」という質問に対して、回答の中央値は20%であったという。ところが、正解は約1%である。つまり、半数の回答者は、定住外国人の犯罪性を真実の値の20倍も高く誤認しているということになる。しかも、回答者の14%は、日本の犯罪の半数以上が外国人によるものだと信じていた。日本人は、外国人に対して非現実的なまでの犯罪性をイメージしているわけだ。「他者」は、こうやって、「危険な存在」という役割を付与されるのである。

 しかし、その役割付与がいかに理不尽であろうとも、現代の「リスク」への恐怖に対して、「平等」や「人権」といった近代の市民的規範によって抵抗することはもはやむずかしくなっている。となれば、「他者」は、自分自身を「リスク」とする屈辱的な役割をひとまず引き受けた上で、そのリスクは不安に思う必要がないほど低く、そもそもリスクという役割を付与することが間違っているのだと多数派を説得しなければならない。これが、「他者」にとってのリスク・コミュニケーションである。

3. 在日コリアンのリスク・コミュニケーション

 前述した外国人犯罪と同様、在日コリアンを危険視する言葉は、ほとんどがデマに近い。あるいは、少なくとも合理的な根拠に基づくものだとはいいがたい。とはいえ、ただやみくもにデマだと抗議しても、情動の次元で不安に凝り固まっている人々を安心させることはできないだろう。

 そこで、この節では、リスク・コミュニケーションを実践する場合のヒントとして、朝鮮学校を「リスク」視する主張に対して、具体的に反論を試みることにしよう。

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 「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない。」

 この種の主張に対して「反日教育などやっていない」と反論をしても、あまり効果は上がらない。なぜなら、この種のデマは事実に基づいて形成されるのでなく、情動的側面が強いため、反証する事実を示すだけでは修正されにくい。しかも、「反日教育」というあいまいで都合のよいマジックワードが、あらゆる反論を無効化してしまう。

 デマに関する研究によれば、ネガティブなイメージを否定しようとするのではなく、むしろポジティブなフレームワークを与えることが有効だとされている。私の経験から具体的にいうと、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論すれば、デマに対して有効な打撃を与えるようだ。

 朝鮮学校の存在がどのように日本の役に立っているかといえば、以下のようなことが挙げられよう。

(1)朝鮮語話者の大量供給

 隣国との経済的、政治的な交流が不可欠である以上、隣国の言語を駆使できる人材は常に必要とされる。そうした人材を国家が自前で育成しようとすれば膨大な経費を国家予算から支出しなければならない。その点、朝鮮学校は大量の朝鮮語話者を継続的に輩出しているため、単純にその分の国家予算を節約することに寄与していることになる。しかも、2000年からの韓流を支えたドラマや雑誌の翻訳は、その多くが朝鮮学校出身者の手によるもの。韓流による経済効果は、朝鮮学校が支えたといっても過言ではない。

(2)誕生権経済のリクルート源

 これは朝鮮学校というより在日コリアン全体にいえることだが、1980年代に入るまでは非常に厳しい就職差別があったため、学歴にかかわらず一般企業に勤めることは非常に困難であり、その結果、在日コリアンは自ら起業するケースが多かった。

 統計の取り方(「自営」の定義)にもよるが、在日コリアン男性の5割から6割が自営業主である。この比率は日本人男性の2倍以上。いかに自営業に追い込まれてきたかわかる。

 しかし、裏を返せば、自営業のノウハウと知識と人脈を持ち、ベンチャー起業のリスクを果敢にとりにいける人材を、朝鮮学校は大量供給しているともいえる。国家の庇護に頼らない自由で不羈の企業人を朝鮮学校は輩出してきたとも表現しうる。グローバリズムが浸透しつつある中で、在日コリアンは貴重な生存戦略のモデルを日本に提供してきたのである。

(3)「民主主義の学校」の教材

 A.トクヴィルやJ.ブライスの言葉を受けて、「地方自治は民主主義の学校である」と論じられることがある。そのココロは、「地域共同体という身近な環境で身近なテーマについて民主的に解決する訓練を積まないかぎり、国家という巨大な機構を民主的に運営することは難しい」ということだ。

 その点、朝鮮学校は共同体内にある非常に身近な異文化集団である。これを安易に排斥しようとせず、利害を調整しながら上手に付き合うスキルを習得することができれば、日本の民主主義はきっと成熟の度合いを深めることができる。

 これは単に理念的な話ではない。ひとつ具体例をあげよう。

 移民の増加に伴って外国人に対する偏見が強まるという現象が世界的に観測されている。日本でも、外国人の多い地域ほど、外国人に対する偏見が強いことが複数の調査により明らかになっている。ただし、ひとつだけ例外があって、韓国・朝鮮籍者が多い地域ほどニューカマーを含む民族的マイノリティへの排外主義が弱いという現象が見られるのである。

 在日コリアンは、差別や不平等を自力で克服することにより、長年にわたって健全な市民生活を営んできた。その共生実践そのものが、日本社会に多様性への耐性を提供してきたのだと解釈できよう。これも、リスク・コミュニケーションである。

(4)継承語教育の世界的な成功例

 朝鮮学校が、継承語教育の世界的な成功例であることはよく指摘されるところだ。それは、グローバル化が進行する日本において、ニューカマーの子どもたちの教育のモデルともなっている。

 朝鮮学校は、在日コリアンにとっての資産というだけでなく、様々な民族的マイノリティにとっての資産だといえる。さらには、民族的マイノリティの継承語教育の機会を拡大することにより、日本社会の多様性維持というマクロなメリットに大きく貢献しているのである。

(5)マイノリティの人的資本

 民族的マイノリティは何重にも蓄積的に排除される傾向にある。「身分証明書を持っていない人は、社会福祉事業から排除され、選挙権を得ることもできず、合法的に結婚することもできない」(ルーマン)という具合だ。その結果、低い階層に据え置かれたり、スラムを形成して劣悪な住環境に置かれたりすることが少なくない。貧困は犯罪の温床となり、それがまた差別を正当化する根拠として用いられる。

 ところが、在日コリアンの場合、解放直後から日本人と同等の教育を達成してきた。教育達成が出身階層に依存することを考えると、これは世界的にも異例の成功例である。言うまでもなく、在日コリアンが日本人以上に努力をしてきた成果だ。

 ただし、さすがに解放直後の貧困状況では、朝鮮学校がなければ、日本人と同等の教育を達成することはむずかしかったであろう。朝鮮学校があったおかげで、在日コリアンは社会的に転落せずにすみ、それが結果として、在日コリアンの犯罪率を押し下げ、日本社会の統合性維持というマクロなメリットに大きく貢献したのである。

4. リスクではなくメリット

 祖国志向の強い在日コリアンであれば、「朝鮮学校の存在が日本のためになる」という発想そのものを嫌悪するかもしれない。また、「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください」とでもいわんばかりのリスク・コミュニケーション戦略に、強い屈辱を感じる人も少なくはないだろう。

 しかし、そういう人に考えてもらいたいことが二つある。

 一つは、「移民はこの国の役に立つ」と信じている人ほど移民に悪感情を持たない(逆にいえば、「移民はこの国の厄介者だ」と信じている人ほど移民の排斥に賛成する)ということだ。この命題は、世界各国の調査で手堅く支持されている。

 たしかに、在日コリアンがこの国の厄介者だという信念は、まことに馬鹿げたものである。世界の民族状況を知れば、在日コリアンはむしろ「モデル・マイノリティ」と呼べる理想的な隣人であることがわかるはずだ。とはいえ、いかにナンセンスであろうとも、実際にそういう誤解と偏見が流布してしまっているなら、それを払しょくするために合理的な努力をせざるをえまい。

 もう一つは、朝連解散以降、在日コリアンは、実際に日本社会において「リスク」とみなされないように努力してきたという歴史だ。前述した通り、在日コリアンは、差別と不平等にあえぎながら、それを克服して日本人と相同の社会的地位を形成してきた。

 世界中の国家が民族的マイノリティにそれを望んで膨大な予算を支出しているというのに、在日コリアンは日本政府からそのための補助など受けることなく、独力で不利益を跳ね返してきたのだ。この地で立派に市民生活を営んできたということ自体、いくらでも誇ってよい民族集団の歴史なのである。

 問題は、在日コリアンがこの国で果たしてきた貢献について、日本政府はそれを正当に評価する視点を伝統的に持たないし、また、在日コリアンの側もそれを訴える運動戦略を採ってこなかったということだ。

 「人権」「平等」が分配の正義として通用した時代なら、「在外公民」として理不尽を訴えるだけで一定の改善は得られたであろう。だが、現代はリスク社会である。たとえ、根拠のない、偏見交じりの不安であろうとも、それを解消しないかぎり、理不尽な扱いも解消することはない。民族運動にもイノベーションが必要な時代である。そろそろ、在日コリアンはリスクなどではなくメリットであり続けたのだという事実を、自覚的に広く共有する戦略へと転換するべきであろう。

(注)本稿は、『人権と生活』32号(在日本朝鮮人人権協会発行)に寄稿した同題名のエッセイに若干の加筆、修正を行ったものである。

 東日本大震災は、日本に暮らすあらゆる人々に、様々な課題を突きつけたことだろう。国家の狭間に生きる在日コリアンとしては、惨事に昂揚したナショナリズムの中で、「自分はどこに所属し、誰を守るべきか」という、つねにすでにあった実存的な問題に改めて直面することになったという人も多いのではないだろうか。

 だが、アイデンティティの問題はひとまず措いて、ここでは、「リスク」をキーワードに、在日コリアン(およびそれを取り巻く日本社会)が直面している新しい課題について考えてみたい。

