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    <title>Whoso is not expressly included</title>
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    <updated>2010-08-23T17:00:33Z</updated>
    <subtitle>金明秀の公式ブログです。多様なテーマが混在していますのでカテゴリーをご活用ください。金明秀の履歴はこちら</subtitle>
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    <title>解放社会学会大会のご案内</title>
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    <published>2010-08-23T16:42:09Z</published>
    <updated>2010-08-23T17:00:33Z</updated>

    <summary>　来月早々、私の勤務校で下記の通り学会大会が開催されますので、ご案内いたします。...</summary>
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://han.org/blog/">
        <![CDATA[<p>　来月早々、私の勤務校で下記の通り学会大会が開催されますので、ご案内いたします。</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p><strong>第 26 回日本解放社会学会大会</strong></p>
<p>◆ 会場　　関西学院大学西宮上ヶ原キャンパス<br />◆ 日程　　2010 年 9 月 4 日～5 日<br />◆ 大会参加費 <br />　　会員（常勤職）　¥2,000 <br />　　会員（非常勤職・大学院生等）　¥1,000 <br />　　非会員　¥2,000 </p></blockquote>
<p>　テーマ部会は「同和対策事業の光と影――現場とアカデミズムの対話から―― 」および「ジェンダー・セクシュアリティ研究とアイデンティティ・ポリティクス」の2本。</p>
<p>　学会大会・懇親会へは会員でなくても参加できます（<strong>←ココ重要</strong>）　プログラムに関心をお持ちになりましたら、ぜひ懇親会ともどもご参加ください。</p>
<p>　以下、大会のプログラムです。</p>
<p>======================</p>
<p><strong>2010 年 9 月 4 日(土）&nbsp;<br /></strong>&nbsp;<br /><strong>13 時 30 分</strong> <br />受付開始（関西学院大学Ｅ号館 102 号室前） <br />&nbsp;<br />&nbsp;<br /><strong>14 時 00 分～16 時 30 分</strong>&nbsp;&nbsp; <br />自由報告部会（関西学院大学 E 号館 102 号室） <br />&nbsp;<br />司会：金明秀（関西学院大学） <br />&nbsp;<br />１．孫・片田晶（京都大学）<br />在日朝鮮人 3 世の学生組織と <br />「学習」的実践としての在日アイデンティティ <br />&nbsp;<br />２．金沙織（埼玉大学）<br />強制連行と療養所収容と――ハンセン病問題聞き取りから―― <br />&nbsp;<br />３．黒坂愛衣（東京外国語大学） <br />強制隔離と患者労働――ハンセン病問題聞き取りから―― <br />&nbsp;<br />４．福岡安則（埼玉大学） <br />「原告 vs.非原告」の対立図式を超えて <br />――ハンセン病問題聞き取りから――&nbsp;<br />&nbsp;<br /><strong>16 時 40 分～17 時 30 分&nbsp;&nbsp; <br /></strong>理事会・総会（関西学院大学Ｅ号館 102 号室） <br />&nbsp;<br /><strong>17 時 40 分～18 時 20 分</strong> <br />優秀報告賞選考会議（関西学院大学Ｅ号館 201 号室） <br />&nbsp;<br /><strong>18 時 30 分～20 時</strong> <br />懇親会（関西学院会館） <br />&nbsp;<br />懇親会費 <br />¥5,000（常勤職） <br />¥3,000（大学院生など） <br />&nbsp;<br />&nbsp;<br /><strong>2009 年 9 月 5 日（日）</strong> <br /><strong>9 時 45 分</strong>&nbsp;&nbsp; <br />受付（関西学院大学Ｅ号館 102 号室） <br />&nbsp;<br />&nbsp;<br /><strong>10 時～12 時 30 分</strong>&nbsp;&nbsp; <br />テーマ部会Ⅰ（関西学院大学Ｅ号館 102 号室） <br />&nbsp;<br />テーマ：同和対策事業の光と影 <br />――現場とアカデミズムの対話から―― <br />&nbsp;<br />司会&nbsp; 三浦耕吉郎（関西学院大学） <br />&nbsp;<br />報告： <br />&nbsp;<br />１．山本哲司（龍谷大学） <br />部落差別におけるアイデンティティ問題の諸相 <br />――まちづくり事業を終えて <br />&nbsp;<br />２．二口亮治（大阪市人権協会） <br />部落関係者とは誰か――新しい部落分散論に抗して <br />&nbsp;<br />３．山本崇記（立命館大学） <br />京都市における「ポスト同和行政」の展開とその課題 <br />――住宅地区改良事業と隣保事業という「呪縛」 <br />&nbsp;<br />討論者：黒坂愛衣（東京外国語大学） <br />川端浩平（関西学院大学）&nbsp;<br />&nbsp;<br />&nbsp;<br /><strong>14 時 00 分～16 時 30 分</strong> <br />テーマ部会Ⅱ（関西学院大学Ｅ号館 102 号室） <br />テーマ： <br />ジェンダー・セクシュアリティ研究とアイデンティティ・ポリティクス <br />&nbsp;<br />司会：風間孝（中京大学） <br />&nbsp;<br />報告： <br />&nbsp;<br />１．戸梶民夫（京都大学） <br />被差別者アイデンティティの語りの変化 <br />――在阪性的少数者グループの参与観察から <br />&nbsp;<br />２．堀江有里（立命館大学） <br />〈アイデンティティ〉の共有と抵抗の不可能性 <br />&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp;&nbsp; ――ある性的少数者コミュニティの事例から」 <br />&nbsp;<br />３．菊地夏野（名古屋市立大学） <br />フェミニズム理論におけるアイデンティティの限界と可能性 <br />――バトラー／コーネル／スピヴァク <br />&nbsp;<br />コメンテーター：高橋慎一 <br />渡邊太（大阪大学）&nbsp;<br /></p>]]>
        
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    <title>朝鮮学校が日本に存在する5つのメリット</title>
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    <published>2010-07-29T04:39:31Z</published>
    <updated>2010-07-29T04:51:55Z</updated>

    <summary>　移民研究の分野には、「移民に対して偏見や悪感情が高揚するのはどういう場合か」と...</summary>
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        <name>mskim</name>
        
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        <![CDATA[<p>　移民研究の分野には、「移民に対して偏見や悪感情が高揚するのはどういう場合か」という問題設定があります。ある国では移民が歓待されているのに対して、別の国では犯罪者同様に忌み嫌われている。その差はどこにあるのか、ということですね。</p>
<p>　いろいろな仮説が提唱され、様々な国で検証が行われていますが、多くの国の調査で統計的に有意な説明力を安定して示す仮説がいくつかあります。その一つは、「移民はこの国の役に立つ」と信じている人ほど移民に悪感情を持たない、というもの。逆にいえば、「移民はこの国の厄介者だ」と信じている人ほど移民の排斥に賛成する、という仮説です。</p>
<p>　リベラルなスタンスからは、「人のことをまるでモノのように《役に立つ》などと、いったい何さまなのだ」という倫理的反発を覚える方もいらっしゃるでしょう。しかし、例えば、こちら（<a href="http://blog.goo.ne.jp/mit_sloan/e/5fcfa23aba9fe06eb97985536c3b1fbc" target="_blank">不景気だからこその移民政策のススメ - My Life After MIT Sloan</a>）のコメント欄をお読みいただくだけで、この仮説がどのような人々を説明しようとしているのか、お分かりいただけると思います。</p>
<p>　この仮説については、後日いくつかの文献を詳しく紹介する予定ですが、直接的には今回のテーマではありません。今回とりあげるのは朝鮮学校です。</p>
<p>　朝鮮学校といえば、チョゴリ切り裂き事件に象徴されるように、時として憎悪の対象となってきました。暴力を振るわないまでも、「独裁者崇拝を教える異常な学校」という認識を持つ人は少なくないようです。そうやって、朝鮮学校を「この国の厄介者だ」と思っている人々が少なからずいるかぎり、朝鮮学校が偏見や憎悪の対象から外れることは期待しにくいでしょう。しかし、今後とも在日コリアンが日本に定住していく以上、それは誰にとっても不幸なことだといえます。</p>
<p>　つまり、今回のテーマは、朝鮮学校が《日本の役に立っている》理由を整理してみよう、ということです。題して、「朝鮮学校が日本に存在する5つのメリット」。読者の皆さんは、この思考実験を経ることで、無償化排除問題などについて意見がよりポジティブな方向に変わるかどうかをそれぞれ自己検証してみてください。</p>
<p>　なお、この記事ではあえてマジョリティ視線に立って、パーソンズのAGIL図式を手掛かりに話を進めていきます。</p>
<p>**********************</p>
<p>　まずは<strong>「適応（Adaptation）」</strong>から。これは、システムの外部に働きかけて必要な資源を調達するサブシステムのことで、国家レベルでいえば経済にあたります。日本経済に朝鮮学校が寄与していることは何か？</p>
<p>【メリットその1　韓国・朝鮮語話者の大量供給】</p>
<p>　朝鮮学校は韓国・朝鮮語話者を継続的に輩出しています。2000年からの韓流を支えたドラマや雑誌の翻訳は、そのほとんどが朝鮮学校出身者の手によるものです。韓流による経済効果は、朝鮮学校が支えたといっても過言ではありません。</p>
<p>【メリットその2　誕生圏経済のリクルート源】</p>
<p>　これは朝鮮学校というより在日コリアン全体にいえることですが、1980年代に入るまでは非常に厳しい就職差別があったため、学歴にかかわらず一般企業に勤めることは非常に困難でした。その結果、在日コリアンは自ら起業するケースが多かった。</p>
<p>　統計の取り方（「自営」の定義）によりますが、なんと在日コリアン男性の5割から6割が自営業主です。この比率は日本人男性の2倍以上。いかに自営業に追い込まれてきたかわかりますね。</p>
<p>　しかし、裏を返せば、自営業のノウハウと知識と人脈を持ち、ベンチャー起業のリスクを果敢にとりにいける人材を、朝鮮学校は大量供給しているともいえます。国家の庇護に頼らない自由で不羈の企業人を朝鮮学校は輩出してきたというわけです。</p>
<p>　日本にもグローバリズムが浸透しつつある中で、在日コリアンは貴重な生存戦略のモデルを提供してくれるかもしれませんよ。</p>
<p>**********************</p>
<p>　次に、<strong>「目標達成（Goal attainment）」</strong>について考えてみましょう。これは、システム共通の目標に向かって外部に働きかけるサブシステムのこと。国家レベルでいえば政治（外交）にあたります。日本政治に朝鮮学校が寄与していることは何か？</p>
<p>【メリットその3　北朝鮮との外交カード】</p>
<p>　ときどき、北朝鮮の人権侵害を批判しながら、朝鮮学校を差別しようとする政治家がいます（例えば「<a href="http://han.org/blog/2010/03/post-136.html" rel="bookmark">橋下府知事の発言をめぐる諸問題</a>」）。</p>
<p>　しかし、これはまったくナンセンスな話であって、こんな論理矛盾に満ちた主張をしているかぎり、日本政府の北朝鮮批判は国際社会で通用しません。事実、日本政府が行っている朝鮮学校に対する差別は、国連の諸機関で批判の対象となっており、北朝鮮が日本を批判する糸口になってしまっています。</p>
<p>　でも、裏を返せば、日本政府が朝鮮学校をきちんと処遇しさえすれば、人権外交上のポイントになりうるわけです。</p>
<p>　拉致問題以降、北朝鮮外交といえば「圧力をかけろ」の一辺倒で、実質的には、むしろ日本は外交カードを何も持っていない状態です。朝鮮学校の存在は、北朝鮮外交の閉塞状況を打破する重要なカードになりえます。</p>
<p>**********************</p>
<p>　次は、<strong>「統合（Integration）」</strong>。これは、システム内部の利害を調整するサブシステム。国家レベルでいえば、共同体や司法がそれにあたります。日本の共同体や司法に朝鮮学校が寄与していることは何か？</p>
<p>【メリットその4　「民主主義の学校」の教材】</p>
<p>　A．トクヴィルやJ．ブライスの言葉を受けて、「地方自治は民主主義の学校である」と論じられることがありますね。そのココロは、「地域共同体という身近な環境で身近なテーマについて民主的に解決する訓練を積まないかぎり、国家という巨大な機構を民主的に運営することは難しい」ということです。</p>
<p>　その点、朝鮮学校は共同体内にある非常に身近な異文化集団です。これを安易に排斥しようとせず、利害を調整しながら上手に付き合うスキルを習得することができれば、日本の民主主義はきっと成熟の度合いを深めることでしょう。&nbsp;</p>
<p>**********************</p>
<p>　最後は<strong>「潜在（Latency）」</strong>。&nbsp;これは、シンボルによってモノゴトを意味づけることで、集団のパターン（◎◎らしさ）を維持するためのサブシステムです。少しわかりにくいですかね。文化を維持するサブシステムと言い換えてもかまいません。国家レベルでいえば、教育やマスメディアなどの社会化エージェントが相当します。</p>
<p>【メリットその5　カウンターカルチャーの供給基地】 </p>
<p>　あえて人名を挙げるのは控えますが、日本を代表するような文化人には、在日コリアンが少なくありません。著名な文学賞を受賞した小説家、映画賞を受賞した監督、有名なアーティスト、等など。90年代には、「在日文学抜きにはもはや日本の文学を語ることはできなくなった」という声すらあったぐらいです。</p>
<p>　在日コリアンのハイブリッドな文化環境での生育経験や、マイノリティとしての被差別体験などが、日本人にとっての《あたりまえ》を揺るがすメッセージを生みだすためでしょう。1970年代以降、在日コリアンは、サブカルチャー、カウンターカルチャーの供給源であり続けてきました。</p>
<p>　ところで、それら在日コリアン文化人の多くが、朝鮮学校の経験者です。朝鮮学校は、いわば、日本におけるカウンターカルチャーの供給基地なのです。次の文学、次の芸術、次の映画が、いま、朝鮮学校で育っているのかもしれませんよ。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>「寝た子」はいつかかならず起きる</title>
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    <published>2010-07-16T21:11:04Z</published>
    <updated>2010-07-16T21:12:02Z</updated>

