2008年2月アーカイブ

計量研究の紹介記事

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 22日付の共同通信配信記事にこういうのがありました。短いので全文引用させてもらいます。

緑茶たっぷり、胃がん撃退 緑茶たっぷり、胃がん撃退 喫煙者には効果なし

 緑茶の渋味成分であるポリフェノールの一種の血中濃度が高い女性は低い女性に比べ、胃がんになる危険性が約3分の1だとの疫学調査結果を、厚生労働省研究班(主任研究者・津金昌一郎国立がんセンター予防研究部長)が22日発表した。緑茶を習慣的に多く飲んでいると、血中濃度も上がるとみられる。

 男性も含めて喫煙との関係をみると、ポリフェノールの血中濃度が高い非喫煙者は胃がんの危険性が低いが、血中濃度が高い喫煙者は、危険性がやや上がる傾向も判明。

 研究班の井上真奈美国立がんセンター室長は「たばこと緑茶の組み合わせが悪いのではなく、緑茶をたくさん飲んでも、喫煙で効果が打ち消されてしまうためではないか」と分析している。

 せっかくの研究が、最後のコメントひとつで台無しになってしまっていますね。

 記事を読むとまるで厚生労働省がやった研究のようですが、厚労省のウェブサイトにはいっさい記載がありません。たぶん、この研究って厚労省の研究費補助金を受けた日本がんセンターの研究じゃないんでしょうかね。日本がんセンターのサイトには、それらしき研究系統を紹介するページがあります。「生活習慣改善によるがん予防法の開発と評価」

 「エビデンスの評価」をのぞいてみると、「緑茶と胃がん」の関連は「ない、もしくは弱い」という結果になっています(http://epi.ncc.go.jp/can_prev/summary/pdf/green_stomach.pdf)。まぁ、順当に考えると、緑茶を飲んでも胃がんのリスクはほとんど軽減されないということなんでしょう。

 ところが、そんな結果にメゲたりせず、手を変え、品を変えながらとことん追求するのが真の研究者というものです。記事によると、「緑茶の渋味成分であるポリフェノールの一種の血中濃度」と胃がんの危険性の間に何らかの関連が発見されたらしい。よくがんばりましたねー。

 ただ、緑茶と胃がんの直接的な関連がどうやらほとんどないという結果があるにもかかわらず、「緑茶を習慣的に多く飲んでいると、血中濃度も上がるとみられる」なんて誤読を導くのははなはだ不誠実です。この辺は、たぶん研究者がそれっぽく示唆したことを、記者さんがはっきりと書いちゃった、というところかもしれません。

 ともかく、うまい発見に気をよくしたんでしょうね。「ポリフェノールと喫煙との交互作用を調べてみよう」ということになった。

 すでに「胃がんと喫煙」の関連ははっきりと出ているので、緑茶のポリフェノールとの重層的な関係を調べたいというのは自然なことです。ひょっとしたら、喫煙のリスクを劇的に軽減したりする効果が見つかるかもしれない。

 ところがその結果!

 たしかに交互作用は見つかったものの、それは「ポリフェノールの血中濃度が高い喫煙者は、(胃がんの)危険性がやや上がる傾向」というものだった。

 しくみはまったく不明ながら、「タバコを吸わない人には胃がんのリスクを減らす可能性があるポリフェノールが、タバコを吸う人には胃がんのリスクを増やしてしまう可能性がある」というのです。

 これって大発見じゃないですか?

 疫学の範囲は超えてしまうけど、どうしてそんな不可解な現象が生じているのかを突き止めることができれば、さらに面白い研究になります。

 なのに!

研究班の井上真奈美国立がんセンター室長は「たばこと緑茶の組み合わせが悪いのではなく、緑茶をたくさん飲んでも、喫煙で効果が打ち消されてしまうためではないか」と分析している。
 そりゃないでしょう。そんな結論ありえないでしょう?

