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 高校無償化・就学支援金制度から、朝鮮学校だけが排除されてきたことは周知の通りです(朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A を参照)。文科省は「慎重に審査している」という名目で3年間に渡って朝鮮学校からの申請を放置してきたわけです。

 これに対して、朝鮮学校側は日本政府の差別対応が解消することを辛抱強く待っていたわけですが、安倍首相が不支給を決定したことで事態は大きく展開しています。

 ひとつには、朝鮮学校側から法的な訴えがなされています。今月24日、大阪朝鮮学園は日本国に対し制度の適用を義務付けるよう求める訴訟を大阪地裁に起こしました。同日、愛知朝鮮中高級学校の生徒、卒業生らも、損害賠償の支払いなどを求め名古屋地裁に提訴しました(次のリンク参照)。


 もう一つは、従来の高校無償化法では、朝鮮学校だけを除外することにどうしても違法性の疑いが拭い去れないため、文科省は省令改正のための意見公募を始めました(次のリンク参照)。


 これに応じて、いくつかのブログがパブリックコメントの内容を紹介しています。


 これらに倣って、遅ればせながら当ブログでもパブリックコメントの内容を公開したいと思います。パブリックコメントは本日締切です。

 就学支援金に関しては、長期間に渡って朝鮮高級学校からの申請を放置し続けてきたこと自体、行政手続き上の問題が小さくない(問題Aとする)。加えて、朝鮮学校のみを外形的基準以外の要素で特別に放置し続けてきたことについては、日本国憲法第26条1項、同第14条、国際人権規約A規約第13条、人種差別撤廃条約、子どもの権利条約28条、29条1項、30条等などに抵触する可能性の高い人権侵害であることが指摘されている(問題Bとする)。

 問題Aについて、文科省は政権交代前の時点では、(1)審査は年度ごとに実施している、(2)報道された内容を慎重に審査している、というロジックで不法性を逃れようとしていたようだが、実際には北朝鮮への外交的な措置として停止されてきたことは周知の事実であり、欺瞞は明らかである。

 問題Bについては、文科省は上記2点の理由により、「基本的に運用の問題であり、時間がかかっているだけである」と説明していたそうだが、下村博文文科相は在日本朝鮮人総連合会と密接な関係にあることや北朝鮮による拉致問題の進展がないことを適用しない理由として挙げており、文科省の説明はすでに破たんしている。

 したがって、残っている問題は、(a)在日本朝鮮人総連合会と密接な関係にあることや北朝鮮による拉致問題の進展がないことを理由に、朝鮮高級学校からの申請を放置し続けてきたことが妥当かどうか、(b)これらの理由で、朝鮮高級学校のみを就学支援金の対象から除外することが妥当かどうか、(c)aおよびbに十分な説明がないまま、省令を改正して事後的に朝鮮高級学校を排除することが妥当かどうか、(d)朝鮮学校を(名目上、合法的に)排除するために、ホライゾンジャパンインターナショナルスクールとコリア国際学園まで巻き添えにすることが妥当かどうか、の4点である。

 aおよびbは外交と教育になんら関係がない以上、妥当性に欠けることは自明である。朝鮮高級学校に通う生徒たちが北朝鮮による日本人拉致事件に関与したという事実がない以上、そのことによって生徒たちが不利益を被るのは理不尽である。

 したがって、cについても、今後もし十分に説得的な理由が開示されないまま省令が改正されれば妥当性はないということになる。

 dは、(朝鮮学校を排除するために各種学校全体を排除してきた)伝統的な文科行政に近いともいえるが、すでに朝鮮学校を狙い撃ちにした手続きであることを下村博文文科相が明言している以上、「国民の理解」が得られるとは到底思われない。

 以上の理由から、朝鮮高級学校を就学支援金制度から事実上排除するための省令の改正案は不適切であり、適法に朝鮮高級学校の申請を受理し、就学支援金を速やかに支給することが妥当だと考えます。

 ある言動が「反社会的」だからという理由で非難されることはめずらしくありません。刑法に触れるような行動はもちろん、カルトなどはたとえ違法な行為を行っていなくとも「反社会的」な存在だとして批判されることがあります。ツイートの内容が倫理的に逸脱しているということで「反社会的」だと抗議される場合もあります。

 でも、「反社会的」とはどういうことを指すのか?

 言動の性質自体から「反社会的」であるかどうかを確定するための客観的な定義は、この世に存在しません。概念的には定義できないわけではないのですが、あまりにもあいまいで流動的な要素を含んでいるため、操作的には定義できないのです。

 例えば『新明解国語辞典』(三省堂)にはこう書かれています。

はんしゃかいてき(ハンシャクワイテキ)【反社会的】
その社会の法秩序にあえて反抗したり道徳上の社会通念を故意に無視したりする言動をとることによって、社会の他の成員にまで好ましくない影響を与える様子。

 しかし、ここでいう「法秩序」や「道徳上の社会通念」というのは、社会によっても、時代によっても変化します。しかも、人によっても判断が分かれますので、いつでもどこでも誰にでも通用する「これが反社会的な言動だ」という基準は、存在しないわけです。

 社会によって基準が違うというのは、例えば、東京都知事が「中国人はDNAレベルで残虐」というコラムを新聞に書いた件ですが、ヨーロッパであれば即、政治生命が終わるほどの大きな問題発言です。国によっては確実に刑法に問われるたぐいのものでしたが、日本ではごく小規模な抗議があっただけでした。

 また、時代によって基準が変化するというのは、例えば、2003年時点でディクシー・チックスが「テキサスから大統領がでたことを恥ずかしく思う」とイラク侵攻を批判したことは、当時のアメリカ社会においてきわめて「反社会的な発言」だったため、様々な迫害にあい、微妙な謝罪に追い込まれました。しかし、2006年時点にはすでに「勇気ある発言」が賞賛されるようになっており、2007年にはグラミー賞の関連部門を制覇しました。これは、音楽活動だけでなく、政治的な活動を評価されてのことだというのが一般的な解釈です。

 ただし、定義できないといっても、もちろん、「反社会的」な言動がこの世に存在しないという意味ではありません。

 社会には規範というものがあります。それに反する言動に対しては何らかの負のサンクション(制裁、罰)が作用します。破った規範の性質によっては、嫌味をいわれるといった軽いサンクションを受けるだけのこともあります。それに対して、重大なタブーに触れたりすれば、極刑を受けたり村八分にあったりという非常に重いサンクションが及ぶこともあります。そういう重い負のサンクションの対象となるような言動に対して、一般に「反社会的」というレッテルが貼られます。

 つまり、「反社会的」かどうかを決めるのは、問題とされた言動の性質ではありません。その言動をめぐる社会の価値判断(規範)が「反社会的」かどうかを決めるのです。「反社会的な言動」というものが客観的に存在するわけではなく、社会の構成員の大勢が「反社会的な言動」だとみなせば、それが「反社会的な言動」になってしまうということです。

 だからこそ、何らかの出来事に対して、ネットで世論を醸成する運動にも意味がある。社会の構成員の大勢を納得させられれば、負のサンクションを発動できるわけですから。Joi Ito氏がいうEmergent Democracyは、こういう運動の理想的側面に注目した概念ですね(伊藤譲一「創発民主制」)。

 ただ、1990年代以降、日本において実際にネットの《運動》が奏功したケースを見ると、そのほとんどは「創発民主制」というより『排除型社会』を象徴するものばかりでした。包摂より排除が、許容より不寛容が、多様性より画一性が、日本のネットを支配してきた。言い換えると、マイノリティへのヘイトスピーチを放置するという不正義はまかり通っているのに、ちょっとした発言の言葉尻をとらえてネットイナゴが殺到する、いびつなイジメ空間であった、ということかもしれません。

 ネットイナゴの成功体験ばかりが蓄積されるというのは、まあ、言論にとって望ましい姿ではないでしょうね。

 2ちゃんねる全盛期とは異なり、近年は日本におけるインターネットの言論空間にもいろいろと明るい兆しが見えてはいますが、悪貨が良貨を駆逐してきた歴史を振り返ると、それに期待することは難しそうです。

 集団内の誰かをこき下ろすことで、集団内に一体感が高まることがあります。「黒い羊効果」や「他者化」と呼ばれる現象です。

 こき下ろされる「誰か」がランダムに決まるのであれば問題はすくないといえますが、実際には、決まった属性や特性をもつ人が恒常的に排除される立場に選ばれることが多いものです。いわゆる、社会的弱者やマイノリティとされる人々ですね。社会学では、それを「他者」と呼びます。「他者」とは、「われわれとは異なる存在」であることを示す排除の記号です。

 ユダヤ人、黒人、女性、難民、異端者、共産主義者、障がい者、同性愛者、等々、さまざまな属性や特性が恣意的に「黒い羊」に選ばれ、「他者」として排除されてきました。その人たちを差別したいから(だけ)ではなく、むしろ《その人たちとは違う私たち》の一体感を高めるために。

 この原理を政治手法に昇華させたものがいわゆるファシズムです。ファシズムは、「他者」を意識的に排除することによるカタルシスで熱狂的に社会統合を高める特徴を持っています。

