2011年12月アーカイブ

学術研究
1研究環境の整備
2専門の研究活動
3著書・論文の刊行
4学会発表
5学会の運営
6研究費補助金の申請
7サバティカル
8専門の研修への参加
教育
9カリキュラム・開講科目表の編成、時間割作成
10学生ニーズの把握と教育の企画
11ガイダンス、一泊研修
12履修指導
13学生相談、クラスミーティング
14オフィスアワーや個別指導
15メール、WBT、LMSによる課外指導
16ブログやSNSによる学生との一体感醸成
17授業担当
18研究指導
19学力の把握と学生管理
20成績評価
21教育内容・方法の工夫
22授業計画の作成
23教材研究
24教材作成
25教育機器の管理
26実習先との連絡・調整
27学生授業アンケートの実施
28FD研修への参加
大学運営・管理
29職場環境・人間関係の改善
30人事の管理
31受験生の選抜、入試作問
32学科、学部、大学行事
33教室会議・専攻会議の活動
34ワーキンググループの活動
35委員会の活動
36教授会の活動
37予算の立案
38将来構想の企画
39各種情報の収集と分析
40広報内容の検討
41パンフレット等の作成
42ホームページの管理
43補助金の申請
44自己評価報告書の作成
45学内各機関との連絡・調整
46入学式、卒業式
47人権研修への参加
社会活動
48地域との交流
49業界、企業、団体との交流
50講演、セミナー等での講師
51マスメディア等への露出
52ブログ等による社会還元
53審議会、研究会などの活動
営業活動その他
54オープンキャンパス
55高校等への出張講義
56高校訪問
57進路説明会
58保護者懇談会
59ホームカミングデイ
60サークルの顧問
61入試監督業務
 .
 左の表は、かつてぼくが大学教職員組合の仕事をしたとき、大学教員の「業務」の範囲を示すために作ったものです。労使交渉の中では、これらのうち、どこまでが俸給の範囲内であり、どこからが手当ての対象なのかについて話し合われました。

 まぁ、さしあたってそれはどうでもよくて、今回のテーマは表の16と52です。すなわち、ブログやツイッター、SNSの執筆は大学教員の「業務」(所属組織からの報酬を対価とする労働)なのかどうか。あるいは、それに対して、大学当局に編集責任、監督責任があるのかどうか。

 一般の企業においては、たとえ職員のブログが営業上のメリットをもたらしたり、企業イメージを向上させる広報上のメリットが生じている場合でも、業務命令がないかぎり、ブログの執筆は「業務」扱いにはならないでしょう。むしろ、就業時間内に執筆していれば、就業規則によっては職務専念義務違反に問われますし、会社の資産(PCやネットワーク)を不当に流用したということで横領扱いされることすらあります。ブログだけでなく、表の48〜53の「社会活動」は、いずれも企業では就業規則によって禁じられていることが多いです。職務専念義務を脅かす活動であると考えられているためでしょう。

 ところが、大学教員の場合、これらの「社会活動」が教員評価の査定項目に挙げられていますし、第三者機関による認証評価でも審査項目に数えられています。いずれも、禁止されるどころか、教員の業績として評価され、積極的な活動を奨励されています。

 では、所属組織を明らかにしたうえで、ブログを執筆するという行為は、所属組織における「業務」といえるのか?

 例えば、表の16の用途であれば「業務」としての色彩が強く、52(を含めた「社会活動」全般)は「業務」ではない、という考え方があるかもしれませんね。なぜなら、「社会活動」は研究者の倫理的責務として行うものであって、教員の仕事としてやるものではないというのが一般的な見解だと思われるためです。また、「社会活動」が教員評価の査定項目に含まれているのも、教員としての職務を遂行する能力をあらわす指標のひとつだからであって、「業務」の一部だからというわけではないでしょう。「社会活動」をいっさいやらなかったからといって、評価が下がるわけではないのはそのためです。

 ただ、実際にはそうキレイに線引きできるわけではありません。なぜなら、52の用途で運用されているブログであっても、実名で運用されていたり、学生たちにURLが周知されている場合、16の機能を併せ持ちますし、16の用途で運用されていても、そこに書かれる記事は、学者として、知識人としての見識の披露であったりします。

 つまり、大学教員のブログは、「たとえ私的な見解を綴ったものだとしても、大学の業務の一環」とみなすこともありうるし、逆に、学者であれば所属組織から依頼を受けて「私的な言論」をブログに書くことだってあるわけです。

 とはいえ、一般の社会通念からいえば、会社の業務で私的な言論を公表するというのは考えにくいかもしれません。会社の業務であれば、すべては会社を代表しての言動ということになりますからね。そのため、部下は上司の監督に服さなければなりません。部下のミスは、監督責任をもつ上司が謝ってオトシマエをつけるということも慣習的に行われています。

 でも、大学と一般の企業では、ずいぶん話が違います。

 授業を例に取りましょう。上の表でいえば、13〜25が授業に関連する業務です。このうち不可欠な業務だとされているのは、17、18、20、22、23の5つだけで、残りの8つは教員の裁量に任されています。13〜25を全部やっても給料は増えないし、最低限の5つしかやらなくても責められません。

 極端に言い換えると、賃金が支払われる業務(17、18、20、22、23)だけでなく、賃金不払業務(それ以外の8つ)を教員に自発的に負わせることで大学の授業は成り立っている、ということです。

 賃金不払業務については、さすがに業務命令で強制的に従事させるわけにはいきません。教員が自ら、個性と熱意と創意工夫の発露として従事するものでなければならない。教員のプライベートな努力(≒裁量)によって、学生たちは反射的に知的メリットを享受するという構図です。そこに、「業務」でありながら、「私的」な要素が入り込む余地が生まれます。

