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 厚生労働省の指針ではセクシュアル・ハラスメントを次の二つのタイプに分けています。

  1. 対価型セクシュアル・ハラスメント
    職務上の地位を利用して性的な関係を強要し、それを拒否した人に対し減給、降格などの不利益を負わせる行為。

  2. 環境型セクシュアル・ハラスメント
    性的な関係は要求しないものの、職場内での性的な言動により働く人たちを不快にさせ、職場環境を損なう行為。
 ここで注意が必要なことは、「対価型」(別名「地位利用型」)は職場での地位に格差があることがセクハラの構成要件とされているのに対して、「環境型」のほうは地位に格差がなくともセクハラになりうるということです。例えば、同じ平社員同士であっても、あるいは部下から上司に対してであっても、環境型セクハラは成立します。

 例えば、法務省のパンフレットでは、以下の様な事例が「環境型ハラスメント」の典型として挙げられています。●性的な話題をしばしば口にする、●恋愛経験を執ように尋ねる、●宴会で男性に裸踊りを強要する、●特に用事もないのに執ようにメールを送る、●私生活に関する噂などを意図的に流すなど。いずれも、職場での地位とは無関係になされうることがわかると思います。

 レイシャル・ハラスメントについても同じことが当てはまります。こちらの記事で、米国の司法ではレイシャル・ハラスメントを認定する上で「敵対的環境」の有無が焦点になりやすいと書きましたが、それは、レイシャル・ハラスメントの多くが「環境型ハラスメント」として起こるためです。そして、環境型ハラスメントである以上、地位に格差がなくともハラスメントは生じます。同じ学生同士であっても、あるいは学生から教員に対してであっても、レイシャル・ハラスメントは成立します。

 最近の事例だと、以下の様なものがありました。

  • 某大学の授業で、在日コリアン教員がシラバスに即して朝鮮学校のことを扱ったところ、後日、学生に嘆願書への署名を強要させたという虚偽の情報がインターネット上に出回った。それを右派議員がキャッチし、文部科学省に照会、さらに文科省がその大学にヒアリングし、当該大学は「学生に誤解を与えた」とする声明をウェブページに出した。某新聞がそれを記事化し、さらに騒ぎは拡大した。

  • 某大学の授業で日本軍「慰安婦」問題に関するドキュメンタリーを上映した在日コリアンの教員について、受講生が「内容が一方的」と某新聞に投書し、それを同紙が記事化した。インターネット上でバッシングが盛り上がり、大学に数百件の電話が寄せられた。
 これらは学内で完結せずに、学生・大学当局、文科省、政治家、マスメディアという多様なプレイヤーが関わって被害が拡大した事例です。

 筆者自身も学生からレイシャル・ハラスメントを受けたことがあります。嫌韓的な右翼思想に染まった学生がゼミに配属されてきたときのことです。学力不振により第5志望での配属でした。望まないゼミに配属された学生もかわいそうではありますが、その学生はわたしが「反日」「左翼」の思想を押し付けるものだと勘違いをし、ゼミに出席すらせず保護者を巻き込んで差別的な文書を各方面に送付したりしたのでした。

 その時に私がどのような感情を体験したか、すでにツイッターに投稿したことがありますので、まとめを紹介します。

「教え子からヘイトスピーチをくらったとき、教員がどういう気分になるか」 - Togetterまとめ http://togetter.com/li/670039 @togetter_jpさんから

 学生からハラスメントを受けると、教育者として教え導く役割と、差別の被害を受けたマイノリティとしての役割とに引き裂かれることになるため、同僚からハラスメントを受ける場合以上にしんどい体験となりえます。

 立場の弱い学生が教員からハラスメントを受ける場合も深刻な被害を生じますが、また別の意味で、教員が学生からハラスメントを受けた場合も被害は軽微では済まないということです。

 おそらく、セクシュアル・ハラスメントを防止するための規程のない大学は日本には残っていないはずである。1999年に文部省(当時)から出された通知などを踏まえて、各大学とも規程を整備したためである。

 それからおよそ15年、ハラスメント概念はつねに深化を続けてきた(例えば弁護士ヘルプ「ハラスメントの種類26」)。もはやセクシュアル・ハラスメントを禁じるだけでは時代に合わないということで、自主的に規程を拡張している大学も少なくはない。しかし、ことレイシャル・ハラスメントについては明確に禁止を謳っている大学はまだまだ多くはないようである。その間、グローバル化の掛け声の中で留学生は倍増し、外国籍教員も増加していることを考えると、対応はいちじるしく立ち遅れているといわざるをえない。

 現実の被害はすでに少なからず生じている。関西の大学教員を中心に、大学でのレイシャル・ハラスメントの被害について情報収集をしているが、以下にその一部を紹介しよう。

  • A大学の教員aは、授業中、授業テーマと関係もないのに「韓国」「中国」の悪口を語気荒く連発。在日コリアンの学生がその教員aの研究室に訪れたところ、引き留められ相談内容と全く関係もない韓国についての議論をふっかけられる。当該学生はおびえ、持病を再発。

  • B大学の中国人・韓国人留学生が受講している授業で、担当教員bは毎回、シラバスを逸脱して中国や韓国の悪口を延々としゃべる。ある韓国人留学生に教科書を朗読させた際に、「君はどこから来たの?」と質問。留学生が「韓国です」と答えると、約100人の学生がいる場で公然と「韓国は大統領が反日だから、日本を留学先になんか選ばないんじゃないの」と言った。韓国人留学生は精神的苦痛で一時、不登校となった。

  • C大学の授業の場で、教員cが在日コリアンの学生を指名して、在日についての意見を求めた。翌週の授業で、その日のコメントペーパーがいくつか読み上げられたが、そのなかに「日本にずっと住みながら、文句を言う権利はない、帰れ」との内容があり、しかも担当教員cはそれついて一切コメントもなかった。その問題について授業後に教員cに指摘したが開き直った調子であったため、在日コリアン学生はショックを受け、その後、動機や頭痛でキャンパスを歩けなくなったりもした。

 いずれのケースでも、被害を申し立てている学生は、深刻な精神的、肉体的な苦痛、学習意欲の低下などを体験している。しかし、ハラスメント相談室に訴えても「教授には高度な裁量があるので授業内容には立ち入れない」と門前払いを受けたり、規程の不備を理由にハラスメント事案としての扱いを拒否されたりといったケースが目立つようだ。

 政府は2008年度に「留学生30万人計画」を掲げ、積極的な留学生獲得施策を展開しているが、こうした状況を放置したまま数字だけを弄んでも、教育の質を向上させることは困難であろう。

 高校無償化・就学支援金制度から、朝鮮学校だけが排除されてきたことは周知の通りです(朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A を参照)。文科省は「慎重に審査している」という名目で3年間に渡って朝鮮学校からの申請を放置してきたわけです。

 これに対して、朝鮮学校側は日本政府の差別対応が解消することを辛抱強く待っていたわけですが、安倍首相が不支給を決定したことで事態は大きく展開しています。

 ひとつには、朝鮮学校側から法的な訴えがなされています。今月24日、大阪朝鮮学園は日本国に対し制度の適用を義務付けるよう求める訴訟を大阪地裁に起こしました。同日、愛知朝鮮中高級学校の生徒、卒業生らも、損害賠償の支払いなどを求め名古屋地裁に提訴しました(次のリンク参照)。


 もう一つは、従来の高校無償化法では、朝鮮学校だけを除外することにどうしても違法性の疑いが拭い去れないため、文科省は省令改正のための意見公募を始めました(次のリンク参照)。


 これに応じて、いくつかのブログがパブリックコメントの内容を紹介しています。


 これらに倣って、遅ればせながら当ブログでもパブリックコメントの内容を公開したいと思います。パブリックコメントは本日締切です。

 就学支援金に関しては、長期間に渡って朝鮮高級学校からの申請を放置し続けてきたこと自体、行政手続き上の問題が小さくない(問題Aとする)。加えて、朝鮮学校のみを外形的基準以外の要素で特別に放置し続けてきたことについては、日本国憲法第26条1項、同第14条、国際人権規約A規約第13条、人種差別撤廃条約、子どもの権利条約28条、29条1項、30条等などに抵触する可能性の高い人権侵害であることが指摘されている(問題Bとする)。

 問題Aについて、文科省は政権交代前の時点では、(1)審査は年度ごとに実施している、(2)報道された内容を慎重に審査している、というロジックで不法性を逃れようとしていたようだが、実際には北朝鮮への外交的な措置として停止されてきたことは周知の事実であり、欺瞞は明らかである。

 問題Bについては、文科省は上記2点の理由により、「基本的に運用の問題であり、時間がかかっているだけである」と説明していたそうだが、下村博文文科相は在日本朝鮮人総連合会と密接な関係にあることや北朝鮮による拉致問題の進展がないことを適用しない理由として挙げており、文科省の説明はすでに破たんしている。

 したがって、残っている問題は、(a)在日本朝鮮人総連合会と密接な関係にあることや北朝鮮による拉致問題の進展がないことを理由に、朝鮮高級学校からの申請を放置し続けてきたことが妥当かどうか、(b)これらの理由で、朝鮮高級学校のみを就学支援金の対象から除外することが妥当かどうか、(c)aおよびbに十分な説明がないまま、省令を改正して事後的に朝鮮高級学校を排除することが妥当かどうか、(d)朝鮮学校を(名目上、合法的に)排除するために、ホライゾンジャパンインターナショナルスクールとコリア国際学園まで巻き添えにすることが妥当かどうか、の4点である。

 aおよびbは外交と教育になんら関係がない以上、妥当性に欠けることは自明である。朝鮮高級学校に通う生徒たちが北朝鮮による日本人拉致事件に関与したという事実がない以上、そのことによって生徒たちが不利益を被るのは理不尽である。

 したがって、cについても、今後もし十分に説得的な理由が開示されないまま省令が改正されれば妥当性はないということになる。

 dは、(朝鮮学校を排除するために各種学校全体を排除してきた)伝統的な文科行政に近いともいえるが、すでに朝鮮学校を狙い撃ちにした手続きであることを下村博文文科相が明言している以上、「国民の理解」が得られるとは到底思われない。

 以上の理由から、朝鮮高級学校を就学支援金制度から事実上排除するための省令の改正案は不適切であり、適法に朝鮮高級学校の申請を受理し、就学支援金を速やかに支給することが妥当だと考えます。

学術研究
1研究環境の整備
2専門の研究活動
3著書・論文の刊行
4学会発表
5学会の運営
6研究費補助金の申請
7サバティカル
8専門の研修への参加
教育
9カリキュラム・開講科目表の編成、時間割作成
10学生ニーズの把握と教育の企画
11ガイダンス、一泊研修
12履修指導
13学生相談、クラスミーティング
14オフィスアワーや個別指導
15メール、WBT、LMSによる課外指導
16ブログやSNSによる学生との一体感醸成
17授業担当
18研究指導
19学力の把握と学生管理
20成績評価
21教育内容・方法の工夫
22授業計画の作成
23教材研究
24教材作成
25教育機器の管理
26実習先との連絡・調整
27学生授業アンケートの実施
28FD研修への参加
大学運営・管理
29職場環境・人間関係の改善
30人事の管理
31受験生の選抜、入試作問
32学科、学部、大学行事
33教室会議・専攻会議の活動
34ワーキンググループの活動
35委員会の活動
36教授会の活動
37予算の立案
38将来構想の企画
39各種情報の収集と分析
40広報内容の検討
41パンフレット等の作成
42ホームページの管理
43補助金の申請
44自己評価報告書の作成
45学内各機関との連絡・調整
46入学式、卒業式
47人権研修への参加
社会活動
48地域との交流
49業界、企業、団体との交流
50講演、セミナー等での講師
51マスメディア等への露出
52ブログ等による社会還元
53審議会、研究会などの活動
営業活動その他
54オープンキャンパス
55高校等への出張講義
56高校訪問
57進路説明会
58保護者懇談会
59ホームカミングデイ
60サークルの顧問
61入試監督業務
 .
 左の表は、かつてぼくが大学教職員組合の仕事をしたとき、大学教員の「業務」の範囲を示すために作ったものです。労使交渉の中では、これらのうち、どこまでが俸給の範囲内であり、どこからが手当ての対象なのかについて話し合われました。

 まぁ、さしあたってそれはどうでもよくて、今回のテーマは表の16と52です。すなわち、ブログやツイッター、SNSの執筆は大学教員の「業務」(所属組織からの報酬を対価とする労働)なのかどうか。あるいは、それに対して、大学当局に編集責任、監督責任があるのかどうか。

 一般の企業においては、たとえ職員のブログが営業上のメリットをもたらしたり、企業イメージを向上させる広報上のメリットが生じている場合でも、業務命令がないかぎり、ブログの執筆は「業務」扱いにはならないでしょう。むしろ、就業時間内に執筆していれば、就業規則によっては職務専念義務違反に問われますし、会社の資産(PCやネットワーク)を不当に流用したということで横領扱いされることすらあります。ブログだけでなく、表の48〜53の「社会活動」は、いずれも企業では就業規則によって禁じられていることが多いです。職務専念義務を脅かす活動であると考えられているためでしょう。

 ところが、大学教員の場合、これらの「社会活動」が教員評価の査定項目に挙げられていますし、第三者機関による認証評価でも審査項目に数えられています。いずれも、禁止されるどころか、教員の業績として評価され、積極的な活動を奨励されています。

 では、所属組織を明らかにしたうえで、ブログを執筆するという行為は、所属組織における「業務」といえるのか?

 例えば、表の16の用途であれば「業務」としての色彩が強く、52(を含めた「社会活動」全般)は「業務」ではない、という考え方があるかもしれませんね。なぜなら、「社会活動」は研究者の倫理的責務として行うものであって、教員の仕事としてやるものではないというのが一般的な見解だと思われるためです。また、「社会活動」が教員評価の査定項目に含まれているのも、教員としての職務を遂行する能力をあらわす指標のひとつだからであって、「業務」の一部だからというわけではないでしょう。「社会活動」をいっさいやらなかったからといって、評価が下がるわけではないのはそのためです。

 ただ、実際にはそうキレイに線引きできるわけではありません。なぜなら、52の用途で運用されているブログであっても、実名で運用されていたり、学生たちにURLが周知されている場合、16の機能を併せ持ちますし、16の用途で運用されていても、そこに書かれる記事は、学者として、知識人としての見識の披露であったりします。

 つまり、大学教員のブログは、「たとえ私的な見解を綴ったものだとしても、大学の業務の一環」とみなすこともありうるし、逆に、学者であれば所属組織から依頼を受けて「私的な言論」をブログに書くことだってあるわけです。

 とはいえ、一般の社会通念からいえば、会社の業務で私的な言論を公表するというのは考えにくいかもしれません。会社の業務であれば、すべては会社を代表しての言動ということになりますからね。そのため、部下は上司の監督に服さなければなりません。部下のミスは、監督責任をもつ上司が謝ってオトシマエをつけるということも慣習的に行われています。

 でも、大学と一般の企業では、ずいぶん話が違います。

 授業を例に取りましょう。上の表でいえば、13〜25が授業に関連する業務です。このうち不可欠な業務だとされているのは、17、18、20、22、23の5つだけで、残りの8つは教員の裁量に任されています。13〜25を全部やっても給料は増えないし、最低限の5つしかやらなくても責められません。

 極端に言い換えると、賃金が支払われる業務(17、18、20、22、23)だけでなく、賃金不払業務(それ以外の8つ)を教員に自発的に負わせることで大学の授業は成り立っている、ということです。

 賃金不払業務については、さすがに業務命令で強制的に従事させるわけにはいきません。教員が自ら、個性と熱意と創意工夫の発露として従事するものでなければならない。教員のプライベートな努力(≒裁量)によって、学生たちは反射的に知的メリットを享受するという構図です。そこに、「業務」でありながら、「私的」な要素が入り込む余地が生まれます。

 授業だけでなく、大学教員の業務には公私混同が幅広く観察されます。クラスミーティングのために教員がポケットマネーを支出するとか、クラブ活動の顧問として学校行事のためにマイカーを走らせるというのはよくある話です。逆に、就業時間中に、業務かどうか明白でない社会活動を行ったりもします。そしてそれが業績の一部とされたりします。

 公私(業務かどうか)の区別を明確にしようとすれば、確実にパフォーマンスの低下を招きます。それくらい、大学では、教員の私的な要素が重要な働きをします。教員はプライベートなお金と時間と労力を遣って教育や研究に携わり、その成果を還元するために社会活動を行っているわけです。

 そろそろ、上の質問に答える準備が整ったと思います。

 大学教員が所属組織を明らかにして執筆した文章であっても、大学当局に編集責任、監督責任があるとはかぎりません。そもそも、大学にとって広義の「業務」とみなしうる言動であっても、それは教員のプライベートな知的活動から大学が反射的に利益を得ているだけ、という側面があるくらいなのですから。

P.S.

 ただし、前表の17、18、20、22、23であれば、大学の権威筋が監督権限を行使できます。つまり、教員が授業中に問題発言をして、学生から大規模なクレームが寄せられたような場合であれば、改善を指導したり、場合によっては何らかの懲戒の対象とすることができます。

人権教育の問題点

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 人権教育について市民意識調査を実施すると、自由記述欄によくこのような内容のことが書かれてきます。

「小中の同和教育で、初めて被差別部落について知った。同和教育があったから、被差別部落の存在も知ったし、差別される存在であるということも知った。それによって、自分との違いを意識するようになってしまった。いわば、同和教育によって、私の中に、ある種の差別感が芽生えていってしまった。同和教育なんかないほうがいい」

 授業で人権教育について言及したときも、かなりの学生がミニッツペーパーにこういう趣旨の感想を書いてきますね。

 しかし、この意見はナンセンスです。なぜならば、「学校の同和教育によって被差別部落について初めて知った人」は、「近隣や親、友人、知人、先輩などからインフォーマルな形で部落についての情報を初めて聞いた人」に比べて、被差別部落への差別的態度が明らかに弱い、ということが各種の調査からわかっているからです。

 たとえて言えば、同和教育は生ワクチンのようなもの。受けることによって、自覚しない程度の軽い偏見に感染してしまう。けれども、そのおかげでひどい差別意識を発症せずにすむわけです。だから、人権教育を《やるべきかどうか》という次元では、答えは明らかで、やるべきなのです。

 ただし、《どうやったらいいのか》という次元については、難しいところがあります。少なくとも、現行の人権教育のやり方には、明らかに間違っているところがある。

 小中学校の人権教育では、「差別をするのは悪い人」だと教える傾向があります。「差別をする悪い心があるから、差別が起こる。だから差別をなくすためには心の中の悪い部分をなくしましょう。一人ひとりが心の中から差別をなくしていけば、いつか社会から差別はなくなるのです」という教え方をします。

 でも、差別をするのはみんな悪い人でしょうか? 悪い人でなければ差別をしないといえるでしょうか? ぼくは、現実の差別事象というものはそんなに単純なものではないと思いますけどね。

 例えば、僕が小学生の頃は、教師が生徒たちの注意を喚起しようとして、「こら、おまえら、つんぼか!」という表現をよく使ったものです。教師の権威を利用した、あからさまな差別ですね。でも、このとき先生には、聴覚障害者を傷つけようという悪意はありません。「つんぼ」は《外部の存在》として利用しているだけであって、実際には聴覚障害者を傷つけようなんて思っていません。聴覚障害者のことを考えてもいません。なぜなら、「つんぼ」は、「見下される存在」として引き合いに出しただけであり、「おまえらその見下される存在か」「そうじゃなく、耳は聞こえるだろう」と問うているだけなのですから。

 また、例えば部落出身者がいて、そのことを知っている人がいるとしましょう。その人が別の友人に「ねえ知ってる? あの人、あっちの人なんだって」と、陰口をいうことがあります。この時も、部落出身者を傷つけようという悪意があって差別をしているとはかぎりません。そうではなく、「あの人とは違って私たちは仲間だよね」と確認したいがために引き合いに出されているだけなのかもしれない。この場合も、被差別者に対し悪意があるのではなく、我々の一体感を高めたいがために、《外部の存在》としてたまたま部落出身者が利用されているだけです。

 「我々はあの人たちと違って普通だよね」「我々はあの人たちと違って異常ではないよね」と確認するために、マイノリティが《外部の存在=他者》としてその場その場で利用されていく。「わたしたちは同じ仲間だよね」というメッセージを効果的に伝えるために、巧妙にマイノリティが外部化、他者化される。そして、マイノリティを見下したり、排除したりする感情が利用されていく。こういう場合、悪気がないだけに、「いえ、別に悪意ないから差別ではありません」という反論が起こります。

 ここでは、悪気がなくともコミュニケーションの中で差別が起こりうるという例を挙げましたが、他にも、経済的な条件が構造的に生み出していく差別、文化によって植えつけられる差別など、多種多様な差別の発生形態があります。いずれも、マイノリティを傷つけようなどという「悪い心」がなくても起こる差別ばかり。