 ただし、ナチス・ドイツによるユダヤ人等への虐殺を代表として、ファシズムは凄惨な人権侵害を必然的に発生させるということで、大戦後の社会がその抑制に尽力してきたことは周知の通りです。例えば、「他者」に対する憎悪の煽動を法で禁じている国は少なくありませんし、個人に対してオールマイティの権力を行使しうる立場の公人がぜったいに選択してはならない禁じ手だというのが国際社会の通念です。

 しかし、日本には、公人の中にもこの原則の重要性を理解していない愚か者がいますね。片山さつき氏は間違いなくそのお一人だといえるでしょう。以下は、昨日、片山氏がツイッターに投稿したツイート。

従軍慰安婦への見舞金は、必要ありません!海外で韓国が日本人学校の教育内容(当然竹島を日本領土としている)を提訴したとの報道ありますが、徹底抗議抗戦すべきです。訪米した閣僚は何してるの?反日、チェジュ思想を教える朝鮮学校の無償化検討などするから、舐められる!怒りと反対の輪広げよう! (@katayama_s 2011/09/25 12:40:15)
https://twitter.com/katayama_s/status/117805586627833856

 ここに登場する「チェジュ思想」とは、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の思想体系である「チュチェ思想」(主体思想)の誤りであることは明白です。カタカナにすれば似ているようですが、単なるタイプミスではありません。日本において「チェジュ」といえば韓国の名勝地である済州島以外を指すことはありえず、わずかなりともこの分野の知識があれば、まず、両者を間違うことはないからです。

 言い換えると、片山氏は、隣国の思想体系についてわずかな知識すら持ち合わせていなかったにもかかわらず、上に引用した攻撃的なツイートを書いたということになります。誹謗中傷というほかありません。まあ、片山氏にとっては、「チュチェ思想」だろうが「チェジュ思想」だろうが、どうでもいいのでしょう。《わけのわからない「反日」のマインドコントロール源》だという偏見を流布したかっただけなのでしょうから。

 しかし、そのために、朝鮮学校を無償化の対象とすべきでないと主張しているのは、悪質な政治手法です。愚劣な政治家による見下げ果てた煽動ですね。公人によるヘイトスピーチは、刑法によって禁じられている国が少なくはないということをあらためて指摘しておきたいと思います。

 片山氏のヘイトスピーチを受けて、在日コリアンがどう反応したかというと、まずはこちらのまとめをご覧ください。軽妙にユーモアで受け流していることが理解されるでしょう。

「チェジュ思想とは何か」http://togetter.com/li/192465

 憎悪の煽動は、「他者」の人権を犯にさらす罪であるというだけでなく、社会統合に深刻な打撃を与えることで国家秩序を掻き乱す罪でもあります。はたして、この日本社会の利益、この日本の民主主義を真摯に考えているのは、片山さつき氏なのか、それとも在日コリアンなのか。ぼくには、少なくとも前者ではないという確信がありますね。

1. リスク社会における「他者」

 東日本大震災は、日本に暮らすあらゆる人々に、様々な課題を突きつけたことだろう。複数の国家の狭間に生きる在日コリアンとしては、惨事に昂揚したナショナリズムの中で、「自分はどこに所属し、誰を守るべきか」という、実存的な問題に改めて直面することになった人も多いのではないだろうか。だが、アイデンティティの問題はひとまず措いて、ここでは、「リスク」をキーワードに、在日コリアン(およびそれを取り巻く日本社会)が直面している新しい課題について考えてみたい。

 「リスク」といえば、1986年のチェルノブイリ事故以降、現代社会を解読するキーワードとして、世界でもっとも注目を集めてきた言葉の一つである。

 例えば、社会学分野におけるリスク社会論の第一人者ウルリッヒ・ベックは、現代の産業社会は「階級社会」ではなく「リスク社会」であると主張している。階級社会において分配問題の争点を作り出していたのは「平等という理想」であった。それに対して、リスク社会では「安全性」こそが社会の基礎となり、社会を動かしている。言い換えると、「不平等」をめぐって連帯と闘争が繰り広げられた階級社会とは異なり、原発事故に代表される現代の新しいリスクの前では、「不安」をめぐって連帯とコミュニケーションが行われるというのである。

 なるほど、宮城県の東北朝鮮初中級学校では、総連系の有志によって運ばれてきた在日コリアンからの救援物資を避難中の日本人被災者と分けあい、さらに近隣の日本学校で焼き肉の炊き出しも何度か行われた。貧富の差や、国籍と民族の垣根を超えて、ともに被災の苦境と「不安」とを乗り越えようという実践だといえよう。

 だが、この「不安による連帯」は、必ずしも在日コリアンにとって幸運に作用するとはかぎらない。というのは、ひとは危険に曝されても、合理的なリスク意識を形成するとはかぎらず、むしろ不安にかられて非合理的な推論に逃げようとすることがあるからだ。ベックの表現を借りると、「危険が理解しがたいもので、その脅威の中で頼るものもないため、危険が増大すると、過激で狂信的な反応や政治思潮が広がる。こうした反応や政治動向によって、世間のなんでもない普通の人々を『避雷針』にして、直接に処理することが不可能な眼に見えない危険を処理することが行われてしまう。」

 ただし、「普通の人々」は、危険の存在を暴き立てるような行動(例えば原子力発電反対デモに参加するとか)をとることで一時的に「避雷針」として敵意の対象となるだけだが、行動とは無関係に属性によって恒常的に「避雷針」の役割を押し付けられる人々がいる。すなわち、「他者」である。「他者」とは、「われわれとは異なる存在」であることを示す排除の記号である。

 「他者」は、現代の新たなリスクを等しく共有しているにもかかわらず、しばしば「不安」による連帯に加わることを許されず、それどころか、リスクを生み出す害悪として「不安」の対象に貶められる。

 ベックはスケープゴートになりやすい「他者」の例として「ユダヤ人、黒人、女性、難民、異端者、共産主義者など」を挙げるが、日本では、「朝鮮人」が筆頭に加わることになろう。今回の震災後も、「阪神淡路大震災のとき、地震で、朝鮮人によるレイプ多発の事実と、放火説があります」「仙台市○○中学校が中国人・韓国人が7割の留学生らの心無い行動で避難所機能停止」といった差別デマを執拗に振りまく者がいた。

 だが、「他者」をリスクそのものとみなす非合理的な観念は、残念なことに、こうした一部の狂信的な政治思潮の保持者だけに流布しているものではない。朝鮮学校「無償化」除外問題をめぐって改めて明らかになったことは、日本政府こそが、在日朝鮮人を再生産するための教育機関を「リスク」としかみなしていないという事実であった。

 こういうと、「日本政府が在日コリアンを治安の対象としてきたのは植民地時代から一貫した政策ではないか」という反論があるかもしれない。なるほど、在日コリアンは過去一世紀以上にわたって、つねに日本における「他者」として苦悩と困窮と暴力を与えられてきた。

 しかし、いまや在日コリアンは、単なる「他者」ではない。もはや、「平等」をキーワードとした訴えだけでは説得力を持たない、「リスク社会における『他者』」なのである。スケープゴート化から自己防衛するためには、伝統的な「他者」への暴力に曝されているというだけでなく、リスクへの不安のヨリシロとして新しい暴力に曝されているという自己認識を確立すべきであろう。

2. 「他者」にとってのリスク・コミュニケーション

 ところで、震災後、日本国内では大いにナショナリズムが昂揚したにもかかわらず、内閣は不思議と支持率を落としたように見える。毒舌の専門家らがそろって適切だと評価した政府の決定にすら、マスメディアが激しく攻撃していたところをみると、おそらく、政府の行動の是非が問われただけでなく、震災や原発事故のリスクについて適切な情報を提供できなかったことで、市民に不安と不満を高じさせたことが原因の一つかと思われる。

 このエピソードからは、リスクの大きさを正確に評価して意思決定することも重要だが、それだけでなく、リスクの受け手に積極的に情報提供をすることで、必要以上に不安を抱く必要はないという合意を形成することも重要だということを学ぶことができる。こうした合意形成のことを、リスク・コミュニケーションという。

 リスク・コミュニケーションといえば、一般には、行政や専門家や企業が何らかの決定をする場合、その決定によって影響をこうむると思われる関係者に、リスクの性質や内容について情報を提供したりすることによって、合意形成を目指すことを意味する。いわば、優位な立場にある者が人々を怖がらせないようにする工夫、ということだ。

 しかし、「他者」の場合、話はまったく異なってくる。「他者」は、優位な立場にあるどころか、差別され、排除され、苦悩と困窮と暴力の対象となる人々だ。しかも、このリスク社会においては、多数派が「わたしはあの人たちとは違って安心だ」という感情を共有するために「他者」を排除するという現象まで発生する。リスク社会における「他者」とは、安心を脅かすリスクそのものだという役割を一方的かつ理不尽に与えられる存在だといえる。

 「ゼノフォビア」という心理現象がある。端的に「外国人嫌悪」と訳されるが、異文化集団を怖がったり、嫌悪したりする傾向のことだ。差別感情の一種ではあるが、よそ者を警戒するのは当たり前だと、正当化されがちなことが特徴の一つである。