 この研究分野なら、使ったのは分散分析か三重クロス表でしょうか。「緑茶をたくさん飲んでも、喫煙で効果が打ち消されてしまう」というのは、分散分析風にいえば、「緑茶による負の主効果よりも喫煙による正の主効果のほうが大きい」ということです。交互作用とはまったく関係がありません。

 交互作用をいいあらわしているのは、まさに「たばこと緑茶の組み合わせが悪い」ということ。それ以外の解釈の可能性はないんじゃないかな。

 もし、井上真奈美さんが本当にこういうことを言ったり書いたりしたのだとすれば、それはすなわち、井上真奈美さんは自分が研究に使っている統計について、大学2年生レベルの基礎知識すらお持ちでないということになります。それとも、「緑茶は体にいいはずだ!」という仮説に目が曇って、自我包絡に陥ってしまっているか。あるいは、その両方かな。

 つまり、記事の最後のコメントは、ほとんど研究者としての資質を疑わせるような内容なのですね。

 もしぼくが井上真奈美さんで、そしてぼくがしゃべった内容を記者が誤解してあんな記事を書いてしまったとしたら、即、名誉毀損で訴えるところです。

 実際のところは、記者が悪いのか、井上真奈美さんが悪いのかはわかりませんが、専門家の論文を素人である記者が紹介するというのは、もともとムリがあるという気はしています。

 よそのブログで前回のエントリーに関連した意見を読んで思ったんですが、どうやら「問題を教える」=「答えを教える」だと勘違いしている人って少なくないようですね。

【答を教える例】

 第四級アマチュア無線の講習会の実情を紹介しましょう。

 まず制度の概要ですが、2万円あまりの受講費用を払い、丸二日間の講習を受講して、講習後に試験を受けて合格すれば、免許証を発行してもらえるという仕組みになっています。

 丸二日というとタイヘンなようにも聞こえますが、さすがはかつて「趣味の王様」と呼ばれたアマチュア無線だけあって、もとは40時間もの時間をかけて講習が行われていたほど出題範囲が広いのです。それを二日間でなんとかしようというのですから、教えられる内容はたかが知れています。というより、たった二日間では、ちゃんと知識を習得することは不可能なのです。

 なぜそんな意味のない講習会が開かれるのかというと、(1)アマチュア無線業務に必要な知識をあらかじめ習得できた人が試験に合格すれば免許証を発行するというタテマエを捨てないまま、(2)趣味人口が急減したアマチュア無線業界を保護するために新たな免許取得者を増やしたいという経営優先策に舵を切った結果、(3)業界も、講師も、受講生も、「お金を払って免許証を購入する/してもらう」という感覚でいるからです。

 具体的には...

 講習会当日、発話にいささか難のあるご高齢の講師が登場します。ほとんどテキストを棒読みするだけの方や、テキストを棒読みするよりももっと分かりづらい方などです。拷問のように退屈な講習会が丸二日間続きます。60名の受講者の半数近くがずっと寝ています。

 ところが、受講生が全員飛び起きて、筆記用具を手に講師の発言を聞き漏らすまいと集中する時間があります。それは、二日間の講習後に実施される試験の「予想問題」を発表するときです。実際に出題されるのは10問×2分野ですが、各分野20問まで出題範囲を絞ってくれるのです。予想問題といいつつ、実際に出題される問題そのものといっても過言ではないでしょう。

 問題はいずれも4択。内容を一切理解していなくても、解答番号だけ丸暗記してくれば確実に合格できる仕組みになっています。

 これこそ、「答を教える」授業ですね。まともな教育者であれば、まずやらないことだと思います。教育ではなく、お金儲けが目的だからこそできることです。

【問題を教える例】

 アメリカの大学では、ちゃんとした授業であればだいたいシラバスの中で試験問題が明記されています。が、ここは日本ですので、日本の事例を紹介しましょう。

 科目名は「データ解析入門 I」。統計解析パッケージソフトウェアの基礎的な利用方法を学ぶ授業です。

 授業は全15回の詳細な内容が無料のテキストとともにウェブで公開されています。ちゃんと予習と復習をやりなさい、というメッセージですね。

 毎回の授業で課題が出されます。電子メールで翌週の前日午後10時までに提出します。提出期限内に出された課題には担当教員がコメント付で採点結果を返信します。期限内であれば、コメントの内容を読んで、何度でも再提出することができます。逆にいえば、担当教員は何度でもそれにつき合わされます(泣)。

 15回授業のうち、3回はパソコンを使った小テストです。小テストの過去問題はやはりウェブで公開されており、各小テストの前の授業では過去問題の解説と解答も開示されます。多くの学生は、何度も何度も、課題と小テストの過去問をやり直し、小テストまでになんとか間違いをおかさずにすむ状態になっています。

