これまでにいくつかの大学で差別研究について教える機会を持ったことがあります。その種の講義(以下、「差別論」)では、学生たちに繰り返し繰り返し、3つの留意事項を伝達する必要がありました。
- 差別問題は「被差別者の問題」ではないこと
- 家族やメディアといったほかのテーマと同じように差別という題材に向き合うこと
- 形式的な「正当/不当」(誰が「悪い」のか?)の結論を急ぎすぎないこと
3つは同根の問題ですので、すべてを合わせて「安易に《犯人探し》をするな」と言い換えてもかまいません。でも、少しでも具体的なほうがわかりやすいでしょうから、3つに分けて説明していきましょう。
1はvictim blamingとして知られる問題ですね。「被差別者の問題」という発想がいかに非論理的であるかを毎回のように説明しておかなければ、ミニッツペーパーに「今回の事例は差別される側に問題があると思います」と書いてくる学生が必ず出てきます。加害者扱いされたくなければ、差別だと訴えるマイノリティを攻撃するしかないと思い込んでしまう学生は必ずいるのですね。でも、そのような非合理的な情動に支配されているようでは、論理の体系である学問はできません。
2について。差別というと、(多くの運動家の言うこととは逆に)なぜか学生たちは自分自身をその現象の当事者とみなしがちです。具体的な事例を紹介すると、「差別者」を自分と同一視して自己嫌悪に陥ったりする。他の社会学的なテーマとは違って、一歩身を引いて観察するということがなかなかできないのです。加えていうと、学生たちはどうしても差別に関わるものごとを、当為(◎◎すべき)の問題としか捉えられない。当為ではなく、事実(◎◎である)の問題として観察できないと、学問は成り立たちません。
3について。差別というと、学生たちはすぐに《この事象は許されるけど、この事象は許されない》とか、《誰々が悪いからこうなったのだ》式の主張に飛びつきがちです。差別という悪徳がある以上、その罪を何者かに着せないと安心できない、ということなのでしょう。論理を積み重ねてそういう結論に到達するのであればまだいいのですが、学生たちが展開するのは、残念ながら、道徳的直感に頼りながら正当/不当、善/悪について評定するようなものばかり。道徳的価値観に目が曇っているようでは、学問はできません。
他の科目では、このような留保を何度も何度も授業の中で伝えなければならない、ということはほとんどありません。差別論に固有の問題です。差別という題材には、学生たちを学術的な姿勢から遠ざける何かがありますね。
とにかく、《差別問題を解決したい》とか、《加害者扱いされるのはガマンならん》とか、原初的な問題意識はそれぞれ抱えていてもかまいません。でも、学問をやる前に、いったん棚上げしておかないとね。
以上。次回は、小中学校での人権教育の問題点について(予定)。

差別を解消しようとする運動と、純粋に学問的な探求としての差別論を区別すべきである、という主張には共感を覚えました。
その上で、あえてどのように両者を接合するのかと考えると、差別論には「差別の原因を解明することによって、差別解消の手がかりを与える」という役割を与えることができるように思われます。
差別を取り除こうという運動は、差別とは不正であり取り除くべきだ、という価値・当為の判断によって動機付けられているとは思います。が、やはり「差別は不正だ」と言うだけでは差別は減らないですね。学問的な観点からだけでなく、実践的な観点からも、当為ではなく事実に基づいた考察が重要なのだと思いました。
差別論は、「差別する人間は悪い」という非難に替わって、差別している人間の混線した頭の中を解きほぐし整理するという、差別解消のもう一つの方法を提供してくれるのではと個人的に期待しています。