2012年11月アーカイブ

 前回の記事では、移民の中には、自ら「モデルマイノリティ」と呼ばれたがる人たちがいることを取り上げました。

 その理由として、「マジョリティの価値観を習得すればマジョリティに仲間入りできる」と考えてしまう場合のことを紹介しましたが、それですべて説明できたわけではありません。

 というのも、自らある種の「モデルマイノリティ」になろうとする生き方を選択するマイノリティは、移民一世だけではありません。四世、五世が生まれつつある在日コリアンの中でもよく見かけますし、むしろマイノリティ一般に広くみられる行動様式だからです。

(3)「意識の高いマイノリティ問題」(業績主義と公正世界への信念)

 人を評価するとき、年齢、性、人種・民族、家柄等の個人の能力や努力によって変えられない生得的要素を重視する立場を「属性主義」といいます。逆に、個人の努力と能力、およびその結果である業績といった獲得的要素を重視する立場を「業績主義」といいます。

 マイノリティとは、属性主義によってライフチャンスを相対的に剥奪されている人々のことだ、という考え方があります。つまり、人と同じ業績を達成したとしても、その属性によって評価を制限され、相対的に低い地位にしかつけない人々を指してマイノリティというのだ、というわけです。

 じじつ、マイノリティの中には、本人にはどうしようもない属性よる不利に直面し、それを克服するために、一倍の努力で社会的地位を達成しようとする人が少なくありません。属性主義による不利益を業績主義によってカバーしようとする生存戦略ですね。

 マイノリティが持ち前の能力をいかしながら、人一倍の努力で逆境を克服して行く姿は、それ自体が感銘を呼び起こすものであるため、数多くの物語を生み出してきました。王貞治やジダンを例に出すまでもなく、努力と能力で不利益を克服したマイノリティを皆さんも何人か知っていることだと思います。マイノリティが業績主義への強い志向性をもつことは、ある意味で《美しい》と評価されうる現象だともいえます。

 ただし、問題があるのは、その業績主義という理想を信奉しすぎて、属性主義に基づく差別を「ない」ことにしてしまうような場合があることです。あるいは、差別があることは認めつつも、個人の努力によってつねに克服可能なものであるとみなすことで、差別の責任を被差別者の側に負わせる場合があることです。

 例えば、ジョージ・ブッシュ大統領のもとで国務長官などを務めたコンドリーザ・ライスは、「実力さえあれば特別な優遇措置は必要ない」というスタンスで積極的な差別撤廃策に反対しています。また、ニューズウィーク誌のインタビューに答えて次のように語ったこともあります。

「人の2倍努力しなければならないなんて、ヒドイとか間違っているとかいう人もいるけど、それは違う。単に、人の2倍努力しなければならないだけ。」

 じつにマッチョですね。小さなころから天才少女ともてはやされるだけの素養を生かして政権中枢にまで上り詰めた実績に裏付けられているだけに、相当に堅固な信念のようです。

 フィフィさんのツイートの中にも、同種のマッチョな要素がみられます。自分は努力によって苦労をはねのけて今の地位を築いた。通名を名乗って出自を隠している在日コリアンあたりは甘えるな、というご主張です。

「私は12年間日本の教育制度で学んだから留学生としてでは無く、日本の学生と同額を払って大学に通った。それでも容姿が外国人だから就活では外国人受け付けてませんと門前払いも何度か。それでも実力の無さと受け取って留学して再度就職に挑んだ。都合よく外国人と日本人使い分ける連中とは苦労が違う」

「恩恵を受けているなら、文句を言うな。文句を言いながらおねだりすれば、それは"たかり"と言われても当然。プライドがあるなら自らを偽るな。」

 埼玉大学の福岡安則さんは、このような生き方を「個人志向」タイプと名付けて次のように特徴を整理しています。(福岡安則『在日韓国・朝鮮人』[中公新書:96-97頁])

 このタイプの中心課題は、個人主義的な意味合いで「自己の確立」を達成することであり、「個人的成功」の追求のかたちをとることが多い具体的には、社会的「移動」によって、差別的評価から自由になることをめざす。...(中略)
 彼ら/彼女らの典型的な生活史をみるとき、特徴的なのは、自己自身の能力に一定の自信をもって育ってきたということである。それゆえ、日本社会に在日韓国・朝鮮人として生きることでの違和感や葛藤を体験しても、それが自我にとってのトラウマになることからは免れている。

