2010年2月アーカイブ

差別と政治、差別の政治

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 前回のエントリーでは、実践面からいえば、どういう行為が「不当」なのかについての議論を国会と裁判所に丸投げしてしまうのも一つの合理的な解決策だと紹介しました。合理的というより、それ以外に方法がないといいますか。

 しかし、実をいうと、「机上の空論とはこのことか!」と謗られてもしかたがない暴論だと、ぼくは思っています。佐藤さんの議論は、学術的には美しいんだけど、いつも実践面が弱いんだよなぁ。

 だって、人権侵害の被害を回復したり、被害の発生をなくしたりするのが実践的な目標ですよね。人権侵害かどうかの判断を国会や裁判所に丸投げしたうえで、その目標が実現されるためには、国会や裁判所が人権侵害をしないという前提がなければなりません。でも、ぼくの知るかぎり、国会も裁判所も、少なくともぼくの判断では、たくさん人権侵害を重ねてきましたからね。とてもそんな信用はできないわけです。差別と政治というのは、どうもウマが合わない。

 そんなコメントが付かないかと半ば期待してネットを見ていたのですが、残念ながら(?)、そういう厳しいのは今のところありませんね。学者の言いなりじゃ、差別の巧妙さに抵抗なんてできないよ。

 例えば、中井洽拉致問題担当相が朝鮮学校を高校の実質無償化の対象外とするよう求めている。そして、今の時点では、鳩山首相もそれに反対してはいません。でも、朝鮮学校だけを除外するというのは、いくつかの法的な人権侵害の定義に抵触する話です。まだ議論の途中であるにもかかわらず、すでに国連の差別撤廃委員からクレームが付いていますね。もし、中井大臣の提案の通りに実施されることになれば、当然、訴訟が起こるでしょう。

 ところが、その種の訴訟で、マイノリティの訴えがなかなか通らない。なぜなら、日本の法律は、人権侵害の被害者をサポートするようには、作られていないからです。...ちょっと言いすぎかな? でも、そう思われても仕方がない面が多々ある、とは明言していいでしょう。

 実践面に期待して国会や裁判所に任せても、少なくとも現状では、実践的な答を得られない可能性が高い。とすれば、「人権侵害」の客観的定義を国会や裁判所に任せるというアイディアは、実質的にはあまり意味がないということになりかねません。

 では、何か代替案はないのか?

 つまるところ、差別とは政治です。政治といっても、議員の仕事の話ではありませんよ。社会学者にとっての政治とは、何が正しいのかをめぐるすべての争いのことです。(国会でやっているアレと間違いやすいので、こういう意味での政治をカタカナでポリティクスと書いたりもします。)夫婦の口げんかも政治なら、政策をめぐる世論も政治。裁判官だって世論を無視できない以上、法の運用もやはり政治の問題です。

 ある事象について「不当」であるという訴え(差別だ!)が、それを無視したり(考えすぎじゃない?)、否定したり(それが差別なら何でも差別になっちゃうよ)する多数派の声をかき消すことができれば、訴えのあった事象が世間の「不当なものリスト」に書き加えられていく。逆に、多数派の声にかき消されてしまえば、「不当」だとは認めてもらえない。こういう、一連のダイナミズムを、「差別の政治」と表現します。

 社会的構築主義の立場から、「差別の政治」に取り組んだ好著に坂本佳鶴恵『アイデンティティの権力―差別を語る主体は成立するか』(新和社)があります。坂本さんは、「差別という実態的現象が存在し、つねにその存在については指摘できるかのように考え」ることは誤りだといいます。客観的には規定できないというわけです。なぜなら、「何が差別であるかは社会的に共有されているわけでは...中略...ない。差別という現象はある事柄を差別とする人々がいるのに対し、差別でないと主張する人々がいるということに問題の根本がある」からです。

「同一社会内で一致すると想定されている異質な規範間のずれが、成員により告発されあらわになった、社会現象である」

 これが坂本さんによる差別の定義。 「およそ差別というものに共通の原因など存在しない」という坂本さん(というより構築主義)ならではですね。要するに、(1)差別だという訴えがなされ、(2)そういう訴えがあったと広く知られるようになったものが「差別問題」だ、ということになります。

 構築主義は、「差別の政治」のようなダイナミズムを描写するうえで、きわめて強力な説明枠組みを提供してくれます。構築主義ならではの弱点もあるのですが、この立場によって初めて説明可能になる事柄は少なくありません。

 例えば、不当性の問題も、これによってある程度決着が付きます。ラフにいえば、「何が不当なのか」→「不当だと訴えのあったこと」というわけです。

 つまり、現時点ではまだ表面化していない規範のズレ(例えば常識と実感のズレ)があるとしましょう。誰かがそれを差別だと訴え、その訴えに広く注目が集まるようになれば、今後はそれが差別問題の一つに数えられるようになっていく。だから、客観的に不当性を規定しようとしても意味がない。むしろ、不当性をめぐる政治に注目しなさい、という主張です。

 最後に、同書から「差別の政治」をうまくいいあらわした文章を二つ紹介して、今回は終わりとします。

「差別は主観的なものである。しかし、それが共同主観に、より大きな共同主観になっていくよう争っていくものなのである。」

「差別は、つねにすでに認識され、差別として存在しているものではない。告発によって、見いだされていくものなのである」

(注)このエントリーは2010年2月26日に一部を公開し、2月28日に完成しました。

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 履歴書のファイルが古いものに入れ替わっていましたので、修正しました。http://han.org/a/vita.html

 今日、その古いファイルを見た人から、「41歳にもなって学部の卒業式のときの写真は詐欺だろう」といわれましたが、故意ではありません。まあでも、ファイルが古くなったのを指摘してくれてありがとう。

 不当性を要件としているかぎり差別を客観的に定義することはできない、というのが前回のエントリーでした。かといって、不当性をまったく定義に含まないというのもなかなか難しい。

 前回の議論を整理する意味で、ひとつ別の定義を紹介しましょう。新保満先生が岩波新書で使った非常にシンプルな定義です。永遠の名著『人種差別と偏見―理論的考察とカナダの事例』(1972年)より。

「差別は特定の社会集団に所属していると見なされる個人に対する異なる取り扱い」

 つまり、新保先生は、(1)特定の社会集団(ないし社会的カテゴリー)に所属しているという理由で、(2)異なる取り扱いをしたら、それだけでもう差別だ、というわけです。すばらしい。オッカムの剃刀とはこのことか、と思わせる美しい定義です。

 この定義において、「異なる取り扱い」が不利益を生ずるかどうかは問われません。なるほど、他人からはうらやましく見える特別待遇でも、当人にとっては不快だということもありますね。不利益も不当性と同じで、一意には規定できない面がある。だから定義には含まない。そして、不利益の発生を定義に含まない以上、その不利益が不当かどうかも定義に含まない。

 ただ、この条件だと、差別に当てはまる範囲が広すぎて、直感的におかしいと思われる事例を排除できないのが難点でしょうか。

 例えば、何らかの集団のメンバー(例:子ども、高齢者、障害者)を特別に保護の対象にすることも差別ということになります。たしかに、レディ・ファーストやインディアン法のように、温情主義が差別のあらわれという場合もあります。でも、特定の社会集団を保護する制度や行為のすべてが差別だということになると、ちょっと行きすぎでしょう。

 つまり、新保先生の定義は、差別を把握するための十分条件にはなっているかもしれないけど、必要十分条件とは言えない。美しい定義なのですが、美しいだけに《何かが足らない》ということがよりハッキリする。

 何かとは、やはり、不当性です。ここで冒頭の問題に戻ります。不当性を要件としているかぎり差別を客観的に定義することはできない、かといって、不当性をまったく定義に含まないというのもなかなか難しい。

 では、どうしたらいいのか。どうすれば差別を客観的に定義できるのか。今回は、二つの考え方を紹介します。

 一つ目は、不当性の根拠を人権に求める、という解法です。何度か紹介した佐藤裕『差別論―偏見理論批判』 (明石書店)から該当する記述を引用します。

「差異モデルでは、不当性の根拠付けは比較的簡単であるように見えます。『異なる扱い』が不当である理由、それは『平等』という規範に反するからにほかなりません。...中略...平等に扱われることが『権利』として構成されているからです。すなわち、差異モデルでは『権利(の侵害)』という論理が差別の不当性を最終的に基礎づけている論理であるといえます。」

 ここでいう差異モデルというのは、新保先生のように、「異なる取り扱い」に注目して差別を定義しようとするアプローチのことです。前回紹介した3名も、「不利益な取扱い」を定義に含んでいましたので、やはり差異モデルということになります。