 「リスク」といえば、1986年のチェルノブイリ事故以降、現代社会を解読するキーワードとして、世界でもっとも注目を集めてきた言葉の一つである。

 例えば、社会学分野におけるリスク社会論の第一人者ウルリッヒ・ベックは、現代の産業社会は「階級社会」ではなく「リスク社会」であると主張している。階級社会において分配問題の争点を作り出していたのは「平等という理想」であった。それに対して、リスク社会では「安全性」こそが社会の基礎となり、社会を動かしている。言い換えると、「不平等」をめぐって連帯と闘争が繰り広げられた階級社会とは異なり、原発事故に代表される現代の新しいリスクの前では、「不安」をめぐって連帯とコミュニケーションが行われるというのである。

 なるほど、宮城県の東北朝鮮初中級学校では、総連系の有志によって運ばれてきた在日コリアンからの救援物資を避難中の日本人被災者と分けあい、さらに近隣の日本学校で焼き肉の炊き出しも何度か行われた。貧富の差や、国籍と民族の垣根を超えて、ともに被災の苦境と「不安」とを乗り越えようという実践だといえよう。

 だが、この「不安による連帯」は、必ずしも在日コリアンにとって幸運に作用するとはかぎらない。というのも、ひとは危険に曝されても、合理的なリスク意識を形成するとはかぎらず、むしろ不安にかられて非合理的な推論に逃げようとすることがある。ベックの表現を借りると、「危険が理解しがたいもので、その脅威の中で頼るものもないため、危険が増大すると、過激で狂信的な反応や政治思潮が広がる。こうした反応や政治動向によって、世間のなんでもない普通の人々を『避雷針』にして、直接に処理することが不可能な眼に見えない危険を処理することが行われてしまう」ということだ。そしてこの「避雷針」に選ばれるのは、いつだって例外なく、「他者」として構造的に疎外される人々である。

 「他者」は、現代の新たなリスクを等しく共有しているにもかかわらず、しばしば「不安」による連帯に加わることを許されず、それどころか、リスクを生み出す害悪として「不安」の対象として貶められる。

 ベックはスケープゴートになりやすい「他者」の例として「ユダヤ人、黒人、女性、難民、異端者、共産主義者など」を挙げるが、日本では、「朝鮮人」が筆頭に加わることになろう。今回の震災後も、「阪神淡路大震災のとき、地震で、朝鮮人によるレイプ多発の事実と、放火説があります」「仙台市◎◎中学校が中国人・韓国人が7割の留学生らの心無い行動で避難所機能停止」といった差別デマを執拗に振りまく者がいた。

 だが、「他者」をリスクそのものとみなす非合理的な観念は、残念なことに、こうした一部の狂信的な政治思潮の保持者だけに流布しているものではない。朝鮮学校「無償化」除外問題をめぐって改めて明らかになったことは、日本政府こそが、在日朝鮮人を再生産するための教育機関を「リスク」としかみなしていないという事実であった。

 こういうと、日本政府が在日コリアンを治安の対象としてきたのは植民地時代から一貫した政策ではないかという反論があるかもしれない。なるほど、在日コリアンは過去一世紀以上にわたって、つねに日本における「他者」として苦悩と困窮と暴力を与えられてきた。

 しかし、いまや在日コリアンは、単なる「他者」ではない。もはや、「平等」をキーワードとした訴えだけでは説得力を持たない、「リスク社会における『他者』」なのである。スケープゴート化から自己防衛するためには、伝統的な「他者」への暴力に曝されているというだけでなく、新しいリスクへの不安のヨリシロとして暴力に曝されているという自己認識を確立すべきであろう。

 橋下大阪府知事が精力的にツイッターに投稿を続けています。昨日3月9日、朝鮮学校に対する助成金支給についてツイートした内容が、各方面に反響を呼んでいます。ツイートの概要は、以下の通り。(見出し数字は引用者)

    1. 「日本人拉致問題、隣国である北朝鮮の現在の振る舞いを考えると、日本と北朝鮮の歴史的な経緯を踏まえてもなお大阪府民の多くは、朝鮮学校への補助金支出には納得できない。」
    2. 「今の大阪府の状況だと、このまま朝鮮学校に補助金を支出する方が学校にとっても不幸。だって大阪府民は腹の中では朝鮮学校に不満を持ち続けるから。」
    3. 「多くの住民が補助金支給に納得していなければ、不満を抱いていれば、日本と朝鮮学校の共生は成り立たない。」
    4. 「僕は学校と北朝鮮国家の関係性が遮断されることを目的とした大阪府のルールを作りました。」
    5. 「僕が作ったルールに従ってくれれば大阪府民の多くは補助金支給に納得してくれるはず。これで初めて共生となる。」

  いかがでしょう。府知事ご本人も指摘されている通り、少なくとも政府による違法性の高い「高校無償化」除外よりは、ある意味で、筋が通っているように思われます。もちろん「ある意味で」とは、市民社会における公平と平等といった正義よりも、住民感情を重視する政治姿勢を明確に提示した点において、ということです。

  まあ、わたし個人としても、朝鮮学校は国民教育を捨てて民族教育に特化することが経営的にも重要な生存戦略のはずだと思っていますが、しかし、それは朝鮮学校関係者が自己決定すべき問題であって、中等教育において絶大の権力を持つ府知事が、子どもを人質に踏み絵を踏ませるようなものであっていいはずがありません。

  そして、それ以外にも、府知事のツイートにはいくつか重大な問題が含まれていますので、以下に指摘していきたいと思います。 

  第一の問題は、「大阪府においては、現状のままで朝鮮学校に補助金を支給することには納得できないとういのが大多数の意見」と論断しておられるが、じつは、その根拠をお持ちでない(ようだ)ということ。

  根拠をお持ちでないようだというのは、府知事がツイートの中で、「メディアの皆さん」に世論調査の実施を請願していることからうかがえます。しかし、根拠のない印象論で、これほど重大な政治的意思決定をしたということは、はなはだ重大な問題だといえます。

  印象論でよいというなら、賛成意見と反対意見が伯仲しているのが実態だろうというのが、わたしの印象です。ただし、排外主義的な要素を持つ反対意見は、排外主義の持つ権威主義的な性格により、より強硬な主張として表出するため、目立ってみえてしまう可能性はありますね。

  第二の問題は、北朝鮮に対する悪感情は、植民地主義とレイシズムにルーツがあるという事実を無視していることです。

  心理学分野には「感情温度計」という指標があり、偏見研究の文脈でこれを各外国人に適用した業績が多数あります。さまざまな人種・民族・外国人に対して、日本人の好悪感情を測定し、それを比較しているのですね。

  それらの結果をみると、戦後すぐから一貫して、「朝鮮人」と「黒人」が最悪の感情の対象に位置付けられてきたことがわかります。

  つまり、戦後についていえば、「日本人拉致問題」以前から、それどころか、おそらくは1948年に朝鮮民主主義人民共和国という国家が成立する以前から、恒常的に朝鮮人に対する悪感情は存在していたということなのです。 

  この悪感情の由来については諸説ありますが、「日本の属国だったくせに戦勝国然として傲慢なふるまいをする」ということに対する反感と、朝鮮人に対する蔑視感情があったということを否定する論者はほとんどいません。つまり、植民地主義とレイシズムです。

  かりに、北朝鮮の現在の振る舞いに、現代の日本の価値意識に照らして許容しがたい側面があると判断したにせよ、植民地主義とレイシズムを源流とする悪感情をそのまま「住民意識」として重視する府知事の姿勢は認めがたいところです。

  第三の問題は、植民地主義とレイシズムを源流とする以上、たとえ朝鮮高校が大阪府のルールに従ったとしても、「大阪府民の多くは補助金支給に納得してくれる」という事態は予想しがたいということ。

  もちろん、現在でも補助金支給に賛成している府民の多くは納得するでしょう。一方、現在、補助金支給に反対している府民は、理性ではなく情動の側面で、朝鮮学校に悪感情を投射している可能性が高い以上、たとえ朝鮮高校が「大阪府のルール」を受け入れたところで、「腹の中では朝鮮学校に不満を持ち続ける」状況が継続するだけです。

  むしろ、しょせんは恣意的な「大阪府のルール」を受け入れたところで、また別の恣意的な基準で排外意識が正当化されるだけ、というのが合理的な予測ですよ。

  世論調査をやれというなら、それこそ、「大阪府のルール」を受け入れた朝鮮初中級学校と、完全には受け入れなかった朝鮮高級学校とを比較して、悪感情に差異があるかどうかを尋ねてみることですね。よけいな誘導をしなければ、統計的に有意な差異は検出されないと思いますけどね。

  第四の問題は、一方的に条件を押しつけて、飲まなければ補助金を停止するというのは、「ルール」というより脅迫だということ。しかも、脅迫によって達成しようとしていることは、民族教育への介入だということ。

  第五の問題は、 橋下府知事がいう「在日と日本人の共生」とは、マジョリティによるマイノリティに対する一方的な支配にすぎないということ。

  一般に、規模の異なる民族集団が接触すると、大きな民族集団が小さな民族集団を排除したり抹殺しようとしたりすることが少なくありません。そのプロセスでは、当然のことながら、凄惨な人権侵害が発生することも避けられません。

  したがって、そのような凄惨な競合状態が発生する前に、権力を委託されている行政府が、悲劇の発生を食い止める努力をしなければなりません。行政府が実現するべき「共生」というのは、こういうことです。

  そのための具体的な手法として、同化論、るつぼ論、サラダボウル論などが提案されては消えてゆきました。そして、現在のところ、もっとも有効性が高いと考えられているのが、多文化主義です。多文化主義とは、異なる民族集団が、文化的には独自性を保ったまま、経済的には平等を達成できるようにするべき、という立場のことです。

  一方、橋下府知事が明言したように、「僕が作ったルール」に従わなければ補助金を支出しないというスタンスは、世界的に悪質性が高いと考えられている「同化論」に近い。同化論は、現代の欧米諸国において、「差別と同じ」だと考えられています。なぜなら、それは「共生」というより、マジョリティによるマイノリティに対する一方的な支配だからです。

  恣意的な「ルール」の強要を「共生」だと強弁する橋下知事のツイートには、「差別」を「区別」だと言い逃れようとするのと同様のグロテスクさを感じざるをえません。

 