 差別は、悪い人であろうが、いい人であろうが、誰だってやってしまう危険性があるものです。にもかかわらず「差別は悪い人がする」ということばかりを教えられている人からすれば「俺は悪い人じゃないから差別しない」「差別をする悪い心なんか持っていない。だから、差別していない」、「今言ったのは別に差別するつもりなんかなかった」で終わってしまいます。

 というわけで、差別を教えたり論じたりするとき、「差別は悪い人がする」というストーリーに固執するべきではない、というのが今日の話でした。

......これで締めようと思いましたが、ちょっと補遺を追加。どうせ何回かに分けても、読まない人は読まないから、関連する話題は書き終えておきます。

 なぜ、「差別は悪い人がする」という教え方になったのかというと、道徳教育の一環として差別論が教えられるようになったからだとぼくは思っています。倫理的にすばらしい人間になろうという道徳教育の一環として、反差別が取り上げられるとすれば、当然のことながら、「差別する心、卑劣な貧しい心をなくしていきましょう」という教え方になるでしょう。でも、これって、道徳教育のために差別を利用している、ということなんですよね。

 似た構図に、反戦教育のためにアジアや在日が利用されるというのもあります。「日本はかつてこんなにひどいことをしました。アジアの人はみんな怒っています。われわれは、申し訳ないと思わなければいけない。だから、日本はふたたび戦争に踏み出すことはできない。軍事国家化すれば、アジアの人がどんなに怒るか考えてみよ」という教え方です。アジアを利用せずとも反戦教育は単純にできるはず。ところが、「そんなことをしたら、隣のおじちゃんに怒られるよ」と言わんばかりに、「アジアに怒られちゃうよ」という形で、反戦教育を進めていくのです。

 それがどのような弊害を生むかといえば、「そんなに、反日、反日いうのだったら、日本から出て行ってください」という暴論を引き出してしまうのです。つまり、「確かに日本は悪いことをしたし申し訳ないと思います。でもそんなに日本が嫌いだったら出て行ったらいかがですか」という、ある意味で素朴な声を生んでしまう。

 ところが、当の在日コリアンは必ずしも日本を恨んではいません。特に、比較的若い世代にとっては、日本に対する愛着度、韓国に対する愛着度、在日に対する愛着度を測定しますと、一番高いのは日本に対する愛着度なのです。日本と韓国が試合をする場合、どちらを応援するかというと、多くの在日の若者は日本を応援すると言います。すでに住む土地としての日本に、愛着の基盤を寄せているのですね。日本がかつて行った自分の民族に対するネガティブな歴史については、しっかりと教えてほしいと思うけれども、そのことはそれとして、自分が住む地域として日本に対しては愛着を持っているし、今後もこの国で共に住んでいきたいと在日側は思っているのです。

 そういうと、「民族意識の強い人は反日に違いない」と、反論する人がいるかもしれません。でも、そうではありません。民族意識の強弱と、日本に対する愛着度の強弱は、統計的に意味のある相関関係がありません。つまり、民族意識が強かろうが弱かろうが、圧倒的多数の在日は日本に愛着を持っている、というのが現状なのです。

 ところが、上述のような反戦教育を受けた日本人の中には、加害の歴史につながる罪悪感を何とか解決したいと思い、いわば八つ当たりするために在日コリアンを利用していく場合がある。反戦教育にアジアを利用することによって、反射的に在日コリアンにその攻撃が向いていくという構図です。そのことが、ナショナリズムに対する需要の高まりと相まって、在日に対する攻撃を生んでいると、ぼくは考えています。

※最後の論点については、こちらも参考に。ある韓国人の感想。「日の丸、君が代を敬わない日本人は信用できない」

韓国の受験教育

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 朝鮮日報オンラインの記事ウェブ魚拓版)を一つ紹介します。見出しは「米名門大入学のため韓国で過酷な教育=NYT紙」

 米紙ニューヨーク・タイムズは、アイビー・リーグ(米東北部の名門私立8大学)に生徒を入学させることに熱を上げる韓国の「エリート」高校を批判した。

 同紙は27日、テウォン外国語高校と民族史観高校を紹介し、「両校の教育方式は過酷だ」と報じた。

 同紙はテウォン外国語高校で米国留学を志望しているある女子生徒の話として、「朝6時に起き、6時50分に学校のバスで登校、夜10時50分に夜間学習の終わりを告げるチャイムが鳴ったら帰る」と報じた。(以下、略)

 「6時50分にバスで登校」までは、フツーじゃんと思って読みましたが、下校が夜10時50分というのは、たしかにすごい。ようするに、通常授業のほかに予備校の機能をもっているということですね。

 ただ、アメリカの教育観からすれば異様に思われるとしても、日本や後発工業国の教育観からは「過酷だ」とまでは言い切れないでしょう。実際、放課後に予備校に通っていれば「夜10時50分に帰宅準備」というケースはめずらしくありませんし、文部科学省の縛りさえなければ日本の高校でも同じようにやりたいところは少なくないはずです。

 それでも、やっぱりすごいのです。何がすごいって、これだけの教育システムを運営するには、おそらく2交代制で教員を確保したり、有能な外国語教員を雇用するなど相当な人件費がかかっているはずですが、それにしては授業料が安いのです。

 テウォン外国語高校のウェブはこちら。かっこいい。入学案内のページに授業料の記載はなかったのですが、過去の朝鮮日報の記事(2007年11月16日)に紹介がありました。

 テウォン=大元の年間授業料は484万2000ウォン(約50万円)です。公立高校の学費に比べるとはるかに高額ですが、日本の一般的な私立高校と同じ水準ですね。私立高校の学費に予備校の学費を合わせると日本でも韓国でも年間100万円近い支出になりますので、それを考えると格安だといっていい。もしかすると、授業料のほかに補習費用として徴収される金額が隠れているのかもしれませんが、いくらなんでも授業料と同額ということはないでしょう。しかも、高校と予備校がシームレスで連携されているので教育効果も高いと思われます。おまけに、バスの送迎つきなので、安心でもある。どう考えてもリーズナブルです。

 いったいどうやって経営が成り立っているのか、詳しく聞いてみたいものです。

 いまどきSNSを知らない人なんて多くはないだろうとは思うのですが、念のためにWikipediaから引用しておきましょう。

ソーシャル・ネットワーキング・サービス(英語: Social Network Service, SNS)は、(中略)人と人とのつながりを促進・サポートする、コミュニティ型の会員制のサービスと定義される。あるいはそういったサービスを提供するWebサイトも含まれる。

ソーシャル・ネットワーキング・サービスの主目的は、人と人とのコミュニケーションにある。友人・知人間のコミュニケーションを促進する手段や場、あるいは趣味や嗜好、居住地域、出身校、「友人の友人」といった自身と直接関係のない他人との繋がりを通じて新たな人間関係を構築する場を提供している。人の繋がりを重視して「既存の参加者からの招待がないと参加できない」というシステムになっているサービスが多いが、最近では誰でも自由に登録できるサービスも増えている。

代表的なソーシャル・ネットワーキング・サービスとして日本最大の会員数を持つmixi、世界最大の会員数を持つMySpaceがある。

また、2004年頃より大手企業各社でも社内でのコミュニケーションの活性化や内定者囲い込み、SOX法対策等にも使われはじめており、有名な事例としてはジョンソン・エンド・ジョンソン、NTT東日本の社内活用や、総務省の省内活用があげられる[1]。社内SNSには情報の地域間格差を解消するために導入している企業も多い。

 企業だけでなく、2005年ごろから大学でもSNSを導入する試みが増えています。教育GP学生支援GPなどの競争的補助金の申請にも、SNSがらみのものが毎年かならず出てきます。

 でも、大学でのSNSというのは、はたしてどの程度成功しているものなのでしょうか。上手に学生の相互作用を引き出したり、共同学習環境の構築に成功している事例もあるでしょう。でも、きっとゴーストタウン化しているところも少なくないのではないかと思うのです。

 というのも、この種の電子的コミュニティというのは、ただ容れ物を作るだけではダメなのですね。コミュニティとして成立させるための初期条件がいくつかあり、さらにそれを育てていくために工夫がいろいろと必要です。

 初期条件とは、(1)参加者がオンラインでのコミュニケーションのリテラシーを持っていること、(2)参加者が当該の電子的コミュニティによって何らかの利益を得られると実感していること、(3)参加者が当該の電子的コミュニティに帰属意識を持っていること、(4)参加者が当該の電子的コミュニティを盛り上げていこうというノルムやモラールを持っていること、(5)以上すべてを兼ね備えたリーダー的な参加者が存在すること、です。どれか一つが欠けてもうまくいきません。だいたい、SNSを導入する理由は3〜5を育成するためなのでしょうが、すでに3〜5が成立していなければSNSは機能しないのです。

 しかも、これらは一般論にすぎません。大学でのSNSともなれば、教育目的を兼ねますので匿名性なんてありません。しかも、教員も参加しています。となると、どうしたってプライベートな情報を自己開示するような使い方は制限されてしまいます。誰がそんなところで、例えば恋の悩みなんか書こうと思うものか。つまり、大学SNSの場合、自己開示しあうことによるコミュニケーションツールという利点が、出発点から大きく阻害されているわけです。

 とすると、大学SNSを成功させるためには、一般的な電子的コミュニティの成立条件に加えて(あるいはそれとは別に)、コミュニケーションを活性化させる何らかの装置を用意しなければならないはずです。

 その意味で、既存の大学SNSの中で個人的に面白いと思ったのは、唯一、佛教大学の「縁(えにし)コミュニティ」ですね。これは、学生支援GPの事例集を読むかぎり、単なる電子的コミュニティではありません。むしろ、その実態は「ラーニング・コミュニティ」に近い。「ラーニング・コミュニティ」内のコミュニケーションをサポートするためのツールとして、SNSが用いられている。

 「ラーニング・コミュニティ」というのは、アメリカ合衆国で発達した教育技法のひとつで、個々の科目を関連付けたコア・カリキュラムと自宅学習を連結することにより、人為的に構築された共同学習環境を指します。

 事例集から「縁(えにし)コミュニティ」について少しだけ引用すると;

1回生対象のミッションプログラムでは、コミュニティ単位で受講し、佛教大学生としての自覚、主体的な学びの自覚、社会の一員としての自覚を促すとともに、大学生活をより豊かに、より安心して過ごすための指針やノウハウを与える内容となっている。この1回生対象のミッションプログラムは、教員・職員・上級生もコミュニティの一員として参加し、その三者が一体となってグループワーク等を活性化する。
 そう、この考え方が、「ラーニング・コミュニティ」の基本です。まぁ、事例集は「作文」ですので、どこまで実態を反映したものなのかは分かりませんが、少なくとも、たいへん上手にデザインされた教育モデルの中にSNSが組み入れられていることは分かります。大学SNSの上手な使い方のモデルといえるでしょう。

新入生一泊研修

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 今年は1年生のクラスアドバイザーなので、金〜土曜日と新入生一泊研修の引率です。

 4月は年度初めなのでいろんな行事があります。こうやって学生を連れての研修旅行があったり、ガイダンスをやったり、履修指導をやったり、教室配布用のシラバスを印刷しまくったり、ゼミコンパでへろへろになったり、システムのトラブルに対処したり、時間割の設定ミスをなんとか解消しようとあちこちに根回ししたり、年度内に間に合わなかった調査報告書をあわてて書いたり(笑)。

 とにかく4月はあわただしい。なのに、文部科学省は、よりにもよってこの時期にGP申請の締め切りを持ってくる。勘弁してもらいたいもんです。

 わずかな自由時間にホテルで仕事モード。

傘さし自転車

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 2006年から自転車の道路交通法違反について取締りが強化されていますが、違反実態の改善がまったく見られないということで、この4月からさらに強化されるそうな。

 まぁ、取締りに配備される警察官の人員が恒常的に増えるわけではないので、たぶん「春の全国交通安全運動期間」(今月6日から15日までの10日間)だけだと思いますが。

 京都府警のウェブにある「自転車のルールと罰則」によると、「傘さし運転」は罰金5万円です。反則金でも、科料でもなく、罰金です。しかも、5万円というと、自動車でいえば速度超過30km/h以上(一発免停)と同じです。かなり厳しい罰則ですね。罰則がきつすぎて、現場の警官も気軽にはキップを切ることができません(笑)

 まあ、悪質なケースを懲らしめるためだけに定めた罰則ということなんでしょう。個人的には、2〜3千円くらいにしておいて検挙数を増やしたほうが抑止効果が高いと思います。警告にとどめておくかぎり、まず改善は望めないでしょうね。

 今日はまとまった雨が降っているので、どの学生も傘さし自転車状態です。放置しといていいのかなぁ。15回授業のせいで時間割に余裕がないため、交通安全教育をやるのは難しいとは思うけど、おしゃれなカッパを売店にそろえてあげるくらいのサービスはやったほうがいいかな。

謝恩会/卒業パーティ

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 もうじき卒業式、そして卒業式の後は「卒業パーティ」です。今は「謝恩会」とは呼ばないところが増えているのですね。

 学費に見合った教授を受けただけなのに、感謝すべき「恩」を感じることなんてない...ということなんでしょう。たぶん。

 考えてみると、教えてもらったことに対して恩義を感じるためには、それなりに条件があるんですよね。

(1)対価を支払っていない場合

 人間社会において、互酬性(もらったらお返しをしなきゃいけないというルール)というのはきわめて強い規範です。

 互酬性が崩れてしまう――いつも奢ってもらうばかりで奢ってあげるチャンスがないとか、いつも世話になる一方でこちらからは何もしてあげられないとか――と、罪悪感や憤怒などネガティブな感情を引き起こします。そして、ネガティブな感情は対人関係のじゃまになるので、そういう感情に見合うだけの権力関係が生じるようになります。

 つまり、してもらう一方になると、してくれる相手に服従するようになるわけです。おごってくれる彼氏には従順になるとか、いつもやさしく教えてくれる先輩にはなついて言うことを聞くとか。

 「恩」とは、まさしくこういう服従の一形態です。

 でも、学校教育では、学生は授業料という対価を支払っていますので、普通に授業を受けているだけでは、なかなか互酬性はくずれません。

 だから、学生が教員に「恩」を感じるのは、えてして、学業以外の面で何か世話になったりしたケースだったりします。悩み事の相談に乗ってもらったとか、いっしょに遊んでもらったとか、恋人を紹介してもらったとか。

(2)成長させてもらったという実感がある場合

 とはいえ、フツーに教えてるだけなのに、深〜く「恩」を感じてくれる学生さんも中にはいますね。

 それはたぶん、たんに知的好奇心が満たされただけでなく、何か具体的に「成長させてくれた」と実感するようなことが、授業やゼミ指導の中にあったんでしょう。

 ただ、こういうのは学生の側に一定の感受性が要求されますからねー。

 少なくとも、ぼくはニブいので、学生だったころにこういう恩義の感じ方をしたことがありません。

(3)独学では到達できなかったという確証がある場合

 自学自習ではどうしても壁にぶつかることが多いものです。ほんのちょっとしたことに気づかずに、膨大な時間をムダにしてしまったりもします。8割がたパズルが解けているのに、あと2割がどうしても見つからないような気持ちになったりもします。

 そんな個人的な研究課題について、何度も何度も考えて、何度も何度も試行錯誤して、それでもうまくいかないことがあるとしましょう。

 ところが、ふと思いついて教師に相談してみたら、まるで魔法のようにちょちょいと説明してくれて、疑問が氷解したりする。

 けっこう衝撃的な体験です。いわゆる、"目からうろこ"ってやつですね。コレはもう、圧倒的な知識と経験の差に敬服するしかありません。

 しかも、独学に時間と労力を浪費しているだけに、教授した知識の価値を実感できる素地が学生の側にあるわけです。こういう体験が積み重なってくると、「膨大な独学時間に相当する知識を的確に与えてくれた」ことに対して、恩義を感じるようになる。

 こういうのは、教師冥利に尽きますね。

 ただ、残念ながら、そこまで苦労して自分で考えてみる前に安易に答えを求めようとする学生が多くて、「まずは自分で考えてみろ」と冷たく突き放すことが多いような気が...

 よそのブログで前回のエントリーに関連した意見を読んで思ったんですが、どうやら「問題を教える」=「答えを教える」だと勘違いしている人って少なくないようですね。

【答を教える例】

 第四級アマチュア無線の講習会の実情を紹介しましょう。

 まず制度の概要ですが、2万円あまりの受講費用を払い、丸二日間の講習を受講して、講習後に試験を受けて合格すれば、免許証を発行してもらえるという仕組みになっています。

 丸二日というとタイヘンなようにも聞こえますが、さすがはかつて「趣味の王様」と呼ばれたアマチュア無線だけあって、もとは40時間もの時間をかけて講習が行われていたほど出題範囲が広いのです。それを二日間でなんとかしようというのですから、教えられる内容はたかが知れています。というより、たった二日間では、ちゃんと知識を習得することは不可能なのです。

 なぜそんな意味のない講習会が開かれるのかというと、(1)アマチュア無線業務に必要な知識をあらかじめ習得できた人が試験に合格すれば免許証を発行するというタテマエを捨てないまま、(2)趣味人口が急減したアマチュア無線業界を保護するために新たな免許取得者を増やしたいという経営優先策に舵を切った結果、(3)業界も、講師も、受講生も、「お金を払って免許証を購入する/してもらう」という感覚でいるからです。

 具体的には...

 講習会当日、発話にいささか難のあるご高齢の講師が登場します。ほとんどテキストを棒読みするだけの方や、テキストを棒読みするよりももっと分かりづらい方などです。拷問のように退屈な講習会が丸二日間続きます。60名の受講者の半数近くがずっと寝ています。

 ところが、受講生が全員飛び起きて、筆記用具を手に講師の発言を聞き漏らすまいと集中する時間があります。それは、二日間の講習後に実施される試験の「予想問題」を発表するときです。実際に出題されるのは10問×2分野ですが、各分野20問まで出題範囲を絞ってくれるのです。予想問題といいつつ、実際に出題される問題そのものといっても過言ではないでしょう。

 問題はいずれも4択。内容を一切理解していなくても、解答番号だけ丸暗記してくれば確実に合格できる仕組みになっています。

 これこそ、「答を教える」授業ですね。まともな教育者であれば、まずやらないことだと思います。教育ではなく、お金儲けが目的だからこそできることです。

【問題を教える例】

 アメリカの大学では、ちゃんとした授業であればだいたいシラバスの中で試験問題が明記されています。が、ここは日本ですので、日本の事例を紹介しましょう。

 科目名は「データ解析入門 I」。統計解析パッケージソフトウェアの基礎的な利用方法を学ぶ授業です。

 授業は全15回の詳細な内容が無料のテキストとともにウェブで公開されています。ちゃんと予習と復習をやりなさい、というメッセージですね。

 毎回の授業で課題が出されます。電子メールで翌週の前日午後10時までに提出します。提出期限内に出された課題には担当教員がコメント付で採点結果を返信します。期限内であれば、コメントの内容を読んで、何度でも再提出することができます。逆にいえば、担当教員は何度でもそれにつき合わされます(泣)。

 15回授業のうち、3回はパソコンを使った小テストです。小テストの過去問題はやはりウェブで公開されており、各小テストの前の授業では過去問題の解説と解答も開示されます。多くの学生は、何度も何度も、課題と小テストの過去問をやり直し、小テストまでになんとか間違いをおかさずにすむ状態になっています。

 しかし、それだけでは、小テストで満点を取ることはできません。なぜなら、半分は基礎知識ですが、残りの半分は「必ずしも難しくはないけど、ただ表面的な知識があるだけではダメで、知識をきちんと消化して応用できていないと解けない問題」が出題されるためです。

 そして15回の授業が終わったら筆記の定期試験です。定期試験の過去問題は学生たちに公表していませんが、15回目の授業で試験問題を念頭に置いた基礎知識の復習が徹底的に行われます。

 そして、最終的な成績は、出席、課題、小テスト、定期試験から厳格に評価されます。

 どうでしょう? 日本では、このへんが「問題を教える」タイプの典型的な授業ではないかと思いますが。

*************

 初等教育では、問いも単純だし、問いと答えがシンプルな対応関係にありますので、「問題を教える」ということがすなわち「答を教える」ことを意味する場合が多いと思います。

 しかし、高等教育では話が違います。問いが複雑ですし、問いに対して解法が複数あったり、それどころか解答が無数にあったりします。「問題を教える」ということと、「答を教える」ことの間には、非常に大きな違いがあるわけです。

 それでも、「わざわざヒントを与えて甘やかす必要はないだろう」と考える人もいるかもしれません。

 でも、「問題を教える」のは、ヒントを与えるためではありません。その科目の「到達目標」を明示するためです。より正確にいえば、「到達目標」を学生に周知し、そこに向かって効率的に学習を進めてもらうためです。

 ちなみに、上で紹介した「データ解析入門 I」と同種の授業は多くの大学で開講されていますが、僕が知っているいくつかの大学(K南大学とか、R谷大学とか、K西大学とか)に比べて、少なく見積もっても1.3倍以上の進度を誇ります。平均的な熟達度はそれ以上ですね。入試難易度は、それらの大学に比べて(残念ながら)はるかに劣っているにもかかわらず、です。

 ただし、それだけの効率に見あった学修時間が必要となりますので、この「データ解析入門 I」を受講して、甘やかせてもらったと思う学生は一人もいないでしょう。教員も大変ですが、学生の負担も大きい授業です。

 大学の授業で「問題を教える」というのは、こういう教育モデルを意味するんだと僕は思います。

 前回の続きです。

2. 習得した知識を証明するためのスキルを身につけずに入学してくる学生の増加

 ウチの大学では2月以降の一般入試を受験して入学してくる学生が減って、推薦やAO入試で早期に合格を決める学生が多くなっています。これはウチの大学だけではなく、程度の差はあっても、日本全国どの大学でも共通する傾向です。

 つまり、高校3年間でみっちり受験のテクニックみたいなものを習得する学生が減って、あまり受験勉強をせずに大学に入学する学生が増えたということです。

 中教審風にいえば、「過度の受験競争が大きな社会問題とされた時代と異なり、入試による『入口』の質保証の機能は大きく低下している」ということですね。

 さて、入試の選抜機能が有効だった時代なら、学生は多かれ少なかれ受験のテクニックを身につけていることを前提とすることができました。言い換えると、「習得した知識の証明」能力を全学生が身につけていると考えることができたわけです。

 そして、その前提に立つかぎりにおいて、筆記試験一本で成績をつけるという乱暴なやり方でも、「知識の習得」の度合いを測ることができると考えることも許されました。

 ところが、もし受験のテクニックが学生たちに平等に身についていないとすれば、どういうことになるか?

