差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある

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 昨日紹介した講演は、記憶の中では結構上手にこなしたことになっていたのですが、テープ起こしを読んでみると何を言っているのかわからない箇所がたくさんあります。もう少し上手にしゃべれるといいんですけどね。

 わかりにくかったからというわけではありませんが、今日も同じテーマを違う角度で書いておきます。

 「朝鮮学校がサッカーの地域代表になったとき、それを応援しなかったのは差別だという話がある。でも、朝鮮学校に知り合いはいないし、別に応援したいと思わなかったから応援しなかっただけ。それを差別だといわれるのはおかしい。最近、差別差別だといいすぎじゃないか。」

  なるほど、一理あるように聞こえます。「コーラは好きだけどオレンジジュースは好きじゃない。おなじリクツで、東海大仰星なら応援し、大阪朝鮮高なら応援しない。それは単なる好みの問題であって、差別じゃない。それを差別というなら、ご飯よりパンがすきだというのも差別になるじゃないか」というところでしょうか?

  でも、どうして朝鮮学校は「別に応援したいと思わなかった」んでしょう。実際には、知り合いがいようといまいと、日本人が通う高校だったら地域代表を応援したかもしれない。日本の高校だったら仲間だという感じがして、朝鮮人の高校だったら仲間だという感じがしないので応援しなかったのかもしれない。同じ地域の代表とは感じられず、別の民族の代表だと感じたのかもしれない。そして、別の民族の代表だから、応援しようという気持ちも起こらなかったのかもしれない。だとしたら、それは差別の異化作用です。

 もちろん、同じ日本人の通う高校でも、偶発的な事情で応援したりしなかったりもするはずです。でも、差別だという訴えがあったということは、そういう偶発的な事情では説明できないくらい、日本人の応援が少なかったということでしょうね。地域代表であるにもかかわらず、みんながこぞって朝鮮学校を「別に応援したいと思わなかった」とすると、朝鮮学校をヨソモノ視する排外的な感情がどこかに働いたということです。

  ちなみに、「最近増えている」のは、こういう差別を差別と認めたがらない意見のように思われます。これも、典型的なvictim blamingです。このことを手がかりに、victim blamingが発生する仕組みについて考えてみましょう。

 すでに各種の調査で明らかなことですが、差別に対して鈍感な傾向にある人は、差別の存在を認めたがらない傾向があります。つまり、差別を区別だといって正当化したがる。これはおそらく、「マジョリティであるだけで自分が差別者=悪人として糾弾されるのはゴメンだ」という判断が働くせいでしょう。そういう人には、マイノリティの立場を想像してみることは難しいようです。

 たとえば、社内で「セクハラ防止規定」のようなものを作ろうとしたとき、男性社員が「それもセクハラなのか? そういう規定が濫用されると何でもセクハラになってしまうじゃないか」といった反対をすることが多く、セクハラの被害にあった女性同僚をいかにサポートするかという観点はすっぽり抜け落ちているものです。

 差別を受けることのないマジョリティの地位に安住している人にとっては、差別などという重たい問題を目に見えるところに突きつけられるのは気持ちのいいものではないでしょう。そんな問題は考えたくない。みたくない。できれば逃げたい。そんな感情が、差別の存在を否定する態度にあらわれます。

 でも、マイノリティにとっては、差別は逃げられない日常です。のんきに「差別を見たくない」といって逃げられるマジョリティとは違って、逃げたくても、見たくなくても、考えたくなくても、否応なく突きつけられる日常です。マジョリティにとって差別はたんなる知識かもしれないけど、マイノリティにとってはリアルな現実です。

 悪意がなくとも差別は起こるし、差別が起これば被害者はさまざまな損害をこうむる。この単純な原理が、差別者=悪人のイメージに邪魔されてなかなか理解されない。差別だという訴えは、「私は傷ついている」という単純な主張であって、「オマエたちは悪人だ」と訴えているとはかぎらない。にもかかわらず、マイノリティの必死の訴えを、差別を見たくないというだけで「それは差別じゃない」と切り捨てる。自分も悪人の仲間だと思われたくないという理由で、差別反対運動のジャマをする。

 マイノリティが差別と懸命に闘って、ようやく必死の思いで傷口を見せて「差別だ」と声をあげたとき、いつでも逃げられる安全で優位な立場にいながら「最近、差別だと騒ぎすぎるやつが多い」などと批判するのは、タダ単に傲慢なだけでなく、二次的な差別とすらいえます。セカンド・レイプならぬセカンド差別。

P.S.