 朝鮮学校の「高校無償化」については、第三者機関による周到な検討を経て、いったん適用が決まっていたにもかかわらず、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)による韓国砲撃へのリアクションとして、政府が審査手続きを停止している状態が続いています。

 朝鮮学校生徒保護者からは、先月、文部科学省に対して行政不服審査法に基づく異議申し立てがなされていましたが、このほど文部科学省から回答の通知が送付されました。内容は以下の通りです(参考:朝鮮学校無償化問題FAQ)。

平成23年1月17日付をもって、あなたから提出のあった公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則第一条第一項第2号ハの規定に基づく指定に関する規定第14条の規定に基づく申請については、平成22年11月29日の北朝鮮による砲撃が、我国を含む北東アジア地域全体の平和と安全を損なうものであり、政府を挙げて情報収集に努めるとともに、不測の事態に備え、万全の態勢を整えていく必要があることに鑑み、当該指定手続きを一旦停止しているものです。(下線は引用者)

 つまり、朝鮮学校に「高校無償化」の適用手続きを停止している理由は外交上の判断だというのが政府の回答だったわけです。

 本ブログでは、政府が外交目的で在日コリアンを抑圧してきた歴史について何度か言及しました(例えば「人権侵害しか切れる外交カードがないとは、どんなならず者国家だ?」)。この主張の妥当性を巡っては意見もあったようです(例えばこちら)。しかし、外交のために理不尽かつ無意味に在日コリアンが抑圧されてきたということは、比喩でもなければ、私個人の思いこみでもなく、単に愚かしい事実にすぎないということを、政府自ら上記の回答によって示したわけです。

 前回の記事(「日系アメリカ人の強制収容所問題と朝鮮学校の無償化除外問題の相似について」)のテーマにも同じことが言えます。政府が海の向こうの軍事衝突を、国内のマイノリティへの人権侵害へとリンクさせた直後に、複数の論者が一斉に「日系人の強制収容所問題を思わせる」と言及しています(例1例2例3例4)。これは、政府が在日朝鮮人の子どもたちを「敵性外国人」扱いし、深刻な人権侵害に及ぼうとしている事実を各方面に鮮明に印象付けたことを示唆しています。

 ところで、国内に居住する外国人の人権侵害とバーターで外交上の利益を達成しようとすることを、俗に「人質外交」といいます。外交目的で朝鮮学校の審査手続きが停止されたのは、「人質外交」の典型事例ですね。ネットで数分検索するだけで、「人質外交」がどれだけ卑劣な人権侵害として忌み嫌われているかわかるはずです。しかも、今回は「人質」となっているのが高校生なのです。国家による破廉恥行為だとそしられても、容易に反論はできないでしょう。

 しかし、これほど愚劣で違法性の高い人権侵害に対して、日本社会はいささか冷淡であるように、ぼくには感じられます。

 丸一年にわたって、朝鮮学校の生徒たちはさまざまな負担に耐えてきました。「お前たちの学校などいらない」という悪意に満ちたメタメッセージを政府から受け続けました。しかし、日本社会の多数派の善意を信じて、毎週のように署名活動をやったりもしました。その信頼に対して、こんな理不尽な仕打ちで失望させたまま卒業させてしまっていいのでしょうか。

 まずは情報を収集したいということであれば、上記の 朝鮮学校無償化問題FAQ がきっと役に立つでしょう。そのうえで、もしこの問題の改善に何か寄与したいとお思いになったら、例えば、「不正義を許さない」という声を首相官邸に届けるのもいいでしょう。あるいは、「教育を外交問題によってゆがめられてはならない、がんばって筋を通せ」という主張を文部科学省に伝えるのもいいと思います。

 とにかく、残された時間は、もう多くはないのです。一人ひとりが、この不正義に加担せず、それぞれにできることを何か一つでも進めましょう。このまま時間切れになれば、日本社会は取り返しのつかないものを失ってしまうかもしれません。ニーメラーの警句は今ここでも重要な意味を持っています。

 

[本記事はアルファ・シノドス vol.64 (2010/11/15)に掲載された拙稿を荻上チキさんの承諾を得て転載したものです。]

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先ごろ、ツイッターにて『アンネの日記』の知名度が低いというテーマでタイムラインが賑わっていたのですが、そこから派生した「日系アメリカ人に対する迫害の歴史」という別の話題が面白かった。きっかけになったツイートは、こちら。

yu_ichikawa:あと意外に知らない世界の歴史★日系人はアメリカでめちゃめちゃ差別されていた! 奴隷制度&ナチスのホロコーストと並び、日系人を戦争中、強制収容所にいれたことはアメリカ人が考える「歴史3大反省ポイント」。原爆とかではなく、日系人キャンプ。しかし、日本でこのネタ意外と知られてなくない?
[http://twitter.com/yu_ichikawa/status/3249265287626752]

なるほど、1980年代以降は、たしかに日系人の強制収容所が北米における戦後補償(リドレス)の中心的テーマだったといえるかもしれません。

1942年2月、「敵性外国人」の隔離を許可する大統領令によって、約12万人の日系アメリカ人が内陸部へと強制移住させられ、その多くは強制収容所に抑留されました。敵性外国人といっても、移住対象とされた日系人の6割以上がアメリカ生まれの国籍保持者であり、当初から憲法上の疑義が指摘されていました。

この問題へのリドレス(歴史的不正への謝罪と補償)が注目されるようになったのは、1978年に日系アメリカ人市民協会が大々的に運動をはじめてからのことです。戦時中の出来事を糾弾する運動にしては、時期が遅いと思われる方もいらっしゃるかもしれません。でも、ひとたび「敵性市民」とされてしまえば、名誉回復に必要な条件(偏見の払拭、運動資源の貯蓄、有力な運動家の育成など)が整備されるまでに、とても多くの時間がかかるものです。

ただし、いざ運動を興してからの動きは早かった。1980年、連邦議会に専門の調査委員会が設置されます。83年、同委員会が「人種差別であり、戦時ヒステリーであり、政治指導者の失政であった」と結論づけ、連邦議会に謝罪と補償を勧告します。そして紆余曲折を経ながらも、88年には「市民の自由法」制定という形で運動が成就するのです。同法は、日系アメリカ人市民協会の要求をほぼ丸呑みする大胆な内容で、(1)連邦議会による公式謝罪、(2)拘留に抵抗したことへの有罪判決の大統領恩赦、(3)戦時の差別により剥奪された地位や資格の原状回復、(4)強制収容に関する教育を全米の学校で行うための総額12億5千万ドルの教育基金設立、(5)強制収容の生存者(現在の国籍を問わず)一人当たり2万ドルの金銭的賠償、が実施されることになったのです。

機が熟して運動が政治化するまでの期間が長かったとはいえ、わずか10年でこの劇的な成果をあげたわけです。この問題が1980年代の北米でいかに不正義に対する義憤をかきたてたか、容易に推察することができるでしょう。

ただ、この問題は、戦時ヒステリーの危険性や、尊厳の回復方法など、北米の政治状況に限定されない普遍的なテーマについてもさまざまな教訓を与えてくれます。現代の日本に暮らすわれわれにとっても、参考になるところが多いといえるのではないでしょうか。

私としては、今日的文脈から、特に以下の4点に注目しています。今日的文脈とは、日本政府が朝鮮学校に対して無償化適用除外を長期にわたって公式に検討している現状との比較において、という意味です。

(a) 母国のイメージが民族的マイノリティの扱いに影響を与えたこと。
(b) レイシズムと流言が、法的にも軍事的にも妥当性を欠く政治的意思決定を後押ししたこと。
(c) マスメディアが前項の重要な手段となったこと。
(d) ようするに、民族浄化であったこと。

以下、この順に、現在の在日コリアンが置かれた状況との異同を考察してみることにしましょう。

(a)母国のイメージが民族的マイノリティの扱いに影響を与えたこと。

移民研究の中には、「出身国のイメージが改善したり劣化したりすることで、移民に対する周囲の処遇が変わった」という報告が非常にたくさんあります。最近の日本でも、日中関係の悪化にともない、中国からの旅行者に集団で嫌がらせをする事件が起こったりしましたし、直感的にもわかりやすい話ではないでしょうか。

しかし、旅行者ならまだしも、移民にとってみれば、異郷の地で生き延びることに精一杯なのに、自分が関与することのできない母国のイメージしだいで、人権状況が改善したり悪化したりするというのは、ずいぶん理不尽な話です。

例えば、1950年代には、李承晩ラインをめぐる摩擦により、大韓民国のイメージは最悪に近かった。「劣等国が増長して暴挙に出た」といった植民地主義丸出しの罵倒表現が、連日、マスメディアや国会を賑わしたのですから、それも当然でしょう。

しかも、当時はまだ日韓両国に正式な国交がなかったこともあり、日本政府は韓国に直接的な抗議をするのではなく、国内のコリアンを抑圧することで、韓国に対する外交カードに(あるいは憂さ晴らしで国民のガス抜きを)しようとしたふしがあります。つまり、李ラインで日本人漁民が拿捕・抑留されたことに対抗して、「日本に住む朝鮮人を全員、韓国に強制送還せよ」といった強硬論が国会で審議されたり、コリアンを微罪で逮捕した挙句、強制送還をちらつかせて大村収容所に収監したり。

とはいえ、現在の日本でも、憎悪の対象が韓国から北朝鮮に変わっただけで、1950年代当時とずいぶんよく似た構図が観察されます。

外国人に対する日本人の好悪感情を測定した各種の調査によると、戦後は一貫して北朝鮮への感情が最悪に近い位置で推移してきました。ただでさえ否定的な感情の強いところに、1994年の核開発疑惑、98年の「ミサイル」発射実験、2002年の拉致問題といった出来事が起こったわけですから、日本における北朝鮮イメージは、ますます悪化の一途をたどっています。