 前回も書いたとおり、筆記試験一本で成績をつけることは、「知識の習得」よりも「習得した知識の証明」能力を重視していることを意味します。ラフな言い方をすると、ちゃんと知識を身につけているかどうかよりも、知識を身につけているぞと口先でアピールするのが上手かどうかを評価するということです。

 でも、それっておかしな話だと思いませんか?

 現在の入試傾向を前提とするならば、そもそも筆記試験一本で成績をつけるやり方では、適切に学力を評価できないのです。(続きは4節で)


3. 習得した知識を証明するためのスキルを身につけさせるのも現代の大学の使命

 中教審が9月にまとめた『学士課程教育の再構築に向けて』では、「学士力」なるものが定義されています。初等教育における「生きる力」に対応する概念ですね。(1)専攻分野の知識・理解、(2)職業生活や社会生活でも必要な汎用的技能、(3)自己管理や責任感などの態度・志向性、(4)それらを実践的に活用して問題を解決する統合的な学習経験と創造的思考力、から構成されています。

 で、習得した知識を適切に活用したり証明したりするための技能というのは、「学士力」を構成する重要な要素なのですね。「対人スキル」や「要領のよさ」はその典型です。

 そういった基本的な資質を身につけずに大学に入学する者が増えている以上、それを育成するのは大学の使命ということなのでしょう。

 だとすれば、筆記試験は、受講学生の学力を評価する手段であるのみでなく、"試験でいい成績をとる技能"を育成するチャンスでもあるといえます。これは、以前「試験への対応技術」でも書いた通りです。少なくともぼくはそう考えて、一部の授業の中に「試験対策」の回を盛り込んでいます。

 正直なところ、講義ノートを購入して受験対策に生かそうという"才覚"を身につけていれば、まだマシなのです。ウチの大学なんて、そういう需要すらありません。

 ぼくの試験問題が難しいと嘆く前に、せめて過去問題くらい手に入れようとしてみてほしいもんです。


4. そもそも定期試験一発で単位を認定する制度は現代の大学にそぐわない

 かつて「試験の巧拙」でも書いた通り、ウチの大学ではもともと試験のヘタな学生が多かったのですが、その比率は年々高まっています。

 とてもじゃないけど、定期試験一本だけで成績を評価できる状況ではありません。

 出席点で努力水準を考慮する。小テストでこまめに熟達度を確認する。中間試験でリスクを分散してあげる。レポート課題でどれだけ知識を消化したかを認定する。そして定期試験で最終的な学力を調べる。――これだけ評価ポイントを分散することで、ようやく公平かつ透明性をもった成績評価が可能となるのです。

 (逆に、これだけやっとけば、定期試験でイジワルな出題をしても大丈夫だったりしますw)

 だいたい、定期試験一本で成績を評価するなんて、7月に大学設置基準に明記された「厳格な成績評価」の方針とも合致しません。

 大学設置基準にはこう定められています。

大学は......学修の成果に係る評価及び卒業の認定に当たっては、客観性及び厳格性を確保するため、学生に対してその基準をあらかじめ明示するとともに、当該基準にしたがって適切に行うものとする
 もちろん、規定を字義通りに解釈すれば、シラバスに「定期試験100%とする」と明記するやり方だって禁じられてはいません。

 しかし、この規定が導入された目的は、卒業時の教育の質を保証するためであって、具体的には、(1)ただ単位数だけをそろえればいいのではなく、GPAで一定の得点を挙げなければ卒業させない、(2)ただ1回の試験でいい点を取ればいいのではなく、授業全体で総合的に成績を評価する、ということが想定されています。

 とすれば、定期試験一本で成績を評価する伝統的なやり方は、実質的には現行の大学設置基準に抵触するといえます。

 定期試験の評価ポイントが100%から40%以下に下がれば、わざわざお金を払って講義ノートを購入しようという学生も減るでしょう。

 ぼくにいわせれば、講義ノート市場が廃れないのは、「学生のモラル」の問題などではなく、大学の評価制度がいいかげんだという問題を反映してのことだと思います。

 Google Alertで「大学」を検索語に設定してニュースクリップとして利用しているのですが、今月3日にこういう記事があがってきました。念のためにウェブ魚拓でも。

 記事の配信元は「UNN関西学生報道連盟」ですので、記者は加盟大学の新聞部員でしょうか。「学生が執筆したノートを大学運営以外の者(ノート屋)により仲介、販売されている"講義ノート"」について、「買う学生側のモラルが問われている」と結論付けています。

 ちょっと結論の導き方が唐突というか安直ではありますが、まぁ、ムリのない締め方だと思います。授業に出席せず、他人の講義ノートを買って試験を受けるのは、単位をカネで買うようなものであって、まったくケシカラン......というのが一般には良識的な意見なのでしょう。大学プロデューサーズ・ノートもそういう論調ですね。

 ですが、以前こういう内容のエントリーを書いたことでも分かる通り、ぼくの意見は違います。より正確にいうと、こういう「良識」は現代の大学像にはもはやそぐわない、というのがぼくの意見です。

 以下、この順番で話を進めていきます。はたして一回で終われるかな...

  1. 知識の習得と、習得した知識の証明は別の問題
  2. 習得した知識を証明するためのスキルを身につけずに入学してくる学生の増加
  3. 習得した知識を証明するためのスキルを身につけさせるのも現代の大学の使命
  4. そもそも定期試験一発で単位を認定する制度は現代の大学にそぐわない
1. 知識の習得と、習得した知識の証明は別の問題

 優れた商品を製造する技術があるということと、優れた商品を売っていると広報する能力はまったく別のものです。いい商品が売れるとはかぎらないし、売れる商品が優れているとはかぎらない。マーケティングの常識です。

 学生のパフォーマンスにも同じことがいえます。

 毎回熱心に予習、復習を欠かさず授業に熱心に取り組んで、一生懸命ノートをとっている学生であれば、こちらが口頭で授業内容について質問をしてもそれなりに正解に近い解答が戻ってきます。ところが、そんな学生が筆記試験で常にいい成績をあげるかというと、そうではないのですね。

 筆記試験で高い得点を獲得するためには、習得した科目の知識とは別に、筆記試験に対応するスキルが必要だからです。

 たとえば、過去問題を入手して担当教員の出題傾向と採点基準を調べたり、3冊以上のノートを入手したりといった下準備のためには、対人スキルが必要です。また、出題形式にあわせて得点を稼ぎやすい解答方法をとったり、出題者の意図を読んだり、といった一般的な受験のテクニックを習得するには、それなりに場数をこなさなければなりません。

 ぼくの場合、語句説明では、以下の要素の数だけ加点する方法を採用していますので、ただバカ正直に定義(a)だけを解答しても合格点ぎりぎりにしかなりません。こういう基準はある程度どの科目でも一般化できるとはいえ、教員によってある程度の違いがありますので、やっぱり下調べ(をするスキル)が必要となるわけです。

  1. 正確な定義が書かれている
  2. 類概念や対義語の説明がある
  3. その語句が必要とされた背景が書かれている
  4. その語句の使用上の注意が書かれている
  5. その語句の使用例や使い方が書かれている
  6. その語句の提唱者が書かれている
 繰り返しますが、これらのスキルは、その科目をどれだけ一生懸命勉強したかということや、どれだけ知識を習得したかといったこととは、まったく関係がありません。

 だから、どれだけ真面目で熱心な学生であろうと、要領が悪いだけで、定期試験の成績が平均点を下回るケースはかならず出てきます。逆に、要領がいいだけで、ほとんど出席していない授業で「優」を獲得する学生も少なくありません。

 つまり、筆記試験一本で成績をつけるということは、「知識の習得」と「習得した知識の証明」とを比べたとき、後者のほうを重要視しているということを意味します。

 そして、ぼく個人としては、それが"正しい"採点の方法だとは考えていません。

 やっぱり長くなりそうなので、続きは次回以降ということにしましょう。

二つの論文作法

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 今回のエントリーはウチの学科の3回生向けです。

 先日、他の専攻の卒論公聴会を聞いた3回生が何人かぼくの個人研究室を訪ねてきて、いろいろと質問をしていったのですが、その中にこういうのがありました。

「先行研究があって、それを応用した研究なのだから、分析手法も先行研究と同じものを使えばいいのであって、手を変え品を変えてアレコレ分析するのはムダじゃありませんか。ゴチャゴチャしていて分かりにくいし。」
 その場で丁寧に説明したつもりでしたが、いまいち納得したようすではありませんでした。おそらく、その学生のプレゼンがかなり悪い印象を与えたのでしょう。

 ただ、ぼくとしても論文執筆の指導に問題があったかなぁと反省するところがあります。つまり、論文執筆には大きく分けて二つの作法があるということをあまり積極的には教えてこなかったということです。

 仮説検証型命題定立型
利用傾向研究が体系化され、先行研究の蓄積が多い場合に好まれる先行研究の蓄積が少ない未開発の研究分野で好まれる
目的説明探索や記述
様式演繹的帰納的
分析課題データの要約データの紹介
媒体論文報告書
調査種別サーベイフィールドスタディ
想定読者同じ仮説を共有できる、同じ研究分野の学徒同じ研究対象に関心を持つすべての人
利点と欠点データの要約度が高いため主張が分かりやすい反面、仮説を共有できない人にとってはまったく役に立たない特定の仮説に縛られないため、あらゆる読者にとって興味深いデータがある反面、分析結果の羅列に終始しがちで、何が明らかになったか要点が分かりにくい

 ざっと一覧表にしてまとめてみました。表の内容はあくまで理念的にまとめただけだということに留意してください。たとえば、「命題定立型」の論文でサーベイを用いる場合もたくさんありますし、「仮説検証型」の論文で丁寧に記述に努めようとするものもあります。表のようにきれいに2種類に分かれるわけではなく、ほとんどの論文は両者を2極とした軸線のどこか中間に位置すると考えてください。

 さて、これら2つのうち、研究論文としては一般に「仮説検証型」のほうが高く評価されます。近年では、データマイニングなど「探索」を重視した論文も評価されるようにはなってきましたが、やはり同程度の水準であれば、「仮説検証型」のほうが安定した評価につながります。

 また、「仮説検証型」は、論文作法として完成されていますので『論文の書き方』のようなガイドブックもたくさんありますし、学生たちが実際に目にする機会も多いでしょう。また、論理の流れがスマート(でなければならない)なので、執筆する側にとっても書きやすく、読者にも分かりやすく、しかも指導するのが楽というメリットがあります。

 だから、ウチの大学でも、つい、「仮説検証型」の論文の書き方を中心として教えることになります。

 ただねぇ、コンピュータが発達する以前の時代ならともかく、いまどき、実際の研究のプロセスが「仮説検証型」の通りになることは、まず、ありません。いまや、誰もが手軽に高度な解析に手を出せる環境が整っていますので、仮説どおりの分析を一つだけやって終わりということはないのです。

 実際には、ラフな仮説を作っておいて、調査をやり、探索的な分析を試行錯誤しながら、また仮説を入れ替えたり補強したりというプロセスを経ながら、総当り式に膨大な探索作業を行います。そうした探索作業の結果として明らかになった知見を、発表する論文の中で「仮説検証型」に"仕立て上げる"ようなことが多くなっています。

 でも、研究の途中は「探索的」な「命題定立」であるにもかかわらず、公表する結果は「仮説検証」型の「説明」になっているのって、論文そのものはスマートな仕上がりに見えても、いわば後知恵ですよね。卑怯で不誠実でないとは言い切れません。

 また、「探索」の結果として"発見"した重要な知見が、単なる仮説検証のプロセスの一部のように矮小化されてしまうと場合もあります。

 だから、少なくともぼく個人としては、たとえ論文全体の論理の流れがスマートではなくても、手を変え品を変えながら、研究対象のことをとことん追究しようというような真摯な論文はけっこう好きなんですよね。

 研究者のように何度も発表の機会があるなら話は別ですが、卒論の場合はたいていの学生にとって"一度きり"のチャンスでしょう。まとまりなんて気にせず、思い入れのあるテーマについてとことん書き尽くす青年らしい熱意、好きですねぇ。

 で、質問に来た学生がこだわっていた卒論ですが、たしかに典型的な「仮説検証型」の論文の体裁にはなっていません。でも、先行研究を最大限に活用しながら、自分の研究対象に真摯にアプローチしようとしているわけです。たとえば、線形の分析で有意な結果が出ないと見るや、質的分析に切り替えて非線形の関連を明らかにしようと試み、それに成功している。かといって、"面白い"結果だけ切り取って書こうとはせず、すべての結果を開示している。いい論文ですよ。

 もちろん改善すべき(だった)点はありますが、卒論としては十分に及第点を超えていて、むしろ上位に位置づけてもよい内容だと思います。

学科を持たない学問

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 昨日は学問の特性から「標準化」と相性が悪い分野があるという話を書きましたが、他の観点からも「標準化」と相容れない学問分野がありうると思います。

 他の観点とは、たとえば、市場規模が小さいということもその一つ。学科をもたない学問分野と言い換えてもかまいません。

 昨日、社会学については一般に専門の科目が20単位足らずと書きましたが、それは、「学科」とはいわないまでも、社会学を学べる「専攻」があり、社会学の教員が3名以上いるようなところにかぎられます。専攻もなく、専門の教員が2名以下のような場合だと、学科のカリキュラムの中に20単位も確保するのは困難でしょう。せいぜい、講義で8単位+ゼミで8単位ぐらいあればいいほうだと思います。

 同じことが、市場規模の小さな学問すべてにいえます。

 学生数の少ない分野だと、講義4単位+ゼミで8単位しかカリキュラムに用意されていないケースも珍しくはありません。

 たった12単位では十分に学ぶことができないという理由で、わざと留年して5年計画で学ぶことが一般的になっているようなところもあったりします。

 少人数制で5年間も学べば相当に密度の濃い教育が行われるはずです。ゼミに入ってからの学習を単位数に換算すれば、40単位にも50単位にもなるような学生もいるのですが、公式に認定される単位は、やはり12単位のままなのです。

 単位制を前提とした標準カリキュラムなんて、こんなケースにはまったく意味がありませんよね?

 しかし、大学にしのびよる新自由主義はこういうケースの存在を許してはくれません。各学問領域ごとに標準カリキュラムを策定するということになれば、おそらく、こういうケースは淘汰されていくことでしょう。

 かつては、戦後の文部(科学)省の方針で、総合大学はできるだけ多くの学問領域をそろえておくことが望まれてきました。が、今後は、複数の教員をそろえた「専攻」すら開設できない学問領域はその大学から駆逐されていき、一校あたりの学問領域数が減っていくことになる。

 いくつかの大学から駆逐された学問領域の教員がどこかの大学にまとめて雇用されて、その学問領域の学科なり専攻なりを構成することができれば、マクロな観点からは問題は少ないといえるかもしれません。

 でも、学生数が減少している現在、いわば不人気領域ともいえる学科を作るリスクを負うような私立大学はあまりないでしょう。いまや国立大学法人だって経営優先のはず。

 とすれば、日本で学べる学問領域そのものが縮小してしまう危険性が高まっている、ということでしょうかね。

標準化と相性の悪い学問

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 各学問領域で標準カリキュラムを作成しようという話の続きです。

 世の中には、どうしても標準化とは相性の悪い学問というものがあります。ぼくの専門である社会学もその一つですし、国際関係論などもそうでしょう。地域研究なんかも困りますね。ようするに、学問の射程が広すぎて、"誰もが知っているべき知識"というものを定められないのです。

 文部科学省としては、だからこそ、より精度の高い学習のために、学習の指針となるべきコア・カリキュラムを作成すべきだと主張しているのでしょう。でも、社会学なんかは、その学問の多様性と不定性そのものが学問的アイデンティティを構成している面もありますので、標準化しようという動きに対して、学問的良心から反発する研究者も少なくはなかろうと思います。

 まぁ、それでもなんとか標準化してみようという話になったとします。ちなみに、下の表は、日本社会学会に入会するときに選択する研究リストです。

1.社会哲学・社会思想・社会学史2.一般理論
3.社会変動論4.社会集団・組織論
5.階級・階層・社会移動6.家族
7.農山漁村・地域社会8.都市
9.生活構造10.政治・国際関係
11.社会運動・集合行動12.経営・産業・労働
13.人口14.教育
15.文化・宗教・道徳16.社会心理・社会意識
17.コミュニケーション・情報・シンボル18.社会病理・社会問題
19.社会福祉・社会保障・医療20.計画・開発
21.社会学研究法・調査法・測定法22.経済
23.社会史・民俗・生活史24.法律
25.民族問題・ナショナリズム26.比較社会・地域研究(エリアスタディ)
27.差別問題28.性・世代
29.知識・科学30.余暇・スポーツ
31.環境32.その他

 従来の日本における社会学教育では、1と2をくまなく学んだ上で、21の知識もできる範囲で習得しながら、あとはそれ以外の個別分野(連字符社会学といいます)をできるだけ幅広く学習しなさい、という理想でやってきたと思います。

 ただ、それはあくまで理想なのですね。

 1と2をくまなく学ぼうとすれば、それだけで20単位は必要になります。入門2単位、学説史2単位、理論基礎4単位×2、理論応用4単位×2。

 21(研究法)の分野は、すでに日本社会学会が母体となって作成された「社会調査士」標準カリキュラムがありますので、省いて考えることにしましょう。

 1と2が終わったら、そこからさらに個別分野を学ぶわけですが、「幅広く」という方針から言えば、最低でも2単位×4分野は必要でしょう。できれば16単位はほしいところです。

 そして、それらの知識を応用する実践的な経験が必要ですので、ゼミか実習による8単位が欠かせません。

 そうすると最終的に36〜44単位ということになります。

 社会学専門の学科ならともかく、学際性を売りにしている学科では、とてもじゃないけど現実のカリキュラムで対応するにはムリがあります。

 だから実際には、入門(2〜4単位)で基礎概念と身近な応用事例を学ばせ、さらに8単位ほど専門の講義を必修にして、あとはゼミ(2年間で8単位)でなんとかする、というのが一般的なところです。合計で20単位足らず。

 理想と現実の間には、これほど大きなギャップがあります。

 社会学のような分野では、「標準化」というのはパンドラの箱のようなものですね。きちんとやろうとすれば、現状の不具合が明るみに出てしまう。学部の段階で標準化されたカリキュラムに対応できる大学は日本に果たしてどれくらいあるものか。学習内容が明確な社会調査士のときですら時間がかかったのに、今度はとんでもない議論になるだろうなぁ。

多様性と標準性の調和

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 ちょうど昨日のことですが、昨日書いたエントリーに関連した学内向けの講演会がありまして、事前資料として中央教育審議会大学分科会が2007年9月に出した『学士課程教育の再構築に向けて』が配布されていました(講演会が終わってから読んだんですがw)。

 その第2章が標準カリキュラム作成に関連する部分で、そのタイトルは「改革の基本方向〜競争と協同、多様性と標準性の調和を〜」というものです。一文だけ引用します。

個性化・特色化に伴う「教育の多様性」と、国際通用性等の観点から要請される「教育の標準性」の両者を調和させていくことが必要となる。
 調和させるって、いうのは簡単ですけどねぇ。日本の高等教育全体を見据えたマクロな議論としては「調和」もありうるでしょう。しかし、昨日も書いたように、実際の教育場面で、つまり学科単位で、現行のカリキュラムと複数のディシプリンの標準カリキュラムを調和させるのは、そう簡単なことではありません。