 で、佐藤さんは、ようするに、「人権」を侵害されたかどうかを不当性の根拠にすればいい、といっているわけです。前回紹介した野口さんも同様の定義をしていましたね。

 ただ、前回も書いたとおり、「人権」というのは普遍的で客観的なものではなく、時代によっても社会によってもダイナミックに変わっていく不定形なものにすぎません。だから、「人権」を根拠にして「不当性」を規定しようといったって、あいまいであることには違いはありません。実をいうと上記の引用箇所を初めて読んだとき、「うわ! 佐藤さん、不当性の議論から逃げたな(笑)」と思ったりしました。

 しかしながら、「正当/不当」という価値判断とは違って、「人権」には国会や裁判所の議論の結果として法的な定義が与えられることが多いです。あいまいさは残るとしても、ぐっと具体的になることは確かですね。

 まあ悪くいえば、定義を国会と裁判所に丸投げしてしまうということです。あるいは、学術的な正確さはおいといて、現実の被害の発生を食い止めるために何が人権侵害に当たるかは政治的に決めてしまおう、という実践的な関心といってもよい。 

 でも、逆にいえば、不当性=人権侵害だと決めてしまえば、それによって実践的なメリットが生じます。佐藤さんの表現を借りると、「不当性を見出し、是正していこうとするときには差異モデルは必ず必要になります。いわば対症療法のために必要なモデルであり、しかも差別問題において対症療法は非常に重要です。」つまり、法的な定義を背景として、違反(=差別)が発生したら、それを取り締まったり訴えたりすることができる、というわけです。日本だと、人権擁護法案がまさしくこのスタンスを形にしたものということになります。

 二つ目は、不当な被害(=差別の結果)から差別を定義するのはやめて、誰が不当な被害を生む行為をしたか(=差別の原因)に注目する解法です。差別をする側とされる側の非対称性に注目するアプローチと言い換えてもかまいません。

 これの代表格が、頻出の佐藤裕さん。ミクロレベルの差別論に限れば、現時点でもっとも上手にパズルを解いているのは、まちがいなく佐藤さんだとぼくは思います。

 その前に、まずは佐藤さんの議論に決定的な影響を与えた江原由美子『女性解放という思想』(勁草書房)から、関連する記述を紹介します。 

「『差別』とは本質的に『排除』行為である。『差別』意識とは単なる『偏見』なのではなく、『排除』行為に結びついた『偏見』なのである。『排除』とはそもそも当該社会の『正当』な成員として認識しないということを意味する。それゆえ『差別』は差別者の側に罪悪感をいだかせない。なぜならわれわれが他者に対する『不当な』行為に対して罪悪感をいだくのは、他者を正当な他者として認識した時であるからである。」

 少し難しいですが、エッセンスは「『差別』とは本質的に『排除』行為である」という一文に端的に表現されています。ただ、新保先生と同様、すべての排除行為を差別であるとはいえないのが難点でしょうか。何か重要な要素が抜け落ちている。そこで、次に佐藤裕さんの定義。

「差別行為とは、ある基準を持ち込むことによって、ある人(々)を同化するとともに、別のある人(々)を他者化し、見下す行為である。」

  おそらく、ミクロレベルの差別行為については、この定義で完成に近いのではないかとぼくは思っています。ただ、これを説明するのはちょっと面倒なんですよね。できれば、『差別論』 か、ウェブで公開されている佐藤さんの論文を直接読んでほしいところです。

 と思っていたら、前回のエントリーを公開した直後に沼崎一郎さんからこんなツイートが。

@han_org A、B、C、Dがいるとき、Dに対してだけ、A・B・Cとは扱いを変える。扱いの違いにDが抗議する。なぜ扱いを変えるのかと問われて、私は「だって、Dは◎◎だから」としか答えられない。◎◎はカテゴリー。観察可能という意味で、客観的じゃないですか?

 おぉ、カテゴリーの恣意的な動員をこんなにシンプルにまとめてくれるとは。わずか120字。もうこれで説明に代えたいと思います。

 おなかがすいたので、なんとなく尻切れトンボだけど、今回はこれで終わります。

(注)上記とは別に、社会的構築主義の立場から差別を定義するやり方(例:坂本佳鶴恵『アイデンティティの権力―差別を語る主体は成立するか』新和社)も有力なアプローチです。このアプローチでなければ説明できない事象はたくさんあります。でも、これはもう「客観的」に定義することはやめてしまって、ものごとを動態的に定義するというスタンスなので、今回は触れません。 

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【追記】 2011年07月15日

 昨日、こういうツイートを目にしました。「わたしたち」の同一性を確認するために「あのひとたち」との境界線が恣意的に引かれるという現象をずいぶん上手に表現してあると思います。ご参考までに。

yhlee:よく、朝鮮人にひどい目に合わされたから嫌いになったっていうけど、相手が日本人なら、どこ出身か確認して、栃木県人だったら栃木県人全員嫌いになる、とか、そいういうことはないのよね。わたしが悪いことしたら、社労士嫌いになるとか、子持ちの女性嫌いになるとか、そういうこともない。 [http://twitter.com/yhlee/status/91441892440551424]

yhlee:この発言のポイントは「経験から属性全部に嫌悪感持つのはけしからん」ということではなくて、「そのときの属性は、勝手に選ばれるものだ」ということだよん。出身県で嫌悪感持ってるので違います(キリッ)という方は、誤解です。わかりにくくて失礼。 http://ow.ly/5EOll [http://twitter.com/yhlee/status/91597807680626688]

 

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 差別論のシリーズの途中ですが、ちょっと必要があって、HAN A面オンラインドキュメントに下記の雑文をアップしました。

 「マイノリティの戦略

 以上。

 ある学問分野において、もっとも基本的な事物を指し示す言葉を「基礎概念」といいます。基礎概念を組み合わせることによって、他の抽象度の高い概念を説明する、という形で学問という論理の体系が構築されていきます。したがって、基礎概念を定義することは、通常、その学問の入り口ということになります。

 ところが、差別論において、「差別」という概念を定義することは、学問の入り口どころか、むしろ究極のゴールの一つとされています。なかなか上手に定義できないんですね。

 例えば、2009年末に出たばかりの差別論の教科書を見てみましょう。好井裕明編『排除と差別の社会学』(有斐閣選書)です。いい本ですよ。おまけに、この分野には授業でそのまま使える教科書は少なかったから、貴重な本でもあります。

 この本の中で差別の定義というと、冒頭でアルベール・メンミ『差別の構造』という古典からさらっと差別主義の記述が紹介されているだけです。それも、解説らしい解説は付いていません。つまり、同書には、差別の定義について概念的に検討した箇所が、実質的には一つもないのです!

 批判してるんじゃありませんよ。むしろ、中途半端に理論を紹介するより立派なスタンスだと思います。初学者向けの教科書では、差別の定義をめぐる難解な隘路に入り込むより、具体的な事例に触れながら他の重要な基礎概念を学んだり、《差別を見抜く目》を養ったりするべきだ、という考え方でしょう。

 ともかく、差別の定義(差別とは何か)は、差別論の教科書が避けてしまうほどの難問なのだ、ということをあらかじめ知っておいてください。

 さ、それでは、オーソドックスな差別の定義例を3つ紹介しましょう。

「ある集団ないしそこに属する個人が、他の主要な集団から社会的に忌避・排除されて不平等、不利益な取扱いをうけること」(三橋修)

「個人の特性によるのではなく、ある社会的カテゴリーに属しているという理由で、普遍的な価値・規範(基本的人権)に反するしかたで、もしくは合理的に考えて状況に無関係な事柄に基づいて、異なった(不利益な)取り扱いをすること」(野口道彦)

「本人の選択や責任とは関りのないような個人の能力、業績ないし個人の行動と無関係に作られた自然的・社会的区分に属していることを理由にされて、集団ないし個人が不利益を被るか人権を侵されるか、不愉快な思いをさせられる行為」(鈴木二郎)

 これらの共通点を整理すると、ある事象が「差別」であるためには、以下の3条件を満たすことが必要とされているようですね。

  1. 集団ないし社会的カテゴリーに所属しているというだけで
  2. 集団や個人に不利益が生じ
  3. その不利益が不当であること

 おそらく、多くの人の経験的観察とも合致する条件だろうと思います。しかしながら、この種の定義には、3つの大問題が含まれています。

 第一に、発生した不利益を誰が不当であると決めるのか、という問題です。「差別の存在を認めない傾向とは」で紹介したデータは、まさしく「不当」だと判断した人が多いものほど上位に位置しています。各項目に序列が付いたのは、ようするに回答者ごとに不当/正当の判断基準が異なっていたからです。

 野口さんは「普遍的な価値・規範」というけれども、それは理念の上では存在しても、実際に観察することはできない架空の理想です。現実には、ある事象が不当かどうかの判断は、主観的、恣意的なものです。しかも、その判断は、一人ひとりで違うだけでなく、時代によっても、社会によっても変わります。例えば、旅館がハンセン病罹患者の宿泊を断るのは、現在の日本では明らかに不当なことです。でも、同じ日本でも10年前はそうではなかった。