 ゼノフォビアは根拠の不明な不安感情であるため、合理的な理由などなくとも成立する。例えば、日本国民を対象としたある調査によると、「日本で発生している犯罪の何割が定住外国人によるものだと思うか」という質問に対して、回答の中央値は20%であったという。ところが、正解は約1%である。つまり、半数の回答者は、定住外国人の犯罪性を真実の値の20倍も高く誤認しているということになる。しかも、回答者の14%は、日本の犯罪の半数以上が外国人によるものだと信じていた。日本人は、外国人に対して非現実的なまでの犯罪性をイメージしているわけだ。「他者」は、こうやって、「危険な存在」という役割を付与されるのである。

 しかし、その役割付与がいかに理不尽であろうとも、現代の「リスク」への恐怖に対して、「平等」や「人権」といった近代の市民的規範によって抵抗することはもはやむずかしくなっている。となれば、「他者」は、自分自身を「リスク」とする屈辱的な役割をひとまず引き受けた上で、そのリスクは不安に思う必要がないほど低く、そもそもリスクという役割を付与することが間違っているのだと多数派を説得しなければならない。これが、「他者」にとってのリスク・コミュニケーションである。

3. 在日コリアンのリスク・コミュニケーション

 前述した外国人犯罪と同様、在日コリアンを危険視する言葉は、ほとんどがデマに近い。あるいは、少なくとも合理的な根拠に基づくものだとはいいがたい。とはいえ、ただやみくもにデマだと抗議しても、情動の次元で不安に凝り固まっている人々を安心させることはできないだろう。

 そこで、この節では、リスク・コミュニケーションを実践する場合のヒントとして、朝鮮学校を「リスク」視する主張に対して、具体的に反論を試みることにしよう。

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 「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない。」

 この種の主張に対して「反日教育などやっていない」と反論をしても、あまり効果は上がらない。なぜなら、この種のデマは事実に基づいて形成されるのでなく、情動的側面が強いため、反証する事実を示すだけでは修正されにくい。しかも、「反日教育」というあいまいで都合のよいマジックワードが、あらゆる反論を無効化してしまう。

 デマに関する研究によれば、ネガティブなイメージを否定しようとするのではなく、むしろポジティブなフレームワークを与えることが有効だとされている。私の経験から具体的にいうと、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論すれば、デマに対して有効な打撃を与えるようだ。

 朝鮮学校の存在がどのように日本の役に立っているかといえば、以下のようなことが挙げられよう。

(1)朝鮮語話者の大量供給

 隣国との経済的、政治的な交流が不可欠である以上、隣国の言語を駆使できる人材は常に必要とされる。そうした人材を国家が自前で育成しようとすれば膨大な経費を国家予算から支出しなければならない。その点、朝鮮学校は大量の朝鮮語話者を継続的に輩出しているため、単純にその分の国家予算を節約することに寄与していることになる。しかも、2000年からの韓流を支えたドラマや雑誌の翻訳は、その多くが朝鮮学校出身者の手によるもの。韓流による経済効果は、朝鮮学校が支えたといっても過言ではない。

(2)誕生権経済のリクルート源

 これは朝鮮学校というより在日コリアン全体にいえることだが、1980年代に入るまでは非常に厳しい就職差別があったため、学歴にかかわらず一般企業に勤めることは非常に困難であり、その結果、在日コリアンは自ら起業するケースが多かった。

 統計の取り方(「自営」の定義)にもよるが、在日コリアン男性の5割から6割が自営業主である。この比率は日本人男性の2倍以上。いかに自営業に追い込まれてきたかわかる。

 しかし、裏を返せば、自営業のノウハウと知識と人脈を持ち、ベンチャー起業のリスクを果敢にとりにいける人材を、朝鮮学校は大量供給しているともいえる。国家の庇護に頼らない自由で不羈の企業人を朝鮮学校は輩出してきたとも表現しうる。グローバリズムが浸透しつつある中で、在日コリアンは貴重な生存戦略のモデルを日本に提供してきたのである。

(3)「民主主義の学校」の教材

 A.トクヴィルやJ.ブライスの言葉を受けて、「地方自治は民主主義の学校である」と論じられることがある。そのココロは、「地域共同体という身近な環境で身近なテーマについて民主的に解決する訓練を積まないかぎり、国家という巨大な機構を民主的に運営することは難しい」ということだ。

 その点、朝鮮学校は共同体内にある非常に身近な異文化集団である。これを安易に排斥しようとせず、利害を調整しながら上手に付き合うスキルを習得することができれば、日本の民主主義はきっと成熟の度合いを深めることができる。

 これは単に理念的な話ではない。ひとつ具体例をあげよう。

 移民の増加に伴って外国人に対する偏見が強まるという現象が世界的に観測されている。日本でも、外国人の多い地域ほど、外国人に対する偏見が強いことが複数の調査により明らかになっている。ただし、ひとつだけ例外があって、韓国・朝鮮籍者が多い地域ほどニューカマーを含む民族的マイノリティへの排外主義が弱いという現象が見られるのである。

 在日コリアンは、差別や不平等を自力で克服することにより、長年にわたって健全な市民生活を営んできた。その共生実践そのものが、日本社会に多様性への耐性を提供してきたのだと解釈できよう。これも、リスク・コミュニケーションである。

(4)継承語教育の世界的な成功例

 朝鮮学校が、継承語教育の世界的な成功例であることはよく指摘されるところだ。それは、グローバル化が進行する日本において、ニューカマーの子どもたちの教育のモデルともなっている。

 朝鮮学校は、在日コリアンにとっての資産というだけでなく、様々な民族的マイノリティにとっての資産だといえる。さらには、民族的マイノリティの継承語教育の機会を拡大することにより、日本社会の多様性維持というマクロなメリットに大きく貢献しているのである。

(5)マイノリティの人的資本

 民族的マイノリティは何重にも蓄積的に排除される傾向にある。「身分証明書を持っていない人は、社会福祉事業から排除され、選挙権を得ることもできず、合法的に結婚することもできない」(ルーマン)という具合だ。その結果、低い階層に据え置かれたり、スラムを形成して劣悪な住環境に置かれたりすることが少なくない。貧困は犯罪の温床となり、それがまた差別を正当化する根拠として用いられる。

 ところが、在日コリアンの場合、解放直後から日本人と同等の教育を達成してきた。教育達成が出身階層に依存することを考えると、これは世界的にも異例の成功例である。言うまでもなく、在日コリアンが日本人以上に努力をしてきた成果だ。

 ただし、さすがに解放直後の貧困状況では、朝鮮学校がなければ、日本人と同等の教育を達成することはむずかしかったであろう。朝鮮学校があったおかげで、在日コリアンは社会的に転落せずにすみ、それが結果として、在日コリアンの犯罪率を押し下げ、日本社会の統合性維持というマクロなメリットに大きく貢献したのである。

4. リスクではなくメリット

 祖国志向の強い在日コリアンであれば、「朝鮮学校の存在が日本のためになる」という発想そのものを嫌悪するかもしれない。また、「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください」とでもいわんばかりのリスク・コミュニケーション戦略に、強い屈辱を感じる人も少なくはないだろう。

 しかし、そういう人に考えてもらいたいことが二つある。

 一つは、「移民はこの国の役に立つ」と信じている人ほど移民に悪感情を持たない(逆にいえば、「移民はこの国の厄介者だ」と信じている人ほど移民の排斥に賛成する)ということだ。この命題は、世界各国の調査で手堅く支持されている。

 たしかに、在日コリアンがこの国の厄介者だという信念は、まことに馬鹿げたものである。世界の民族状況を知れば、在日コリアンはむしろ「モデル・マイノリティ」と呼べる理想的な隣人であることがわかるはずだ。とはいえ、いかにナンセンスであろうとも、実際にそういう誤解と偏見が流布してしまっているなら、それを払しょくするために合理的な努力をせざるをえまい。

 もう一つは、朝連解散以降、在日コリアンは、実際に日本社会において「リスク」とみなされないように努力してきたという歴史だ。前述した通り、在日コリアンは、差別と不平等にあえぎながら、それを克服して日本人と相同の社会的地位を形成してきた。

 世界中の国家が民族的マイノリティにそれを望んで膨大な予算を支出しているというのに、在日コリアンは日本政府からそのための補助など受けることなく、独力で不利益を跳ね返してきたのだ。この地で立派に市民生活を営んできたということ自体、いくらでも誇ってよい民族集団の歴史なのである。

 問題は、在日コリアンがこの国で果たしてきた貢献について、日本政府はそれを正当に評価する視点を伝統的に持たないし、また、在日コリアンの側もそれを訴える運動戦略を採ってこなかったということだ。

 「人権」「平等」が分配の正義として通用した時代なら、「在外公民」として理不尽を訴えるだけで一定の改善は得られたであろう。だが、現代はリスク社会である。たとえ、根拠のない、偏見交じりの不安であろうとも、それを解消しないかぎり、理不尽な扱いも解消することはない。民族運動にもイノベーションが必要な時代である。そろそろ、在日コリアンはリスクなどではなくメリットであり続けたのだという事実を、自覚的に広く共有する戦略へと転換するべきであろう。

