2007年4月アーカイブ

2種類のキャンプ場

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 おととしは1年間大学から休みをもらってニューヨークで勉強してました。とはいえ、せっかくアメリカまで行くのにニューヨークだけではもったいない。で、バイクを持ち込んで、夏に休暇と調査をかねて北米大陸を一周しました。

 3ヶ月のロングツーリングでしたので、いろんな発見がありました。別の場所で書いたツーレポですが、加筆・修正を加えて、こちらにも転載していきます。

 今回は「2種類のキャンプ場」

Denali National Parkのキャンプ場。ひとつの区画が30m×10m以上で、テントとテントはいちばん近いところでも20mほど離れている。 北米には2種類のキャンプ場があります。いや、いろんな「2種類」があるでしょうが、ここで紹介したいのは「宿泊客どうしが仲良くなるキャンプ場」と「ほとんど口もきかないキャンプ場」の違いです。その二つを分ける原理はとても単純で、テントとテントの距離が近ければ前者になり、距離が遠ければ後者になります。ただ、樹木などの障害物があれば後者になりやすいかも。

 心理学にはパーソナルスペースという概念がありますが、逆にソーシャルスペースとでもいうべき距離感がおそらくあるのでしょう。ぼくが知らないだけで、すでにそういう概念はあるのかな? ともかく、"その範囲内だったら対人関係を築かないと気まずい距離"というのがどうやらあるようなのです。

 その範囲のなかの人とは、話しかけるストレスより、話しかけないで見知らぬ関係のままでいるストレスのほうが強いため、積極的に挨拶をしたり話しかけたり夕食に誘ったりして、顔見知りの安心できる関係になろうとする。
これはかなり極端な例だけどBillie's Backpackers Hostelのキャンプグラウンド
 逆に、その範囲を超えるような位置にいる人は、話しかけるストレスのほうが話しかけないストレスよりも強いため(あるいは両者が拮抗すると判断に困るというストレスもあったりして)、バスルームとかで近づかないかぎり、基本的には挨拶以上の関係にはなりにくいです。というより、いつソーシャルスペースに侵入してくるかわからないのはけっこう強いストレスの元なので、見えないもの、存在しないものにして無視してしまうという戦略に出たりします。つまり挨拶すらしないことも珍しくありません。

 どっちのキャンプ場がいいかはそのときの気分しだいですが、ツーリング中のぼくは「仲良くなるキャンプ場」のほうが好きでしたね。人恋しいからという理由ももちろんありますが、食事代や酒代が浮くというメリットもあります。どこかで大量にスープでも作ってたり、どこかで酒瓶を並べてたりしますので、「ハーイ!」っていいながら近づいていけば、もう食事や飲み物の心配はいりません。そうやって図々しくたかって食費を節約していました。名づけて「モーターサイクル・ダイヤリーズ戦略」。チェ・ゲバラもやったんだと思えば多少は羞恥心と罪悪感がマシかなと。

 いい天気です。「絶好の行楽日和」というやつですね。なのに、どうしてボクは組合の調査の集計なんかやってるんだろう...。

 大学に来るまでにも、多くの旅仕様バイクをみました。こちらはパニアケースをつけた大きなバイクで出勤しているので、対向車線のバイクからピースサインを送ってくることがあります。

 「あんたもツーリング中? 気をつけていい旅を!」
 「そっちもな!」

 そんな意味をこめてサインを交し合うわけです。

 サインの出し方は、人によって、国によって、違いがあります。日本では、対向車線のバイクに見えやすいように、左手をヘルメットの上辺りにもっていって、指2本を出したピースサインをつくることが多いです。右側通行のアメリカでは、左腕を真横か斜め下にまっすぐ伸ばすのが一般的です。指はパーにして手のひらを前を向けたり地面に向けたりする人もいれば、指2本を出したピースサインにする人もいます。同じピースサインでも、まっすぐ伸ばす人もいれば、指先を地面に向ける人もいます。また、フランスでは左手ではなく、足を出したりします。

 そんな違いはあっても、ツーリング中のバイクどうし、お互いにエールを交し合うわけです。

 バイクは基本的にパーソナルな乗り物です。たとえ二人乗りしていても、無線のヘッドセットを仕込んでいないかぎりは走っているあいだ会話もありません。ましてや、違うバイクどうしだとコミュニケーションをとりようがない。だから、「バイクの社会」なるものは存在しない――そう思われてきました。だから、「暴走族の社会学」とか「バイク便ライダーの社会学」はあっても、「バイクの社会学」という学問は存在しません。

 ところが、実際には、上記のピースサインのようにコミュニケーションは行われています。バイク乗りの「聖地」のような知識を共有したりもします。信号での並び方、バイクの止め方にもちょっとしたルールが出来上がったりします。そうやって、さまざまな「シンボル」を交換したり共有したりしながら、「バイクの社会的世界」はできあがっているわけです。

 ところで、アメリカ式のピースサインは左腕をまっすぐ伸ばすと書きましたが、けっこう難しいんですよね。制限速度を守ってマッタリ走っているときはいいのですが、免許取り消しになりそうなスピードを出しているときにそんなことをすると、どれだけ足でしっかり車体をホールドしていても、左腕だけにすさまじい風圧がかかってバランスを崩しそうになるのです。だから、風圧の軽くなる腕の出し位置をあらかじめ確かめておいて、そこをねらって腕を出すのです。

 ばかばかしいけど、アメリカでハイスピードのツーリングをするときは、必須の知識です。

レポートの内容

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 弁護士を通じて、高校生の小論文が公開されました。下に全文を引用してあります。2箇所の赤字部分が「問題」とされた箇所です。

 この小論文の宿題は、「心に浮かんだことをなんでも書きなさい。けっして、自分で書く内容を審査judgeしたり検閲censorしたりしないように」というものだったらしく、「検閲については心配する必要ありません」ともいわれたそうです。

 問題となった最初の箇所は、過激なバンドGreen Dayの歌詞からの引用ということです。引用符も付いていますね。ここはおそらく争点にならないでしょう。教育委員会のほうでは、「たんなる暴力やきたない言葉遣いではなかった。それらを超えていた」とまでコメントしていたわけですから、歌詞からの引用だとわかって頭を抱えているかもしれません。

 ただ、検察側が問題視しているのは最後の箇所です。「あんたの文章能力に異論はないけど、でも先生としてはどうかね。初のcg銃撃を触発したって驚くなよ。」 "cg"とは"Cary-Grove高校"のこと。なるほど、コロンバイン高校やバージニア工科大学のような事件を想像させないでもない。いきなり逮捕したのはいきすぎだとしても、軽犯罪法違反の要件は満たすかもしれません。

 それにしても、この高校がどんな学校なのか、気になります。

 小論文の中でおちょくられている英語の先生は、たぶん、ちょっとしたことにハデに驚いて問題視したりする厳格な先生。最優秀のクラスを教えるにはいささか退屈な人。でも母性的な面もあって、生徒たちにお菓子をふるまったりする。しかし、生徒たちはお菓子をあまり喜んでいない。――高校生のコメントを信じるなら、そんなイメージですね。