    <summary>　鳩山元総理が、普天間基地の問題解決に前向きに取り組もうとして挫折したことは周知...</summary>
    <author>
        <name>mskim</name>
        
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        <![CDATA[<p>　鳩山元総理が、普天間基地の問題解決に前向きに取り組もうとして挫折したことは周知の通りです。</p>
<p>　一方で、沖縄に軍事基地が集中している状況について、国連の人種差別撤廃委員会が日本政府に改善を勧告していることをご存知でしょうか。それも、過去に何度も繰り返し「差別的」だと明言してのことです。</p>
<p>　人権問題などニュースバリューにならないということか、はたまた「国益」にならないという判断なのか、マスメディア各社はこの事実を積極的には報道してきませんでした。それどころか、沖縄の米軍基地負担を「仕方がない」と論じ、鳩山元首相に対しては「寝た子を起こしてしまった」と批判するケースが多かったようです。</p>
<p>　しかし、この問題は「仕方がない」で済まされることではなく、日本が批准している条約上、違法性が高い人権侵害だと国連から指摘され続けていることを知るべきでしょう。</p>
<p>　ところで、差別問題を研究している者にとって、「寝た子を起こすな」という主張はたいへん馴染みの深いものです。その類の主張を聞いたことのない差別研究者はモグリと呼んでかまわない――といえるほど、日本で差別が語られるときに一般的なスタンスだからです。代表的な語りを2つ紹介しましょう。</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>「差別だと騒ぎ立てるから、いつまでたっても問題が持続してしまうのだ。」<br />「些細なことを差別だと指摘したりせず、じっと静かにしていれば、そのうち差別など消えてしまうだろう。」</p></blockquote>
<p>　上述の通り、これらはたいへん一般的な主張です。しかしながら、それをそのまま真に受ける差別研究者は、まずいません。なぜなら、すでに各種の調査において、この種の主張はマイノリティに差別的な主張群と高い正の相関関係を示すことが確認されているからです。もっとわかりやすく言い換えると、「寝た子を起こすな」という主張をする人は差別的な傾向がある、ということです。</p>
<p>　ちなみに、この関係は非常に多様なエビデンスによって支持されており、人文社会科学的な命題としてはかなり頑健なものだといってかまいません。（類似の現象も参照のこと「<a href="http://han.org/blog/2010/02/post-119.html" rel="bookmark">差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある</a>」）</p>
<p>　さて、この「事実」を、沖縄の基地問題に敷衍すると、どういうことになるでしょう。行為の次元が異なるため、単純に同一視するのは慎重であるべきかもしれません。</p>
<p>　しかし、いち社会学者としての個人的な直感を述べるなら、鳩山元首相に対して「寝た子を起こしてしまった」と批判したマスメディア各社は、どうしても、沖縄への差別意識を垂れ流しているように思われて仕方がないのです。そう考えたとしても、ムリはないと思いませんか？</p>]]>
        
    </content>
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    <title>パークはなぜレイシストと呼ばれるようになったか</title>
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    <published>2010-04-06T08:43:54Z</published>
    <updated>2010-04-07T08:46:21Z</updated>

    <summary>　ロバート・Ｅ・パーク（1864-1944）といえば、「社会学入門」で必ず習う巨...</summary>
    <author>
        <name>mskim</name>
        
