2010年4月アーカイブ

 ロバート・E・パーク(1864-1944)といえば、「社会学入門」で必ず習う巨人の一人です。いわゆるシカゴ学派の隆盛を支えた最重要人物で、都市社会学や人種・民族関係論に深い足跡を残したことで知られています。

 パークは社会学説史上の輝ける星です。しかし、ずっとアカデミアで活躍してきたわけではありません。ミシガン大学でジュン・デューイに師事し、実践的な問題への関心を深めた後は、大学院へと進学せずに人権派ジャーナリストとして全米各地で約10年の経験を積みます。特に人種問題には強い関心を示し、ベルギー領のコンゴで土地の人々がベルギー王室からきわめて過酷な扱いを受けていることを知るや、国際紙上での告発を通じて対応を改善させたこともありました。今ならめずらしい話ではありませんが、なにせ19世紀のことです。奴隷解放宣言からまだ30年前後という時代なのですから、パークが当代随一の人権家であり、理想家であったことは間違いありません。

 その後は大学院でふたたび学問を修め、シカゴ大学に就任してからは偉大な研究業績を量産していきました。日本ではパークの業績として都市社会学の研究ばかりが紹介されますが、アメリカでは彼のライフワークとして人種関係論を挙げる人が圧倒的に多い。パークはアカデミアにおいても実践家であり、特に人種問題には一貫して関心を示し続けてきたからです。 

 そんなパークですが、現代のアメリカにおいては、どうにも人気がない。それどころか、リベラル気質の若い研究者たちから「彼はレイシストだ」と忌み嫌われていたりします。人権家であったはずのパークですが、いったいなぜ没後に評価が反転し、こともあろうに「レイシスト」と呼ばれるようになってしまったのか。

 そのことを議論する前に、まずはパークの業績を少し紹介しておきたいと思います。パーク自身は「人種関係循環モデル」(1921年)と名づけたものの、現在はより簡単に「同化理論」と呼ばれている論考です。

 パークらによると、文化的に異質な集団が「接触」した後に生じる相互作用には、段階的な4つの類型があるといいます。すなわち:

  1. まず、稀少資源の獲得をめぐって各集団がそれぞれ「競合」し、経済的に分業が成立するステージをへて、
  2. 努力目標が競合集団への政治的攻撃に転化する「葛藤」のステージにいたる。
  3. 競合や葛藤によるコストを軽減するために、各集団は文化的独自性を保ったまま、一定の「適応」の努力をするようになり、
  4. ついには、競合集団の文化や価値を完全に受容する「同化」の段階に達する。

 パークは科学的な一般理論指向が強い研究者でしたので、「人種関係循環」についても科学的一般性を備えていると信じました。「接触から競争へ、競争から葛藤へ、葛藤から適応へ、さらに同化へと必然的に社会体系は変動し、このコースを変えることはできない」と。

 さて、パークの理論に対しては、3つのスタンスから批判が寄せられています。

 第一の批判は、同化が「必然的に進行するプロセス」というのは誤りだ、という指摘です。たしかに、(1)から(3)までは、非常に多くの国の移民集団で共通して観察される現象だといえます。それに対して、(3)から(4)にいたる同化プロセスは、どこの国のどの移民にも当てはまる話とはいいがたいのですね。むしろ、パークの後を引き継いだミルトン・ゴードンによると、(3)までで同化は止まってしまって、その先には進まないケースが多い。

 また、理論的にも(3)から(4)にいたるプロセスの説明があいまいです。大まかに彼らの主張をまとめるに、(a)時間の経過とともに移民後の世代交代が進行し、(b)エスニック・ゲットーから郊外に居住地を移す者が増加する、(c)それによって、地域的な隔離が解消する。また、(d)社会階層の民族間格差も自然と減少していく。(e)そうしたプロセスは、民族集団の集合性と独立性を解体することになり、(f)同族内のコミュニケーションを減少させ、(g)アングロ・サクソン系の文化に同化する「アメリカ化」が達成されるのだ、と。しかし、人種主義が激しければ、いくら世代交代が進んでも階層移動や地域移動が進まないケースはいくらだって考えられますので、彼らの説明は論理に飛躍があるといわざるをえません。