 しかし、それだけでは、小テストで満点を取ることはできません。なぜなら、半分は基礎知識ですが、残りの半分は「必ずしも難しくはないけど、ただ表面的な知識があるだけではダメで、知識をきちんと消化して応用できていないと解けない問題」が出題されるためです。

 そして15回の授業が終わったら筆記の定期試験です。定期試験の過去問題は学生たちに公表していませんが、15回目の授業で試験問題を念頭に置いた基礎知識の復習が徹底的に行われます。

 そして、最終的な成績は、出席、課題、小テスト、定期試験から厳格に評価されます。

 どうでしょう? 日本では、このへんが「問題を教える」タイプの典型的な授業ではないかと思いますが。

*************

 初等教育では、問いも単純だし、問いと答えがシンプルな対応関係にありますので、「問題を教える」ということがすなわち「答を教える」ことを意味する場合が多いと思います。

 しかし、高等教育では話が違います。問いが複雑ですし、問いに対して解法が複数あったり、それどころか解答が無数にあったりします。「問題を教える」ということと、「答を教える」ことの間には、非常に大きな違いがあるわけです。

 それでも、「わざわざヒントを与えて甘やかす必要はないだろう」と考える人もいるかもしれません。

 でも、「問題を教える」のは、ヒントを与えるためではありません。その科目の「到達目標」を明示するためです。より正確にいえば、「到達目標」を学生に周知し、そこに向かって効率的に学習を進めてもらうためです。

 ちなみに、上で紹介した「データ解析入門 I」と同種の授業は多くの大学で開講されていますが、僕が知っているいくつかの大学(K南大学とか、R谷大学とか、K西大学とか)に比べて、少なく見積もっても1.3倍以上の進度を誇ります。平均的な熟達度はそれ以上ですね。入試難易度は、それらの大学に比べて(残念ながら)はるかに劣っているにもかかわらず、です。

 ただし、それだけの効率に見あった学修時間が必要となりますので、この「データ解析入門 I」を受講して、甘やかせてもらったと思う学生は一人もいないでしょう。教員も大変ですが、学生の負担も大きい授業です。

 大学の授業で「問題を教える」というのは、こういう教育モデルを意味するんだと僕は思います。

 前回の続きです。

2. 習得した知識を証明するためのスキルを身につけずに入学してくる学生の増加

 ウチの大学では2月以降の一般入試を受験して入学してくる学生が減って、推薦やAO入試で早期に合格を決める学生が多くなっています。これはウチの大学だけではなく、程度の差はあっても、日本全国どの大学でも共通する傾向です。

 つまり、高校3年間でみっちり受験のテクニックみたいなものを習得する学生が減って、あまり受験勉強をせずに大学に入学する学生が増えたということです。

 中教審風にいえば、「過度の受験競争が大きな社会問題とされた時代と異なり、入試による『入口』の質保証の機能は大きく低下している」ということですね。

 さて、入試の選抜機能が有効だった時代なら、学生は多かれ少なかれ受験のテクニックを身につけていることを前提とすることができました。言い換えると、「習得した知識の証明」能力を全学生が身につけていると考えることができたわけです。

 そして、その前提に立つかぎりにおいて、筆記試験一本で成績をつけるという乱暴なやり方でも、「知識の習得」の度合いを測ることができると考えることも許されました。

 ところが、もし受験のテクニックが学生たちに平等に身についていないとすれば、どういうことになるか?

 前回も書いたとおり、筆記試験一本で成績をつけることは、「知識の習得」よりも「習得した知識の証明」能力を重視していることを意味します。ラフな言い方をすると、ちゃんと知識を身につけているかどうかよりも、知識を身につけているぞと口先でアピールするのが上手かどうかを評価するということです。

 でも、それっておかしな話だと思いませんか?