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        <![CDATA[<p>　ロバート・Ｅ・パーク（1864-1944）といえば、「社会学入門」で必ず習う巨人の一人です。いわゆるシカゴ学派の隆盛を支えた最重要人物で、都市社会学や人種・民族関係論に深い足跡を残したことで知られています。</p>
<p>　パークは社会学説史上の輝ける星です。しかし、ずっとアカデミアで活躍してきたわけではありません。ミシガン大学でジュン・デューイに師事し、実践的な問題への関心を深めた後は、大学院へと進学せずに人権派ジャーナリストとして全米各地で約10年の経験を積みます。特に人種問題には強い関心を示し、ベルギー領のコンゴで土地の人々がベルギー王室からきわめて過酷な扱いを受けていることを知るや、国際紙上での告発を通じて対応を改善させたこともありました。今ならめずらしい話ではありませんが、なにせ19世紀のことです。奴隷解放宣言からまだ30年前後という時代なのですから、パークが当代随一の人権家であり、理想家であったことは間違いありません。</p>
<p>　その後は大学院でふたたび学問を修め、シカゴ大学に就任してからは偉大な研究業績を量産していきました。日本ではパークの業績として都市社会学の研究ばかりが紹介されますが、アメリカでは彼のライフワークとして人種関係論を挙げる人が圧倒的に多い。パークはアカデミアにおいても実践家であり、特に人種問題には一貫して関心を示し続けてきたからです。&nbsp;</p>
<p>　そんなパークですが、現代のアメリカにおいては、どうにも人気がない。それどころか、リベラル気質の若い研究者たちから「彼はレイシストだ」と忌み嫌われていたりします。人権家であったはずのパークですが、いったいなぜ没後に評価が反転し、こともあろうに「レイシスト」と呼ばれるようになってしまったのか。</p>
<p>　そのことを議論する前に、まずはパークの業績を少し紹介しておきたいと思います。パーク自身は「人種関係循環モデル」（1921年）と名づけたものの、現在はより簡単に「同化理論」と呼ばれている論考です。</p>
<p>　パークらによると、文化的に異質な集団が「<strong>接触</strong>」した後に生じる相互作用には、段階的な4つの類型があるといいます。すなわち：</p>
<ol>
<li>まず、稀少資源の獲得をめぐって各集団がそれぞれ「<strong>競合</strong>」し、経済的に分業が成立するステージをへて、</li>
<li>努力目標が競合集団への政治的攻撃に転化する「<strong>葛藤</strong>」のステージにいたる。</li>
<li>競合や葛藤によるコストを軽減するために、各集団は文化的独自性を保ったまま、一定の「<strong>適応</strong>」の努力をするようになり、</li>
<li>ついには、競合集団の文化や価値を完全に受容する「<strong>同化</strong>」の段階に達する。</li></ol>
<p>　パークは科学的な一般理論指向が強い研究者でしたので、「人種関係循環」についても科学的一般性を備えていると信じました。「接触から競争へ、競争から葛藤へ、葛藤から適応へ、さらに同化へと必然的に社会体系は変動し、このコースを変えることはできない」と。</p>
<p>　さて、パークの理論に対しては、3つのスタンスから批判が寄せられています。</p>
<p>　<strong>第一の批判</strong>は、同化が「必然的に進行するプロセス」というのは誤りだ、という指摘です。たしかに、（1）から（3）までは、非常に多くの国の移民集団で共通して観察される現象だといえます。それに対して、（3）から（4）にいたる同化プロセスは、どこの国のどの移民にも当てはまる話とはいいがたいのですね。むしろ、パークの後を引き継いだミルトン・ゴードンによると、（3）までで同化は止まってしまって、その先には進まないケースが多い。</p>
<p>　また、理論的にも（3）から（4）にいたるプロセスの説明があいまいです。大まかに彼らの主張をまとめるに、（a）時間の経過とともに移民後の世代交代が進行し、（b）エスニック・ゲットーから郊外に居住地を移す者が増加する、（c）それによって、地域的な隔離が解消する。また、（d）社会階層の民族間格差も自然と減少していく。（e）そうしたプロセスは、民族集団の集合性と独立性を解体することになり、（f）同族内のコミュニケーションを減少させ、（g）アングロ・サクソン系の文化に同化する「アメリカ化」が達成されるのだ、と。しかし、人種主義が激しければ、いくら世代交代が進んでも階層移動や地域移動が進まないケースはいくらだって考えられますので、彼らの説明は論理に飛躍があるといわざるをえません。</p>
<p>　<strong>第二の批判</strong>は、あまりにも理想主義的だ、というもの。</p>
<p>　パークらがこの理論を提出した時期は、アメリカ南部諸州において事実上のカースト制が法制化されていたいわゆる「ジム・クロウ期」のまっただ中であり、法によって人種の隔離が義務づけられ、法の外ではクー・クラックス・クラン（ＫＫＫ）による大々的なリンチが繰り広げられていた時代でした。いわゆる「人種主義の世紀」の真っ只中です。当時のもっとも一般的な反応は、「ヨーロッパからの白人移民集団すら交じり合うのが難しいのに、アジア系や黒人と完全に同化するなんて気持ちの悪いことをいうな」というものだったでしょう。（というようなことが論文にチラと書かれていました。）</p>
<p>　ところが、時代を経て1960年代に入ると、しだいにリベラル勢力から批判を受けるようになっていきました。すなわち、上述のような時代に、たいして説得力のある根拠を示すわけでもなく、同化が「必然的に進行するプロセス」などと主張するのは、厳しい差別の現実が見えていない証拠だ、というわけです。</p>
<p>　たしかに、人種・民族間の競合が生じるのは、多くの場合、支配的な民族集団と従属的な民族的マイノリティのあいだです。したがって「葛藤」とは、事実上、支配的民族集団による民族的マイノリティへの抑圧や収奪を意味します。このような権力関係は、マジョリティ側が権益を得る構造である以上、むしろ安定的なものであるとみなすほうが自然です。つまり、パークらの言うように適応、同化へと移行する動因が論理的に成立しないのです。にもかかわらず、パークらが同化は自然に達成できると主張したのは、人種主義へのアンチテーゼを過度に意識するあまりに、ある種の理想を論じたのだと解釈せざるをえないのですね。</p>
<p>　<strong>第三の批判</strong>は、同化そのものを理想視する視点が非倫理的である、という批判です。1970年代ぐらいから、多文化主義の進展とともに、「同化は『差異への権利』を暴力的に抑圧する人権侵害」であるという理解が普及し、今では、「同化＝人種主義的」という考え方が一般的になっています。</p>
<p>　日本ではむしろ、同化は共同体が示す善意であり歓迎の表現とされます。例えば、転校生が土地の言葉を話すようになると、ようやく「本当の仲間になった」と喜んだりしますね。在日コリアンに対して、本当の仲間になってほしいからこそ日本に帰化してほしい、などの表現もよく聞かれます。だから、アメリカでは同化を非倫理的だとみなす視点が一般的になっていると聞いても、ピンとこない人が多いかもしれません。</p>
<p>　でも、たとえば次のようなケースを考えてみてください。&nbsp;</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>　Aさんは京都の女子大学を卒業し、東京で就職しました。職場で同じ京都出身の男性と知り合い、すぐに結婚し、子どもが産まれました。家庭内ではみんな京都の言葉を話します。</p>
<p>　ある日、子どもが幼稚園に入りたがらない。どうしたのかと思っていると、別のお母さんが話しかけてきた。いわく、「お宅のお子さん、私たちの子どもと遊ばせないでいただけませんか？　関西の下品な言葉がうつっちゃうと困るんです。標準語を話せないなら、もうこの幼稚園から出て行ってほしいんですよね。」</p>
<p>　Aさんは仕方なく、子どもに東京の言葉を使うように促すのですが、「今日さぁ、幼稚園で友だちに笑われちゃって、なんだかイヤになっちゃったよ」などとなじみのない言葉を話すのを聞くと、わが子への愛情が薄らいでしまう気がするのでした。</p></blockquote>
<p>　どうです。Aさんの立場からすれば、ずいぶん屈辱的な状況でしょう。心の痛む場面だと思いませんか。自分が母親に話しかけたのとは違う言葉で自分がわが子から話しかけられるんですよ。それはさびしいものです。自分で納得して土地の文化になじむのであればまだしも、半ば強要されてのことですから、屈辱感や寂しさはいっそう引き立ってしまいます。それが、同化というものです。同化には心の痛みが伴うのです。</p>
<p>　上述の通り、70年代ぐらいからアメリカではこうした事情が知られるようになり、その結果、同化を強要したり、同化を理想視する考え方を、非人道的であると批判するようになっていったわけです。また、同化させる側の文化を優位にとらえているという意味で、異民族を同化させようとする人を「レイシスト」と呼ぶようになっていきました。</p>
<p>　パークは人種関係論に社会学的視座を持ち込んだ初めての偉大な人物であり、その業績である同化理論があまりにも有名であったため、「同化の象徴」として嫌悪されるようになったのですね。</p>]]>
        
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    <title>その後の顛末</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://han.org/blog/2010/03/post-141.html" />
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    <published>2010-03-30T05:48:53Z</published>
    <updated>2010-03-30T06:20:01Z</updated>

    <summary>　前回の記事（「帰化すればいい」という傲慢）について、その後の経緯を説明しておく...</summary>
    <author>
        <name>mskim</name>
        
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        <category term="主張" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
        <category term="差別・人権" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
        <category term="研究" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://han.org/blog/">
        <![CDATA[<p>　前回の記事（<a href="http://han.org/blog/2010/03/post-140.html" rel="bookmark">「帰化すればいい」という傲慢</a>）について、その後の経緯を説明しておく必要があります。</p>
<p>　ツイッター上で宮台真司さんご本人と激しく意見を交換したところ、論点1で指摘した件について、率直な謝罪と撤回の弁がありました。</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>miyadai:#miyadai デマを言ったとは思わない。だが生活保護は別に社会福祉の受給権の歴史を勉強させて貰いました。特権という言葉は使ってないが、日本人並み云々は撤回します。RT @han_org: ...多数の無礼な表現、申し訳ありません。一方、あなたもデマの流布を謝罪してもらえませんか。 [http://twitter.com/miyadai/status/11284450923]</p>
<p>miyadai:#miyadai デマとは「あえてつくウソ」という意味ですが、特別永住者の社会福祉受給権の歴史について、知っていて無視したのではなく、知りませんでした。ただ僕は研究者なので、査べなかった怠慢は謝罪に値すると思っています。今後もよろしくお願いします。@han_org [http://twitter.com/miyadai/status/11284707876]</p></blockquote>
<p>　ぼくの周囲では、前回の記事や、議論の途中における宮台氏のツイートをお読みになった方の中から、氏の人格に疑問を持つという意見も聞かれました。しかし、見知らぬ者（ぼく）から攻撃的な主張をぶつけられて、率直にそれを認めるなど、なかなかできることではありません。とても立派な態度だと思います。</p>
<p>　また、結果としては、特別永住権そのものが「特権」だったということはないと認めていただいたわけで、この点については今後おそらく応援してくださることでしょう。</p>
<p>　取り残した議論もありますが、上記の撤回に加えて、「犠牲者非難になっている」という批判に<a href="http://twitter.com/miyadai/status/11284287725">一定の理解</a>が示されたことで、ぼくの批判の中核となる対象は解消されたといえます。</p>
<p>　末筆ながら、宮台真司さんには激しい議論にお付き合いいただき、ありがとうございます。また、無礼な表現の数々、失礼いたしました。</p>
<p>　以上、取り急ぎ連絡まで。</p>
<p>【BLOGOSさんへ】</p>
<p>　転載不可です。</p>]]>
        
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    <title>「帰化すればいい」という傲慢</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://han.org/blog/2010/03/post-140.html" />
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    <published>2010-03-27T19:22:47Z</published>
    <updated>2010-03-30T14:17:54Z</updated>

    <summary>　永住外国人に地方参政権を付与する法案はけっきょく日の目を見ませんでしたが、それ...</summary>
    <author>
        <name>mskim</name>
        
