図1は、要素Eを含む全体集合Pを概念的に示したものです。一方、図2は、同じ集合Pから要素Eが欠けている状態をあらわしたものです。
全体集合Pの定義を知っている人が図2を見たとき、おそらくもっとも一般的な反応は、「Eが欠けているね」とか、「どうしてEがないの?」のように、Eの欠損を指摘し、その理由を確認しようとすることでしょう。
ところが、実際の社会では、Eの欠落を指摘しただけで、「あなたはEだけで集合Pを語るつもりなのか」と反論されることがあります。それはいったい、どういう場合なのでしょうか。
先日、ある事件に関連して、ツイッターで議論をおこないました。ツイート群をまとめていただいたサイトが、http://togetter.com/li/63152 | http://togetter.com/li/63464 | http://togetter.com/li/63798 の3つです。発端となったのは、ぼくが書いたこのツイートです。
@han_org: 桐生市の小学生自殺にしても、これほど明白な民族差別もなかろうに、今なお、関係者すべてが民族差別としての問題化を避けて、いじめの問題に回収しようとしている。まるで、もともと民族的出自などなかったかのように。ぼくには、死してなお、民族浄化の被害を受け続けているとしか思えんな。 http://twitter.com/#!/han_org/status/28746984786
10月26日の朝。ほとんどのメディアが、自殺した少女の母親がフィリピン出身である事実に触れていなかったことを踏まえてのツイートでした。唯一その事実に言及した朝日新聞も、報じた内容は「署や市教委などによると、母親はフィリピン出身だが、この女児は日本語が堪能だったという」です。どちらかといえば、民族差別が原因につながったことを否定するかのようなニュアンスだといえます。
しかしながら、いじめを苦にして自殺するほど執拗に追い詰められており、かつ、母親が外国出身であるというケースで、はたして民族的出自がいじめの原因や手段に用いられていなかったなどと想定することは妥当でしょうか。
周知のとおり、いじめは非常に些細なきっかけで起こるものです。いじめる/いじめられるという関係は非常に流動的で、誰だっていじめのターゲットにはなりえます。偶発的、恣意的に、境界線は引かれますので、極端な場合、昨日の人気者が今日のいじめられっ子ということもありえます。
ただ、偶発的、恣意的であるということと、ランダムであるということは違います。なぜなら、基準の適用は恣意的でありながらも、既存の価値意識を反映して、つねに排除され、いじめられる側に置かれる者が出てくるからです。そして、日本において、民族的出自は、そうした恒常的に排除の機能を果たす基準として流用されやすい属性の一つなのです。
である以上、フィリピン出身の母親を持つ女児がいじめで自殺したという事件について、母親の出身が記事で言及されなかったということは、意図的に、その情報が隠蔽されたと解釈する方が自然です。
ぼくには、この事件の報道記事で言及される周辺情報の集合(P)の中に、明らかに、「女児の民族的出自という要素」(E)が欠落しているように見えたわけです。
ところで、この事件の報を聞いて、真っ先に思い出したのが、1979年、埼玉県上福岡市で在日朝鮮人である林賢一君が自殺した事件でした。
事件の詳細については、金賛汀『ぼく、もう我慢できないよ―ある「いじめられっ子」の自殺』(講談社文庫)、もしくは、子どもの権利に詳しいウェブサイト「プラッサ」から「子どもたちは二度殺される【事例】」を参照してください。
いじめ苦の自殺が報道に載りはじめたばかりの時期でしたし、遺書に加害者の名前が記載されていたこともあって、ずいぶんメディアを賑わせた事件でした。にもかかわらず、ジャーナリストである金賛汀氏や民族団体が積極的に介入するまで、どこのメディアも、この事件が民族差別に起因するものであることを報道しなかったのです。
関連の書籍を参照していただければ、林賢一君の事件は、(1)民族差別が絡むいじめによって自殺が発生したこと、(2)日本のメディアはその事実を報道しようとしなかったこと、という2点が記憶されるべき出来事と指摘されていることに気づくことでしょう。
