人権教育の問題点

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 人権教育について市民意識調査を実施すると、自由記述欄によくこのような内容のことが書かれてきます。

「小中の同和教育で、初めて被差別部落について知った。同和教育があったから、被差別部落の存在も知ったし、差別される存在であるということも知った。それによって、自分との違いを意識するようになってしまった。いわば、同和教育によって、私の中に、ある種の差別感が芽生えていってしまった。同和教育なんかないほうがいい」

 授業で人権教育について言及したときも、かなりの学生がミニッツペーパーにこういう趣旨の感想を書いてきますね。

 しかし、この意見はナンセンスです。なぜならば、「学校の同和教育によって被差別部落について初めて知った人」は、「近隣や親、友人、知人、先輩などからインフォーマルな形で部落についての情報を初めて聞いた人」に比べて、被差別部落への差別的態度が明らかに弱い、ということが各種の調査からわかっているからです。

 たとえて言えば、同和教育は生ワクチンのようなもの。受けることによって、自覚しない程度の軽い偏見に感染してしまう。けれども、そのおかげでひどい差別意識を発症せずにすむわけです。だから、人権教育を《やるべきかどうか》という次元では、答えは明らかで、やるべきなのです。

 ただし、《どうやったらいいのか》という次元については、難しいところがあります。少なくとも、現行の人権教育のやり方には、明らかに間違っているところがある。

 小中学校の人権教育では、「差別をするのは悪い人」だと教える傾向があります。「差別をする悪い心があるから、差別が起こる。だから差別をなくすためには心の中の悪い部分をなくしましょう。一人ひとりが心の中から差別をなくしていけば、いつか社会から差別はなくなるのです」という教え方をします。

 でも、差別をするのはみんな悪い人でしょうか? 悪い人でなければ差別をしないといえるでしょうか? ぼくは、現実の差別事象というものはそんなに単純なものではないと思いますけどね。

 例えば、僕が小学生の頃は、教師が生徒たちの注意を喚起しようとして、「こら、おまえら、つんぼか!」という表現をよく使ったものです。教師の権威を利用した、あからさまな差別ですね。でも、このとき先生には、聴覚障害者を傷つけようという悪意はありません。「つんぼ」は《外部の存在》として利用しているだけであって、実際には聴覚障害者を傷つけようなんて思っていません。聴覚障害者のことを考えてもいません。なぜなら、「つんぼ」は、「見下される存在」として引き合いに出しただけであり、「おまえらその見下される存在か」「そうじゃなく、耳は聞こえるだろう」と問うているだけなのですから。

 また、例えば部落出身者がいて、そのことを知っている人がいるとしましょう。その人が別の友人に「ねえ知ってる? あの人、あっちの人なんだって」と、陰口をいうことがあります。この時も、部落出身者を傷つけようという悪意があって差別をしているとはかぎりません。そうではなく、「あの人とは違って私たちは仲間だよね」と確認したいがために引き合いに出されているだけなのかもしれない。この場合も、被差別者に対し悪意があるのではなく、我々の一体感を高めたいがために、《外部の存在》としてたまたま部落出身者が利用されているだけです。

 「我々はあの人たちと違って普通だよね」「我々はあの人たちと違って異常ではないよね」と確認するために、マイノリティが《外部の存在=他者》としてその場その場で利用されていく。「わたしたちは同じ仲間だよね」というメッセージを効果的に伝えるために、巧妙にマイノリティが外部化、他者化される。そして、マイノリティを見下したり、排除したりする感情が利用されていく。こういう場合、悪気がないだけに、「いえ、別に悪意ないから差別ではありません」という反論が起こります。

 ここでは、悪気がなくともコミュニケーションの中で差別が起こりうるという例を挙げましたが、他にも、経済的な条件が構造的に生み出していく差別、文化によって植えつけられる差別など、多種多様な差別の発生形態があります。いずれも、マイノリティを傷つけようなどという「悪い心」がなくても起こる差別ばかり。