    </author>
    
        <category term="エスニシティ" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
        <category term="主張" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://han.org/blog/">
        <![CDATA[<p style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">　永住外国人に地方参政権を付与する法案はけっきょく日の目を見ませんでしたが、それに関連して一言いっておきたいことがあります。</p>
<p>　宮台真司氏のブログ<a href="http://www.miyadai.com/">http://www.miyadai.com/</a>から、「<a href="http://www.miyadai.com/index.php?itemid=829">外国人参政権問題について週刊SPA!12月15日号にコメントしました</a>」の一部を引用します。</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>■外国人参政権を考える上で、在日韓国・朝鮮人とそれ以外を分ける必要があります。在日韓国・朝鮮人以外の永住外国人は、'90年の入国管理法改正（永住権のない外国人を柔軟に受け入れることを目的として「定住者」という新しい在留資格を創設するなどした。これで日系外国人の在留が激増）大量に入国した日系人が中心です。 <br />■在日韓国・朝鮮人については国籍取得が容易なので、参政権を求めるのであれば国籍を変えていただきたい。帰化をすればエスニック・アイデンティティに瑕がつくとの反論もありますが、国籍とエスニック・アイデンティティを分けて考えるのが国際標準なのです。 </p></blockquote>
<p>　シッタカブリというか、なんというか...。初めてこれを読んだときは呆れて物もいえなかったけど、その後、TBSラジオの「アクセス」でも、在特会レベルのご高説を自信たっぷりに開陳していたようですね（<a href="http://blog.goo.ne.jp/politics10/e/db217173910b0fe7fc6ba53f88ae4251">2月16日</a>）。ヘイト・スピーチといっても過言ではない内容です。</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>特別永住者の方々が最初は2世までという約束で基本的には国籍を取っていないのに日本人に準じる権利を様々に与えられというのは、ご存知のように在日の方々の多くが強制連行で連れてこられたという左翼が噴き上げた神話が背景にあるんです。在日のなかで強制連行されてきた方というのはごく一部で、大半は一旗上げにやってきた人達なんですよ。ただ、区別がつかないから、あるいは戦争に負けて罪の意識というか原罪感覚というのがあったのでしょうか、まぁ、色んな人が混ざっちゃっているけど、しょうがないということで分かってやっている感じで特別永住の方々に対する特権の付与をやってきたわけです。僕に言わせると、あえてそれをやっているという感覚が段々薄れてきてしまっていることも問題だし、1世、2世とは違ってエスニックリソースを頼らず、日本人のネットワークをそれなりに頼っている人間が増えたのに、まだ4世、5世にも特権を与えるのが続いているのはおかしいし</p></blockquote>
<p>　完全にスルーしたままだと、彼が正しいことをいっているのだという誤解を広めてしまうかもしれないので、いささか出遅れた感はありますし、力不足ではありますが、ここらできっちり訂正する努力はしておくべきでしょう。</p>
<p><strong>1.　平然とデマを流布する傲慢</strong></p>
<p>　まず基本的な歴史の問題として、「特別永住者の方々が最初は2世までという約束で基本的には国籍を取っていないのに日本人に準じる権利を様々に与えられ」たという事実はない。これはおそらく、「91年問題」をご都合主義的に曲解しているのであろう。</p>
<p>　1965年に締結された日韓条約において、「協定三世」（実質的には在日4世以降にあたる）の滞在地位は、協定発行後25年（1991年）までに協議を行うとだけ定められた。これは日韓両政府が、戦後半世紀近くもたてば同化の進展により在日問題は《消失》している可能性があると期待していたことによる。いわば、在日韓国人は日韓両政府から保護の責務を放棄されたわけであって、けっして、「2世までという約束で......日本人に準じる権利を様々に与えられ」たわけではないのである。</p>
<p>　その証拠に、日韓条約締結後も、在日コリアンに対するさまざまな差別は温存された。1965年といえば、法務省の池上努氏が在日外国人を評して「権利はない」「追い出すことはできる」「煮て食おうが焼いて食おうが自由」だと表現した年である。いくつかの例外的な措置を除けば、外国籍者に基本的人権すらも認められていなかった時代の話だ。いったい、何をもって「日本人に準じる権利を様々に与えられ」たなどといえたものか。</p>
<p>　ねえ宮台さん。「2世までという約束で基本的には国籍を取っていないのに日本人に準じる権利を様々に与えられ」たという発言を裏付ける歴史的事実が何か一つでもありますか。特に、2世が活躍するようになった1965年から1981年までの間、「日本人に準じる権利」と呼べる「約束」なるものが、何かありましたか。ぜひとも、証拠を示してほしいもんです。</p>
<p><strong>2.　歴史問題を矮小化する傲慢</strong></p>
<p>　宮台氏は「在日のなかで強制連行されてきた方というのはごく一部で、大半は一旗上げにやってきた人達なんですよ」という。</p>
<p>　なるほど、それは《ウソ》とは言い切れない。いわゆる強制連行で日本に渡ってきた在日一世の男性は2割程度だと推定されている。逆に言えば、8割は出稼ぎだ。したがって、ミクロな次元では、「一旗上げに」海を渡ったケースも当然多かったろう。</p>
<p>　だが、日本が朝鮮半島を植民地支配した36年の間に、朝鮮半島からは膨大な人口が半島外に流出した。植民地支配のプロセスで、伝統的な社会秩序と経済基盤が崩壊したためである。そうしたマクロな社会状況に言及することなく、ミクロな次元でのみ捉えようとするのは公正な視点とはいえない。</p>
<p>　社会学では、こうしたマクロな社会状況の影響で生じた社会移動を「強制移動」と呼ぶ。純粋に自発的な意思で移動したと推定される移動（「純粋移動」）とは区別して分析するためだ。宮台氏も、社会学者である以上、そうした用語法と分析視角についてまったく知らなかったということはあるまい。</p>
<p>　おそらくは、意図的に、在日コリアンの歴史を、ミクロな次元に矮小化しようとしたのであろう。そのことについて、倫理的な問題を責めようとは思わない。だが、少なくとも社会学者として、恥ずかしいとは思わないのかね？</p>
<p><strong>3.　マイノリティの生き方を決め付ける傲慢</strong></p>
<p>　ぼくはかつて、「在日コリアンに地方参政権の門戸を開くかどうかというのは《日本人の問題》だ」と書いた（<a href="http://han.org/blog/2010/02/post-118.html" rel="bookmark">外国人の地方参政権 #1</a>）。すなわち、日本で生まれ育ったにもかかわらず意思決定に参加できない者がいるということを不正義だとみなすか、それとも、「ガイコクジン」だから仕方がないと排除するか、それを責任を持って決めるのは日本人の課題だということだ。</p>
<p>　議論のうえで、やはり外国人には意思決定に参加させられないというのなら、（参政権が認められないことではなく隣人として受け入れられなかったことが）たいへん残念ではあるが、一つの結論として重く受け止めよう。</p>
<p>　だが、「参政権を求めるのであれば国籍を変えていただきたい」などと、マジョリティの知識人が、マイノリティの生き方に口を挟む暴力を、ぼくは許すことができない。</p>
<p>　かりに、宮台氏が「特別永住者には無条件で日本国籍を選択できるようにすべきだ」という言論を同時に展開しているのであれば、まだロジックとしては理解できる。だが、参政権がほしければ頭を下げて仲間入りを請えといわんばかりの一方的な放言を、けっして認めることはできない。</p>
<p>　宮台氏はこうもいったらしい。「日本人のネットワークをそれなりに頼っている人間が増えたのに、まだ4世、5世にも特権を与えるのが続いているのはおかしい」。</p>
<p>　なるほど、「おかしい」だろう。「3世以降になっても外国籍のままであるのはそれ自体が人権侵害である」との主張により国籍法を改正した国もあるほどだ。それを、外国籍のまま放置した旧宗主国の責任を問わず、一方的に「在日特権」呼ばわりするとは、宮台氏の認識こそ「おかしい」のではないか？&nbsp;</p>
<p>　なお、私が日本の国籍を取得しないのは、「帰化をすればエスニック・アイデンティティに瑕がつく」からではないことを申し添えておく。</p>
<p><strong>4.　「国際標準」を語る愚かさ</strong></p>
<p>　宮台氏は、「国籍とエスニック・アイデンティティを分けて考えるのが国際標準」であるという。ほお、ずいぶんと世界のエスニック・マイノリティについて詳しいらしい。宮台氏にそんな研究業績があったとは知らなかった。</p>
<p>　確かに、国籍とエスニック・アイデンティティが独立しているケースは少なくない。出生地主義の国籍法を持っている国では概してそういう傾向がある。だが、国籍が移民のエスニック・アイデンティティに重要な役割を果たしているケースも少なくはない。「世界標準」などと乱暴に一般化できるようなものではないのである。というより、これだけ複雑で微妙な問題を「世界標準」などと一般化してしまうことで、自らの無知をさらけ出しているも同然である、とぼくは思いますがね。</p>
<p><strong>5.　簡単ならやってみるがいい</strong></p>
<p>　宮台氏は、「在日韓国・朝鮮人については国籍取得が容易」だという。ぼくには日本国籍を取得した在日コリアンの知人もいるが、「容易だ」などという人にはお目にかかったことがない。</p>
<p>　そんなに「容易」だと思うなら、宮台氏自身がやってみればいい。一度、日本の国籍を離脱した上で、再度、日本国籍を取得してみなさい。元日本国籍者は、在日コリアン以上に、日本国籍取得が容易らしいですよ。</p>
<p>　その上で、本当に「容易」だったというのなら、あらためてあなたの発言を評価することにしよう。</p>
<p>********************</p>
<p>【3月30日追記】→「<a href="http://han.org/blog/2010/03/post-141.html" rel="bookmark">その後の顛末</a>」へ</p>]]>
        
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    <title>差別には2つの次元がある</title>
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    <published>2010-03-25T06:03:14Z</published>
    <updated>2010-03-25T07:27:14Z</updated>

    <summary>　「差別には2つの次元がある。」 　これは、差別研究の分野では、誰もが知っている...</summary>
    <author>
        <name>mskim</name>
        
    </author>
    
        <category term="差別・人権" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
        <category term="研究" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://han.org/blog/">
        <![CDATA[<p>　「差別には2つの次元がある。」</p>
<p>　これは、差別研究の分野では、誰もが知っている常識、定説の一つといっていいでしょう。</p>
<p>　つまり、差別には、「序列化」と「差異化」という2通りのロジックがある。その結果、差別事象は「格差づけ／見下し」と「異化／排除」という2通りの次元で表出する、ということです。</p>
<p>　差別のこの2面性をしっかり理解しておかないと、具体的な事象を観察しても、その差別性を認知することが難しくなります。片方の次元にのみ注目していると、もう片方の次元で現れた差別を見落とすことになってしまうわけです。</p>
<p>　以下、もう少し詳しく説明していきます。</p>
<p><strong>1.　序列化のロジック</strong></p>
<p>　（1）ある集団に帰属する者を、「われわれより劣った者だ」とみなす。そして、（2）「あの人たちは劣っているのだから不利な扱いを受けても仕方がない」と考える。これが序列化のロジックです。このロジックに沿った差別的な考え方の具体例をいくつか示しましょう。</p>
<ul style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<ul dir="ltr">
<li>
<div style="MARGIN-RIGHT: 0px">女は論理的思考能力という点でわれわれ男性に劣る。大事な仕事を任せられず、昇進が抑えられても仕方がない。</div></li>
<li>
<div style="MARGIN-RIGHT: 0px">黒人は知能においてわれわれ白人に劣る。奴隷として白人に奉仕するのは神が定めた摂理だ。</div></li>
<li>
<div style="MARGIN-RIGHT: 0px">朝鮮人は誠意においてわれわれ日本人に劣る。入居にあたって、日本人の3倍の保証金を納めてもらうのは当然だ。</div></li></ul></ul>
<p>　ようするに、特定の社会的カテゴリーに所属する人を「劣っている」と決め付け、侮辱し、一方的に攻撃する。そして、資源を奪ったり、資源の入手を制限したりする。また、資源の分配に不平等を持ち込んだりする。そして格差が固定すると、「ほら劣っている」と見下しが改めて強化される。そうした一連のプロセスとしてあらわれる差別の次元を、序列化のロジックと呼ぶわけです。</p>
<p>　さて、序列化のロジックについては、どちらかというと、直感的にわかりやすい面があると思います。</p>
<p>　なぜなら、多くの場合、序列化のロジックには偏見をともないますし、侮辱や不平等など差別に付随しがちな現象も観察されやすいからです。（ただし、偏見を持っている人は、自分が偏見を持っているという事実になかなか気づかないというのは、よく知られた事実です。）</p>
<p>　結果として、「差別」だと認知しやすいし、「差別」だとクレイムを付けやすい。逆にいうと、「差別ではなく区別だ」と反論しにくい。</p>
<p>　それに対して、次に紹介する差異化のロジックは、直感的には少々わかりにくいかもしれません。</p>
<p><strong>2.　差異化のロジック</strong></p>
<p>　（1）ある集団に帰属する者を異質だとみなす。そして、（2）忌避したり、関係を絶ったり、資源を共有するための集団や組織から排除したりする。 これが差異化のロジックです。このロジックに沿った差別的な考え方の具体例をいくつか示しましょう。</p>
<ul style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<ul>
<li><strong></strong>部落の奴らはおれたちと身分が違う。結婚するなんてもってのほかだ。おれたちが管理している山で薪を採るなんて泥棒だ。おれたちと同じ場所で働くなんて許せない。</li>
<li>女は子どもを生み育てる性であり、企業は男の世界だ。外で働くのは男にまかせて、女は家庭内で家事や育児をするのが合理的だろう。専業主婦はむしろ女の天職だ。</li>
<li>朝鮮学校に通う生徒は他の児童とは違う。外国人だし、独裁者崇拝の洗脳教育を受けている。同じ大会に出場するなんて許せない。ましてや、<a href="http://han.org/blog/2010/02/post-119.html">ウチの県の地域代表</a>になるなんておかしい。</li></ul></ul>
<p><strong></strong>　さて、どうでしょう。「なるほど、これらは差別的な考え方だな」と感じましたか？　むしろ、今の日本だと、一番下の例に対しては共感を示す人も少なくないかもしれませんね。「嫌いな奴らと付き合いたくないというのが、なぜ『差別的な考え方』になるんだ」と。</p>
<p>　差異化のロジックに差別性を与える要件は、「排除」にあります。見下しの感情があろうとなかろうと、偏見を持っていようとそうでなかろうと、ある社会集団のメンバーを重要な機会から恣意的に排除すれば、それは「差別」だというクレイムの対象になります。</p>
<p>　しかし、差異化のロジックは、序列化のロジックとは違って、見下しや侮辱のようなわかりやすい「悪意」を伴わないことも少なくないため、「差別」だと直感的には認知しにくい面があります。だから、「差別」だというクレイムを受けても、「いや、差別ではなく区別だ」という反論が必ず出てきます。また、その反論に同調する人が少なからず出てきます。差異化のロジックの差別性は、どうにもわかりにくい。</p>
<p>　ジム・クロウ法制期のアメリカ南部においては、「黒人がバスで座ってよいのは後部座席だけ」という規定がなぜ「差別」と訴えられているのか理解できない人が多かった。単に隔離しているだけであって、差別じゃない。お互い不愉快だから、ただ区別しているだけじゃないか、と。</p>
<p>　同様に、選挙人登録の際に識字テストを行う規定（教育から排除されて識字率の低かった黒人から実質的に参政権を奪う仕掛け）についても、当時は「差別」だという訴えがなかなか認められなかった。市民として最低限の知性を要求しているだけであって、別に黒人を差別しているわけじゃない、と。</p>
<p>　国交のない北朝鮮を支持している朝鮮学校はカリキュラムを公式に確認できないから、無償化から除外する。形式的な問題であって、別に朝鮮学校を差別しているわけじゃない、というのも同じロジックですね。<a href="http://han.org/blog/2010/03/post-138.html">違法な人権侵害であることは明白</a>なのに、その差別性がなかなか理解されない。</p>
<p>　しかし、わかりにくいならばなおのこと、ある社会集団のメンバーを重要な機会から恣意的に排除するようなことがあれば、それは「差別」ではないかと疑ってかかるべきでしょうね。後年、「あいつはひどい差別主義者である」との糾弾を受けるかもしれませんよ。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>橋下発言にみるVictim blaming</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://han.org/blog/2010/03/victim-blaming.html" />
    <id>tag:han.org,2010:/blog//1.313</id>