 とすれば、不当性を定義に含んでいるかぎり、差別か差別でないかを客観的かつ一意に判定することは、原理的に不可能だということになりますね。

 第二の問題は、差別/被差別の非対称性が定義の要件に含まれていないことです。単純な話、もし完全に対等な集団間であれば、上記の3条件がそろっていても、一般には「抗争」や「競合」と呼ばれるだけであって、「差別」とはいわないわけです。非対称性は、明らかに差別の必要条件なのに、上述の定義のしかただと含まれなくなってしまいます。

 第三は、ある社会的カテゴリーに所属していることによって不当に被害が生じていることを訴えようとすると、被差別者はその社会的カテゴリーの存在を前提にしなければならない、という問題。

 被差別者がその社会的カテゴリーを納得して自ら引き受けている場合はいいのですが、そうでない場合は悲劇です。いやいや押し付けられたカテゴリーそのものが差別と感じられるのに、反差別を訴えるためにはそのカテゴリーの実在に立脚しなければならない。二重に拘束されてしまうのです。あえて具体例は挙げませんが。 

 どうでしょう。第二、第三の問題は逃げ道がありそうですけど、第一の問題はずいぶん難問だと思いませんか。なにせ、原理的に不可能なのですから。

 もし、誰もが納得する完璧な「差別の客観的定義」ができれば、それで差別問題はかなりスッキリと解決するはずです。なぜなら、個々の事象をその定義に当てはめて、「差別」に判定されれることは法律で禁止し、違反者は処罰すればいいわけですから。

 でも、残念ながら、差別の客観的な定義はなかなかうまくいきませんね。

 次回は、この難題への解決案2つ、の予定。たぶん。

ひと休み

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 二日前だったか、ぼくのエントリーへの批判を読んだ。他の人たちのコメントは賛成意見であれ反対意見であれ、巧拙を問わず、それなりに興味深く読ませていただいているが、その批判だけは身につまされるものがあった。

 その理由は、第一に、在日コリアンの若い子が批判者だったこと、第二に、おそらく四世の世代であるにもかかわらず、批判の内容が二世的なルサンチマンを引きずった痛々しいものだったこと、第三に、したがって批判の内容はぼくが若いころに民族運動家から受けた理不尽な批判を思い出させるものだったこと。

 批判の内容そのものは愚にも付かないものだったけれども、傷ついて防衛的になって過敏になって、そして傷口をさらけ出しながら必死に社会に向かって何かを訴えようとしている様子が痛々しくてね。21世紀にもなってこんな子がまだいるのか。その批判がコトもあろうにオレを向いてるのか。

 ツイッターで話しかけてみると、じつは日本人で、単なるカルスタ系の差別オタクだったみたい。いや、なんというか、ホッとした。かなり。本当に、よかった。

 そうそう、批判の内容が愚にも付かないと書いたけれども、もうぼくがネットにどういうことを書いてきたのか知らない人が多いんだなと実感しているところです。HANBoardから、一つだけスレッドを紹介しておきます。もし、それなりに興味深いと思ったら、過去ログを読んでみてください。在日コリアンがもぐら叩きにどれだけ疲弊させられるものか、わかるかもしれない。

http://han.org/hanboard/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=1436;id=

 あと、ぼくのエントリーに直接コメントを付けてくれたみなさん、ありがとう。コメント欄にリプライはほとんど付けていませんが、ちゃんと読んでいます。まあ、もう不毛なもぐら叩きはやりませんが。

偏見と差別の関係

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 差別についての研究には、ずいぶん多様なアプローチがあります。学問分野は心理学、社会学、経済学、政治学、等々と多岐にわたっているし、手法もミクロなものからマクロなものまで様々です。

 その中で、直感的にわかりやすいためでしょうか、(一昔前の)心理学分野の研究は一般にもよく知られているように思われます。偏見理論、社会的比較の理論、権威主義的態度、あたりです。とりわけ、偏見理論は差別についての通俗的解釈ともよく合致するため、道徳教育の一環として行われる人権教育においても頻繁に言及されています。

 ここでいう偏見理論とは、「偏見」という心理的な準備状態があるから「差別」という行為が発生する、という前提を含む研究群の総称です。一般には、「差別意識が差別を生む」という表現のほうがなじんでいるかもしれません。「差別は心の問題である」というとき、偏見理論が想定されていることが多いように思います。

 でも、当の心理学分野において、偏見理論はもはや過去の遺物とみなされており、ほとんど注目されることがなくなっている、ということはあまり知られていませんね。(Allportを再評価する向きもあるようですが。)

 ぼくは前任校で心理学主体の学科に所属していましたので、偏見理論が後退した理由を同僚に尋ねたところ、次のような回答を得ました。

 (1)パーソナリティで説明できるのは差別現象のごく一部でしかないこと、(2)「投射」など理論としての精度が低い概念を含むこと、(3)偏見の重要性に過剰に注目するとそれ以外の差別発生メカニズムが見えなくなってしまうこと、(4)実践面においても差別の背後に偏見の存在を前提としてしまうことにより、「偏見を持っていないから差別をしていない」という言い訳に利用されてしまうこと、(5)現在の心理学では、むしろ偏見を持たなくても、自動的な心理プロセスとして差別が発生するメカニズムのほうが研究の主流になっていること。

 以上の回答が間髪おかずに同僚の口から帰ってきました。偏見理論の問題性は、心理学分野ではいわば常識として理解されているのだな、と少しうらやましくなりました。

 というのも、日本の社会学分野で偏見理論を正面から批判した著作は、おそらく2005年末に出版された佐藤裕『差別論―偏見理論批判』(明石書店)が最初だと思われるからです。佐藤さんもぼくも、大学院生のころから学会でことあるたびに同様の偏見理論批判を口にしてきましたが、すんなり批判が受け止められ、同意されることは少なかった。反論はないけれども、「阪大の《計量の人たち》がちょっと変わったことを言ってる」という雰囲気。偏見理論は、一部の(特に運動家的な特性を持つ)社会学者に、根強く支持されているのだなと話し合ったものです。

 いま「日本の社会学分野で」と書きましたが、例えばアメリカではロバート・K・マートンが1948年の「差別とアメリカの信念」という論文で以下のような分類を提示しています。

  1. 偏見も持たず人種的差別もしない人(All-weather Liberal) 
  2. 偏見は持たないが、差別をする人(Reluctant Liberal)
  3. 偏見は持つが、差別をしない人(Timid Bigot) 
  4. 偏見を持ち、差別もする人(All-weather Bigot)

 1と4は説明なしでわかりますね。

 2「日和見平等主義者」の事例としては、「黒人差別法制期のアメリカ南部において、人種的不平等は間違っていると心の中では思いながら、他の白人から焼き討ちにあうことを恐れて、黒人へのサービスを拒絶する白人向けレストランのオーナー」等。

 3「臆病な差別者」の事例としては、「女子職員は無能だと信じているけど、辞められると困るから、男子職員と平等に扱う商店主」等。

 2と3の事例は、すなわち、偏見があっても差別はしないこともあるし、 差別しているからといって偏見があるとはかぎらないことを端的に示しています。この論文は、偏見と差別の因果関係に留保が必要であるということを、たいへんスマートに論証した論文としてよく知られた業績です。

 この種の事例は枚挙に暇がありません。例えば、「統計的差別」も2の典型事例です。統計的差別とは、属性によって不利な統計的事実があれば、それによってその属性を持つ人々が不利な扱いを受ける現象を指します。日本の労働市場で言えば、次のようなこと。

 戦後一貫して女子職員の8割は結婚ないし出産を期に退職してきた。一方、雇用流動性が高まったとはいえ、男子職員の離職率ははるかに低い。もちろん、それは就労機会に男女で格差があったためだけど、統計的事実であることは確か。それを知っていれば、たとえ職員の能力に性差はないと信じている経営者でも、OJTなどの教育投資を無駄にしないためには、男子職員を雇用するほうが合理的。その結果、女性の被雇用率は低くなってしまうのだ、というわけです。

 そろそろまとめに入りましょう。

 「偏見によって差別が生まれる」という説明はたいへんわかりやすいです。しかも、道徳教育を行ううえで都合がいい。おまけに、差別を糾弾する運動においても効果的です。

 しかし、それだけに、本来は多様なはずの差別のあり方を、すべて偏見という心の問題に回収してしまう困った効力を持っています。

 偏見理論はある種の差別事象を説明する力を今でも持っています。しかし、それは多様な差別事象のごく一部でしかないのかもしれないと、つねに意識しておくことが重要だと、ぼくは思います。

P.S.