 レスリング部の選手で、ミリタリーオタクの高校生が、「これぐらいでびっくりすんなよ」といたずらめかして過激な宿題を書いてきた。それを本気に取ってしまうぐらい、普段から生徒との間には距離があったということでしょう。

 そして、その先生のいうことをさらに主任、校長、教育委員会が真に受けて、警察に通報した、と。

 ちなみに、海兵隊はこの事件で高校生の志願を却下しました。訴えが取り下げられれば再申請してもよいとのことですが、高校生はたいへん落胆しているとのこと。


Blood sex and Booze. Drugs Drugs Drugs are fun. Stab, Stab, Stab, S...t...a...b..., poke. "So I had this dream last night where I went into a building, pulled out two P90s and started shooting everyone..., then had sex with the dead bodies. Well, not really, but it would be funny if I did." Umm, yeah, what to wright about...... I'm leaving to join the Marines and I really don't give a (obscenity) about my academics, so why does the only class that's complete Bull Shit, happen to be the only required class...enough said. The model citizen would stay around to vote in new board member to change the 4 years of English policy, but no one really stays around to vote for that kind of local crap, so whoever gets there name on the Ballet with a pretty face gets to do what the (obscenity) ever they want with local ordinance. A person is smart, but people are dumb selfish animals. We can't make rules for ourselves so we vote others to do it for us, but we can't even do that right, I meen seriously, Bush for President? And our other option was John Kerry who claimed to parktake in Vietnam Special Forces missions that haven't been declassified....(obscenity) Bull Shit. So Power Flower Super Mario. Pudge, hook, rot, dismember "Fresh Meat." Mostly new/young teachers are laid back, and cooperative with students as feedback and input into the curriculum and atmosphere. My current English teacher is a control freak intent on setting a gap between herself and her students like a 63 year old white male fortune 500 company CEO, and a illegal immigrant. If CG was a private catholic school, I could understand, but wtf is her problem. And baking brownies and rice crispies does not make up for it, way to try and justify yourself as a good teacher while underhandedly looking for complements on your cooking. No quarrel on you qualifications as a writer, but as a teacher, don't be surprised on inspiring the first cg shooting.
 以下は高校生が弁護士を通じてメディアに配布した補足説明。

Authors Note: This production of writing is done in the most accurate manner I can depict of the original writing. Grammar and spelling mistakes are included at the best accuracy possible. The first phrase in questions is in fact a Green Day song. The second reference to drugs is in relation to the schools history of drug problems. I am personally clean of all controlled substances. The statement in quotes is done so as a non personal statement as I would have done in reference to a character for a story. The reference to the gun P90 is from a video game, combined with a reference to necrophilia as a comment regarding a seriously messed up situation. A situation such as the rape of villagers during a raid by U.S. troops in Vietnam. I really do not care too much about by continuing academia as in relation to grades. I do however believe on continuing my personal education, and I am actually still working for my classes. My views on the graduation requirements explain themselves. The reference to Mario and Pudge( a DOTA character) are completely random as is this essay. The reference to a person being smart and people being dumb is based on a quote from "Men in Black." I generally do believe the public opinion is best. The rest of the essay is rather self explanatory, the main statement in question I have already released a comment online about. I request that all information I have released is read together, and nothing given separately or as an excerpt as the administration has seen fit to do.

On an additional note, I have completed the MEPS (Military Entry Processing Station) examinations, and yes a psychiatric evaluation is included in the process. If I'm qualified to defend the country, I believe I'm qualified to attend school.

レポートで高3生徒逮捕

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 昨日のシカゴ・トリビューン紙より抄訳

作文の授業で感情を表現するようにいわれ、中国系の高校生が小論文を書いた。それが教師、学校、警察を混乱させたということで逮捕された。

成績優秀な18歳の高校生が書いた小論文が軽犯罪法に反したということで、火曜日に自宅付近にて逮捕された。警察によれば、暴力的で不穏ながら、特定の個人や場所を名指ししたものではなかったという。

レポートは公開されていない。学校側によれば高校生はたいへん優秀な生徒であり、当局も、高校生が警察とトラブルになったことは一度もなかったと述べている。

当時、シカゴ地域中の学校がバージニア工科大学の虐殺にどのように対処すべきか取り組んでいた。SchaumburgやCountry Club Hillsの高校では爆弾予告による避難があった。Palos Hills高校では1kmほど離れたレストランのトイレで脅迫状が見つかり、警察官が増派されていた。

警察本部長の談話。「たとえ小論文が出版も公示も衆目にさらされてもいないとはいえ、逮捕は適切なものであった。治安びん乱行為は30日以下の拘束と1500ドル以下の罰金にあたる軽犯罪であり、火災報知機を押したり119番に電話するといった悪ふざけもしばしば送検されている。文書が人を混乱させたときにも適用されうる。教師は小論文の内容に不安を感じ、混乱をきたしたのだ。」

高校生の父親は、「暴力への懸念はわかるが、作文の練習で逮捕されるなんて」と話している。「バージニア工科大学での事件は知っているが、宿題に書いた作文で逮捕されるなんてまったく理解できない。教師は子どもたちに自分自身を表現しろと指示し、息子はそれに従っただけなのに。」

数名の法律の専門家は、個人や学校に対する直接的な脅迫がなかったと警察も認めているのに逮捕したことは問題だと述べている。

ある市民運動家は、教師がやるべきことは罪を作り出すことではない、と話している。「問題の一つは、ある種の騒乱が作られた、ということだ。何かが個人的になされただけなら、つまり、論文が先生に手渡されただけなら、騒乱なんて成立しない。」

かれは、バージニア工科大学の事件のあと、潜在的に脅迫じみた作文が学校で過剰に注目されることは避けられないとも述べた。「人々がこうしたことに関心を持つのは、間違いなく、先週、工科大学の犯人の作文があれだけ報道されたからだ。」

地区の教育長によると、作文が自分や他人に対して脅迫するような内容の場合、学校が対策をとることがあると生徒は警告されているという。

彼女によれば、英語教師は小論文を読んで上司と校長に報告し、活発な議論の後、教育委員会が警察に連絡することを決めたという。「教育委員会の職員は青年期の行動に慣れている。われわれは作文に投影される創作性が多様だということをよく知っている。しかし、たとえ名前、場所、日時を書いていなくても、懸念を呼び起こす作文というものは確かに存在するのです。」

高校生の弁護士は、高校の反応は許容ゼロ政策がゆがんで運用された好例だ。子どもは大人ほど洗練されていない。しばしば、たんなる感情のはけ口として、教師が期待しない作文や絵を描くものだ、と述べている。「高校側は、自分自身で恐怖感にとらわれてしまわずに、きちんと感情や意見を高校生に伝えることだってできたはずです。」