    <published>2010-03-16T14:35:57Z</published>
    <updated>2010-03-16T16:19:22Z</updated>

    <summary>　差別研究には「victim blaming」（犠牲者非難）という有名な概念があ...</summary>
    <author>
        <name>mskim</name>
        
    </author>
    
        <category term="主張" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
        <category term="差別・人権" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
        <category term="研究" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://han.org/blog/">
        <![CDATA[<p>　差別研究には「victim blaming」（犠牲者非難）という有名な概念があります。ウィリアム・ライアンという心理学者が<a href="http://www.amazon.com/dp/0394722264">1971年に提起した言葉</a>で、差別や犯罪などのつらい被害をこうむった人に対して、「あなたに（も）落ち度があったからだ」と非難する行為を指します。</p>
<p>　日本語ではvictim blamingをきちんと説明した文献がたいへん少ないので、あまり知られていませんが、池田光穂さんが「<a href="http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/990208maodic.html">医療人類学辞典</a>」の中で簡単に説明してくれていますので、まずは参照してください（→<a href="http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/030608VB.html">犠牲者非難</a>）。差別や犯罪の被害にとどまらず、病気や事故などとても広範なつらい体験に対して観察される現象だということが理解できると思います。</p>
<p>　もちろん、先頭車両に乗っていて衝突事故で怪我をした人に向かって、「一番前なんかに乗るからだ」と責める行為にいっさいの合理性はありません。原因不明の病気に罹った人に対して、「日ごろの行いが悪かったせいだ」などと非難するのはナンセンスです。犯罪だって、悪いのは犯人であって、被害者を責めるのはお門違いというもの。victim blamingは非合理的な心理現象です。</p>
<p>　非合理的であるにもかかわらず、なぜ、victim blamingは起こるのか？　victim blamingの発生要因についてはいくつかの仮説が提起されています。</p>
<p>　例えば、「世界は正しいと信じたい仮説」。世界は合理的で公正だと信じたい人は、非合理的、偶発的に被害が発生する状況を受け入れることができない。それで、「きっと被害者側に自業自得といえる理由があるに違いない」と考えることで自分を納得させようとする、という仮説です。</p>
<p>　他に、「傷つきたくない仮説」というのもあります。これは性犯罪を例にとるとわかりやすいのですが、「性犯罪の被害にあうのは、みだらな服装をしたり、ふしだらな行動をする女だけだ」と思い込んでしまえば、そういう服装や行為を避けることによって、自分は性犯罪の被害には会わないという安心感に浸ることができる、という仮説です。被害者を特別な存在だったとして攻撃することによって、自分が同じように傷つく可能性を否定したいのだ、ということですね。</p>
<p>　なお、「<a href="http://han.org/blog/2010/02/post-119.html" rel="bookmark">差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある</a>」の中で、差別者扱いされたくない人がvictim blamingをするのだと書いたのは、これらの仮説を応用したものです。</p>
<p>　どの仮説が正しいにせよ、問題を過剰に個人のせいにしてしまうという人間心理の基本的な特性（<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E7%9A%84%E3%81%AA%E5%B8%B0%E5%B1%9E%E3%81%AE%E8%AA%A4%E3%82%8A">根本的な帰属の誤り</a>）に基づいている以上、victim blamingの発生を抑制するのは容易ではありません。victim blamingができるだけ発生しないように各人が気を配り、発生してしまったときには周囲の人々が丁寧に非合理的であることを説得するしかありません。</p>
<p>　しかし、ことが権力者による意図的な発言となれば話は別です。たとえ周囲の人々がミクロなレベルで修正したとしても、その言葉のマクロな影響力は制御のきかない状態で広まってしまうからです。</p>
<p>　朝日新聞が3月10日に報じたところによると、大阪府の橋下知事は、「不法な国家体制とつきあいがあるなら、僕は子どもたちを取り戻し、ちゃんと正常な学校で学ばせる。そうしないと朝鮮の皆さんに対する根深い差別意識が大阪府からなくならない」と語ったそうです。</p>
<p>　これは典型的なvictim blamingです。なにせ、差別の原因が差別される側にあると語っているわけですから。</p>
<p>　たとえ朝鮮学校が知事の要請にこたえていくつかの改革をしたところで、大阪から朝鮮人に対する「根深い差別意識」はなくならないでしょう。なぜなら、朝鮮学校のあり方は、差別意識の原因ではないからです。橋下知事の発言がいかにナンセンスであるか、その一点をとっても理解できるはずです。</p>
<p>　この種の発言は、人種差別を扇動する行為として法的に禁止している国がたくさんあります。違法ではなくとも、例えばオーストラリアでは、そうした発言を繰り返したポーリン・ハンソンが所属政党から公認されず、事実上、政界どころか国を追われました。</p>
<p>　権力者がvictim blamingをやって何のお咎めもなく許されてしまうというのは、世界の価値基準からいって、たいへん恥ずかしい状況なのです。</p>
<p>　日本では、マスメディア関係者を含めて、朝鮮学校が否定的に扱われるのは仕方がないと思っている人も少なくないようですが（<a href="http://han.org/blog/2010/03/post-136.html">「橋下府知事の発言をめぐる諸問題」</a>参照）、その状況自体が差別的であるということに気づくのはいつのことでしょうか。</p>]]>
        
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    <title>卒論の思い出</title>
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    <published>2010-03-13T16:47:35Z</published>
    <updated>2010-03-13T17:07:39Z</updated>

    <summary>　昨日のエントリーを書いていて、ずいぶん昔に書いた卒業論文の「あとがき」を思い出...</summary>
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        <name>mskim</name>
        
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        <category term="研究" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
        <category term="雑談" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[<p>　昨日のエントリーを書いていて、ずいぶん昔に書いた卒業論文の「あとがき」を思い出しました。あまりにも気恥ずかしいのでやめようかなとも思いましたが、ちょっと思うところがあって、あえて公開することにしました。</p>
<p>　職業としての学問に着手したばかりの22歳の在日青年が、何を考え、どういう気持ちでエスニシティを研究テーマに選んだのか、一つのサンプルとして（できれば笑わずに）お読みください。</p>
<p>（BLOGOSさんへ事務連絡：本稿は転載不可です）</p>
<p>************ここから*************</p>
<p>　かつて両親が総連系の運動を支持していたこともあり、私は小学校教育の多くを福岡市にある民族学校で受けた。民族教育の甲斐あって、当時は生活の中にあるあらゆる民族的なものに対して絶対的な価値を感じとっていたものである。しかしその後のより高等な教育は日本の学校で受け、日本の友人とともに思春期を学ぶうちに、ちょうど日本人の若者が日本民謡や演歌に対して抱くものと同様の感覚でもって朝鮮の歌を聴くようになり、ついには「朝鮮」という言葉そのものになにかしら古くさく因習的で、克服すべきなにものかであるような語感が付けくわわるようになった。</p>
<p>　私の高校三年生は、この８９年と同じく革命ラッシュであった。韓国ではオリンピックを目前にして全社会構成員的なデモがくり広げられ、フィリピンでは２月革命が一応の勝利をあげた。どちらの場合も独裁者は因果の報いを受け、隠遁の生活を余儀なくされるようになった。それをテレビでみていた私はといえば、まあ日本の報道の性質にも大きな問題はあったと思うが、フィリピンの民衆蜂起に対して全身を震撼させ心を高揚させる一方、韓国の学生・市民運動については「またやっているのか」といった程度の冷めた失望感しか感じえなかったのである。</p>
<p>　また高校時代といえば、ひも解いた本の中で一番こころに残っていたものは知里幸恵さんの『アイヌ神謡集』の序にこう書いてあったことである。「愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言葉、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉、それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものとともに消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。」同じ頃、「朝鮮」や「在日」という言葉のついたものには興味を示しさえしなかったのにである。</p>
<p>　とはいうものの、人格形成期に受けた民族教育のおかげか、転校後の小・中学校で下劣な輩に浴びせられた罵倒語への反感によってか（これはいまもって消え失せることはない）、あるいは日頃の会話の中で日本人の友人達によって発せられる無意識的な差別発言によってか、いずれにしても「日本」への愛着は進まず、また「朝鮮」に対する呪詛も捨てきれはしなかった。</p>
<p>　そういった私の歪んだ民族感情が、再び呼び覚まされ意識にのぼるようになり、すこしずつはっきりと形をあらわにしていったのは、学生組織で精力的に活動を行っている同胞の友人達や誠意ある日本の友人達との、たゆまない議論と対話におかげをこうむっている。</p>
<p>　はたしてこの論文は、同胞社会への、そしてひいては人類的な倫理社会への貢献を目指したものであるということもさることながら、自らの呪詛を清算し自らを再び問いなおす意味をもったものでもある。</p>
<p>　前者の意図がどこまで達成されたかは非常にこころもとないが、後者については、一つの形あるものを著すきっかけとなってくれた友人諸氏にお礼を言いたい気持ちでいっぱいである。</p>
<p>　朝まで議論を尽くしてくれた友人、面倒な調査に協力していただいた方々、草稿の一部を熱心に目を通していただいた先輩方に、この場を借りて心からの感謝を捧げさせていただきたい。</p>]]>
        