 現在の入試傾向を前提とするならば、そもそも筆記試験一本で成績をつけるやり方では、適切に学力を評価できないのです。(続きは4節で)


3. 習得した知識を証明するためのスキルを身につけさせるのも現代の大学の使命

 中教審が9月にまとめた『学士課程教育の再構築に向けて』では、「学士力」なるものが定義されています。初等教育における「生きる力」に対応する概念ですね。(1)専攻分野の知識・理解、(2)職業生活や社会生活でも必要な汎用的技能、(3)自己管理や責任感などの態度・志向性、(4)それらを実践的に活用して問題を解決する統合的な学習経験と創造的思考力、から構成されています。

 で、習得した知識を適切に活用したり証明したりするための技能というのは、「学士力」を構成する重要な要素なのですね。「対人スキル」や「要領のよさ」はその典型です。

 そういった基本的な資質を身につけずに大学に入学する者が増えている以上、それを育成するのは大学の使命ということなのでしょう。

 だとすれば、筆記試験は、受講学生の学力を評価する手段であるのみでなく、"試験でいい成績をとる技能"を育成するチャンスでもあるといえます。これは、以前「試験への対応技術」でも書いた通りです。少なくともぼくはそう考えて、一部の授業の中に「試験対策」の回を盛り込んでいます。

 正直なところ、講義ノートを購入して受験対策に生かそうという"才覚"を身につけていれば、まだマシなのです。ウチの大学なんて、そういう需要すらありません。

 ぼくの試験問題が難しいと嘆く前に、せめて過去問題くらい手に入れようとしてみてほしいもんです。


4. そもそも定期試験一発で単位を認定する制度は現代の大学にそぐわない

 かつて「試験の巧拙」でも書いた通り、ウチの大学ではもともと試験のヘタな学生が多かったのですが、その比率は年々高まっています。

 とてもじゃないけど、定期試験一本だけで成績を評価できる状況ではありません。

 出席点で努力水準を考慮する。小テストでこまめに熟達度を確認する。中間試験でリスクを分散してあげる。レポート課題でどれだけ知識を消化したかを認定する。そして定期試験で最終的な学力を調べる。――これだけ評価ポイントを分散することで、ようやく公平かつ透明性をもった成績評価が可能となるのです。

 (逆に、これだけやっとけば、定期試験でイジワルな出題をしても大丈夫だったりしますw)

 だいたい、定期試験一本で成績を評価するなんて、7月に大学設置基準に明記された「厳格な成績評価」の方針とも合致しません。

 大学設置基準にはこう定められています。

大学は......学修の成果に係る評価及び卒業の認定に当たっては、客観性及び厳格性を確保するため、学生に対してその基準をあらかじめ明示するとともに、当該基準にしたがって適切に行うものとする
 もちろん、規定を字義通りに解釈すれば、シラバスに「定期試験100%とする」と明記するやり方だって禁じられてはいません。

 しかし、この規定が導入された目的は、卒業時の教育の質を保証するためであって、具体的には、(1)ただ単位数だけをそろえればいいのではなく、GPAで一定の得点を挙げなければ卒業させない、(2)ただ1回の試験でいい点を取ればいいのではなく、授業全体で総合的に成績を評価する、ということが想定されています。

 とすれば、定期試験一本で成績を評価する伝統的なやり方は、実質的には現行の大学設置基準に抵触するといえます。

 定期試験の評価ポイントが100%から40%以下に下がれば、わざわざお金を払って講義ノートを購入しようという学生も減るでしょう。

 ぼくにいわせれば、講義ノート市場が廃れないのは、「学生のモラル」の問題などではなく、大学の評価制度がいいかげんだという問題を反映してのことだと思います。

 Google Alertで「大学」を検索語に設定してニュースクリップとして利用しているのですが、今月3日にこういう記事があがってきました。念のためにウェブ魚拓でも。

 記事の配信元は「UNN関西学生報道連盟」ですので、記者は加盟大学の新聞部員でしょうか。「学生が執筆したノートを大学運営以外の者(ノート屋)により仲介、販売されている"講義ノート"」について、「買う学生側のモラルが問われている」と結論付けています。

 ちょっと結論の導き方が唐突というか安直ではありますが、まぁ、ムリのない締め方だと思います。授業に出席せず、他人の講義ノートを買って試験を受けるのは、単位をカネで買うようなものであって、まったくケシカラン......というのが一般には良識的な意見なのでしょう。大学プロデューサーズ・ノートもそういう論調ですね。

 ですが、以前こういう内容のエントリーを書いたことでも分かる通り、ぼくの意見は違います。より正確にいうと、こういう「良識」は現代の大学像にはもはやそぐわない、というのがぼくの意見です。

 以下、この順番で話を進めていきます。はたして一回で終われるかな...