(注)本稿は、『人権と生活』32号(在日本朝鮮人人権協会発行)に寄稿した同題名のエッセイに若干の加筆、修正を行ったものである。

 東日本大震災は、日本に暮らすあらゆる人々に、様々な課題を突きつけたことだろう。国家の狭間に生きる在日コリアンとしては、惨事に昂揚したナショナリズムの中で、「自分はどこに所属し、誰を守るべきか」という、つねにすでにあった実存的な問題に改めて直面することになったという人も多いのではないだろうか。

 だが、アイデンティティの問題はひとまず措いて、ここでは、「リスク」をキーワードに、在日コリアン(およびそれを取り巻く日本社会)が直面している新しい課題について考えてみたい。

 「リスク」といえば、1986年のチェルノブイリ事故以降、現代社会を解読するキーワードとして、世界でもっとも注目を集めてきた言葉の一つである。

 例えば、社会学分野におけるリスク社会論の第一人者ウルリッヒ・ベックは、現代の産業社会は「階級社会」ではなく「リスク社会」であると主張している。階級社会において分配問題の争点を作り出していたのは「平等という理想」であった。それに対して、リスク社会では「安全性」こそが社会の基礎となり、社会を動かしている。言い換えると、「不平等」をめぐって連帯と闘争が繰り広げられた階級社会とは異なり、原発事故に代表される現代の新しいリスクの前では、「不安」をめぐって連帯とコミュニケーションが行われるというのである。

 なるほど、宮城県の東北朝鮮初中級学校では、総連系の有志によって運ばれてきた在日コリアンからの救援物資を避難中の日本人被災者と分けあい、さらに近隣の日本学校で焼き肉の炊き出しも何度か行われた。貧富の差や、国籍と民族の垣根を超えて、ともに被災の苦境と「不安」とを乗り越えようという実践だといえよう。

 だが、この「不安による連帯」は、必ずしも在日コリアンにとって幸運に作用するとはかぎらない。というのも、ひとは危険に曝されても、合理的なリスク意識を形成するとはかぎらず、むしろ不安にかられて非合理的な推論に逃げようとすることがある。ベックの表現を借りると、「危険が理解しがたいもので、その脅威の中で頼るものもないため、危険が増大すると、過激で狂信的な反応や政治思潮が広がる。こうした反応や政治動向によって、世間のなんでもない普通の人々を『避雷針』にして、直接に処理することが不可能な眼に見えない危険を処理することが行われてしまう」ということだ。そしてこの「避雷針」に選ばれるのは、いつだって例外なく、「他者」として構造的に疎外される人々である。

 「他者」は、現代の新たなリスクを等しく共有しているにもかかわらず、しばしば「不安」による連帯に加わることを許されず、それどころか、リスクを生み出す害悪として「不安」の対象として貶められる。

 ベックはスケープゴートになりやすい「他者」の例として「ユダヤ人、黒人、女性、難民、異端者、共産主義者など」を挙げるが、日本では、「朝鮮人」が筆頭に加わることになろう。今回の震災後も、「阪神淡路大震災のとき、地震で、朝鮮人によるレイプ多発の事実と、放火説があります」「仙台市◎◎中学校が中国人・韓国人が7割の留学生らの心無い行動で避難所機能停止」といった差別デマを執拗に振りまく者がいた。

 だが、「他者」をリスクそのものとみなす非合理的な観念は、残念なことに、こうした一部の狂信的な政治思潮の保持者だけに流布しているものではない。朝鮮学校「無償化」除外問題をめぐって改めて明らかになったことは、日本政府こそが、在日朝鮮人を再生産するための教育機関を「リスク」としかみなしていないという事実であった。

 こういうと、日本政府が在日コリアンを治安の対象としてきたのは植民地時代から一貫した政策ではないかという反論があるかもしれない。なるほど、在日コリアンは過去一世紀以上にわたって、つねに日本における「他者」として苦悩と困窮と暴力を与えられてきた。

 しかし、いまや在日コリアンは、単なる「他者」ではない。もはや、「平等」をキーワードとした訴えだけでは説得力を持たない、「リスク社会における『他者』」なのである。スケープゴート化から自己防衛するためには、伝統的な「他者」への暴力に曝されているというだけでなく、新しいリスクへの不安のヨリシロとして暴力に曝されているという自己認識を確立すべきであろう。

 橋下大阪府知事が精力的にツイッターに投稿を続けています。昨日3月9日、朝鮮学校に対する助成金支給についてツイートした内容が、各方面に反響を呼んでいます。ツイートの概要は、以下の通り。(見出し数字は引用者)

    1. 「日本人拉致問題、隣国である北朝鮮の現在の振る舞いを考えると、日本と北朝鮮の歴史的な経緯を踏まえてもなお大阪府民の多くは、朝鮮学校への補助金支出には納得できない。」
    2. 「今の大阪府の状況だと、このまま朝鮮学校に補助金を支出する方が学校にとっても不幸。だって大阪府民は腹の中では朝鮮学校に不満を持ち続けるから。」
    3. 「多くの住民が補助金支給に納得していなければ、不満を抱いていれば、日本と朝鮮学校の共生は成り立たない。」
    4. 「僕は学校と北朝鮮国家の関係性が遮断されることを目的とした大阪府のルールを作りました。」
    5. 「僕が作ったルールに従ってくれれば大阪府民の多くは補助金支給に納得してくれるはず。これで初めて共生となる。」

  いかがでしょう。府知事ご本人も指摘されている通り、少なくとも政府による違法性の高い「高校無償化」除外よりは、ある意味で、筋が通っているように思われます。もちろん「ある意味で」とは、市民社会における公平と平等といった正義よりも、住民感情を重視する政治姿勢を明確に提示した点において、ということです。

  まあ、わたし個人としても、朝鮮学校は国民教育を捨てて民族教育に特化することが経営的にも重要な生存戦略のはずだと思っていますが、しかし、それは朝鮮学校関係者が自己決定すべき問題であって、中等教育において絶大の権力を持つ府知事が、子どもを人質に踏み絵を踏ませるようなものであっていいはずがありません。

  そして、それ以外にも、府知事のツイートにはいくつか重大な問題が含まれていますので、以下に指摘していきたいと思います。 

  第一の問題は、「大阪府においては、現状のままで朝鮮学校に補助金を支給することには納得できないとういのが大多数の意見」と論断しておられるが、じつは、その根拠をお持ちでない(ようだ)ということ。

  根拠をお持ちでないようだというのは、府知事がツイートの中で、「メディアの皆さん」に世論調査の実施を請願していることからうかがえます。しかし、根拠のない印象論で、これほど重大な政治的意思決定をしたということは、はなはだ重大な問題だといえます。

  印象論でよいというなら、賛成意見と反対意見が伯仲しているのが実態だろうというのが、わたしの印象です。ただし、排外主義的な要素を持つ反対意見は、排外主義の持つ権威主義的な性格により、より強硬な主張として表出するため、目立ってみえてしまう可能性はありますね。

  第二の問題は、北朝鮮に対する悪感情は、植民地主義とレイシズムにルーツがあるという事実を無視していることです。

  心理学分野には「感情温度計」という指標があり、偏見研究の文脈でこれを各外国人に適用した業績が多数あります。さまざまな人種・民族・外国人に対して、日本人の好悪感情を測定し、それを比較しているのですね。

  それらの結果をみると、戦後すぐから一貫して、「朝鮮人」と「黒人」が最悪の感情の対象に位置付けられてきたことがわかります。

  つまり、戦後についていえば、「日本人拉致問題」以前から、それどころか、おそらくは1948年に朝鮮民主主義人民共和国という国家が成立する以前から、恒常的に朝鮮人に対する悪感情は存在していたということなのです。 

  この悪感情の由来については諸説ありますが、「日本の属国だったくせに戦勝国然として傲慢なふるまいをする」ということに対する反感と、朝鮮人に対する蔑視感情があったということを否定する論者はほとんどいません。つまり、植民地主義とレイシズムです。

  かりに、北朝鮮の現在の振る舞いに、現代の日本の価値意識に照らして許容しがたい側面があると判断したにせよ、植民地主義とレイシズムを源流とする悪感情をそのまま「住民意識」として重視する府知事の姿勢は認めがたいところです。

  第三の問題は、植民地主義とレイシズムを源流とする以上、たとえ朝鮮高校が大阪府のルールに従ったとしても、「大阪府民の多くは補助金支給に納得してくれる」という事態は予想しがたいということ。

  もちろん、現在でも補助金支給に賛成している府民の多くは納得するでしょう。一方、現在、補助金支給に反対している府民は、理性ではなく情動の側面で、朝鮮学校に悪感情を投射している可能性が高い以上、たとえ朝鮮高校が「大阪府のルール」を受け入れたところで、「腹の中では朝鮮学校に不満を持ち続ける」状況が継続するだけです。