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    <title>朝鮮学校除外は明白な「児童の権利に関する条約」違反</title>
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    <published>2010-03-13T04:08:40Z</published>
    <updated>2010-03-13T06:13:09Z</updated>

    <summary>　まず、日本政府が1994年に批准した「児童の権利に関する条約」から、2つの条文...</summary>
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        <name>mskim</name>
        
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        <category term="主張" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://han.org/blog/">
        <![CDATA[<p dir="ltr">　まず、日本政府が1994年に批准した「<a href="http://www.mofa.go.jp/Mofaj/gaiko/jido/zenbun.html">児童の権利に関する条約</a>」から、2つの条文を紹介します。</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p><strong>第2条<br /></strong>1　締約国は、その管轄の下にある児童に対し、児童又はその父母若しくは法定保護者の人種、皮膚の色、性、言語、宗教、<u>政治的意見</u>その他の意見、国民的、種族的若しくは社会的出身、財産、心身障害、出生又は他の地位にかかわらず、<u>いかなる差別もなしに</u>この条約に定める権利を尊重し、及び確保する。</p>
<p><strong>第29条<br /></strong>1　締約国は、児童の教育が次のことを指向すべきことに同意する。<br />（a） 児童の人格、才能並びに精神的及び身体的な能力をその可能な最大限度まで発達させること。 <br />（b） 人権及び基本的自由並びに国際連合憲章にうたう原則の尊重を育成すること。 <br />（c） <u>児童の父母、児童の文化的同一性、言語及び価値観、児童の居住国及び出身国の国民的価値観並びに自己の文明と異なる文明に対する尊重を育成すること。</u> <br />（d） すべての人民の間の、種族的、国民的及び宗教的集団の間の並びに原住民である者の理解、平和、寛容、両性の平等及び友好の精神に従い、自由な社会における責任ある生活のために児童に準備させること。 <br />（e） 自然環境の尊重を育成すること。 </p></blockquote>
<p>　第2条を読めば、政治的主張を理由として朝鮮学校のみを無償化対象から除外するのは、明らかに同条約が禁止する差別ということになります。<a href="http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/100305.html">日弁連の会長声明</a>が明快に断言したように、法的な観点からは「この差別を正当化する根拠はない」のです。朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、きわめて違法性の高い差別政策だということになります。この点に議論の余地はありません。</p>
<p>　しかし、このことについてはすでに「<a href="http://han.org/blog/2010/03/post-136.html" rel="bookmark">橋下府知事の発言をめぐる諸問題</a>」において簡単に触れていますので、今回のエントリーでは第29条をテーマに取り上げたいと思います。</p>
<p>　第29条第1項の（C）は、民族教育の尊重を謳った条文です。ややあいまいな記述にはなっていますが、民族文化や出身国の政治的伝統を重視した教育は、「18歳未満のすべての者」（第1条第1項）にとっての権利だというわけです。</p>
<p>　気づいている人はあまり多くはありませんが、日本人はちゃんと日本の学校で民族教育を受けています。まず、日本語の教育を受けられますね。日本の歴史も学べます。しかも、2千年も歴史の違うギザのピラミッドと仁徳天皇稜を比べて、日本の陵墓が世界一だと誇らしげに記述してあったりします。高校だと柔道や剣道を正課で学ぶこともできます。《立派な日本人》になるための教育がいろいろと用意されているわけです。</p>
<p>　その結果、諸外国の青少年に勝るとも劣らない強さの国民的プライドを日本の青少年は持っている、ということが国際比較調査によって明らかになっています。日本の教育を受けると自虐的になると批判する人もいますが、そのような事実は科学的には観察されていません。</p>
<p>　一方、在日コリアンはどうでしょうか。日本の学校に通うかぎり、在日コリアンとしての民族教育を望むことは難しい。事実、私が1993年に関わった調査では、韓国籍の青年のうち、母国語を「まったく話せない」か「いくつかの単語しか知らない」者が7割を超えています。いわば、民族的に文盲のまま放置されているわけです。</p>
<p>　しかも、日本の教科書には、朝鮮半島の歴史は「わざとか？」というほど登場しません。&nbsp;出てくるといえば被征服の記述が中心となります。それで、ルーツに誇りを持って健全に生育せよというほうに無理がある。上述の調査で、「あなたはこれまでに，在日韓国・朝鮮人である自分を嫌だと思ったことがありましたか」という設問に対して、64％が「あった」と回答しています。</p>
<p>　そうした中で、体系的な民族教育を全国規模で実現している唯一の機関が、朝鮮学校です。日本人の子どもたちが日本の学校で自然な日本人に育っていくのと同じように、朝鮮人の子どもたちが朝鮮人として自然なプライドを身につけていくことができる、唯一の環境だということもできます。</p>
<p>　ミクロなレベルでいえば、日本の学校に通いながらも、在日コリアンとしてのプライドを持つにいたるケースも中にはもちろんあります。しかし、マクロなレベルでいえば、朝鮮学校を否定するということは、実質的に、在日コリアンに対する民族教育の機会を否定するということです。</p>
<p>　大阪府の橋下知事は、朝鮮学校を、その政治的姿勢ゆえに批判していますが、だったら、朝鮮学校と同等の民族教育を保障する政治的に中立なシステムを府下に作ってみればいい。その上での朝鮮学校批判ならば説得力もありますが、現状のやり口は、権力をかさにきたレイシズムの吐露にしか見えません。</p>
<p>　民族教育の多様な選択肢がある中で朝鮮学校だけが攻撃に晒されているのならば、（もちろん、それも人権侵害ですが）まだしも救いはあります。しかし、朝鮮学校は、日本で在日コリアンの児童に権利として民族教育を保障する、現状で唯一の機関です。</p>
<p>　したがって、朝鮮学校のみを無償化の対象外とすることは、実質的に、在日コリアンの子どもたちが在日コリアンとして健全に生育する機会を否定するのと同じだということです。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>「いのちを、守りたい（ただし朝鮮人は除く）」</title>
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    <published>2010-03-12T12:12:47Z</published>
    <updated>2010-03-13T04:00:56Z</updated>

    <summary>　1月末、鳩山総理大臣の施政方針演説は、「いのちを、守りたい」という印象的なフレ...</summary>
    <author>
        <name>mskim</name>
        
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        <category term="研究" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://han.org/blog/">
        <![CDATA[<p>　1月末、鳩山総理大臣の<a href="http://www.kantei.go.jp/jp/hatoyama/statement/201001/29siseihousin.html">施政方針演説</a>は、「いのちを、守りたい」という印象的なフレーズが多用されたことに注目が集まりました。その一部を引用します。&nbsp;</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>　いのちを、守りたい。<br />　いのちを守りたいと、願うのです。 <br />　生まれくるいのち、そして、育ちゆくいのちを守りたい。 <br />　若い夫婦が、経済的な負担を不安に思い、子どもを持つことをあきらめてしまう、そんな社会を変えていきたい。未来を担う子どもたちが、自らの無限の可能性を自由に追求していける、そんな社会を築いていかなければなりません。<br />（中略）<br />　<u>差別や偏見とは無縁に、人権が守られ基礎的な教育が受けられる、そんな暮らしを、国際社会の責任として、すべての子どもたちに保障していかなければなりません。</u></p></blockquote>
<p>　演出過多を斜に構えて批評する向きもありましたが、演説内容そのものは高邁な理念の表明だと感じた人も少なくはなかったでしょう。しかし、今、この演説が壮大なハッタリにすぎなかったと証明されるかもしれない出来事が進行中です。高校教育の実質無料化策から朝鮮学校を除外する方針のことです。</p>
<p>　社会学には、「差別とはライフチャンスの不当な格差である」&nbsp;という定義があります。ライフチャンスとは、 生きていくために社会的資源を利用する機会のことです。それは結果として、健康に生きる可能性のことをも意味します。</p>
<p>　無償の中等教育機会は、それ自体がきわめて重要な社会的資源です。学歴の有無を通じて、就業機会や生涯賃金といったより大きなライフチャンスの格差が生じるためです。高校実質無償化の対象から朝鮮学校を除外するということは、朝鮮学校に通う子どもたちの生存機会を奪うということを意味する、と社会学者は考えます。</p>
<p>　いうまでもなく、それは朝鮮学校に対する差別政策です。</p>
<p>　先月末、ジュネーブで開かれた人種差別撤廃委員会の対日審査で、朝鮮学校を授業料無償化法案の対象外にする動きに複数の委員が「差別だ」として疑念を表明する一幕もありました。日本弁護士連合会をはじめ、複数の弁護士会から違法性の高い人権侵害だと批判する会長声明も出されました。</p>
<p>　朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、差別以外の何ものでもありません。朝鮮学校に通う子どもたちの、いのちの可能性を奪う政策です。鳩山首相の施政方針演説とは、けっして相容れるところがありません。</p>
<p>　むしろ、理念が高邁であるだけに、差別政策がよけいに汚らしく見えるだけです。しかも、「国交がないので教育内容が確認できない」といった欺瞞を構築してまで、差別だという批判を回避しようとする姑息な態度がよけいに卑劣に見えるだけです。</p>
<p>　朝鮮学校を対象に含めるかどうかの判断は先送りになる公算が高まっているようですが、もし、最終的に差別政策を採用するなら、鳩山首相は施政方針演説を撤回するべきでしょう。そして、「いのちを、守りたい。ただし、朝鮮人は除く。」と修正するべきでしょう。権力を持ってマイノリティのいのちの可能性を奪うのなら、せめてその倫理的責任を引き受けるべきでしょう。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>橋下府知事の発言をめぐる諸問題</title>
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    <id>tag:han.org,2010:/blog//1.309</id>