 ようするに、自分の才覚に自信のあるマイノリティは、「努力すれば報われる」と信じることで、民族的な劣等感を免れる場合があるということですね。才能があると自覚しているマイノリティにとって、魅力的な生き方の一つではあるでしょう。《才能のない人々》を切り捨てているという自覚をもたないかぎりは。

 「努力すれば報われる」に代表される、世界は正しく動いているはずだという考え方を「公正世界信念」といいます。公正世界信念は、「差別は差別される側に(も)責任がある」のような「犠牲者非難」を生じやすいことが知られています(詳細は下記の記事を参照)。


 民族的な劣等感を免れたいがために、「努力すれば報われる」という公正な世界を信じ込み、その信念を脅かす無実の犠牲者を「ないもの」とみなしたり、「差別される側に責任がある」と考えてしまったりする。それは、じつに悲しい不正義だといえないでしょうか。

 ぼくとしては、移民や民族的マイノリティが、そもそも民族的劣等感などもたずに、ただまっとうに生きていける社会が到来することを願うばかりです。

 第1回の記事では、保守的な移民一世がその社会にすでに定着しているマイノリティに対して排外主義的な暴言を投げかける現象を紹介しました。

 しかし、保守的な人物であっても、かならずしも排外主義的な暴言を発するとはかぎりません。各種の社会調査によると、政治的に保守的であることと、異文化集団に排外主義的な態度を持つことの間には、小さくない相関関係はあります。しかし、両者をイコールで結べるほど高い関連ではないのです。

 わかりやすい例を出すと、排外主義的な保守系政治家はめずらしくありませんが、逆に、外国籍住民への差別解消に尽力している保守系の政治家も少なくはありませんね。保守と排外主義は、基本的に別の次元の問題なのです。欧州では、反排外主義こそが保守本流とみなされることも少なくありません。

 だとすれば、「保守主義的な移民一世が社会に情報を発信する資源を手にしたとき」に「すでに定着しているマイノリティに対して排外主義的な暴言を投げかける」という命題は、前半と後半をつなぐ論理に欠落があることになります。

 ということで、今回は、なぜ保守的な移民一世が排外主義的になる傾向があるのかについて、欠落した論理をつなぐ仮説(の一部)を紹介していきます。

(2)「《モデルマイノリティ》問題」(「《名誉〇〇人》問題」)

 米国に「モデルマイノリティ」という言葉があります。マイノリティというと、社会的地位が低く犯罪率も高いというイメージがありますが、「中には努力して社会的に成功している賞賛すべきマイノリティだっているじゃないか」と、日系などのアジア系移民を賞賛して名づけられた言葉です。

 単純に理解すれば、アジア系としては褒められて悪い気がしないと思われるかもしれません。しかし、「モデルマイノリティ」という言葉は、本質的に、「理想的でない厄介者のマイノリティ」の存在を前提としています。

 つまり、「マイノリティとして不利な地位にあっても、ちゃんと頑張って社会的に成功している民族集団もいるじゃないか。それに対して、黒人、先住民、メキシコ系は...」という差別的な主張を正当化するために、「モデルマイノリティ」という言葉は使われることが多いのです。

 差別を都合よく正当化するために利用されるわけですから、「モデルマイノリティ」などと呼ばれてうれしいはずがありません。また、アジア系が一定の社会的地位を達成しなければ、「モデルマイノリティのくせに努力しなかった」と非難されるネジレ現象すら起こったりしますので、当事者としてはけっしてありがたい呼称ではないのです。

 にもかかわらず、移民の中には、自ら「モデルマイノリティ」と呼ばれたがる人たちもいます。(a)自らの努力と能力によって一定の社会的地位を達成したと思っている移民一世、(b)マジョリティの価値観を習得すればマジョリティに仲間入りできると考えている保守的なマイノリティ、にその傾向が強いようです。