  1. 知識の習得と、習得した知識の証明は別の問題
  2. 習得した知識を証明するためのスキルを身につけずに入学してくる学生の増加
  3. 習得した知識を証明するためのスキルを身につけさせるのも現代の大学の使命
  4. そもそも定期試験一発で単位を認定する制度は現代の大学にそぐわない
1. 知識の習得と、習得した知識の証明は別の問題

 優れた商品を製造する技術があるということと、優れた商品を売っていると広報する能力はまったく別のものです。いい商品が売れるとはかぎらないし、売れる商品が優れているとはかぎらない。マーケティングの常識です。

 学生のパフォーマンスにも同じことがいえます。

 毎回熱心に予習、復習を欠かさず授業に熱心に取り組んで、一生懸命ノートをとっている学生であれば、こちらが口頭で授業内容について質問をしてもそれなりに正解に近い解答が戻ってきます。ところが、そんな学生が筆記試験で常にいい成績をあげるかというと、そうではないのですね。

 筆記試験で高い得点を獲得するためには、習得した科目の知識とは別に、筆記試験に対応するスキルが必要だからです。

 たとえば、過去問題を入手して担当教員の出題傾向と採点基準を調べたり、3冊以上のノートを入手したりといった下準備のためには、対人スキルが必要です。また、出題形式にあわせて得点を稼ぎやすい解答方法をとったり、出題者の意図を読んだり、といった一般的な受験のテクニックを習得するには、それなりに場数をこなさなければなりません。

 ぼくの場合、語句説明では、以下の要素の数だけ加点する方法を採用していますので、ただバカ正直に定義(a)だけを解答しても合格点ぎりぎりにしかなりません。こういう基準はある程度どの科目でも一般化できるとはいえ、教員によってある程度の違いがありますので、やっぱり下調べ(をするスキル)が必要となるわけです。

  1. 正確な定義が書かれている
  2. 類概念や対義語の説明がある
  3. その語句が必要とされた背景が書かれている
  4. その語句の使用上の注意が書かれている
  5. その語句の使用例や使い方が書かれている
  6. その語句の提唱者が書かれている
 繰り返しますが、これらのスキルは、その科目をどれだけ一生懸命勉強したかということや、どれだけ知識を習得したかといったこととは、まったく関係がありません。

 だから、どれだけ真面目で熱心な学生であろうと、要領が悪いだけで、定期試験の成績が平均点を下回るケースはかならず出てきます。逆に、要領がいいだけで、ほとんど出席していない授業で「優」を獲得する学生も少なくありません。

 つまり、筆記試験一本で成績をつけるということは、「知識の習得」と「習得した知識の証明」とを比べたとき、後者のほうを重要視しているということを意味します。

 そして、ぼく個人としては、それが"正しい"採点の方法だとは考えていません。

 やっぱり長くなりそうなので、続きは次回以降ということにしましょう。

二つの論文作法

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 今回のエントリーはウチの学科の3回生向けです。

 先日、他の専攻の卒論公聴会を聞いた3回生が何人かぼくの個人研究室を訪ねてきて、いろいろと質問をしていったのですが、その中にこういうのがありました。

「先行研究があって、それを応用した研究なのだから、分析手法も先行研究と同じものを使えばいいのであって、手を変え品を変えてアレコレ分析するのはムダじゃありませんか。ゴチャゴチャしていて分かりにくいし。」
 その場で丁寧に説明したつもりでしたが、いまいち納得したようすではありませんでした。おそらく、その学生のプレゼンがかなり悪い印象を与えたのでしょう。

 ただ、ぼくとしても論文執筆の指導に問題があったかなぁと反省するところがあります。つまり、論文執筆には大きく分けて二つの作法があるということをあまり積極的には教えてこなかったということです。

 仮説検証型命題定立型
利用傾向研究が体系化され、先行研究の蓄積が多い場合に好まれる先行研究の蓄積が少ない未開発の研究分野で好まれる
目的説明探索や記述
様式演繹的帰納的
分析課題データの要約データの紹介
媒体論文報告書
調査種別サーベイフィールドスタディ
想定読者同じ仮説を共有できる、同じ研究分野の学徒同じ研究対象に関心を持つすべての人
利点と欠点データの要約度が高いため主張が分かりやすい反面、仮説を共有できない人にとってはまったく役に立たない特定の仮説に縛られないため、あらゆる読者にとって興味深いデータがある反面、分析結果の羅列に終始しがちで、何が明らかになったか要点が分かりにくい

