2011年7月アーカイブ

1. リスク社会における「他者」

 東日本大震災は、日本に暮らすあらゆる人々に、様々な課題を突きつけたことだろう。複数の国家の狭間に生きる在日コリアンとしては、惨事に昂揚したナショナリズムの中で、「自分はどこに所属し、誰を守るべきか」という、実存的な問題に改めて直面することになった人も多いのではないだろうか。だが、アイデンティティの問題はひとまず措いて、ここでは、「リスク」をキーワードに、在日コリアン(およびそれを取り巻く日本社会)が直面している新しい課題について考えてみたい。

 「リスク」といえば、1986年のチェルノブイリ事故以降、現代社会を解読するキーワードとして、世界でもっとも注目を集めてきた言葉の一つである。

 例えば、社会学分野におけるリスク社会論の第一人者ウルリッヒ・ベックは、現代の産業社会は「階級社会」ではなく「リスク社会」であると主張している。階級社会において分配問題の争点を作り出していたのは「平等という理想」であった。それに対して、リスク社会では「安全性」こそが社会の基礎となり、社会を動かしている。言い換えると、「不平等」をめぐって連帯と闘争が繰り広げられた階級社会とは異なり、原発事故に代表される現代の新しいリスクの前では、「不安」をめぐって連帯とコミュニケーションが行われるというのである。

 なるほど、宮城県の東北朝鮮初中級学校では、総連系の有志によって運ばれてきた在日コリアンからの救援物資を避難中の日本人被災者と分けあい、さらに近隣の日本学校で焼き肉の炊き出しも何度か行われた。貧富の差や、国籍と民族の垣根を超えて、ともに被災の苦境と「不安」とを乗り越えようという実践だといえよう。

 だが、この「不安による連帯」は、必ずしも在日コリアンにとって幸運に作用するとはかぎらない。というのは、ひとは危険に曝されても、合理的なリスク意識を形成するとはかぎらず、むしろ不安にかられて非合理的な推論に逃げようとすることがあるからだ。ベックの表現を借りると、「危険が理解しがたいもので、その脅威の中で頼るものもないため、危険が増大すると、過激で狂信的な反応や政治思潮が広がる。こうした反応や政治動向によって、世間のなんでもない普通の人々を『避雷針』にして、直接に処理することが不可能な眼に見えない危険を処理することが行われてしまう。」

 ただし、「普通の人々」は、危険の存在を暴き立てるような行動(例えば原子力発電反対デモに参加するとか)をとることで一時的に「避雷針」として敵意の対象となるだけだが、行動とは無関係に属性によって恒常的に「避雷針」の役割を押し付けられる人々がいる。すなわち、「他者」である。「他者」とは、「われわれとは異なる存在」であることを示す排除の記号である。

 「他者」は、現代の新たなリスクを等しく共有しているにもかかわらず、しばしば「不安」による連帯に加わることを許されず、それどころか、リスクを生み出す害悪として「不安」の対象に貶められる。

 ベックはスケープゴートになりやすい「他者」の例として「ユダヤ人、黒人、女性、難民、異端者、共産主義者など」を挙げるが、日本では、「朝鮮人」が筆頭に加わることになろう。今回の震災後も、「阪神淡路大震災のとき、地震で、朝鮮人によるレイプ多発の事実と、放火説があります」「仙台市○○中学校が中国人・韓国人が7割の留学生らの心無い行動で避難所機能停止」といった差別デマを執拗に振りまく者がいた。

 だが、「他者」をリスクそのものとみなす非合理的な観念は、残念なことに、こうした一部の狂信的な政治思潮の保持者だけに流布しているものではない。朝鮮学校「無償化」除外問題をめぐって改めて明らかになったことは、日本政府こそが、在日朝鮮人を再生産するための教育機関を「リスク」としかみなしていないという事実であった。

 こういうと、「日本政府が在日コリアンを治安の対象としてきたのは植民地時代から一貫した政策ではないか」という反論があるかもしれない。なるほど、在日コリアンは過去一世紀以上にわたって、つねに日本における「他者」として苦悩と困窮と暴力を与えられてきた。