 こちらも参照。てのる【Gay】タイムズ「それ、ちょっとイヤなので、やめてくれませんか?」

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コメント(10)

これでは日本人に物事の強要をするばかりでなにも解決策
になっていません。

あなたの提示した答えは非常に的はずれです
これでは対立感情を大きくするばかりです

双方で互いに差別しあっているということを押さえない様な議論ははっきりいっておかしいと思います
ちゃんとそういうことに対して自覚的になりましょう。
間違ったことを言ってはなりません


私の論としては両者において、歩み寄りをしていくべきだと思います。

しかし、在日コリアンの方々と右派の方々やその他日本人、この2者における歩み寄りは極めて難しいものがあります。
というのも、どちらも歩み寄りしようとしないことにあります
互いに差別しあっているわけです。これでは、民族対立、負の連鎖になりかねません

これを打開するにはどうしたらよいか。
双方において差別しないことが一番いいことですが、
在日の方々が何か権利を主張したときに
普通の日本人としては、在日の方々が日本国籍をもっていないために
よそ者扱いされ「よその国の人なのに、なぜ日本での権利を主張しているのか?」
というように再び対立の引き金になりかねません

そう、国籍の壁が非常に邪魔になるわけです

よって双方において完全な歩み寄りをするには
双方において民族間における差別を撤廃できるよう必死に心がける。
それと同時に在日の方々は母国の国籍を捨て、日本国籍を取得するか
それとも母国に帰っていただくか
どちらかの選択肢を選んでいただく。
これが双方において納得のいく答えだと思います

> でも、どうして朝鮮学校は「別に応援したいと思わなかった」んでしょう。
> 実際には、知り合いがいようといまいと、日本人が通う高校だったら地域
> 代表を応援したかもしれない。日本の高校だったら仲間だという感じがし
> て、朝鮮人の高校だったら仲間だという感じがしないので応援しなかった
> のかもしれない。同じ地域の代表とは感じられず、別の民族の代表だと感
> じたのかもしれない。そして、別の民族の代表だから、応援しようという
> 気持ちも起こらなかったのかもしれない。
> だとしたら、それは差別の異化作用です。


いや、これって貴方の完全な想像じゃないですか。完全な決めつけです。これって、逆に「朝鮮学校を応援しなかった日本人」に対する差別ですよね。

ならば、私は貴方を「日本人を差別する人」と呼びましょう。貴方の内心がどうであろうと、日本人である私は、貴方によって「朝鮮人差別者」と決めつけられ、差別されたと感じました。

すなわち、貴方は差別主義者です。謝罪と賠償を求めます。徹底的な謝罪と賠償を求めます。私が納得するまで謝罪と賠償を求めます。さあ、今すぐに謝罪と賠償をしてください。期待しております。

私は日本人ですが、現在アメリカに留学中ということで、マイノリティーの辛さは日々ひしひしと実感しています。
差別というのは本当に辛いものです。共感します。

けれど差別というのには”権利の差別”と”好き嫌いの差別”の二つがあり、”権利の差別”は社会的に許されませんが、”好き嫌いの差別”は社会的に許されるものなのです。

例えば太っている人は恋愛において異性から嫌われることが多いですが、太っている人を好きになるかどうかは完全に個人の自由であり、太っている人も好きになってくれ、と頼むのはナンセンスです。これは好き嫌いの差別です。

朝鮮学校のサッカーチームの応援がなかったということですが、そのことで生徒の権利が否定されたと言えるでしょうか?
チームが大会に参加する権利はちゃんと保障されています。
確かに生徒たちの感情は傷ついたかもしれません。しかしその程度感情を害する出来事は在日朝鮮人だけではなく、全ての人に日常的に起こります。例としては太っている人だったり、不細工だったり、足が不自由だったり、知的障害だったり、人種に限らず他人から嫌な目で見られることはいっぱいあります。つまり好き嫌いの差別は社会の誰にでもあるということです。

好きになってもらえないからと言って「差別だ!」と主張するのはナンセンスなのです。

私は決して白人に、「アジア人は差別されている。もっとアジア人を好きになってくれ」というお願いはしません。何故なら私は、どんな人種でも平等に学校に通う権利を与えられている、つまり社会的に“権利の差別“はないということを知っているからです。
白人にはアジア人を好きにならない権利があります。

好き嫌いの差別を乗り越えるためには、好きになってもらえるような努力をするしかありません。生まれつきのものは変えられませんが、自分が変わっていく努力をするしかないのです。

在日朝鮮人の社会的な権利は十分保障されています。
日本人から好きになってもらえるかどうかは、結局個人の努力、そして在日朝鮮人全体としての努力次第なのです。
頑張ったからといって日本人に好かれる保障はありませんが、そのための努力をするかどうかは結局自分次第です。