    <published>2010-03-11T13:55:33Z</published>
    <updated>2010-03-13T04:00:02Z</updated>

    <summary>　このところ学術的な観点からのエントリーが続いていたけれども、この問題を批判しな...</summary>
    <author>
        <name>mskim</name>
        
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        <category term="ナショナリズム" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
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        <category term="研究" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://han.org/blog/">
        <![CDATA[<p>　このところ学術的な観点からのエントリーが続いていたけれども、この問題を批判しないわけにはいきません。あまりにもネガティブな感情が強すぎて、これまでどうしても冷静に論じることができませんでしたが、そろそろ執筆する準備ができたように思います。</p>
<p>　何の話かといえば、高校教育の実質無償化政策から朝鮮学校を除外する案について、大阪府の橋下徹知事のレイシスト発言っぷりが際立っています。今回のエントリーでは、彼の発言の何が「問題」なのか、下記のテーマに沿って論じていきます。</p>
<ol>
<ol>
<li>他のどこでもない大阪府の知事であることにより発生する歴史問題</li>
<li>法律家でありながら超法的政治手法を利用するポピュリズム問題</li>
<li>以上を報道しない日本マスメディアのレイシズム問題</li></ol></ol>
<p><strong>1.　大阪の歴史問題</strong></p>
<p>　この問題については、すでに優れたエントリーが書かれています。<a href="http://kscykscy.exblog.jp">日朝国交「正常化」と植民地支配責任</a>というブログの最新記事、<font color="#002e87"><a href="http://kscykscy.exblog.jp/12971742/" name="12971742">橋下府知事を朝鮮学校に入れるべきではない――朝鮮学校と高校「無償化」問題6</a></font>です。まずはお読みいただきたい。</p>
<p>　リンク先のエントリーで述べられているのは、「<a href="http://www.han.org/oldboard/hanboard3/msg/1922.html">阪神教育闘争</a>」として知られる事件です。平和的デモに対して警官が発砲し、16歳の死者まで出したこと一つをとっても、戦後日本の民主主義の歴史に残る最悪の汚点の一つといってよいでしょう。</p>
<p>　大阪府は、在日コリアンの民族学校を弾圧した歴史的事実に対して、倫理的な責めを負うべき立場です。橋下知事はこの事件を知っていたはずですし、仮に知らなかったとしても、朝鮮学校を無償化対象から除外する議論が始まったときには知ったはずです。にもかかわらず、橋下知事には一切の反省がないどころか、逆に弾圧当時と同様のロジックで朝鮮学校を追い込もうとしている。知事の権力をもって、在日の子どもたちに<a href="http://han.org/hanboard/c-board.cgi?cmd=one;no=1440;id=">踏み絵</a>を強要しようとしている。</p>
<p>　橋下知事には、民主主義を守ろうという精神的基盤が欠落しているとしか考えようがありません。</p>
<p><strong>2.　ポピュリスト問題</strong></p>
<p>　純粋な法律論からいえば、朝鮮学校だけを無償化対象から除外するのは不可能に近いはずです。ぼくが素人法律論を振りかざすより、日本弁護士連合会<a href="http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/100305.html">「高校無償化法案の対象学校に関する会長声明」</a>から一部引用するほうが早いでしょう。</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>朝鮮学校に通う子どもたちが本法案の対象外とされ、高等学校、専修学校、インターナショナル・スクール、中華学校等の生徒と異なる不利益な取扱いを受けることは、中等教育や民族教育を受ける権利にかかわる法の下の平等（憲法第１４条）に反するおそれが高く、さらには、国際人権（自由権・社会権）規約、人種差別撤廃条約、子どもの権利条約が禁止する差別にあたるものであって、この差別を正当化する根拠はない。</p></blockquote>
<p>　これらの法律の壁を、橋下知事は「不法国家の北朝鮮と結びついている朝鮮総連と関係があるなら、税金は投入できない」というロジックで強引に突破しようとしているわけですが、法律論としては何重にもムリのある話です。知事もそのことはおそらく承知で、だからこそ、北朝鮮と朝鮮総連を一体的に暴力団やナチスにたとえたりしながら、このロジックを政治的に正当化しようとしているわけです。悪しきポピュリズムの典型的な手口。</p>
<p>　この点についても、<a href="http://d.hatena.ne.jp/Arisan/">Arisanのノート</a>に、<a href="http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20100310/p1">「大阪府知事はナチスと同じ」</a>という優れたエントリーがすでに書かれています。ぜひお読みください。</p>
<blockquote style="BORDER-BOTTOM: medium none; BORDER-LEFT: medium none; PADDING-BOTTOM: 0px; MARGIN: 0px 0px 0px 40px; PADDING-LEFT: 0px; PADDING-RIGHT: 0px; BORDER-TOP: medium none; BORDER-RIGHT: medium none; PADDING-TOP: 0px" class="webkit-indent-blockquote">
<p>国内の少数者を恫喝し、繰り返し傷つけることで大衆的人気の獲得を図っているという点では、まさに橋下徹とい政治家こそ、ナチスとヒトラーの名にふさわしいではないか？</p></blockquote>
<p>　この一文に端的に表現されていますが、ナショナリズムと結託したポピュリズムが排外主義に走るとき、きわめて危険な政体が生まれます。ナチスはその代表格。</p>
<p>　くどいですが、橋下知事には、民主主義を守ろうという精神的基盤が欠落しているとしか考えようがありません。</p>
<p><b>3.　マスメディアのレイシズム問題</b></p>
<p>　ところで、「ナショナリズムと結託したポピュリズム」の危険性に絡んで、よくヨーロッパの「極右政党」や、ハイダー、ル・ペン、グリフィンといった「極右党首」たちの言動が否定的に報じられてきました。</p>
<p>　日本のマスメディアが「極右」といってこれらを批判する欺瞞については、もうずいぶん言い尽くされている感もありますが（例えば森達也・森巣博<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/408720314X?ie=UTF8&amp;tag=thehanworld-22&amp;linkCode=as2&amp;camp=247&amp;creative=1211&amp;creativeASIN=408720314X">『ご臨終メディア』</a><img style="BORDER-BOTTOM: medium none; BORDER-LEFT: medium none; MARGIN: 0px; BORDER-TOP: medium none; BORDER-RIGHT: medium none" border="0" alt="" src="http://www.assoc-amazon.jp/e/ir?t=thehanworld-22&amp;l=as2&amp;o=9&amp;a=408720314X" width="1" height="1" />集英社）<span style="FONT-FAMILY: 'MS PGothic'; COLOR: rgb(0,51,0); FONT-SIZE: medium" class="Apple-style-span"><span style="FONT-FAMILY: arial, helvetica, hirakakupro-w3, osaka, 'ms pgothic', sans-serif; COLOR: rgb(51,51,51); FONT-SIZE: 13px" class="Apple-style-span">、それでも一向に事態の改善が見られない以上、何度でも繰り返し批判されるべきことでしょう。</span></span></p>
<p>　橋下知事の一連の発言については、各紙とも論評を加えずに淡々と紹介するスタンスに徹しているようです。人気政治家の発言に賛否を表明して攻撃を引き受けるのは怖いということなのでしょう。言論の責任を回避する姿勢は、まさしくご臨終メディア。しかし、不法な人権侵害をポピュリズムの手法によって正当化しようとしている権力者がいるとき、それに対抗するのはマスメディアのもっとも重要な役割ではないでしょうか。</p>
<p>　マスメディアが批判の届かない安全な場所に逃げている間に、朝鮮学校に通う子どもたちは、知事の発言に誘発されたヘイトクライムの犠牲になるかもしれない。杞憂ではありません。過去に何度も実際に起こったことです。にもかかわらず、マスメディアは、子どもたちを責任回避の盾にしながら、逃げている。</p>
<p>　なぜこのような事態が生じているかといえば、ようするに、マスメディアに関わる人々が、「知事の発言にも一理ある、だから朝鮮人の子ども達が犠牲になっても仕方がない」、という発想を否定していないためでしょう。なんたるレイシストぶりか。</p>
<p>　日本のマスメディアには、民主主義を守ろうという精神的基盤が欠落しているとしか考えようがありません。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>差別をめぐる2種類の過誤</title>
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    <published>2010-03-07T01:51:34Z</published>
    <updated>2010-03-08T00:01:45Z</updated>

    <summary>　「差別は客観的に定義できるか」から「差別問題の構築事例」まで、4回連続で差別の...</summary>
    <author>
        <name>mskim</name>
        
    </author>
    
        <category term="差別・人権" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
        <category term="研究" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://han.org/blog/">
        <![CDATA[<p>　「<a href="http://han.org/blog/2010/02/post-127.html" rel="bookmark">差別は客観的に定義できるか</a>」から「<a href="http://han.org/blog/2010/03/post-134.html" rel="bookmark">差別問題の構築事例</a>」まで、4回連続で差別の定義をめぐる議論を紹介してきました。</p>
<p>　現時点では、「われわれカテゴリーの恣意的な動員」に注目する佐藤裕さんの定義と、坂本佳鶴恵さんを筆頭とする社会的構築主義的な定義に、いろいろと有利な点が多いといえます。前者は差別する側の視点から差別を捉えることに成功していますし、後者は差別問題が生成されるダイナミズムをうまく記述することができる。しかし、それぞれ一長一短がありますので、決定版といえるような定義はまだ存在しない、と表現することもできます。</p>
<p>　それは、言い換えると、何が差別で、何が差別でないのか、という問に答えることは、けっして簡単なことではない、ということです。今回は、それを前提として、議論をひとつ提起しておきます。</p>
<p>　タイトルは、第1種の過誤と第2種の過誤です。</p>
<p>　推測統計学の世界には「第1種の過誤」と「第2種の過誤」という言葉があります。前者は真実を見落としてしまうこと、後者は誤りを見過ごしてしまうことです。</p>
<p>　例えば、ある公害による病気の被害認定が争点になるとき、（a）その公害による病気の典型的症状がほとんどすべてそろっていること、（b）その公害による病気の重要な症状の一つ以上があること、の二通りの基準があるとしましょう。（a）の立場をとれば、経験的にいって「被害者」は実際の被害よりも確実に少なく見積もられることになります。これが、第1種の過誤です。（b）の立場をとれば、「被害者」が実際の被害よりも多く見積もられる危険性を否定できません。これが、第2種の過誤です。</p>
<p>　別の例を出すと、法曹界には「疑わしきは罰せず」という基本ルールがあります。これは、絶対に第2種の過誤（＝冤罪）が起こってはならないというスタンスによるもの。一方で、医療界には「疑わしければ再検査」という基本ルールがあります。これは、絶対に第1種の過誤（＝病気の見落とし）があってはならないというスタンスによるもの。</p>
<p>　ある事象が差別にあたるかどうかを考えるとき、どちらのスタンスが適切だと思いますか？</p>
<p>　おそらく、差別と聞けば<u>加害者だけが懲らしめられるべきだと考える人</u>は、法曹界のスタンスを採用するでしょう。自分が「差別者」という冤罪を着せられると困りますからね。</p>
<p>　一方、差別と聞けば<u>被害者をサポートすべきだと考える人</u>は、医療界のスタンスを採用するでしょう。なぜなら、今はまだ世間に知られていないだけで、将来的には「差別」だと広く認められるようになる事象によって被害を受けているのかもしれませんからね。</p>
<p>　「<a href="http://han.org/blog/2010/02/post-119.html" rel="bookmark">差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある</a>」に書いたのは、この両スタンスの違いのことです。また、この両者の判断のグラデーションを、「<a href="http://han.org/blog/2010/02/post-120.html" rel="bookmark">差別の存在を認めない傾向とは</a>」で紹介した表の中に確認することができます。</p>
<p>　繰り返しますが、ある事象が差別にあたるかどうかを考えるとき、どちらのスタンスが適切だと思いますか？</p>
<p>　ぼく個人の見解を述べるなら、医療界のスタンスのほうが適切だと考えます。なぜなら、（1）医療界のスタンスを採ることによってマジョリティがこうむるデメリットと、法曹界のスタンスによってマイノリティがこうむるデメリットを比較したとき、後者のほうが甚大だから、（2）マジョリティ側が医療界のスタンスを採るという姿勢を持たないかぎり、被差別のクレイムはなかなか通らないから、（3）加害を罰するよりも被害の救済のほうが実質的に重要だから、です。</p>
<p>　ぜひ皆さんも、どちらのスタンスを採るべきか、その理由は何か、について考えてみてください。</p>]]>
        