 日本心理学会がやっている認定心理士一つを例にとっても、学際的な位置づけの科目は認定しない方針を採っています。たとえ、教育内容が標準カリキュラムに規定されているものに完璧に符合していても、データが心理学的でなかったり、教員が関連学会の会員でなければ認めないというのです。

 もし、各専門領域がこういう縦割り根性丸出しの態度で標準カリキュラムを提示すればどうなるか? というより、たぶんそうなるでしょう。

 複数の標準カリキュラムに適合させるために、まったく同じ教育内容であっても、それぞれのディシプリンの学位を持っている教員でクラスを分けたり、データを使い分けたりしなければなりません。そして、学生達は、先生が違うだけでまったく同じ内容の科目の単位を2回取得しなければなりません。

 これは、法的にも倫理的にも許されないことです。

 誰かが(たとえば文部科学省が)、それぞれの学問領域の標準カリキュラムの内容や運用方針に統一的な管理をしくなら話は別です。しかし、それは国家による教育の統制につながりますので、別の大問題が発生します。というわけで、実際の教育場面で、多様性と標準性を調和させるというのは、おそらく不可能に近い。

 予想されるうちでもっとも蓋然性が高いと思われるのは、それぞれの大学が学際性、多様性をあきらめて、ふたたび旧来のディシプリンに戻ってくるということです。学生募集の観点からも、学際的な学科は全般的に不調だということもありまして、ふたたび人気のある学問領域を前面に押し出すところが増えてきています。

 リベラル・アーツ系の大学は苦慮するでしょうが、経営的に余力のある一部の大学を除いて、おそらく幅広く学ばせるという方針は捨てることになる。そして、メイジャー(主専攻)として特定の学問領域だけを学ばせて、余力のある学生にだけマイナー(副専攻)の取得を許可する、という方向に転換するでしょう。

 560もの数に膨らんだ学位名称(うち6割は世界でその学部にしかない)も、枯れた名称のものだけに淘汰されていく。「学士(人間関係学)」なんてのはなくなって、「主専攻 心理学士、副専攻 社会学士」とかに変わっていく。

 なんだかなぁ。

学習内容の標準化

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 1月30日の東京新聞朝刊によれば、文部科学省は「大学の学部(学士課程)の教育期間で学生が身に付けるべき知識や技術など教育内容や到達目標を示した指針を、専門分野ごとに策定する方針を固めた」とのこと(→ウェブ魚拓)。

 諮問機関に過ぎなかった教育再生会議とは違って、実行権限を持つ文部科学省の方針です。東京新聞でしか報じられていないようですが、たぶん本決まりなんでしょう。

 中央教育審議会が2002年8月5日に公表した『大学の質の保証に係る新たなシステムの構築について』では、「高等教育の質」を保証するために「第三者評価制度の導入」が必要だと述べられています。一部を引用すると(下線は引用者);

 大学の専門性を様々な分野ごとに評価する,いわゆる専門分野別第三者評価についても,例えば日本技術者教育認定機構(JABEE)が行っているように,将来的には多様な分野で行われることが必要である。しかし,現在直ちに多くの分野で専門分野別第三者評価が実施できる状況にはないところであり,認証評価機関による評価の義務付けは,当面,第三者評価の導入に対する必要性が特に強い法科大学院等の専門職大学院から開始することとする。
 と、この段階では事実上の先送りだったわけです。その後、同じく中教審による2005年2月1日の答申『我が国の高等教育の将来像』で少し話が進みます。一部を引用しましょう(下線は引用者)。
  • ......大学が自律的選択に基づいて機能別に分化するなど全体として多様化が一層進むにつれて,学習者の保護や国際的通用性の保持のため,高等教育の質の保証が課題となる
  • 事後評価に関しては,......分野別評価についても積極的に採り入れられることが期待される。その際,分野の特性に応じて学協会等関係団体の参画・協力を得ることが考えられる。
 ちょっとわかりづらいですかね。

 過去10年ほど、日本全国の大学で「魅力的な大学」を目指して教育改革が行われてきました。改革を実施する際に、伝統的な学問領域の枠を取り払って、いくつかの学問領域を横断する学際的な学部を作るという手法が最近まで好まれていました。うちの大学の「人間関係学部」なんかはその典型です。

 その結果、「多様化」が進み、何を学んでいるのかよく分からない大学も増えてしまった。だから、「高等教育の質の保証」が必要で、そのために大学別評価や分野別評価を積極的に採り入れるべきだ、というわけです。

 話としてはわかるのですが、ちょっと困ったことになってきました。

 「学問領域を横断する学際性」をうたっている学科や学部は、複数の学問領域で必要とされる知識を習得させるカリキュラムを組んでいるわけですから、逆に言えば、特定の学問分野で標準化されたカリキュラムとは相性が悪いのです。

 既存の標準カリキュラムを例にとれば、社会調査士(14単位)ぐらいの限定されたカリキュラムだったら複数に対応することは難しくありません。しかし、認定心理士(36単位)あたりになると、だんだん学際分野で対応することがつらくなってきます。ましてや、社会福祉士受験資格(46単位)なんかだと、複数のカリキュラムに対応するのはきわめて困難。さらに管理栄養士受験資格(88単位)になると、他のカリキュラムと相乗りするのはまず不可能といっていいでしょう。

 せめて、各学問分野で30単位ぐらいに抑制してくれると対応しやすいのですが、ムリだろうなぁ。

GPAの運用

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 Wikipediaによると、GPAとは以下の通り。

Grade Point Average(グレード・ポイント・アベレージ)は、世界標準的な大学での学生の成績評価の方法である。欧米の大学で一般的に使われており、留学の際など学力を測りやすい。

各科目の五段階評価を、

  • 優(90点〜100点)はA - 4
  • 良(80点〜89点)あるいはB - 3
  • 可(70点〜79点)あるいはC - 2
  • 準可(60点〜69点)あるいはD - 1
  • 不可(59点以下)あるいはF - 0
以上のように計算し、それに各単位数を掛けて足した合計点を総単位数で割ってスコア化するものである。オールAなら4.00、オールFなら0.00となる。
 ようするに、大学入試でおなじみの評定平均値ですね。日本でも、高校ではどこでも利用しているものですが、大学ではなぜか導入が遅れています。おそらく、数値化して公表するには、評価の公平性、透明性に自信がないという教員が多いのでしょう。また、現状で問題のない4段階評価(優、良、可、不可)制度を5段階評価に変えようというのですから、まぁ慎重になるのも分かります。うちの大学でも導入に向けて議論をつめてもらっている段階ですが、アッサリ承認という流れにはなっていないようです。

 さて、GPAの算出そのものは、学力評価の国際化や学力指導の体系化など、さまざまなメリットはあっても、デメリットはほとんどありません。うちの大学でも、おそらく再来年度から導入ということになるでしょう。

 むしろ問題は、GPAの導入が決まった後、それをどう利用するか、ということなのですね。たとえば、2年生後期までのGPAが2.0以下の学生は進級させない、とか、4年生後期までのGPAが2.0以下の学生は卒業させない、といった運用例があります。こうなると、たんに評定平均値を算出するという事務手続きの問題だけでなく、どういう学力指導を行うかという教育理念にかかわる問題になります。

 ぼくが提案したのはもう少し穏健で、前年度のGPAが2.0以下の学生には履修可能単位数を制限するという、いわゆる「キャップ制」との融合案です。それでも、「多少無理してでも4年で卒業させてあげる」というスタンスから、「きちんと学力を身につけていなければ5年以上かけて指導する」というスタンスへの転換を含むことになります。どうせ来年度にはもう間に合わないので、じっくり議論してもらいましょう。

 ところで、昨日UCLAのことを書きましたが、UCLAでのGPAの運用はたいへん厳しいものです。もう詳しいことは覚えていませんが、専門科目のGPAが2学期続けて一定の得点を下回ったら退学勧告を受ける、というものです。しかも。「一定の得点」というのが2.0などという低い値ではありません。学部によっても違うのでしょうが、3.6以上とかだったと思います。ようするに、専門科目はただ合格するだけではダメ、「良」でも不適格で、「優」をとらなければならないということです。

 これは、たとえ旧帝大であろうと、日本の大学ではちょっと導入が難しいでしょうね。

Final開始

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 ようやく授業が終わって、木曜日から後期の定期試験です。

 ぼくが大学院を終えた後に籍を置いていたUCLAでは、定期試験の時期、毎晩0時になったところで窓を開けて雄たけびをあげる風習がありました。学生街のあちこちから、「ウォー」「キャー」という叫び声が聞こえてくるのです。

 感情の発散で気晴らしになるだけでなく、「必死で勉強してるのは自分だけじゃないんだな」と孤独を紛らしたり、ある種の連帯感を共有したり......まぁいろいろな機能を持つ"おまつり"です。

 ウチの学生たちも、気晴らしが必要なくらい勉強してくれているといいのですが。

センター試験

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 センター試験といえば寒波でしょう。毎年、狙ったように試験日を大寒波が襲ってきます。ぼくが共通一次試験を受験したときも寒かった。

 でも今年はちょっと寒波が弱かったし、タイミングもずれてくれましたので、大雪で交通機関が麻痺するようなことにはならず初日を無事に終了することができました。二日目の今日、夕方からまた雪になるでしょうが、終わってからならいくら降ってくれてもいいや。

 ところで、ぼくにとって大学での業務のうち、もっともニガテなのが試験監督です。ただじっと黙って立っているというのが苦痛なんですよね。

 本でも持ち込みたいところですが、大学の入試ならともかくセンター試験でそれをやると問題になります。ゲーム機の持込なんてもってのほか。すると、どうしても眠たくなってきますが、寝るとまた大問題になってしまいます。

 ぼくが九○大学で共通一次試験を受けたとき、試験監督主任らしき人は文庫本を読んでましたが、あのころはまだ大らかだったのかな。うらやましい。

「特に問題はない」

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 ぼくは社会学のいくつかの分野については教える立場ですが、それ以外にはたいしてできることがありませんので、基本的に教わる立場です。

 例えば、自転車トライアルのサークルで週に一度、先輩方に教えてもらっていますし、年に数回ほどオートバイのスクールに参加したりします。スクールは無料のものもあれば、宿泊費込みで3万円を超えるようなものもあります。

 で、自転車のほうはまだ初心者なので、いつも参考になる指摘が確実にたくさんあって、毎回「来てよかった」と感謝するのですが、問題はオートバイのほうです。

 オートバイは免許を取ってもう20年以上になりますし、速くはないものの技量の幅を広げるためにサーキットで走ったりすることもあります。つまり、そこそこの知識とスキルをすでに身につけてしまっているわけです。けっして上手なほうではありませんが、明らかに問題があるわけでもない。言い換えると、平均的なテクニックを持つ平均的なライダーなのです。

 そうすると、スクールに行っても、「いいですねー」とか「特に問題はないですね」ぐらいのコメントしかもらえないことが多くなってきます。無料の講習会だとコースを走らせてもらうだけでも満足できるのですが、有料のスクールで改善点の指摘をもらえないと、講習料を無駄にしてしまったような、なんともサビシイ気持ちになることがあります。

 立場をかえて考えてみると、ぼくも授業では、特にやる気があるとか、特にやる気がないとか、何らかの特別に目立つ要素がないかぎり、学生の改善点を個別に指摘するようなことはなかなかできません。レポートを返却するときも、7割がたの学生には採点結果以外はコメントをつけません。

 目をかけることによって明らかに伸びそうな学生や、放置すれば確実に単位を落としそうな学生に個別の対応を行うのは、いわば当然のこと。それ以外の"フツー"の学生たちにどこまで個別に気を配ることができるか、それが現代の大学では重要な課題なのだろうと思います。いろいろと忙しい中、どこまで個別対応に時間を割くことができるか、たいへんチャレンジングな問題です。

 一方、"フツー"の学生たちにも、もう少し工夫してもらいたい面があります。

 オートバイのスクールの話ですが、ぼくも細かく見ていけば改善点がないわけではないはずなんですね。事実、「ここがこういうふうに上手くいかないのだけど、どうすればよいか」と質問をすれば、その場で一般的な回答をしてくれたうえで、さらにライディングの状態を見て個別にアドバイスをもらえることがあります。

 大学の授業でも同じことです。一方的に教わるだけでなく、オフィスアワーなどを活用して自分から質問に行けばいいのです。あるいは、ぼくの場合、講義課目では毎回コミュニケーション・カードに質問などを書いてもらっていますので、そういう機会を有効に利用することです。

 教えた内容をきちんと消化して、しかも自分の知識や経験の中で適切に肉体化できる学生なんて、どこの大学でもさほど多くはありません。社会人学生はそういうのが得意ですけどね。一般的には、教えた内容を教えたとおりに理解できれば優秀なほうで、むしろたいていの学生は教えた内容の半分がやっと理解できる程度でしょう。であれば、毎回の授業でひとつも質問がないということはないはずです。

 せっかくオフィスアワーを設けているのに、利用する学生は限られています。コミュニケーション・カードで適切に質問できる学生も年々減ってきています。ぜひ学生たちには、与えられた教育機会をむだにせず活用してほしいものです。

卒論提出

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 今年も、まぁなんとか期日までに卒論を出してくれました。みなさん、ご苦労さま。ぼくも疲れた。

 いまから打ち上げです。

 それにしても、提出当日に打ち上げを設定するというのは、すなわち「前日に徹夜」というケースを想定していないわけですね。実際には、ぼくのゼミに一人いましたが(笑

パターナリズム

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 先月、教職員を対象に開催されたFD研修会でのこと。

 質疑応答の際、講師の方が「紋切り型のパターンにはまった硬直的な対応に陥ってしまうこと」ぐらいの意味で、「パターナリズム」と表現されました。その瞬間、会場の空気がピシッと凍った気がしたのはぼくだけではなかったはずです。

 「パターナリズム」(paternalism)とは、権力を持つ強い立場の者が、相手の意志とは無関係に「きみのためだから」と恩着せがましくおせっかいをやいたり、行動に干渉したりすることをいいます。社会学では「家父長制」と訳しますが、「温情主義」「父権主義」などの訳も一般に用いられます。

 語源はラテン語で「父」を意味する pater です。ちなみに「母」は mater で、「妊産婦の」という形容詞マタニティ(maternity)の語源でもあります。女性の「育児休暇」を maternity leave といいますね。一方、マタニティの対義語はパタニティ(paternity)です。男性が取得する「育児休暇」はpaternity leave。

 ともかく、「パターナリズム」は「パターン」(pattern)とは何の関係もありません。

 ただねぇ、FD(この場合は「授業内容や方法の改善」の意味)っていうのは、いわれてみればパターナリズムなんですよね。

 「学生のためになるから」という理由で、出席を管理し、課題を増やしたりする。「試験のためになるから」と効率的な学習方法を押し付けたりする。「就職のためになるから」という理由で、生活態度を改善するよう介入したりする。そして、「学生の主体性を育てる」という究極の形容矛盾も生まれてくる。

 そういう時代だとはいえ、なんともサビシイかぎりです。

Midterm採点終了

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 前のエントリーから5週間。いろいろな出来事がありました。こちらでもボチボチ紹介していきたいと思います。

 「いろいろな出来事」の中の一つは中間試験だったわけですが、ぼくが担当している講義科目すべてにおいて、前期の得点を大幅に上回りました。授業内容も試験の形式も違いますので単純には比較できませんが、いろいろな対策がようやく効果をあらわしたのだと思われます。

 得点が向上したこと自体、単純に喜ばしいのですが、とにかく採点していてイヤな気にならないというのも大きなメリットです。さっと採点して翌週返却できるので、フィードバックの効果も向上する。いいこと尽くめの好循環です。

 定期試験もこの調子でがんばってくれるといいのですが。

子どものデータの信頼性

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 まったく、あきれたニュースです。

 「死んでも生き返る」と考えている中学生が2割もいる−−。兵庫県内の幼児から中学生まで約4200人を対象に死生観を聞いたアンケートでこんな結果が明らかになった。背景には、身近な人の死に触れる機会が減り、一方でゲームなどに仮想の死の情報があふれる現状があるとも考えられる、という。死が絶対的なものとの認識は小学生でいったん確立するが、中学時代にはそれがぶれる現象が起きているようだ。【井上大作】 →記事全文のウェブ魚拓

 記事によると、「生と死の教育研究会」が2003年に実施した4〜9歳の聞き取り調査と、翌2004年に6〜14歳を対象に実施したアンケート調査の分析結果を出版したそうな。問題なのは次のくだり。

「死んでも生き返ると思うか」と質問した04年のアンケートでは、小学5、6年生から「死んでも生き返る」という答えが目立ち始め、中学生では「生き返る」「たぶん生き返る」と答えた子どもが計2割に及んだ。現代の子どもにとって死の現実感が薄れるなか、「生まれ変わり」などの宗教的イメージも重なり、生と死の境界をあいまいに考える傾向があるようだ。

 「生と死の教育研究会」がそう分析したのか、井上記者がそう勘違いしたのかわかりませんが、これほど噴飯物の記事にはなかなかお目にかかれません。読後、しばらく大笑いさせていただきました。

 これは、順当に考えれば、小学校の高学年くらいから大人を茶化して遊ぶような態度が育ちはじめるため、「死んでも生き返ると思うか」というばかげた質問に対して、ふざけて回答をする子どもが多くなってしまう、ということでしょう。

 子どもを対象とした調査では、こういう形でサンプルが信頼できなくなってしまうことがよくあります。ふざけた回答をする子どもは、一問だけでなく他の設問でも茶化した回答をする傾向にありますので、回答全体を精査して、信頼できるかどうかを判断します。そして、明らかにふざけた回答を含むと考えられる場合は、有効回答から除外する必要があります。

 そういう操作を加えることによってデータの信頼性は低下しますが、もともとそういう回答のゆがみを生じさせてしまった時点で、端的にいって、調査に失敗しているわけですね。

 子どもを対象とする調査というのは、いろいろな面で難しいところがあります。

授業改善の鍵 #1

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 締め切りを二日延ばしてもらってようやく採点表の提出が終わりました。あとは学部に提出するレポートを一つ書いたら、夏休みに入れます。

 さて、今日のお題はFD(Faculty Development:教員の能力開発)について。

 授業内容や方法の改善には、たいていの大学教員が取り組んでいることだと思います。そういえば、大学設置基準で義務化されたんでしたっけ。

 でも、一口にFDといっても、どういう実践が効果を挙げるかは人それぞれ違います。

 統計的な観点からは、「AとBという2つの教育手法を比較したとき、Aのほうが有意に教育効果が高い」という結果を導くこともできます。でも、教育の成否って、教員の個性が重要なファクターになりますので、こういう全体の傾向を個々の教員に当てはめても、あまり意味がありません。

 たとえ平均的にはBの手法が劣るとしても、超絶的にBの授業が上手な先生が担当した場合、平均的な力量の教員がAの手法で授業を担当するより教育効果が高かったりするわけです。そして、「超絶的にBの授業が上手な先生」にAの手法で授業をやらせても、上手にできるとはかぎらない。

 ですから、FDとは、本来は教員一人ひとりが自分の個性を前提として創意工夫しなければならない作業なのですね。

 でも、一人で工夫するだけでは発想が乏しくなりがちだし、そもそも、努力水準も達成水準も自分が決めたらよいということになれば、つい作業を怠ってしまいがちです。教育の他にも仕事はたくさんありますから。ということで、だれがFDに取り組むのかといえば、本来的には教員個々人が主体となるわけですが、各教員の創意工夫を活性化させる仕組みを考案するのは教学組織、ということになります。

 したがって、現実的な問題は、「各教員の創意工夫を活性化させる仕組み」をどう構築するかということになります。

 たとえば、全授業内容の概要を示す「詳細なシラバス」の作成、というのはよくある取り組みですね。ちょっとした工夫ではありますが、授業計画を詳細に定めておくことで、授業内容や評価方法の恣意的な運用を制限することができますし、学生にとっては学習の目安になるなど、大きな改善につながります。

 また、全授業について成績評価のパーセンテージとGPAを公開する、というのもそのひとつ。たしか同志社大学かな。この仕組みだと、極端に成績評価が偏っていたり、極端に不合格が多い授業は目立ちますので、授業内容や評価方法の改善につながる、ということなのでしょう。学生にとっても、各授業における評価の厳しさを知ることで授業選択の大きな材料になります。講義科目については、ウチの大学でも導入するメリットはありそうです。

 他にも、授業の公開や研修など、一般的な取り組みはあります。

 でも、僕個人としては、これらの取り組みには授業内でのフィードバックという重要な要素が抜け落ちていると思うのですね。

 というのも、僕自身、これまでさまざまな創意工夫をやってきましたが、教育効果の改善という意味でもっとも大きな成果があったのは、フィードバックの回数を増やすこと、フィードバックを迅速かつ丁寧に行うこと、でした。