 このうち、(a)については次回以降で取り上げることにします。ここでは、(b)の代表事例だと思われるフィフィさんのツイートを紹介しましょう。

「お世話になってるなら、せめてその家のルールにそって仲良く暮らしましょうよ。ってこと。文句が多いと追い出されちゃうよ。で、それはあくまであなたのお家で私が居候したさいも同じように扱ってくれますか?って前提。郷に入りては郷に従い」(2012年11月15日)

「私なりに外国人が日本とどう接することで上手く共生出来るか考察してツイしてるの。その度に誤解をされ批判も受けますが、一番不思議なのは、日本に嫌悪感を持つ外国人がその意見に理解を求めてくる事。日本を愛せない外国人を日本人も歓迎する訳ないじゃない。」(2012年3月16日)

 これらは、自ら「モデルマイノリティ」を志向する人々の代表的な言説であるように思われます。自分たちは「居候」であり、がんばって日本人に歓迎されるべく日本を愛さなければならない。マジョリティの価値観を忖度し、それに適合的に生きなければならないというロジックなのですから。

 いや、そういう考え方自体はべつに責められるべきものではありません。むしろ、ただでさえ摩擦の生じやすい異文化関係なのですから、お互いに譲れるべきところは譲りながら、誤解を避ける努力をするべきでしょう。それが誰も傷つけないかぎりにおいては。

 しかしながら、この二つのツイートは、いずれも、誤った情報に基づいて朝鮮学校に対して攻撃的なツイートをしているときに投じられたものであることに注意が必要です(前回の記事を参照)。間違った情報をもとに責められれば、誰しも反論したくなるもの。それを、「日本に嫌悪感を持つ外国人」などと決めつけていますね。

 みずから「モデルマイノリティ」を買って出ようとする者は、「モデルマイノリティ」という概念が内包している差別性をも内面化してしまいます。それが事実であればまだしも、偏見に満ちた架空の「ダメなマイノリティ」を創りだしてしまう場合すらあります。


 自分が「そのような外国人」とは違う「モデルマイノリティ」だと思われたいとき、かりに「そのような外国人」の物語がデマでしかなかったとしても、それを真に受けて批判するという現象が起こるわけです。

 以上が、「保守主義的な移民一世が社会に情報を発信する資源を手にしたとき」に「すでに定着しているマイノリティに対して排外主義的な暴言を投げかける」という命題を解き明かすロジックの一つです。

 ところで、みなさんは、自分がいい子になりたいために先住のマイノリティを攻撃する保守的な移民一世をけしからんと思いましたか。それとも、移民はいい子にならないと生きていけないと思い込ませてしまった社会がけしからんと思いますか。ぼくはどちらかというと後者ですね。

 本題に入る前に、素材となるフィフィさんのツイートを整理しておきましょう。というのも、フィフィさんは関連のツイートをほとんど削除してしまっていますので、簡単にはアクセスできない状況になっているためです。

 本稿では、favstar.fmに載ったツイート、すなわち、リツイートされたりお気に入りに入れられたりしたことによって、《たとえ削除されたとしても公共性が生じたツイート》を題材として扱っていきます。

 出発点となったのは、「田中眞紀子大臣、次は朝鮮学校無償化に意欲」というニュース記事でした。


 「ってことは、インターナショナルもインディアンスクールも中華系の学校も無償化されないと納得いかないんじゃ?てか、日本の私立学校は学費払ってるよね?」「ウチの子はインターナショナルスクールじゃないけど、日本で外国語学校に通ってたけど、毎月学費は納めてたよ?」という持論を述べたものです。

 しかし、これはフィフィさんの完全な勘違い。事実は、「条件を満たした他の外国人学校などはすべて就学支援金が支給されている一方で、朝鮮学校だけが『慎重に審査している』という名目で長期間にわたって除外され続けている」という状況です。それを、朝鮮学校だけが学費を払わなくてすむようになるのだと思い込んでいるわけですね。(「朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A」参照)

 これに対して、朝鮮学校関係者や良心的マジョリティから反論が加えられますが、フィフィさんはカンチガイを修正しないまま、すべて撫で斬りにします。いくつかをピックアップします。


 また、「朝鮮学校だけが日本政府から補助を受けてないのは日本の教育基本法6条・学校教育法1条に定める「法律に定める学校」には該当しないからなんです」という考えを述べてもいます。