はじめまして。

自らの中に差別意識を持つ事を自覚する事は大切です。
そういう目で見ていないかという、自制をするために必要なのであって、全ての差別を否定することからは何も進展は無いのでは無いでしょうか?

kntkmさんの

>けれど差別というのには”権利の差別”と”好き嫌いの差別”の二つがあり、”権利の差別”は社会的に許されませんが、”好き嫌いの差別”は社会的に許されるものなのです。<

この主旨にほぼ同意見ですね。

但し、好き嫌いは社会的に許されると言うのではなく、種族保存の本能という、生物の避けられない部分として認められるという点で違います。

能力の差による区別を、差別とする事は資本主義社会の根幹を否定することにもつながりかねません。

それは能力のあるものに対する逆差別となり、努力をしようというモチベーションの低下につながります。

また

>「セクハラ防止規定」のようなものを作ろうとしたとき、男性社員が「それもセクハラなのか? そういう規定が濫用されると何でもセクハラになってしまうじゃないか」といった反対をすることが多く、セクハラの被害にあった女性同僚をいかにサポートするかという観点はすっぽり抜け落ちているものです。<

これは冤罪ということに関する被害を受ける可能性についての考察がすっぽりと抜け落ちています。

対象を女性同僚としているところに、性差別の意識自体を貴方ご自身がもたれているようにも感じます。

セクハラは男性から女性に限って適用されるものではありません。女性から男性に対しても同じようにいえます。

好みの問題で言うのであれば、加齢臭は悪くて、香水は良いと言う論理も成り立ちます。

セクハラの根底には好みと密接に関係している部分もあるので、その部分から来る被害妄想による訴えで被害を受ける可能性を減らすためにも規定が必要になります。

差別と違い、区別をする必要は、双方にとって不利益を蒙らないために行うもので、片方にのみ有利になるようにならないようにすることが目的と思います。

『日本 権力構造の謎』で部落解放同盟から糾弾されたカレル・ヴァン・ウォルフレンは「部落出身であるために結婚や就職ができなかったのならそれは重大な差別ですが、悪口を言われたから差別だというのは下らない議論、むなしい議論です」と言っています。私もその通りだと思います。「○○であるために結婚や就職を拒まれることがない社会にしろ!」という要求と「○○に対して悪口を言う奴が一人もいない社会にしろ!」という要求は一見連続しているようでいて、実は全く別の話だと言うべきです。後者はそもそも実現不可能だし、言論の自由の観点からも無理筋というべきでしょう。「○○に対して悪口を言う奴が一人もいない社会」の実現が「差別からの完全解放」だとすると、差別解消など永久に実現しません。もっとも、反差別利権で食っている人たちにとってはその方が都合がいいのでしょう。

>kntkm さめ

他者による努力の認定は、結果によってのみ測られる。

それから、「在日朝鮮人」や「デブ」は、それら自体は自称として事実だが、そうなった (歴史的または個人的) 経緯や、そうした属性を持つ者に見られる共通属性として認識されがちなものは、各個人においては必ずしも事実ではない。すべての在日朝鮮人が必ずしも出稼ぎに来ただけな訳でもなければ沸点が低いわけでもなく、民族意識の高さ故に日本古来の文化を何でもかんでも高麗由来にしたがるわけでもない。すべてのデブが必ずしも不摂生なわけでもなければ体が臭いわけでもなく、エンゲル係数が高いとも限らないのと同様。
差別感情の共有は属性情報としてついて回る偏見を増強し、結果そのラベルを持つ者の、社会的機会の喪失に繋がる。従って「好き嫌いの差別」と「権利の差別」は明確に切り分けられるものではない。

「応援しなかったのは差別」というのは、恐らく観測としては正確ではない。「応援しなかったのは差別」という説明が用いられる限り、この訴えに納得できる人はなかなか増えないと思う。
通常、学校に通う生徒やその保護者は、学校が存在する地域との関わりを持って生活している。その学校のサッカー部が地域代表になったとき、その地域に住む多くの方々が応援に来てくださるのは、恐らくその学校の生徒や保護者、関係者が、その地域の一員として認められているからだろう。
朝鮮学校に通う生徒やその保護者が、地域の一員として認められたがっているかどうかは定かではない。その思いは必ずしも一様ではないかも知れない。しかし、地域の一員として認められたという実感が得られる「機会」が、差別故に得られないのだとしたら、それは単に「好き嫌いの差別」と切って捨てられる話ではなくなるのではないか。