 つまり、定期試験一本で評価するのではなく、中間試験や小テストを実施する。実施したら可能なかぎり翌週の授業で返却し、解説する。さらに、授業ごとにコミュニケーションカードで理解度をチェックし、質問には翌週に回答する、といったことです。

 学生の学習意欲を引き出し、熟達水準を確実に引き上げますので、たいへんオススメです。教員の個性にあまり関係なく実施できますので、組織的な対応にもむいています。デメリットは、教員の負担が倍増してしまうことですね。組織として対応しようとすると、抵抗が起こるかもしれません。

 ウチの学部では、幸い大きな反対もなく、この春から授業内のフィードバックについて一定のルールを導入することができました。たとえば、実験・実習科目では、「定期試験のほかに、半期に3回以上の学力把握(小テスト、課題等)を行い、採点結果をすみやかに返却する」など。これはあくまで「ミニマム・スタンダード」ですが、あわせて充実した授業の実践例を「実施モデル」としていくつか併記することで、全体の底上げを狙おうという取り組みです。

 今までのところ、意欲的な教員からはかなりポジティブな評価をえています。秋からは他学部への導入が議論されることになります。

採点してます

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 今週末が採点表の締め切り。採点しています。煙が出るほど採点しています。

 もっと採点しやすい問題にしておけばよかったといつも後悔するのですが、そういう出題形式はどうしても自分に許せなくて、結局、採点には毎度毎度、膨大な時間がかかります。

 それでも出来がいい科目は気分よく採点できるのですが、マジメな学生でさえ期待水準に達していないとき、ふがいなさに深ーく落ち込んだりします。しかもそれが比較的簡単な問題だったら、なおさら。

 前にも書きましたが、そんなときはやっぱりこの曲(クリックで視聴)。Peter Gabriel & Kate Bush "Don't Give Up"です。もう条件反射のように聞きたくなる。

 不朽の名アルバム『So』に収録された曲ですが、学生たちはもう知らないだろうなぁ。歌詞のさわりだけ、ちょっと紹介しましょうかね。訳はテキトーです。

《男声:Peter Gabriel》
In this proud land
we grew up strong
We were wanted all along
I was taught to fight, taught to win
I never thought I could fail
この誇り高い国で
オレたちは強く育った
ずっと必要にされてきた
闘えと教えられ、勝てと教えられ
負けるなんて考えたこともなかった

No fight left
or so it seems
I am a man whose dreams have all deserted
I've changed my face, I've changed my name
But no-one wants you when you lose

闘うものなんて何も残ってない
残ってるような気がしない
オレはすべての夢を捨ててしまった人間さ
顔を変え 名前を変えた
でも負けたときは誰からも必要にされやしない

《女声:Kate Bush》
Don't give up
'cos you have friends
Don't give up
You're not beaten yet
Don't give up
I know you can make it good
あきらめないで
だってあなたには友達がいるじゃない
あきらめないで
まだ打ちのめされてはいないわ
あきらめないで
あなたならできるってわたしにはわかってるから

 こんな感じで、マッチョに育った男性が主人公です。それが自尊心self-esteemに傷を負い、男らしさに不安を抱え込みmasculinity anxiety、二重の挫折感にさいなまれる苦悩をピーター・ガブリエルが歌うわけです。そして、「天使の声」ケイト・ブッシュが慰める。そういう掛け合いが延々と続きます。

 面白いのは、ケイト・ブッシュの歌詞ですね。これでもか、これでもかと"Don't give up"を繰り返します。こんなに苦悩している人間を相手に、「がんばれ」「あきらめるな」はないだろうと思うのですが、それがまったく焦らせるような響きを持たない。"Don't give up"といわれるたびに、いやされていくのです。

 ウツを相手に「がんばれ」と励ますのはタブーだとよくいわれますが、言葉そのものはたぶん問題じゃないんでしょう。ケイト・ブッシュは、"Don't give up"一言で終わったりせず丁寧に言葉を重ねます。そして、ただ自力で立ち直れ、克服しろと突き放したりせず、「わたしが信じている」「居場所があるじゃない」「一人じゃないのよ」と寄り添う存在を示します。

 そういう前提で「がんばって」といわれるのは、これほどに慰められるものなのかと感心させられる。そんな曲です。

現代GP選定結果

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 現代GPの選定結果が出ましたね。

 内々の通知は先週すでに来ていましたが、ウチの大学からの申請も採択されました。よかった、よかった。申請作業に関わった皆様、ごくろうさまでした。

 まだ「選定理由」がアップされていませんが、これから次の申請に向けての分析作業だな。

 いや、その前に、学生支援GPか。

 ヒアリング用のプレゼン資料って、ヒアリングの対象からもれることを考えると、事前に作っておく気力が起きないんですよね。でも通知が来るタイミング(8月下旬)の直前は家族旅行で沖縄だし、早めにやっとかないとなぁ。台風で沖縄から動けないとなっても、資料だけは届けられるように。

大学の新自由主義

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 思えば、この半年ほど、学園の改革のためにずいぶんいろいろな仕事をしました。

 一つは、学生支援と教育モデルとを実践的に融合させたエンロールメント・マネジメントの導入。個々の学生に対する入学前から卒業後にいたるまでのトータルサポートと、個別対応教育を前提とした精緻な指導と精緻な評価で、より高度な水準で教育理念と学力の達成を図るというもの。

 従来なら一つでも審議に1年以上はかかっていたであろう改革案が全部で30以上。デザイン案を描いて、組織をつくり、さまざまな力学を駆使して、3ヶ月あまりで一気に導入にこぎつけました。言いだしっぺではあるけど、教授でもなく何の役にもついていないぼくがどうしてこんな仕事やってるんだろうと思いながら。

 もう一つは、学生支援GPの申請。GPの全貌が明らかになってから締め切りまでわずか3週間あまりというのが厳しかった。自由に論理を組み立てられる研究論文とは違って、審査機関の意図に沿って作文するのはなんとも骨の折れる作業でした。研究室にマットと寝袋を持ち込んで2泊もしました。やはり、教授でもなく何の役にもついていないぼくがどうしてこんな仕事やってるんだろうと思いながら。

 そして最後に、組合活動。今年度の方針は、新自由主義に基づく経営グランドデザインの提示です。経営のガバナンスと教学のガバナンスを整備し、業績主義を公正に運用する。労務管理を脱却し、人的資本の戦略的運用に転換する。いずれも、労働組合側から提案するのがおかしいようなテーマがずらり。委員長とはいえ、ぼくがやる必要はないんだけどなぁと思いつつ、いま誰かがやらなければいけない仕事です。

 これすべて、グローバリズムの潮流に適応しなければ、学生がor学園が生き残れないという問題意識に基づくものです。

 ただねぇ。ふと、キャンパスの街路樹を見て思うのです。これは、ぼくの理想とはずいぶんかけはなれてるな、と。

 うちのキャンパスのメインストリートにある街路樹は、何年か前に、かなり不恰好な「ぶったぎり剪定」をされてしまいました。枝をすく剪定ではなく、主幹や大枝をチェーンソーでごっそり横断してしまう剪定です。

 この剪定方法は、効率よく周囲の視界と日当たりを確保したり、落ち葉を減らしたりするメリットが大きいため、近年は一般道の街路樹にもよく見るようになりましたよね。

 しかし、いったん「ぶった切り剪定」をされてしまった樹木は、もはや何十年たっても自然な樹形を取り戻すことはできません。しかも切り株の中心ではなく周囲からしか新しい芽が生えてこないため、新しい枝が育っても不安定な状態にしかならず、風雨で折れたりする危険性が増してしまいます。その危険を避けるためには、毎年毎年、すべての新枝を切り落として同じ不恰好な形に戻してしまわなければなりません。こうなってしまうと、ただ生きているというだけで、もはや樹木としては終わったも同然なのです。実際、枯死したり、何年も葉が茂っていない木もあります。

 管理のコストが大幅に減るということだけを目的として、樹木の美しさをいっさい省みない「ぶった切り剪定」。それが、ぼくには新自由主義の姿とダブって見えてしまいます。

 ぼくとしては、できるだけ「ぶった切り剪定」にならないように、"生き残り"と"美しく自然な姿"の両立を目指して制度改革のデザイン案を描いてきたつもりです。でも、何度も立ち止まって、一歩遠い目線から常に確認していないと、自分が教育を「ぶった切り剪定」してしまうのではないかという恐怖感におそわれるのです。

 文部行政を担う人たちも、同じ恐怖感を持ってくれているといいのですが。

大学でのセクハラ #3

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 先日、ちょっと必要があって、セクハラについて少し学生の意見を聞いてみました。 

質問3 でも、女子学生が冷静になってよく考えてみると、その教員に対して抱いていたのは、「先生への敬意」であって、「恋愛感情」ではなかった。性的関係を持つことは本意ではなかった。不本意に性的関係を持ったのだから、これはセクハラなんじゃないか?
 こんな感じで、学生のほうから誘った場合でもセクハラとみなされるかどうかについて6つの質問に答えてもらいました。選択肢は「セクハラだと思う」「わからない」「セクハラではないと思う」の3点尺度。

 6項目全体を通じて、「セクハラだと思う」と回答したのは23%ぐらい。そして、その倍の約半数が「セクハラではないと思う」という。うーん。学生から誘った場合は、セクハラではないという意見が多数派です。けっこうセクハラ認定にシビアですね。

 でも、例えば訪問販売の場合、クーリングオフ制度があります。訪問販売では、何人ものセールス担当から強く勧められたり、甘言に乗せられたりして、意思がハッキリしない状態でも契約の申し込みをしてしまうことがあるため、買い手が頭を冷やして考え直す猶予を設けて救済するための制度です。商取引だって、非対称的な関係の場合には一定の留保がつくわけです。

 ぼく個人としては、教員と学生の関係も同じだと思うんですがねぇ。

 たぶん、「誘った」という時点でアウトなんでしょうね。もう少しボカして、例えば、「慰めてもらいたいと思って抱きついたところ、あっという間に性行為に転じてしまった」だったら、まだ「セクハラだと思う」という回答は多くなったのかもしれません。でも、こんな聞き方だと、質問自体がセクハラの要件を満たしそうです。

 ところで、セクハラについては、多くの企業や大学が就業規則に規定を設けています。どこかで雛形を作成したものが流布したのでしょう、だいたいどこでも似たような規定が並んでいます。例えば、こんな感じ。

次の各号に掲げる行為をしてはならない。
(1)容姿及び身体上の特徴に関する不必要な発言
  中略
(7)性的な言動により、学生等の修学意欲や他の教職員の就業意欲を低下せしめ、能力の発揮を阻害する行為
(8)交際・性的関係の強要
 この第8号は解雇の要件ですが、「強要」したかどうかの証明は事実上不可能です。たとえどんなに強い訴えがあったとしても、証拠がないかぎりは第7号で処置せざるをえず、懲戒は重くても減給どまりです。

 じつは、うちの大学ではセクハラ防止規定を就業規則に明記することが遅れていて、先日ようやく改定が行われたところです。冒頭で「ちょっと必要があって」と書いたのは、この第8号をそのまま就業規則に載せるのは問題なんじゃないかと思って、その下調べをするためでした。結果が上述の通りでしたので、会議では「問題があると思う」とだけ発言してスルーしましたが。

 信州大学ではどういう根拠で諭旨免職にしたんだろう。気になるところです。

試験への対応技術

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 一般に、受験への対応技術は高校や予備校で学びますね。膨大な試験問題を解いていくうちに自然と身につくものもあれば、ある程度体系だてたスキルを教師が教えてくれることもあるでしょう。

 では、大学での定期試験への対応技術は、どうやって学ぶのか。ぼくが学生のころにどうだったかを例としてお話しましょう。

***********

 たいていの大学では、年度初めにクラス委員を選びますよね。ぼくが出た大学では、その他にも、生協委員、コンパ・レクリエーション委員、そして試験対策委員(通称「シケ対」)といった役職がありました。最後に挙げたシケ対とは、「試験対策プリント」(通称「対プリ」)を作成する委員です。

 シケ対は、代表的な授業について、丁寧にノートをとる担当者をそれぞれ数名指示します。そして試験前になると、担当者からノートを提出してもらい、さらに先輩たちから過去の試験問題を提供してもらい、模範解答などを記載した対プリを作成します。そして、クラス全員からコピー代を徴収し、対プリを配布します。試験の成績は対プリのできにかかっていますので、学生たちは自分のクラスの対プリだけでなく、他のクラスの分までかき集めます。そして複数の対プリを総合して、試験勉強をするわけです。

 こういう一連のやり方は、真面目な学習を妨げるということで不快に思われる先生もいるだろうとは思います。事実、担当者がしっかりしてそうな授業には、ぼくは出席していなかった。

 しかし、よく考えてみると、これってかなり理想的なピアレビュー&ピアサポートになっているのですね。

(1)ノート・テイキングの技術が向上する

 対プリには、通常、(a)出題の傾向と対策、(b)授業のノート、(c)過去問の模範解答、の3点が記載されます。つまり、誰かが書いたノートがそのままコピーされ、クラスの中だけでなく、学校中に広まってしまうわけです。

 これによって、2つの教育効果が発生します。

 第一に、他の人たちがとった複数のノートを閲覧することにより、より効率のよいノート・テイキングの方法を学ぶことができるということ。

 第二に、担当に当たった科目では、自分のノートが学校中に広まってしまうわけですから、恥をかきたくなければ、必死になってノートを整理しようと試みることになります。よくまとまっているノートは全学的に賞賛され、出来の悪いノートは全学的に罵倒されます。

(2)要点整理の訓練になる

 対プリは必ずしもシケ対が作成するわけではありません。それぞれの科目について、シケ対から指示を受けた学生(多くの場合はノートの担当者)が作成します。その際、対プリに全授業内容を記載するわけにはいきませんので、ポイントをかいつまんで紹介しなければなりません。

 したがって、少なくとも自分の担当科目については、授業の全体像を把握し、しかも、その要点を整理することになります。これは、要点整理のたいへんな訓練になります。

(3)自信形成につながる

 入学したばかりの学生にとっては、多かれ少なかれ、大学での試験に不安があるものです。その点、対プリがあれば、その不安を大幅に軽減することができます。

 それだけでなく、自分の担当科目については、同程度の学力水準にある学生たちにわかりやすく授業内容を紹介することになりますので、「教える」という作業を通してより授業内容への理解が進みます。

 そして、立派な対プリを作成できたときには、大学での学習に対して、大きな自信を持つようになります。

(4)社会人基礎力の訓練になる

 対プリを作成するためには、ただノートを上手にとるだけではいけません。ツテをたどって過去の試験問題を入手したり、(自分が模範解答を作れない場合は)誰かに模範解答を書いてもらう必要があります。つまり、単独ですべてを遂行できる能力がある場合は別ですが、基本的に、幅広くいろいろな人の助けを借りなければならないわけです。

 そのため、対プリの作成にあたって、理解力、論理的思考力、表現力が問われることはもちろん、調査分析力、他人と共同して問題解決にあたることができるコラボレーション力まで発揮しなければなりません。いわゆる社会人基礎力を鍛えるための絶好の材料となります。

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 という感じで、試験対策の共同作業を通じて、ぼくは、大学での定期試験への対応技術を習得したわけです。

 うちの大学でも、この制度のいいところは応用できたらいいのですが。

試験の巧拙

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 ぼくが非常勤で教えたことのある他の大学に比べて、うちの大学の学生には明確な特徴があります。

 試験がヘタなのです。いや、正確に言えば、どういう種類の労力をどれくらい試験勉強につぎ込めばいいのか、わかっていない学生が多い、ということです。

 事前に試験勉強のコツを教えてあげたときは、たったそれだけで一斉に得点が上がって、某有名大学の20点近く高い平均点になったりする。一方で、そういう指導をやらなかったときは、学力や平常の授業態度と関係なく一斉に得点が下がって、他大学より10点近く低い平均点になったりする。

 3年生ぐらいになると、一定の学力を持つ学生はだいたい要領を会得してきますので、"試験なれ"していないということもあるんでしょう。でも、学生の気質や資質も関係しているように思います。

 マニュアルがある作業だと、真面目にコツコツこなして完成度の高いものを提出してくる。例題にならってレポートを完成させるような作業をやらせると、確実に他大学の学生よりも優秀な学生の割合が高いですね。

 なのに、自らマニュアルを作り出すような独創的な作業はたいへんニガテとする学生が少なくない。例えば、「自由に論じなさい」のような課題だと、出来のよしあしを問わず、読んでいて楽しくなるようなオリジナリティのあるレポートは非常に少ない。

 だから、定期試験の作問でも悩みますね。穴埋めや語句説明など、授業で伝えた知識の習得度を問う形式にするべきか、それとも、論述形式で、どれだけ教わった内容を消化し、自らの知識として肉体化し、実際に応用してみて新たな疑問を発見する力量が身についているかを問う形式にするべきか。

 小テストや中間試験は前者でも、定期試験は後者にしたい、とぼくは思うのですが、そこまで学生を育成できてはいないという自覚もある。だから、不本意ながら、全部、前者の形式で出題することにしています。

 基礎ゼミその他、独創性や主体性を育てるための授業は増えてきていますが、「主体性を育てる」という形容矛盾に解決策を見出すのはたいへん難しいですね。結局は、主体性があるように見せかけるテクニックを覚えさせるだけということになりかねない。

 そうはいっても、テクニックはテクニックとして重要ですので、「試験でいい成績をとる方法」も今年度から授業に組み込むようにしました。せめて少しは世渡り上手になってくれるといいのですが。

中間試験

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 うちの学部の場合、今年度から、専任教員の授業では「出席だけ」「定期試験だけ」といった成績評価は認められていません。出席、小テスト、課題、中間試験、定期試験など複数の評価ポイントによって、厳密に成績を評価するというルールが導入されたためです。

 このルールを導入するときは、学生たちに管理強化だととられて反発を受けるんじゃないかと心配しましたが、実際は逆でした。より丁寧に面倒を見てくれるのはありがたいというのです。まぁ、定期試験一本で評価されるのは不安だということなんでしょう。

 ただねー、問題は中間試験です。ぼくの担当科目の場合、だいたい中間試験は30%のウェイトになっています。中間試験で得点を稼いでおけば、定期試験でコケても単位を落とすリスクは減るのですが、中間試験の出来が悪いと、定期試験のプレッシャーは大きくなるだけです。そのことが、まだ学生たちにはピンときてないらしい。というのも、けっこう真面目な学生でも、かなり出来が悪かった...。教員を落ち込ませるのは簡単ですね。テストの成績がそろって悪ければいい。

 これを教訓として、後期からは中間試験に真剣に臨んでくれるようになると思いますが、前期はどうするかなぁ。このままだと、不合格者が山ほど出てしまいますので、今回に限って救済策を用意してあげるしかないでしょうね。ふぅ。

大学でのセクハラ #2

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 先週のエントリーで、「権力に格差があるとき、『同意』は幻想だし、『恋愛』も成立しない」と書きましたが、このニュースもその一つでしょうか。

 裁判が進んでみないと事実関係はわかりませんが、かりにこの方の主張の通り、大学院生側から誘いをかけてきたんだとしても、やっぱりセクハラに当たるというのが前回のエントリーの主旨でしたね。

 とはいえ、当初の信州大学の発表は、「性的関係を強要し、妊娠させた」として諭旨解雇処分でしたからね。はたして、信州大学側はきちんと公正な調査をし、セクハラの意味を理解したうえで処分に至ったのか、いささかアヤシイ気もします。

 解雇処分は仕方ないとしても、名誉毀損は認められるかもしれませんね。

疲れていると...

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 「あぁ、疲れてるんだな」と自覚する瞬間――肩がこるとか、寝起きがツライだとか、いろいろとありますね。ぼくの場合、「バイクの運転が下手になる」というのがいちばんの指標になります。とにかく、ふらふらして安定しなくなるのです。

 たぶん、体幹や足に力が入らない→乗車姿勢が安定しない→ふらつく、ということなんでしょう。そういうときは、注意力も散漫になっているので、「ふらつくときは普段よりも安全運転」を心がけています。けっこう便利で正確な判断基準です。

 本日、学生支援GPの校正が終わって、申請書の製本が終わりました。たぶん、事務方のどなたかが郵送したか東京まで持参していってくれたことでしょう。ごくろうさまです。今週は大学の研究室に寝袋を持ち込んで2泊もしましたが、これでやっと肩の荷が下りました。この後ヒアリングになっても、さすがにもうぼくの仕事ではないでしょう。

 GPのせいでたまっている仕事がたくさんあるので、一つずつサバいていかないと。採点できずに放置してある中間試験が2科目あるので、まずはそれからです。でも、出来がわるい科目は、採点しているとドッと疲れるんですよね...