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    <title>差別問題の構築事例</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://han.org/blog/2010/03/post-134.html" />
    <id>tag:han.org,2010:/blog//1.307</id>

    <published>2010-03-06T01:57:14Z</published>
    <updated>2010-03-06T04:58:22Z</updated>

    <summary>　前回のエントリー「差別と政治、差別の政治」は、社会的構築主義のスタンスから差別...</summary>
    <author>
        <name>mskim</name>
        
    </author>
    
        <category term="差別・人権" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
        <category term="研究" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://han.org/blog/">
        <![CDATA[<p>　前回のエントリー<a href="http://han.org/blog/2010/02/post-131.html">「差別と政治、差別の政治」</a>は、社会的構築主義のスタンスから差別を定義したらどうなるか、というテーマでした。</p>
<p>　具体的にいえば、現在はまだ「差別」だとみなされていない事象でも、クレイム申し立ての運動によって「差別だという共通理解」を広げられれば「差別問題」を構築できる、という話です。あるいは、現在はまだ「道徳」の課題だとみなされている差別問題も、運動の方向次第では「犯罪」として法的処罰の対象に加えられる可能性がある、という話です。ですから、差別問題に実践的に関わっておられる方々からすれば勇気の出る説明様式だろうと思います。</p>
<p>　また、学術的にも、「不当性」の難問から逃れられることが理論面での大きな強みといえます。僕自身の学術的なスタンスとはイマイチ相性が悪いのですが、それでも、特に社会問題の発生を説明するときは、社会的構築主義の有効性を認めないわけにはいきません。構築主義的なアプローチを用いなければ、とうてい説明の付かない現象が無数にある、ということもできます。</p>
<p>　ただ、難点がないわけでもありません。</p>
<p>　<strong>一つ目</strong>の難点は、クレイムが広く認められる前の段階では、その差別の存在を説明できない、ということ。これはどちらかというと純粋学問的な問題なので、説明は省きます。</p>
<p>　<strong>二つ目</strong>の難点は、いわゆるアイデンティティ・ポリティクスの問題。まぁ、これは構築主義の問題ではなく、構築主義の切り口が鋭かったために浮き彫りになった問題点、というべきなので、同じく省略。</p>
<p>　<strong>三つ目</strong>の難点は、正当／不当という客観的要件を説明の枠組みに含まないため、ある事象をめぐって差別かどうかがリアルタイムで争われている段階では、その論争にまったく寄与することができないということ。「不当性」の難問から逃れられるという強みは、同時に弱みでもあるのです。</p>
<p>　この難点を回避するため、坂本佳鶴恵さんは、前回紹介した著書の中で、差別だというクレイムがあればそれは差別なのだ、といった内容の書き方をしていた箇所があったような気がします（構築主義プロパーの方はまずこういう書き方をしないと思いますが、逃げ道があるとすれば、やはりそこしかないでしょう）。こういう考え方に立てば、少なくともクレイムが発生すれば、それがまだ社会に広く支持されていなくとも、「差別」だと規定することはできる。</p>
<p>　しかし、これは<a href="http://han.org/blog/2010/02/post-128.html">新保先生の定義</a>と同じで、識別性が低すぎます。訴えがあればなんでも「差別」ということだったら、逆差別の訴えすら「差別」ということになってしまう。構築主義は価値中立ですから、差別撤廃運動からのクレイムも、歴史修正主義からのクレイムも、同じ枠組みで捉えます。</p>
<p>　構築主義は自明視されている因習を相対化したり、実践的なダイナミズムを記述したりするのに有効ではありますが、反差別の実践そのものには残念ながらあまり役に立たないのですね。</p>
<p>&nbsp;　たとえば、前回も例に出した朝鮮学校の高校無償化除外問題を考えてみましょう。</p>
<p>　（1）朝鮮学校だけを除外するのは差別だという異議申し立て（クレイム）が起きる、（2）クレイムが周囲に影響を与える。例えば、差別か差別でないかといった論争が広がる、（3）論争を経て、クレイムは正当だという理解が広がり、朝鮮学校除外は「差別」だと理解されるようになる。もしくは、除外は問題なしとはいわないまでも合理的だという理解が広がり、朝鮮学校除外は「仕方がない」と理解されるようになる。（4）さらに別のクレイムの発生に続く。</p>
<p>　今はちょうど構築主義的なプロセスが進行中で、上の段階でいえば2の途中にあります。</p>
<p>　クレイムの内容は：</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>「朝鮮学校だけを除外する根拠がない。差別だ」<br />「子どもを人質にとる卑劣な政策だ」<br />「子どもの権利条約、人種差別撤廃条約に抵触する人権侵害だ」</p></blockquote>
<p>　クレイムへの反論は：</p>
<blockquote style="MARGIN-RIGHT: 0px" dir="ltr">
<p>「制裁措置をやっている国の国民だから除外して当然」<br />「北朝鮮という国は不法国家。関係する学校とか施設とかはお付き合いをしない」<br />「反日教育に何で日本人の税金を使うの？」&nbsp;</p></blockquote>
<p>　現時点ではどちらが優勢になるか、まったく予断を許しません。構築主義は、このどちらの立場にとっても、自説を補強する材料にはまったくなりません。坂本さんがいうように、差別問題をめぐっては、つねにこの種の論争（差別か、差別でないか）が発生しますので、構築主義がいかに役に立たないか、理解できると思います。</p>
<p>　ただ、構築主義の立場からいえることが一つあります。<strong>トラブルが発生しないかぎり、人々はそこに問題があることにすら気づきません。トラブルこそ社会問題の所在を示す</strong>のです。</p>
<p>　これまでにも、朝鮮学校だけを行政サービスの対象外とする措置はたくさん採られてきたにもかかわらず、今回ほど話題になったことは少ない。今回はわかりやすい人権侵害の構図であったおかげか、大きなトラブルになっているわけです。その結果、良くも悪くも、朝鮮学校に関心を持つ人が増えている。</p>
<p>　朝鮮学校からのクレイムを支持する人々にとっては、いま現在は不愉快だし、少ない資源を動員しながら論争を有利に導く活動もしなければならないけれども、おそらく、この「トラブル」は、先々、必ずしも悪い方向には振れないだろうと思います。</p>]]>
        
    </content>
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    <title>ひと休み</title>
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    <id>tag:han.org,2010:/blog//1.306</id>

    <published>2010-03-01T01:48:41Z</published>
    <updated>2010-03-01T02:42:07Z</updated>

    <summary>（1）連載について 　しばらく差別論シリーズを書いてきましたが、そろそろ終わりに...</summary>
    <author>
        <name>mskim</name>
        
    </author>
    
        <category term="雑談" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://han.org/blog/">
        <![CDATA[<p>（1）連載について</p>
<p>　しばらく差別論シリーズを書いてきましたが、そろそろ終わりに近づいてきました。後半、息切れして手を抜いた感アリアリですが、まぁあんなもんでしょう（笑）。</p>
<p>（2）近況</p>
<p>　昨日、某学会の関西地区研究会に参加してみました。「日本における民族排外主義団体の最近の活動について」と題した在特会のレポートに対して、「社会心理としてはー」が口癖の学会理事が、朝鮮学校に問題があるからではないかと平気でコメントしていました。正気か？</p>
<p>　後の質疑応答でその質問について「不愉快だ」と言及したところ、よほど納得いかなかったのでしょう、終了後の飲み会の席でもわざわざぼくの席まで来て、同じこと（朝鮮学校に問題があるのでは）を聞いてきました。朝鮮学校についての誤った知識を修正してあげても、ヘイトクライムの被害者に問題があるという主張は非論理的であるといくら説明しても、理解の範疇を超えていたようで、「社会心理としてはー」をまくらに同じ主張を繰り返すばかり。しまいには、同席していた他大学の院生に教え諭される始末。これで、「多文化◎◎学会」というのですから、暗澹たる気持ちになりました。</p>
<p>　っていうか、二回りも年上の先生を叱り飛ばして自己嫌悪。こういうところはコリアンだな。</p>
<p>（3）コメントへのリプライひとつ</p>
<p>　ぼくは「コメントは当人に届けるのが最低限のルール」と考えている旧世代のネットユーザーなので、トラックバックすら届けてくれないコメントには、原則としてリプライするつもりはありません。</p>
<p>　が、たまたま見つけたこのエントリー。<a href="http://lmnopqrstu.blog103.fc2.com/blog-entry-9.html">http://lmnopqrstu.blog103.fc2.com/blog-entry-9.html</a>　たいへん論理的な批評です。面白かったので、ここに紹介します。</p>
<p>　批評の内容には、実は、まったく反論はありません。まったくその通り、と思います。にもかかわらず、痛い批判を食らった、とはまったく感じない。そこがまた面白い。</p>
<p>　どうしてそういうややこしい事態が発生するのかといえば、このエントリーとぼくのエントリーを矛盾なく接続するロジックがあるから。この批評を読んで、ぼくはやっぱり社会学者だったんだなと実感を深めました。</p>]]>
        
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