 ざっと一覧表にしてまとめてみました。表の内容はあくまで理念的にまとめただけだということに留意してください。たとえば、「命題定立型」の論文でサーベイを用いる場合もたくさんありますし、「仮説検証型」の論文で丁寧に記述に努めようとするものもあります。表のようにきれいに2種類に分かれるわけではなく、ほとんどの論文は両者を2極とした軸線のどこか中間に位置すると考えてください。

 さて、これら2つのうち、研究論文としては一般に「仮説検証型」のほうが高く評価されます。近年では、データマイニングなど「探索」を重視した論文も評価されるようにはなってきましたが、やはり同程度の水準であれば、「仮説検証型」のほうが安定した評価につながります。

 また、「仮説検証型」は、論文作法として完成されていますので『論文の書き方』のようなガイドブックもたくさんありますし、学生たちが実際に目にする機会も多いでしょう。また、論理の流れがスマート(でなければならない)なので、執筆する側にとっても書きやすく、読者にも分かりやすく、しかも指導するのが楽というメリットがあります。

 だから、ウチの大学でも、つい、「仮説検証型」の論文の書き方を中心として教えることになります。

 ただねぇ、コンピュータが発達する以前の時代ならともかく、いまどき、実際の研究のプロセスが「仮説検証型」の通りになることは、まず、ありません。いまや、誰もが手軽に高度な解析に手を出せる環境が整っていますので、仮説どおりの分析を一つだけやって終わりということはないのです。

 実際には、ラフな仮説を作っておいて、調査をやり、探索的な分析を試行錯誤しながら、また仮説を入れ替えたり補強したりというプロセスを経ながら、総当り式に膨大な探索作業を行います。そうした探索作業の結果として明らかになった知見を、発表する論文の中で「仮説検証型」に"仕立て上げる"ようなことが多くなっています。

 でも、研究の途中は「探索的」な「命題定立」であるにもかかわらず、公表する結果は「仮説検証」型の「説明」になっているのって、論文そのものはスマートな仕上がりに見えても、いわば後知恵ですよね。卑怯で不誠実でないとは言い切れません。

 また、「探索」の結果として"発見"した重要な知見が、単なる仮説検証のプロセスの一部のように矮小化されてしまうと場合もあります。

 だから、少なくともぼく個人としては、たとえ論文全体の論理の流れがスマートではなくても、手を変え品を変えながら、研究対象のことをとことん追究しようというような真摯な論文はけっこう好きなんですよね。

 研究者のように何度も発表の機会があるなら話は別ですが、卒論の場合はたいていの学生にとって"一度きり"のチャンスでしょう。まとまりなんて気にせず、思い入れのあるテーマについてとことん書き尽くす青年らしい熱意、好きですねぇ。

 で、質問に来た学生がこだわっていた卒論ですが、たしかに典型的な「仮説検証型」の論文の体裁にはなっていません。でも、先行研究を最大限に活用しながら、自分の研究対象に真摯にアプローチしようとしているわけです。たとえば、線形の分析で有意な結果が出ないと見るや、質的分析に切り替えて非線形の関連を明らかにしようと試み、それに成功している。かといって、"面白い"結果だけ切り取って書こうとはせず、すべての結果を開示している。いい論文ですよ。

 もちろん改善すべき(だった)点はありますが、卒論としては十分に及第点を超えていて、むしろ上位に位置づけてもよい内容だと思います。

マスク

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 少しノドと鼻の調子が悪く、風邪を引きかけです。

 ノドを保護するためにマスクをしようと思ったのですが、ぼくは頭がでかいせいか、耳にかけるマスクはどうも窮屈で好きになれません。

 で、今日はバイク用のフェイスマスクをして試験監督をやりました。こんなやつ

 試験が終わったあと、学生たちが笑いながらいうわけです。

「せんせー、NARUTOのカカシ先生みたいになってるー」
 さっそくググってみると......orz

学科を持たない学問

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 昨日は学問の特性から「標準化」と相性が悪い分野があるという話を書きましたが、他の観点からも「標準化」と相容れない学問分野がありうると思います。