 ところで、ぼくは「教育熱心」らしい(小うるさいともいう)。

 今ではそういう評価を受けていますが、ぼく自身が大学生のころには3B(バイト、バンド、バイク)を謳歌していました。関心のある科目のほかは授業に出席せず、空いた時間はジャズ研の部室にこもってドラムの練習。専門の書籍はたくさん読んでいましたが、授業の予復習には手をつけず、放課後はバイトに明け暮れる毎日。稼いだお金はバイクと楽器のローンに使い果たす。絵に描いたようなレジャーランド大学生ですね。

 どの面下げて、出席不良の学生に「ちゃんと授業に出なさい」なんて言えたもんかと我ながら可笑しくなります。

 そんな感じで、20歳代半ばまでは「音楽なしでは生きられない」と思っていたのですが、しだいに演奏することはなくなり、30歳代に入るころからは音楽を聴くことすら少なくなっていきました。音楽以外に自己を昇華する手段がたくさんできたしね。

 でも、ぐったり疲れているとき、むしょうに寂しいとき、ふと音楽が聴きたくなることがあります。音楽に慰めてもらうというか、応援歌に励ましてもらいたくなるのですね。

 応援歌の筆頭はこれ。ピーター・ガブリエルとケイト・ブッシュによる説明不要の名曲です。

大学でのセクハラ

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 大阪教育大のセクハラ事件について。

 第一報は一般紙とスポーツ紙とで記述にズレがありますが、ここはあえてスポーツ紙をウェブ魚拓しておきましょう→スポーツ報知

......教室で絵を描く準備をしていた女子学生(24)を研究室に招き、約10分間にわたってキスしたり胸などを触ったりした疑い。

 女子学生は単位をもらえなくなると思い、抵抗できなかったという。事件のショックで心療内科に通院し、6月中旬に入院した。今年3月に学内の人権委員会に相談。同署に被害を届けた。その後、星容疑者は3月中旬に「会って謝りたい。このままでは大学をクビになる」というメールを送ったというが、供述では「同意の上だと思っていた」としている。

 いまどきこれほど典型的なセクハラはめずらしいですね。大学のセクハラはもう少し複雑に入り組んだケースが多くなっていると思うのですが。

 法の世界では、セクハラの構成要件として、(1)性的な言動がある、(2)それが相手の意に反している、(3)権力の格差がある、の3点が判例の中であげられています。でも、「相手の意に反している」という要件は評価がなかなか難しいため、トラブルの原因になりがちです。

 例えば、大教大の事件のように、受け手が権力の行使を怖れてその場では抵抗の意思を表明できず、行為者は「同意の上だ」と解釈してしまったりする。こういうネジレはよくあることですね。というより、ほとんど例外なくセクハラに付随する特徴とすらいえるかもしれません。

 もっとややこしいのは、受け手がそのときは「同意」のことだと思っていても――もっといえば、受け手のほうから誘いをかけていても――いざ頭が冷えてみると、性的な関係を持つのは本意でなかったと思い直すことがあります。はたして、これは「相手の意に反している」といえるのかどうか。

 結論からいえば、どちらの例も、やはり、「相手の意に反している」と解釈するしかありません。二人の間に権力の格差があるときは、対等な立場を前提とする自発的な「同意」なんて成り立たないと考えるほうが自然だからです。

 女子大ではめったにありませんが、共学の大学だと独身の教員と学生が恋愛関係になることもめずらしくありません。でも、恋愛関係とセクハラを区別する客観的な基準なんて存在しませんので、これは厳に慎むべきことだと思います。

 たとえ、そのとき学生は教員に恋愛感情を持っていると思い込んでいたとしても、実は、教員への敬意をとりちがえた擬似的な感情かもしれません。しばらくお付き合いした後、学生がそれに気づいたとする。そしてセクハラだったと訴えることがある(某大学で実際にあった事例です)。

 これって、学生にとっても不本意で傷つく経験でしょう。でも、教員にとっても、純粋な恋愛感情を踏みにじられ、しかも社会的地位まで危険にさらされる二重の裏切り行為だと感じられてしまうことになる。お互いにとって、たいへんな不幸です。

 ということで、権力に格差があるとき、「同意」は幻想だし、「恋愛」も成立しない、という話でした。
 (華原朋美と小室哲也なんて、どう見てもセクハラやろ。)

追記:

 書いてるうちに忘れてしまってましたが、最初に書こうと思っていたのは、大阪教育大学には「セクハラ防止規定」がないのかな?という疑問でした。

 記事にある「今年3月に学内の人権委員会に相談。同署に被害を届けた」というのが、
(a)人権委員会に相談したところ、同署に被害を届けるようにアドバイスを受け、それに従った
(b)人権委員会に相談すると同時に、同署に被害を届けた
のどちらなのかによって話が変わってきます。

 aのようなセクハラ防止規定は聞いたことがありませんので、もしaであれば防止規定が未整備ということでしょうかね。もうはっきりと覚えてはいませんが、文部省(当時)が全大学に作成を指示したのは1999年ごろだったでしょうか。いまだに規定がない大学が残っているとも思えないのですが...

追追記:

 「大阪教育大学セクシュアル・ハラスメント防止・対策に関する規程 (平成12年4月1日制定)」があるようです。調停や事実調査は記載されていますが、調査の前に告訴や被害届を促すという記述はありませんので、おそらくbのほうでしょう。

授業回数は15回

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 先日、ある学生からジョークめかしてこういわれました。

 「ウチの学科でなにかキビシくなったり学生の負担が増えるようなときって、だいたい先生のせいだってみんなウワサしてますよ。」

 うーん、否定しづらいところです。

 「盗用の禁止とか...」

 (プレッシャーにはなるだろうね。でも当然のルールなんだし、むしろちゃんと教育してもらったほうがいいやろ?)

 「卒論調査のルールとか...」

 (ちょっとキビシイかなとも思うけど、人を対象に研究をやる以上はしょうがないやん?)

 「小テストとか宿題が増えたのとか...」

 (教員の負担も増えたけどな。その分、学力は向上してるし、卒業したらきっと感謝するよ。在学中はともかく(笑)

 「出欠をとるようになったのとか...」

 (いや、君みたいな優秀な学生にとってはうっとおしいだろうけど、これは喜んでる学生のほうが圧倒的に多いぞ。評価ポイントが増えるから安心だって。)

 「15回授業とか...」

 (ちょっとまて! 15回授業はおれのせいじゃないぞ!)

 ************

 高等教育の単位制については、文部科学省令「大学設置基準」にルールが定められています。

第二十一条 各授業科目の単位数は、大学において定めるものとする。
前項の単位数を定めるに当たつては、一単位の授業科目を四十五時間の学修を必要とする内容をもつて構成することを標準とし、授業の方法に応じ、当該授業による教育効果、授業時間外に必要な学修等を考慮して、次の基準により単位数を計算するものとする。
講義及び演習については、十五時間から三十時間までの範囲で大学が定める時間の授業をもつて一単位とする。(以下、略)
 ちょっと分かりにくいですが、授業を15回やって、その倍の時間を使うような予習と復習をこなしたら2単位とします、という意味です。(参考:Wikipedia「学年制と単位制」)

 ただ、「定期試験は授業1回分とカウントするのか?」「暦や学校行事の都合でどうしても14回しか授業回数を確保できない場合はどうするのか?」といった問題に画一的なルールを適用するのは無理があります。

 文部科学省としては、「最低13回の授業」がボーダーラインで、あとは大学の判断にある程度まかせるというスタンスです。だから、授業期間外に定期試験期間を設けてある大学の中には、定期試験を授業1回分とカウントして、実質的な授業回数は12回しか確保していないところもあります。

 ところが、保育士、管理栄養士、介護福祉士などの資格をにぎっている厚生労働省の立場はちがっていて、「ちゃんと90分授業を15回やらないとアウト」というのです。しかも、定期試験を授業1回分とカウントするためには、「60分間の試験+30分間の事後説明」のように、あくまで授業の中で試験を実施したというかたちにしないとダメというのですね。文部科学省とは違って、学校現場の苦労には配慮してくれないわけです。

 厚生労働省所管の資格にかかわる学科だけ授業回数が多いといろいろと不都合が生じますので、近年は全学的に15回の授業を実施する大学が増えています。

 ただ、授業15回+定期試験を確保するのは至難の業なんですよね。入学式を早めたり、祝日をつぶして授業を開講したり、創立記念日をゴールデンウィーク中に移動したり、ずいぶん苦しい操作をしないといけません。厚生労働省にはもう少し柔軟な対応をお願いしたいところです。

リテラシー

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 Wikipediaより

情報リテラシー(じょうほうリテラシー 英:information literacy)とは、情報を自己の目的に適合するように使用できる能力のこと。「リテラシー」(literacy)とは、文字の読み書きの能力を指し、これを情報一般に当てはめて情報リテラシーと呼ばれることがある。
 ウチの大学では、小規模大学では特殊といえるほど、高度に情報化が進みつつあります。e-learningなどのCBT/WBTだけでなく、履修登録はウェブ経由、休講掲示はブログ、事務連絡はすべて電子メール、スケジュール管理はポータルサイト、公式会議の議事録・資料はすべて電子的に管理、成績の入力と管理もすべてウェブ経由、等々。

 ところが、ハードはそろっていても、それらが十全な機能を発揮するところまではいたっておりません。理由は簡単で、情報リテラシーに乏しい一部の教員がシステムを使いこなせないためです。とくに、一部の学科はひどい状況ですね。

 一般企業なら職務命令として強権的に稼動水準をあげていくこともできるのでしょうが、大学では教員がかなりの意思決定を握っていますので、強権的にやろうとすればいろいろなところに無理が生じます。まぁ、一般的に言われる大学教授会の弊害ですね。民主主義が常に正しいわけじゃない。

 ただ、ぼくは個人的に、情報リテラシーという言葉にも問題があるような気がしています。

 Windows3.1の登場からすでに15年、大成功を収めたWindows95から11年以上、ネットワーク対応を標準機能としたWindows98からでも丸9年が経過しました。もはや、実態からいっても、社会通念の上でも、コンピュータは組織で職務を遂行する際に欠くことのできない道具となっています。

 そろそろ大学でも、「情報リテラシーが乏しい」などとボカした表現を使わず、もっとハッキリと、「あなたには職務遂行に必要な読み書き能力が欠けています」といってもいいころだと思うんですけどね。一般の企業ではもう10年も前からそうやってきたわけですし。

 提案が反故にされかかってちょっと怒りモードのエントリーでした。

追記:

 一太郎ver3の発売が1987年かぁ。もう20年もたつんですね。当時、PC-9801VXとCRTディスプレイ、ドットプリンタを買うために50万円ものローンを組みました。貧乏大学生の身にはかなりつらい出費でしたが、いまや10万円も払えば使えるパソコンが買えるわけです。

 しかも、20年前は使い方を教えてくれる人なんて誰もいませんでした。「世界でもっとも難しい本」といわれたマニュアルを引きながら、気が遠くなるほどリセットと再インストールを繰り返して習熟してきたわけです。情報収集に費やした書籍代と通信費はいったいいくらになるだろう。一方、いまでは無料の講習会が学内でも多数開催されています。

 こんな恵まれた時代に、使えないなんてゼイタクいうんじゃありませんよ、まったく。

ひとり社会的ジレンマ

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 問題です。

 あなたは今月中に下記の2つの仕事をしなければなりません。しかし、どちらも締め切りが近いので、2つともきちんと満足のいく内容に仕上げられるかどうか分かりません。優先順位を決めて取り組まなければならないのですが、あなたならどちらを優先しますか。

《仕事1》
 文部科学省の補助金を申請する仕事。本来は学長がリーダーシップを発揮してやるべきことだとされていますが、あなたの提案から始まった大学改革に直接かかわる内容です。今このタイミングで、この補助金が認可されれば、単に大学の財政だけでなく、経営全体に計り知れないメリットが生じます。やや大げさに言えば、大学の命運が架かっています。逆に、この補助金が認可されなければ、あなたが中心的な役割を果たした大学改革の効果が半減します。ただし、そこまで重要な仕事であるという認識は学内には乏しく、しかも、認可されようとされまいと、あなた個人の業績にはなりませんし、一円たりとも手当は支払われません。

《仕事2》
 あなた本人の研究。データの使用権を確保する上でも、学会における一定の評価を維持するためにも、キャンセルするわけにはいかないきわめて重要な仕事です。現状では、仕事1の前提となった大学改革のために研究の時間がとれず、まともに分析が進んでいません。

 どちらの仕事も、他には肩代わりしてくれる人がいません。さて、どうしますか。

休講のツケ

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 今年ははしかなどの流行で全面休講の措置をとる大学が相次いでいます。罹患していない大方の学生にとって、降ってわいた休暇は単純にうれしいものだったでしょう。しかし、休講措置がとけたとき、さて、そう喜んでばかりいられるものでしょうかねぇ。

 先月下旬から10日間ほど休講にしていた早稲田大学では、昨日から講義が開始されたそうです。休講分の補講措置はどうするんだろうかと気になってウェブをみてみると...

今回の全学的休講措置に対して、新たに補講期間は設けません。各科目において休講分を補完する課題等について、担当教員から別途指示がある場合はそれに従ってください。
とのこと。つまり、一斉の補講はしないが、応分の課題が各授業で出るかもしれないよ、ということです。

 わざわざ課題を出して採点の仕事を増やしたくないと考える教員もいると思います。でも、「(学校の都合で)休んだからにはちゃんとその代替措置を採るよう」にという要請が各教授会に来ているはずです。少なからぬ真面目な先生方は、きっと何らかの追加課題を考えることでしょう。

 今週いっぱい、各科目で補講相当の扱いについて説明が行われるはずです。さて、追加課題を聞いた学生たちが、それでもまだ全面休講を喜んでいるかどうか。

 ところで、先週、過労で体調を崩しました。大事な研究も忙しくて先送りになってることだし、「ウチもはしかで休講にならないかなぁ」と本心から願ったとしても、人として間違ってないですよね!

盗用の禁止

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 この大学に着任して驚いたことは他にもたくさんあります。たとえば、当時、レポートに盗用がたいへん多かったこともその一つです。

 盗用といっても、かならずしもウェブの資料をそのまま印刷するような悪質なものではありません。引用箇所と地の文が区別されていないとか、引用しておきながら出典を明記しないといった、論文の作法が身についていないタイプのものが非常に多かったわけです。

(ただし、翌年から非常勤であちこち教えに行くようになって、他の大学でも同等かそれ以上に多いとすぐに気づきましたが。ちなみに、一番ひどかったのは「関関同立」の中の一校でした。あそこは悪質なものも多かった。)

 着任して最初の試験が終わると、すぐに盗用禁止の内規を作成し、学生たちに周知しました。これが、僕がほとんど初めてマジメに手がけた校務だったような気がします。

 学生は提出するすべてのレポートにおいてプレジャリズム(plagiarism: 剽窃、盗用)を犯さないようにしなければならない。プレジャリズムは学問に対する重大な罪であり、学生がもっとも犯してはならない悪質な不正行為の一つである。プレジャリズムとは、故意に、あるいは不注意で、出典を示さずに他者の論理、表現、意見などを借用し、結果として自分自身のものと偽ることをいう。ちなみに、プレジャリズムの語源はラテン語で「誘拐犯」である。

 プレジャリズムに対する無知は、プレジャリズムを犯したことの弁解にはならない。自分のレポートにプレジャリズムがあるかどうかはっきりと分からないときは、提出するまえに教員に相談しなければならない。

 なつかしい。初めて盗用禁止の内規を会議に諮ったときに提出した資料の書き出しです。翻訳調でカタいですね。

 以後、「レポートの書き方」を含む授業を必修化して論文の作法を教えながら、4年間の内規運用で十分に制度が周知できたところを見計らって、学部改組と同時に学則にルールを明記しました。「盗用、カンニングなどの不正行為は試験期間にさかのぼって停学、そして試験期間の単位はすべて認定しない」という内容です。ようするにカンニングと同じ扱い。

 その結果、今では、ウチの学部で盗用が起こることはなくなりました。おそらく、全国でもっとも盗用の少ない学部でしょう。ちょっとした自慢です。

 ところで、おとなり韓国でもこんなニュースが。

 厳しくなったソウル大学の「盗作へのムチ」 (東亜日報日本語版)

保護者懇談会

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 9年前にこの大学に着任して、もっとも驚いたことのひとつが保護者懇談会でした。調べてみると、すぐに多くの大学で実施されていることに気づきましたが、当時は、「大学にも保護者懇談会があるのか!」とカルチャーショックを受けたものです。

 もちろん、今では保護者懇談会の目的も、その重要性も、理解しています。

 目的は、(1)大学と保護者の相互理解を深め円滑に教育を実施する、(2)教職員と保護者が一体となって修学の質的向上を図る、(3)1〜2を通じて保護者の大学に対する満足度を高める、といったところでしょう。

 ただ、これらの目的(とくに2番)通りに保護者懇談会が機能しているかというと、いささかアヤシイのですね。

 まず1番。円滑な教育を阻害するような保護者は、幸いなことに、ほとんどいらっしゃいません。留年が確定したときに相談にこられる方はもちろんおられますが、理不尽な主張を振りかざす方はみたことがありません。だから、本学では1番という目的自体が重要ではありません。

 次に2番。懇談会に出席される方々というのは、学修上とくに問題のない学生の保護者ばかりで、ぜひとも助力が必要な指導困難学生については、保護者が出席することはほとんどありません。ほとんどないものだから、たまにいらっしゃっても教職員と保護者の具体的な連携方法が確立されていません。場当たり的な対応しかできず、貴重な連携のチャンスが生かされずに終わってしまうこともあります。(ということが後になって分かる)

 最後に3番。出席される保護者の割合が低いです。ウチの学科の場合、在校生の15%くらいの保護者が来られるという感じでしょうか。子どもの学修や就職の相談だけでなく、保護者自身にも楽しんでもらうための仕掛けがないとだめでしょう。

 保護者懇談会。やるのはいいのですが、改善の余地がいろいろとありそうです。

 ...と考えて、とりあえず保護者にニューズレターを渡そうと提案したら、「言いだしっぺが作れ」という話になって、このところDTP作業に追われていました。

私大中退5万5千人

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 日本私立学校振興・共済事業団が去年実施した調査によると、私立大学を中退した学生は1年間で5万5千人に及ぶとのこと(読売オンライン)。

大学院大学などを除く、ほぼすべての私立大550校の中退者は5万5497人。在籍した学生約193万人の2・9%にあたり、国立大の中退率1・6%(内田千代子・茨城大准教授調べ、04年度)を上回った。

 学年別では、留年などで卒業が困難になった4年生が1万6370人と最も多く、続いて2年生1万6199人、1年生1万2503人。男女別では、男子が4万945人で全体の7割を占めた。

 在校生の1割が中退した大学も4校あった。難関大ほど中退率は低く、小規模で定員割れなどの問題を抱える大学ほど学生が定着しない傾向があるという。

(中略)

 同センターの西井泰彦センター長は「学校に満足できないのは、入試段階での不一致やつまずきなどにも原因がある。どんな学生でも定着できる体制づくりが必要だ」と話している。
 お説ごもっともで。

 入学段階での問題といえば、ひどいケースだと、入学式以降一度も出てこない、ガイダンスも受けない、履修登録をしない、本人に連絡を取ろうにも電話が通じない、保護者に連絡をしようとしてもやはり電話が通じない、なんとか電話がつながってもうろたえるばかりでうまく話が通じない、などということもあります。

 これほどひどいケースではなくとも、ドロップアウトする学生は、学力だけでなく、他にいろいろな問題を複合的に抱えていることが多く、大学が提供できるサービスだけでは対処できないことも少なくありません。

 それでも、丁寧に個人面談をしたり、複数の教員でチームを組んで指導計画を作って対処するなど、ドロップアウト対策が進んでいる学科では、他学科に比べて中退率が明らかに低いのです。教職員の努力でカバーできるケースが多いということでしょう。

 今年度からは学部全体で同様の取り組みをするようになっています。今までのところ、学生たちの反応は良好で、指導困難なケースについても一定の改善が見られています。なんとか中退率抑制につながって、一人でも多くの人材を送り出すことができるようになるといいのですが。

高崎経済大学のその後

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 先月11日のエントリーで取り上げた高崎経済大学の事件ですが、解雇された準教授は市に不服申し立てをしたそうな(群馬新聞)。まぁ、当然でしょうね。まずは公平委員会での不利益処分審査。

 地元の群馬新聞によると、元准教授と代理人は記者会見で「処分は、憲法で大学教員の権利を保障した『教授の自由』に違反すると主張した」とのこと。これも申し立ての戦略として当然だと思います。

 高崎経済大で処分を決定した先生方も想定済みの反論でしょうから、口頭審理が公開で開催されれば興味深い議論になるかもしれません。処分が変わらなければ法廷闘争になるでしょうから、遅かれ早かれ口頭審理は実施されるはずです。

 はたして、このケースが「教授の自由」を逸脱するものだったのかどうか。Faculty Developmentの要請と「教授の自由」は矛盾する場合があり、相互に一定の制約を受けざるをえません。公平委員会や法廷は、具体的にどのような線引きをするのか。

 野次馬としては、瑣末な手続き論ではなく、大局から議論をぶつけ合うような展開になることを期待しています。

補助金の公平、効率

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 すでに報道されている通り、今月11日、規制改革会議の教育・研究タスクフォースが、補助金の分配方法改正を中心とする提言書(pdf)をまとめました。以下、一部だけ抜粋。

(1)教育・研究の峻別

運営費交付金及び私学助成金については教育目的に特化することを検討すべきである。また、研究目的に交付する公費については、研究持続の安定性に一定の配慮をしつつ、競争的研究資金で充当することが望ましい。

(2)教育に関する配分基準等の見直し

運営費交付金や私学助成金の配分基準についても見直す必要がある。(中略)学生数に応じ配分額を決定する仕組みを採用することにより、結果として公費が重点的に配分されるように見直すべきである。こうした公費の配分方法を見直すときには、教育の質の担保を前提として大学・大学院の定員数を独自の判断により柔軟に設定できる制度の導入を併せて検討する必要がある。

 ようするに、こういうことです。
  1. 教育と研究がごっちゃになっているから、補助金の配分が不公平だし、非効率的だし、よけいな規制になってしまっている。
  2. 補助金は学生数で頭割りするのがスマートだ。
  3. その際、定員の枠を超えて大量に学生をかき集める大学が有利になるようにしてあげるとよい。
  4. 小規模の大学は潰れるか統合しなさい。
 なるほど、規制改革会議らしい。すべてを市場という神の見えざる手にゆだねよ。市場に任せればうまくいく。そうでないから現状はダメなのだ、という意思が鮮明に貫かれています。

 さて、提言書でいう私学助成金とは、正式には「私立大学等経常費補助金」の「一般補助」のことです。これは、?@私立大学等の教育研究条件の維持向上、?A学生の修学上の経済的負担の軽減等に資するため、大学等の経常的経費に対し、学生数、教員数および財政状況など一定の条件を基準に補助するというものです。

 たしかに、教育と研究がごっちゃになっているし、学生数だけでなく教員の数なども按分されています。その意味で、規制改革会議の提言は、論理的には整合的だといえないこともないわけです。提言の通りに実践すれば、おそらく教育効果は大きく低下するでしょうが、それなりに整然とした補助金体系を築くことはできるはずです。

 しかし、これは利潤を追求する企業ではなく、非営利的な学校法人の話です。「効率」を論じるときは、経営の効率ではなく、教育の効率のことを指すべきでしょう。

 規制改革会議の委員方はマスプロ教育がお好みのようですが、大人数の講義では、精神的に、学力的に、ついていけない学生もいるわけです。提言に従えば、そういう学生は切り捨てろ、ということになります。そういう意味での「効率」の追求は、はたして教育を論じるうえでふさわしいといえるでしょうか?