また、日本政府としては相手国と正式な国交がないこともあり、国内のコリアンに対する抑圧をちらつかせることで外交カードの不在を補おうとしている点も、1950年代と共通しています。朝鮮学校のみを無償化の対象から除外するよう検討している問題は、その代表格といえます。

(b)レイシズムと流言が、法的にも軍事的にも妥当性を欠く政治的意思決定を後押ししたこと。

北米では19世紀末から黄禍論に代表されるアジア系移民に対するレイシズムが強まり、さまざまな差別が半世紀にわたって常態化していました。そこに、宣戦布告を欠いた奇襲から太平洋戦争が始まったわけです。「日本は何をするかわからない不気味な国だ」という偏見交じりの敵対感情が強制収容の背景にありました。

また、潜水艦でやってきた日本軍がアメリカ本土に上陸するのではないかという恐怖は、さまざまな流言を生み出しました。「太平洋沿岸の日系人漁民が日本軍上陸の手引きをしているところを見た」とか、「日本軍上陸後は日系人がスパイとして誘導する手はずになっている暗号文を解読した」といった内容のものです。

その結果、レイシズムに起因する日系人隔離論は、あたかも軍事的合理性を持った政策であるかのように語られていったのです。なお、日系人の強制収容に軍事的合理性は一切なかったと証明できたことが、「1988年市民の自由法」を制定するための決定打になったそうです。

一方、朝鮮学校の無償化除外はどうでしょうか。朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、少なくとも法的には妥当性のない政策です。日弁連の会長声明が明快に断言したように、法的な観点からは「この差別を正当化する根拠はない」のです。法的に可能であれば、朝鮮学校は無償化の対象外とすることでとうに除外で決着が付いているでしょう。

また、外交的観点からも、無償化除外は合理的でありません。なぜなら、北朝鮮に外交的な攻撃の糸口を与えてしまうことになり、日本政府が北朝鮮の人権状況を批判したところで、鼻で哂われて終わりということになりかねません。また、2月末にジュネーブで行われた人種差別撤廃委員会の対日審査で、複数の委員が「差別だ」として無償化除外問題に疑念を表明する一幕もありました。

つまり、朝鮮学校を無償化から除外するというのは、法的にも外交的にも、妥当性はないのです。そこに議論の余地はありません。問題はむしろ、妥当性がないにもかかわらず、世論調査では半数ほどの方が朝鮮学校を無償化から除外することを支持しているのはなぜなのか、ということです。

理由はいくつも考えられますが、その中に、北朝鮮や在日朝鮮人に対するレイシズムと流言が含まれているとしても、私には不思議ではありません。ネットをごく簡単に検索するだけで、以下のような文章が見つかるはずです。

(1) 日本の私立高校は完全な無償化にはならないのに、朝鮮学校だけ無償化するなどおかしな話だ。
(2) 他の外国人学校は無償化の対象ではないのに、朝鮮学校だけなぜ無償化するのだ。
(3) 朝鮮学校は閉鎖的な環境で反日教育を行っている。ちゃんと情報公開して相互理解の努力をしてくれないと、予算の支出は支持できない。
(4) 反日教育でテロリストを育成している学校になぜ日本人の血税を支出するのだ。
(5) ここまでして朝鮮学校に私達の税金を投入したいという心理が分からない。利権が絡んでいるのか。
(6) 北朝鮮の国益に直結する心配がある。

いずれも、事実に反する粗雑な主張です。順に反論していくと、(1)もちろん「無償化」は単なるレトリックであり、一般の私立高校と同じく、公立高校の授業料相当が支給されます。(2)他の外国人学校は、すでに無償化の対象となっており、朝鮮学校だけが支給を留保されている状態です。(3)朝鮮学校は常時、授業参観を歓迎しており、日本国内のどの学校よりも開放的だといえます。また、政府の公式な調査チームが視察に臨んだにもかかわらず、「反日教育」と呼べるような教育実態はみられませんでした。(4)朝鮮学校出身のテロリストなど、過去半世紀の間に一人として登場していません。(5)在日コリアンも納税しているという当然の事実が視野から脱落しています。(6)朝鮮学校は恒常的な赤字経営で、教員の給料すら滞りがちな状態。北朝鮮に送金するなど完全なファンタジーです。

中には(1)(2)のように単純な誤解もありますが、あまりにも基本的な誤解が容易に修正されることなく放置されている状態そのものが、朝鮮学校の置かれた過酷な状況を示唆するものといえるでしょう。(3)は朝鮮学校について情報を知らないにもかかわらず閉鎖的で反日的だと思い込んでいるわけですから、偏見以外の何ものでもありません。そして、そういう状況の中で、(4)から(6)のように意図的に作り出されたとしか思えないデマも流布しているわけです。誤解と偏見とデマ――今の朝鮮学校を取り巻くものは、そう要約できそうです。

(c)マスメディアが前項の重要な手段となったこと。

戦時中は情報戦の一環として、対戦国への憎悪を煽り、偏見を強めるような宣伝が行われることが少なくありません。大戦中、日本で「鬼畜米英」と題したカリカチュアや、人種憎悪をあおるような記事が新聞に掲載されたように、北米でも日本人を揶揄するためにずいぶんレイシズムの濃厚な表象が用いられました。

それ自体は戦時の現象として広く観察されることですが、そのことを指摘したからといって、居住国でレイシズムにさらされる移民の苦難はいささかも和らぐものではないでしょう。なぜなら、煽り立てられたレイシズムは、対戦国への戦意高揚に昇華するだけでなく、国内に居住する移民への敵意やヘイトクライムにも転化するものだからです。

マスメディアがレイシズムを煽り立てるのは、なにも戦時中にのみ見られる現象ではありません。20世紀初頭のアメリカでは、新聞王ハースト系のメディアが中心となって、激しい日系人排斥キャンペーンが繰り広げられたことはよく知られています。また、1950年代における日本の状況についても、前述した通りです。2002年以降の北朝鮮報道も、その一つ。そして、朝鮮学校への無償化除外に関する報道にも同じことがいえます。

ここでは、やや長くなりますが、無償化除外問題についてツイッターで積極的に発言しておられる方のブログから関連部分を引用したいと思います。(Scrap-Laboratory 「徹底的な『他者』へのまなざし―朝鮮学校への無償化適用を巡る顛末に思う」より)

 けれどもっと重い責任を指摘されるべきなのは、言うまでもなく朝日・読売・毎日をはじめとする「本物の」全国紙だ(産経とか所詮全国紙まがいですから)。あいつらの論調は軒並み糞でしかなかった。もちろん朝日も読売も毎日も、当初から「原則として」無償化の適用に賛成という立場を取っていた。

 その無償化適用に「原則賛成」というロジックこそが糞だった。どいつもこいつも朝鮮学校の教育や政治的立ち位置に(それこそ産経と変わらないレベルの)罵倒を散々投げつけた上で、「まあ教育の権利という点から言えば、朝鮮学校も無償化するのが筋であろう」と恩着せがましく付け加える社説の数々。実にクソ極まりない。朝毎読(ついでに日経)のどれ一つとして、朝鮮学校への無償化適用が法案の趣旨からも当然であれば「国際条約に照らしても」適用されるべきであることを正面切って論じなかった。今思い出しても反吐が出る。

 確認しておきたいが、これら全国紙の中でただの一つでも「そもそも朝鮮学校を無償化から除外するという論理こそが常識外れのあり得ない差別なんだよ」ということを堂々と言ったか?否だ、もちろん否だ。最低でも朝日と毎日は(連中がリベラルという面の皮を被るなら)信濃毎日新聞の社説(http://bit.ly/bCEwea)くらいのことは即座に表明するべきだった。中井の妄言が報道された瞬間に、朝日と毎日はその程度の正論は言うべきだったし、その上で朝鮮学校側は、「私たちはこれまで日本社会に自分たちを知ってもらうための努力をたくさんしてきています」と返す。最低でもそこら辺がスタートラインになるべきだった。

表現は攻撃的ですが、記述されている内容自体はきわめて妥当なものだと、私には思われます。

全国紙がまるで示し合わせたかのように、朝鮮学校を無償化対象に含むには条件が必要だと主張している。そんな状況下で、朝鮮学校にのみ教育内容に注文をつけるなど、法的には許されないことだという事実に気づくリテラシーのある読者は、いったいどれだけいるでしょうか。

それどころか、朝鮮学校は、特別に注文をつけられても仕方がないような、問題の多い劣悪な教育機関だという偏見を植えつけられる人も、少なくないような気がしませんか。

(d)ようするに、民族浄化であったこと。

民族浄化といえば、内戦中の旧ユーゴスラビアにみられたように、異民族の大量虐殺を指示する用語だと思っている人も多いでしょう。しかし、比較的意味が狭いとされている国連の定義でも、「特定の領土に民族的単一性をもたらすため、その領土から計画的、意図的に特定の民族を暴力や恫喝によって排除すること」となっています。虐殺に至らずとも、大量の強制移住があれば、それは民族浄化なのですね。

ただ、国連の定義は二つの意味で、いささか範囲が狭すぎると私は考えています。一つは、「民族的単一性をもたらすため」という要件が厳格すぎて取りこぼしてしまう事例があること。もうひとつは、「排除すること」という行為に関する要件が厳格すぎて、潜在的な民族浄化を取りこぼしてしまうこと、です。

前者の要件によって取りこぼされてしまう事例の一つが、日系人の強制移住・強制収容です。アメリカは多民族国家であるため、たとえ強制移住が行われても、「民族的単一性をもたらすため」という定義に合わないのですね。しかし、中国人労働者は1882年にはアメリカ入国を禁じられていましたので、1942年当時に日系人を排斥したということは、すなわち、アジア人を排斥したということと同義だったのです。一つの人種を地域から消し去った政策を、民族浄化以外の言葉でどう呼べばいいのか、私にはわかりません。

