昨日はああ書きましたが、20代前半までの若者にとって「死」は観念的なものにすぎず、いまいちリアリティに欠けるという面は否めません。
少なくとも、ぼくはそうでした。
原付で粗暴な運転をしていた10代。たとえ前の車のバンパーに30cmと迫っても、アクセルを戻すのは嫌でした。パワーのない原付では、アクセルを緩めてしまうとスピードを取り戻すのに時間がかかるからです。
「前の車が急ブレーキを踏んだらどうしよう」などということは考えない。いや、正確にいうと、そういう危険性を観念的に考えはするのですが、そのことによる危険性を具体的には想像できなかったのです。むしろ、自分の反射神経ならいくらでも避けられるぐらいの感覚でいました。人間には避けられない危険があるということを知るには、まだまだ経験が不足していたわけです。――原付では3回も巻き込み事故にあいました。
クロムウェルのヘルメットとゴーグルを個人輸入した20歳。かっこわるいヘルメットをかぶるぐらいなら、死んだほうがマシだと考えていました。「死ぬ」というのが具体的にどういうことなのか、よくわかっていなかったにもかかわらず。
当時はレーサーレプリカ全盛時代でしたので、半キャップのヘルメットもゴーグルも、バイク屋には売っていませんでした。今でこそありふれたものですが、ぼくはイギリスからわざわざ取り寄せたのです。でも、コルクを緩衝材としたヘルメットがいかに時代遅れで、いかに安全性能に劣っているかなんて考えもしませんでした。半キャップだと衝突時に顔面を守ることができないなんて考えませんでした。折れたあごの骨が脳に突き刺さったりするなんて知らなかった。ぼくが考えていたのは、「ブリティッシュ系のバイクには当然このヘルメット」ぐらいのもので、とにかく見かけが優先だったのです。――トラックの陰から飛び出してきたシルビアとの衝突事故で、内臓破裂の被害を受けるまでは。
女の子を隣に乗せたくて、バイクを売って四輪を買った21歳。対向車のことなんか考えずに峠を飛ばしまくりました。こちらがセンターラインを割らなければ衝突するはずがない、ぶつかっても相手が悪いんだと思っていました。
当時、事故について無知だったわけではありません。それどころか、『別冊ジュリスト』や『判例ジャーナル』に目を通し、事故発生時の過失割合については保険屋さん並の知識を持っていました。でも、それもやはり「事故」や「過失」を観念的にとらえるだけで、事故の状況をリアルに理解するにはいたらなかった。たとえ過失が少なくても、死んだら終わりだというのに、それがわかっていなかったのです。――生きててよかった。いや、ほんと。
パラグライダーで飛びまくった23歳。ベテランが飛ぶのを見合わせる荒れたコンディションでも、おれならグライダーをコントロールできる、そして誰よりも高く飛べるんだと思い上がっていました。まぁ当時の競技水準の中ではそこそこ上手なほうでしたので、まったくのカンチガイというわけでもありませんでした。ワールドカップの予選にも出たりしたし。
でも、その一方で、ぼくが他の誰よりもたくさんコースアウトをし、他の誰よりもケガをしているという事実を、うまく認識できませんでした。自然を相手にするスポーツで、自分の力量を公平に見定めることのできない者は、生き延びることが難しいのです。その単純な事実を、若さゆえの過剰な自意識に阻まれて、うまく理解できなかった。いや、頭では理解はしていたつもりです。でも、腑に落ちるということはなかったのですね。――斜面に激突して背骨を折るまでは。
うーん、自分で書いていて恥ずかしい。認めたくないものですね、若さゆえの過ちというものは。シャア専用ぐらいのつもりでいたからなぁ。
でも、道路を見渡すと、他にも同じような愚か者がたくさんいます。
半キャップのヘルメットのあご紐を締めない、紐は締めても首からぶら下げている、そんなバイクをたくさん見ます。自動二輪(原付を含む)の死亡事故原因第一位は頭部損傷ですが、その30%はヘルメット脱落によるものです。やはり、「かっこわるいヘルメットをかぶるぐらいなら死んだほうがマシ」ということなんでしょう。
あんまり無茶な運転をするライダーにはときどき声をかけることもあるのですが、なにせ自分が若いころには同じようなことをしていただけに、怒るに怒れないんですよね。
警察も、物陰に隠れて違反行為を事後的に取り締まるより、死亡事故が起こる前に若者のヘルメットをきちんと指導してあげるべきだと思うのですが。