水曜日、逮捕された高校生の復権を嘆願するために何名かの生徒が集まった。かれらは、英語教師が生徒たちに作文で感情を表現するよう伝えた内容を引用したポスターを壁に貼った。

ある高校3年生の話。「嘆願書にサインしたよ。でも当局の行動も理解できる。ぼくも教師だったら同じように反応したと思う。」

高校生の父は、30年前に中国から米国に移民し、地区に16年間住み続けている。彼によると、高校生は火曜日に75ドルの保釈金を支払い、いまは精神科にかかっている。停学にも退学にもならなかったが、転校するよう圧力を受けているという。

「教師は採点し、不安になり、学科主任に伝えた。主任は校長に報告した。わたしが最初に連絡を受けたのは、警察からだった。」

読んでいないため確かなことはわからないが、小論文は息子のジョークだったのかもしれない。「それが唯一の論理的な説明だ。」

「バージニア工科大学の事件以来、誰もが神経質になっている。これが去年のことだったら、誰もまったく危険だと思わなかったろう。タイミングがわるかった。」

フリーライダー対策

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 各種の研究によれば、ペナルティ以外にフリーライダーを抑制する効果があるのは、(a)集団のサイズの小ささ、(b)共属意識の強さ、(c)モチベーションの強さ、(d)他者を配慮する人の多さ、(e)個々人が組織に対してなす貢献の有効性を実感できること、等です。

 ウチの大学のような小さな組織の場合、(A)各部署の構成員数が少ない、(B)みんな顔見知りで、誰がフリーライダーなのかも可視化されている、(C)かならずしも総じてモチベーションが高いとはいえないまでも、一部に熱意のある人がいて影響力を行使できる、(D)京都の文化でしょうか、がんばっている誰かが頭を下げると面と向かってイヤとはいわない、(E)部署単位であれば個々人の努力は成果と直結する、という具合にいいこと尽くめなのですね。

 で、この二日間、学内をドサ回りしまして、組合加入率の低かった学科からは前向きの返事をもらい、頓挫しつつあった他の活動についても協力を得られそうな感触を得ました。

 「どうしてフリーライダーに頭を下げなければいけないんだろう」という根本的な疑問は意識の外においやることにしました。

 それより、顔を見せて頭を下げるだけで協力してくれるというのは、ずいぶんストレスを抑制できる環境だなとあらためて感心しているところです。むしろ、それだけで協力してくれるんだとすると、もしかしてフリーライダー問題というより過去の組合執行部の努力不足...?

フリーライダー

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フリー-ライダー [free rider]

〔ただ乗りの意〕他人が費用負担したものを、対価を払わずに利用するだけの人。料金徴収が困難でただ乗りを排除できないもの(たとえば、一般道路や国防など)が公共財となる。
三省堂提供「大辞林 第二版」より

 なんとなく仮面ライダーみたいでかっこいいですが、意味は「ただ乗りする卑怯者」です。公共財というのは、ひとたび提供されると誰でも利用できる財やサービスの総称です。道路や国防だけではありません。もっと身近な、たとえばグループワークなどの共同作業は公共財とみなすことができます。また、忘年会や運動会のような催しも公共財の一種と考えることができます。そして、労働組合や企業のような組織も公共財です。だから;
  • 班別のグループワーク課題をやっているとき、作業をサボってまったく貢献しなかったくせに、班に与えられる得点だけはもらう人。
  • 社員みんなでがんばって業績を上げてボーナスを増額してもらおうとしているとき、仕事はサボるくせにボーナス増額の恩恵だけは受ける人。
これみんな、フリーライダーです。公共財を利用するだけでコストは払わないわけですから。また、メリットだけ享受して、デメリットを共有しないというのもフリーライダーです。
  • みんなで旅行に行こうというとき、計画の立案にはいっさい参加しなかったのに、なにか不都合があると計画を考えてくれた人に責任を押し付ける人。
  • 忘年会をやろうというとき幹事は引き受けないくせに文句だけいう人。
 今年、ぼくは教職員組合の委員長をやっていますので、フリーライダー問題には頭を悩ませています。組合活動にはいろいろとコストがかかります。会議をやったり、資料をまとめたり、交渉をしたり、とにかく時間を取られるのですね。だから、加入したがらない教職員もいるわけです。

 組合には公共的な性格があって、「組合員だけボーナスを上げてくれ」なんて交渉はできません。組合活動の成果は、組合に加入したがらない教職員も等しく享受できます。そうすると、非組合員は典型的なフリーライダーということになります。当然のごとく、組合員からいろいろと不満の声が上がってきます。コストを平等に負担しろ、と。

 一般の企業のように、組織率が全体的に低いというなら、まだ組合員も諦めがつきます。ところが、教員の組織率はどの学科でも100%近いのに、ある学科だけ0%...などという偏りがあると、フリーライダーが可視化されて不満のはけ口がハッキリしてしまうわけです。

授業中の私語

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 僕が担当する科目のシラバスには、こういう一文を載せてあります。

 この授業では、周りに迷惑さえかけなければ、授業時間中に寝ようが化粧をしようがメールを打とうがかまいません。高額な授業料でせっかく購入した教育機会ですが、どのようにムダにしようともあなたの自由です。(もちろん、ボクとしては"ムダにしたいと思わないほど魅力的な授業"を心がけていますが。)

 しかし、私語はやめてください。授業中の私語は、君たちが考えている以上に周囲の学生にとって迷惑なものです。映画館で後ろの席の客がずっと話をしていたり、禁煙のレストランで隣の席の客がタバコを吸ったりするとイヤでしょう。それと同じこと。他の学生の教育機会をジャマする権利は誰にもありません。私語をやめられない学生には、授業の途中でも退室してもらうことがあります。
 ウチの大学は、もともと私語が少ないほうだと思います。100名を超える大講義は少ないし、学生はまじめだし。また、ぼくはどちらかというと講義が下手なほうではないので、さらに私語は少なめです。おまけに、シラバスにここまで書いて、授業中に何度も繰り返し説明しています。

 それでも、ごく少数ながら、私語をやめられない学生はいるものです。完全に横を向いてしゃべり続けるぐらい興味がないなら授業に来なければいいとぼくは思うのですが、10%の出席点が惜しいのか、たとえ聞いていなくても出席していると安心できるのか、ともかく、わざわざ出席して私語をする。そして、何度注意をしてもしゃべることをやめない。

 いっさいの私語を禁じるというのはやりすぎですが、度を越した私語は授業を崩壊させる原因ですし、教室を静粛に保つのは教員の義務ですので、注意に従わない学生にはいろいろな対策を講じることになります。席を移動させる、退室を命じる、最悪の場合は履修を止めさせる。こういう学生はどんな形式の授業でも同じようにしゃべる傾向がありますので、何らかの対策を講じることはたんなるペナルティとしてだけでなく、教育の面でも重要です。