 しかし、いまや在日コリアンは、単なる「他者」ではない。もはや、「平等」をキーワードとした訴えだけでは説得力を持たない、「リスク社会における『他者』」なのである。スケープゴート化から自己防衛するためには、伝統的な「他者」への暴力に曝されているというだけでなく、リスクへの不安のヨリシロとして新しい暴力に曝されているという自己認識を確立すべきであろう。

2. 「他者」にとってのリスク・コミュニケーション

 ところで、震災後、日本国内では大いにナショナリズムが昂揚したにもかかわらず、内閣は不思議と支持率を落としたように見える。毒舌の専門家らがそろって適切だと評価した政府の決定にすら、マスメディアが激しく攻撃していたところをみると、おそらく、政府の行動の是非が問われただけでなく、震災や原発事故のリスクについて適切な情報を提供できなかったことで、市民に不安と不満を高じさせたことが原因の一つかと思われる。

 このエピソードからは、リスクの大きさを正確に評価して意思決定することも重要だが、それだけでなく、リスクの受け手に積極的に情報提供をすることで、必要以上に不安を抱く必要はないという合意を形成することも重要だということを学ぶことができる。こうした合意形成のことを、リスク・コミュニケーションという。

 リスク・コミュニケーションといえば、一般には、行政や専門家や企業が何らかの決定をする場合、その決定によって影響をこうむると思われる関係者に、リスクの性質や内容について情報を提供したりすることによって、合意形成を目指すことを意味する。いわば、優位な立場にある者が人々を怖がらせないようにする工夫、ということだ。

 しかし、「他者」の場合、話はまったく異なってくる。「他者」は、優位な立場にあるどころか、差別され、排除され、苦悩と困窮と暴力の対象となる人々だ。しかも、このリスク社会においては、多数派が「わたしはあの人たちとは違って安心だ」という感情を共有するために「他者」を排除するという現象まで発生する。リスク社会における「他者」とは、安心を脅かすリスクそのものだという役割を一方的かつ理不尽に与えられる存在だといえる。

 「ゼノフォビア」という心理現象がある。端的に「外国人嫌悪」と訳されるが、異文化集団を怖がったり、嫌悪したりする傾向のことだ。差別感情の一種ではあるが、よそ者を警戒するのは当たり前だと、正当化されがちなことが特徴の一つである。

 ゼノフォビアは根拠の不明な不安感情であるため、合理的な理由などなくとも成立する。例えば、日本国民を対象としたある調査によると、「日本で発生している犯罪の何割が定住外国人によるものだと思うか」という質問に対して、回答の中央値は20%であったという。ところが、正解は約1%である。つまり、半数の回答者は、定住外国人の犯罪性を真実の値の20倍も高く誤認しているということになる。しかも、回答者の14%は、日本の犯罪の半数以上が外国人によるものだと信じていた。日本人は、外国人に対して非現実的なまでの犯罪性をイメージしているわけだ。「他者」は、こうやって、「危険な存在」という役割を付与されるのである。

 しかし、その役割付与がいかに理不尽であろうとも、現代の「リスク」への恐怖に対して、「平等」や「人権」といった近代の市民的規範によって抵抗することはもはやむずかしくなっている。となれば、「他者」は、自分自身を「リスク」とする屈辱的な役割をひとまず引き受けた上で、そのリスクは不安に思う必要がないほど低く、そもそもリスクという役割を付与することが間違っているのだと多数派を説得しなければならない。これが、「他者」にとってのリスク・コミュニケーションである。

3. 在日コリアンのリスク・コミュニケーション

 前述した外国人犯罪と同様、在日コリアンを危険視する言葉は、ほとんどがデマに近い。あるいは、少なくとも合理的な根拠に基づくものだとはいいがたい。とはいえ、ただやみくもにデマだと抗議しても、情動の次元で不安に凝り固まっている人々を安心させることはできないだろう。