 差別は、悪い人であろうが、いい人であろうが、誰だってやってしまう危険性があるものです。にもかかわらず「差別は悪い人がする」ということばかりを教えられている人からすれば「俺は悪い人じゃないから差別しない」「差別をする悪い心なんか持っていない。だから、差別していない」、「今言ったのは別に差別するつもりなんかなかった」で終わってしまいます。

 というわけで、差別を教えたり論じたりするとき、「差別は悪い人がする」というストーリーに固執するべきではない、というのが今日の話でした。

......これで締めようと思いましたが、ちょっと補遺を追加。どうせ何回かに分けても、読まない人は読まないから、関連する話題は書き終えておきます。

 なぜ、「差別は悪い人がする」という教え方になったのかというと、道徳教育の一環として差別論が教えられるようになったからだとぼくは思っています。倫理的にすばらしい人間になろうという道徳教育の一環として、反差別が取り上げられるとすれば、当然のことながら、「差別する心、卑劣な貧しい心をなくしていきましょう」という教え方になるでしょう。でも、これって、道徳教育のために差別を利用している、ということなんですよね。

 似た構図に、反戦教育のためにアジアや在日が利用されるというのもあります。「日本はかつてこんなにひどいことをしました。アジアの人はみんな怒っています。われわれは、申し訳ないと思わなければいけない。だから、日本はふたたび戦争に踏み出すことはできない。軍事国家化すれば、アジアの人がどんなに怒るか考えてみよ」という教え方です。アジアを利用せずとも反戦教育は単純にできるはず。ところが、「そんなことをしたら、隣のおじちゃんに怒られるよ」と言わんばかりに、「アジアに怒られちゃうよ」という形で、反戦教育を進めていくのです。

 それがどのような弊害を生むかといえば、「そんなに、反日、反日いうのだったら、日本から出て行ってください」という暴論を引き出してしまうのです。つまり、「確かに日本は悪いことをしたし申し訳ないと思います。でもそんなに日本が嫌いだったら出て行ったらいかがですか」という、ある意味で素朴な声を生んでしまう。

 ところが、当の在日コリアンは必ずしも日本を恨んではいません。特に、比較的若い世代にとっては、日本に対する愛着度、韓国に対する愛着度、在日に対する愛着度を測定しますと、一番高いのは日本に対する愛着度なのです。日本と韓国が試合をする場合、どちらを応援するかというと、多くの在日の若者は日本を応援すると言います。すでに住む土地としての日本に、愛着の基盤を寄せているのですね。日本がかつて行った自分の民族に対するネガティブな歴史については、しっかりと教えてほしいと思うけれども、そのことはそれとして、自分が住む地域として日本に対しては愛着を持っているし、今後もこの国で共に住んでいきたいと在日側は思っているのです。

 そういうと、「民族意識の強い人は反日に違いない」と、反論する人がいるかもしれません。でも、そうではありません。民族意識の強弱と、日本に対する愛着度の強弱は、統計的に意味のある相関関係がありません。つまり、民族意識が強かろうが弱かろうが、圧倒的多数の在日は日本に愛着を持っている、というのが現状なのです。

 ところが、上述のような反戦教育を受けた日本人の中には、加害の歴史につながる罪悪感を何とか解決したいと思い、いわば八つ当たりするために在日コリアンを利用していく場合がある。反戦教育にアジアを利用することによって、反射的に在日コリアンにその攻撃が向いていくという構図です。そのことが、ナショナリズムに対する需要の高まりと相まって、在日に対する攻撃を生んでいると、ぼくは考えています。

※最後の論点については、こちらも参考に。ある韓国人の感想。「日の丸、君が代を敬わない日本人は信用できない」

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ということは理想的な社会は全ての人々が軽度の差別意識を持っているということでしょうか

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このページは、mskimが2010年2月20日 00:09に書いたブログ記事です。

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