 他の観点とは、たとえば、市場規模が小さいということもその一つ。学科をもたない学問分野と言い換えてもかまいません。

 昨日、社会学については一般に専門の科目が20単位足らずと書きましたが、それは、「学科」とはいわないまでも、社会学を学べる「専攻」があり、社会学の教員が3名以上いるようなところにかぎられます。専攻もなく、専門の教員が2名以下のような場合だと、学科のカリキュラムの中に20単位も確保するのは困難でしょう。せいぜい、講義で8単位+ゼミで8単位ぐらいあればいいほうだと思います。

 同じことが、市場規模の小さな学問すべてにいえます。

 学生数の少ない分野だと、講義4単位+ゼミで8単位しかカリキュラムに用意されていないケースも珍しくはありません。

 たった12単位では十分に学ぶことができないという理由で、わざと留年して5年計画で学ぶことが一般的になっているようなところもあったりします。

 少人数制で5年間も学べば相当に密度の濃い教育が行われるはずです。ゼミに入ってからの学習を単位数に換算すれば、40単位にも50単位にもなるような学生もいるのですが、公式に認定される単位は、やはり12単位のままなのです。

 単位制を前提とした標準カリキュラムなんて、こんなケースにはまったく意味がありませんよね?

 しかし、大学にしのびよる新自由主義はこういうケースの存在を許してはくれません。各学問領域ごとに標準カリキュラムを策定するということになれば、おそらく、こういうケースは淘汰されていくことでしょう。

 かつては、戦後の文部(科学)省の方針で、総合大学はできるだけ多くの学問領域をそろえておくことが望まれてきました。が、今後は、複数の教員をそろえた「専攻」すら開設できない学問領域はその大学から駆逐されていき、一校あたりの学問領域数が減っていくことになる。

 いくつかの大学から駆逐された学問領域の教員がどこかの大学にまとめて雇用されて、その学問領域の学科なり専攻なりを構成することができれば、マクロな観点からは問題は少ないといえるかもしれません。

 でも、学生数が減少している現在、いわば不人気領域ともいえる学科を作るリスクを負うような私立大学はあまりないでしょう。いまや国立大学法人だって経営優先のはず。

 とすれば、日本で学べる学問領域そのものが縮小してしまう危険性が高まっている、ということでしょうかね。

標準化と相性の悪い学問

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 各学問領域で標準カリキュラムを作成しようという話の続きです。

 世の中には、どうしても標準化とは相性の悪い学問というものがあります。ぼくの専門である社会学もその一つですし、国際関係論などもそうでしょう。地域研究なんかも困りますね。ようするに、学問の射程が広すぎて、"誰もが知っているべき知識"というものを定められないのです。

 文部科学省としては、だからこそ、より精度の高い学習のために、学習の指針となるべきコア・カリキュラムを作成すべきだと主張しているのでしょう。でも、社会学なんかは、その学問の多様性と不定性そのものが学問的アイデンティティを構成している面もありますので、標準化しようという動きに対して、学問的良心から反発する研究者も少なくはなかろうと思います。

 まぁ、それでもなんとか標準化してみようという話になったとします。ちなみに、下の表は、日本社会学会に入会するときに選択する研究リストです。

1.社会哲学・社会思想・社会学史2.一般理論
3.社会変動論4.社会集団・組織論
5.階級・階層・社会移動6.家族
7.農山漁村・地域社会8.都市
9.生活構造10.政治・国際関係
11.社会運動・集合行動12.経営・産業・労働
13.人口14.教育
15.文化・宗教・道徳16.社会心理・社会意識
17.コミュニケーション・情報・シンボル18.社会病理・社会問題
19.社会福祉・社会保障・医療20.計画・開発
21.社会学研究法・調査法・測定法22.経済
23.社会史・民俗・生活史24.法律
25.民族問題・ナショナリズム26.比較社会・地域研究(エリアスタディ)
27.差別問題28.性・世代
29.知識・科学30.余暇・スポーツ
31.環境32.その他

 従来の日本における社会学教育では、1と2をくまなく学んだ上で、21の知識もできる範囲で習得しながら、あとはそれ以外の個別分野(連字符社会学といいます)をできるだけ幅広く学習しなさい、という理想でやってきたと思います。

 ただ、それはあくまで理想なのですね。

 1と2をくまなく学ぼうとすれば、それだけで20単位は必要になります。入門2単位、学説史2単位、理論基礎4単位×2、理論応用4単位×2。

 21(研究法)の分野は、すでに日本社会学会が母体となって作成された「社会調査士」標準カリキュラムがありますので、省いて考えることにしましょう。

 1と2が終わったら、そこからさらに個別分野を学ぶわけですが、「幅広く」という方針から言えば、最低でも2単位×4分野は必要でしょう。できれば16単位はほしいところです。