 そこで、この節では、リスク・コミュニケーションを実践する場合のヒントとして、朝鮮学校を「リスク」視する主張に対して、具体的に反論を試みることにしよう。

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 「反日教育をしている朝鮮学校に日本国民の税金を支出するなど国益につながらない。」

 この種の主張に対して「反日教育などやっていない」と反論をしても、あまり効果は上がらない。なぜなら、この種のデマは事実に基づいて形成されるのでなく、情動的側面が強いため、反証する事実を示すだけでは修正されにくい。しかも、「反日教育」というあいまいで都合のよいマジックワードが、あらゆる反論を無効化してしまう。

 デマに関する研究によれば、ネガティブなイメージを否定しようとするのではなく、むしろポジティブなフレームワークを与えることが有効だとされている。私の経験から具体的にいうと、「朝鮮学校は日本の国益につながっている」と反論すれば、デマに対して有効な打撃を与えるようだ。

 朝鮮学校の存在がどのように日本の役に立っているかといえば、以下のようなことが挙げられよう。

(1)朝鮮語話者の大量供給

 隣国との経済的、政治的な交流が不可欠である以上、隣国の言語を駆使できる人材は常に必要とされる。そうした人材を国家が自前で育成しようとすれば膨大な経費を国家予算から支出しなければならない。その点、朝鮮学校は大量の朝鮮語話者を継続的に輩出しているため、単純にその分の国家予算を節約することに寄与していることになる。しかも、2000年からの韓流を支えたドラマや雑誌の翻訳は、その多くが朝鮮学校出身者の手によるもの。韓流による経済効果は、朝鮮学校が支えたといっても過言ではない。

(2)誕生権経済のリクルート源

 これは朝鮮学校というより在日コリアン全体にいえることだが、1980年代に入るまでは非常に厳しい就職差別があったため、学歴にかかわらず一般企業に勤めることは非常に困難であり、その結果、在日コリアンは自ら起業するケースが多かった。

 統計の取り方(「自営」の定義)にもよるが、在日コリアン男性の5割から6割が自営業主である。この比率は日本人男性の2倍以上。いかに自営業に追い込まれてきたかわかる。

 しかし、裏を返せば、自営業のノウハウと知識と人脈を持ち、ベンチャー起業のリスクを果敢にとりにいける人材を、朝鮮学校は大量供給しているともいえる。国家の庇護に頼らない自由で不羈の企業人を朝鮮学校は輩出してきたとも表現しうる。グローバリズムが浸透しつつある中で、在日コリアンは貴重な生存戦略のモデルを日本に提供してきたのである。

(3)「民主主義の学校」の教材

 A.トクヴィルやJ.ブライスの言葉を受けて、「地方自治は民主主義の学校である」と論じられることがある。そのココロは、「地域共同体という身近な環境で身近なテーマについて民主的に解決する訓練を積まないかぎり、国家という巨大な機構を民主的に運営することは難しい」ということだ。

 その点、朝鮮学校は共同体内にある非常に身近な異文化集団である。これを安易に排斥しようとせず、利害を調整しながら上手に付き合うスキルを習得することができれば、日本の民主主義はきっと成熟の度合いを深めることができる。

 これは単に理念的な話ではない。ひとつ具体例をあげよう。

 移民の増加に伴って外国人に対する偏見が強まるという現象が世界的に観測されている。日本でも、外国人の多い地域ほど、外国人に対する偏見が強いことが複数の調査により明らかになっている。ただし、ひとつだけ例外があって、韓国・朝鮮籍者が多い地域ほどニューカマーを含む民族的マイノリティへの排外主義が弱いという現象が見られるのである。

 在日コリアンは、差別や不平等を自力で克服することにより、長年にわたって健全な市民生活を営んできた。その共生実践そのものが、日本社会に多様性への耐性を提供してきたのだと解釈できよう。これも、リスク・コミュニケーションである。

(4)継承語教育の世界的な成功例

 朝鮮学校が、継承語教育の世界的な成功例であることはよく指摘されるところだ。それは、グローバル化が進行する日本において、ニューカマーの子どもたちの教育のモデルともなっている。