  むしろ、しょせんは恣意的な「大阪府のルール」を受け入れたところで、また別の恣意的な基準で排外意識が正当化されるだけ、というのが合理的な予測ですよ。

  世論調査をやれというなら、それこそ、「大阪府のルール」を受け入れた朝鮮初中級学校と、完全には受け入れなかった朝鮮高級学校とを比較して、悪感情に差異があるかどうかを尋ねてみることですね。よけいな誘導をしなければ、統計的に有意な差異は検出されないと思いますけどね。

  第四の問題は、一方的に条件を押しつけて、飲まなければ補助金を停止するというのは、「ルール」というより脅迫だということ。しかも、脅迫によって達成しようとしていることは、民族教育への介入だということ。

  第五の問題は、 橋下府知事がいう「在日と日本人の共生」とは、マジョリティによるマイノリティに対する一方的な支配にすぎないということ。

  一般に、規模の異なる民族集団が接触すると、大きな民族集団が小さな民族集団を排除したり抹殺しようとしたりすることが少なくありません。そのプロセスでは、当然のことながら、凄惨な人権侵害が発生することも避けられません。

  したがって、そのような凄惨な競合状態が発生する前に、権力を委託されている行政府が、悲劇の発生を食い止める努力をしなければなりません。行政府が実現するべき「共生」というのは、こういうことです。

  そのための具体的な手法として、同化論、るつぼ論、サラダボウル論などが提案されては消えてゆきました。そして、現在のところ、もっとも有効性が高いと考えられているのが、多文化主義です。多文化主義とは、異なる民族集団が、文化的には独自性を保ったまま、経済的には平等を達成できるようにするべき、という立場のことです。

  一方、橋下府知事が明言したように、「僕が作ったルール」に従わなければ補助金を支出しないというスタンスは、世界的に悪質性が高いと考えられている「同化論」に近い。同化論は、現代の欧米諸国において、「差別と同じ」だと考えられています。なぜなら、それは「共生」というより、マジョリティによるマイノリティに対する一方的な支配だからです。

  恣意的な「ルール」の強要を「共生」だと強弁する橋下知事のツイートには、「差別」を「区別」だと言い逃れようとするのと同様のグロテスクさを感じざるをえません。

 

 朝鮮学校の「高校無償化」については、第三者機関による周到な検討を経て、いったん適用が決まっていたにもかかわらず、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)による韓国砲撃へのリアクションとして、政府が審査手続きを停止している状態が続いています。

 朝鮮学校生徒保護者からは、先月、文部科学省に対して行政不服審査法に基づく異議申し立てがなされていましたが、このほど文部科学省から回答の通知が送付されました。内容は以下の通りです(参考:朝鮮学校無償化問題FAQ)。

平成23年1月17日付をもって、あなたから提出のあった公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律施行規則第一条第一項第2号ハの規定に基づく指定に関する規定第14条の規定に基づく申請については、平成22年11月29日の北朝鮮による砲撃が、我国を含む北東アジア地域全体の平和と安全を損なうものであり、政府を挙げて情報収集に努めるとともに、不測の事態に備え、万全の態勢を整えていく必要があることに鑑み、当該指定手続きを一旦停止しているものです。(下線は引用者)

 つまり、朝鮮学校に「高校無償化」の適用手続きを停止している理由は外交上の判断だというのが政府の回答だったわけです。

 本ブログでは、政府が外交目的で在日コリアンを抑圧してきた歴史について何度か言及しました(例えば「人権侵害しか切れる外交カードがないとは、どんなならず者国家だ?」)。この主張の妥当性を巡っては意見もあったようです(例えばこちら)。しかし、外交のために理不尽かつ無意味に在日コリアンが抑圧されてきたということは、比喩でもなければ、私個人の思いこみでもなく、単に愚かしい事実にすぎないということを、政府自ら上記の回答によって示したわけです。

 前回の記事(「日系アメリカ人の強制収容所問題と朝鮮学校の無償化除外問題の相似について」)のテーマにも同じことが言えます。政府が海の向こうの軍事衝突を、国内のマイノリティへの人権侵害へとリンクさせた直後に、複数の論者が一斉に「日系人の強制収容所問題を思わせる」と言及しています(例1例2例3例4)。これは、政府が在日朝鮮人の子どもたちを「敵性外国人」扱いし、深刻な人権侵害に及ぼうとしている事実を各方面に鮮明に印象付けたことを示唆しています。

 ところで、国内に居住する外国人の人権侵害とバーターで外交上の利益を達成しようとすることを、俗に「人質外交」といいます。外交目的で朝鮮学校の審査手続きが停止されたのは、「人質外交」の典型事例ですね。ネットで数分検索するだけで、「人質外交」がどれだけ卑劣な人権侵害として忌み嫌われているかわかるはずです。しかも、今回は「人質」となっているのが高校生なのです。国家による破廉恥行為だとそしられても、容易に反論はできないでしょう。

 しかし、これほど愚劣で違法性の高い人権侵害に対して、日本社会はいささか冷淡であるように、ぼくには感じられます。

 丸一年にわたって、朝鮮学校の生徒たちはさまざまな負担に耐えてきました。「お前たちの学校などいらない」という悪意に満ちたメタメッセージを政府から受け続けました。しかし、日本社会の多数派の善意を信じて、毎週のように署名活動をやったりもしました。その信頼に対して、こんな理不尽な仕打ちで失望させたまま卒業させてしまっていいのでしょうか。

 まずは情報を収集したいということであれば、上記の 朝鮮学校無償化問題FAQ がきっと役に立つでしょう。そのうえで、もしこの問題の改善に何か寄与したいとお思いになったら、例えば、「不正義を許さない」という声を首相官邸に届けるのもいいでしょう。あるいは、「教育を外交問題によってゆがめられてはならない、がんばって筋を通せ」という主張を文部科学省に伝えるのもいいと思います。

 とにかく、残された時間は、もう多くはないのです。一人ひとりが、この不正義に加担せず、それぞれにできることを何か一つでも進めましょう。このまま時間切れになれば、日本社会は取り返しのつかないものを失ってしまうかもしれません。ニーメラーの警句は今ここでも重要な意味を持っています。

 

 朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の局地的紛争を受けて、高木文科相と仙石官房長官が、それぞれ、朝鮮学校を無償化の対象とする方針を見直す考えに言及したという。

 なんと愚かなことか。人権侵害しか切れる外交カードがないとは、どんなならず者国家なのかといわざるをえない。もちろん、北朝鮮のことではない。日本のことだ。

 歴史を振り返ると、1950年代には、李承晩ラインをめぐる摩擦により、大韓民国のイメージは最悪に近かった。「劣等国が増長して暴挙に出た」といった植民地主義丸出しの罵倒表現が、連日、マスメディアや国会を賑わしたのだから、それも当然だろう。

 そうした世論を受けて、当時の日本政府はどうしたか。まだ日韓両国に正式な国交がなかったこともあり、日本政府は韓国に直接的な抗議をするのではなく、国内のコリアンを抑圧することで、韓国に対する外交カードに(あるいは憂さ晴らしで国民のガス抜きを)しようとした。

 つまり、李ラインで日本人漁民が拿捕・抑留されたことに対抗して、「日本に住む朝鮮人を全員、韓国に強制送還せよ」といった強硬論が国会で審議されたり、コリアンを微罪で逮捕した挙句、強制送還をちらつかせて大村収容所に収監したりしたわけだ。

 今回の日本政府のスタンスは、50年代当時と完全に同じ構図である。第一に、国内のコリアンに対する抑圧をちらつかせることで外交カードの不在を補おうとしている点において。第二に、その愚劣な発想が法的にも外交的にも妥当性を欠くという点において。

 朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、少なくとも法的には妥当性のない政策だ。日弁連の会長声明が明快に断言したように、法的な観点からは「この差別を正当化する根拠はない」のである。法的に可能であれば、朝鮮学校は無償化の対象外とすることで、とうに決着が付いているだろう。

 また、外交的観点からも、無償化除外は合理的ではない。なぜなら、北朝鮮に外交的な攻撃の糸口を与えてしまうことになるからだ。日本政府が北朝鮮の人権状況を批判したところで、鼻で哂われて終わりということになりかねない。むしろ、2月末にジュネーブで行われた人種差別撤廃委員会の対日審査で、複数の委員が「差別だ」として無償化除外問題に疑念を表明する一幕があったことを考えると、外交的にはむしろ日本の汚点になるといったほうがいい。

 この半世紀、日本の半島政策と在日外国人政策に、イノベーションも理念の深化もなかったということだろう。日本政府は、いったいいつになれば、自らの愚かさに目覚めるのか。

 

参考)各弁護士会の会長声明

日本弁護士連合会 http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/100305.html
東京第二弁護士会 http://niben.jp/info/opinion20100304.html
東京弁護士会 http://www.toben.or.jp/news/statement/2010/0311.html
大阪弁護士会 http://www.osakaben.or.jp/web/03_speak/seimei/seimei100310.pdf

 

その後の顛末

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 前回の記事(「帰化すればいい」という傲慢)について、その後の経緯を説明しておく必要があります。