 マートンの類型と紹介事例の対応関係が間違っていたのを速攻でsilly_fishさんが指摘してくれました。深謝。

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HAN A面オンラインドキュメントに下記の論文をアップしました。

金明秀「計量研究はいかにして社会的カテゴリーの生成に関与するか」『解放社会学研究』第20号、日本解放社会学会、2008年9月

このブログのタイトル

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 このブログには名前をつけるつもりはなかったので、しばらくの間、「金明秀の公式ブログ」とだけ題していました。ところが、知人から、「金明秀 公式ブログ」はダメダメやろ(笑)!と痛罵されましてね。

 でも、名前をつけると特定の方向性に縛られてしまうことがあります。そこで、意味がわかりにくければ名前をつけないのと同じだろう、と考えて決めたのが現在のタイトル《Whoso is not expressly included》。読めない記号を名前にしたPrinceの気分...ちょっと違うか。

 タイトルの意味は解説しないつもりでしたが、キザったらしいと思われたらイヤなので、この辺でさりげなく書いておくことにします。

 出典は、ゲオルク・ジンメル「秘密と秘密結社」の英文翻訳版です。Georg Simmel, "The Sociology of Secrecy and of Secret Societies," American Journal of Sociology 11 (Trans. Albion W. Small) 1906.

In  contrast  with  the  fundamental  principle:  Whoso is not expressly excluded is included, stands the other:  Whoever is not expressly included is excluded.

 野村一夫さんが「排除されていない者は包括されている」というフレーズでこの一文を紹介していますので、知っている人も多いでしょう。

 でも、翻訳英文を見てもらうとわかるように、「排除されていない者は包括されている」には対置される命題があるのですね。「包括されていないものは排除されている」です。これを野村一夫さん風に深読みすると、他者化されるマイノリティということになりますか。つまり、最近ぼくが書いている一連のエントリーのテーマと密接に関連する文章になるのですね。

 ブログの方向性を定めたくないという気持ちもありましたが、けっきょく、これまでに書いてきたものは、他者化された位置から、他者化する視線を批判するというものが多かった。おそらく、ぼく自身がWhoso is not expressly includedの一人だからでしょう。

 そういう意味で、はじめは気乗りしないままつけたタイトルですが、まあこのブログにふさわしいものになったんじゃないかな、と今では思っています。 

人権教育の問題点

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 人権教育について市民意識調査を実施すると、自由記述欄によくこのような内容のことが書かれてきます。

「小中の同和教育で、初めて被差別部落について知った。同和教育があったから、被差別部落の存在も知ったし、差別される存在であるということも知った。それによって、自分との違いを意識するようになってしまった。いわば、同和教育によって、私の中に、ある種の差別感が芽生えていってしまった。同和教育なんかないほうがいい」

 授業で人権教育について言及したときも、かなりの学生がミニッツペーパーにこういう趣旨の感想を書いてきますね。

 しかし、この意見はナンセンスです。なぜならば、「学校の同和教育によって被差別部落について初めて知った人」は、「近隣や親、友人、知人、先輩などからインフォーマルな形で部落についての情報を初めて聞いた人」に比べて、被差別部落への差別的態度が明らかに弱い、ということが各種の調査からわかっているからです。

 たとえて言えば、同和教育は生ワクチンのようなもの。受けることによって、自覚しない程度の軽い偏見に感染してしまう。けれども、そのおかげでひどい差別意識を発症せずにすむわけです。だから、人権教育を《やるべきかどうか》という次元では、答えは明らかで、やるべきなのです。

 ただし、《どうやったらいいのか》という次元については、難しいところがあります。少なくとも、現行の人権教育のやり方には、明らかに間違っているところがある。

 小中学校の人権教育では、「差別をするのは悪い人」だと教える傾向があります。「差別をする悪い心があるから、差別が起こる。だから差別をなくすためには心の中の悪い部分をなくしましょう。一人ひとりが心の中から差別をなくしていけば、いつか社会から差別はなくなるのです」という教え方をします。

 でも、差別をするのはみんな悪い人でしょうか? 悪い人でなければ差別をしないといえるでしょうか? ぼくは、現実の差別事象というものはそんなに単純なものではないと思いますけどね。

 例えば、僕が小学生の頃は、教師が生徒たちの注意を喚起しようとして、「こら、おまえら、つんぼか!」という表現をよく使ったものです。教師の権威を利用した、あからさまな差別ですね。でも、このとき先生には、聴覚障害者を傷つけようという悪意はありません。「つんぼ」は《外部の存在》として利用しているだけであって、実際には聴覚障害者を傷つけようなんて思っていません。聴覚障害者のことを考えてもいません。なぜなら、「つんぼ」は、「見下される存在」として引き合いに出しただけであり、「おまえらその見下される存在か」「そうじゃなく、耳は聞こえるだろう」と問うているだけなのですから。

 また、例えば部落出身者がいて、そのことを知っている人がいるとしましょう。その人が別の友人に「ねえ知ってる? あの人、あっちの人なんだって」と、陰口をいうことがあります。この時も、部落出身者を傷つけようという悪意があって差別をしているとはかぎりません。そうではなく、「あの人とは違って私たちは仲間だよね」と確認したいがために引き合いに出されているだけなのかもしれない。この場合も、被差別者に対し悪意があるのではなく、我々の一体感を高めたいがために、《外部の存在》としてたまたま部落出身者が利用されているだけです。

 「我々はあの人たちと違って普通だよね」「我々はあの人たちと違って異常ではないよね」と確認するために、マイノリティが《外部の存在=他者》としてその場その場で利用されていく。「わたしたちは同じ仲間だよね」というメッセージを効果的に伝えるために、巧妙にマイノリティが外部化、他者化される。そして、マイノリティを見下したり、排除したりする感情が利用されていく。こういう場合、悪気がないだけに、「いえ、別に悪意ないから差別ではありません」という反論が起こります。

 ここでは、悪気がなくともコミュニケーションの中で差別が起こりうるという例を挙げましたが、他にも、経済的な条件が構造的に生み出していく差別、文化によって植えつけられる差別など、多種多様な差別の発生形態があります。いずれも、マイノリティを傷つけようなどという「悪い心」がなくても起こる差別ばかり。

 差別は、悪い人であろうが、いい人であろうが、誰だってやってしまう危険性があるものです。にもかかわらず「差別は悪い人がする」ということばかりを教えられている人からすれば「俺は悪い人じゃないから差別しない」「差別をする悪い心なんか持っていない。だから、差別していない」、「今言ったのは別に差別するつもりなんかなかった」で終わってしまいます。

 というわけで、差別を教えたり論じたりするとき、「差別は悪い人がする」というストーリーに固執するべきではない、というのが今日の話でした。

......これで締めようと思いましたが、ちょっと補遺を追加。どうせ何回かに分けても、読まない人は読まないから、関連する話題は書き終えておきます。

 なぜ、「差別は悪い人がする」という教え方になったのかというと、道徳教育の一環として差別論が教えられるようになったからだとぼくは思っています。倫理的にすばらしい人間になろうという道徳教育の一環として、反差別が取り上げられるとすれば、当然のことながら、「差別する心、卑劣な貧しい心をなくしていきましょう」という教え方になるでしょう。でも、これって、道徳教育のために差別を利用している、ということなんですよね。

 似た構図に、反戦教育のためにアジアや在日が利用されるというのもあります。「日本はかつてこんなにひどいことをしました。アジアの人はみんな怒っています。われわれは、申し訳ないと思わなければいけない。だから、日本はふたたび戦争に踏み出すことはできない。軍事国家化すれば、アジアの人がどんなに怒るか考えてみよ」という教え方です。アジアを利用せずとも反戦教育は単純にできるはず。ところが、「そんなことをしたら、隣のおじちゃんに怒られるよ」と言わんばかりに、「アジアに怒られちゃうよ」という形で、反戦教育を進めていくのです。

 それがどのような弊害を生むかといえば、「そんなに、反日、反日いうのだったら、日本から出て行ってください」という暴論を引き出してしまうのです。つまり、「確かに日本は悪いことをしたし申し訳ないと思います。でもそんなに日本が嫌いだったら出て行ったらいかがですか」という、ある意味で素朴な声を生んでしまう。

 ところが、当の在日コリアンは必ずしも日本を恨んではいません。特に、比較的若い世代にとっては、日本に対する愛着度、韓国に対する愛着度、在日に対する愛着度を測定しますと、一番高いのは日本に対する愛着度なのです。日本と韓国が試合をする場合、どちらを応援するかというと、多くの在日の若者は日本を応援すると言います。すでに住む土地としての日本に、愛着の基盤を寄せているのですね。日本がかつて行った自分の民族に対するネガティブな歴史については、しっかりと教えてほしいと思うけれども、そのことはそれとして、自分が住む地域として日本に対しては愛着を持っているし、今後もこの国で共に住んでいきたいと在日側は思っているのです。