 とはいえ、退席を命じただけでは教育効果もへったくれもありませんので、後日、個別に面談を実施することになります。教員側も、強権を発動して後味が悪いので、そうやってフォローしておくと精神衛生上も好ましかったりします。ところが、そういう学生は呼び出しに応じてくれなかったりするので、どうやって面談を受けてもらうかということがまたチャレンジングなテーマなのですね。

 ところで、授業中の私語について、野村一夫さんがソキウスでこう書いています。

 新堀通也が指摘する学生側の問題点を任意に列挙してみると、(1)公私のけじめの消滅、(2)私的行動・レジャー行動としてのテレビ視聴の構図を授業に持ち込むこと、(3)大学入学以前の段階で子ども中心(本位)のあつかいを受け、許容されることになれていること、(4)学校の事なかれ主義の風潮のなかでマジメに対する冷笑的態度が多数派になっていること、(5)学生の大衆化(かつて大学への進学者は同年齢の一割だったが現在はほぼ四割)、(6)不本意就学・不本意在学・不本意出席、がある。他方、大学側の問題として、一八才人口減少にともなう学生消費者主義(大学は学生にサービスしなければならないという考え方)があるという。

 これらの背景にあるのは、消費による自己形成である。こうした傾向にいち早く気づき「モラトリアム人間」論を展開した精神科医小此木啓吾は、これに関して次のように説明している。「旅行であれ、デパートでの買い物であれ、映画鑑賞であれ、いずれも消費行動であり、気楽で気分本位な暫定的・一時的なかかわりである。"本当の自分"を賭ける必要のない遊びである。そして、人々は、その営みのなかで解放感を味わい、お客さま気分を楽しみ、このお客さま気分が自己評価を高め、人間的な満足感を誘う。」▼12成熟消費社会の申し子たる現代の大学生たちが「お客さま気分」を無自覚に教室に持ち込むとき、私語が発生するのは時間の問題である。
▼11 新堀通也『私語研究序説──現代教育への警鐘』(玉川大学出版部一九九二年)。
▼12 小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』(中公文庫一九八一年)五二ページ。
 つまり、提供される「商品」を受動的に消費するだけという態度では、大学での学習は成功しないと説いているわけです。そのこと自体に異論はないのですが、「私語」の問題にかぎれば、少し論点がずれているような気もしています。

 たとえば、「テレビ視聴の構図を授業に持ち込む」のが受動的な「お客さま気分」の代表格でしょう。でも、同じ娯楽的商品であるコンサートやライブ会場では、たとえ誘われて行っただけの興味のないライブであっても、友だち同士で話に夢中になって、最前列でしらけて座ったままということはないはずです。場の雰囲気に合わせてスタンディングし、他の客と一緒にウェーブしたりダイブしたり、参加型の商品を"適切"に消費する素地はある。つまり、たとえ演出された楽しみ方を受動的に受け入れているだけとはいえ、その範囲内で、場の空気を読んで能動的に参加することはできるわけです。

 そうすると、お客さん気分で大学に来ることが私語の原因というより、講義という知的商品をお客さんとして楽しむことすらできないとき、私語で自分の存在を確認したがるのではないかと思うのです。

 授業中に対処できる問題ではありませんが、ほぼ入試が意味を失ったユニバーサル・アクセス状態では、こういう学生に知的快楽を体験させてあげることが重要な課題になっているのだと思います。

採点ミスはありえない?

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 もう3年前になりますか、非常勤で教えていたK大学での話。

 およそ300名ほどの学生が集まった4月はじめの教養の授業で、ぼくはこういいました。

「日本の学生は、成績表を受け取ったら疑問にも思わずそのまま受け入れてしまう傾向があります。しかし、特に人数が多い授業ではミスもありえます。例えば、先生が成績をつけ間違えているかもしれない。かりに先生がちゃんと成績をつけていても、データを入力するときにミスが発生するかもしれない。だから、もし「こんな成績は絶対におかしい!」と思ったら、かならず教務に確認に行くように。」
 まぁね、ヨソの大学でわざわざいうべきことではないと思いますよ。ただ、あまりにも唯々諾々と評価を受け入れる学生が多いものだから、成績表を配布する時期にこう発言するのはクセになっていたのですね。

 すると、昼休みに事務のお兄ちゃんが激怒して怒鳴り込んできました。いわく;

  • 入力ミスがあったのではないかと不安になった学生が10名ほど、「入学から今までの成績すべてミスがないかチェックしてくれ」とクレームをつけてきた。どうしてくれるんだ。
  • われわれ事務方は責任を持ってデータを入力している。データの入力ミスなどありえない。あってはならない。また、先生についても、成績をつけ間違うなど、ぜったいに許しがたいことです。
 どうやら、ぼくの発言は、その学部での慣習を踏みにじる内容だったらしい。すぐに陳謝して怒りをおさめてもらいましたが、心の中では納得していませんでした。ぼくは間違ったことを何一ついってないぞ。成績を全部チェックしろといってくる学生も学生だが、ミスがありえないなどとナンセンスなことをいう事務も事務だな、と。

 ちなみに、アメリカでは成績のつけ間違えなんて日常茶飯事です。可能なかぎりミスがないようにするのは大学の義務。でも、アメリカの事務職員はミスが多いし、当人たちも「人はミスを犯すものだ。いっさいのミスを犯さないためには何度も繰り返しチェックしなければならず、それをやるほどの給料はもらっていない」と思っています。だから、ミスがないかどうか確認するのは学生の義務なのです。

 そして、たとえミスがなくとも、学生たちは成績に納得できなければ、「どうしてこんなに低いグレードなんだ」と訴えてきます。教員側は、クレームがつくことを前提に、厳密に成績を評価し、評価の材料をきちんと保管しておきます。

 アメリカが優れているとはいいません。というより、アメリカのようにミスが多いのは困ります。それでも、「ミスはありえない」などと非現実的な前提に固執するのは気色わるいとぼくは感じるわけです。

 たとえるなら、「絶対に事故は起きません。だから心配いりません」という原子力発電所と、「人はミスを犯すものです。だから、ミスを犯すリスクのある箇所を徹底的に洗い出し、そのすべてについて不断の対策を行っています」という原子力発電所と、どちらを信じるか。ぼくなら、後者のほうが安心できます。

 そして、「ミスはありえない」「絶対に事故は起きない」という文句を妄信してしまう学生というのも、困ったものでしょう。少なくとも、ぼくはそう思うわけです。

*****************

 ただし、それから何ヶ月かたって、考えを一部修正するできごとがありました。別の大学のある先生からジョークめかしてこういわれたのです。

「いや、君のほうが間違っている。なぜなら、君は不用意な発言で、クレーマーを刺激してしまったのだから。」
 目からウロコとはこのことか!!