 ツイッター上で宮台真司さんご本人と激しく意見を交換したところ、論点1で指摘した件について、率直な謝罪と撤回の弁がありました。

miyadai:#miyadai デマを言ったとは思わない。だが生活保護は別に社会福祉の受給権の歴史を勉強させて貰いました。特権という言葉は使ってないが、日本人並み云々は撤回します。RT @han_org: ...多数の無礼な表現、申し訳ありません。一方、あなたもデマの流布を謝罪してもらえませんか。 [http://twitter.com/miyadai/status/11284450923]

miyadai:#miyadai デマとは「あえてつくウソ」という意味ですが、特別永住者の社会福祉受給権の歴史について、知っていて無視したのではなく、知りませんでした。ただ僕は研究者なので、査べなかった怠慢は謝罪に値すると思っています。今後もよろしくお願いします。@han_org [http://twitter.com/miyadai/status/11284707876]

 ぼくの周囲では、前回の記事や、議論の途中における宮台氏のツイートをお読みになった方の中から、氏の人格に疑問を持つという意見も聞かれました。しかし、見知らぬ者(ぼく)から攻撃的な主張をぶつけられて、率直にそれを認めるなど、なかなかできることではありません。とても立派な態度だと思います。

 また、結果としては、特別永住権そのものが「特権」だったということはないと認めていただいたわけで、この点については今後おそらく応援してくださることでしょう。

 取り残した議論もありますが、上記の撤回に加えて、「犠牲者非難になっている」という批判に一定の理解が示されたことで、ぼくの批判の中核となる対象は解消されたといえます。

 末筆ながら、宮台真司さんには激しい議論にお付き合いいただき、ありがとうございます。また、無礼な表現の数々、失礼いたしました。

 以上、取り急ぎ連絡まで。

【BLOGOSさんへ】

 転載不可です。

 永住外国人に地方参政権を付与する法案はけっきょく日の目を見ませんでしたが、それに関連して一言いっておきたいことがあります。

 宮台真司氏のブログhttp://www.miyadai.com/から、「外国人参政権問題について週刊SPA!12月15日号にコメントしました」の一部を引用します。

■外国人参政権を考える上で、在日韓国・朝鮮人とそれ以外を分ける必要があります。在日韓国・朝鮮人以外の永住外国人は、'90年の入国管理法改正(永住権のない外国人を柔軟に受け入れることを目的として「定住者」という新しい在留資格を創設するなどした。これで日系外国人の在留が激増)大量に入国した日系人が中心です。
■在日韓国・朝鮮人については国籍取得が容易なので、参政権を求めるのであれば国籍を変えていただきたい。帰化をすればエスニック・アイデンティティに瑕がつくとの反論もありますが、国籍とエスニック・アイデンティティを分けて考えるのが国際標準なのです。

 シッタカブリというか、なんというか...。初めてこれを読んだときは呆れて物もいえなかったけど、その後、TBSラジオの「アクセス」でも、在特会レベルのご高説を自信たっぷりに開陳していたようですね(2月16日)。ヘイト・スピーチといっても過言ではない内容です。

特別永住者の方々が最初は2世までという約束で基本的には国籍を取っていないのに日本人に準じる権利を様々に与えられというのは、ご存知のように在日の方々の多くが強制連行で連れてこられたという左翼が噴き上げた神話が背景にあるんです。在日のなかで強制連行されてきた方というのはごく一部で、大半は一旗上げにやってきた人達なんですよ。ただ、区別がつかないから、あるいは戦争に負けて罪の意識というか原罪感覚というのがあったのでしょうか、まぁ、色んな人が混ざっちゃっているけど、しょうがないということで分かってやっている感じで特別永住の方々に対する特権の付与をやってきたわけです。僕に言わせると、あえてそれをやっているという感覚が段々薄れてきてしまっていることも問題だし、1世、2世とは違ってエスニックリソースを頼らず、日本人のネットワークをそれなりに頼っている人間が増えたのに、まだ4世、5世にも特権を与えるのが続いているのはおかしいし

 完全にスルーしたままだと、彼が正しいことをいっているのだという誤解を広めてしまうかもしれないので、いささか出遅れた感はありますし、力不足ではありますが、ここらできっちり訂正する努力はしておくべきでしょう。

1. 平然とデマを流布する傲慢

 まず基本的な歴史の問題として、「特別永住者の方々が最初は2世までという約束で基本的には国籍を取っていないのに日本人に準じる権利を様々に与えられ」たという事実はない。これはおそらく、「91年問題」をご都合主義的に曲解しているのであろう。

 1965年に締結された日韓条約において、「協定三世」(実質的には在日4世以降にあたる)の滞在地位は、協定発行後25年(1991年)までに協議を行うとだけ定められた。これは日韓両政府が、戦後半世紀近くもたてば同化の進展により在日問題は《消失》している可能性があると期待していたことによる。いわば、在日韓国人は日韓両政府から保護の責務を放棄されたわけであって、けっして、「2世までという約束で......日本人に準じる権利を様々に与えられ」たわけではないのである。

 その証拠に、日韓条約締結後も、在日コリアンに対するさまざまな差別は温存された。1965年といえば、法務省の池上努氏が在日外国人を評して「権利はない」「追い出すことはできる」「煮て食おうが焼いて食おうが自由」だと表現した年である。いくつかの例外的な措置を除けば、外国籍者に基本的人権すらも認められていなかった時代の話だ。いったい、何をもって「日本人に準じる権利を様々に与えられ」たなどといえたものか。

 ねえ宮台さん。「2世までという約束で基本的には国籍を取っていないのに日本人に準じる権利を様々に与えられ」たという発言を裏付ける歴史的事実が何か一つでもありますか。特に、2世が活躍するようになった1965年から1981年までの間、「日本人に準じる権利」と呼べる「約束」なるものが、何かありましたか。ぜひとも、証拠を示してほしいもんです。

2. 歴史問題を矮小化する傲慢

 宮台氏は「在日のなかで強制連行されてきた方というのはごく一部で、大半は一旗上げにやってきた人達なんですよ」という。

 なるほど、それは《ウソ》とは言い切れない。いわゆる強制連行で日本に渡ってきた在日一世の男性は2割程度だと推定されている。逆に言えば、8割は出稼ぎだ。したがって、ミクロな次元では、「一旗上げに」海を渡ったケースも当然多かったろう。

 だが、日本が朝鮮半島を植民地支配した36年の間に、朝鮮半島からは膨大な人口が半島外に流出した。植民地支配のプロセスで、伝統的な社会秩序と経済基盤が崩壊したためである。そうしたマクロな社会状況に言及することなく、ミクロな次元でのみ捉えようとするのは公正な視点とはいえない。

 社会学では、こうしたマクロな社会状況の影響で生じた社会移動を「強制移動」と呼ぶ。純粋に自発的な意思で移動したと推定される移動(「純粋移動」)とは区別して分析するためだ。宮台氏も、社会学者である以上、そうした用語法と分析視角についてまったく知らなかったということはあるまい。

 おそらくは、意図的に、在日コリアンの歴史を、ミクロな次元に矮小化しようとしたのであろう。そのことについて、倫理的な問題を責めようとは思わない。だが、少なくとも社会学者として、恥ずかしいとは思わないのかね?

3. マイノリティの生き方を決め付ける傲慢

 ぼくはかつて、「在日コリアンに地方参政権の門戸を開くかどうかというのは《日本人の問題》だ」と書いた(外国人の地方参政権 #1)。すなわち、日本で生まれ育ったにもかかわらず意思決定に参加できない者がいるということを不正義だとみなすか、それとも、「ガイコクジン」だから仕方がないと排除するか、それを責任を持って決めるのは日本人の課題だということだ。

 議論のうえで、やはり外国人には意思決定に参加させられないというのなら、(参政権が認められないことではなく隣人として受け入れられなかったことが)たいへん残念ではあるが、一つの結論として重く受け止めよう。

 だが、「参政権を求めるのであれば国籍を変えていただきたい」などと、マジョリティの知識人が、マイノリティの生き方に口を挟む暴力を、ぼくは許すことができない。

 かりに、宮台氏が「特別永住者には無条件で日本国籍を選択できるようにすべきだ」という言論を同時に展開しているのであれば、まだロジックとしては理解できる。だが、参政権がほしければ頭を下げて仲間入りを請えといわんばかりの一方的な放言を、けっして認めることはできない。

 宮台氏はこうもいったらしい。「日本人のネットワークをそれなりに頼っている人間が増えたのに、まだ4世、5世にも特権を与えるのが続いているのはおかしい」。

 なるほど、「おかしい」だろう。「3世以降になっても外国籍のままであるのはそれ自体が人権侵害である」との主張により国籍法を改正した国もあるほどだ。それを、外国籍のまま放置した旧宗主国の責任を問わず、一方的に「在日特権」呼ばわりするとは、宮台氏の認識こそ「おかしい」のではないか? 