もう一度書く。
他者による努力の認定は、結果によってのみ測られる。

>そうなった (歴史的または個人的) 経緯や、そうした属性を持つ者に見られる共通属性として認識されがちなものは、各個人においては必ずしも事実ではない。

個人差があることは承知しております。だから本来は個人の実際の属性において個人の価値は評価されるべきです。それが理想的です。
しかし実際問題としてはすべての個人をよく知ることは不可能なのです。それぞれのことを理解しようとしたら大変な時間がかかりますし、内面的な部分は外から観測することができません。
つまり個人の属性は多少なりとも過去の経験を基に推測するしかないことになります。
過去に見てきた太っている人の体が臭ければ、新しく会った太っている人も臭いのかな、という推測は避けられません。それは人間の学習能力です。
そうなると、在日朝鮮人が全体的に民族意識が高いことであったり、犯罪率が高いことであったり、そのような在日朝鮮人のグループとしての特徴を個人に適用して考えることは、人間にとって極めて合理的な行動です。イメージは必ず付きまとうのです。

アメリカでも、黒人の犯罪率は高いですが、白人からしてみればどの黒人が悪人でどれが善人なのか外見からは判断しかねるので、"犯罪を避けたければ黒人の多いエリアを避けるべきだ”という合理的な結論にたどり着きます。

これは差別者が差別をしたいと思ってしているわけではなく、合理的な行動をとることが差別につながる場合です。もちろんまったくの悪意と偏見に満ちた差別は非難されるべきですが、客観的な事実に基づいた合理的判断によって生まれる差別を非難するのはおかしな話です。

>地域の一員として認められたという実感が得られる「機会」が、差別故に得られないのだとしたら、それは単に「好き嫌いの差別」と切って捨てられる話ではなくなるのではないか。

周りから認めてもらえない故に、機会を失うというのは誰にでも起こります。当人がどう思っているかは関係ありません。あなたは太っている人がモデルになれないのを、差別によって「機会」が得られないと言って擁護しますか?

もちろん、日本人が在日朝鮮人を嫌う理由が事実無根の嘘に基づいていたり、悪意のある印象操作の結果だったりするならば、その場合は差別は合理的でなく、日本人は事実に基づいた判断をするべきです。
しかしこの記事では、在日朝鮮人が日本人に嫌われるようなことをしたかどうか、日本人に在日朝鮮人を嫌う正当な理由がそもそもあるのかどうかは論点ではないので、「在日朝鮮人には一部の日本人から嫌われるもっともな理由があるのだ」という前提でコメントをしました。
その前提が間違っているならば私は謝罪しなければいけません。

とはいえどこまでが"もっともな理由"であり、どこまでが“でたらめな理由”であるかを判断するのは難しく、結局個人の裁量次第という場合が多いので、その差別を社会的に許容するかどうかは結局社会の裁量次第なんだと思います。
そうなるともちろん社会的価値観の形成能力に劣るマイノリティーは不利になりますが、それはマイノリティーの宿命でもあり、マイノリティー自らの力で乗り越えていくしかないと思われます。

興味深く拝見しました。

kntkmさんのコメントに同意です。
私が思ったことを全て書かれていました。

この記事の執筆者さんは冷静に考えることができる方のようですが、なにかあると「差別だ」とすぐに騒ぎ立てる連中と、それを正当のようにとりあげるマスコミにはうんざりします。

本文で批判されている好例がコメント欄にもたくさん見受けられますね。全体として、具体例が豊富なエントリーになっており、興味深く読ませて頂きました。

誰かが「それはイヤだ!」と声を上げれば、まずはそれに耳を傾けてみよう。
この議論の出発点は、そういう単純な呼びかけにあるのだと思います。

マジョリティがマイノリティに「差別」されて被る損害がいかほどなのか測りかねますが、賠償を要求したくなるほどに精神的な傷を負っている方もおられるところから察するに、それだけ自分の民族的アイデンティティを傷つけられるのは辛いことなのでしょう。
まるで、「日本人である」という事実が唯一の心の支えであり、自分を必死に守っているかのように見えます。心の弱い自分にもその気持ちには幾分か共感できるのですが、人のそのような姿を見ると何か息が詰まる思いがします。

「差別する傾向のある人は差別の存在を認めない傾向がある」この単純なフレーズを見事なまでに証明している人がコメント欄にワラワラ湧いてますね。
「あなた方も歩み寄りなさい」だなんていってるけど要は「差別されたくなければ日本国籍取れや」です。
歩み寄りと言いつつ一方的に相手に国籍を捨てるよう要求している。
言うまでもないけどこれなんかネトウヨ言説の典型ですね。

ほかにも「差別じゃなくて区別ですよ」的な言説をしたり顔でまくし立ててる者も。
こんなこと言ってて恥ずかしくないんだろうか?

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このページは、mskimが2010年2月14日 07:36に書いたブログ記事です。

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