 現行の制度には、教育と研究の経費配分を各大学が決定できるという大きなメリットがあります。それによって、例えば、"研究経費を節約して人件費に回し、少人数で丁寧な教育を実現する"という教育方針を採ることができるようになります。はたしてこういう教育モデルは、規制改革会議が糾弾するように、「不公平」で「非効率的」なのか?

 入学時点では学力水準が低くても、少人数制の授業で丁寧に指導を行い、卒業時点では他学の学生に引けをとらない人材を育成するということこそ、効率的だとはいえないか?

 まぁ、この提言書は与党内部でもたいへん評判が悪いですし、教育改革会議の方針とも合致しませんので、そのまま通ることはないでしょう。ただ、喚起された世論を通じて、間接的にいろんな意思決定に影響を与えたりすることがあるのですね。100年の大計にかかわることですので、長期的な視野からじっくり検討してもらいたいものです。

後ろに座る学生 #2

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 教室で後ろに座ろうとするのはどういう学生なのか、7日のエントリーにも書きましたが、その続編です。

 前回は社会学の理論的な考え方を紹介しましたが、社会心理学分野では、学生の座席選択行動についての実証的な研究がたくさんあります。

 「Millard & Stimpson(1980)は、座席選択行動が...教室における興味や関心に反映され、前方に着席する学生のほうがその授業に対する好みや関心が高く、参加意識や学習動機も優れていることを明らかにしている。この他、教室の前方に座る学生ほど授業に対する注意力に優れ(Schwebel & Cherlin 1972)、よい成績をとることを重要と考え、他者から知的かつ独創的と見られたいという思いが強い(Walberg 1969)、など...」(川西 2006:211)
 同僚の先生の論文からの引用です。この論文の面白いところは、いくつかの授業の分類ごとに座席位置やパーソナリティの関連を調べてあるのですね。ちょっとオキテやぶりですが、5%水準で有意な相関係数だけ引用してみたのが下の表です。相関係数がプラスだと「より後ろに座る傾向がある」という意味。

  条件なし好きな
先生
嫌いな
先生
おもしろい
授業
おもしろく
ない授業
必修の
授業
選択の
授業
アパシー未来不安定.339 .219.232.194.255.347
抑うつ.282 .221  .200.264
自信欠乏      .231
帰属感大学関与感  -.308-.193-.261-.318-.294
大学一体感    -.196  
学習意欲学習意欲低下.373.278.247.276.299.285.347
授業意欲低下.246 .193 .197.194 

 ゼロ次の相関係数ですので解釈は難しいのですが、以下のことは指摘してもよさそうです。

  • 授業のタイプによって座席選択行動にかなりの違いがあるということ
  • 「嫌いな先生」「おもしろくない授業」「選択の授業」といったインセンティブの低い授業で、座席選択行動はパーソナリティや学習意欲の影響をより強く受けると思われること
  • 逆に、「好きな先生」「おもしろい授業」といった内発的な動機付けがはっきりした授業では、座席選択行動はパーソナリティや学習意欲の影響を受けにくいこと
  • 「アパシー」(無力感)の強い学生、「帰属感」の弱い学生、「学習意欲」の低い学生は、総じて後ろのほうに座りたがる傾向があること
  • 学習意欲の低下が総じて着座位置にもっとも強い影響を与えていること
 産能大の調査では、後ろに座る学生ほど厳しい授業評価をする傾向があったとのことですが、学習意欲の低い学生が多いわけですから、当たり前といえば当たり前ですね。

後ろに座る学生

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 昨日のasahi.comから。「後ろに座る学生、教員に厳しく自分に甘く 産能大調べ

 うーん、産能大。二学部で収容定員2320名と小さな大学ですが、ICカードで出席管理をしているわけですね。どこかのマンモス大学のように、"一クラス200名を超えるような大講義が多くて、そうでもしないと出席管理できない"というわけではないでしょう。おそらく、個々の学生の就学状況を科目横断的に把握し、より丁寧に指導することが目的で導入されているのだと思います。やりますね。コストの問題から二の足を踏んでいましたが、やっぱりウチでもやるかなぁ。

 さて、座席指定をしない大きな教室だと、一見するだけで、前のほうに座る学生と後ろのほうに座る学生とでは、タイプが違うと気づきます。

 というのも、まず髪の毛の色が違います。前のほうは黒に近く、後ろのほうに行くにつれてだんだんグラデーションの階調が明るくなり、茶色を経て金色へと変化します。服装も違います。前のほうはカジュアルな服装が多いのに対して、後ろに近くなるとだんだんハデになり、肌の露出も多くなります。そして化粧が違います。前方の学生はノーメイクかナチュラルメイクですが、後ろのほうはアイメイクを中心とした濃い化粧が目立つようになります。

 ようするに、着座位置によってライフスタイルがある程度違うのですね。

 社会学的には、これを「権力からの距離」power distanceと解釈します。どれくらい権力志向が強いか弱いか、を意味する言葉です。文化集団によって権力志向の強弱は異なるものなのですが、面白いのは、権力志向が強い文化集団は、政治的にも物理的にも、権力に接近することを好みます。

 例えば、京都では御所の近辺の地価が高いのですが、これは天皇に代表される権力への接近願望のあらわれだと解釈するわけです。逆に、遠足のバスで一番後ろに座りたがるとか、教室で一番後ろに座りたがるなどというのは、いずれも、教師が代表する権力から距離を置こうとする態度のあらわれということになります。

 ようするに、"よい子"と認められることに慣れていたり、"まじめ"とみなされることをイヤがらない学生集団は前に座ることをいとわない。一方、ワルそうな格好、ハデめの格好をしている学生は無意識に権力(教師)から距離を取りたがる。そして、産能大の調査によると、後者のほうが成績が悪かった、と。

 ちなみに、ぼくは今でもなんとなく後ろのほうに座りたがります。

レポートの内容

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 弁護士を通じて、高校生の小論文が公開されました。下に全文を引用してあります。2箇所の赤字部分が「問題」とされた箇所です。

 この小論文の宿題は、「心に浮かんだことをなんでも書きなさい。けっして、自分で書く内容を審査judgeしたり検閲censorしたりしないように」というものだったらしく、「検閲については心配する必要ありません」ともいわれたそうです。

 問題となった最初の箇所は、過激なバンドGreen Dayの歌詞からの引用ということです。引用符も付いていますね。ここはおそらく争点にならないでしょう。教育委員会のほうでは、「たんなる暴力やきたない言葉遣いではなかった。それらを超えていた」とまでコメントしていたわけですから、歌詞からの引用だとわかって頭を抱えているかもしれません。

 ただ、検察側が問題視しているのは最後の箇所です。「あんたの文章能力に異論はないけど、でも先生としてはどうかね。初のcg銃撃を触発したって驚くなよ。」 "cg"とは"Cary-Grove高校"のこと。なるほど、コロンバイン高校やバージニア工科大学のような事件を想像させないでもない。いきなり逮捕したのはいきすぎだとしても、軽犯罪法違反の要件は満たすかもしれません。

 それにしても、この高校がどんな学校なのか、気になります。

 小論文の中でおちょくられている英語の先生は、たぶん、ちょっとしたことにハデに驚いて問題視したりする厳格な先生。最優秀のクラスを教えるにはいささか退屈な人。でも母性的な面もあって、生徒たちにお菓子をふるまったりする。しかし、生徒たちはお菓子をあまり喜んでいない。――高校生のコメントを信じるなら、そんなイメージですね。

 レスリング部の選手で、ミリタリーオタクの高校生が、「これぐらいでびっくりすんなよ」といたずらめかして過激な宿題を書いてきた。それを本気に取ってしまうぐらい、普段から生徒との間には距離があったということでしょう。

 そして、その先生のいうことをさらに主任、校長、教育委員会が真に受けて、警察に通報した、と。

 ちなみに、海兵隊はこの事件で高校生の志願を却下しました。訴えが取り下げられれば再申請してもよいとのことですが、高校生はたいへん落胆しているとのこと。


Blood sex and Booze. Drugs Drugs Drugs are fun. Stab, Stab, Stab, S...t...a...b..., poke. "So I had this dream last night where I went into a building, pulled out two P90s and started shooting everyone..., then had sex with the dead bodies. Well, not really, but it would be funny if I did." Umm, yeah, what to wright about...... I'm leaving to join the Marines and I really don't give a (obscenity) about my academics, so why does the only class that's complete Bull Shit, happen to be the only required class...enough said. The model citizen would stay around to vote in new board member to change the 4 years of English policy, but no one really stays around to vote for that kind of local crap, so whoever gets there name on the Ballet with a pretty face gets to do what the (obscenity) ever they want with local ordinance. A person is smart, but people are dumb selfish animals. We can't make rules for ourselves so we vote others to do it for us, but we can't even do that right, I meen seriously, Bush for President? And our other option was John Kerry who claimed to parktake in Vietnam Special Forces missions that haven't been declassified....(obscenity) Bull Shit. So Power Flower Super Mario. Pudge, hook, rot, dismember "Fresh Meat." Mostly new/young teachers are laid back, and cooperative with students as feedback and input into the curriculum and atmosphere. My current English teacher is a control freak intent on setting a gap between herself and her students like a 63 year old white male fortune 500 company CEO, and a illegal immigrant. If CG was a private catholic school, I could understand, but wtf is her problem. And baking brownies and rice crispies does not make up for it, way to try and justify yourself as a good teacher while underhandedly looking for complements on your cooking. No quarrel on you qualifications as a writer, but as a teacher, don't be surprised on inspiring the first cg shooting.
 以下は高校生が弁護士を通じてメディアに配布した補足説明。

Authors Note: This production of writing is done in the most accurate manner I can depict of the original writing. Grammar and spelling mistakes are included at the best accuracy possible. The first phrase in questions is in fact a Green Day song. The second reference to drugs is in relation to the schools history of drug problems. I am personally clean of all controlled substances. The statement in quotes is done so as a non personal statement as I would have done in reference to a character for a story. The reference to the gun P90 is from a video game, combined with a reference to necrophilia as a comment regarding a seriously messed up situation. A situation such as the rape of villagers during a raid by U.S. troops in Vietnam. I really do not care too much about by continuing academia as in relation to grades. I do however believe on continuing my personal education, and I am actually still working for my classes. My views on the graduation requirements explain themselves. The reference to Mario and Pudge( a DOTA character) are completely random as is this essay. The reference to a person being smart and people being dumb is based on a quote from "Men in Black." I generally do believe the public opinion is best. The rest of the essay is rather self explanatory, the main statement in question I have already released a comment online about. I request that all information I have released is read together, and nothing given separately or as an excerpt as the administration has seen fit to do.

On an additional note, I have completed the MEPS (Military Entry Processing Station) examinations, and yes a psychiatric evaluation is included in the process. If I'm qualified to defend the country, I believe I'm qualified to attend school.

レポートで高3生徒逮捕

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 昨日のシカゴ・トリビューン紙より抄訳

作文の授業で感情を表現するようにいわれ、中国系の高校生が小論文を書いた。それが教師、学校、警察を混乱させたということで逮捕された。

成績優秀な18歳の高校生が書いた小論文が軽犯罪法に反したということで、火曜日に自宅付近にて逮捕された。警察によれば、暴力的で不穏ながら、特定の個人や場所を名指ししたものではなかったという。

レポートは公開されていない。学校側によれば高校生はたいへん優秀な生徒であり、当局も、高校生が警察とトラブルになったことは一度もなかったと述べている。

当時、シカゴ地域中の学校がバージニア工科大学の虐殺にどのように対処すべきか取り組んでいた。SchaumburgやCountry Club Hillsの高校では爆弾予告による避難があった。Palos Hills高校では1kmほど離れたレストランのトイレで脅迫状が見つかり、警察官が増派されていた。

警察本部長の談話。「たとえ小論文が出版も公示も衆目にさらされてもいないとはいえ、逮捕は適切なものであった。治安びん乱行為は30日以下の拘束と1500ドル以下の罰金にあたる軽犯罪であり、火災報知機を押したり119番に電話するといった悪ふざけもしばしば送検されている。文書が人を混乱させたときにも適用されうる。教師は小論文の内容に不安を感じ、混乱をきたしたのだ。」

高校生の父親は、「暴力への懸念はわかるが、作文の練習で逮捕されるなんて」と話している。「バージニア工科大学での事件は知っているが、宿題に書いた作文で逮捕されるなんてまったく理解できない。教師は子どもたちに自分自身を表現しろと指示し、息子はそれに従っただけなのに。」

数名の法律の専門家は、個人や学校に対する直接的な脅迫がなかったと警察も認めているのに逮捕したことは問題だと述べている。

ある市民運動家は、教師がやるべきことは罪を作り出すことではない、と話している。「問題の一つは、ある種の騒乱が作られた、ということだ。何かが個人的になされただけなら、つまり、論文が先生に手渡されただけなら、騒乱なんて成立しない。」

かれは、バージニア工科大学の事件のあと、潜在的に脅迫じみた作文が学校で過剰に注目されることは避けられないとも述べた。「人々がこうしたことに関心を持つのは、間違いなく、先週、工科大学の犯人の作文があれだけ報道されたからだ。」

地区の教育長によると、作文が自分や他人に対して脅迫するような内容の場合、学校が対策をとることがあると生徒は警告されているという。

彼女によれば、英語教師は小論文を読んで上司と校長に報告し、活発な議論の後、教育委員会が警察に連絡することを決めたという。「教育委員会の職員は青年期の行動に慣れている。われわれは作文に投影される創作性が多様だということをよく知っている。しかし、たとえ名前、場所、日時を書いていなくても、懸念を呼び起こす作文というものは確かに存在するのです。」

高校生の弁護士は、高校の反応は許容ゼロ政策がゆがんで運用された好例だ。子どもは大人ほど洗練されていない。しばしば、たんなる感情のはけ口として、教師が期待しない作文や絵を描くものだ、と述べている。「高校側は、自分自身で恐怖感にとらわれてしまわずに、きちんと感情や意見を高校生に伝えることだってできたはずです。」

水曜日、逮捕された高校生の復権を嘆願するために何名かの生徒が集まった。かれらは、英語教師が生徒たちに作文で感情を表現するよう伝えた内容を引用したポスターを壁に貼った。

ある高校3年生の話。「嘆願書にサインしたよ。でも当局の行動も理解できる。ぼくも教師だったら同じように反応したと思う。」

高校生の父は、30年前に中国から米国に移民し、地区に16年間住み続けている。彼によると、高校生は火曜日に75ドルの保釈金を支払い、いまは精神科にかかっている。停学にも退学にもならなかったが、転校するよう圧力を受けているという。

「教師は採点し、不安になり、学科主任に伝えた。主任は校長に報告した。わたしが最初に連絡を受けたのは、警察からだった。」

読んでいないため確かなことはわからないが、小論文は息子のジョークだったのかもしれない。「それが唯一の論理的な説明だ。」

「バージニア工科大学の事件以来、誰もが神経質になっている。これが去年のことだったら、誰もまったく危険だと思わなかったろう。タイミングがわるかった。」

授業中の私語

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 僕が担当する科目のシラバスには、こういう一文を載せてあります。

 この授業では、周りに迷惑さえかけなければ、授業時間中に寝ようが化粧をしようがメールを打とうがかまいません。高額な授業料でせっかく購入した教育機会ですが、どのようにムダにしようともあなたの自由です。(もちろん、ボクとしては"ムダにしたいと思わないほど魅力的な授業"を心がけていますが。)

 しかし、私語はやめてください。授業中の私語は、君たちが考えている以上に周囲の学生にとって迷惑なものです。映画館で後ろの席の客がずっと話をしていたり、禁煙のレストランで隣の席の客がタバコを吸ったりするとイヤでしょう。それと同じこと。他の学生の教育機会をジャマする権利は誰にもありません。私語をやめられない学生には、授業の途中でも退室してもらうことがあります。
 ウチの大学は、もともと私語が少ないほうだと思います。100名を超える大講義は少ないし、学生はまじめだし。また、ぼくはどちらかというと講義が下手なほうではないので、さらに私語は少なめです。おまけに、シラバスにここまで書いて、授業中に何度も繰り返し説明しています。

 それでも、ごく少数ながら、私語をやめられない学生はいるものです。完全に横を向いてしゃべり続けるぐらい興味がないなら授業に来なければいいとぼくは思うのですが、10%の出席点が惜しいのか、たとえ聞いていなくても出席していると安心できるのか、ともかく、わざわざ出席して私語をする。そして、何度注意をしてもしゃべることをやめない。

 いっさいの私語を禁じるというのはやりすぎですが、度を越した私語は授業を崩壊させる原因ですし、教室を静粛に保つのは教員の義務ですので、注意に従わない学生にはいろいろな対策を講じることになります。席を移動させる、退室を命じる、最悪の場合は履修を止めさせる。こういう学生はどんな形式の授業でも同じようにしゃべる傾向がありますので、何らかの対策を講じることはたんなるペナルティとしてだけでなく、教育の面でも重要です。

 とはいえ、退席を命じただけでは教育効果もへったくれもありませんので、後日、個別に面談を実施することになります。教員側も、強権を発動して後味が悪いので、そうやってフォローしておくと精神衛生上も好ましかったりします。ところが、そういう学生は呼び出しに応じてくれなかったりするので、どうやって面談を受けてもらうかということがまたチャレンジングなテーマなのですね。

 ところで、授業中の私語について、野村一夫さんがソキウスでこう書いています。

 新堀通也が指摘する学生側の問題点を任意に列挙してみると、(1)公私のけじめの消滅、(2)私的行動・レジャー行動としてのテレビ視聴の構図を授業に持ち込むこと、(3)大学入学以前の段階で子ども中心(本位)のあつかいを受け、許容されることになれていること、(4)学校の事なかれ主義の風潮のなかでマジメに対する冷笑的態度が多数派になっていること、(5)学生の大衆化(かつて大学への進学者は同年齢の一割だったが現在はほぼ四割)、(6)不本意就学・不本意在学・不本意出席、がある。他方、大学側の問題として、一八才人口減少にともなう学生消費者主義(大学は学生にサービスしなければならないという考え方)があるという。

 これらの背景にあるのは、消費による自己形成である。こうした傾向にいち早く気づき「モラトリアム人間」論を展開した精神科医小此木啓吾は、これに関して次のように説明している。「旅行であれ、デパートでの買い物であれ、映画鑑賞であれ、いずれも消費行動であり、気楽で気分本位な暫定的・一時的なかかわりである。"本当の自分"を賭ける必要のない遊びである。そして、人々は、その営みのなかで解放感を味わい、お客さま気分を楽しみ、このお客さま気分が自己評価を高め、人間的な満足感を誘う。」▼12成熟消費社会の申し子たる現代の大学生たちが「お客さま気分」を無自覚に教室に持ち込むとき、私語が発生するのは時間の問題である。
▼11 新堀通也『私語研究序説──現代教育への警鐘』(玉川大学出版部一九九二年)。
▼12 小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』(中公文庫一九八一年)五二ページ。
 つまり、提供される「商品」を受動的に消費するだけという態度では、大学での学習は成功しないと説いているわけです。そのこと自体に異論はないのですが、「私語」の問題にかぎれば、少し論点がずれているような気もしています。

 たとえば、「テレビ視聴の構図を授業に持ち込む」のが受動的な「お客さま気分」の代表格でしょう。でも、同じ娯楽的商品であるコンサートやライブ会場では、たとえ誘われて行っただけの興味のないライブであっても、友だち同士で話に夢中になって、最前列でしらけて座ったままということはないはずです。場の雰囲気に合わせてスタンディングし、他の客と一緒にウェーブしたりダイブしたり、参加型の商品を"適切"に消費する素地はある。つまり、たとえ演出された楽しみ方を受動的に受け入れているだけとはいえ、その範囲内で、場の空気を読んで能動的に参加することはできるわけです。

 そうすると、お客さん気分で大学に来ることが私語の原因というより、講義という知的商品をお客さんとして楽しむことすらできないとき、私語で自分の存在を確認したがるのではないかと思うのです。

 授業中に対処できる問題ではありませんが、ほぼ入試が意味を失ったユニバーサル・アクセス状態では、こういう学生に知的快楽を体験させてあげることが重要な課題になっているのだと思います。

採点ミスはありえない?