一方、後者の要件はどうか。私は、物理的には排除されなくとも、「完全に無色無臭に同化して《見えない存在》になってしまわないかぎり徹底的にいじめるぞ」とか、「見えないところに消えてしまえ」とか、「この地に異物として存在することを許さない」といったメッセージを恒常的に受忍させられる状態は、やはり民族浄化としか呼べないだろうと考えています。朝鮮籍の在日コリアンは、その典型事例です。

朝鮮学校とその関係者は、内閣からの発言やマスメディアの報道を通じて、日本社会は朝鮮学校の存在自体を罪悪視しているというメタメッセージを受忍し続けています。朝鮮人になるための教育機関は、その存在自体が許されるべきでないという暗黙の意思を常に感得させられ続けています。これは、やはり民族浄化としか呼びようがない事態ではないでしょうか。

さて、ここまで4つの論点に沿って、北米における日系人の強制収容問題と、朝鮮学校の無償化除外問題の異同について考察してきました。時代状況の違いはあっても、国家的利益を優先し、民族的マイノリティの人権を抑圧する政策という点では共通していることを論じたつもりです。

ただ、最後に一つ、両者の大きな相違点を挙げておかなければならないでしょう。それは、北米ではこの問題がリドレスの対象となり、許されない歴史的不正義だったという共通理解が成立しているのに対して、朝鮮学校問題は毎年のように国連から改善要求を受けている、現在進行形の人権侵害問題だということです。

 

 朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の局地的紛争を受けて、高木文科相と仙石官房長官が、それぞれ、朝鮮学校を無償化の対象とする方針を見直す考えに言及したという。

 なんと愚かなことか。人権侵害しか切れる外交カードがないとは、どんなならず者国家なのかといわざるをえない。もちろん、北朝鮮のことではない。日本のことだ。

 歴史を振り返ると、1950年代には、李承晩ラインをめぐる摩擦により、大韓民国のイメージは最悪に近かった。「劣等国が増長して暴挙に出た」といった植民地主義丸出しの罵倒表現が、連日、マスメディアや国会を賑わしたのだから、それも当然だろう。

 そうした世論を受けて、当時の日本政府はどうしたか。まだ日韓両国に正式な国交がなかったこともあり、日本政府は韓国に直接的な抗議をするのではなく、国内のコリアンを抑圧することで、韓国に対する外交カードに(あるいは憂さ晴らしで国民のガス抜きを)しようとした。

 つまり、李ラインで日本人漁民が拿捕・抑留されたことに対抗して、「日本に住む朝鮮人を全員、韓国に強制送還せよ」といった強硬論が国会で審議されたり、コリアンを微罪で逮捕した挙句、強制送還をちらつかせて大村収容所に収監したりしたわけだ。

 今回の日本政府のスタンスは、50年代当時と完全に同じ構図である。第一に、国内のコリアンに対する抑圧をちらつかせることで外交カードの不在を補おうとしている点において。第二に、その愚劣な発想が法的にも外交的にも妥当性を欠くという点において。

 朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、少なくとも法的には妥当性のない政策だ。日弁連の会長声明が明快に断言したように、法的な観点からは「この差別を正当化する根拠はない」のである。法的に可能であれば、朝鮮学校は無償化の対象外とすることで、とうに決着が付いているだろう。

 また、外交的観点からも、無償化除外は合理的ではない。なぜなら、北朝鮮に外交的な攻撃の糸口を与えてしまうことになるからだ。日本政府が北朝鮮の人権状況を批判したところで、鼻で哂われて終わりということになりかねない。むしろ、2月末にジュネーブで行われた人種差別撤廃委員会の対日審査で、複数の委員が「差別だ」として無償化除外問題に疑念を表明する一幕があったことを考えると、外交的にはむしろ日本の汚点になるといったほうがいい。

 この半世紀、日本の半島政策と在日外国人政策に、イノベーションも理念の深化もなかったということだろう。日本政府は、いったいいつになれば、自らの愚かさに目覚めるのか。

 

参考)各弁護士会の会長声明

日本弁護士連合会 http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/100305.html
東京第二弁護士会 http://niben.jp/info/opinion20100304.html
東京弁護士会 http://www.toben.or.jp/news/statement/2010/0311.html
大阪弁護士会 http://www.osakaben.or.jp/web/03_speak/seimei/seimei100310.pdf

 

 このところ学術的な観点からのエントリーが続いていたけれども、この問題を批判しないわけにはいきません。あまりにもネガティブな感情が強すぎて、これまでどうしても冷静に論じることができませんでしたが、そろそろ執筆する準備ができたように思います。

 何の話かといえば、高校教育の実質無償化政策から朝鮮学校を除外する案について、大阪府の橋下徹知事のレイシスト発言っぷりが際立っています。今回のエントリーでは、彼の発言の何が「問題」なのか、下記のテーマに沿って論じていきます。

    1. 他のどこでもない大阪府の知事であることにより発生する歴史問題
    2. 法律家でありながら超法的政治手法を利用するポピュリズム問題
    3. 以上を報道しない日本マスメディアのレイシズム問題

1. 大阪の歴史問題

 この問題については、すでに優れたエントリーが書かれています。日朝国交「正常化」と植民地支配責任というブログの最新記事、橋下府知事を朝鮮学校に入れるべきではない――朝鮮学校と高校「無償化」問題6です。まずはお読みいただきたい。

 リンク先のエントリーで述べられているのは、「阪神教育闘争」として知られる事件です。平和的デモに対して警官が発砲し、16歳の死者まで出したこと一つをとっても、戦後日本の民主主義の歴史に残る最悪の汚点の一つといってよいでしょう。

 大阪府は、在日コリアンの民族学校を弾圧した歴史的事実に対して、倫理的な責めを負うべき立場です。橋下知事はこの事件を知っていたはずですし、仮に知らなかったとしても、朝鮮学校を無償化対象から除外する議論が始まったときには知ったはずです。にもかかわらず、橋下知事には一切の反省がないどころか、逆に弾圧当時と同様のロジックで朝鮮学校を追い込もうとしている。知事の権力をもって、在日の子どもたちに踏み絵を強要しようとしている。

 橋下知事には、民主主義を守ろうという精神的基盤が欠落しているとしか考えようがありません。

2. ポピュリスト問題

 純粋な法律論からいえば、朝鮮学校だけを無償化対象から除外するのは不可能に近いはずです。ぼくが素人法律論を振りかざすより、日本弁護士連合会「高校無償化法案の対象学校に関する会長声明」から一部引用するほうが早いでしょう。

朝鮮学校に通う子どもたちが本法案の対象外とされ、高等学校、専修学校、インターナショナル・スクール、中華学校等の生徒と異なる不利益な取扱いを受けることは、中等教育や民族教育を受ける権利にかかわる法の下の平等(憲法第14条)に反するおそれが高く、さらには、国際人権(自由権・社会権)規約、人種差別撤廃条約、子どもの権利条約が禁止する差別にあたるものであって、この差別を正当化する根拠はない。

 これらの法律の壁を、橋下知事は「不法国家の北朝鮮と結びついている朝鮮総連と関係があるなら、税金は投入できない」というロジックで強引に突破しようとしているわけですが、法律論としては何重にもムリのある話です。知事もそのことはおそらく承知で、だからこそ、北朝鮮と朝鮮総連を一体的に暴力団やナチスにたとえたりしながら、このロジックを政治的に正当化しようとしているわけです。悪しきポピュリズムの典型的な手口。

 この点についても、Arisanのノートに、「大阪府知事はナチスと同じ」という優れたエントリーがすでに書かれています。ぜひお読みください。

国内の少数者を恫喝し、繰り返し傷つけることで大衆的人気の獲得を図っているという点では、まさに橋下徹とい政治家こそ、ナチスとヒトラーの名にふさわしいではないか?

 この一文に端的に表現されていますが、ナショナリズムと結託したポピュリズムが排外主義に走るとき、きわめて危険な政体が生まれます。ナチスはその代表格。

 くどいですが、橋下知事には、民主主義を守ろうという精神的基盤が欠落しているとしか考えようがありません。

3. マスメディアのレイシズム問題

 ところで、「ナショナリズムと結託したポピュリズム」の危険性に絡んで、よくヨーロッパの「極右政党」や、ハイダー、ル・ペン、グリフィンといった「極右党首」たちの言動が否定的に報じられてきました。

 日本のマスメディアが「極右」といってこれらを批判する欺瞞については、もうずいぶん言い尽くされている感もありますが(例えば森達也・森巣博『ご臨終メディア』集英社)、それでも一向に事態の改善が見られない以上、何度でも繰り返し批判されるべきことでしょう。

 橋下知事の一連の発言については、各紙とも論評を加えずに淡々と紹介するスタンスに徹しているようです。人気政治家の発言に賛否を表明して攻撃を引き受けるのは怖いということなのでしょう。言論の責任を回避する姿勢は、まさしくご臨終メディア。しかし、不法な人権侵害をポピュリズムの手法によって正当化しようとしている権力者がいるとき、それに対抗するのはマスメディアのもっとも重要な役割ではないでしょうか。

 マスメディアが批判の届かない安全な場所に逃げている間に、朝鮮学校に通う子どもたちは、知事の発言に誘発されたヘイトクライムの犠牲になるかもしれない。杞憂ではありません。過去に何度も実際に起こったことです。にもかかわらず、マスメディアは、子どもたちを責任回避の盾にしながら、逃げている。

 なぜこのような事態が生じているかといえば、ようするに、マスメディアに関わる人々が、「知事の発言にも一理ある、だから朝鮮人の子ども達が犠牲になっても仕方がない」、という発想を否定していないためでしょう。なんたるレイシストぶりか。

 日本のマスメディアには、民主主義を守ろうという精神的基盤が欠落しているとしか考えようがありません。

人権教育の問題点

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 人権教育について市民意識調査を実施すると、自由記述欄によくこのような内容のことが書かれてきます。

