差別は客観的に定義できるか

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 ある学問分野において、もっとも基本的な事物を指し示す言葉を「基礎概念」といいます。基礎概念を組み合わせることによって、他の抽象度の高い概念を説明する、という形で学問という論理の体系が構築されていきます。したがって、基礎概念を定義することは、通常、その学問の入り口ということになります。

 ところが、差別論において、「差別」という概念を定義することは、学問の入り口どころか、むしろ究極のゴールの一つとされています。なかなか上手に定義できないんですね。

 例えば、2009年末に出たばかりの差別論の教科書を見てみましょう。好井裕明編『排除と差別の社会学』(有斐閣選書)です。いい本ですよ。おまけに、この分野には授業でそのまま使える教科書は少なかったから、貴重な本でもあります。

 この本の中で差別の定義というと、冒頭でアルベール・メンミ『差別の構造』という古典からさらっと差別主義の記述が紹介されているだけです。それも、解説らしい解説は付いていません。つまり、同書には、差別の定義について概念的に検討した箇所が、実質的には一つもないのです!

 批判してるんじゃありませんよ。むしろ、中途半端に理論を紹介するより立派なスタンスだと思います。初学者向けの教科書では、差別の定義をめぐる難解な隘路に入り込むより、具体的な事例に触れながら他の重要な基礎概念を学んだり、《差別を見抜く目》を養ったりするべきだ、という考え方でしょう。

 ともかく、差別の定義(差別とは何か)は、差別論の教科書が避けてしまうほどの難問なのだ、ということをあらかじめ知っておいてください。

 さ、それでは、オーソドックスな差別の定義例を3つ紹介しましょう。

「ある集団ないしそこに属する個人が、他の主要な集団から社会的に忌避・排除されて不平等、不利益な取扱いをうけること」(三橋修)

「個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、普遍的な価値・規範(基本的人権)に反するしかたで、もしくは合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて、異なった(不利益な)取り扱いをすること」(野口道彦)

「本人の選択や責任とは関りのないような個人の能力、業績ないし個人の行動と無関係に作られた自然的・社会的区分に属していることを理由にされて、集団ないし個人が不利益を被るか人権を侵されるか、不愉快な思いをさせられる行為」(鈴木二郎)

 これらの共通点を整理すると、ある事象が「差別」であるためには、以下の3条件を満たすことが必要とされているようですね。

  1. 集団ないし社会的カテゴリーに所属しているというだけで
  2. 集団や個人に不利益が生じ
  3. その不利益が不当であること

 おそらく、多くの人の経験的観察とも合致する条件だろうと思います。しかしながら、この種の定義には、3つの大問題が含まれています。

 第一に、発生した不利益を誰が不当であると決めるのか、という問題です。「差別の存在を認めない傾向とは」で紹介したデータは、まさしく「不当」だと判断した人が多いものほど上位に位置しています。各項目に序列が付いたのは、ようするに回答者ごとに不当/正当の判断基準が異なっていたからです。

 野口さんは「普遍的な価値・規範」というけれども、それは理念の上では存在しても、実際に観察することはできない架空の理想です。現実には、ある事象が不当かどうかの判断は、主観的、恣意的なものです。しかも、その判断は、一人ひとりで違うだけでなく、時代によっても、社会によっても変わります。例えば、旅館がハンセン病罹患者の宿泊を断るのは、現在の日本では明らかに不当なことです。でも、同じ日本でも10年前はそうではなかった。

 とすれば、不当性を定義に含んでいるかぎり、差別か差別でないかを客観的かつ一意に判定することは、原理的に不可能だということになりますね。

 第二の問題は、差別/被差別の非対称性が定義の要件に含まれていないことです。単純な話、もし完全に対等な集団間であれば、上記の3条件がそろっていても、一般には「抗争」や「競合」と呼ばれるだけであって、「差別」とはいわないわけです。非対称性は、明らかに差別の必要条件なのに、上述の定義のしかただと含まれなくなってしまいます。

 第三は、ある社会的カテゴリーに所属していることによって不当に被害が生じていることを訴えようとすると、被差別者はその社会的カテゴリーの存在を前提にしなければならない、という問題。

 被差別者がその社会的カテゴリーを納得して自ら引き受けている場合はいいのですが、そうでない場合は悲劇です。いやいや押し付けられたカテゴリーそのものが差別と感じられるのに、反差別を訴えるためにはそのカテゴリーの実在に立脚しなければならない。二重に拘束されてしまうのです。あえて具体例は挙げませんが。 

 どうでしょう。第二、第三の問題は逃げ道がありそうですけど、第一の問題はずいぶん難問だと思いませんか。なにせ、原理的に不可能なのですから。

 もし、誰もが納得する完璧な「差別の客観的定義」ができれば、それで差別問題はかなりスッキリと解決するはずです。なぜなら、個々の事象をその定義に当てはめて、「差別」に判定されれることは法律で禁止し、違反者は処罰すればいいわけですから。

 でも、残念ながら、差別の客観的な定義はなかなかうまくいきませんね。

 次回は、この難題への解決案2つ、の予定。たぶん。

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このページは、mskimが2010年2月23日 23:56に書いたブログ記事です。

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