 そういうと、「民族意識の強い人は反日に違いない」と、反論する人がいるかもしれません。でも、そうではありません。民族意識の強弱と、日本に対する愛着度の強弱は、統計的に意味のある相関関係がありません。つまり、民族意識が強かろうが弱かろうが、圧倒的多数の在日は日本に愛着を持っている、というのが現状なのです。

 ところが、上述のような反戦教育を受けた日本人の中には、加害の歴史につながる罪悪感を何とか解決したいと思い、いわば八つ当たりするために在日コリアンを利用していく場合がある。反戦教育にアジアを利用することによって、反射的に在日コリアンにその攻撃が向いていくという構図です。そのことが、ナショナリズムに対する需要の高まりと相まって、在日に対する攻撃を生んでいると、ぼくは考えています。

※最後の論点については、こちらも参考に。ある韓国人の感想。「日の丸、君が代を敬わない日本人は信用できない」

差別論を学ぶ心構え

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 これまでにいくつかの大学で差別研究について教える機会を持ったことがあります。その種の講義(以下、「差別論」)では、学生たちに繰り返し繰り返し、3つの留意事項を伝達する必要がありました。

  1. 差別問題は「被差別者の問題」ではないこと
  2. 家族やメディアといったほかのテーマと同じように差別という題材に向き合うこと
  3. 形式的な「正当/不当」(誰が「悪い」のか?)の結論を急ぎすぎないこと

 3つは同根の問題ですので、すべてを合わせて「安易に《犯人探し》をするな」と言い換えてもかまいません。でも、少しでも具体的なほうがわかりやすいでしょうから、3つに分けて説明していきましょう。

 1はvictim blamingとして知られる問題ですね。「被差別者の問題」という発想がいかに非論理的であるかを毎回のように説明しておかなければ、ミニッツペーパーに「今回の事例は差別される側に問題があると思います」と書いてくる学生が必ず出てきます。加害者扱いされたくなければ、差別だと訴えるマイノリティを攻撃するしかないと思い込んでしまう学生は必ずいるのですね。でも、そのような非合理的な情動に支配されているようでは、論理の体系である学問はできません

 2について。差別というと、(多くの運動家の言うこととは逆に)なぜか学生たちは自分自身をその現象の当事者とみなしがちです。具体的な事例を紹介すると、「差別者」を自分と同一視して自己嫌悪に陥ったりする。他の社会学的なテーマとは違って、一歩身を引いて観察するということがなかなかできないのです。加えていうと、学生たちはどうしても差別に関わるものごとを、当為(◎◎すべき)の問題としか捉えられない。当為ではなく、事実(◎◎である)の問題として観察できないと、学問は成り立たちません

 3について。差別というと、学生たちはすぐに《この事象は許されるけど、この事象は許されない》とか、《誰々が悪いからこうなったのだ》式の主張に飛びつきがちです。差別という悪徳がある以上、その罪を何者かに着せないと安心できない、ということなのでしょう。論理を積み重ねてそういう結論に到達するのであればまだいいのですが、学生たちが展開するのは、残念ながら、道徳的直感に頼りながら正当/不当、善/悪について評定するようなものばかり。道徳的価値観に目が曇っているようでは、学問はできません

 他の科目では、このような留保を何度も何度も授業の中で伝えなければならない、ということはほとんどありません。差別論に固有の問題です。差別という題材には、学生たちを学術的な姿勢から遠ざける何かがありますね。

 とにかく、《差別問題を解決したい》とか、《加害者扱いされるのはガマンならん》とか、原初的な問題意識はそれぞれ抱えていてもかまいません。でも、学問をやる前に、いったん棚上げしておかないとね。

以上。次回は、小中学校での人権教育の問題点について(予定)。

学問としての差別論

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 はてなのブクマコメントですが、面白いものすべてにリプライするのはムリなので、ちょっとだけピックアップさせてもらいます。

 その前に、ぼくがここに書いた一連のエントリーに対して、かりにぼく自身がコメントするならば、指摘するだろう主たる論点が2つあります。第一に、差別という現象に学術的に接近しようとすると、差別の解消を目指す運動は部分的に後退せざるをえなくなるんじゃないのか。第二に、もし学術的にも実践的にも、「差別者=悪人」という強固な前提が邪魔になるとしたら、差別研究の発展も差別の解消も、永遠にムリなんじゃないのか。

 これらの論点そのものは見当たりませんでした。でも、これらの前提となるロジックをどこかに内包するブクマコメントが以下の2つ。

 hal9009 そもそも差別ってそれを悪として駆逐するための概念ではなかろうか。それを前提としてこの調査の結果に対する意味づけを考えると鈍感な奴・人権について学んでいない奴≒悪、というなんともな結果に... 2010/02/15

 samoku 社会 「差別者=悪人」のイメージを壊しつつ差別を無くすって実に困難そう。「悪人から権利を勝ち取る」って闘争イメージのほうが動きやすくはあるのだろうなあ。差別を咎める時に相手を悪人扱いするなという話でもある 2010/02/17

 加えて、エントリーの内容を誤読してはいるけど、やはり上述の論点の基礎を含むコメントがこれ。

 usneet この具体例は結局「差別はあっても仕方がない」と言うことになって危険。差別的状況の把握能力と差別心の有無は違う。差別心からしか「差別」は産まれない、という前提がなければ差別は伐てない。 2010/02/15

 いずれも差別論の実践的な特性について的確に把握されていますね。

 ただ、ぼくがここで書いてきたことは、どちらかというと、差別の解消という実践よりも、差別の解明という学術的な課題に力点を置いている、と理解していただけるともっとうれしいです。

 さて、上述の論点について、前々回のエントリーで触れた「敬愛する先輩」が、著書の中で「差別論」と「人権論」を分けようと主張しています。手元に実本がないので記憶に頼って紹介すると、真理を追究するための学術的な議論(差別論)と、被害を回復するための政治的な議論(人権論)を混同すると、いつまでたっても合理的な解にたどり着かない、という話です。

※ 佐藤裕『差別論―偏見理論批判』 明石書店

 この主張はやや難解なロジックをその前提としていますし、「差別論」と「人権論」という類似概念にまったく違う意味を付与しなければならない難しさもありますので、誰もがすんなり理解して受け入れられる話ではないでしょう。

 その意味で、実効性には留保をつけざるをえません。おそらく佐藤さんもそれはわかっているでしょう。でも、ここで重要なのは、「学術的な議論と政治的な議論をいったん別のものとして論じるべきだ」という問題意識それ自体です。(差別論と人権論を分けようというのは、その問題意識を伝えるための手段にすぎません。)そして、ぼくもこの問題意識を共有しています。

 ということで、今回から何回かに渡って、なぜそのような問題意識が必要なのか、について書いてみたいと思います。

はてブって面白いね

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 前回のエントリーで、「趣旨をきちんと理解できた人はそう多くなかったかもしれません」なんて書きましたが、それについて補足を。

 本音を言うと、一連のエントリーはやや応用的なので、差別論に関する基礎知識がないと、もともと感受性の豊かな人でないかぎり、上手に要点を捉えることは難しいと思っていました。具体的には、(1)クレームのあった事例が「差別」かどうかは重要ではないこと、(2)「差別」にはどのような表出形態があるか、(3)victim blamingとは何か、(4)傷つけようという悪意が差別の原因というのは大間違いであること、を知っていないと味わえない話ですからね。これまでの経験則からいって、いくつかのエントリーを読むだけで理解できる人は「1割に満たないだろう」という判断でした。

 ところが。李怜香さんがはてなブックマークに登録した後、かなりの数のコメントが付いたのですが、その内容が結構いいのです。コメントの中のざっと3割ほどは、内容をしっかり理解したうえで、当人の言語で適切な批評を行っているものです。2ちゃんねるあたりとは密度が違う。前回のエントリーへのコメントにいたっては、大学院水準の訓練を受けた方が目立ちます。なんだか、大衆化する前のインターネット環境を髣髴とさせるノリですね。なつかしい。ウケたコメントには一つ一つリプライを返したいところです。

 ところで、興味を持って「はてな」を見てみたところ、面白いブログを一つ発見しました。その中の「ファッションレイシズムとウェブマイノリティの戦い方」は、マイノリティ・カバレッジのためにSEOをという主張です。力作ですよ。今後が楽しみな学生さんだ。

 ということで、「はてな」にはこのところ楽しませていただいている、という話でした。

 なんだか、前回のネタははてなブックマークで賛否両面から大人気でした。でも、いくつか前提となる知識がないとピンとこない応用的な内容でしたので、趣旨をきちんと理解できた人はそう多くなかったかもしれませんね。今回は、前回のエントリーの統計学的な根拠を少し紹介しましょう。