「小中の同和教育で、初めて被差別部落について知った。同和教育があったから、被差別部落の存在も知ったし、差別される存在であるということも知った。それによって、自分との違いを意識するようになってしまった。いわば、同和教育によって、私の中に、ある種の差別感が芽生えていってしまった。同和教育なんかないほうがいい」

 授業で人権教育について言及したときも、かなりの学生がミニッツペーパーにこういう趣旨の感想を書いてきますね。

 しかし、この意見はナンセンスです。なぜならば、「学校の同和教育によって被差別部落について初めて知った人」は、「近隣や親、友人、知人、先輩などからインフォーマルな形で部落についての情報を初めて聞いた人」に比べて、被差別部落への差別的態度が明らかに弱い、ということが各種の調査からわかっているからです。

 たとえて言えば、同和教育は生ワクチンのようなもの。受けることによって、自覚しない程度の軽い偏見に感染してしまう。けれども、そのおかげでひどい差別意識を発症せずにすむわけです。だから、人権教育を《やるべきかどうか》という次元では、答えは明らかで、やるべきなのです。

 ただし、《どうやったらいいのか》という次元については、難しいところがあります。少なくとも、現行の人権教育のやり方には、明らかに間違っているところがある。

 小中学校の人権教育では、「差別をするのは悪い人」だと教える傾向があります。「差別をする悪い心があるから、差別が起こる。だから差別をなくすためには心の中の悪い部分をなくしましょう。一人ひとりが心の中から差別をなくしていけば、いつか社会から差別はなくなるのです」という教え方をします。

 でも、差別をするのはみんな悪い人でしょうか? 悪い人でなければ差別をしないといえるでしょうか? ぼくは、現実の差別事象というものはそんなに単純なものではないと思いますけどね。

 例えば、僕が小学生の頃は、教師が生徒たちの注意を喚起しようとして、「こら、おまえら、つんぼか!」という表現をよく使ったものです。教師の権威を利用した、あからさまな差別ですね。でも、このとき先生には、聴覚障害者を傷つけようという悪意はありません。「つんぼ」は《外部の存在》として利用しているだけであって、実際には聴覚障害者を傷つけようなんて思っていません。聴覚障害者のことを考えてもいません。なぜなら、「つんぼ」は、「見下される存在」として引き合いに出しただけであり、「おまえらその見下される存在か」「そうじゃなく、耳は聞こえるだろう」と問うているだけなのですから。

 また、例えば部落出身者がいて、そのことを知っている人がいるとしましょう。その人が別の友人に「ねえ知ってる? あの人、あっちの人なんだって」と、陰口をいうことがあります。この時も、部落出身者を傷つけようという悪意があって差別をしているとはかぎりません。そうではなく、「あの人とは違って私たちは仲間だよね」と確認したいがために引き合いに出されているだけなのかもしれない。この場合も、被差別者に対し悪意があるのではなく、我々の一体感を高めたいがために、《外部の存在》としてたまたま部落出身者が利用されているだけです。

 「我々はあの人たちと違って普通だよね」「我々はあの人たちと違って異常ではないよね」と確認するために、マイノリティが《外部の存在=他者》としてその場その場で利用されていく。「わたしたちは同じ仲間だよね」というメッセージを効果的に伝えるために、巧妙にマイノリティが外部化、他者化される。そして、マイノリティを見下したり、排除したりする感情が利用されていく。こういう場合、悪気がないだけに、「いえ、別に悪意ないから差別ではありません」という反論が起こります。

 ここでは、悪気がなくともコミュニケーションの中で差別が起こりうるという例を挙げましたが、他にも、経済的な条件が構造的に生み出していく差別、文化によって植えつけられる差別など、多種多様な差別の発生形態があります。いずれも、マイノリティを傷つけようなどという「悪い心」がなくても起こる差別ばかり。

 差別は、悪い人であろうが、いい人であろうが、誰だってやってしまう危険性があるものです。にもかかわらず「差別は悪い人がする」ということばかりを教えられている人からすれば「俺は悪い人じゃないから差別しない」「差別をする悪い心なんか持っていない。だから、差別していない」、「今言ったのは別に差別するつもりなんかなかった」で終わってしまいます。

 というわけで、差別を教えたり論じたりするとき、「差別は悪い人がする」というストーリーに固執するべきではない、というのが今日の話でした。

......これで締めようと思いましたが、ちょっと補遺を追加。どうせ何回かに分けても、読まない人は読まないから、関連する話題は書き終えておきます。

 なぜ、「差別は悪い人がする」という教え方になったのかというと、道徳教育の一環として差別論が教えられるようになったからだとぼくは思っています。倫理的にすばらしい人間になろうという道徳教育の一環として、反差別が取り上げられるとすれば、当然のことながら、「差別する心、卑劣な貧しい心をなくしていきましょう」という教え方になるでしょう。でも、これって、道徳教育のために差別を利用している、ということなんですよね。

 似た構図に、反戦教育のためにアジアや在日が利用されるというのもあります。「日本はかつてこんなにひどいことをしました。アジアの人はみんな怒っています。われわれは、申し訳ないと思わなければいけない。だから、日本はふたたび戦争に踏み出すことはできない。軍事国家化すれば、アジアの人がどんなに怒るか考えてみよ」という教え方です。アジアを利用せずとも反戦教育は単純にできるはず。ところが、「そんなことをしたら、隣のおじちゃんに怒られるよ」と言わんばかりに、「アジアに怒られちゃうよ」という形で、反戦教育を進めていくのです。

 それがどのような弊害を生むかといえば、「そんなに、反日、反日いうのだったら、日本から出て行ってください」という暴論を引き出してしまうのです。つまり、「確かに日本は悪いことをしたし申し訳ないと思います。でもそんなに日本が嫌いだったら出て行ったらいかがですか」という、ある意味で素朴な声を生んでしまう。

 ところが、当の在日コリアンは必ずしも日本を恨んではいません。特に、比較的若い世代にとっては、日本に対する愛着度、韓国に対する愛着度、在日に対する愛着度を測定しますと、一番高いのは日本に対する愛着度なのです。日本と韓国が試合をする場合、どちらを応援するかというと、多くの在日の若者は日本を応援すると言います。すでに住む土地としての日本に、愛着の基盤を寄せているのですね。日本がかつて行った自分の民族に対するネガティブな歴史については、しっかりと教えてほしいと思うけれども、そのことはそれとして、自分が住む地域として日本に対しては愛着を持っているし、今後もこの国で共に住んでいきたいと在日側は思っているのです。

 そういうと、「民族意識の強い人は反日に違いない」と、反論する人がいるかもしれません。でも、そうではありません。民族意識の強弱と、日本に対する愛着度の強弱は、統計的に意味のある相関関係がありません。つまり、民族意識が強かろうが弱かろうが、圧倒的多数の在日は日本に愛着を持っている、というのが現状なのです。

 ところが、上述のような反戦教育を受けた日本人の中には、加害の歴史につながる罪悪感を何とか解決したいと思い、いわば八つ当たりするために在日コリアンを利用していく場合がある。反戦教育にアジアを利用することによって、反射的に在日コリアンにその攻撃が向いていくという構図です。そのことが、ナショナリズムに対する需要の高まりと相まって、在日に対する攻撃を生んでいると、ぼくは考えています。

※最後の論点については、こちらも参考に。ある韓国人の感想。「日の丸、君が代を敬わない日本人は信用できない」

 前回のエントリーで、「衝突壁」については別の機会に、と述べましたが。でも、よく考えてみると、2003年ごろに中学校の先生方を対象とした講演会で同じようなことをしゃべったことがありましたので、そのテープ起こしの内容を紹介することにしましょう。

――――――

 しかし、ナショナリズムに関するどういう情報を、どういったふうに消費していったらいいのか、おとなたちも迷っているというのが現状です。左右両翼が入り混じって《国家的な自分探し》をしている感じですね。そうなると、高校生たちなんか、ナショナル・アイデンティティを模索し始めたばかりだし、まして、中学生ぐらいになるとはじめてナショナリズムというものを意識化するようになったばかりという年齢層でしょう。ナショナリズムが自分探しとリンクしているような気がするけれども、その正体はわからない。

 そういうときにどうするか。「日本人としてのぼくはどうすればいいのだろう、どういう考えをもてばいいのだろう」といった疑問を解消するために、「非日本人」という《外部の存在》を利用するわけですね。どういうふうに利用するのかというと、ちょうどガードレールにぶつかっていくイメージです。

 たとえば、皆さんがお持ちの生徒さんたちも、「自分はどこまで自由を持っているのだろうか」ということを確認したがります。そして、それを確認するために、わざとルールを破ったりしますね。そして、「あっ、ここまでならOKなんだ、ここまでやったら、ダメで怒られちゃうんだ」というふうに、わざわざ、ルールを故意に破って、ルールの外延を確かめていくということをしますね。それと同じく、自分のアイデンティティがわからないとき、そのアイデンティティの輪郭をはっきりさせるために、自分と他者との境界線を探ろうとします。その時に利用されるのが、《外部の存在》であるマイノリティなわけです。

 ちなみに、アイデンティティの問題は、民族差別にかぎらず、ほかのどれでも一緒です。外部を利用することによって、「わたし」や「われわれ」を確認しようとする。

[...中略...]