 それまで、学生をクレーマーとみなしたことは一度もなかったのですが、いわれてみれば、クレーマーといわざるをえないような学生は確かにごく少数ながらいるものです。ウチのように学生数が少なく、しかも事務職員の多い大学なら、そういう学生にも本質的な対応(理不尽なクレームを頻発する理由を確かめ、それを取り除く)をするだけの余裕があります。だから、わざわざクレーマーと定義する必要もなかっただけのこと。しかし、K大学のようなマンモス校では、クレーマー対策は重大な課題になっているのかもしれません。

 ごく少数のクレーマーを刺激しないようにするべきか、それとも、大多数の学生に疑問を持てと教育するべきか。ウチの大学では後者をとるべきだと思いますが、はたしてマンモス校でどうかと問われれば、答えに自信を持てなくなっています。

サービス残業

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 日本の企業はゲゼルシャフトではなく、擬似ゲマインシャフトだ――昨日、こんなことを書きました。少なくとも、そう信じている人は多いです。日本型経営を下支えしているのは家族主義的特徴だ、と。

 例えば終身雇用制。労働者は一度就職した企業に定年まで勤め、企業は解雇しない。社員は規定の労働時間と給与を超える貢献をする一方、企業は社員を家族のように人生まるごと抱え込む。なるほど、家族主義的じゃないか、というわけです。

 これにはいろいろと異論もあるのですが、まぁ、近世から引き継いだ慣習の名残があることは確かでしょう。大名に仕える家臣、商家に勤める従業員、職人に師事する徒弟など、終身雇用制のイメージの源泉はそのあたりにある。

 さて、バブル崩壊後、日本型経営は徐々に変質してきたともいわれていますが、そうそう急激には変わらないというのも日本の特徴のひとつでしょう。

 例えばサービス残業。厚生労働省がいくら通達を出しても、労働基準監督署がどれだけ是正勧告を打ち出しても、これがなかなかなくならない。職場の和を乱すくらいなら、時間を犠牲にしたほうがマシだと考えてしまい、無理に退社することはできない。誰も帰ろうとしない。そしてタダ働きを続ける。

 会社側から、有形無形の圧力もあったりするわけですが、なにせ明白な労働基準法違反ですので、内部告発をすれば確実に立ち入り検査が入って是正されます。したがって、これについては労働者側の意識の問題のほうが大きい。日本型労働慣行とでもいうべき、悪しき風習です。

 もう、会社が社員の人生を丸抱えで保証する時代は終わりました。そろそろ、労働者も考えを改めるころだと思うのですがね。

飲み会の機能

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 飲み会のシーズンです。昨日も学科の歓送迎会でした。そして今日、内心ヘロヘロの状態で3コマ授業をこなしました。体調サイアクです。

 さて、4月の飲み会。それは、新しく形成されたゲゼルシャフトを、擬似ゲマインシャフトへと強引に転換するための儀式です。

ゲマインシャフト地縁や血縁で深く結びついた伝統的社会形態で、近代化にともなって減少する。愛による全人格的な融合、愛着と信頼がその本質。例:村落、
血族集団
ゲゼルシャフトある目的達成のため人為的に形成される社会形態。利益的結合、合理精神にもとづく契約を本質とする。目的に見合うときだけ打算的な付き合いが生まれるが、それ以外の人間関係は希薄化する。例:企業、
学校
 テンニースによれば、企業や学校はゲゼルシャフトの一種です。でも、利害だけのお付き合いではお互いギスギスして居心地が悪いし、協同性が低いので生産性もあがりません。

 そこで、和を尊び、家族的な付き合いを重視する日本で発達したのが、お酒の力を借りて一気に仲良くなったことにしてしまおうという新歓行事だ...といわれています。

 まぁ、実際には、アメリカにだって同じように飲み会はあるんですけどね。

 金曜日、月曜日と、新歓コンパが続きます。でも体力は続かない。倒れそう。

評価の公平性

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 すべての文芸作品には「舞台装置」があります。

 SFの作品が例としてわかりやすいかな。たとえばタイムマシンものだと、現在よりも高度に科学技術が発達した時代があり、そこでは時間を越える旅行が可能になっている――そういう虚構の世界が設定されています。その虚構の設定、すなわち舞台装置を前提として、登場人物や出来事といった素材がストーリーを組み立てていくわけですね。

 舞台装置はあくまで虚構なので、人によってはそれを受け入れられないこともあります。「フィクション(作り話)はシラけてしまって感情移入できない」とか、「SFはきらい。ありえないもの」という人は、作品を評価する以前に舞台装置を受け入れられないわけです。

 だから、文芸作品として成功するためには、まず、その舞台装置を多くの人に受け入れてもらわなければなりません。そのためには、現実の生活となじみの深い舞台を借用するのが手っ取り早い。たとえ作り物の舞台でも、おなじみのものであれば「あぁ、そういうのってあるよね」とすんなり感情移入できるから。具体的には、学校、会社、サークル、仲間集団、といった場所を舞台にしてしまう。

 何の話をしているかというと、『ハリーポッター』のことです。ぼくにはあの作品の舞台装置が、すでに受け入れがたいものになっています。児童文学だから多少の矛盾には目をつぶりますが、"ぜったいにありえない"ことを前提にされてはさすがにシラけてしまいます。

 というのも、どこの国の学校にも、例外なく共通した原則がひとつだけあります。評価の公平性です。すべての生徒の努力と能力を公平に評価するという原則。それが、『ハリーポッター』の学校では満たされていません。

 ミクロな面から説明すると、"教師は生徒の努力と能力に見合った評価を公平に下す"という約束が守られないかぎり、まじめに努力しようという生徒はいなくなっちゃいます。努力するより先生に気に入られるほうが重要になるからね。そしてどうしても先生に気に入ってもらえない生徒はやる気をなくすだけです。そして授業が成り立たなくなってしまう。ある生徒が特別な才能を持っている場合は、指導にかたよりが出ることはあるけど、評価は公平でなければならないのです。

 マクロな面からいうと、"がんばって勉強していい学校に行けば、いい職業を得ることができるし、結果として豊かな生活を送ることができる"という物語をみんなが信じていれば、たとえ今は貧しくてもあしたを信じてがんばることができます。でも、"どれだけがんばっても貧乏人は貧乏のまま。貧乏人の子どもも貧乏のまま"となると、純粋に知識欲のある生徒をのぞいて、努力する生徒はいなくなってしまう。社会の生産性は低下する。不公平で不平等な世の中に不満が高まる。社会の秩序を維持することができなくなる。

 現実には、生徒の努力と能力とは無関係に、教師が"お気に入り"をひいきするということもよく聞く話です。しかし、そんな先生でも、特定の生徒に有利な評価をしたと認めることはまずありえません。建て前のうえでは、すべての生徒を公平に評価しているという約束を破ることはできないのです。でなければ、授業が、そして学校が崩壊してしまう。

 ところが、『ハリーポッター』では、校長があからさまに主人公をひいきしますね。しかも、校長が「(評価で)ひいきしちゃった」と主人公に告白したりします。在学生に向かって、公平性の約束を自ら破壊してしまう校長など、この世に存在しません。

 どうしてあんなナンセンスな舞台装置を設定したのか、ぜひ著者に聞いてみたいものです。

キビシイ授業

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 大学で教えるようになって15年目になりますが、いまだによくわからないことがあります。