 なお、私が日本の国籍を取得しないのは、「帰化をすればエスニック・アイデンティティに瑕がつく」からではないことを申し添えておく。

4. 「国際標準」を語る愚かさ

 宮台氏は、「国籍とエスニック・アイデンティティを分けて考えるのが国際標準」であるという。ほお、ずいぶんと世界のエスニック・マイノリティについて詳しいらしい。宮台氏にそんな研究業績があったとは知らなかった。

 確かに、国籍とエスニック・アイデンティティが独立しているケースは少なくない。出生地主義の国籍法を持っている国では概してそういう傾向がある。だが、国籍が移民のエスニック・アイデンティティに重要な役割を果たしているケースも少なくはない。「世界標準」などと乱暴に一般化できるようなものではないのである。というより、これだけ複雑で微妙な問題を「世界標準」などと一般化してしまうことで、自らの無知をさらけ出しているも同然である、とぼくは思いますがね。

5. 簡単ならやってみるがいい

 宮台氏は、「在日韓国・朝鮮人については国籍取得が容易」だという。ぼくには日本国籍を取得した在日コリアンの知人もいるが、「容易だ」などという人にはお目にかかったことがない。

 そんなに「容易」だと思うなら、宮台氏自身がやってみればいい。一度、日本の国籍を離脱した上で、再度、日本国籍を取得してみなさい。元日本国籍者は、在日コリアン以上に、日本国籍取得が容易らしいですよ。

 その上で、本当に「容易」だったというのなら、あらためてあなたの発言を評価することにしよう。

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【3月30日追記】→「その後の顛末」へ

橋下発言にみるVictim blaming

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 差別研究には「victim blaming」(犠牲者非難)という有名な概念があります。ウィリアム・ライアンという心理学者が1971年に提起した言葉で、差別や犯罪などのつらい被害をこうむった人に対して、「あなたに(も)落ち度があったからだ」と非難する行為を指します。

 日本語ではvictim blamingをきちんと説明した文献がたいへん少ないので、あまり知られていませんが、池田光穂さんが「医療人類学辞典」の中で簡単に説明してくれていますので、まずは参照してください(→犠牲者非難)。差別や犯罪の被害にとどまらず、病気や事故などとても広範なつらい体験に対して観察される現象だということが理解できると思います。

 もちろん、先頭車両に乗っていて衝突事故で怪我をした人に向かって、「一番前なんかに乗るからだ」と責める行為にいっさいの合理性はありません。原因不明の病気に罹った人に対して、「日ごろの行いが悪かったせいだ」などと非難するのはナンセンスです。犯罪だって、悪いのは犯人であって、被害者を責めるのはお門違いというもの。victim blamingは非合理的な心理現象です。

 非合理的であるにもかかわらず、なぜ、victim blamingは起こるのか? victim blamingの発生要因についてはいくつかの仮説が提起されています。

 例えば、「世界は正しいと信じたい仮説」。世界は合理的で公正だと信じたい人は、非合理的、偶発的に被害が発生する状況を受け入れることができない。それで、「きっと被害者側に自業自得といえる理由があるに違いない」と考えることで自分を納得させようとする、という仮説です。

 他に、「傷つきたくない仮説」というのもあります。これは性犯罪を例にとるとわかりやすいのですが、「性犯罪の被害にあうのは、みだらな服装をしたり、ふしだらな行動をする女だけだ」と思い込んでしまえば、そういう服装や行為を避けることによって、自分は性犯罪の被害には会わないという安心感に浸ることができる、という仮説です。被害者を特別な存在だったとして攻撃することによって、自分が同じように傷つく可能性を否定したいのだ、ということですね。

 なお、「差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある」の中で、差別者扱いされたくない人がvictim blamingをするのだと書いたのは、これらの仮説を応用したものです。

 どの仮説が正しいにせよ、問題を過剰に個人のせいにしてしまうという人間心理の基本的な特性(根本的な帰属の誤り)に基づいている以上、victim blamingの発生を抑制するのは容易ではありません。victim blamingができるだけ発生しないように各人が気を配り、発生してしまったときには周囲の人々が丁寧に非合理的であることを説得するしかありません。

 しかし、ことが権力者による意図的な発言となれば話は別です。たとえ周囲の人々がミクロなレベルで修正したとしても、その言葉のマクロな影響力は制御のきかない状態で広まってしまうからです。

 朝日新聞が3月10日に報じたところによると、大阪府の橋下知事は、「不法な国家体制とつきあいがあるなら、僕は子どもたちを取り戻し、ちゃんと正常な学校で学ばせる。そうしないと朝鮮の皆さんに対する根深い差別意識が大阪府からなくならない」と語ったそうです。

 これは典型的なvictim blamingです。なにせ、差別の原因が差別される側にあると語っているわけですから。

 たとえ朝鮮学校が知事の要請にこたえていくつかの改革をしたところで、大阪から朝鮮人に対する「根深い差別意識」はなくならないでしょう。なぜなら、朝鮮学校のあり方は、差別意識の原因ではないからです。橋下知事の発言がいかにナンセンスであるか、その一点をとっても理解できるはずです。

 この種の発言は、人種差別を扇動する行為として法的に禁止している国がたくさんあります。違法ではなくとも、例えばオーストラリアでは、そうした発言を繰り返したポーリン・ハンソンが所属政党から公認されず、事実上、政界どころか国を追われました。

 権力者がvictim blamingをやって何のお咎めもなく許されてしまうというのは、世界の価値基準からいって、たいへん恥ずかしい状況なのです。

 日本では、マスメディア関係者を含めて、朝鮮学校が否定的に扱われるのは仕方がないと思っている人も少なくないようですが(「橋下府知事の発言をめぐる諸問題」参照)、その状況自体が差別的であるということに気づくのはいつのことでしょうか。

 まず、日本政府が1994年に批准した「児童の権利に関する条約」から、2つの条文を紹介します。

第2条
1 締約国は、その管轄の下にある児童に対し、児童又はその父母若しくは法定保護者の人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治的意見その他の意見、国民的、種族的若しくは社会的出身、財産、心身障害、出生又は他の地位にかかわらず、いかなる差別もなしにこの条約に定める権利を尊重し、及び確保する。

第29条
1 締約国は、児童の教育が次のことを指向すべきことに同意する。
(a) 児童の人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること。
(b) 人権及び基本的自由並びに国際連合憲章にうたう原則の尊重を育成すること。
(c) 児童の父母、児童の文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること。
(d) すべての人民の間の、種族的、国民的及び宗教的集団の間の並びに原住民である者の理解、平和、寛容、両性の平等及び友好の精神に従い、自由な社会における責任ある生活のために児童に準備させること。
(e) 自然環境の尊重を育成すること。

 第2条を読めば、政治的主張を理由として朝鮮学校のみを無償化対象から除外するのは、明らかに同条約が禁止する差別ということになります。日弁連の会長声明が明快に断言したように、法的な観点からは「この差別を正当化する根拠はない」のです。朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、きわめて違法性の高い差別政策だということになります。この点に議論の余地はありません。

 しかし、このことについてはすでに「橋下府知事の発言をめぐる諸問題」において簡単に触れていますので、今回のエントリーでは第29条をテーマに取り上げたいと思います。

 第29条第1項の(C)は、民族教育の尊重を謳った条文です。ややあいまいな記述にはなっていますが、民族文化や出身国の政治的伝統を重視した教育は、「18歳未満のすべての者」(第1条第1項)にとっての権利だというわけです。

 気づいている人はあまり多くはありませんが、日本人はちゃんと日本の学校で民族教育を受けています。まず、日本語の教育を受けられますね。日本の歴史も学べます。しかも、2千年も歴史の違うギザのピラミッドと仁徳天皇稜を比べて、日本の陵墓が世界一だと誇らしげに記述してあったりします。高校だと柔道や剣道を正課で学ぶこともできます。《立派な日本人》になるための教育がいろいろと用意されているわけです。

 その結果、諸外国の青少年に勝るとも劣らない強さの国民的プライドを日本の青少年は持っている、ということが国際比較調査によって明らかになっています。日本の教育を受けると自虐的になると批判する人もいますが、そのような事実は科学的には観察されていません。

 一方、在日コリアンはどうでしょうか。日本の学校に通うかぎり、在日コリアンとしての民族教育を望むことは難しい。事実、私が1993年に関わった調査では、韓国籍の青年のうち、母国語を「まったく話せない」か「いくつかの単語しか知らない」者が7割を超えています。いわば、民族的に文盲のまま放置されているわけです。

 しかも、日本の教科書には、朝鮮半島の歴史は「わざとか?」というほど登場しません。 出てくるといえば被征服の記述が中心となります。それで、ルーツに誇りを持って健全に生育せよというほうに無理がある。上述の調査で、「あなたはこれまでに,在日韓国・朝鮮人である自分を嫌だと思ったことがありましたか」という設問に対して、64%が「あった」と回答しています。

 そうした中で、体系的な民族教育を全国規模で実現している唯一の機関が、朝鮮学校です。日本人の子どもたちが日本の学校で自然な日本人に育っていくのと同じように、朝鮮人の子どもたちが朝鮮人として自然なプライドを身につけていくことができる、唯一の環境だということもできます。

 ミクロなレベルでいえば、日本の学校に通いながらも、在日コリアンとしてのプライドを持つにいたるケースも中にはもちろんあります。しかし、マクロなレベルでいえば、朝鮮学校を否定するということは、実質的に、在日コリアンに対する民族教育の機会を否定するということです。