 朝鮮学校は、在日コリアンにとっての資産というだけでなく、様々な民族的マイノリティにとっての資産だといえる。さらには、民族的マイノリティの継承語教育の機会を拡大することにより、日本社会の多様性維持というマクロなメリットに大きく貢献しているのである。

(5)マイノリティの人的資本

 民族的マイノリティは何重にも蓄積的に排除される傾向にある。「身分証明書を持っていない人は、社会福祉事業から排除され、選挙権を得ることもできず、合法的に結婚することもできない」(ルーマン)という具合だ。その結果、低い階層に据え置かれたり、スラムを形成して劣悪な住環境に置かれたりすることが少なくない。貧困は犯罪の温床となり、それがまた差別を正当化する根拠として用いられる。

 ところが、在日コリアンの場合、解放直後から日本人と同等の教育を達成してきた。教育達成が出身階層に依存することを考えると、これは世界的にも異例の成功例である。言うまでもなく、在日コリアンが日本人以上に努力をしてきた成果だ。

 ただし、さすがに解放直後の貧困状況では、朝鮮学校がなければ、日本人と同等の教育を達成することはむずかしかったであろう。朝鮮学校があったおかげで、在日コリアンは社会的に転落せずにすみ、それが結果として、在日コリアンの犯罪率を押し下げ、日本社会の統合性維持というマクロなメリットに大きく貢献したのである。

4. リスクではなくメリット

 祖国志向の強い在日コリアンであれば、「朝鮮学校の存在が日本のためになる」という発想そのものを嫌悪するかもしれない。また、「あなたたちの役に立っているのでいじめないでください」とでもいわんばかりのリスク・コミュニケーション戦略に、強い屈辱を感じる人も少なくはないだろう。

 しかし、そういう人に考えてもらいたいことが二つある。

 一つは、「移民はこの国の役に立つ」と信じている人ほど移民に悪感情を持たない(逆にいえば、「移民はこの国の厄介者だ」と信じている人ほど移民の排斥に賛成する)ということだ。この命題は、世界各国の調査で手堅く支持されている。

 たしかに、在日コリアンがこの国の厄介者だという信念は、まことに馬鹿げたものである。世界の民族状況を知れば、在日コリアンはむしろ「モデル・マイノリティ」と呼べる理想的な隣人であることがわかるはずだ。とはいえ、いかにナンセンスであろうとも、実際にそういう誤解と偏見が流布してしまっているなら、それを払しょくするために合理的な努力をせざるをえまい。

 もう一つは、朝連解散以降、在日コリアンは、実際に日本社会において「リスク」とみなされないように努力してきたという歴史だ。前述した通り、在日コリアンは、差別と不平等にあえぎながら、それを克服して日本人と相同の社会的地位を形成してきた。

 世界中の国家が民族的マイノリティにそれを望んで膨大な予算を支出しているというのに、在日コリアンは日本政府からそのための補助など受けることなく、独力で不利益を跳ね返してきたのだ。この地で立派に市民生活を営んできたということ自体、いくらでも誇ってよい民族集団の歴史なのである。

 問題は、在日コリアンがこの国で果たしてきた貢献について、日本政府はそれを正当に評価する視点を伝統的に持たないし、また、在日コリアンの側もそれを訴える運動戦略を採ってこなかったということだ。

 「人権」「平等」が分配の正義として通用した時代なら、「在外公民」として理不尽を訴えるだけで一定の改善は得られたであろう。だが、現代はリスク社会である。たとえ、根拠のない、偏見交じりの不安であろうとも、それを解消しないかぎり、理不尽な扱いも解消することはない。民族運動にもイノベーションが必要な時代である。そろそろ、在日コリアンはリスクなどではなくメリットであり続けたのだという事実を、自覚的に広く共有する戦略へと転換するべきであろう。

(注)本稿は、『人権と生活』32号(在日本朝鮮人人権協会発行)に寄稿した同題名のエッセイに若干の加筆、修正を行ったものである。

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