 それは、学生たちがどういう授業を「キビシイ」と表現するのか、ということ。ちゃんと調べてみないとなぁと思いつつ、ずるずると今まできてしまいました。

 「キビシイ授業」や「キビシイ先生」の必要条件はなんとなくわかります。

(a1)私語厳禁、メール厳禁など受講のルールが多いこと。
(a2)しかもそれを厳格に守らせること。

(b1)宿題が多いこと。
(b2)しかもそれを厳格に守らせること。

(c1)試験が難しいこと
(c2)しかも救済策がなく、不合格者が多いこと。

 (a)〜(c)のうち少なくともひとつに当てはまれば、「キビシイ授業」といえるでしょう。つまり、「キビシイ=厳格」ですね。たぶん、どこの国でもどの時代でも、同じ要件が当てはまると思います。

 しかし、条件が(少なくとも)3つありますので、単純に適用することは難しい。例えば、宿題をたくさん出すと、逆に「ヤサシイ」と評価を受けることもあります。これは、(b)には矛盾しますが、(c)の逆ということでしょうね。救済策を用意してくれるので「ヤサシイ先生」というわけです。でも、(b)とどこが違うのかはよくわからない。

 もっと難しいのは、(a)〜(c)以外にも「キビシイ授業」がたくさんあるということなのです。

 例えば、とても柔和で優しい先生で、評価は甘め。宿題も一度しか出さない。それでも、宿題の期待水準が高すぎる(難しすぎる)と、学生は「キビシイ」と評価を下したりします。この場合、「キビシイ=難しい」ということでしょうか?

(d1)要求水準が高いこと。
(d2)しかもそれを引き下げてくれそうにないこと。
 また、受講のルールはほとんどなく、態度はやさしく、話は面白く、宿題は平均的にしか出さず、評価も甘いのに、「キビシイ」といわれる先生もいます。学生に話を聞いてみると、授業中のいろいろなコメントがキビシくてびっくりすることがある、とのこと。話を面白くしようとして毒舌が入ることがあるんでしょう。チェックがキビシイということか。ともかく、この場合、「キビシイ=スルドイ」ということのようです。
(e1)先生が毒のある発言をすること。
(e2)学生が自分に向かっていわれているような気になること。
 とりあえず、「キビシイ」というのは授業が厳格かどうかをあらわす表現なのではなく、学生が不安や脅威を感じるかどうかをあらわす言葉であるということはわかります。客体を評価する言葉のようでいて、じつは主観を述べているということ。

 それがわかったからといって、学生がどういう授業に不安や脅威を感じるのか、いまいちピンとこないんですよね。精進精進。

 ちなみに、ぼくはキビシイらしいです。えぇ、フトコロもね。

理系の授業料アップ?

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 内閣が鳴り物入りで設置した教育再生会議ですが、いろいろとナンセンスな提言を頻発するものだから、政府の批判材料になるのはまだしも、ジョークのネタにすらなったりしています。

 同会議では、今年1月29日に初等・中等教育を中心とした第一次報告を出しましたが、来月には高等教育を中心とした第二次報告を取りまとめる予定で審議を重ねています。そこで飛び込んできたのがこのネタ。

「政府の教育再生会議(野依良治座長)の国立大学財政に関する提言素案が13日、判明した。適切な競争原理と成果・実績主義の徹底を基本とし、予算配分に一段とメリハリをつけるのが柱だ。具体的には、現在は全国ほぼ一律の授業料・入学金について、理系を高くして文系を安くするなど、大学や学部別に差をつけることや、60歳以上の教員の給与を段階的に削減することなどを提案している。」(読売オンライン)
 理系は全般的に研究にも教育にも文系とは桁違いに費用がかかりますので、個々の大学の経営判断としては、「理系の授業料を上げる」という方針があっておかしくないとは思います。しかし、これは日本の国立大学全体に影響を与える提言です。委員の皆さんは日本の科学技術の将来についてどのような見識をお持ちなのか、いささか疑わしい気がします。

 理科離れ、理系離れを防ぐことは国民的課題です。1990年代以降はいろいろな対策が活発化し、ようやく成果があがりはじめたかなぁという段階なのですが、この提言素案は完全に逆向きのベクトルを持っています。理系離れ対策はもう必要ないということか? と不思議に思って少し調べてみました。

「素案は、第1分科会(学校再生)の白石真澄主査(関西大教授)と小野元之副主査(元文部科学次官)が作成し、13日の第3分科会で提示した。」(同上)
 第1分科会の素案というのはコレ(pdf)。この素案はバランスの取れた立派なものであって、このどこにも「教育研究水準の高い大学や、設備に費用がかかる医薬学・理工系学部などの授業料・入学金については、他の大学・学部より高くする」(同上)などとは書かれていません。逆に、諸外国に比べて教育への予算支出割合が低いので、「初等中等教育及び高等教予算の大幅な増額を目指すべきであろう。特に、日本の将来のため、高等教育予算の充実がぜひとも必要」とあります。

 どうやら、第1分科会の素案は、第3分科会で議論されたとき、まったく別のものに変質したということですね。まだ議事録がウェブにアップされていないので、はっきりとはわかりませんが。

 ところで、第3部会の事務局からの提案は、うちの学部で検討されている方針とかなり近いですね。

18歳からの参政権

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 ずいぶんモメましたが、国民投票法案は衆議院を通過しそうです。

 この法案によれば、投票権年齢は原則18歳以上。未成年には投票を認めないという原則と矛盾しますので、今後は18歳以上を成人とするように各種の法律が改められていくことになるでしょう。

 ボクが知るかぎり、未成年には世界中の国で選挙権も被選挙権も認められていません。未成年のほかに参政権が制限される人といえば、禁治産者(自分で財産を管理する能力がない者)、受刑者、選挙法に違反した者、あとは国によって違いますが外国人など。

 これは、(1)その社会のメンバーであるという資格があって、かつ、(2)意思決定に責任を負う能力があること、が参政権を持つための要件だと考えられているためです。受刑者や外国人は1の要件を満たさないという理由で、未成年や禁治産者は2の要件を満たさないという理由で、投票を認められていないわけです。

 でも、はたして、未成年には「意思決定に責任を負う能力」がないのでしょうか。また、成人すればみんなにそんな能力が身につくのでしょうか。そもそも子どもと成人では何が違うのでしょうか。

 少し法律から離れて、この問題を考えてみましょう。

 フランスの歴史学者フィリップ・アリエスは、『「子供」の誕生』(1960年)という本の中で、中世のヨーロッパには「子供」が存在しなかったという主張を唱えて、世間をあっと驚かせました。もちろん、物理的に存在しなかったという意味ではありません。「子どもは保護され、愛され、教育されるべきだ」という考え方がなかったということです。

