2010年11月アーカイブ

 朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国の局地的紛争を受けて、高木文科相と仙石官房長官が、それぞれ、朝鮮学校を無償化の対象とする方針を見直す考えに言及したという。

 なんと愚かなことか。人権侵害しか切れる外交カードがないとは、どんなならず者国家なのかといわざるをえない。もちろん、北朝鮮のことではない。日本のことだ。

 歴史を振り返ると、1950年代には、李承晩ラインをめぐる摩擦により、大韓民国のイメージは最悪に近かった。「劣等国が増長して暴挙に出た」といった植民地主義丸出しの罵倒表現が、連日、マスメディアや国会を賑わしたのだから、それも当然だろう。

 そうした世論を受けて、当時の日本政府はどうしたか。まだ日韓両国に正式な国交がなかったこともあり、日本政府は韓国に直接的な抗議をするのではなく、国内のコリアンを抑圧することで、韓国に対する外交カードに(あるいは憂さ晴らしで国民のガス抜きを)しようとした。

 つまり、李ラインで日本人漁民が拿捕・抑留されたことに対抗して、「日本に住む朝鮮人を全員、韓国に強制送還せよ」といった強硬論が国会で審議されたり、コリアンを微罪で逮捕した挙句、強制送還をちらつかせて大村収容所に収監したりしたわけだ。

 今回の日本政府のスタンスは、50年代当時と完全に同じ構図である。第一に、国内のコリアンに対する抑圧をちらつかせることで外交カードの不在を補おうとしている点において。第二に、その愚劣な発想が法的にも外交的にも妥当性を欠くという点において。

 朝鮮学校のみを無償化対象から除外することは、少なくとも法的には妥当性のない政策だ。日弁連の会長声明が明快に断言したように、法的な観点からは「この差別を正当化する根拠はない」のである。法的に可能であれば、朝鮮学校は無償化の対象外とすることで、とうに決着が付いているだろう。

 また、外交的観点からも、無償化除外は合理的ではない。なぜなら、北朝鮮に外交的な攻撃の糸口を与えてしまうことになるからだ。日本政府が北朝鮮の人権状況を批判したところで、鼻で哂われて終わりということになりかねない。むしろ、2月末にジュネーブで行われた人種差別撤廃委員会の対日審査で、複数の委員が「差別だ」として無償化除外問題に疑念を表明する一幕があったことを考えると、外交的にはむしろ日本の汚点になるといったほうがいい。

 この半世紀、日本の半島政策と在日外国人政策に、イノベーションも理念の深化もなかったということだろう。日本政府は、いったいいつになれば、自らの愚かさに目覚めるのか。

 

参考)各弁護士会の会長声明

日本弁護士連合会 http://www.nichibenren.or.jp/ja/opinion/statement/100305.html
東京第二弁護士会 http://niben.jp/info/opinion20100304.html
東京弁護士会 http://www.toben.or.jp/news/statement/2010/0311.html
大阪弁護士会 http://www.osakaben.or.jp/web/03_speak/seimei/seimei100310.pdf

 

 ハロウィンの朝、8歳の娘が魔女の帽子をかぶって、ぼくのベッドまであいさつに来てくれました。皆さんのお宅にも、小さな精霊や魔女が遊びに来たでしょうか。

 ハロウィンといえばモンスターのコスプレ。そして、モンスターといえば、思い出すのは『アダムス・ファミリー』です。(ぼくの場合)

 『アダムス・ファミリー』は、モンスターの一家がふつーの市民生活を営もうとしてどたばたトラブルを引き起こしていくコメディ。原作はチャールズ・アダムスによる古いコミックなのですが、1960年代初めにテレビドラマ化されると人気が沸騰し、1970年代にはアニメ版が放映され、そして1991年に『アダムス・ファミリー』、1993年に続編『アダムス・ファミリー2』が映画化されました(以下、『AF』『AF2』)。