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 もう3年前になりますか、非常勤で教えていたK大学での話。

 およそ300名ほどの学生が集まった4月はじめの教養の授業で、ぼくはこういいました。

「日本の学生は、成績表を受け取ったら疑問にも思わずそのまま受け入れてしまう傾向があります。しかし、特に人数が多い授業ではミスもありえます。例えば、先生が成績をつけ間違えているかもしれない。かりに先生がちゃんと成績をつけていても、データを入力するときにミスが発生するかもしれない。だから、もし「こんな成績は絶対におかしい!」と思ったら、かならず教務に確認に行くように。」
 まぁね、ヨソの大学でわざわざいうべきことではないと思いますよ。ただ、あまりにも唯々諾々と評価を受け入れる学生が多いものだから、成績表を配布する時期にこう発言するのはクセになっていたのですね。

 すると、昼休みに事務のお兄ちゃんが激怒して怒鳴り込んできました。いわく;

  • 入力ミスがあったのではないかと不安になった学生が10名ほど、「入学から今までの成績すべてミスがないかチェックしてくれ」とクレームをつけてきた。どうしてくれるんだ。
  • われわれ事務方は責任を持ってデータを入力している。データの入力ミスなどありえない。あってはならない。また、先生についても、成績をつけ間違うなど、ぜったいに許しがたいことです。
 どうやら、ぼくの発言は、その学部での慣習を踏みにじる内容だったらしい。すぐに陳謝して怒りをおさめてもらいましたが、心の中では納得していませんでした。ぼくは間違ったことを何一ついってないぞ。成績を全部チェックしろといってくる学生も学生だが、ミスがありえないなどとナンセンスなことをいう事務も事務だな、と。

 ちなみに、アメリカでは成績のつけ間違えなんて日常茶飯事です。可能なかぎりミスがないようにするのは大学の義務。でも、アメリカの事務職員はミスが多いし、当人たちも「人はミスを犯すものだ。いっさいのミスを犯さないためには何度も繰り返しチェックしなければならず、それをやるほどの給料はもらっていない」と思っています。だから、ミスがないかどうか確認するのは学生の義務なのです。

 そして、たとえミスがなくとも、学生たちは成績に納得できなければ、「どうしてこんなに低いグレードなんだ」と訴えてきます。教員側は、クレームがつくことを前提に、厳密に成績を評価し、評価の材料をきちんと保管しておきます。

 アメリカが優れているとはいいません。というより、アメリカのようにミスが多いのは困ります。それでも、「ミスはありえない」などと非現実的な前提に固執するのは気色わるいとぼくは感じるわけです。

 たとえるなら、「絶対に事故は起きません。だから心配いりません」という原子力発電所と、「人はミスを犯すものです。だから、ミスを犯すリスクのある箇所を徹底的に洗い出し、そのすべてについて不断の対策を行っています」という原子力発電所と、どちらを信じるか。ぼくなら、後者のほうが安心できます。

 そして、「ミスはありえない」「絶対に事故は起きない」という文句を妄信してしまう学生というのも、困ったものでしょう。少なくとも、ぼくはそう思うわけです。

*****************

 ただし、それから何ヶ月かたって、考えを一部修正するできごとがありました。別の大学のある先生からジョークめかしてこういわれたのです。

「いや、君のほうが間違っている。なぜなら、君は不用意な発言で、クレーマーを刺激してしまったのだから。」
 目からウロコとはこのことか!!

 それまで、学生をクレーマーとみなしたことは一度もなかったのですが、いわれてみれば、クレーマーといわざるをえないような学生は確かにごく少数ながらいるものです。ウチのように学生数が少なく、しかも事務職員の多い大学なら、そういう学生にも本質的な対応(理不尽なクレームを頻発する理由を確かめ、それを取り除く)をするだけの余裕があります。だから、わざわざクレーマーと定義する必要もなかっただけのこと。しかし、K大学のようなマンモス校では、クレーマー対策は重大な課題になっているのかもしれません。

 ごく少数のクレーマーを刺激しないようにするべきか、それとも、大多数の学生に疑問を持てと教育するべきか。ウチの大学では後者をとるべきだと思いますが、はたしてマンモス校でどうかと問われれば、答えに自信を持てなくなっています。

評価の公平性

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 すべての文芸作品には「舞台装置」があります。

 SFの作品が例としてわかりやすいかな。たとえばタイムマシンものだと、現在よりも高度に科学技術が発達した時代があり、そこでは時間を越える旅行が可能になっている――そういう虚構の世界が設定されています。その虚構の設定、すなわち舞台装置を前提として、登場人物や出来事といった素材がストーリーを組み立てていくわけですね。

 舞台装置はあくまで虚構なので、人によってはそれを受け入れられないこともあります。「フィクション(作り話)はシラけてしまって感情移入できない」とか、「SFはきらい。ありえないもの」という人は、作品を評価する以前に舞台装置を受け入れられないわけです。

 だから、文芸作品として成功するためには、まず、その舞台装置を多くの人に受け入れてもらわなければなりません。そのためには、現実の生活となじみの深い舞台を借用するのが手っ取り早い。たとえ作り物の舞台でも、おなじみのものであれば「あぁ、そういうのってあるよね」とすんなり感情移入できるから。具体的には、学校、会社、サークル、仲間集団、といった場所を舞台にしてしまう。

 何の話をしているかというと、『ハリーポッター』のことです。ぼくにはあの作品の舞台装置が、すでに受け入れがたいものになっています。児童文学だから多少の矛盾には目をつぶりますが、"ぜったいにありえない"ことを前提にされてはさすがにシラけてしまいます。

 というのも、どこの国の学校にも、例外なく共通した原則がひとつだけあります。評価の公平性です。すべての生徒の努力と能力を公平に評価するという原則。それが、『ハリーポッター』の学校では満たされていません。

 ミクロな面から説明すると、"教師は生徒の努力と能力に見合った評価を公平に下す"という約束が守られないかぎり、まじめに努力しようという生徒はいなくなっちゃいます。努力するより先生に気に入られるほうが重要になるからね。そしてどうしても先生に気に入ってもらえない生徒はやる気をなくすだけです。そして授業が成り立たなくなってしまう。ある生徒が特別な才能を持っている場合は、指導にかたよりが出ることはあるけど、評価は公平でなければならないのです。

 マクロな面からいうと、"がんばって勉強していい学校に行けば、いい職業を得ることができるし、結果として豊かな生活を送ることができる"という物語をみんなが信じていれば、たとえ今は貧しくてもあしたを信じてがんばることができます。でも、"どれだけがんばっても貧乏人は貧乏のまま。貧乏人の子どもも貧乏のまま"となると、純粋に知識欲のある生徒をのぞいて、努力する生徒はいなくなってしまう。社会の生産性は低下する。不公平で不平等な世の中に不満が高まる。社会の秩序を維持することができなくなる。

 現実には、生徒の努力と能力とは無関係に、教師が"お気に入り"をひいきするということもよく聞く話です。しかし、そんな先生でも、特定の生徒に有利な評価をしたと認めることはまずありえません。建て前のうえでは、すべての生徒を公平に評価しているという約束を破ることはできないのです。でなければ、授業が、そして学校が崩壊してしまう。

 ところが、『ハリーポッター』では、校長があからさまに主人公をひいきしますね。しかも、校長が「(評価で)ひいきしちゃった」と主人公に告白したりします。在学生に向かって、公平性の約束を自ら破壊してしまう校長など、この世に存在しません。

 どうしてあんなナンセンスな舞台装置を設定したのか、ぜひ著者に聞いてみたいものです。

キビシイ授業

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 大学で教えるようになって15年目になりますが、いまだによくわからないことがあります。

 それは、学生たちがどういう授業を「キビシイ」と表現するのか、ということ。ちゃんと調べてみないとなぁと思いつつ、ずるずると今まできてしまいました。

 「キビシイ授業」や「キビシイ先生」の必要条件はなんとなくわかります。

(a1)私語厳禁、メール厳禁など受講のルールが多いこと。
(a2)しかもそれを厳格に守らせること。

(b1)宿題が多いこと。
(b2)しかもそれを厳格に守らせること。

(c1)試験が難しいこと
(c2)しかも救済策がなく、不合格者が多いこと。

 (a)〜(c)のうち少なくともひとつに当てはまれば、「キビシイ授業」といえるでしょう。つまり、「キビシイ=厳格」ですね。たぶん、どこの国でもどの時代でも、同じ要件が当てはまると思います。

 しかし、条件が(少なくとも)3つありますので、単純に適用することは難しい。例えば、宿題をたくさん出すと、逆に「ヤサシイ」と評価を受けることもあります。これは、(b)には矛盾しますが、(c)の逆ということでしょうね。救済策を用意してくれるので「ヤサシイ先生」というわけです。でも、(b)とどこが違うのかはよくわからない。

 もっと難しいのは、(a)〜(c)以外にも「キビシイ授業」がたくさんあるということなのです。

 例えば、とても柔和で優しい先生で、評価は甘め。宿題も一度しか出さない。それでも、宿題の期待水準が高すぎる(難しすぎる)と、学生は「キビシイ」と評価を下したりします。この場合、「キビシイ=難しい」ということでしょうか?

(d1)要求水準が高いこと。
(d2)しかもそれを引き下げてくれそうにないこと。
 また、受講のルールはほとんどなく、態度はやさしく、話は面白く、宿題は平均的にしか出さず、評価も甘いのに、「キビシイ」といわれる先生もいます。学生に話を聞いてみると、授業中のいろいろなコメントがキビシくてびっくりすることがある、とのこと。話を面白くしようとして毒舌が入ることがあるんでしょう。チェックがキビシイということか。ともかく、この場合、「キビシイ=スルドイ」ということのようです。
(e1)先生が毒のある発言をすること。
(e2)学生が自分に向かっていわれているような気になること。
 とりあえず、「キビシイ」というのは授業が厳格かどうかをあらわす表現なのではなく、学生が不安や脅威を感じるかどうかをあらわす言葉であるということはわかります。客体を評価する言葉のようでいて、じつは主観を述べているということ。

 それがわかったからといって、学生がどういう授業に不安や脅威を感じるのか、いまいちピンとこないんですよね。精進精進。

 ちなみに、ぼくはキビシイらしいです。えぇ、フトコロもね。

理系の授業料アップ?

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 内閣が鳴り物入りで設置した教育再生会議ですが、いろいろとナンセンスな提言を頻発するものだから、政府の批判材料になるのはまだしも、ジョークのネタにすらなったりしています。

 同会議では、今年1月29日に初等・中等教育を中心とした第一次報告を出しましたが、来月には高等教育を中心とした第二次報告を取りまとめる予定で審議を重ねています。そこで飛び込んできたのがこのネタ。

「政府の教育再生会議(野依良治座長)の国立大学財政に関する提言素案が13日、判明した。適切な競争原理と成果・実績主義の徹底を基本とし、予算配分に一段とメリハリをつけるのが柱だ。具体的には、現在は全国ほぼ一律の授業料・入学金について、理系を高くして文系を安くするなど、大学や学部別に差をつけることや、60歳以上の教員の給与を段階的に削減することなどを提案している。」(読売オンライン)
 理系は全般的に研究にも教育にも文系とは桁違いに費用がかかりますので、個々の大学の経営判断としては、「理系の授業料を上げる」という方針があっておかしくないとは思います。しかし、これは日本の国立大学全体に影響を与える提言です。委員の皆さんは日本の科学技術の将来についてどのような見識をお持ちなのか、いささか疑わしい気がします。

 理科離れ、理系離れを防ぐことは国民的課題です。1990年代以降はいろいろな対策が活発化し、ようやく成果があがりはじめたかなぁという段階なのですが、この提言素案は完全に逆向きのベクトルを持っています。理系離れ対策はもう必要ないということか? と不思議に思って少し調べてみました。

「素案は、第1分科会(学校再生)の白石真澄主査(関西大教授)と小野元之副主査(元文部科学次官)が作成し、13日の第3分科会で提示した。」(同上)
 第1分科会の素案というのはコレ(pdf)。この素案はバランスの取れた立派なものであって、このどこにも「教育研究水準の高い大学や、設備に費用がかかる医薬学・理工系学部などの授業料・入学金については、他の大学・学部より高くする」(同上)などとは書かれていません。逆に、諸外国に比べて教育への予算支出割合が低いので、「初等中等教育及び高等教予算の大幅な増額を目指すべきであろう。特に、日本の将来のため、高等教育予算の充実がぜひとも必要」とあります。

 どうやら、第1分科会の素案は、第3分科会で議論されたとき、まったく別のものに変質したということですね。まだ議事録がウェブにアップされていないので、はっきりとはわかりませんが。

 ところで、第3部会の事務局からの提案は、うちの学部で検討されている方針とかなり近いですね。

高崎経済大の事件

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 市立高崎経済大学の2年生が自殺したことを受けて、大学は「理不尽で教育的配慮を欠いた留年通告をした」という理由でゼミの担当教官懲戒免職処分にしたそうな。いろいろな意味で前代未聞のできごとです。

 やはり気になるのは、(1)どういう先生だったのか、(2)どういう指導を行っていたのか、(3)どういう学生だったのか、(4)どういう大学なのか、の4点。

(1)どういう先生だったのか

 詳しい報道がないのでよくわかりません。ただ、大学側によれば、「准教授は、他の学生に対しても人格を否定するような暴言やセクハラ発言などがあった」(読売新聞)ということ。これがどこまで公正な事実かわかりませんが、少なくとも、解雇された先生は高圧的な指導に偏りがちで、それが他の先生たちから好ましく思われていなかったということは伝わってきます。

 ちなみに、その先生は「調査結果は納得できない。間違ったことはしていない」「『留年』と言っただけで辞めさせられては、教育にならない」と反論しているそうです。そうとう、自分の教育方針に確信をお持ちのようですね。でも、ゼミの指導なんて一人ひとりの学生の個性との体当たりなのですから、そう確信を持ってやれるほど簡単なものではないとボクは思いますが。

(2)どういう指導を行っていたのか

 解雇された先生は、夏休みの宿題を年末になっても出せなかった学生に、「1月15日までに課題を出さないと即留年」というメールを送っていたそうです。

 問題の課題は、「アダム・スミスの重商主義批判の論点を説明させるなど10の設問から五つを選んでリポートするのと、新聞社説10本の要約とそれについてのコメントをまとめるという内容」(同上)。これに対して、大学のコメントは「大学院生並みの厳しい課題。ある課題がこなせなかったというだけで即留年というのもおかしい」(同上)というもの。

 おそらく、「10の設問」はたしかに大学院生並みの厳しい課題なのでしょうが、できない場合の救済策として、「社説10本の要約とコメント」という課題があったわけですよね。だとすると、たとえ2年生とはいえ、通年のゼミの課題としてはいちがいに厳しすぎるとはいえないでしょう。

 ただし、通年のゼミの単位を夏休みの宿題だけで不合格にするというのは、たしかにおかしい。通常、ゼミでは出席、発表、授業中の発言、課題の4点が評価対象となります。合格は60点以上なら、夏休みの課題の配点だけで40%を超えていることになる。たいへんアンバランスな、というよりも恣意的な評価方法であるといえます。恣意的な評価は、学生に不安、不信、不満を与えるだけでなく、アカデミック・ハラスメントの温床ともなります。

(3)どういう学生だったのか

 最後に先生に送ったメールには、「出来損ないの面倒を見させてすみませんでした。お世話になりました。ゼミ楽しかったです」とか、「留年すると分かっています。人生もやめます」などと書かれてあったそうな。礼儀正しそうな、あるいは真面目そうな印象を受けます。少なくとも、不当に反抗的な態度をとる(みずから教育機会を放棄する)ような印象はない。

 学力的には、「社説10本の要約とコメント」という課題ができないわけですから、そんなに出来がよかったわけではないのかもしれません。

 ただね、かりに学力に問題があったとしても、2年生のゼミでしょう。完成した知識を期待することはナンセンスで、むしろ激励してやる気を引き出しながら、自力で学習していく基礎的な素養を身につけさせることが授業の目標であるはずです。そもそも、上述の学生像が誤りでなければ、いちがいに厳しいとはいえない課題を何ヶ月も出せずにいたのは、学力の問題というより、先生に対して萎縮してしまっていたせいだと考えるのが自然です。本人に「出来損ない」といわせてしまったのは、明らかに指導のミスであるとボクは思います。

(4)どういう大学なのか 

 高崎経済大学のウェブをみると、少人数制の丁寧な教育をウリにしている大学だという印象です。だからこそ、この事件に異例なほど厳しい処分を下したのでしょう。

「高崎経済大学のゼミナールは教員と学生、あるいは学生相互の議論や交流の場として、とてもアットホームな雰囲気を持っています。「少人数精鋭教育」を大学の理念として重視する高崎経済大学ならではの学生生活の充実感を十分に味わってください。」(高崎経済大学学長メッセージより引用)
 しかし、こういうゼミの運営をこれまで放置しておいて、重大な問題が発生してからようやく対処に動くというのは、「教育重視」という看板からするとちょっと違和感があります。

 ボクが想像するに、問題は二つあったのではないかと。

 第一に、大学の経営方針や教育理念を各先生に徹底させるような仕組みは整備されていなかったのではないか。言い換えると、教員の裁量を絶対不可侵とする旧い態勢が残っている大学なのではないか。

 第二に、「教育重視」を謳いながらも、「どういう教育を重視するのか」についてきちんと検討してはいなかったのではないか。この先生も、見方によっては「指導に熱心」というとらえ方ができないことはありません。たとえ権威主義的で統制主義的な教育スタイルであっても、たとえ学生を萎縮させてしまって本来の力量を引き出せないような教育スタイルであっても、やはり「教育重視」にかわりない...そういう考え方だったのだとすると、問題はこの先生だけではなく、大学にもあったといわざるをえないでしょう。民事で保護者から訴えられると大学は負けるんじゃないでしょうか。

プレスクール

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 今日は、うちの双子の子どもたちの入園式でした。

 幼児教育の専門家というのはたいしたものですね。初めての集団生活にかたくなっている子どもたちの緊張を瞬く間にほぐし、ひとたび騒ぎ出すや特有の話法と話題でグッと興味をひきつけてあっという間におとなしくさせる。

 就学前の子どもたちは、まだ学校制度のなかで調教されていませんので、じっと黙って人の話を聞くという苦痛に耐えることはできません。それをおとなしくさせられるというのは、純粋に教育技術の成果なのですね。

 式のあいだ、「やっぱり大学とは必要とされる教育技術がちがうなぁ」と感心しながら園長先生の話を聞いていたのですが、式が終わって考えれば考えるほど、本当に違うんだろうかとだんだん疑わしくなってきました。

  • 子どもが分かる言葉しか使わない。
  • 子どもが分かる速さでしか話さない。
  • 子どもが聞き取りやすい声で話す。
  • 子どもが興味を持てるテーマで教える。
  • 「おはなし」だけでなく、絵、音楽、ぬいぐるみなど多様な教材で飽きさせない。
 こうやってエッセンスを抜き出してみると、近年、大学の講義を魅力的なものにするために求められている要素と違いはありません。うーん、教育の本質は同じと考えるべきか、それとも...

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