そして、まさにこの2点において、ぼくは桐生市のケースは相似の構図にあると直感しました。
事実、いまだにメディア各社は、いじめと関連して児童の民族的出自に言及することをかたくなに拒んでいるかのようです。例外的に、毎日新聞だけは、「母親がフィリピン人であることもいじめの原因の一つだと思う」と自殺した児童の父親の発言を紹介したり(10月27日)、社説で簡単ながらその父親の発言に言及するなど(10月29日)、報道姿勢に修正がみられる程度ですね。
なぜ、メディア各社は、自殺した児童の民族的出自に(あえて)言及しなかったのでしょうか。
その理由はわかりません。ただし、前述したツイッター上の議論に対する反応から、ヒントは得られるのではないかという気がしています。いくつかピックアップして紹介しましょう。
「貧困。外見(遺伝)。親の職業(賤業だとする差別もあるが『あいつ社長の息子だって。生意気な』的なものも)。民族差別だけが差別として特殊なわけでもない。」
「ありとあらゆる理屈を用いて、何がなんでも"民族"差別というカテゴリーに入れたい人がいるのが困るんですよねぇ。」
「ただ民族差別って言いたいだけだろ。『また、朝鮮人がはまってきたか』としか思えない。」
いかがでしょうか。冒頭で述べたとおり、メディア各社の報道内容に含まれていてしかるべき要素E(民族的出自)の欠落を指摘することがぼくの主張の骨格だったわけですが、これらの反応は、「あなたはEだけで集合Pを語るつもりなのか」と反発しているようです。
では、どのような場合に、こういう奇妙な反発が生じるのか。
第一に、もともと要素Eが全体集合Pの定義に含まれない場合。第二に、要素Eを排除したり不可視化しなければならない暗黙の理由がある場合。
ぼくには、この2つのケースしか思い浮かびません。では、今回の事例はどちらに当てはまるか。林賢一君の事例から明らかだと思われますが、第一のケースを想定するのは非現実的でしょう。したがって、答は第二のケースです。
といっても、「要素Eを排除したり不可視化しなければならない暗黙の理由」の正体が何なのかまではわかりません。一つは、犠牲者非難でしょう。でも、他にも理由があるかもしれません。
注)犠牲者非難については、「差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある」 | 「差別の存在を認めない傾向とは」 | 「橋下発言にみるVictim blaming」を参照のこと。
ただ、重要なことは、その正体が何であるにせよ、この状況(民族差別の存在に注目することを忌避させる圧力)を放置したままでは、同種の事件の再発防止策を検討することすら許されそうにない、ということです。
林賢一君の事件の場合、関係者の努力が実り、再発防止について検討が行われました。「上福岡市在日韓国・朝鮮人児童・生徒にかかわる教育指針について」(上福岡市教育委員会 1983年3月31日)という文書にその成果が見られます。
それに対して、桐生市はどうでしょうか。
こちらの図(http://ow.ly/i/4Y7r)は、ぼくの同僚である石田淳くんが作成してくれたもので、同市の外国人登録者数の推移(1992-2009年)をあらわしたものです。1995年から2000年まで女性の登録者数が二倍になっていることが確認できます。
桐生市の教育委員会は、この増加に対応できるだけの施策をもっているのでしょうか。
残念ながら、今回の事件で、度重なる父親からの申し入れにもかかわらず、実質的に学校側がなんの対応も採れなかったことを想起すると、実効性のある施策は何一つ持ち合わせていないのではないと思われます。
日本においては、そこにあるはずなのに、見えないもの。すなわち、エスニシティ(民族的な存在)。
しかし、グローバリズムが進展する中、いつまでそのような暗黙のベールが許されるものでしょうか。
同様の事件が二度と起こらないようにするには、まず、事件の関連情報から民族的出自の存在を除外しないようにすること。エスニシティの存在とその重要性を直視すること。小さな小さな一歩ですが、そんなところから始めなければならないようです。