 もう少し詳しく説明すると、中世のヨーロッパでは、7歳になれば「小さな大人」とみなされていたというのです。大人と同じ服装をし、大人と同じようにセックスの話題に参加し、大人と同じ遊びを楽しみ、大人と同じように労働の義務を負っていた。それが変わったのは、近代になって、社会をとりまく意識(メンタリティ)が変化してからのこと。子どもを"愛らしい"ものとみてかわいがるようになり、"純粋無垢"なものとみて道徳的、性的な問題から遠ざけようと配慮するようになった。この、近代になってからの「小さな大人」から「子供」へのまなざしの変化。それがアリエスのいう「子供」の誕生です。

 この著書については、階級文化への考察が甘いなどいろいろと批判も多いのですが、現代人が自明のものと信じている子ども観が、じつは歴史のなかで作られたものにすぎないのだという新鮮な論点は、さまざまな研究分野から高い評価を受けました。

 さて、「子どもは保護されるべき未熟で純粋無垢な存在だ」という考え方は、「子どもは社会の一人前のメンバーではない」という考え方に自動的につながります。そして、社会の一人前のメンバーとしての義務と責任を免除される代わりに、権利も制限されることになります。

 例えば、子どもが犯罪を犯しても、成人とは違って刑罰ではなく保護を受けますね。これは、子どもには(物事の善悪を判断する)責任能力がないと考えられるためです。罰を受ける義務と責任を免除される代わりに、子どもは保護者の監督に従わなければなりません。

 未成年の参政権が認められないのも、同じリクツです。子ども=未成年は、まだ保護を受け、教育を受けるべき存在なので、善悪や是非の判断に責任を持てない。したがって、投票という社会の意思を決定するプロセスにも参加する能力がない、というわけです。

 ここで重要なのは、子ども期=未成年は何歳までかという判断は、アリエスの言うように、時代や社会によっていくらでも違ってしまう、ということです。

 では、現代において、子ども期とは何歳までを指すでしょうか。

 『家栽の人』(毛利甚八作・魚戸おさむ画)では、刑法の適用年齢引き下げの議論に対して、主人公が「現代では成人年齢が上がっているのかもしれない(から引き下げはナンセンス)」という内容の発言をします。20歳で成人できない未熟な社会なので、むしろ刑法適用年齢は引き上げるべきだという話です。

 逆に、ニール・ポストマンは、『子どもはもういない』という本の中で、現代のように映像情報によるコミュニケーションが発達した時代には、子どもと大人のあいだに本質的な格差はないといいます。子ども期は消滅したのだ、と。

 どちらの議論も、現代では子ども期の上限年齢=成人年齢が揺らいでいる、という認識は共通しています。もともと、くっきりと線引きできる問題ではないのですが、それがいっそう、不確かなものになっている。というより、たとえ成人していても社会的に未熟な人格があふれている、と人々は実感しているのかもしれません。

 けっきょく刑法の適用年齢が14歳に引き下げられたことを考えてもわかるとおり、子どもにも一人前の人格を認めようというのが現代の価値観です。大人も未熟な現代、投票年齢を18歳に引き下げるというのは、時代に見合ったことなのかもしれません。

タミフル調査

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 先月末に、タミフル調査の寄付金が話題になりました。これは厚生労働省にいろいろと問題が大きいですね。

研究班の06年度調査は、(...中略...)インフルエンザ患者約1万人を対象に、年齢幅を0〜18歳まで広げ、異常言動とタミフル服用との前後関係などを確認する。(...中略...)しかし、厚労省から支給される研究費が400万円しかないため、(...中略...)製薬企業からの寄付で補うことなどを確認した。(...中略...)中外製薬が寄付した6000万円のうち、627万円を研究班の資金に流用。調査票の印刷・発送経費の不足分に充てた。(毎日新聞より)
 第一に、1万人の調査をやろうというのに400万円でやれるわけがない。この時点ですでに企画立案能力に問題がある。

 調査の内容や手法にもよりますが、ボクらが学術的な調査を企画する場合、1サンプルあたり2万円の予算を確保するところからスタートします。1万人どころか、千人の調査でも2千万円の予算規模です。

 サンプル数1万なら、調査の内容や手法を調整して思いっきり節約しても、最低限の必要経費だけで1千万円を下回ることはありえません。それを、400万円とは!

 第二に、製薬会社との癒着ぶりがひどすぎる。

 400万円で調査をやれるはずがないことは、説明すれば子どもでも分かる話です。上で「企画立案能力に問題がある」と書きましたが、厚労省の担当者に分からなかったはずがない。

 経緯は今のところ不透明ですが、もともと、製薬会社からの寄付金を流用することが織り込み済みだったのではないかと思われます。

 薬の副作用の調査に、もともと製薬会社からの寄付金を使うつもりだったとしたら、常識はずれもいいところ。分析者がどれだけまじめにやっても、結果がゆがんでいるのではないかとの疑いをどうしても呼んでしまう。

 医療も医療行政も、高度な「専門化支配」のために外部からの監視の目が行き届かない。本質的に薬害などが発生しやすい環境にあります。だからこそ、意識的にコンプライアンスを高める制度的な工夫が必要なはずなのに、そのような問題意識は一切なかったようです。

 第三に、研究者に手を汚させようという姿勢がいやらしい。

 報道によると、研究班が自前で寄付金から予算を確保できるよう奔走したらしい。つまり、厚労省は、問題のある資金流用について、自分の手を汚さず研究者たちを誘導したということでしょう。

 第四に、研究者に罪をかぶせて切り捨てる姿勢が汚い

 研究者には同業者や外部から監視を受ける仕組みがありますので、スポンサーにある程度配慮した記述にすることはあっても、データを捏造したり、ウソをついたりすることはできません。それは、研究者生命を確実に危険にさらすことになるハイリスクな行為であり、はした金でやれることではありません。

 今回メンバーからはずされた研究者たちは、私服を肥やして分析結果を捻じ曲げるような人物であったようには思われません。そもそも、寄付金の受け入れについても、きちんと手続きを整えた上で、本当に必要な経費を流用しているわけですから、それも問題だとはいえない。むしろ、乏しい予算をやりくりして、懸命に結果を出そうと努力したようにしか見えない。

 それを、マスコミからヒステリックな糾弾を受けたら、あたかも研究者側に問題があったかのごとくただメンバーからはずすというのは、当の研究者にとってはあまりにも不名誉なこと。いったい、誰が名誉を回復するというのでしょうか。

 第五に、意図していなかったように装う姿勢が汚い。

会見した厚労省医薬食品局の中澤一隆総務課長は「(中外製薬の寄付を流用した点について)問題があり、対応が十分でなかった。(流用を結果的に黙認したことは)十分な認識が足りなかった」と謝罪した。(同上)
 「バレたときに非難される」という認識が足りなかったということであって、「中立的で正確な調査を実現するために問題がある」という認識が足りなかったわけではないのでしょう。

高崎経済大の事件

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 市立高崎経済大学の2年生が自殺したことを受けて、大学は「理不尽で教育的配慮を欠いた留年通告をした」という理由でゼミの担当教官懲戒免職処分にしたそうな。いろいろな意味で前代未聞のできごとです。