 大阪府の橋下知事は、朝鮮学校を、その政治的姿勢ゆえに批判していますが、だったら、朝鮮学校と同等の民族教育を保障する政治的に中立なシステムを府下に作ってみればいい。その上での朝鮮学校批判ならば説得力もありますが、現状のやり口は、権力をかさにきたレイシズムの吐露にしか見えません。

 民族教育の多様な選択肢がある中で朝鮮学校だけが攻撃に晒されているのならば、(もちろん、それも人権侵害ですが)まだしも救いはあります。しかし、朝鮮学校は、日本で在日コリアンの児童に権利として民族教育を保障する、現状で唯一の機関です。

 したがって、朝鮮学校のみを無償化の対象外とすることは、実質的に、在日コリアンの子どもたちが在日コリアンとして健全に生育する機会を否定するのと同じだということです。

 1月末、鳩山総理大臣の施政方針演説は、「いのちを、守りたい」という印象的なフレーズが多用されたことに注目が集まりました。その一部を引用します。 

 いのちを、守りたい。
 いのちを守りたいと、願うのです。
 生まれくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい。
 若い夫婦が、経済的な負担を不安に思い、子どもを持つことをあきらめてしまう、そんな社会を変えていきたい。未来を担う子どもたちが、自らの無限の可能性を自由に追求していける、そんな社会を築いていかなければなりません。
(中略)
 差別や偏見とは無縁に、人権が守られ基礎的な教育が受けられる、そんな暮らしを、国際社会の責任として、すべての子どもたちに保障していかなければなりません。

 演出過多を斜に構えて批評する向きもありましたが、演説内容そのものは高邁な理念の表明だと感じた人も少なくはなかったでしょう。しかし、今、この演説が壮大なハッタリにすぎなかったと証明されるかもしれない出来事が進行中です。高校教育の実質無料化策から朝鮮学校を除外する方針のことです。

 社会学には、「差別とはライフチャンスの不当な格差である」 という定義があります。ライフチャンスとは、 生きていくために社会的資源を利用する機会のことです。それは結果として、健康に生きる可能性のことをも意味します。

 無償の中等教育機会は、それ自体がきわめて重要な社会的資源です。学歴の有無を通じて、就業機会や生涯賃金といったより大きなライフチャンスの格差が生じるためです。高校実質無償化の対象から朝鮮学校を除外するということは、朝鮮学校に通う子どもたちの生存機会を奪うということを意味する、と社会学者は考えます。

 いうまでもなく、それは朝鮮学校に対する差別政策です。

 先月末、ジュネーブで開かれた人種差別撤廃委員会の対日審査で、朝鮮学校を授業料無償化法案の対象外にする動きに複数の委員が「差別だ」として疑念を表明する一幕もありました。日本弁護士連合会をはじめ、複数の弁護士会から違法性の高い人権侵害だと批判する会長声明も出されました。

 朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、差別以外の何ものでもありません。朝鮮学校に通う子どもたちの、いのちの可能性を奪う政策です。鳩山首相の施政方針演説とは、けっして相容れるところがありません。

 むしろ、理念が高邁であるだけに、差別政策がよけいに汚らしく見えるだけです。しかも、「国交がないので教育内容が確認できない」といった欺瞞を構築してまで、差別だという批判を回避しようとする姑息な態度がよけいに卑劣に見えるだけです。

 朝鮮学校を対象に含めるかどうかの判断は先送りになる公算が高まっているようですが、もし、最終的に差別政策を採用するなら、鳩山首相は施政方針演説を撤回するべきでしょう。そして、「いのちを、守りたい。ただし、朝鮮人は除く。」と修正するべきでしょう。権力を持ってマイノリティのいのちの可能性を奪うのなら、せめてその倫理的責任を引き受けるべきでしょう。

 このところ学術的な観点からのエントリーが続いていたけれども、この問題を批判しないわけにはいきません。あまりにもネガティブな感情が強すぎて、これまでどうしても冷静に論じることができませんでしたが、そろそろ執筆する準備ができたように思います。

 何の話かといえば、高校教育の実質無償化政策から朝鮮学校を除外する案について、大阪府の橋下徹知事のレイシスト発言っぷりが際立っています。今回のエントリーでは、彼の発言の何が「問題」なのか、下記のテーマに沿って論じていきます。

    1. 他のどこでもない大阪府の知事であることにより発生する歴史問題
    2. 法律家でありながら超法的政治手法を利用するポピュリズム問題
    3. 以上を報道しない日本マスメディアのレイシズム問題

1. 大阪の歴史問題

 この問題については、すでに優れたエントリーが書かれています。日朝国交「正常化」と植民地支配責任というブログの最新記事、橋下府知事を朝鮮学校に入れるべきではない――朝鮮学校と高校「無償化」問題6です。まずはお読みいただきたい。

 リンク先のエントリーで述べられているのは、「阪神教育闘争」として知られる事件です。平和的デモに対して警官が発砲し、16歳の死者まで出したこと一つをとっても、戦後日本の民主主義の歴史に残る最悪の汚点の一つといってよいでしょう。

 大阪府は、在日コリアンの民族学校を弾圧した歴史的事実に対して、倫理的な責めを負うべき立場です。橋下知事はこの事件を知っていたはずですし、仮に知らなかったとしても、朝鮮学校を無償化対象から除外する議論が始まったときには知ったはずです。にもかかわらず、橋下知事には一切の反省がないどころか、逆に弾圧当時と同様のロジックで朝鮮学校を追い込もうとしている。知事の権力をもって、在日の子どもたちに踏み絵を強要しようとしている。

 橋下知事には、民主主義を守ろうという精神的基盤が欠落しているとしか考えようがありません。

2. ポピュリスト問題

 純粋な法律論からいえば、朝鮮学校だけを無償化対象から除外するのは不可能に近いはずです。ぼくが素人法律論を振りかざすより、日本弁護士連合会「高校無償化法案の対象学校に関する会長声明」から一部引用するほうが早いでしょう。

朝鮮学校に通う子どもたちが本法案の対象外とされ、高等学校、専修学校、インターナショナル・スクール、中華学校等の生徒と異なる不利益な取扱いを受けることは、中等教育や民族教育を受ける権利にかかわる法の下の平等(憲法第14条)に反するおそれが高く、さらには、国際人権(自由権・社会権)規約、人種差別撤廃条約、子どもの権利条約が禁止する差別にあたるものであって、この差別を正当化する根拠はない。

 これらの法律の壁を、橋下知事は「不法国家の北朝鮮と結びついている朝鮮総連と関係があるなら、税金は投入できない」というロジックで強引に突破しようとしているわけですが、法律論としては何重にもムリのある話です。知事もそのことはおそらく承知で、だからこそ、北朝鮮と朝鮮総連を一体的に暴力団やナチスにたとえたりしながら、このロジックを政治的に正当化しようとしているわけです。悪しきポピュリズムの典型的な手口。

 この点についても、Arisanのノートに、「大阪府知事はナチスと同じ」という優れたエントリーがすでに書かれています。ぜひお読みください。

国内の少数者を恫喝し、繰り返し傷つけることで大衆的人気の獲得を図っているという点では、まさに橋下徹とい政治家こそ、ナチスとヒトラーの名にふさわしいではないか?

 この一文に端的に表現されていますが、ナショナリズムと結託したポピュリズムが排外主義に走るとき、きわめて危険な政体が生まれます。ナチスはその代表格。

 くどいですが、橋下知事には、民主主義を守ろうという精神的基盤が欠落しているとしか考えようがありません。

3. マスメディアのレイシズム問題

 ところで、「ナショナリズムと結託したポピュリズム」の危険性に絡んで、よくヨーロッパの「極右政党」や、ハイダー、ル・ペン、グリフィンといった「極右党首」たちの言動が否定的に報じられてきました。

 日本のマスメディアが「極右」といってこれらを批判する欺瞞については、もうずいぶん言い尽くされている感もありますが(例えば森達也・森巣博『ご臨終メディア』集英社)、それでも一向に事態の改善が見られない以上、何度でも繰り返し批判されるべきことでしょう。

 橋下知事の一連の発言については、各紙とも論評を加えずに淡々と紹介するスタンスに徹しているようです。人気政治家の発言に賛否を表明して攻撃を引き受けるのは怖いということなのでしょう。言論の責任を回避する姿勢は、まさしくご臨終メディア。しかし、不法な人権侵害をポピュリズムの手法によって正当化しようとしている権力者がいるとき、それに対抗するのはマスメディアのもっとも重要な役割ではないでしょうか。

 マスメディアが批判の届かない安全な場所に逃げている間に、朝鮮学校に通う子どもたちは、知事の発言に誘発されたヘイトクライムの犠牲になるかもしれない。杞憂ではありません。過去に何度も実際に起こったことです。にもかかわらず、マスメディアは、子どもたちを責任回避の盾にしながら、逃げている。

 なぜこのような事態が生じているかといえば、ようするに、マスメディアに関わる人々が、「知事の発言にも一理ある、だから朝鮮人の子ども達が犠牲になっても仕方がない」、という発想を否定していないためでしょう。なんたるレイシストぶりか。

 日本のマスメディアには、民主主義を守ろうという精神的基盤が欠落しているとしか考えようがありません。

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