 いわゆる「一条校」ではないから補助の対象になっていないのだというのですが、これもフィフィさんの事実誤認。実際は、各種学校の外国人学校なども「高校無償化」の対象となっており、したがってフィフィさんのお子さんも、通っておられる外国人学校を通じて就学支援金を受けているはずです。(「朝鮮学校「無償化」除外問題Q&A」参照)

 ここで興味深いのは、どうしてこれほど明瞭なカンチガイを7か月ものあいだ修正することなく繰り返すことができるのかということです。これはおそらく、すでに事実認識の問題ではなく、信念の披瀝だと思われます。それがどのような種類の信念のか、次回以降の連載で考えていきたいと思います。

 本連載の観点では、次のツイートも興味深いです。「私が在日外国人の制度について問題提起するたび、いつも"在日"という表現で誤解されるけど、在日外国人って私も含めてるし、一部の外国人が対象ではないんだけどな。在日外国人として日本政府の外国人に対する制度に意見することがそんな特別なことか?」

http://favstar.fm/users/FIFI_Egypt/status/267596885106233345

 朝鮮学校だけを狙い撃ちにした差別政策が議論になっている以上、そこで「在日」といえば当然のごとく在日コリアンを指すことになるわけですが、フィフィさんには「朝鮮学校だけを狙い撃ちにした差別政策」だという理解がない様子です。居住国の歴史的文脈に対する配慮がないという意味で、きわめて保守的移民一世らしいツイートです。

 次に、人権擁護救済法案に言及したツイート。「人権擁護救済法案をメディアが取り上げて議論しない事に不自然さを感じる。」


 フィフィさんは常々、日本の国際報道、とりわけ中東に関する報道は量も少なく内容も偏向していると指摘しています。その指摘は客観的事実に基づいており、検証可能です。しかし、このツイートはそれとは異なる「陰謀論」ですね。ネオナチやネット右翼が得意とするアレです。

 フィフィさんといえば、ご自身がタレントとしてメディアの舞台裏を知っているうえ、国際報道のバイアスにも造詣が深いわけで、人一倍メディアリテラシーに優れた人物であると思われます。にもかかわらず、このように安易な「陰謀論」を口にしてしまうのはなぜか。それも今後、検証していきましょう。

 ネオナチといえば、昨日フィフィさんは次のようなツイートをしたそうです。速攻で削除したとのことですが、どうやら「ホロコーストは自作自演」だと思っておいでのようです。反ユダヤ感情は隠しようもないですね。

中東に限らず、世界的に見てそう捉える方も多いですね。RT @seiichi000: @FIFI_Egypt すみません、私は、ホロコーストはユダヤ人による自作自演の作り話だと思ってるんですが、エジプトや中東では、どうとらえられてるんですか?

 関連のツイートとしてこちらも。わかりにくいですが、反ユダヤ感情の発露です。


 次のツイートも重要です。移民や民族的マイノリティはどう生きるべきかに言及したものです。「お世話になってるなら、せめてその家のルールにそって仲良く暮らしましょうよ。ってこと。文句が多いと追い出されちゃうよ。」


 これは、世界中の自発的移民一世のあいだで頻繁に語られる内容だといっていいでしょう。ところが、フィフィさんはそれが二世以降にも同じ次元で通用すると思いこんでいる。このあたりの世代対立、新旧の移民対立は、移民社会を理解するうえでの代表的なテーマです。

 最後に、猛烈に被害者アピールをしたツイート群を。ようするに、在日コリアンが水面下でフィフィ暗殺をもくろんでいる、と示唆しているわけです。日本で生まれ育った身としてはほとんど妄想に近い「陰謀論」であるように感じられます。


 ただ、自分から攻撃的に先住の民族的マイノリティを非難しておいて、いざ反論を受けたら強烈に被害者アピールをするというのは、おそらく、移民という不利な立場にあって言いたいことを言うためにフィフィさんが身に付けた生存戦略の一つなのかもしれません。苦悩がしのばれます。
 日本で議論される「移民論」というと、受け入れ態勢の改善に触れないままの安易な受け入れ論であったり、一人でも受け入れると社会秩序が崩壊するといわんばかりの閉鎖論であったり、どうにもリアリティに欠ける極論が少なくありません。おそらく、《移民》に対する具体的なイメージが乏しく、渡日後にどのようなことが発生するかについての理解を伴っていないことが理由の一つなのでしょう。