 かつて敬愛する先輩が差別論の授業資料をウェブで公開していて、その中に興味深い調査のアイディアが記載されていました。具体的な場面をあげながら、「次のいろいろなことがらを差別だと思うかどうか、1から3のうちでもっともよくあてはまる番号をそれぞれ選んでください」と尋ねます。それによって、「差別の存在を認めない/認めやすい傾向」を測定しようというわけです。

 先輩には無断でしたが、即、非常勤先の「社会学入門」を受講している学生を対象に調査をしてみました。(結果は翌々週の授業のネタに使いました。じつは、前回のエントリーは、その「翌々週の授業」の資料の一部です。) 

記述統計量

度数 平均値 S.D.
被差別部落出身者であることを理由に婚約を解消すること 143 1.16 .39
同性愛者が周囲から忌避されること 143 1.20 .47
男性の政治家が「女性は家庭で子育てに専念すべきだ」と言うこと 144 1.25 .59
HIVに感染していることを理由に解雇されること 144 1.26 .53
在日韓国朝鮮人が被選挙権を持たないこと 142 1.37 .61
重度の身体障害があることを理由にアパートの家主が賃貸契約を断ること 144 1.44 .61
特定の政治団体に所属しているために企業に採用されないこと 144 1.58 .69
結婚前に相手の家柄を調査すること 144 1.82 .76
テレビドラマで「めくら」「つんぼ」などの言葉を使うこと 144 1.82 .75
出身大学によって企業の採用や待遇が異なること 144 1.85 .78
公共の建物にエレベータなどが設置されていなくて、車いすの障害者が上の階に上がれないこと 143 1.96 .78
男女がともに働く職場で女性のヌードのポスターを壁に貼ること 143 2.01 .82
企業に一定数の障害者を雇用するように強制すること 144 2.08 .76
女性の国会議員が男性に比べて著しく少ないこと 144 2.12 .71
先天性の障害があると診断された胎児を中絶すること 143 2.13 .66
職場の上司の私的な依頼(引っ越しの手伝い等)を強制されること 144 2.19 .79
オウム真理教の信者が地域社会から排斥されること 143 2.20 .72
女性がデートの経費を男性に支払わせること 144 2.21 .77
レイプを題材にしたポルノビデオを販売すること 144 2.22 .80
企業が「美人」を受付などに配置すること 144 2.24 .75
企業が採用の際に30歳未満という条件を加えること 144 2.26 .70
親のコネで一流企業に入社すること 143 2.27 .81
60歳で定年退職しなければならないこと 144 2.47 .69
女性が結婚相手に「三高」を選ぶこと 144 2.56 .58
職場で「性格が悪い」と感じる同僚との接触を避けること 143 2.59 .64
学生には馬券を買うことが認められないこと 144 2.69 .65
職場で将来の活躍を期待されていた女性が自ら結婚退職をすること 143 2.83 .39
20歳未満の者に選挙権が与えられていないこと 143 2.86 .40

 上の表が、質問項目と調査結果(平均値と標準偏差)です。回答は1「差別だと思う」、2「場合による」、3「差別と思わない」の3点尺度なので、平均値が2を下回ると、「差別だと認定した回答者が多い事象」ということになります(赤字)。また、平均値の順番に並べてありますので、上に行くほど「差別だと認定されやすい事象」、下に行くほど「差別だと認められにくい事象」ということになります。

 社会科学として差別研究に取り組んだことのない方は、こういう表を見ると、どの事象が差別であり、どの事象が差別ではないか、と判定したがる傾向があります。まあ、差別かどうかがハッキリすれば、「差別」と認定されたことをやらなければ加害者扱いされるリスクがぐっと減りますからね。前回述べたように「悪人呼ばわりされたくない人」であれば、白黒付けたくなる気持ちはわかります。ちょうど、前回のエントリーに付いたコメント3件がすべてそういうものでしたね。

 でも、一番上の項目でも「差別と思わない」と答える人はいますし、逆に一番下の項目でも「差別だと思う」と回答する人はいます。一番上から一番下までのどこかに恣意的に線を引いて、「ここから上は差別です」などと決め付けるのはナンセンスです。

 そもそも、この調査の目的においては、どの事象が差別(だと認められやすい)か、ということはほとんど重要ではありません。調べているのは、回答者の心理的要素(差別の存在を認めない/認めやすい傾向)なのですから。

 上記の回答の素点を全部加算すると、最小値40、最大値73、平均値56.7、標準偏差6.4、という変数ができあがります。この得点が高ければ、上記の設問で「差別と思わない」と回答することが多かったということですし、逆に得点が低ければ、「差別だと思う」と回答した項目が多かったということになります。これは、「差別の存在を認めない/認めやすい傾向」の尺度だと解釈できます。

 かなりラフではありますが、こうやって作成した尺度と、別途作成した「マイノリティへの冷淡な態度」との相関係数を求めたところ、0.49という値になりました。つまり、差別の存在を認めない傾向のある人ほど、被差別集団に冷淡な態度を持っている傾向がある、ということです。

 となると、「差別の存在を認めない傾向」というのは、やや文学的なレトリックを使うなら、「人権問題への鈍感さ」と言い換えられる、ということですかね。ちなみに、0.49という値は、この種のデータにおいては、強い相関関係をあらわしています。

 学術的にどれだけ信頼できるか結果かというと、調査設計がラフですから、社会学分野では業績扱いはムリでしょう。でも、K西大学でも、K南大学でも、O教育大学でも、K女子大学でも、(上表の順位は変わっても)同様の相関関係が、ほぼ同じ値で出ています。まあ頑健な結果だろうとぼくは思っています。(むしろ、当たり前の結果すぎて、ちゃんと調査しようという気にもならないぐらいです)

 ようするに、人にはそれぞれ、人権問題への感受性というか、差別の存在をキャッチする敏感さの程度のようなものが違った強さで備わっているわけです。そして、この感受性が弱い人は、単に鈍感だというだけでなく、マイノリティに対して冷淡な傾向がある、という話でした。

 昨日紹介した講演は、記憶の中では結構上手にこなしたことになっていたのですが、テープ起こしを読んでみると何を言っているのかわからない箇所がたくさんあります。もう少し上手にしゃべれるといいんですけどね。

 わかりにくかったからというわけではありませんが、今日も同じテーマを違う角度で書いておきます。

 「朝鮮学校がサッカーの地域代表になったとき、それを応援しなかったのは差別だという話がある。でも、朝鮮学校に知り合いはいないし、別に応援したいと思わなかったから応援しなかっただけ。それを差別だといわれるのはおかしい。最近、差別差別だといいすぎじゃないか。」

  なるほど、一理あるように聞こえます。「コーラは好きだけどオレンジジュースは好きじゃない。おなじリクツで、東海大仰星なら応援し、大阪朝鮮高なら応援しない。それは単なる好みの問題であって、差別じゃない。それを差別というなら、ご飯よりパンがすきだというのも差別になるじゃないか」というところでしょうか?

  でも、どうして朝鮮学校は「別に応援したいと思わなかった」んでしょう。実際には、知り合いがいようといまいと、日本人が通う高校だったら地域代表を応援したかもしれない。日本の高校だったら仲間だという感じがして、朝鮮人の高校だったら仲間だという感じがしないので応援しなかったのかもしれない。同じ地域の代表とは感じられず、別の民族の代表だと感じたのかもしれない。そして、別の民族の代表だから、応援しようという気持ちも起こらなかったのかもしれない。だとしたら、それは差別の異化作用です。

 もちろん、同じ日本人の通う高校でも、偶発的な事情で応援したりしなかったりもするはずです。でも、差別だという訴えがあったということは、そういう偶発的な事情では説明できないくらい、日本人の応援が少なかったということでしょうね。地域代表であるにもかかわらず、みんながこぞって朝鮮学校を「別に応援したいと思わなかった」とすると、朝鮮学校をヨソモノ視する排外的な感情がどこかに働いたということです。

  ちなみに、「最近増えている」のは、こういう差別を差別と認めたがらない意見のように思われます。これも、典型的なvictim blamingです。このことを手がかりに、victim blamingが発生する仕組みについて考えてみましょう。

 すでに各種の調査で明らかなことですが、差別に対して鈍感な傾向にある人は、差別の存在を認めたがらない傾向があります。つまり、差別を区別だといって正当化したがる。これはおそらく、「マジョリティであるだけで自分が差別者=悪人として糾弾されるのはゴメンだ」という判断が働くせいでしょう。そういう人には、マイノリティの立場を想像してみることは難しいようです。

 たとえば、社内で「セクハラ防止規定」のようなものを作ろうとしたとき、男性社員が「それもセクハラなのか? そういう規定が濫用されると何でもセクハラになってしまうじゃないか」といった反対をすることが多く、セクハラの被害にあった女性同僚をいかにサポートするかという観点はすっぽり抜け落ちているものです。