 それと同じように、日本人らしさを確認するために異文化マイノリティに衝突して確かめてみる、ということがありうる。つまり、マイノリティ、例えば在日韓国・朝鮮人というのはこういうやつらなんだというイメージをまず作り上げる。そして、そのイメージを攻撃する。そして、その攻撃したことに対する反論を受けてそれによって「ああ、日本人っていうのは、こういうふうに見られるんだ」とか、その反論に対して再反論をしていくことによって、「ああ、日本人はこういうふうに言論を申し立てていくべき存在なんだ」ということを理解しようとしているわけなんです。

 先ほどの読み上げましたメッセージは、その典型的な事例であると言っていいと思います。

 マイノリティ、民族的マイノリティとは、さまざまな部分で権力的に少数派に置かれた人々のことをいいますけれども、社会的には非常に不利な位置にある。のみならずマジョリティが自分らしさを探すためにガードレール役として、(ガードレールとは英語ではクラッシュバリアですけれど)、クラッシュする対象として利用されていく。そういう形でも差別が起こっていっているということです。

 先ほども申し上げたように、ここで紹介したメッセージはむしろ柔らかい方で、インターネットではより過激な、あるいはよりグロテスクなマイノリティ攻撃が、今や主流となりつつあります。《自分探し》のための新しい差別の登場です。

外国人の地方参政権 #2

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 前回、「在日コリアンに地方参政権の門戸を開くかどうかというのは《日本人の問題》だとぼくは思っている」と書きました。つまり、日本人の寛容性の問題であり、日本人の地域観の問題である、という文脈でこの言葉を使ったわけですが、じつは別の文脈にもこの言葉は当てはまります。

 つまり、日本人のナショナリズムの問題だ、という意味です。もう少しわかりやすく言うと、外国人の地方参政権をダシにして日本人が国民的アイデンティティを模索している側面があるという意味です。もっといえば、日本人が「日本人とは何か」という問いを立てるために、外国人を衝突壁として利用するのはやめてほしい、ということです。

 ...ってネタフリに続けて詳しく説明しようと思ったけど、なんだか気分が乗らないから、この話はここまで。やっぱり別の話にします。ただ、ネタフリの最後にある「衝突壁」については、ヘイトクライム#2を書くときにあらためて言及しましょうか。

 今朝、Zeitbedingtさんがツイッターでこう書きました。

参政権を社会貢献の手段ととらえる見解には、あんま馴染めない。参政権の法的性質としてあえて公務性を否定しようとは思わないけど、社会貢献って法的性質じゃないし。実際、多くの投票者は自己利益に合致する(または反しない)代表者を選んでるだけじゃなかろうか。

 これはおそらく、ツイッターの仕組みを理解していなかったために幻となったぼくのつぶやき(↓)を念頭に書かれたのではないかと。

@nasukoB はじめまして。参政権というのは社会に貢献する手段ですから、日本や地域社会への愛着が強く、いっそう貢献したいと考えている在日ほど欲しがります。逆に、日本は外国だと思っている在日は欲しがりません。一般論として。

 なるほど、投票行動は自己利益を最大化するように行われるのだから、それを「社会貢献の手段」と表現するのは不適切だという指摘には、うなずかざるをえないかも。

 ただ、現時点で参政権を持たない在日外国人が参政権の獲得を望むとき、背後にあるのは具体的に誰かに投票したいということではなく、もっと抽象的な、「私も地域の一員として意思決定の代表者を選ぶプロセスに参加したい」といった気持ちでしょう。

 この点に関して紹介したいデータがあります。『在日韓国人の社会成層と社会意識全国調査報告書』の13章「権利」です。より具体的には、「日本の参政権」を望む理由についてロジスティック回帰分析を行った箇所。

 分析モデルがラフなので、この結果が一人歩きするようだと困るのですが、ここで注目してもらいたいのは「地域活動参加」の係数が有意だということです。4章「地域移動」、5章「地域意識」、11章「愛着」もあわせてお読みいただけると、このデータの意味が間接的にイメージできると思います。

 すなわち、在日コリアンはみな地域に強い愛着を抱いているが、普段から地域活動に参加し、今以上に愛着を持てる地域を創りたいと願う人、今以上に地域への貢献を求めている人ほど、地方参政権を求めているということです。

 最後に、関連する話題なので古いエッセイを一つ紹介して終わります。

 福岡安則「『在日』と日本人との共生は可能か」(月刊『アプロ・21』)

外国人の地方参政権 #1

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 先日、李怜香さんがツイッターに書いたこと。

永住外国人地方参政権法案に反対する人の特徴は、わたしが外国人だというと、意見もまったく聞かず、参政権法案に賛成だと決めつけて話をすすめるところだね。賛成反対どころか、言及さえしてないのになぁ。超能力者か(笑)

 それに答えてぼくが書いたこと。

ぼくも、地方参政権については賛否を公言したことは一度もないんだけど、その手の人々は賛成だと思い込んでくるね。金明秀ではなくザイニチという記号を相手にしてるんだろう。

 あぁ、字数だけ気にしてたら、めちゃくちゃ偉そうにタメ口つかってる...。ごめんなさい。

 ともかく、ぼくはこれまで、とても仲のよい友人を除けば、地方参政権について個人的見解を披露したことがありません。正確に言うと、HANBoardなどに、地方参政権を外国人に付与できるとする理論的な学究成果を紹介したことはあります。また、諸外国において移民2世以降の政治参加がどう扱われているかについて述べたこともあります。でも、ぼく自身がそれを肯定的に捉えているか否定的に捉えているかについては明言したことがありませんし、ぼくが参政権を欲しがっているかどうかについてはいっさい言及したことがありません。

 では、なぜぼくは、賛否を表明してこなかったのか。主たる理由の一つを紹介すると、在日コリアンに地方参政権の門戸を開くかどうかというのは《日本人の問題》だとぼくは思っているからです。

 外国人の地方参政権をどうするべきかについてはいろんな考え方があるものの、どれをとっても後付けのリクツにすぎません。そもそも、大量の移民の子孫が何代にもわたって「外国人」のままであるというのは、世界的にもまだ新しい状況なのですから、答なんてどこにもないのです。

 言い換えると、どこの国でも、そういう新しい状況に対して根源的な疑問を持ち、その疑問に答えるために、後付けのリクツを模索している最中なのです。

 その根源的な疑問とは何かというと、「自分の意思で国境を渡った移民一世はともかく、この国で同じように生まれ育ち、同じように社会に貢献している二世以降が、出自が違うということだけで政治的な権利を持たないというのは、ずいぶん不公正じゃないか? もしそれが法律だとしたら、その法律のほうがおかしいんじゃないのか?」 というものです。

 素朴で直感的な問いですね。でも、少なくともヨーロッパでは、それが始まりでした。つまり、隣人である移民の子孫が政治的に排除されている状況を、その国の国籍を持つ人々の多くが《おかしい》と感じる気持ち。自分の国はそんなに不公正で義理を欠く国だったのかという憤り。それが、外国人に地方参政権を付与しようという運動の出発点だったということです。

 以下は、日本人と在日コリアンに限定して話を進めましょう。というより、ぼくの私的見解の話に戻ります。

 日本国籍を持つ地域の友人・知人たちが、「同じ町の居住者である金君に選挙権がないというのはぜったいにヘンだよ。ずっとこの市に住んできたし、町内会の仕事もやってくれている。道路問題では行政との交渉で汗もかいてくれたじゃないか。人権講演会の講師も勤めてくれた。これだけ住民として貢献しておいて、政治的権利がないというのは、おかしいじゃないか。こんな歪んだ状況は隣人として許せない」と言ってくれるのであれば、選挙権を獲得した上で、地域の一員としての責務を今まで以上に全うしたいと思う。

 一方で、「へー、選挙権がないんだ。まぁ、国籍が違うんだから、しょうがないよね。文句があるなら国に帰れば? ともかく、ぼくの目に入らないところに消えてくれないかな。」と言うのであれば、そんな地域のメンバーシップ(=地方参政権)はいらないと思う。だいたい、外国人だから仕方ないなんて、20世紀の話だろう。グローバリゼーションの進んだ現代では、それじゃつじつまが合わなくなってきていて、どうすれば矛盾を解消できるかどこの国でも議論してるんだろうが。それを、ガイコクジンという記号としか見ようとせず、自分には関係のない話だと切り捨てるような輩が多数派であれば、そんな地域に貢献しようとは思わないということだね。

 つまり、ぼくの地方参政権に対する賛否(y)は、隣人たる日本国籍者たちが同じ地域のメンバーだと支持してくれる気持ちを持っているかどうか(x)の関数なんですね。ネットでは参政権付与に反対というテキストが目立つけれども、世論調査では賛成が過半数を占めているようですから、ぼくの気持ちも前向きになってきています。

 さて、最後に一つ大事なことを。

 ここまで読んで、「『どうしてもくれるって言うなら参政権を貰ってやってもいいよ』なんて、いったい何様なんだ。どうしてそんなに偉そうなんだ」と思ったアナタ! あなたは、ガイコクジンは頭を下げて参政権をこいねがうべきだと思っていることになりますね。それは傲慢ではないのですか? 偉そうなのはどっちかな?

ヘイト・クライム #1

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ブログを移転して読者がいなくなったのを機に更新をストップしていましたが、関学での仕事も軌道に乗ってきましたので、学生たち、とくにゼミ生を主たる想定読者として、ぼちぼち更新を再開していきたいと思います。

さて、去る19日、下記のような京都弁護士会会長声明が出されました。

朝鮮学校に対する嫌がらせに関する会長声明
(京都弁護士会、2010年1月19日)

声明の内容を一部を引用すると、

2009年(平成21年)12月4日(金)午後1時頃、京都市南区にある京都朝鮮第一初級学校校門前において、授業中に、「在日特権を許さない市民の会」等のグループ数名が、「朝鮮学校、こんなものは学校ではない」「こらあ、朝鮮部落、出ろ」「お前らウンコ食っとけ、半島帰って」「スパイの子どもやないか」「朝鮮学校を日本から叩き出せ」「北朝鮮に帰ってくださいよ」「キムチくさいねん」「密入国の子孫やんけ」などの罵声を拡声器等で約1時間に渡って同校に向かって大音量で浴びせ続けるという事件があった。その際には、公園に置いてあった朝礼台を同校の門前まで運んだり、門前に集まって門を開けることを繰り返し求めたり、公園にあったスピーカーの線を切断するなどの行為も行われた。