 映画版は登場人物が天然ボケで痛烈なブラックジョークをかましていくさまを愉快に描いていて、世界中から好意的な評価を受けました。日本でも、ホンダの戦略車「オデッセイ」のコマーシャルに起用されるなど、一時はブームと呼べるほどの大ヒットを記録しました。

 でも、1991年に初作が映画化されると、米国では人種差別や障害者差別と闘っている人たちの間で議論が巻き起こりました。一方にいわく、「異民族や身体障害者への偏見と差別を助長する映画だ」と。それに対して、「いや、むしろそういう偏見と差別を逆手にとって嗤う高度な風刺なんだ」と。

 というのも、『AF』にかぎったことではないのですが、もともと「モンスター」というのは異民族や身体障害者、高齢者をゆがめてイメージ化したものが多いのです。クル病とせむし男の関係がわかりやすいかな。『AF』にもせむし男が登場しますね。

 あるいは、吸血鬼ドラキュラもそうです。この物語が生み出された当時のイギリスでは、植民地化による異民族との交流の増大にともなって、外国恐怖症(ゼノフォビア)が蔓延していました。同時に、ユダヤ資本の拡張に対して反発が広がっていた時期でもあります。『ドラキュラ』という作品は、ゼノフォビアとユダヤ人恐怖とが合体することで生みだされた非常に差別性の濃い物語なのですね。(詳しくは丹治愛『ドラキュラの世紀末―ビクトリア朝外国恐怖症の文化研究』東京大学出版会を参照のこと)。

 ようするに、異民族や身体障害者に対する嫌悪感や恐怖感が「モンスター」を生み出したという面もあるということです。『AF』の登場人物には一人として金髪碧眼のWASPらしい姿を持つ者はいません。みんな黒髪のオリエンタルな容貌をしています。 そう考えると、『AF』に対する評価も変わってくると思いませんか。

 そして、『AF』が公開されると、米国では実際に以下のような議論が起こったわけです。

あの映画は、『フリークス』のように、障害者や異民族を不気味な存在として見世物視している。差別や偏見を助長するおそれがある。
いや、『AF』では主人公たちを恐怖の対象として描いているわけではなく、むしろユニークかつ知的にトラブルを解決するさまは痛快なヒーロー/ヒロインとして好意的にとらえられているじゃないか。
たとえ好意的に描かれていようとも、不気味なステレオタイプをそのまま使っていれば偏見を垂れ流しているのと一緒だ。
というより、「不気味なステレオタイプ」を怖がることこそナンセンスなんだという映画でしょう?

 おそらくこうした議論を意識してのことでしょう、2年後に公開された続編『AF2』では、主人公の一人がサマーキャンプで人種的差別にあう場面が盛り込まれています。その場面では、無自覚で陰湿な差別の描写を通してアメリカの人種問題を風刺すると同時に、『AF』のモンスターが偏見を助長するのではなく、異民族や身体障害者をモンスター視するおまえたちこそ問題なんだ、という強烈なメタメッセージを伝えることに成功しています。 その点で、『AF2』はぼくのお気に入りですね。

 まあしかし、反差別のメタメッセージを込めれば、モンスターという表象が、差別表現ではなくなるということにはなりません。

 ぼくがアラスカで知り合った、祖父がインディアン、祖母がフィリピン系という女性。隔世遺伝で独特のオリエンタルな容貌を持った美女です。「親も姉もふつーの容貌をしているのに、自分だけナニ人かわからない顔だから、WASPしかいない地域の学校でずいぶん苦労をしたわ」とのこと。

 そんな彼女と『AF2』について話したところ、「たとえどんなメッセージがこめられていようとも、『AF』のようにマイノリティをモンスター化するイメージ自体が不愉快。問題は『AF』だけじゃないしね」、ということでした。

 「モンスター」という表象に込められたレイシズム。抑圧される立場の者は、それを敏感に察知し、不快に思い、無邪気に楽しんでいるあなたを軽蔑しているかもしれませんよ。

 

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