 第二の批判は、あまりにも理想主義的だ、というもの。

 パークらがこの理論を提出した時期は、アメリカ南部諸州において事実上のカースト制が法制化されていたいわゆる「ジム・クロウ期」のまっただ中であり、法によって人種の隔離が義務づけられ、法の外ではクー・クラックス・クラン(KKK)による大々的なリンチが繰り広げられていた時代でした。いわゆる「人種主義の世紀」の真っ只中です。当時のもっとも一般的な反応は、「ヨーロッパからの白人移民集団すら交じり合うのが難しいのに、アジア系や黒人と完全に同化するなんて気持ちの悪いことをいうな」というものだったでしょう。(というようなことが論文にチラと書かれていました。)

 ところが、時代を経て1960年代に入ると、しだいにリベラル勢力から批判を受けるようになっていきました。すなわち、上述のような時代に、たいして説得力のある根拠を示すわけでもなく、同化が「必然的に進行するプロセス」などと主張するのは、厳しい差別の現実が見えていない証拠だ、というわけです。

 たしかに、人種・民族間の競合が生じるのは、多くの場合、支配的な民族集団と従属的な民族的マイノリティのあいだです。したがって「葛藤」とは、事実上、支配的民族集団による民族的マイノリティへの抑圧や収奪を意味します。このような権力関係は、マジョリティ側が権益を得る構造である以上、むしろ安定的なものであるとみなすほうが自然です。つまり、パークらの言うように適応、同化へと移行する動因が論理的に成立しないのです。にもかかわらず、パークらが同化は自然に達成できると主張したのは、人種主義へのアンチテーゼを過度に意識するあまりに、ある種の理想を論じたのだと解釈せざるをえないのですね。

 第三の批判は、同化そのものを理想視する視点が非倫理的である、という批判です。1970年代ぐらいから、多文化主義の進展とともに、「同化は『差異への権利』を暴力的に抑圧する人権侵害」であるという理解が普及し、今では、「同化=人種主義的」という考え方が一般的になっています。

 日本ではむしろ、同化は共同体が示す善意であり歓迎の表現とされます。例えば、転校生が土地の言葉を話すようになると、ようやく「本当の仲間になった」と喜んだりしますね。在日コリアンに対して、本当の仲間になってほしいからこそ日本に帰化してほしい、などの表現もよく聞かれます。だから、アメリカでは同化を非倫理的だとみなす視点が一般的になっていると聞いても、ピンとこない人が多いかもしれません。

 でも、たとえば次のようなケースを考えてみてください。 

 Aさんは京都の女子大学を卒業し、東京で就職しました。職場で同じ京都出身の男性と知り合い、すぐに結婚し、子どもが産まれました。家庭内ではみんな京都の言葉を話します。

 ある日、子どもが幼稚園に入りたがらない。どうしたのかと思っていると、別のお母さんが話しかけてきた。いわく、「お宅のお子さん、私たちの子どもと遊ばせないでいただけませんか? 関西の下品な言葉がうつっちゃうと困るんです。標準語を話せないなら、もうこの幼稚園から出て行ってほしいんですよね。」

 Aさんは仕方なく、子どもに東京の言葉を使うように促すのですが、「今日さぁ、幼稚園で友だちに笑われちゃって、なんだかイヤになっちゃったよ」などとなじみのない言葉を話すのを聞くと、わが子への愛情が薄らいでしまう気がするのでした。

 どうです。Aさんの立場からすれば、ずいぶん屈辱的な状況でしょう。心の痛む場面だと思いませんか。自分が母親に話しかけたのとは違う言葉で自分がわが子から話しかけられるんですよ。それはさびしいものです。自分で納得して土地の文化になじむのであればまだしも、半ば強要されてのことですから、屈辱感や寂しさはいっそう引き立ってしまいます。それが、同化というものです。同化には心の痛みが伴うのです。

 上述の通り、70年代ぐらいからアメリカではこうした事情が知られるようになり、その結果、同化を強要したり、同化を理想視する考え方を、非人道的であると批判するようになっていったわけです。また、同化させる側の文化を優位にとらえているという意味で、異民族を同化させようとする人を「レイシスト」と呼ぶようになっていきました。

 パークは人種関係論に社会学的視座を持ち込んだ初めての偉大な人物であり、その業績である同化理論があまりにも有名であったため、「同化の象徴」として嫌悪されるようになったのですね。

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