 という差別事件があり、それに関して警察その他関係当局は必要な対処をすべきである、というのが声明の主旨です。

「在日特権を許さない市民の会」(在特会)というのは、ようするに右翼組織なのですが、従来の右翼組織とは2つの点で違いが見られるという印象を持っています。ひとつは、インターネットを利用して支持を広げていること、もうひとつは、近年の日本ではめずらしくヘイト・クライムを積極的に指向していること。つまり、差別発言を街宣車でがなりたてるだけでなく、暴力行為を行うところが目新しい。

例えば、西宮では、いわゆる従軍慰安婦を支持する集会に在特会が乱入し、けが人を出したそうです。支持者のレポートによると

今日関西の「慰安婦」問題各連絡会は、阪急西宮北口のロータリーで午後6時半より、第900回目の「水曜デモ」に連帯し、合同の「水曜デモ」を行ないました。...中略...およそ30人あまりの「水曜デモ」となりました。
ところが終盤になって宝塚方面から来た「在特会」が約30名が、警察の制止を跳ね除け、集会の中心のロータリーになだれ込みました。
いつもの事ですが彼らは「朝鮮人帰れ」「慰安婦は売春婦帰だ」「外国人参政権反対」売国奴小沢一郎」などと、大口スピーカーで怒鳴りまわめきながら、女性に体当たりしたり、口々に罵声を浴びせ、私たちが展示していたパネルを剥ぎ取り、足で踏みにじり、横断幕を奪い取ろうとしました。
そしてあろう事か、暴徒化した彼らは、1人でいた人や、写真を撮っていた人に襲い掛かり、引き倒し、羽交い絞めにし暴行を加えたのです。
この暴力によって1人の青年が後ろへ引き倒されて腕を怪我し、近くの病院で手当を受けたところ骨折はなかったものの、全治2週間の診断されました。

とのことです。

ワシントンポストの広告

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 日本に関心を持つ人にとっては、日本の外から日本を見たとき、いい面もわるい面もそれぞれ目に付くものです。しかし、ぼくの場合、ことジャーナリズムについていえば、不愉快になるほど"わるい面"ばかりが目に付いて仕方ありません。

 必ずしも他国のジャーナリズムが平均的に優秀というわけでもないのですが、日本の大手報道各社についてはジャーナリズムを名乗る資格があるのか疑わしくなることもしばしば。

 至近ではこのニュース。「日本の超党派国会議員有志や言論人グループなどが14日付の米紙ワシントン・ポストに、慰安婦らが日本軍によって強制的に慰安婦にされたことを示す歴史文書は存在しないなどとする全面広告を出した」(15日の時事ドットコム:当初の配信記事の半分くらいに縮小してます)というもの。→広告の現物(広告主の一人、西村幸祐氏のブログより)

 どの新聞社もこの「事件」のニュースバリューを測ることができず、配信を垂れ流しするだけにとどまりました。19日現在になっても、続報はありません。しかし、今このタイミングで、よりによってワシントンポスト紙に、日本を代表する立場にあると解釈されてしまう人々の名前入りで、こんな広告を出せば、外交関係に非常に重大な影響が生じることは誰の目にも明らかです。その重大性が、新聞各社にはわからないらしい。いや、わからないはずがない。わかっていて、書かないのでしょう。そこが腹立たしい。

 この広告のせいで、4月末に安部首相が訪米したときとは、米議会内の空気が完全に変わってしまいました。なにせ、副大統領が半公式にこの広告に激怒を表明している状態です。

 せっかく様子見の流れだった日本軍慰安婦問題の糾弾決議案は下院に上程され、可決されるでしょう。そして、北朝鮮をめぐる多国間協議で、これまで以上に拉致問題は置き去りにされることになる(拉致加害を否定しようとする国が、拉致被害を訴えても説得力に欠けます)。さらに、大統領選の流れによっては、対日重視政策が後退し、中国重視へと大きく舵を切ることもありえます。

 新大統領が就任する2009年、日本の外交環境が厳しさを増す中で、「あの広告が直接の転換点だった」と振りかえっているかもしれません。それまで、日本の「ジャーナリズム」は何もせずにただ黙っていることでしょう。

 ちなみに、賛同人の一人、島田洋一氏のブログによると、「話題になったこと自体......大いに効果があった」というスタンス。90年代半ば以降の日本で達成した政治的ムーブメントを今度はアメリカでということなんでしょうが、この世間しらずぶりをどう表現したらいいものやら。

アラスカの本

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 今日はいくつか本の紹介。

 ぼくがアラスカになんとなく関心を持ちはじめたのは10歳ぐらいのときだったと思います。しかしはっきりとした憧憬を意識するようになったのは12歳のころですね。そのきっかけのひとつになったのは、ある小説でした。

 当時、ぼくは新田次郎という作家がお気に入りで、11〜12歳までの2年間でそのころに出版されていた作品はほとんど読破したと思います。短〜中編の山岳小説では今でも右に出るものはいないという大家なのですが、いくつか長編の小説もあります。ぼくが好きなのは銅山町での公害との闘いを描いた『ある町の高い煙突』、そしてフランク安田の生涯を描いた『アラスカ物語』。けっきょく、この2冊が、小学生のころに読んだ本でいちばん印象に残っているもの、ということになります。

 『アラスカ物語』のハイライトは、クジラ乱獲による飢餓と西洋人が持ち込んだ疫病で絶滅の危機に瀕していた北極海沿岸のエスキモーたちを救うため、フランク安田が鉱山技師たちとともに2年がかりで金鉱を探しあて、その資金を元手にブルックス山脈を越える民族大移住を決行するあたりでしょう。フランク安田のことを「エスキモーのモーゼ」とたたえた新聞もあったとか。そんな偉大な日本人が実在したことを知っていましたか?

 アメリカに在外研究に出る直前になって、20数年ぶりに読み直してみましたが、いま読んでも社会学者の批評眼に耐える興味深い記述がたくさんありました。同書が執筆された当時はエスキモーについて日本語で読めるまともな文献はほとんどなかったはずですので、新田次郎さんは1ヶ月というかなり短期間のアラスカ取材で非常に正確に情報を収集されたようです。

 エスキモーといえば、ジャーナリスト本多勝一さんが若いころにエスキモー村に住み込みで書いたフィールドノートが秀逸です。文化人類学的な参与観察の業績として十分に通用する内容になっていて(もちろん多くの学術書よりも読みやすいです)、『カナダ・エスキモー』というタイトルで出版されています。

 アラスカに関する書籍でほかにぼくが好きなのはジョン・マクフィーの『アラスカ原野行』。やはり著者はジャーナリストですが、時間と手間と紙幅をかければこれほど豊かな情報を読者に与えられるものかと感心させられた本です。ぼくのアラスカ理解のかなりの部分はこの本が基点になっているといっても過言ではありません。

 ほかには、読み物として、星野道夫さん、野田知佑さんも好きですね。

 一方、アラスカについての書籍のうち、ぼくが個人的にあまり好きではないものもついでに2冊紹介しておきましょう。

 ひとつは桐生広人『消える氷河』。地球温暖化の影響は極地方で極端にあらわれているらしく、カナダの氷河はおそらくあと50年もたたないうちに消えてしまうと予想されています。そのことを科学者の予測という方向だけでなく、エスキモーたちからの聞き取りからも明らかにしようと、環境保護団体「グリーンピース」が行った調査に同行したフォト・ジャーナリストが書いた本です。残念ながら、また聞き、耳学問、思い込み、が随所に盛り込まれていて、信頼性には欠けます。しかし、アラスカの環境保護派の主張を知るには手ごろな一冊です。このテーマで書かれた日本語の資料としてはたぶんもっとも入手しやすいものだからです。というより流通に乗ってる書籍としては唯一じゃないかな。

 これに関連して、最近、極地方の先住民たちがアメリカ政府を裁判に訴えました。先進諸国の環境保護の無作為が地球温暖化を後押ししていて、その結果、薄くなった流氷や河の氷が割れて死亡する事故が相次いでいる。こうした事故の責任は先進諸国にあるが、中でも環境保護政策の国際合意(具体的には京都議定書でしょう)をじゃましているアメリカ政府の罪は重い、というわけです。

 もうひとつは、ノンフィクション新人賞かなにかを受賞した広川まさき『ウーマン・アローン』です。フランク安田の存在を知ってそのゆかりの地を訪ねてみたい、とユーコン川をカヌーで下ることを決意し、冒険を終えるまでを清新な感性でつづった紀行文です。読後にちょっと勇気が出るような、そんなお勧めの一冊。賞を取るのもわかります。

 なのにどこがあまり好きじゃないのかというと、最後にただ一点だけなのですが、どうしても許せない独善性を感じるためです。

 フランク安田とエスキモーたちが拓いた町「ビーバー」を訪問した彼女は、現在の町長から「もうフランク安田のことを知っている人はここにはほとんどいないのよ」といわれ、町長からの要請もあって、新田次郎の『アラスカ物語』とその英訳本を寄贈するために戻ってこよう、そしてエスキモーたちに読んでもらうんだと決意します。それが次の旅を予感させる終わり方になっているのですね。

 『アラスカ物語』にはぼくも感激しました。でも、同書はいかにエスキモーに好意的に書かれているとはいえ(同書が書かれた当時の価値観としては本当に驚くべきことです)、やっぱりエスキモーとその文化を日本人の目で外から眺めた内容ですし、計画的思考という意味では無能なエスキモーたちを一本筋の通った日本人が救ったというストーリーです。それを当のエスキモーたちが読んではたして感動するかな。しかも、もはや計画的思考と産業社会の価値観を知っていて、ときには自分の祖先を恥じることもあるエスキモーたちが、読んで面白いと思うものなのかな。日本人のナショナリズムを押し付けられたエスキモーは迷惑だろうなと思わないのかな。

 著者の魅力は、むしろそんなことを考えずに思い込み一本で猪突猛進するところです。こうした独善性は『ウーマン・アローン』全体を貫く特徴のひとつで、それが鼻につかずにむしろ好感をもって読めてしまうところが、人徳というか、この本の魅力になっています。ただ、最後のこれだけは、ちょっと白けてしまうんですよね。

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