 差別を受けることのないマジョリティの地位に安住している人にとっては、差別などという重たい問題を目に見えるところに突きつけられるのは気持ちのいいものではないでしょう。そんな問題は考えたくない。みたくない。できれば逃げたい。そんな感情が、差別の存在を否定する態度にあらわれます。

 でも、マイノリティにとっては、差別は逃げられない日常です。のんきに「差別を見たくない」といって逃げられるマジョリティとは違って、逃げたくても、見たくなくても、考えたくなくても、否応なく突きつけられる日常です。マジョリティにとって差別はたんなる知識かもしれないけど、マイノリティにとってはリアルな現実です。

 悪意がなくとも差別は起こるし、差別が起これば被害者はさまざまな損害をこうむる。この単純な原理が、差別者=悪人のイメージに邪魔されてなかなか理解されない。差別だという訴えは、「私は傷ついている」という単純な主張であって、「オマエたちは悪人だ」と訴えているとはかぎらない。にもかかわらず、マイノリティの必死の訴えを、差別を見たくないというだけで「それは差別じゃない」と切り捨てる。自分も悪人の仲間だと思われたくないという理由で、差別反対運動のジャマをする。

 マイノリティが差別と懸命に闘って、ようやく必死の思いで傷口を見せて「差別だ」と声をあげたとき、いつでも逃げられる安全で優位な立場にいながら「最近、差別だと騒ぎすぎるやつが多い」などと批判するのは、タダ単に傲慢なだけでなく、二次的な差別とすらいえます。セカンド・レイプならぬセカンド差別。

P.S.

 こちらも参照。てのる【Gay】タイムズ「それ、ちょっとイヤなので、やめてくれませんか?」

 前回のエントリーで、「衝突壁」については別の機会に、と述べましたが。でも、よく考えてみると、2003年ごろに中学校の先生方を対象とした講演会で同じようなことをしゃべったことがありましたので、そのテープ起こしの内容を紹介することにしましょう。

――――――

 しかし、ナショナリズムに関するどういう情報を、どういったふうに消費していったらいいのか、おとなたちも迷っているというのが現状です。左右両翼が入り混じって《国家的な自分探し》をしている感じですね。そうなると、高校生たちなんか、ナショナル・アイデンティティを模索し始めたばかりだし、まして、中学生ぐらいになるとはじめてナショナリズムというものを意識化するようになったばかりという年齢層でしょう。ナショナリズムが自分探しとリンクしているような気がするけれども、その正体はわからない。

 そういうときにどうするか。「日本人としてのぼくはどうすればいいのだろう、どういう考えをもてばいいのだろう」といった疑問を解消するために、「非日本人」という《外部の存在》を利用するわけですね。どういうふうに利用するのかというと、ちょうどガードレールにぶつかっていくイメージです。

 たとえば、皆さんがお持ちの生徒さんたちも、「自分はどこまで自由を持っているのだろうか」ということを確認したがります。そして、それを確認するために、わざとルールを破ったりしますね。そして、「あっ、ここまでならOKなんだ、ここまでやったら、ダメで怒られちゃうんだ」というふうに、わざわざ、ルールを故意に破って、ルールの外延を確かめていくということをしますね。それと同じく、自分のアイデンティティがわからないとき、そのアイデンティティの輪郭をはっきりさせるために、自分と他者との境界線を探ろうとします。その時に利用されるのが、《外部の存在》であるマイノリティなわけです。

 ちなみに、アイデンティティの問題は、民族差別にかぎらず、ほかのどれでも一緒です。外部を利用することによって、「わたし」や「われわれ」を確認しようとする。

[...中略...]

 それと同じように、日本人らしさを確認するために異文化マイノリティに衝突して確かめてみる、ということがありうる。つまり、マイノリティ、例えば在日韓国・朝鮮人というのはこういうやつらなんだというイメージをまず作り上げる。そして、そのイメージを攻撃する。そして、その攻撃したことに対する反論を受けてそれによって「ああ、日本人っていうのは、こういうふうに見られるんだ」とか、その反論に対して再反論をしていくことによって、「ああ、日本人はこういうふうに言論を申し立てていくべき存在なんだ」ということを理解しようとしているわけなんです。

 先ほどの読み上げましたメッセージは、その典型的な事例であると言っていいと思います。

 マイノリティ、民族的マイノリティとは、さまざまな部分で権力的に少数派に置かれた人々のことをいいますけれども、社会的には非常に不利な位置にある。のみならずマジョリティが自分らしさを探すためにガードレール役として、(ガードレールとは英語ではクラッシュバリアですけれど)、クラッシュする対象として利用されていく。そういう形でも差別が起こっていっているということです。

 先ほども申し上げたように、ここで紹介したメッセージはむしろ柔らかい方で、インターネットではより過激な、あるいはよりグロテスクなマイノリティ攻撃が、今や主流となりつつあります。《自分探し》のための新しい差別の登場です。

外国人の地方参政権 #2

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 前回、「在日コリアンに地方参政権の門戸を開くかどうかというのは《日本人の問題》だとぼくは思っている」と書きました。つまり、日本人の寛容性の問題であり、日本人の地域観の問題である、という文脈でこの言葉を使ったわけですが、じつは別の文脈にもこの言葉は当てはまります。

 つまり、日本人のナショナリズムの問題だ、という意味です。もう少しわかりやすく言うと、外国人の地方参政権をダシにして日本人が国民的アイデンティティを模索している側面があるという意味です。もっといえば、日本人が「日本人とは何か」という問いを立てるために、外国人を衝突壁として利用するのはやめてほしい、ということです。

 ...ってネタフリに続けて詳しく説明しようと思ったけど、なんだか気分が乗らないから、この話はここまで。やっぱり別の話にします。ただ、ネタフリの最後にある「衝突壁」については、ヘイトクライム#2を書くときにあらためて言及しましょうか。

 今朝、Zeitbedingtさんがツイッターでこう書きました。

参政権を社会貢献の手段ととらえる見解には、あんま馴染めない。参政権の法的性質としてあえて公務性を否定しようとは思わないけど、社会貢献って法的性質じゃないし。実際、多くの投票者は自己利益に合致する(または反しない)代表者を選んでるだけじゃなかろうか。

 これはおそらく、ツイッターの仕組みを理解していなかったために幻となったぼくのつぶやき(↓)を念頭に書かれたのではないかと。

@nasukoB はじめまして。参政権というのは社会に貢献する手段ですから、日本や地域社会への愛着が強く、いっそう貢献したいと考えている在日ほど欲しがります。逆に、日本は外国だと思っている在日は欲しがりません。一般論として。

 なるほど、投票行動は自己利益を最大化するように行われるのだから、それを「社会貢献の手段」と表現するのは不適切だという指摘には、うなずかざるをえないかも。

 ただ、現時点で参政権を持たない在日外国人が参政権の獲得を望むとき、背後にあるのは具体的に誰かに投票したいということではなく、もっと抽象的な、「私も地域の一員として意思決定の代表者を選ぶプロセスに参加したい」といった気持ちでしょう。

 この点に関して紹介したいデータがあります。『在日韓国人の社会成層と社会意識全国調査報告書』の13章「権利」です。より具体的には、「日本の参政権」を望む理由についてロジスティック回帰分析を行った箇所。

 分析モデルがラフなので、この結果が一人歩きするようだと困るのですが、ここで注目してもらいたいのは「地域活動参加」の係数が有意だということです。4章「地域移動」、5章「地域意識」、11章「愛着」もあわせてお読みいただけると、このデータの意味が間接的にイメージできると思います。

 すなわち、在日コリアンはみな地域に強い愛着を抱いているが、普段から地域活動に参加し、今以上に愛着を持てる地域を創りたいと願う人、今以上に地域への貢献を求めている人ほど、地方参政権を求めているということです。

 最後に、関連する話題なので古いエッセイを一つ紹介して終わります。

 福岡安則「『在日』と日本人との共生は可能か」(月刊『アプロ・21』)

外国人の地方参政権 #1

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 先日、李怜香さんがツイッターに書いたこと。

永住外国人地方参政権法案に反対する人の特徴は、わたしが外国人だというと、意見もまったく聞かず、参政権法案に賛成だと決めつけて話をすすめるところだね。賛成反対どころか、言及さえしてないのになぁ。超能力者か(笑)

 それに答えてぼくが書いたこと。

ぼくも、地方参政権については賛否を公言したことは一度もないんだけど、その手の人々は賛成だと思い込んでくるね。金明秀ではなくザイニチという記号を相手にしてるんだろう。