 そして、それらの知識を応用する実践的な経験が必要ですので、ゼミか実習による8単位が欠かせません。

 そうすると最終的に36〜44単位ということになります。

 社会学専門の学科ならともかく、学際性を売りにしている学科では、とてもじゃないけど現実のカリキュラムで対応するにはムリがあります。

 だから実際には、入門(2〜4単位)で基礎概念と身近な応用事例を学ばせ、さらに8単位ほど専門の講義を必修にして、あとはゼミ(2年間で8単位)でなんとかする、というのが一般的なところです。合計で20単位足らず。

 理想と現実の間には、これほど大きなギャップがあります。

 社会学のような分野では、「標準化」というのはパンドラの箱のようなものですね。きちんとやろうとすれば、現状の不具合が明るみに出てしまう。学部の段階で標準化されたカリキュラムに対応できる大学は日本に果たしてどれくらいあるものか。学習内容が明確な社会調査士のときですら時間がかかったのに、今度はとんでもない議論になるだろうなぁ。

多様性と標準性の調和

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 ちょうど昨日のことですが、昨日書いたエントリーに関連した学内向けの講演会がありまして、事前資料として中央教育審議会大学分科会が2007年9月に出した『学士課程教育の再構築に向けて』が配布されていました(講演会が終わってから読んだんですがw)。

 その第2章が標準カリキュラム作成に関連する部分で、そのタイトルは「改革の基本方向〜競争と協同、多様性と標準性の調和を〜」というものです。一文だけ引用します。

個性化・特色化に伴う「教育の多様性」と、国際通用性等の観点から要請される「教育の標準性」の両者を調和させていくことが必要となる。
 調和させるって、いうのは簡単ですけどねぇ。日本の高等教育全体を見据えたマクロな議論としては「調和」もありうるでしょう。しかし、昨日も書いたように、実際の教育場面で、つまり学科単位で、現行のカリキュラムと複数のディシプリンの標準カリキュラムを調和させるのは、そう簡単なことではありません。

 日本心理学会がやっている認定心理士一つを例にとっても、学際的な位置づけの科目は認定しない方針を採っています。たとえ、教育内容が標準カリキュラムに規定されているものに完璧に符合していても、データが心理学的でなかったり、教員が関連学会の会員でなければ認めないというのです。

 もし、各専門領域がこういう縦割り根性丸出しの態度で標準カリキュラムを提示すればどうなるか? というより、たぶんそうなるでしょう。

 複数の標準カリキュラムに適合させるために、まったく同じ教育内容であっても、それぞれのディシプリンの学位を持っている教員でクラスを分けたり、データを使い分けたりしなければなりません。そして、学生達は、先生が違うだけでまったく同じ内容の科目の単位を2回取得しなければなりません。

 これは、法的にも倫理的にも許されないことです。

 誰かが(たとえば文部科学省が)、それぞれの学問領域の標準カリキュラムの内容や運用方針に統一的な管理をしくなら話は別です。しかし、それは国家による教育の統制につながりますので、別の大問題が発生します。というわけで、実際の教育場面で、多様性と標準性を調和させるというのは、おそらく不可能に近い。

 予想されるうちでもっとも蓋然性が高いと思われるのは、それぞれの大学が学際性、多様性をあきらめて、ふたたび旧来のディシプリンに戻ってくるということです。学生募集の観点からも、学際的な学科は全般的に不調だということもありまして、ふたたび人気のある学問領域を前面に押し出すところが増えてきています。

 リベラル・アーツ系の大学は苦慮するでしょうが、経営的に余力のある一部の大学を除いて、おそらく幅広く学ばせるという方針は捨てることになる。そして、メイジャー(主専攻)として特定の学問領域だけを学ばせて、余力のある学生にだけマイナー(副専攻)の取得を許可する、という方向に転換するでしょう。

 560もの数に膨らんだ学位名称(うち6割は世界でその学部にしかない)も、枯れた名称のものだけに淘汰されていく。「学士(人間関係学)」なんてのはなくなって、「主専攻 心理学士、副専攻 社会学士」とかに変わっていく。

 なんだかなぁ。

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