 授業だけでなく、大学教員の業務には公私混同が幅広く観察されます。クラスミーティングのために教員がポケットマネーを支出するとか、クラブ活動の顧問として学校行事のためにマイカーを走らせるというのはよくある話です。逆に、就業時間中に、業務かどうか明白でない社会活動を行ったりもします。そしてそれが業績の一部とされたりします。

 公私(業務かどうか)の区別を明確にしようとすれば、確実にパフォーマンスの低下を招きます。それくらい、大学では、教員の私的な要素が重要な働きをします。教員はプライベートなお金と時間と労力を遣って教育や研究に携わり、その成果を還元するために社会活動を行っているわけです。

 そろそろ、上の質問に答える準備が整ったと思います。

 大学教員が所属組織を明らかにして執筆した文章であっても、大学当局に編集責任、監督責任があるとはかぎりません。そもそも、大学にとって広義の「業務」とみなしうる言動であっても、それは教員のプライベートな知的活動から大学が反射的に利益を得ているだけ、という側面があるくらいなのですから。

P.S.

 ただし、前表の17、18、20、22、23であれば、大学の権威筋が監督権限を行使できます。つまり、教員が授業中に問題発言をして、学生から大規模なクレームが寄せられたような場合であれば、改善を指導したり、場合によっては何らかの懲戒の対象とすることができます。

 ある言動が「反社会的」だからという理由で非難されることはめずらしくありません。刑法に触れるような行動はもちろん、カルトなどはたとえ違法な行為を行っていなくとも「反社会的」な存在だとして批判されることがあります。ツイートの内容が倫理的に逸脱しているということで「反社会的」だと抗議される場合もあります。

 でも、「反社会的」とはどういうことを指すのか?

 言動の性質自体から「反社会的」であるかどうかを確定するための客観的な定義は、この世に存在しません。概念的には定義できないわけではないのですが、あまりにもあいまいで流動的な要素を含んでいるため、操作的には定義できないのです。

 例えば『新明解国語辞典』(三省堂)にはこう書かれています。

はんしゃかいてき(ハンシャクワイテキ)【反社会的】
その社会の法秩序にあえて反抗したり道徳上の社会通念を故意に無視したりする言動をとることによって、社会の他の成員にまで好ましくない影響を与える様子。

 しかし、ここでいう「法秩序」や「道徳上の社会通念」というのは、社会によっても、時代によっても変化します。しかも、人によっても判断が分かれますので、いつでもどこでも誰にでも通用する「これが反社会的な言動だ」という基準は、存在しないわけです。

 社会によって基準が違うというのは、例えば、東京都知事が「中国人はDNAレベルで残虐」というコラムを新聞に書いた件ですが、ヨーロッパであれば即、政治生命が終わるほどの大きな問題発言です。国によっては確実に刑法に問われるたぐいのものでしたが、日本ではごく小規模な抗議があっただけでした。

 また、時代によって基準が変化するというのは、例えば、2003年時点でディクシー・チックスが「テキサスから大統領がでたことを恥ずかしく思う」とイラク侵攻を批判したことは、当時のアメリカ社会においてきわめて「反社会的な発言」だったため、様々な迫害にあい、微妙な謝罪に追い込まれました。しかし、2006年時点にはすでに「勇気ある発言」が賞賛されるようになっており、2007年にはグラミー賞の関連部門を制覇しました。これは、音楽活動だけでなく、政治的な活動を評価されてのことだというのが一般的な解釈です。

 ただし、定義できないといっても、もちろん、「反社会的」な言動がこの世に存在しないという意味ではありません。

 社会には規範というものがあります。それに反する言動に対しては何らかの負のサンクション(制裁、罰)が作用します。破った規範の性質によっては、嫌味をいわれるといった軽いサンクションを受けるだけのこともあります。それに対して、重大なタブーに触れたりすれば、極刑を受けたり村八分にあったりという非常に重いサンクションが及ぶこともあります。そういう重い負のサンクションの対象となるような言動に対して、一般に「反社会的」というレッテルが貼られます。

 つまり、「反社会的」かどうかを決めるのは、問題とされた言動の性質ではありません。その言動をめぐる社会の価値判断(規範)が「反社会的」かどうかを決めるのです。「反社会的な言動」というものが客観的に存在するわけではなく、社会の構成員の大勢が「反社会的な言動」だとみなせば、それが「反社会的な言動」になってしまうということです。

 だからこそ、何らかの出来事に対して、ネットで世論を醸成する運動にも意味がある。社会の構成員の大勢を納得させられれば、負のサンクションを発動できるわけですから。Joi Ito氏がいうEmergent Democracyは、こういう運動の理想的側面に注目した概念ですね(伊藤譲一「創発民主制」)。

 ただ、1990年代以降、日本において実際にネットの《運動》が奏功したケースを見ると、そのほとんどは「創発民主制」というより『排除型社会』を象徴するものばかりでした。包摂より排除が、許容より不寛容が、多様性より画一性が、日本のネットを支配してきた。言い換えると、マイノリティへのヘイトスピーチを放置するという不正義はまかり通っているのに、ちょっとした発言の言葉尻をとらえてネットイナゴが殺到する、いびつなイジメ空間であった、ということかもしれません。

 ネットイナゴの成功体験ばかりが蓄積されるというのは、まあ、言論にとって望ましい姿ではないでしょうね。

 2ちゃんねる全盛期とは異なり、近年は日本におけるインターネットの言論空間にもいろいろと明るい兆しが見えてはいますが、悪貨が良貨を駆逐してきた歴史を振り返ると、それに期待することは難しそうです。

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