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日本における排外主義

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 昨日、「マイノリティが標的とされる現在」というシンポジウムで話をする機会を得ました。

 好意的な評価もありましたが、「わかりにくい」「むずかしい」という指摘もいただきました。統計的な分析に基づく議論をうまく伝えられなかったということだけでなく、資料を配布せずにスライドを投影しただけだったことも、理解の妨げになったかもしれません。

 そこで、ご来場いただけなかった方に情報提供をする意味も兼ねまして、報告用スライドをこちらに掲載いたします。当日は時間制限のため、このうちいくつかのスライドを省略しましたが、これがフルバージョンです。

評価の公平性

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 すべての文芸作品には「舞台装置」があります。

 SFの作品が例としてわかりやすいかな。たとえばタイムマシンものだと、現在よりも高度に科学技術が発達した時代があり、そこでは時間を越える旅行が可能になっている――そういう虚構の世界が設定されています。その虚構の設定、すなわち舞台装置を前提として、登場人物や出来事といった素材がストーリーを組み立てていくわけですね。

 舞台装置はあくまで虚構なので、人によってはそれを受け入れられないこともあります。「フィクション(作り話)はシラけてしまって感情移入できない」とか、「SFはきらい。ありえないもの」という人は、作品を評価する以前に舞台装置を受け入れられないわけです。

 だから、文芸作品として成功するためには、まず、その舞台装置を多くの人に受け入れてもらわなければなりません。そのためには、現実の生活となじみの深い舞台を借用するのが手っ取り早い。たとえ作り物の舞台でも、おなじみのものであれば「あぁ、そういうのってあるよね」とすんなり感情移入できるから。具体的には、学校、会社、サークル、仲間集団、といった場所を舞台にしてしまう。

 何の話をしているかというと、『ハリーポッター』のことです。ぼくにはあの作品の舞台装置が、すでに受け入れがたいものになっています。児童文学だから多少の矛盾には目をつぶりますが、"ぜったいにありえない"ことを前提にされてはさすがにシラけてしまいます。

 というのも、どこの国の学校にも、例外なく共通した原則がひとつだけあります。評価の公平性です。すべての生徒の努力と能力を公平に評価するという原則。それが、『ハリーポッター』の学校では満たされていません。

 ミクロな面から説明すると、"教師は生徒の努力と能力に見合った評価を公平に下す"という約束が守られないかぎり、まじめに努力しようという生徒はいなくなっちゃいます。努力するより先生に気に入られるほうが重要になるからね。そしてどうしても先生に気に入ってもらえない生徒はやる気をなくすだけです。そして授業が成り立たなくなってしまう。ある生徒が特別な才能を持っている場合は、指導にかたよりが出ることはあるけど、評価は公平でなければならないのです。

 マクロな面からいうと、"がんばって勉強していい学校に行けば、いい職業を得ることができるし、結果として豊かな生活を送ることができる"という物語をみんなが信じていれば、たとえ今は貧しくてもあしたを信じてがんばることができます。でも、"どれだけがんばっても貧乏人は貧乏のまま。貧乏人の子どもも貧乏のまま"となると、純粋に知識欲のある生徒をのぞいて、努力する生徒はいなくなってしまう。社会の生産性は低下する。不公平で不平等な世の中に不満が高まる。社会の秩序を維持することができなくなる。

 現実には、生徒の努力と能力とは無関係に、教師が"お気に入り"をひいきするということもよく聞く話です。しかし、そんな先生でも、特定の生徒に有利な評価をしたと認めることはまずありえません。建て前のうえでは、すべての生徒を公平に評価しているという約束を破ることはできないのです。でなければ、授業が、そして学校が崩壊してしまう。

 ところが、『ハリーポッター』では、校長があからさまに主人公をひいきしますね。しかも、校長が「(評価で)ひいきしちゃった」と主人公に告白したりします。在学生に向かって、公平性の約束を自ら破壊してしまう校長など、この世に存在しません。

 どうしてあんなナンセンスな舞台装置を設定したのか、ぜひ著者に聞いてみたいものです。

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