 やはり気になるのは、(1)どういう先生だったのか、(2)どういう指導を行っていたのか、(3)どういう学生だったのか、(4)どういう大学なのか、の4点。

(1)どういう先生だったのか

 詳しい報道がないのでよくわかりません。ただ、大学側によれば、「准教授は、他の学生に対しても人格を否定するような暴言やセクハラ発言などがあった」(読売新聞)ということ。これがどこまで公正な事実かわかりませんが、少なくとも、解雇された先生は高圧的な指導に偏りがちで、それが他の先生たちから好ましく思われていなかったということは伝わってきます。

 ちなみに、その先生は「調査結果は納得できない。間違ったことはしていない」「『留年』と言っただけで辞めさせられては、教育にならない」と反論しているそうです。そうとう、自分の教育方針に確信をお持ちのようですね。でも、ゼミの指導なんて一人ひとりの学生の個性との体当たりなのですから、そう確信を持ってやれるほど簡単なものではないとボクは思いますが。

(2)どういう指導を行っていたのか

 解雇された先生は、夏休みの宿題を年末になっても出せなかった学生に、「1月15日までに課題を出さないと即留年」というメールを送っていたそうです。

 問題の課題は、「アダム・スミスの重商主義批判の論点を説明させるなど10の設問から五つを選んでリポートするのと、新聞社説10本の要約とそれについてのコメントをまとめるという内容」(同上)。これに対して、大学のコメントは「大学院生並みの厳しい課題。ある課題がこなせなかったというだけで即留年というのもおかしい」(同上)というもの。

 おそらく、「10の設問」はたしかに大学院生並みの厳しい課題なのでしょうが、できない場合の救済策として、「社説10本の要約とコメント」という課題があったわけですよね。だとすると、たとえ2年生とはいえ、通年のゼミの課題としてはいちがいに厳しすぎるとはいえないでしょう。

 ただし、通年のゼミの単位を夏休みの宿題だけで不合格にするというのは、たしかにおかしい。通常、ゼミでは出席、発表、授業中の発言、課題の4点が評価対象となります。合格は60点以上なら、夏休みの課題の配点だけで40%を超えていることになる。たいへんアンバランスな、というよりも恣意的な評価方法であるといえます。恣意的な評価は、学生に不安、不信、不満を与えるだけでなく、アカデミック・ハラスメントの温床ともなります。

(3)どういう学生だったのか

 最後に先生に送ったメールには、「出来損ないの面倒を見させてすみませんでした。お世話になりました。ゼミ楽しかったです」とか、「留年すると分かっています。人生もやめます」などと書かれてあったそうな。礼儀正しそうな、あるいは真面目そうな印象を受けます。少なくとも、不当に反抗的な態度をとる(みずから教育機会を放棄する)ような印象はない。

 学力的には、「社説10本の要約とコメント」という課題ができないわけですから、そんなに出来がよかったわけではないのかもしれません。

 ただね、かりに学力に問題があったとしても、2年生のゼミでしょう。完成した知識を期待することはナンセンスで、むしろ激励してやる気を引き出しながら、自力で学習していく基礎的な素養を身につけさせることが授業の目標であるはずです。そもそも、上述の学生像が誤りでなければ、いちがいに厳しいとはいえない課題を何ヶ月も出せずにいたのは、学力の問題というより、先生に対して萎縮してしまっていたせいだと考えるのが自然です。本人に「出来損ない」といわせてしまったのは、明らかに指導のミスであるとボクは思います。

(4)どういう大学なのか 

 高崎経済大学のウェブをみると、少人数制の丁寧な教育をウリにしている大学だという印象です。だからこそ、この事件に異例なほど厳しい処分を下したのでしょう。

「高崎経済大学のゼミナールは教員と学生、あるいは学生相互の議論や交流の場として、とてもアットホームな雰囲気を持っています。「少人数精鋭教育」を大学の理念として重視する高崎経済大学ならではの学生生活の充実感を十分に味わってください。」(高崎経済大学学長メッセージより引用)
 しかし、こういうゼミの運営をこれまで放置しておいて、重大な問題が発生してからようやく対処に動くというのは、「教育重視」という看板からするとちょっと違和感があります。

 ボクが想像するに、問題は二つあったのではないかと。

 第一に、大学の経営方針や教育理念を各先生に徹底させるような仕組みは整備されていなかったのではないか。言い換えると、教員の裁量を絶対不可侵とする旧い態勢が残っている大学なのではないか。

 第二に、「教育重視」を謳いながらも、「どういう教育を重視するのか」についてきちんと検討してはいなかったのではないか。この先生も、見方によっては「指導に熱心」というとらえ方ができないことはありません。たとえ権威主義的で統制主義的な教育スタイルであっても、たとえ学生を萎縮させてしまって本来の力量を引き出せないような教育スタイルであっても、やはり「教育重視」にかわりない...そういう考え方だったのだとすると、問題はこの先生だけではなく、大学にもあったといわざるをえないでしょう。民事で保護者から訴えられると大学は負けるんじゃないでしょうか。

プレスクール

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 今日は、うちの双子の子どもたちの入園式でした。

 幼児教育の専門家というのはたいしたものですね。初めての集団生活にかたくなっている子どもたちの緊張を瞬く間にほぐし、ひとたび騒ぎ出すや特有の話法と話題でグッと興味をひきつけてあっという間におとなしくさせる。

 就学前の子どもたちは、まだ学校制度のなかで調教されていませんので、じっと黙って人の話を聞くという苦痛に耐えることはできません。それをおとなしくさせられるというのは、純粋に教育技術の成果なのですね。

 式のあいだ、「やっぱり大学とは必要とされる教育技術がちがうなぁ」と感心しながら園長先生の話を聞いていたのですが、式が終わって考えれば考えるほど、本当に違うんだろうかとだんだん疑わしくなってきました。

  • 子どもが分かる言葉しか使わない。
  • 子どもが分かる速さでしか話さない。
  • 子どもが聞き取りやすい声で話す。
  • 子どもが興味を持てるテーマで教える。
  • 「おはなし」だけでなく、絵、音楽、ぬいぐるみなど多様な教材で飽きさせない。
 こうやってエッセンスを抜き出してみると、近年、大学の講義を魅力的なものにするために求められている要素と違いはありません。うーん、教育の本質は同じと考えるべきか、それとも...

移転してきました

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 これまでは学内限定のブログで学生向けにエントリーを配信してきましたが、今後はこちらのサーバーでオープンにやっていきます。

 学内限定のブログにはSNSに似た特長もあって、将来的にはいろいろな可能性も考えられるのですが、やはり現時点では一般に公開してはじめて意味があると思います。

 まぁ学校名のヒモ付きではありますが、角が立たない範囲で思いのたけを綴っていくつもりです。

このアーカイブについて

このページには、2007年4月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

次のアーカイブは2007年5月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。