 そこで、実際に日本で暮らしている移民のリアルな語りから、移民社会の現実(の一端)を学んでみたいというのが今回からの記事の目的です。題材としては、いまネットで話題(次の3本のニュース参照)の移民タレント、フィフィさんのツイートをお借りしたいと思います。


(1)「移民一世vs.先住マイノリティ問題」

 上に紹介した記事を読んで、「エジプト関係であれだけ知的でバランスのとれた言論を展開していたフィフィが、なぜネット右翼同然の排外主義的な暴言を振りまいているのか」と不思議に思われた方もいらっしゃるかもしれません。

 しかし、移民がその社会にすでに定着しているマイノリティに対して排外主義的な暴言を投げかけるケースは、世界の移民社会の中でかなり広範に観察されています。新旧の移民が連続しているとき、普遍的に起こる現象といえるかもしれません。

 例えば、カナダにやってきたアジア系移民が、「欧州語だけがなぜ特権のように重視されるのか。多文化主義なんかで飯は食えない。まず、機会の平等の確保と人種差別の撤廃だ」といって先住の民族的マイノリティを攻撃する事例。アメリカで小売店を経営する移民一世が「黒人は怠けて働かないくせに政府に文句ばかりいって、国庫にたかっている」などといって黒人を差別する事例。日本に東欧から来た女性が、「日本人女性は甘えている。日本は世界で最も平等な国なのに」とフェミニストを非難する事例。

 この種の現象は、(a)人権状況が相対的に劣悪な国からやってきた移民一世が、出身国を準拠集団としながら、居住国のマイノリティを批判しようとするとき、(b)移民一世の学歴が低く、居住国の歴史と文化を理解する資質を備えていないとき、(c)保守主義的な移民一世が社会に情報を発信する資源を手にしたとき、に生じる傾向があるようです。

 ただし、多くの移民現象は(a)と(b)の2特性を伴いますので、実質的には(c)が重要です。「保守主義的な移民一世が社会に情報を発信する資源を手にしたとき」――フィフィさんのケースは、まさにこれに当たるといえるのではないでしょうか。

 フィフィさんは、持ち前のバイタリティと努力で女性タレントとしてマスメディアで発言するチャンネルを手に入れ、しかもエジプト問題では知的タレントという側面を開花させました。政治的発言を行うための資源は十分にそろっています。

 そして現在、フィフィさんは排外主義言説でネット右翼のアイドル的な役割を担うことに成功しています。タレントとしては言論も売り物である以上、買ってくれる人たちに届くように商品化することになりますので、フィフィさんのマイノリティに対する暴言は今後もエスカレートすることはあっても、やむことはないでしょう。

 そこで問われてくるのは、マジョリティの姿勢です。

 例えば、カナダでは、「多文化主義なんかより人種差別撤廃を」というアジア系の主張に対して、民族的マイノリティはもとより、マジョリティであるイギリス系からも強い批判が浴びせられました。

 いわく、ケベック問題などがあったからこそカナダは多文化主義政策を採りいれたわけであり、新たな移民も言語政策などでその恩恵に浴している。なのに、歴史へのコストも支払っていない移民が多文化主義を非難するのは制度へのタダ乗りのようなものだ、というわけです。

 もっとも、一部のイギリス系の右翼からは、アジア系の主張を利用する形で、「民族的マイノリティを重視するのは逆差別だ」という言説が出てきたりもしました。ちょうど、フィフィさんの発言を利用して、ネット右翼がコリアン差別を正当化しようとする構図に似ています。

 しかし、カナダ全体としては、多文化主義の方針を一貫して堅持しています。堂々たるものといっていいでしょう。

 一方の日本。今後、フィフィさんのように発言力を持つ保守的移民が増えてきたとき、その口から飛び出す排外主義的言説に、みなさんは、どう対処しますか。それをきちんと批判しますか。それとも、便乗して排外主義の流れに乗りますか。

(次回からは、フィフィさんの個々のツイートの内容をもう少し具体的に取り上げながら、移民社会に関する現実を学んでいきます。)

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