 あぁ、字数だけ気にしてたら、めちゃくちゃ偉そうにタメ口つかってる...。ごめんなさい。

 ともかく、ぼくはこれまで、とても仲のよい友人を除けば、地方参政権について個人的見解を披露したことがありません。正確に言うと、HANBoardなどに、地方参政権を外国人に付与できるとする理論的な学究成果を紹介したことはあります。また、諸外国において移民2世以降の政治参加がどう扱われているかについて述べたこともあります。でも、ぼく自身がそれを肯定的に捉えているか否定的に捉えているかについては明言したことがありませんし、ぼくが参政権を欲しがっているかどうかについてはいっさい言及したことがありません。

 では、なぜぼくは、賛否を表明してこなかったのか。主たる理由の一つを紹介すると、在日コリアンに地方参政権の門戸を開くかどうかというのは《日本人の問題》だとぼくは思っているからです。

 外国人の地方参政権をどうするべきかについてはいろんな考え方があるものの、どれをとっても後付けのリクツにすぎません。そもそも、大量の移民の子孫が何代にもわたって「外国人」のままであるというのは、世界的にもまだ新しい状況なのですから、答なんてどこにもないのです。

 言い換えると、どこの国でも、そういう新しい状況に対して根源的な疑問を持ち、その疑問に答えるために、後付けのリクツを模索している最中なのです。

 その根源的な疑問とは何かというと、「自分の意思で国境を渡った移民一世はともかく、この国で同じように生まれ育ち、同じように社会に貢献している二世以降が、出自が違うということだけで政治的な権利を持たないというのは、ずいぶん不公正じゃないか? もしそれが法律だとしたら、その法律のほうがおかしいんじゃないのか?」 というものです。

 素朴で直感的な問いですね。でも、少なくともヨーロッパでは、それが始まりでした。つまり、隣人である移民の子孫が政治的に排除されている状況を、その国の国籍を持つ人々の多くが《おかしい》と感じる気持ち。自分の国はそんなに不公正で義理を欠く国だったのかという憤り。それが、外国人に地方参政権を付与しようという運動の出発点だったということです。

 以下は、日本人と在日コリアンに限定して話を進めましょう。というより、ぼくの私的見解の話に戻ります。

 日本国籍を持つ地域の友人・知人たちが、「同じ町の居住者である金君に選挙権がないというのはぜったいにヘンだよ。ずっとこの市に住んできたし、町内会の仕事もやってくれている。道路問題では行政との交渉で汗もかいてくれたじゃないか。人権講演会の講師も勤めてくれた。これだけ住民として貢献しておいて、政治的権利がないというのは、おかしいじゃないか。こんな歪んだ状況は隣人として許せない」と言ってくれるのであれば、選挙権を獲得した上で、地域の一員としての責務を今まで以上に全うしたいと思う。

 一方で、「へー、選挙権がないんだ。まぁ、国籍が違うんだから、しょうがないよね。文句があるなら国に帰れば? ともかく、ぼくの目に入らないところに消えてくれないかな。」と言うのであれば、そんな地域のメンバーシップ(=地方参政権)はいらないと思う。だいたい、外国人だから仕方ないなんて、20世紀の話だろう。グローバリゼーションの進んだ現代では、それじゃつじつまが合わなくなってきていて、どうすれば矛盾を解消できるかどこの国でも議論してるんだろうが。それを、ガイコクジンという記号としか見ようとせず、自分には関係のない話だと切り捨てるような輩が多数派であれば、そんな地域に貢献しようとは思わないということだね。

 つまり、ぼくの地方参政権に対する賛否(y)は、隣人たる日本国籍者たちが同じ地域のメンバーだと支持してくれる気持ちを持っているかどうか(x)の関数なんですね。ネットでは参政権付与に反対というテキストが目立つけれども、世論調査では賛成が過半数を占めているようですから、ぼくの気持ちも前向きになってきています。

 さて、最後に一つ大事なことを。

 ここまで読んで、「『どうしてもくれるって言うなら参政権を貰ってやってもいいよ』なんて、いったい何様なんだ。どうしてそんなに偉そうなんだ」と思ったアナタ! あなたは、ガイコクジンは頭を下げて参政権をこいねがうべきだと思っていることになりますね。それは傲慢ではないのですか? 偉そうなのはどっちかな?

HANBoardについて

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 このブログは主として学生向けにひっそり運営してきたつもりでしたが、ツイッターのプロフィールに書いたとたんにオープンになってしまいました。仕方がないというわけではありませんが、それならそれで、今後は幅広い読者を念頭に書いていくことにいたしましょう。

 さて、オープンになったとすれば、一度は断っておかなければならないことがあります。

 このブログはハンワールドというサイトに設置されているわけですが、1996年から2003年初頭までは HANBoard という電子掲示板が代表的なコンテンツでした。掲示板を閉鎖する際、ぼくは、なぜ閉鎖するにいたったのかについて理由は別途詳述する、と述べました(#2425#2454、等)。が、その約束は果たされずに今日に至っています。

 というのも、HANBoardを閉鎖した当初は、ブログの形式で主張を整理していく予定でした。ところが、いざ原稿を書こうとして過去ログを参照したところ、当時の掲示板を開始した直後の投稿(#67)に、執筆しようとしていた内容の多くをすでに書いていた、と気づいてしまったからです。#67から#2425までの1年半余りは、完全に無駄だったということになるわけですから、愕然としましたね。

 ともあれ、これ以上なにを書いたところで、もはや嫌韓ネトウヨが構築するフィクションは押しとどめようもなくインターネットに蔓延している。そう、はっきりと再認識したのですね。上述の約束を放棄したのは、そういった理由からです。

 HANBoardは、実際のところ、在日コリアンのためというより日本人のために開設されていたものです(例えば#2457参照)。その意義が理解されるような、何かまったく新しい状況が日本のインターネットに到来しないかぎり、同種の活動は無期限で延期することにいたしました。

 だから、このブログは、在日コリアンのためだとか、日本社会のためだとか、そういう公共性を直接の目的とはしておりません。それはぼくの手に余ることがわかったし、また、それが生かされるような状況でもない。

 そうではなく、金明秀の個人的なメモとして、書きたいことを書き留めていく。そういう場として、活用していきたいと思います。

Twitter #2

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 しばらく使ってみましたよ、ツイッター。結論から言えば、意外といいかも。

 前回のエントリーでは「危険なメディア」だという含みがありました。個々のユーザーにはネット依存症を発症させ、社会的にはネットイナゴの大量発生を後押しする、というイメージですね。

 ネット依存については、おそらく当初の懸念の通りでしょう。これからどんどん深刻化していくはずです。かつて「ミク中」という言葉がありましたけど、なにせツイッターはSNSよりリアルタイム性が高いですから。試しに、「Twitter」+「ネット依存」でググってみると、すでにたくさんのテキストがある。今後も増えていく一方でしょう。

 それに対して、ネットイナゴの大量発生については、少々、勘違いをしていたかもしれません。

 いや、まったくの間違いだとも思いませんよ。この1週間あまりの間に、ツイッター内で2件のデマの発生&流布を目の当たりにしました。下の参考文献に詳しいですが、一定の心理学的・社会学的な条件がそろえば、事実に基づく合理性はなくともうわさは広まるものです。そして、ツイッターには「一定の心理学的・社会学的な条件」があふれているのですね。そして、一気に流布したうわさによって、多くのネットユーザーがある種の"正義感"を刺激されれば、ネットイナゴの発生につながります。

◎川上善郎 『うわさが走る―情報伝播の社会心理』 サイエンス社
◎早川洋行『流言の社会学―形式社会学からの接近―』青弓社

 ただね、例えば2ちゃんねると比べて、標的となるテキストの投稿からネットイナゴが発生するまでの時間は短くなるかもしれないけど、ネットイナゴが発生する頻度自体はむしろ低くなるかもしれない、というのが現時点での印象です。

 というのも、まだ詳しく書けるほど整理してはいないけど、うわさの流布を阻害する心理学的な条件と社会学的な条件も備わっている(ように思われる)のですね。

 その結果、少なくとも現時点では、日本のインターネットの歴史の中でもっとも創発民主制に近い状況ができあがっているのがツイッターである、といえるのではないかと感じています。

Twitter

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西村正男さんに影響されてTwitterを始めてみた。http://twitter.com/han_org

正確に言うと、アカウントはかつて取得ずみだったのだが、使用せずにずっと放置していたのを運用してみることにしたわけです。

この2-3日は、いつもなら心にとどめておくようなこともTwitterに吐き出してみたり、どうやらfollowing/followersがいないと話にならないということはわかったので知り合いなどを探して登録してみたり。つまり、ニワカらしく、Twitterの文化を早期に内面化する作業に従事しています。

が、なんというかね、まだほとんど使っていないけど、アカウントを取得したときに直感した通り、ぼくにはあんまり向いてないみたい。もともと筆まめじゃないし、時間無制限のリアルタイム・メディアには自由を束縛されるような圧迫感を覚えてしまうほうだから。30代前半まではそういうのも苦にならなかったんだけどね。

まあ、もう少し使ってみないと。

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